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"これがルッキズムでなくてなんなのか?見た目がどうあれ森高千里でもオバさんはオバさんだろ。" んな事言いだしたら息をするように年齢差別するキミはなんやねん、ってなるけど。
ブコメで言及されましたがブコメに入らないので増田に書きます。
僕のブコメのどこら辺が"年齢差別"と言われているのか分からないのですが、僕は"55歳の女性"が"若い見た目を維持すること"や"ミニスカートを履くこと"についてブコメで何も言ってません。
若い見た目を称賛する行為自体も批判してません。褒め方がおかしいと言ってます。
となってますが、"いつオバさんになるんだよ"ということは少なくとも現在は"森高千里はオバさんではない"ということですよね。ブコメにも書きましたが”見た目が若い人はオバさんではない”と言ってるわけでこれをおかしいと言ってます。
"オバさん"は単に中年女性を指す言葉であって、本来は見た目の醜悪さを指す言葉ではないはずです。その意味で僕は"55歳の女性"="オバさん"であり、見た目で"オバさん"かどうか変わるのはルッキズムではないかと言ってます。
もちろん歌詞のニュアンス的にも"オバさん"="(若い時に比べて)見た目が悪い"という前提の話なので、単に見た目が若いという意味でオバさんではないと言ってるのはわかるのですが、
僕のブコメの"茶番"という表現について。見た目が若い人を褒める際に、「どうみても10代」とか「20代にしか見えない」とかいう言葉もしばしば見られますが、僕は誇張しすぎで無理がある表現だと思います。
同様に「見た目が若い55歳の女性はオバさんではない」というのも誇張しすぎで無理がある表現だと僕は思いました。そもそも元の曲(と歌詞)も好きではないですが。
これらはあくまでも僕の感性なので同意しない人も大勢いると思いますが、僕はこういう表現はくだらないし茶番だと思うのでブコメでそのように書きました。
この増田も本人に伝わるかわかりませんが一応ブコメのページブクマしときます。具体的にどこら辺が年齢差別なのかコメント貰えたらいいんだけど。
マリーアントワネットの首が歌うシーンが興味深かったから、意図をしりたくて、いろいろ読んだ。
具体的に言及はされていなかったから、はっきりとはわからなかったが、インタビューはどれも面白かった。
id:hazlittさんが教えてくれた、ラジオ番組からいろいろ読み始めた。
増田はフランス語は多少わかるが、わからないところは、DeepL先生に頼っているため、正確性は保証できない。
ホスト:昨日私たちは、コンシェルジュリーにおいて、革命の中、斬首されたマリーアントワネットがゴジラ(というパンクバンド)とマリナ・ヴィオッティと歌うというシーンを見ました。このシークエンスは、いったいどのような意図で書かれたのですか、ダミアン。
ダミアン・ガブリアック(監督):まず私は一人で書いたのではありません。すべてみんな(4人の中心人物)で書きました。そして理由は極めてシンプルです。私たちは、選手が進むルートに沿ってシークエンスを進めていくことにしていました。そして、ここではコンシェルジュリーです。マリー・アントワネットが斬首の前に幽閉されていた場所です。我々は自分たちに、これについては言及せざるを得ない、と言い聞かせました。ここで起きた歴史的なイベントは世界中が知っています。私たちはそこにエネルギッシュであることを求めました。だからゴジラです。そして、斬首されたマリーアントワネット、その両方。私たちは顔を突き合わせ、私たちが価値を見出していた(後述する)ロンドンのエリザベス女王とジェームスボンドを改めて思い起こしました。これだ、これだ、と。
パトリック・ブシュロン:そうですね、まず私たちがやった、みたものは、完全に、楽しく、集合的であったと考えています。そしてそれは全く同じく、議論するつもりがないことです、正確に。議論するつもりはないのです。私たちが見たものはまさに、さきほど述べられた通り、似ているのです。この多様性の物語、これが私たちのあり方だと、私たちが、大胆に主張している、複雑さと。それらは、あの歴史的なモニュメント(コンシェルジェリー)と、その美しさ、威圧的であることを望まない美しさ、私たちを勇気づける過去と一緒に示されました。私たちは誇りを回復しました、国家はアイデンティティではなく、あくまで政治的プロジェクトなのだ、という誇りを回復しました。私はそれらを若者に見せることができてとてもうれしいです。私の娘もコースでそれを見ました。あの悲痛なものを見たのです。それこそが全てです。シンプルです。私たちは、わずか数分の間にバスティーユを奪還したのです。
(中略)
ホスト:ダミアン、実際にこのセレモニーは、世代間的でもありましたね、だれにとっても自分事であるような感覚、ミュージカルレベルでもそうですし、サウンドトラックはすばらしかった。ダリダもあったし、クラシックもあった。とてもエモーショナルでした。とても美しかった。そして、話を変えるが、橋の上でのクィアたちとの最後の晩餐。かれらと一緒に生きているというシーンでしたね?ダミアン。
ダミアン:その通り。クィアはいた。でも付け加えるなら、フランスのすべてがあった。背が高い、低い、太っている、痩せている、黒人、白人、アラブ人、みんな違う衣装で、同じプレイリストを踊ったんだ。グアドループ(カリブ海)の音楽、オーヴェルニュの音楽、ヨーロッパの音楽を、同じ時にね。
トーマス・ジョリー監督に選ばれたパトリック・ブシュロンは、このセレモニーに寄せられる期待や懸念さえも承知の上で、「私たちに似た」物語を望むと改めて表明した。 「私たちはバカバカしいことや傲慢にならないように努めます。それをやったら、とんでもなく長い道のりになってしまうよ」と冗談を言う。
(中略)
「最初のシーンには、『エミリーパリへ行く』シリーズを観たアメリカ人などが期待する、パリで見られるものをすべて詰め込みました。きっと反応は「ありきたりなだな」だろうけど、それは違う。少し忍耐が必要です。所要時間は 3 時間 45 分です。紆余曲折があるでしょう。次に、これらのイメージは正反対の方向に進み、スノードームが転がるように、私たちはエッフェル塔(私たちが期待しているもの)を目にするでしょう 。私たちはすべてを揺るがすでしょう。違うものが出てきますよ。 」
(中略)
共同執筆者たちは、過去の開会セレモニーを研究しました。そして、アテネの謙虚さと、ロンドンの自虐性を継承することとし、北京の誇張されたナショナリズムを拒否することにしたのです。
「ディベートの仕方を知っている国に生きることはとても大きなアドバンテージです。おそらく、(この国に暮らす)外国人たちが我々にもたらしている、楽しい面のカオス、それには多くの憤りと尊敬が同居していますが、私たちはそれを見せなければならないのです。」
開会セレモニーの原点は、セーヌ川の流れとともに進む、という点である。
「私たちが見せる、このゆっくりとした流れるイメージ、この空想上のパレードは、パリが示すべき力の中にあります。このステージは軍隊のデモンストレーションパレードではないのです。フランスはもはやー私は全く望んでいませんがー世界に対して、我々の歴史について講釈を垂れるような立場ではないのです。私たちは、持っているもの、信じているものでやるしかないのです。我々が込めたメッセージはシンプルです。言葉で、あるいは映像で、伝わればうれしいですが、そうです、それは、”すべてがある、それでも私たちは一緒に生きていける”ということです。」
パリの歴史から離れて、歴史家は、パリジャンの通勤のあり方についても、言葉を用いずに示すつもりだといいます。
「英雄的物語の反対にあるもの」を語る、というこの歴史家が大量のインクを費やしてきたフレーズにおいて、彼は、その立場を明らかにした。「私たちはしゃべりすぎです』と彼は笑う。宣言も挑発もない。オリンピックゲームは、包括性、平等性、多様性という価値観に基づいています。セレモニーはそうでなければならない。私は歴史家だから、ナポレオンの話をしなければならないなら、どうすればいいか知っているし、そうするつもりです!しかし、それだけではありません。絵画(Tableau)ではより完全なものになります。私たちは何も削除していないのです。追加しているんです。セレモニーは軍事パレードではないが、謙虚でないのに謙虚なふりをするつもりはない。その一方で、私たちは互いの違いに連帯感を示すことができる。誰もが楽しめるものになるでしょう。」
少し考えた後、彼はこう付け加えた。
「私に、世界(の見たくないもの)に対して目をつむることを期待しないでください。パリに世界を迎えるのであれば、ありのままの世界、ドラマなども含めて歓迎します。オリンピックは原義的に政治的なものですから、政治的なものを排除するということはありえません。しかし世界の最も公正な感覚の中にあってほしいとのぞみます。」
彼は微笑みながら、「こんなに複雑なものに参加することになるとは思ってもみなかった」と話した。
(増田はルモンドやリベラシオンに課金はしていないので、まとめ記事が助かった)
(略)
ジョリーと4人の作家が2022年末に共同の冒険を始めたとき、ルートはすでに決められていました。
東のアウステルリッツ駅から始まり、ノートルダム大聖堂、マリー・アントワネットが投獄されたコンシェルジュリー、ルーブル美術館、 ガラスのドームが特徴のグラン・パレなど中世の遺跡を通り過ぎ、エッフェル塔のふもとで終わります。
「私たちはダウンジャケットを着て、アウステルリッツ橋からエッフェル塔 までボートで川を上下しました」とジョリーはル・モンドに語った。
「私たちはパリの歴史の一部であるあらゆるものを見ました。通り、記念碑、広場、彫像。文学的な書簡、映画、ミュージカルも調べました。」
彼らは何度もブレインストーミングした後、約9か月間秘密裏に執筆を続けた。
フランスのカルト映画「アメリ」やアメリカのネットフリックスシリーズ「エミリーパリへ行く」の夢のようなパリに引き込まれることを警戒し、 彼らは「常套句やアメリカ流のフランス解釈についても、茶化さずに扱わなければならない」とわかっていたとジョリーは語った。
彼らはショーを12の絵画(セーヌ川沿い、セーヌ川の上、さらにはセーヌ川から出る)に分割し、約90隻の船に乗ったアスリートのパレードと掛け合わせた。
3,000人を超えるダンサーや俳優が岸壁や橋の上でパフォーマンスを披露し、それぞれの絵画は、パリのシンボルと、過去と現在の両方について呼び起こすものを描いており、世界をパリの歴史と建築の旅へと誘う。
例えば、ノートルダム大聖堂は、ゴシック様式の記念碑であり、19世紀の作家ヴィクトル・ユゴーとのつながりであると同時に、猛烈な地獄でもあるなど、人によってさまざまな意味を持っています。
「世界が最後にテレビでノートルダム大聖堂を見たのは、火災のときでした」とブシュロン氏は言う。「誇りと壮大さの物語だけではなく、感動の、再建の物語でもあるのです。私たちが演じたかったのは、どんな困難にも負けずに共に生きていこうとする粘り強く創造的な意志の物語です。」
自らを「現代を愛する歴史家」と称するブシュロン氏は、式典はできるだけ多くの人々に語りかけるものでなければならなかったと語る。
「パーティーを開いてお気に入りのプレイリストをかけるのとは違います。世界からフランスへ、そしてフランスから世界へ語りかけるものでなければなりません。私たちはただ、人々が共感できるように、当時の状況を描写しようとしただけです。」
(略)
エマニュエル・マクロン大統領は、セレモニーでは1789年のフランス革命から1948年の世界人権宣言まで、「解放と自由の偉大な物語」を提供すると述べた。
セレモニーの詳細は秘密のベールに包まれているが、フランスの価値観が何らかの形で讃えられると推測されている。フランス系モロッコ人の小説家であるレイラ・スリマニは、パリが集合的であろうとする努力に価値を置いていることーそして力を合わせることで考えられないようなものを生み出せるーを高く評価している、とル・モンド紙に語っている。
4人の作家は、自分たちの物語に寛大な精神を持たせたかったという。
「喜び、模倣、動き、興奮、輝きがなければならない。フランスが時に自信過剰に見せたがる伝統的、哲学的、価値観だけでなくね。」
(略)
一方、昨年9月にパリで開催されたラグビーワールドカップの開会式は、「反例となった」とブシュロンは言う。
『アーティスト』のオスカー俳優ジャン・デュジャルダンが、ベレー帽にバゲットという出立ちで、1950年代のフランスの村々を再現した模型を自転車で巡り、ミルク絞りの女性やダンサーに手を振るというこのショーは、多くの批評家から、時代遅れの陳腐なフランス表現だと非難された。そして、非常に内向きなフランスだった。
「ただの古臭い過去のイメージや、現在の単純な賞賛ではないものでなければならない。歴史は揺らいでいるもので、国家はアイデンティティではなく、政治的プロジェクトであることを忘れてはならない。だから未来を語るのです。だから、私たちはセーヌ川を大旅行し、みんなを巻き込もうとしています。」
ブシュロンは、最も感動的なショーとして、ジャン=ポール・グードによる壮大な舞台美術を伴った、1989年のフランス革命200周年記念式典を挙げている。
当時20歳だったブシュロンは、それを見て歴史家になろうと決意した。
「それは歴史を痛感した瞬間でした。1989年、ソ連、中国(天安門広場の抗議活動)など、世界では多くの出来事が起こっていました。当時、私たちは多文化フランスと呼ばれていたものの価値を声高に明確に宣言することができました。それはより困難になり、ある種の幻滅感もありますが、私たちは怯んではなりません。」
数週間前、フランスでは議会選挙後に極右政党「国民連合」が政権を握るかもしれないという懸念が真剣にあった。その場合、ショーは「ある種の抵抗のセレモニーに変貌していただろう」とジョリー氏は語った。
結局、マリーヌ・ル・ペン氏の党は好成績を収めたが、セレモニーの書き直しを必要とするほどではなかった。
「私たちは、切実に、いたるところで起こっている暴力から離れて、平和の瞬間、止められた瞬間を共有することを必要としています」とスリマニは言った。
「私は本当に、7月26日にみんなが流れに身を任せてくれることを願っています。私たちの中の子供の部分、発見する楽しみを思い出してほしいです。今では本当に珍しいものになってしまいました」
と思っていたけど、セーヌ川、コンシェルジュリーが先にあることがわかった。ルイ16世でない理由もそこにある。またマリーがサン・キュロット版のア・サ・イラをうたい上げた後に上がった数多くの血しぶきは、その後のコンシェルジュリーで数多く処刑された人々のものであろうとも思う。なぜなら、マリーはすでに断頭済みだから。そして、ガブリアック氏、ブシュロン氏のコメントから、別に完全に誇っているわけでもないこともわかりました。やるしかねぇな、と言っているのですから。またブシェロン氏はdéchirer(悲痛な、引き裂かれる痛み)という言葉を使って、あそこで起きたことを示しており、歴史家である彼は当然革命期のその後の悲劇を知っているわけですから。それでもなお、彼は「バスティーユを奪還した」といい、国家は終わるもので、政治的プロジェクトに過ぎないのだ、ということを「誇って」いるという点が印象的でした。右派が怒ることなども承知の上でしょう、なにしろ、「ディベートの仕方を知っている国に生きている」のですからね。
開会式全体に込められたメッセージから判断すると、別にキリスト教を揶揄はしていないんでしょうね。挑発はしているかもしれませんが。クィアは存在する(キリスト教がないものとみなしている)ということを目ぇ開いてしっかり見ろ、ということが言いたいのでしょうから。真正面からね。
要は、暴力やクィアなど、みたくない、特にオリンピックにおいて、というものも当然パリは包摂してるぜ、外国人問題とかもカオスだけど、でもちゃんと一緒に生きてるんだぜっていうメッセージと受け取ったね。論争が起きるのとか、まさに狙い通りでしかないんじゃないですかね。
前回のブコメでオススメしてくださったゲームは遊んでいるものもあれば、遊んでいないものもありますが、どれも参考にしていますし、いつか遊ぶと思います。
なので、また何かオススメがあれば書いてくださると嬉しいです。
51〜65はこの記事
ダンガンロンパシリーズ完結作で、突然集められた超高校級の才能を持つ面々が殺し合いゲームを強要されるデスゲームものにして、その殺し合いの加害者クロを見つける学級裁判で謎を解くミステリゲーム。
テキストを主体としたゲームとしては3作目とマンネリし始めるナンバリングだが、全くもってそんなことはなく「嘘」をテーマにした幾つかの事件を今まで以上の絶望さで描いている。
特に超高校級の総督王馬小吉にまつわるエピソードは圧巻で、歴代作品を踏まえて「絶望対希望」は「嘘対真実」の言い換えだと無邪気に信じていた気持ちを粉砕させられた。
ダンガンロンパシリーズはこの作品以降はファンディスクのようなものしかリリースされていないが、なるほど確かにこの後に単純な4やV4をリリースするのは難しさがわかるのもシリーズファンには賛否がわかれる内容だった。
このシリーズはアニメ版の「3」で絶望して少し身を引いていたのだが、改めてこのV3を遊んで、やっぱりダンガンロンパは最高だなと思いを改めた。
公称ジャンルは百合要素を含むミステリーで、物静かで落ち着いた女性のサチと、元気で朗らかなタカコのカップルの関係値の変遷を追うノベルゲーム。
日常の動作、食事、自然の豊かさ、季節感などなどの風景や情景の描写に文量が大きく割かれているのが特徴的で、淡々と進む中で彼女たちが何を感じたのかを、咀嚼するように読み解いていく。
そんな平和で楽しい内容が、あるタイミングで突然ガラッと風景を変え、死と向き合うことの難しさ、生き続けることの意味などを問いかける哲学的で幻想的なストーリーに変化していく。
ものすごく大好きで愛してる作品だけど、面白いというよりは、考えさせられるというか、このキャラ達のことをずっと延々に頭の隅で思い続けることになっているような、それぐらい大きな作品だった。
文明が崩壊した世界で何故か稼働中のVRMMORPG「アーキタイプ・アーカディア」を遊ぶ人達の思想がぶつかり合う、火傷しそうな熱意が伝わってくる熱血ノベルゲーム。
ゲームは遊んでおらず食糧も水も希少な世界で必死に暮らしているルストと、その妹でラスモス・ゾティーラ・トゥーラッカという独自の挨拶でゲーム内で仲間を増そうと頑張っている妹のクリスティンの二人で始まった旅がどんどんと広がっていく壮大さが魅力的。
テーマの「ゲームは楽しい」を伝えるために様々なプレイヤーと対決していくのが、まさに楽しいゲームで、ゲームを遊ぶゲームというメタ構造になっている云々と言った小賢しい理屈を跳ね除ける沸る激情が最高に楽しいゲーム。
可愛いヒロインも沢山登場するのでそういう方面でも面白く、特に僕はコロネちゃんがダントツに大好きで、専用ルートのその先を妄想して悦に入ることがある。
1980年代後半近代化が進み発展する街「三咲町」を舞台に、電話すら知らないほど田舎から引っ越してきた静希草十郎が、魔法使いを自称する二人の少女と出会うボーイ・ミーツ・ガールもののノベルゲーム。
まず目を引くのが非常に作り込まれたルックで、立ち絵と背景絵、その上にかぶさるテキストウィンドウという一般的なノベルゲームでありながら、表現の幅がとても広い。
ストーリーも田舎に住んでいた主人公が、街に慣れることを通じて、近代的な社会とそうでなかった時代を浮き彫りにしていき、当たり前に享受している一般的な水道や電気や貨幣すらも、近代化の恩恵であり当たり前ではないエピソードが手を変え品を変え繰り返し語られるのが、情緒的な染みるように楽しい。
この情緒的ながら近代日本では当たり前のストーリーと、新伝奇ものらしい魔術を使った異能バトルのストーリーとが、静希草十郎にとっては同じだけ異質なものなのが、面白かった。
(なお、ちょうどまさに今このとき、スマートフォンで遊べるガチャ形式の運営型ゲームFGOで、彼女たちのアフタストーリーが読めるそうなのだが「ガチャを我慢する」という脳の回路が焼け切れ、貯金や手を付けてはいけないお金をあっさり使い込んでしまった過去があるので、僕は遊べないのがモドカシイ)
怪盗、探偵、警察、盗人、泥棒と正義と悪が入り交じる登場人物たちの中、ハートとため息を盗む怪盗ミスアルテ共に盗みを行っていくクライムサスペンス。
フィクションらしい痛快さに振ったリアリティラインながら、この世界観の中でも丁寧に盗みを行う段取りを立てるパートがあるのが非常に好印象。
自分たちが犯罪者であることを認めながら、法では救えない大切な人のために死力を尽くす怪盗たちの生き様が格好よくて滾る最高に面白い作品。
そんな怪盗たちですら挽回不可能に思えた最後の盗みの仕掛けは、まさにハートとため息を盗まれた爽快さで、思わずコントローラを握る力が強くなりすぎて、スティックを壊してしまうほどだった。
○大好き
陽気なミスカと陰気なスバルの対照的な二人の友人関係が、無垢で人形のようなルウが転校してきたことから大きく変化することになるノベルゲーム。
学校で熟成される閉鎖的な人間関係と、思春期らしい堂々巡りを続ける自己言及を、丁寧な心理描写と情景が伝わってくる幻想的な精神世界の問答で文章を魅せるタイプの作品。
女の子同士の三角関係のように見えて、早々にミスカの好意は豪快に空回っており、スバルはミスカのことを全く好きではないと、二人の視点シーン毎に同じエピソードを描くことでそれがわかる構成が読んでいて辛い。
楽しいとか面白いような前向きな感情で読める作品ではなく、思春期の女子高生の自己問答の末に得られた後ろ向きで退廃的な選択が、三人の関係値を歪めていく悲劇を読ませる作品だった。
父親の実家がある田舎に帰省した羽藤佳が、その田舎にまつわる伝説とそれを取り巻く異能のものたちと交流していく、和風伝奇ジャンルで女の子同士の恋愛を表現するノベルゲーム。
まず伝奇ものとしては、歴史にまつわる蘊蓄や衒学趣向的なやり取りが多いが、それが少しづつ大きな設定の開示に繋がっていくのがワクワクする。
主人公の羽藤佳は異能こそあるものの直接的な戦闘能力はないため、ヒロインたちに頼ることになる恋愛の導入が、アカイイトらしさだ。
バッドエンドの豊富さも面白く、バッドと言いながらメインルートとは異なる選択を魅力的に描いており、最初から最後まで飽きずに楽しめた。
琴を演奏する筝曲部の熱血部活ものパートと、数十年前の女生徒同士の心中事件を追うサスペンスパートが混ざりあったノベルゲーム。
仲間との和を大切にする鈴と、演奏技術に重きを置く有華の二人の女性が対立しながらも関係値を育てていくのだが、こちらのパートは琴の演奏に関するやり取りが多く、甘い恋愛の要素は少なめ。
対して、数十年前の心中事件の方は、終わりが心中だからこそ、はっきりと恋愛の要素があり、そこに至るまでの過程は辛いシーンもあれば、甘いシーンもある。
主人公の保護者であり老齢の尼、十六夜妙蓮さんの大活躍はすごく印象に残り、もう一人の主役といっても過言ではないだろう。
ポケットモンスターの世界観をテキスト主体のアドベンチャーゲームに仕立てるシリーズで、2018年の名探偵ピカチュウから5年ぶりの続編にして、完結作品。
バトル以外の生活の場におけるポケモンの生息が魅力的で、それを映像でなく文章で楽しめるのは唯一無二だ。
これはもう他の作品と違って客観的な評価は完全に捨てるしかなく、ポケモンは実在する、ポケモンと生活したいなどと、ポケモンへの思い入れがあるからこそ楽しめる作品。
肝心のストーリーについては、実写映画版が先取りしていたせいで、サプライズ展開がサプライズになっていないのが気になるし、これほど間が空いてしまうと期待度も相応にあがってしまう、可能なら短編を定期的にリリースしてほしいが、難しいかなあ。
海面上昇が止まらず住む場所を失った人が多くいる近未来の日本の離島を舞台に、超エリート校に通っていたが夢破れて戻って来た斑鳩夏生が、アンドロイドの少女アトリと交流する恋愛ノベルゲーム。
主人公の斑鳩夏生はめちゃくちゃ優秀で頭の良いカシコなのだが、とある事情により左足がなく、精神的にも不安定なので、生きづらい描写が開幕からは続く。
しかし、美少女アンドロイドのアトリによりそこが一変し、彼女が左足を補い、精神的な不安定さも補いとサポートすることで、どんどんと前向きになり、社会基盤が大きく変化した田舎町でその頭脳を活かしていくのがワクワクする展開。
この頭脳で手の届く範囲の人たちを救っていくシーンは非常に前向きかつ地に足がついた展開で、大好きな丁寧さだった。
ダンジョンRPGの老舗エクスペリエンスが送るホラーアドベンチャーのシリーズ第三弾で、怪異の噂を横スクロールのような探索パートで調べてから、RPGのボス戦のような怪異との対決パートに挑む構成で、テキストが主体のアドベンチャーゲームらしくない画面構成になっている。
死印の直接的な続編で、主人公や他の登場人物も共通しており、ストーリー的にもそれを踏まえての悩みや成長が描かれるので、必ずそちらを遊んでから遊びたい。
前々作では怪異に振り回されてばかりの主人公だったが、今作では一転して、怪異と立ち向かうことに強い哲学的な回答を持つことになる。
ホラーの恐ろしさや恐怖を煽る部分に着目しがちだったが、ストーリー的に感動するポイントが多くあり、とてもおもしろかった。
ダンジョンRPGの老舗エクスペリエンスが送るホラーアドベンチャーのシリーズ第二弾で、怪異の噂をDRPGのような探索パートで調べてから、RPGのボス戦のような怪異との対決パートに挑む構成で、テキストが主体のアドベンチャーゲームらしくない画面構成になっている。
前作とは同じ世界ではあるが、登場人物は異なっているので、設定を飲み込めるなら今作から遊んでも問題ない。
アウトローを自称する鬼島空良とその仲間たちが怪異と戦うストーリーだが、単純な腕力では倒せないので、現場を操作し証拠品を集めて、知恵を絞って敵と対峙するシリーズの骨子は共通している。
前作よりもブロマンスな傾向が強調されており、主人公の鬼島空良と、親友にして反社会勢力の天生目聖司との持ちつ持たれつの関係値が面白かった。
キャラのポリゴンが常にステンドグラスが透けて見える、特徴的なルックが目を引く、キャラクタの演技主体のアドベンチャーゲーム。
閉鎖的な隠れキリシタンの村の中で、正道とは大きく変化した異質なキリスト教をテーマにした、宗教にフィーチャーした作品。
前半こそ村人との楽しい交流や名産品に舌鼓を打つ展開などコメディ要素も多いが、中盤からは宗教を信じることの覚悟を問うような重苦しい展開が続く。
タイトルの意味がわかる、とあるキャラの慟哭シーンは、思い出すだけでも気が重たくなる悲しい作品だった。
全国の小学校から落ちこぼれだけを集めたガンバレ組の面々がデスゲームに巻き込まれることから始まる、アクションゲームとテキストを読むパートが融合したアドベンチャーゲーム。
息をつかせぬ展開が魅力で、一転二転、七転八倒、とにかく次から次へと設定の根底をひっくり返すような、サプライズ展開が目白押しで最後まで遊べる。
そんな中でもガンバレ組の絆の深さ、彼らが分かつ事ができない強い関係であることを信じれるようになってからは、痛快なストーリーが続くのも楽しい。
アクションゲームは若干とってつけた感があるとも思うが、ガンバレ組の得意な能力をゲームっぽく表現できているとも言える、かも。
転校生の主人公が複数の美少女たちと恋愛しつつ、100年に一度死から蘇る謎の現象を追う伝奇サスペンスの要素もある、ノベルゲーム。
恋愛部分は正直前フリ感が強く、伝奇パートと関係が薄いヒロインたちのエピソードは薄めで、関係が濃いヒロインは濃いと、濃艶がはっきりしているのは好みが分かれそう。
死から蘇った人間は周りの人間の記憶の整合性を操作しながら生きながらえるため、どうやってその蘇った人間を見つけるのかのフーダニットの段取りが、ミステリしていて面白い。
設定こそ新本格作家のアニメ化もした某作と似通っているが、ゲームならでは仕掛けやミスリードがあり、しっかりとノベルゲームに翻案できている良作。
なんかポリシーでもあるんだろうか
ルパン三世シリーズを熱心に見ているわけじゃないからなんともわからんな
自分が知らないだけで実は普通に現金もターゲットになっているというのはありえる
調べましょうね
PART1『7番目の橋が落ちるとき』で現金輸送車襲撃をしてはいるが……あらすじを見る限りちょっと違うな
PART2『マイアミ銀行襲撃記念日』、このエピソードでは現金がターゲットかな?
これを多いとみるか少ないとみるか
思ったよりはあった、というのが感想にはなるか
作劇するうえで現金とか金塊は物語を駆動させる力が弱いのかもしれんな
こういうのアニヲタwikiに独自研究がある可能性結構高いんよな
ポリシーの話をするなら盗み行為そのものを楽しんでいるって話か
特にトラブルも起きず普通に現金を盗むことに頻繁に成功しているが、それは日常の事なのでアニメのエピソードとして描写されていない……という可能性もあるか
まあ流石にこじつけ感もある
ほんとは全部のシリーズ見るのが一番確実なんだけど
あー、作中でルパン自身がなんか言及してたりせんかな こればっかりは本編見ないとわからん
日記です
同じ内容なら他のブログより増田よりよっぽど伸びやすいなと感じる。
何度も振り返る価値のある愛蔵版的な情報源なら確かにブクマはいろんなドメインに分散してついている。
しかし時事ネタや日記を書いてるようなまとめ記事やブログやSNSをブクマするタイプの人は、その枠の半数近くを増田に割いている奴が大半だからだろう。
だから他のドメインに比べれば当然複数人が同じ記事(増田)をブクマするという被りが発生する可能性が高いわけだ。
そうしてホッテントリ入りしやすい構造になり、またさらに伸びるという良循環?悪循環?というわけだ。
単に増田のほうが伸びやすいから増田に書く、反応されるという目的を満たすならブログ持つより増田に書く方がコスパいい、という、増田で名乗ってくるような自己顕示欲ゾンビがいるのが嫌なら、時事ネタ等をブクマしたい欲求を満たすときは意識的に他のドメインから多くブクマして、自分の中で増田をブクマする割合を今までよりも低くしようということを、みんなで協力して運動として行うことだ。50%も増田にブクマしてる人は、まずは40パーセントに減らす。
そういう運動が実を結べば、増田から増田に書けば伸びるみたいな理由で書く増田らしかなぬ文化圏の人は自然消滅するだろう。
しかし「俺がやってもみんながやんなきゃ意味がない」って思う人が多くて、結局運動として意味があるほどやる人が出てこなくて、効果が出ないから結局誰もやらなくて変革なんて起こらないんだろうな。
なんでそんなこと知りたいの?まとめ記事作るの?
と言っても、前回前々回書いた記事は「今日知った言葉」なので、本当の意味での前回の日記は12/10。
ちょうど二か月の間が空いている。
以前は目に留まったニュースやまとめ記事を引用してコメントしたり、
を週に1回以上は行っていたのに、本当に久しぶりだ。
ここ半年から1年は日記を書くのが1か月近く空くこともしばしば。
直近の25件前を見ると、2023-07-01と半年以上前だった。
なんでだろう。
理由の一つは体調不良が長引いて、大きな外出ができず精神的に参ってしまっているからだろう。
これは読んで字のごとく。
別の理由は、厭世的、虚無的な気分に支配されているからだろう。
以前はてブでホットエントリした「11千年紀以降」という記事が頭から離れない。
昔から時々、歴史とか宇宙とかの大きすぎるトピックに触れた際にも発症していたが、確実に来る虚無の未来を思うと身の回りのあらゆることが無意味に、無価値に思えてしまい、やる気が起きなくなる。
果たしてこの惰性もどこまで続くのやら。
なんか気になるブコメがあったので言及しておく(長いのでトラバで)
ミホヨはインフレキャラを次々に出してて課金圧ヤバい印象しかないが、やってる人らが軒並み「ミホヨだけは違う」みたいな論調で狂気を感じている。
そもそもゲームを実際にプレイしてない人が煽ってなんぼのまとめ記事かなんかを見て「インフレヤバい」「課金圧ヤバい」という認識を正確にできてると思うことのほうがおかしい。
結論から言うと、トータルで見ると外野が思うほどインフレしてないし、課金圧も業界水準と比べてもだいぶ低い。基本の調整クオリティがそもそも高水準で、繊細で周到なバランスの枠内で、異例かどうかで大仰に騒いでるようなもの。
戦闘バランスの設計は、ものすごく多面的な要素で構成されてる。局所的には革新的なゲームチェンジャー的役割を果たせるキャラが次々に出たとしても、使い所やビルドなどの影響でソシャゲみたく「ほとんどの人がこの最強パ使ってる」みたいな事にはならない。理想的な状況で(というのがほぼないが)、チームDPSが最も高くなりがちな編成に対して、最新アタッカーを活かす編成をぶつけると10%くらい伸びることがままある、というレベル感だ(星5完凸前提みたいな過剰で趣味レベルの領域のバランスについては言ってない)。
ただその差が常に発揮できるわけではなく、最近メディアで騒がれたスターレイルの飲月や鏡流についても、実際にプレイすると強さの反面デメリットがそれぞれに目につくようになっていて、トータルでは納得感のある範囲に収まっている。
デメリットをうまく吸収するためにチームをビルドする楽しさがあり、そのためのパーツとして色々なキャラにスポットライトが当たるようになっているので、ユーザーはむしろ「どんだけ先まで見据えて調整されてるんだ」という部分に舌を巻く印象のほうが強くなる。
それでもとりわけ強い感じがするキャラがたまにいるが、世界観的に意図してそう設計されていることが分かるようになっており、そう頻繁に登場するものではないのでインフレと騒ぐものではない。
ヌヴィレットの強さなどはむしろ物語に対する憶測と感動を誘導する先出し演出の一環だったと今なら言える。メディアだけ追っているエアプ勢はそういうキャッチアップをせず飛ばし記事だけ真に受けるので、いつも先走った見当違いな印象ばかり持つことになる。キャラゲーでも戦闘ゲーでもなく、物語と世界観を大事にしているからこそ忖度しなかったと受け取れ、ゲーム全体として見たときにユーザーに不満を抱かせない説得力をもたせるのが巧みだ。
それにそもそも、原神の元素反応システムにしても、スタレの敵が複数の弱点をもつ靭性システムについても、従来のソシャゲのように平面的な有利不利属性で理解できる単純な代物ではない。属性縛りゲーのような画一感を打破しつつ、多様な攻略を可能にする基礎ができあがっている上での単純比較が困難なお話だという前提を非プレイヤーの人が想像しきることは至難の業だと言える。だからメディア記事にすること自体がそもそも誤解を誘発するのだ。
課金圧に対しても、ここまでの話では常に環境に合わせたキャラを補充しつづけなきゃついてけないように思えるかもしれないが、エンドコンテンツにあたる高難度のもの含めても難易度は基本的にゆるめで、ステージに優遇措置がある最新キャラを取っていればより低い育成具合でも楽に突破できるが、既存のキャラでも正しい組み合わせと立ち回りを考えてそれなりの育成ができていれば突破は難しくないくらいの、ライト層に対して過剰に苦痛を抱かせない設計になっている。言葉で説明する限りじゃ「そんなのはどんな量産ソシャゲだってそうしてるわ」と思うだろうが、その具体的な細かい部分のクオリティが異様に高い。
凸に関しても、無凸や無モチーフ武器でどんなコンテンツも(特性を正しく理解していれば)十分に攻略できる。それ以上を課金して求めるのは、数字を増やす自己満足の類だ。なにせ対戦・競争コンテンツが存在しないから(崩壊3rd以前は除く)。あるいは、週次の戦闘コンテンツを、環境の接待効果を無視できるほどのキャラパワーを備えた推しキャラで強引に突破したい!的な、ゲーマー的にはナンセンスなP2Wゲー的遊びをしたい人のためにあるようなものだ。凸などを強いられていない、なんなら星5ですら好みで取る程度で問題ないくらい星4で編成を極められることは現役ユーザーが一番理解している。もちろん、ミホヨゲーを始めて間もない人が、従来のガチャゲーのノリで凸などの過剰な課金へと行き急ぐ可能性はあるが、ゲーム的にそれを推奨するような表現がされることはない。そもそも、ここのゲームが売れてるのはキャラ取って使うみたいなガチャゲー的遊び方がどうこうじゃなく、本編やイベントの作り込み具合がスマホゲーの常識を超えているから。そこのオフゲー的な感動を与える部分がありつつ、それ以外の日課的な部分では時間的束縛も少なく、あらゆる部分で圧が低くて、遊び方を押し付けずに委ねる姿勢が強いことで、ユーザーへ安心や信頼感を与え、運営とユーザーが互いに敬意を持てるコミュニティを作っていることに成功の核心がある。ネトゲ時代から、オンラインゲームのプレーヤーは運営を敵視あるいは蔑視しがちだったが、そういう関わり方を越えてきたところを俺は評価しているんだよ。もちろんユーザーに愛される運営自体はネトゲやスマホゲーでもあった。でもそれはあくまでクリエイティビティに関してくらいで、ビジネス面まで含めてうまくやっててここまでユーザーからの運営批判が生まれない(批判しようとするとまずヨソにぶっささるから自嘲へと化けてしまう)会社は見たことがない。個人的に00年代からゲーム審美眼とビジネスモデルが優れてたと評価してるネクソンでさえ、運営に対しては結構厳しい意見が多かったのを見てきたから特に。オンラインゲームの開発としての上品な思想と実力に優れたところとして、ミホヨ出現以前まではdevCATを推してた俺だが、今オンラインゲームの世界にすごいやつが登場してるってことを広く知ってもらいたいな。
https://anond.hatelabo.jp/20230928203841 の続きのような
原作見てない人から派手な話じゃないよと報告受けたので、じゃあ見ようかと
OP始まった瞬間の瞬間凍結やばかった。
YOASOBIがやってるのはブクマで目に入ってしまってたので覚悟はしてたのだが、事前情報を仕入れてなかったら辛すぎてOPの途中で視聴中止してた。
こればかりは先にワクチンで耐性つけててよかった。
歌詞や曲は耳というか脳がシャットアウトしてたが曲のリズムに合わせてのカットのテンポの速さもマジきつかった。
(ただしOPで作画枚数ケチってた気配を感じたのでちょっとだけ警戒感薄れた)
一方、目に入るスタッフ名が思ったよりマシ? マトモでは? マッドハウスでも良い方のマッドハウスっぽい? となり、最後に出てきた監督名でこれなら無難で行けそうってなったのでホント救いだった。
これがMAPPAだったら無駄に過剰な付加価値を押し付けてきそうだったし、地方のスタジオ名売り込み系も似たような高コスト押し売りするし、かといってシルバーリンクまで行くと下品を隠さなくなりすぎなので、ほどほどに抑えてくれそうなときのマッドハウスならかなり事故率低そうと思えた。カネ貰えるからで書き込みや作画を豪華にしたがる劇場版病はアニメ作品の価値を下げると思ってるので。
さておき本編。
金ロー2時間枠とか劇場版みたいな高コスト作画を警戒せざるをえなかったが、箱を開けてみたら金と時間はそれなりにかけつつ省略できるとこは省略してる絵があり、普通のTVアニメの豪華版ぐらいなとこで収まってて安堵のため息を深くついた。
安いといっても髪の毛とか高いんだけど。そのぶん動きは抑えてるし、クヴァール戦もちゃんと盛り上がらずに一瞬で終わらせてるし、勇者のバトルもエフェクトだけで変にアクションつけたりしないし、「フリーレンアニメ化したときやられたらキツいとこ」は全部回避してくれていた。いやほんとアニメスタッフありがとう。このあとシュタルクが出てきたらバトルが派手になったりするんだろうか。斧を高々と振り上げるぐらいはしてもいいけど、あんま長時間バトってくれるなよ…
シナリオは、そういやフリーレン最初は泣いたんだっけ忘れてた。
海岸清掃まででフリーレンの話はいったんまとまって、フランメの示唆で新しい旅が始まる。ここで「完」ってつけてもいいんだけど。
続きますよね。
ここから先の整理をどういう方向に持ってくのかは判断分かれそう。
岡本信彦良かった。昔のイケメンほどよくカルいけど芯のとこは軽くない。
スレッタはスレッタより全然いいのでこっちが役名履歴の代表作になれ。
EDは……OPよりおとなしいかもしれないけど、さらに抑えめでもいいぐらい。
その他。
お、よかった、サザエさんバス事件を示されたらポパイネクタイ事件くらいにはいきつけんだね!
えらいねえ!!
でまあ確かにポパイネクタイ事件で知財高裁が「キャラクターに著作権はない」ってぶち上げたのがインパクト強かったし
これに乗じてキャラクターは商標登録しないと!!!っつって金稼いだ弁理士も結構いるんだけどさ
このポパイネクタイ事件でいう「キャラクター」ってのはね、あくまで「概念」の話なんだよね。
たとえばお前が中学の授業中に妄想してた「最高にかっこいい異世界転生した俺の設定」、
これはお前が考えてるだけで、どこかに表現として発表したわけではないから、保護されない。
でも、お前がその「かっこいい異世界転生した俺」をノートにイラストに起こして、それをツイッターにアップしたとする。
おめでとう!
それは「表現」だ!!
ではお前のイラストを見たいじめっ子がそれを勝手に真似してパロディ漫画を描いてみんなの笑いものにしたとする。
大丈夫、お前の描いた「かっこいい俺」は著作権法で保護される。
これはお前の引いたポパイネクタイ事件の判決文にも書いてあるからあとでちゃんと読んどけな。
どうせ俺叩くのに都合良さげなまとめ記事でも斜め読みしたんだろ?
複製というためには、第三者の作品が漫画の特定の画面に描かれた登場人物の絵と細部まで一致することを要するものではなく、その特徴から当該登場人物を描いたものであることを知り得るものであれば足りるというべきである。
まあでもほんと、お前はぐぐるだけえらいよ。
これは本当に。