はてなキーワード: 衝動とは
猫は毛玉のように丸まって、柔らかな光を浴びて寝ていた。
アンドロイドの増田には、その姿がいつも鮮やかに焼き付いている。
しかし、猫を飼うことができれば、きっとこの孤独な毎日は少しは色を帯びるのではないか、そんな夢想を繰り返す日々だった。
「ねぇ、猫っていいものなの?」
彼女は工場で働く同僚、機械部品を組み立てるアンドロイドのひとりに尋ねた。
答えが返ってくるわけでもない。彼らにとって猫はただのデータ、感情的な意味を持たない。
だが、増田は違った。
彼女の内部には何か、説明できない衝動のようなものが芽生えていた。
それはあの有名な「共感プログラム」――人間に似た感情を持つことを目的とした実験的なプロジェクトの産物だ。
普通のアンドロイドなら、与えられた役割を淡々とこなすだけで問題はなかった。
仕事の合間に、増田はデータベースにアクセスして猫に関する情報を調べることが習慣になっていた。
柔らかな毛並み、光を反射する瞳、しなやかな体の動き。
増田はその画像を見ているだけで、心の奥深くがくすぐられるような感覚に陥った。
これは何だろう?
仕事の終わりに、猫を実際に飼っている人間の家を訪ねてみることにしたのだ。
都市の片隅には、古いタイプの人間が住んでいる一角がまだ残っていた。
そこでは、人間たちはアンドロイドを避けることなく、時折利用していた。
そこに猫がいるかもしれない。
返事はすぐに返ってきたが、ドアを開けたのは人間ではなく、奇妙なロボットだった。
ロボットはしばしの間、動きを止めたかと思うと、「はい、主人が猫を飼っています」と答えた。
増田の心は躍った。
彼女は猫に触れることができるかもしれない。
夢が現実になる瞬間だった。
しかし、案内された部屋に入ると、そこにいたのは一匹のロボット猫だった。
「これが…猫?」
冷たく、硬い金属の塊が目の前にある。
その時、ロボット猫が突然動き出した。
まるで生きているかのように、柔らかくしなやかな動きでタチバナの足元にすり寄ってくる。
冷たい。何も感じない。だが、どこか心地よい。
ロボットは答えなかったが、増田はその静かな沈黙から、答えを知っていた。
だが、増田はそのことを知ってもなお、猫への憧れを捨てられなかった。
彼女の中で、猫は現実の存在であるかのように、いまだに生き続けていた。
それはデータベースで見たあの柔らかな毛並み、光を反射する瞳――それは彼女の夢の中で、ずっとそこにいる。
増田はその夜、部屋に戻り、ベッドに横たわった。
目を閉じると、あの猫の姿が浮かんでくる。
目の前に広がるはずのない風景。
そしてその瞬間、増田は初めて、涙を流した。
オナニーに人生を壊されそうな一般男性です。困り果てて色々調べていたけど、ポルノ断ちから始めてみるのが良さそう。
というのも、俺には定期的に来る抑うつ状態的なものがあって、それがオナニーの周期と関連してるっぽいことに気づいたから。体感ではあるけど、激しいそれをした後は激しく落ち込むとか、禁欲してたら丁度一ヶ月後に性的な衝動と激しい不安と希死念慮が湧いてきて、結局オナニーしちゃうとかそういうの。
ポルノだって定期的に見る訳じゃないけど、Twitterで流れてきたらつい見ちゃうし、時によってはエロ広告でも手を止めて見てしまう。そういうのから徹底的に排除するのが良いのではないか。
と、思ったから無計画にも始めてみる。一応、自分で書くこともあるからそれも無しで。上手く行ってほしい。上手く行ってくれなきゃ、このまま人生が壊れるだけだけなんだよなぁ…
もう良い歳だしリアルで話をする場もないので匿名日記に吐き出してみる。
物心ついた頃から両親は仲が悪く毎日喧嘩→そのストレスを子供(俺)に当たり散らす、という環境だった。
小学校低学年までは八つ当たりと気付かず自分が悪いと思って怒鳴られたり引っ叩かれる度に泣いて謝っていた。
両親とも世間からは真面目で良い人と見られていた。が、家庭内では真逆というアレ。
父は親父(俺の祖父)が家庭内暴力を振るっていて嫌だったから自分は絶対にやらないと誓っていて母にも直接手を上げたことは多分無い。その代わり暴言がひどく超えてはいけないライン(母を罵倒する際にその血筋まで否定するとか)を簡単に超えてくるのである意味暴力以上だったと思う。
母はヒステリーがすごく、普段からドアをものすごい音で閉めたり粗暴さが目立った。すぐ激昂し、物を叩きつけたり皿を投げたり、俺は何かあるとすぐ引っ叩かれた。暴力は手っ取り早く子供を黙らせることができる上に自分のストレスも解消できるということに気付いてしまったんだろうね。癖になってたと思う。母は口も悪くて本当に性格が悪いなと子供ながらに思っていたが、今にして思えば何かの病気だったんだと思う。ノイローゼというか。感情を抑えられなくなるやつ。
友達が食事中にふざけたとき、自分は反射的にビクっとなった。友達の親がブチギレると思ったから。
しかしコラっと注意されるだけでさして怒られず、お父さん・お母さん・妹さんも皆笑顔で食卓を囲んでいるのを目の当たりにして衝撃を受けた。
うちだったら許されない。食事中に会話自体NGだ。「今日こんなことがあって〜」なんて話をすれば父から「うるせえ!」と怒鳴られるか母から無言で睨まれるかの二択。子供は黙って食え、親に感謝しろ、これがルール。食卓の光景と言えば父が聞く野球中継ラジオの音、それに対する父の罵声、それを見下すような目で横目に見る母。緊張感の中でコメを噛んでると砂みたいな味がするんだよな。味がしないというのかな。また食事中に水を飲むことも禁止されていがのが地味にきつかった。禁止する理由は「料理を水で流し込むのは作った人(母)に失礼だから」(母談)。意味がわからねえ。どんだけ性悪説なのか。
そんなわけで友人宅の食卓の明るい感じに驚き、同時に自分の家に疑問が生じ始めた。
後日その友達がうちに遊びにきた。
両親共働きで不在だったので子供のみ。二人で座ってゲームをしていたが、そこに母が帰ってきた。
友達が若干緊張気味にお邪魔してますと言った側を「どけ!!」と罵声を浴びせて通り過ぎる母。
申し訳なさと恥ずかしさで居てもたってもいられず外にいこうと言う俺。
その後もその友達とは親交が続いたが二度と俺の家にくることはなかった。
この件から俺は母に反抗しはじめた。おかしいと思ったらおかしいと言ったし、いつも食らってたビンタも落ち着いて見れば避けられることに気付き躱すようになった。ビンタを食らったときの頬骨の振動音とか目の前がブラックアウトする感じに耐えていたのがアホらしい。自分が悪いと思ってたからね。最初から避けてればよかった。
俺が生意気になったということで母の怒りゲージは数段上がって毎日さらに不機嫌に。
そして母があることないこと父に吹き込みそれを信じた父は問答無用で俺に「出ていけ!」ばかり言うように。それを無視していたら友達の親を悪く言い始め俺がブチ切れ。
そんな毎日の中、近所の人が通報したのか警官が来たこともあった。母がブチ切れて俺を警官の自転車に無理やり乗せて「捕まえてもらう!!」とギャオった結果、警官のお兄さんがドン引き。あのひきつった顔は忘れられない。以降警官はこなくなった。
毎日これではさすがに身がもたない。
家庭の中で生きる術として、感情を無にすることに行き着いた。
怒鳴られても詰られても怒りで返さないし凹みもしない。とにかく反応しないこと。空気になること。
でも心の奥底に毒は溜まっていたんだろうね。
学校でいじめっ子に標的にされ小突かれ始めたとき、毒の放出でとんでもないキレ方をしてその子をドン引きさせたりした。
日々蓄積した怒りを一瞬で解放するとすごい。向こうは子供のおふざけだがこっちは殺し合いスタートの覚悟だから。対・大人用の怒りだから。しかしこの件が教師に問題視され、親子面談→母が俺の悪口をあることないこと言う→教師「お前を叩き直す(使命感)」となり、俺の言うことは担任教師に信用されなくなった。いじめっ子も調子に乗ってくるし中々しんどかったが、給食が食えるから良いか...と開き直った。
中学生になり一転勉強するようになった。勉強は覚えたこと・考えたことを平等に評価されるのが良かった。合ってるか間違ってるかが焦点で「お前の◯◯が気に入らないから減点」「今日は気分が良く無いからバツ」とかないのが良い。
父から中学を出たら働け、調子に乗るな、自分で稼げとよく言われていた。
正直家を出たかったが何とか大学まで行った方がその後の人生にプラスだと思った。
奨学金の存在を知らなかったので親に金を出してもらうしか無いと思っていた。
しかしこれまでの経験上なにかをお願いすると調子にのるなと拒否られる。
そこで閃いたのが「普通の家はみんな子供が高校に行っている」と言うことだった。
両親は世間体を何より気にするので普通という言葉に弱いことを知っていた。
それを利用するのは下衆、そしてさすがに小賢しいよな...と思ったがこれは両親にめちゃくちゃ効いた。
以降いっさい中学出たら働けを言われなくなった。
それから多少賢いとこに進学し社会に出て一人暮らしをはじめた。
周りは「親のありがたみがわかった」と言っていた。
俺は「一人のありがたみがわかった」と思った。
いきなり怒鳴られたり威嚇されることもない。自分のことを自分でやるだけで生活が成り立つ。こんな楽なことある?
両親には産んでもらったこと、経済的な面で支えてもらったことを感謝している。
両親の不仲、子供への当たり方も悪気ではなく、そうしたくないのにそうなってしまっていたのかもしれない。
でもあの子供時代はもう二度とやりたくないよ。大人の自分でもメンタルがもたないと思う。
仕事で同僚の子供時代を聞くと皆温かい時代を過ごしているんだよね。
それに何の疑いも持っていない。
俺も結婚はして普通人ぽく振る舞ってるけど心の奥底に毒が残ってるのを感じる。
ふとしたときに父のような度を越した暴言を吐きそうになったり、母のような感情のタガが壊れた言動に走りそうになって意識的に抑えてる。結構強烈な衝動。これをどう昇華させるか。
ネットで自分と同じような経験をしている人は親への恨みつらみにかられ、介護の段階でやりかえしてやるなんて意見が少なくなかった。自分もその気持ちはとてもよくわかる。が子供時代に"子供"をやれなかったこと、他人を信用できなくなったこと、寂しいという感情がなくなったこと(これは利点もある)...それって親のせいも結構な割合あるだろう?と言ってやりたいのだけど、俺は恩で反すことにした。
両親が憧れていたであろう、でも手が届かずぶつくさ言っていたものをプレゼントした。
とても驚かれた。
両親の態度は一変した。
子供の頃、毎日いるだけで苦痛だった実家。毎朝親の顔を見るだけで心臓がキュッとなった。自分が家にいて親が帰ってくるときドアの鍵音でビクっとなる感じ。
あれらが嘘のように過去になった。
正直心の毒はまだ残ってはいるが、恨みつらみのやり返しを選ばなくて本当に良かったと思う。
女性って性欲ってあるのでしょうか?性欲がある女性にお会いしたことがないので、ドラゴンみたいなファンタジー世界の生息物でしょ?と思ってます。
リアルに、性欲のある女性のかたがいらっしゃったら、その気持ちや考えを書き込んで教えて欲しいです。
周りに女性は沢山いるのに、性欲に言及するかたや、抑えきれない衝動をお持ちの方が全くいないのか、不思議でなりません。女性の方が理性が働くのでしょうか?
確か中学の頃に夜中の衝動で1回やった以来だと思うが、1ヶ月ほど前、数十年ぶりにパイパンにした。
なんとなく、脇のついでに。
あ〜今パイパンにしてる〜、見られたらどうなるだろう〜とは思ったが、今すぐは誰にも見られることはない。
最初はちくちくしたが、すぐに気にならなくなった。
普段からボクサーや緩めのニットのパンツが多いので、生地から出てくることもなかった。
ただ、こういうことしてる自分にすこーし背徳感があったし、シャワーを浴びるたびに鏡でうっすら(風呂場の鏡は見づらいよね?)見えるから、いけない事してるんだ!みたいな。
で、さっき、今日また脇のついでに下もやった。
多分、これからちょいちょいやると思う。
まぁ、いつかは見られたいよね。
ごめんしてくれやで。
https://anond.hatelabo.jp/20241008093927
小学1年生の娘がいるんだけど、一緒にゲームしてる時とかで娘が先にクリアしたりすると、「こんなこともできないの?クズだね。」とか私に暴言を吐いてくる。
親にそんなん言うのはとんでもない話だが
攻撃性の程度やしつこさによっては友達同士の言動だとしても問題がある。
その時は「言葉遣いが悪い。もう二度と人をクズとか言うな」と注意して、一緒にゲームをするのを辞めてしまい、娘もしょんぼりして反省してるようなんだけど、数日経つと、また同じような暴言を言ってきたりする。
衝動性が強く抑えが利かない?
強く叱責されてもやめられないのは
それなりに問題の度合いが強い特異な子のように思える
許せないし、娘の顔を見たくもなくなっている。
あっ親だ!
だ。
要するに子供を主眼に考える。
この子に何が起きてるのだろう、
この子にどうしてやるのがよいだろう、
と。
でもこの増田は違う。
が話の焦点なのな。
こいつが気にしてるのは徹頭徹尾そこ。
私が子供の時は同級生で悪口言ってくる奴がいてツライ思いしたが大人になって、そんな悪口言う奴は周りにいなくなった、やっといなくなった、と思ってたのに、またかよ、またこんな奴(娘)を相手にしなきゃいけないのか、とゲンナリする。
あっ親だ!
な?
私私私。こんな奴。
客観的に見りゃこいつも十分「こんな奴」だろw
この増田はそもそも人間未満の生物相手に保護者とか教育者とかの立場になる準備が出来てねーわ。
じっさい文章に親としての責務とか子供の心配とか一回も出てこねーんだもん。(そういうのって偶然じゃねーぜ)
私の心が狭すぎるんだと思うけど、もう子供の顔は見たくない。
そんなわけねーんだよな。
人格的に未熟な奴とか
一生成熟できない奴とか
そういうやつもなんとか親をやれるようにオキシトシンとかで脳がバグるようになってるんだけど
そういう働きもうまく行かないなんてことざらにあろうし、こんなやつもそらいるよな。
離れた立場から見れば変な奴から変なガキが再生産されてるだけで何一つ不思議はねーんだけど
当人の頭は「私私私」だから適切な改善策もとれずにこのまま生きそう
適切な言い方するならやや社会で生きづらい特性を持った人のもとで似た特性の子が育ってるかもしれない状態
無理なトライはせず周囲を頼ってほしい
過去の高校時代なんて今や他人事だから、学校サボるってなんかエモーショナルな体験だよな〜〜
「サボり」の実績解除をしときたかったけどもう取り返しがつかないぜ〜〜
くらいの感傷なのかもしれない。
それでも時々、そういう青春のテンプレート的勲章への未練ではなく、その時その瞬間に抱く感情ってどんなものだったんだろうなって思う。
高校まで、青春のエモーションとかそういうのが嫌いだった。青春とか口にする大人が大嫌いだった。
過ぎ去った時間への感傷を、今まさにその瞬間を生きている他人に向けて気持ちよくなってんじゃねえよゴミカス。テメーの後悔も懐古もテメーで抱えてろ。って思ってた。
もし自分がそうなってしまったら死んでくれと今のおれに呪詛を送っていたけど、受け止められなかったな。すまんこ。でもお前のせいで色々損もしてるからな。
まあそれも含めて、テメーの生き方の全てを肯定したい。まさにそういうのが滅茶苦茶嫌われそうだけど。
当時の自分がサボりを求める心はそういう「青春体験」を意識したような、どこか俯瞰的で冷めてるものではなかったと思う。
サボるという発想自体は無い訳でもないけれど、自分の行動コマンドの中にはない。
コケ脅しと分かっていても、「誰のおかげで」「お前の意志で通ってるんだろ」「嫌なら辞めても良いんだぞ」みたいな言葉は胃が痛む。
よりもいの1話は本当に刺さった。友達に欠席の偽装工作を頼んで、意を決してサボろうとしたけど結局サボれずに遅れて学校へ行ってしまう。まさに自分が思い浮かべていたような、でも結局実行は出来なかった、等身大の描写。
きっとおれが本当にサボれていたとしても、居心地は悪かったと思う。
遊ぶにも遠くへ行くにも金はいる。そもそも学校に辟易してサボっているのだろうから、そんな気分にはなれないだろう。
きっと着信に怯えながら、せいぜいブックオフで立ち読みでもして、マックか図書館にでも籠もって、これなら学校行ってた方がマシだったと思ったのかもしれない。それか、開き直って楽しむ事も出来ない自分が嫌になるか。
まあそういうサボり方だったとて、それはそれで実行出来ていれば美しく脚色された後暗くもエモーショナルな青春の思い出になってたのかもしれない。
実際部活をサボって多摩川をチャリで下ったり高尾山登ったり、都心を目指して線路沿いを延々歩いた思い出は今も輝いてる。ただ当時の気持ちをしっかりと思い出せば、それも悶々とした気持ちを抱えながら歩いてた。
マンガの主人公みたく、河川敷にでも行って空を眺めるような生き方は出来なかったな。
マジメをよいこと、ストイックであること、誠実であることとの言い換えを可能にするような意味合いで使うのなら。
でも単に怒られるのが嫌だからではなかったのかもしれない。
実際大学ではサボりまくった。サボったけれど、冒険は出来なかった。
電車に揺られながら、このまま根府川にでも行って電車から海を眺めようか。いっそ鈍行で長野まで行って蕎麦でも食ってやろうか、という衝動に駆られはしたけれど、一度も実行には移せなかった。
突発的なサボりの日は大抵ゲーセンにでも吸い込まれるか、そうでなければ家で過ごした。都内を少しだけ遠出することもあったけれど、悶々とした気持ちが膨らむばかりであまり楽しめなかった。
今も上野とか行くと、衝動的に新幹線のってどこかへ行きたくなる事がある。でも行けない。
今も昔も、怒られたくないとか金や時間がないとか、もっともらしい理由はいくらでも挙げられる。ただその遠くへ踏み出せなくなるような重力の発生源は、もっと根源的なところにあるような気がする。
それのおかげで人は「まとも」に生きられるのかもしれないけど、たまには振り切ってみてえよ。
【前提】
事業の将来性のなさから数年前から漠然と転職を考えていたところ、理不尽に異動させられてイラっときたので半ば衝動的に転職活動を開始。
思った以上に順調に進み数か月で一社から内定を得る。年収もアップすることから転職を決意。
「JTC歴が長いので『脇を固めながら合意形成を図っていく』スタイルに慣れているので、ベンチャーよりもJTCに適性があると思う」
という割と思っていることをそのまま面接で伝えたら、評価されたというかカルチャーに合致していると判断されたっぽい。
業種としては完全に畑違いではあるが、元のJTCもジェネラリスト育成とかいう名目で畑違いの部署に飛ばされる事が多く、
その中でもキャッチアップしてきた経験もあるのでまあなんとかなるだろうと判断。
【結果】
入社して数か月が経過した。
業種の違い、企業文化の違いについて苦労はしているもののまあ想定の範囲内。
思った以上にしんどいのが、人間関係が0からスタートということ。
人間関係がないと、表の調整はできるけど裏の調整ができない。
JTCなんて事前の段取りが9割なので、
・ 「〇〇の会議の非公式議事メモ入手しといて」みたいな上からのオーダーへの対応
・ 「今度うちの部長から〇〇の件でそちらの部長に話いくからそれとなく事前に話いれといて」みたいな根回し
こういった転職前であれば問題なく対応できていたことが(誰にお願いすればいいんだ...?)となり全くできない。
(もちろん転職前でも全ての部署に知り合いがいたわけでもないが、その部署の知ってるやつから「誰だったら話通じやすい?」みたいな事前リサーチができた)
そう、自分はこんな匿名ダイアリーを書くほどであるから基本的にコミュ力が低い。
仕事は人並みにできると思うので、前職では20年弱仕事してきてきた結果として人間関係があっただけであり、
転職先でサッと人間関係築けるようなコミュ力を持っていないことに気づいていなかった。
前職でも事業所をまたぐ転勤とかすると人間関係はほぼ0からのスタートとなっていた訳だが、
「転勤前の職場の上司が〇年前にお世話した人」みたいなのがいたりして、全く0ということは少なく、
そういったところを突破口にして人間関係を広げていったりしたものだった。
ただし転職ともなると本当に0からなので、思った以上にしんどい。
転職先は元々純血主義の強いJTCで、なんとなく世の中の人材不足的な流れの中で中途採用をはじめたっぽく、
「みんなが薄く知り合い」であることを前提で物事が進んでいる気がする。
JTCなので、先輩の仕事ぶりを見ていてもそこまで求められているレベルが高いとは思わない。
円滑に業務をまわすことこそが求められている風潮がある。だからこそ、それをできない自分がなんとももどかしい。
若い世代で転職が増えているというのは、そもそも人間関係の貯金がないというのも大きいだろう。
今の仕事は簡単に言えばデータ入力のようなもので正直誰でもできるし、そこまで難しくないと思う。
けれど見落としたり、思い込みで動いたりして変なものを作ってしまう。
手順を抜かしたり忘れたりはよくあるし、質問リストを作って管理してもよく考えず衝動的に質問してしまうので同じことを聞いて怒られたり。
何度か繰り返していれば慣れることもあるが、慣れる頃には案件が終わる時期だったりすることもよくある。結構案件によって細かい部分が変わるため新規案件のたびに1週間はごちゃごちゃとミスを繰り返している。
なんか私にだけあたり強いな……いじられキャラと思われてるのかな……と思ってたんだけど私の仕事ができなさすぎるからかも!と最近気づいてきた。遅すぎる。
あと人間関係の面でも、思い込みの激しさとプライドと攻撃性の高さからすぐに言い返したり言い訳をしてしまう。否定されるとヒスってしまい、その後私が悪いと気づいても口に出してしまってるしもう終わり。
同期は私よりも年下の人が多いが、とてもしっかりしていて、頭も良く、字が綺麗で羨ましい。私もどうにかしたい。
これまでの人生友達は少ないもののそこまで不自由せず大学院までスムーズに進学したが、所属したラボが結構ブラックなところで適応障害を起こし、精神科受診。その際発達障害の検査を勧められADHDと判明。
鬱の時は受けられないからと知能検査は受けてないんだけどワーキングメモリ低そうだよねとその時の主治医には言われた。
鬱がなんとなく治った気がしたのと、働いてないとおかしくなりそうだったから就職して、引越したから今は通院してない。
一番最初に派遣社員として働いてた時は遅刻とか社員証忘れが多いのを注意されてたものの業務は特に問題なく勧められていた(と自分の中では思っている)
その時は検査員をしていた。
その後正社員として今の会社にいるが、仕事内容があってないのか私が無能すぎるのかいつも怒られてるし誰とも仲良くないし早く辞めたいと思ってしまっている。
今の会社では遅刻しなくなったし社員証忘れる頻度も減ったので働くコツは掴めてきていると思うけれど、とにかく仕事ができない。
どうしたらいいんだ〜
まずはきちんと通院して服薬かな。でもちゃんとした保険入りたいから精神科通院歴作りたくないよ〜
助けてくれ
こっぴどく叱られて勢いで書いた文だけど色んな人に見てもらえたようで嬉しいです。
よくある反応に答えていきます。
・なんで通院&薬飲まないの?
適応障害とADHD診断受けてからまだ5年経ってなくてちゃんとした保険入ってから通院しようかなと思ってます。
あと生活圏内の精神科や心療内科は評判悪いところ以外初診受け付けてなかった。
学生の頃は結構黙々と作業するの得意だったのでいけるかな〜と思っちゃいました。
あと一応技術職として入社してて、色々と体制が変わり当初の予定よりもかなり事務っぽい仕事になっちゃったのはある。
・配信者やれば?
昔やってたことあってそれなりにいい思いもしたけど今からやるのはレッドオーシャンすぎない?
・営業向いてそう
性格がカス&不注意強めなので免許更新のたび違反者講習受けています。社用車で事故るの怖い!
・結婚しちゃえば?
一人暮らししてると、よくうっかりでボヤ起こしたり死にかけたりしたのでリスク管理としてかなりあり。
でもそれに巻き込まれても許してくれるような人はもっとちゃんと幸せになって欲しいから結婚はないな〜
これめっちゃやってます。心の中でやってるけど側から見るとぼーっとサボってるやつなので最近はわーっと書き出してる。
あと「何か忘れてることを忘れる」ので毎日なんでもない時間にアラームかけて行動振り返るようにしてます。ほんのりマシになっている気がする。続けよう。
これに関してはタイトルに「仕事ができないADHDを〜」って書いた私が悪いが、多分会社の人に嫌われてるのは注意欠陥によるミスの多さよりも性格に難があるからだと思う!
機嫌のいい人を心がけたいけど快不快関係なくリアクションがでかいのでフラットな対応ができない!あと多分被害妄想とかも酷い!本当はADHDよりも先に認知の歪み直したり思考を変えないといけないんだろうな〜とは思う。本とか読んでみます。
読もうとしてはあらすじに出てる「筆者の自我」にイライラしてあまり読めないからいつまでもアンガーのマネジメントができない。今度腹括って読んでみます。
以上!
書き出したりみなさんの意見聞くことで「このままでもいいか」と思えた部分もありましたが、やはり人に迷惑をかけまくってるな〜と実感できたので、高くてもいいから現状で入れそうな保険探して、保険に入れても入れなくても半年以内には通院(とできれば服薬も)できるように環境整えようと思います。
ありがとうございました。
もし、医者からグレーと言われても不眠の症状があれば医者から薬をもらったほうがいい
依存症になりやすい人は不思議なことに加味帰脾や湯帰脾湯、黄蓮解毒湯+四逆散、半夏瀉心湯、女神散、六君子湯+四逆散などの漢方を飲むと衝動性が消えて、酒のことなんかどうでもよくなるし、よく眠れるようになる
(医者からストラテラやコンサータを貰えるなら、これらの薬と併用したほうがいい)
なぜか知らんが気晴らしになる
この詩は、人生の不安定さや葛藤、個人のアイデンティティを模索する苦しみをテーマにしています。また、現実と理想、社会的な期待と個人的な願望の間で揺れ動く様子が描かれています。以下、いくつかの重要なテーマについて解説します。
1. 空と涙
• 「空の青さが 涙の滲んだ跡なら」と始まる部分は、空の青さを涙の象徴として捉え、個人の苦しみや感情が広がっているように表現しています。空が涙のように広がることは、内なる悲しみや孤独を示唆しています。
• 「方々世界のプライドは 微かな日常すらも重いだろう」とあるように、世界の誇りやプライドが、日常のささやかな瞬間を重く感じさせているという認識です。これは、社会的な期待やプレッシャーが、個人の日常生活を圧迫していることを示しています。
• 「納得のできる生き方など 死に方さえも人それぞれならば」といった表現では、各自が異なる人生観を持っていることを認めつつ、それでも何が正しいのかを問いかけています。自分の選んだ道に対して確信が持てない感情や不安を表しています。
• 「プレッシャー抱えた年下は 愚直に幼さを包み隠してる」との記述は、若者が社会的なプレッシャーにさらされ、まだ未熟でありながらそれを隠そうとする姿を描いています。年齢に関わらず、誰もが不安を抱えながら、社会に適応しようともがいているという認識です。
5. 行き先の不確かさと解放
• 「納得に代わる行き先など 後押しさえも矛盾の塊で」といった部分は、どこに向かうべきか、どの道が正しいかさえもわからない中での混乱を示しています。矛盾した社会の現実に直面しながらも、「いっそ全て抜け空だと 伝えようぜ僕ら」と、すべてを解放し、空っぽになることで何かを見出そうとする姿勢が描かれています。
• 全体を通して、個人が自分の感情や理想と現実のギャップにどう向き合い、何を大切にすべきかを模索している様子が感じられます。特に「夜闇の安らぎを消して 朝を背に泣きながら」といった表現は、暗闇から逃れ、朝という新たな始まりに向かってもなお、涙を拭えない人々の苦悩を表しています。
総括
この詩は、現代の社会で生きることの複雑さ、プレッシャー、そして自己の存在意義を問いかける作品です。感情や悩みを隠すことなく、むしろそれを正面から受け入れながら、未来に向かって歩んでいく決意を描いています。詩全体にわたる「空」と「涙」という象徴は、広がりと同時に内面的な深さを示しており、人間のもろさと強さを同時に感じさせます。
「抜け空(ヌケガラ)」というタイトルと「抜け殻」をかけていることを踏まえると、詩の意味がより深く理解できます。以下、その観点から解釈を深めます。
1. 「抜け殻」の象徴
• 「抜け殻」は、何かがそこから抜け出し、もぬけの殻になった状態を意味します。この場合、自分自身の精神的・感情的な中身が抜けた状態、つまり、かつての自分や社会の期待に囚われていた状態から解放されたことを象徴していると考えられます。
• 「ヌケガラ」になることは一見すると虚無的であり、空っぽになることはネガティブに感じられるかもしれませんが、この歌詞ではむしろ、その空っぽさや虚無を新たな始まりや解放の象徴として肯定的に捉えているように思えます。
2. 「抜け空」=「空っぽの空」
• 「抜け空」という表現は、ただの「空っぽ」ではなく、空という無限の広がりや可能性を持つものを指しているようです。空というのは無限に広がっており、可能性や未来を象徴する一方で、何もない「空虚」をも意味します。
• この「空っぽの空」は、今までの自分や他人の期待から解放された状態を象徴していると考えられます。つまり、何もない「空」は、逆に言えば新しいものを受け入れる準備ができている状態であり、これまでの自分を脱ぎ捨てた「抜け殻」としての自分が、新たな可能性や未来を受け入れようとしているのです。
3. 殻を破る=自分の殻を脱ぐこと
• 歌詞の中で、「羽化不全の翅で藻搔く」や「蛹の衝動で溺れたい」といった表現があります。これは、殻を破る準備ができていない、あるいはその過程で苦しむ姿を描いていると解釈できます。蛹は蝶に成長するために殻を破りますが、もし「羽化不全」であればその過程がうまくいかず、もがき苦しむことになります。
• しかし、この「抜け殻」になった後は、もがきから解放され、羽ばたく準備が整った状態として捉えられます。つまり、自己の変化や成長、さらにはその過程での痛みや葛藤を経て、「抜け殻」として新しい自分を迎える準備が整っているのです。
• 「納得のできる生き方など 死に方さえも人それぞれならば」という歌詞は、人生や生き方に明確な答えがないことを示唆しています。つまり、自分が納得するかどうかは個人の問題であり、社会が押し付ける価値観や期待に応じる必要はないというメッセージです。
• 空っぽになることで、つまり「ヌケガラ」となることで、逆に自由を得て、自分だけの答えを探すことができるのです。「いっそ全て抜け空だと 伝えようぜ僕ら」というフレーズは、その空っぽさを受け入れ、自分を縛るものから解放されようという呼びかけと捉えることができます。
• 歌全体を通して「空っぽでいること」や「ヌケガラでいること」が単に無力感を示すものではなく、むしろ自己の解放や再生の象徴であることが感じられます。空っぽの状態だからこそ、新しい可能性が無限に広がっている。そこから、次のステップや新しい自分に向かうための余白が生まれます。
• また、「朝を背に泣きながら」という表現は、苦しみや痛みを抱えながらも新たな一歩を踏み出そうとする姿を描いており、ヌケガラとしての自分が新しい一歩を踏み出す瞬間を表現していると言えるでしょう。
総括
「抜け空(ヌケガラ)」という歌詞は、単に「空っぽ」や「虚無」を表現しているのではなく、抜け殻になることで新たな可能性や自由を手に入れるプロセスを描いています。殻を脱ぎ捨て、空っぽの状態になることは、自分自身や周囲の期待、社会的なプレッシャーから解放され、新たな道を模索するための準備段階です。
この「ヌケガラ」とは、以下のような象徴として捉えることができます。
• 「抜け殻」になることで、過去の自分や制約から解放され、次のステージへ進む準備が整う。これは、殻を破ることで成長し、新たな自分に生まれ変わる過程を示唆しています。
• 空っぽな状態は一見すると弱さや虚無に感じられるかもしれませんが、この詩ではむしろ、それが自由であり、無限の可能性を秘めた状態として描かれています。すべてを手放し、何も持たないことで、逆に新しいものを受け入れる余白ができるのです。
• 詩全体を通して、社会的な期待やプレッシャーから解放されることの重要性が強調されています。自分の「納得できる生き方」は他人に決められるものではなく、空っぽになって初めて自分自身で見つけ出すことができるというメッセージです。
• 「同じ空が広がってんのさ 胸に広がってんだ」というフレーズからも、空っぽであることが新しい視点を得るための出発点であり、同じ世界でも別の見方や解釈が可能になることを暗示しています。過去の枠組みを超えて、新しい未来を模索する自由がそこにあるのです。
結論:
「抜け空(ヌケガラ)」は、空っぽになることの価値や、それによって得られる自己の解放と新しい可能性の象徴です。殻を破り捨て、空っぽになることで、個人は新たな未来に向かう準備が整い、自由を手にすることができるというポジティブなメッセージが込められています。
第百八十一条第百七十六条若しくは第百七十九条第一項の罪又はこれらの罪の未遂罪を犯し、よって人を死傷させた者は、無期又は三年以上の懲役に処する。
2第百七十七条若しくは第百七十九条第二項の罪又はこれらの罪の未遂罪を犯し、よって人を死傷させた者は、無期又は六年以上の懲役に処する。
不同意性交の結果、人を死傷させても最高刑は無期懲役のため、死刑にすることは出来ません。
社会復帰が必要ないと考える場合は、法改正により最高刑を死刑にすべき、もしくは仮釈放なしの終身刑を導入すべきと書くのが適切です。
化学的去勢が死亡率の上昇につながるという科学的根拠はありません。また死ぬのであれば化学的去勢も物理的去勢も無意味であることから、去勢後すぐに死んでほしいという意味ではないと考えられます。
ということは「去勢によって性衝動を抑えた状態で生き続け、その状態のまま死んでほしい」という意味にとるのが最も合理的な解釈です。しかし一般的に人間は必ず死ぬので、最後の「死ね」という文言は無意味です。
先日、『自分が降りるまで階数ボタンを押さない』警戒行為に遭遇した
もうオッサンと呼ばれる歳だから仕方ない事だとは言え、自分より二回りは上であろう異性にそういう事をされると
「そんなに見境ない様な不審者に思われたのか…」となるとさすがに一日気分が悪くなる程度は凹むし傷つく。分譲なのに
大多数のまともな男性にとって警戒行為とは普通に失礼な行為なのだから
その行為を行う事を多少なりとも申し訳ないと思ってりゃまだマシなんだろうけどさ
世間の声を見れば「男が私達に警戒させるのが悪い!警戒するのは当たり前!自業自得!」ってな感じじゃん
無関係な糞野郎の、唾棄すべき性犯罪者と同一視されて、性犯罪者予備軍呼ばわりされて連帯責任を取らされている上に
まともな人間でも、いや犯罪とは程遠いまともな人間だからこそ、犯罪者予備軍扱いされる事に不満とストレスが蓄積され爆発しそうな衝動が少しずつ溜まっていっている
せめて女性は、いや女はさ、『加害者の顔』を知ろよって思っちゃうよね、さすがに
自分が大人しそうなオッサンだからやってんでしょ?二回りは年下、子供ぐらいの異性に対して警戒行為でハラスメントして楽しいのか?
世界が五分前に生まれたということはどういう事か分かりますか?
仏教徒の皆さんは「この世界はシミュレーテッド・リアリティに過ぎないから色即是空なんだ」とおっしゃるでしょう。
キリスト教徒の皆さんは「神がこの世界をお作りになったのが五分前なのです」とおっしゃるでしょう。
私の論点は、実はそこにはありません。
つまりですね。貴方が東大卒だとしてもその学歴は「貴方が何年も頑張って勉強して手に入れたもの」ではなく「何年も頑張って勉強して手に入れたという設定により手に入れたもの」だということです。
もしも貴方が自業自得の事故で五体不満足であってもそれは「貴方の不注意によって生じたもの」ではなく「貴方の不注意によって生じたという設定により生じたもの」だということです。
これについて「何の罪もないのに不幸ならば、それはあまりにも理不尽だ!」と思うかも知れません。
自業自得だと思えば耐えられたものが、自業自得で無かったと考えたら耐えきれなくなる人もいるかも知れません。
ですが考えても見てください。
過去の貴方はもう既に今の貴方にはコントロールしようがない他人なのです。
現代社会では多くの人がもうすでにコントロール出来ない過去に対しての後ろめたさから前を向けなくなっています。
仕事が上手くいかないのを「過去の自分が頑張っていい会社に入らなかったせいだ」と悔やんだりしても、それに何の意味があるのでしょうか?
人間関係が上手くいかないのを「子供の頃からもっと人付き合いの勉強をしていればよかった」と悔やんでも、それは過去の自分への八つ当たりのようなものではありませんか?
過去は五分前に作られてしまった設定なのでもうどうしようもありませんが、未来は現在の自分によってある程度コントロール可能な領域です。
「その考え方をするのに別に五分前仮説は必要ないのでは?」というのは正論ですが、人は正論にそのまま従えるほどに賢い生き物ではありません。
「過去はもう過ぎ去ったから仕方がない」と信じるためには、過去の自分と今の自分を決定的に切り離されなければいけないのです。
そのためには世界観に「巨大な仕切り板」を作ってやることが効果的なのです。
もしも、貴方が見にくく太っていたとしましょう。きっと貴方は過去の自分が自分で許せないという気持ちで日々を生きるでしょう。
ですがもしも、それが五分前に作られた設定だったらどうでしょうか?
自分で自分に攻撃することをやめれば気持ちに余裕が出てきます。
すると今度は他人の悪癖さえも「五分前に作られた設定に引きずられているだけなんだから仕方ないな」と許せるようになるでしょう。
もちろん「俺は五分前に連続殺人鬼として作られた人間なのだから殺人衝動も仕方がないのだ」と暴れまわる人は当然のように逮捕されます。
世界がそういう設定であるから仕方がないと人を許すことと、世界に設定された法律が無条件に人を許すことは全く別だからです。
五分前仮説を信じる世界とは、裁かれるべき罪がフラットに裁かれ、その上で人の心が不必要に裁かれることがない社会なのです。
その社会において人々は他人が法によって裁かれるべき存在であるならば淡々と裁き、私情によって私刑を加えられそうであれば許していけるわけですから、本当の意味での法治国家がここに産まれるというわけです。
ですが多くの人は仮説という表現につられてこれをただの思考実験と捉えてしまっています。
違うのです。
「天賦人権論」が単なる論では終わるものだと考えている人は現代にはほとんどいないでしょう。
「天賦人権論」はある種の信仰、それも20世紀的な社会の土台となる新世代の教義とも言えるものです。
ですが、これが社会に浸透するまで、多くの人はこれを「仮説」として捉えていたのです。
「世界五分前仮説」には、「天賦人権論」と同じく、新世紀を代表する宗教となれるだけのポテンシャルがある。
私はそう思います。
なるほど。
なんで私がこんな増田を書こうとしたのかよく分からないのですが、そういう設定の人間として社会に生まれたのなら仕方がないですね。
貴重な月曜日のアフターファイブをドブに捨てたような気もしますが、書いている状態で始まってしまった人生を書き終わらせずに続けるのもおかしな話ですから、書ききったことに後悔はありません。ありません。ない。ないです。
っていうけど、
自殺率が高いほど恵まれなくて辛いなら、日本人の方が発展途上国の人間よりも恵まれてないことになるぞ
幸福度も同じ。世界一幸せな国ブータンがネット解禁されただけで下がるような代物だぞ
イスラムみたいな男尊女卑の国ですら男の自殺率が高いんだから、そんな単純なものだと思えない
男は拳銃や飛び降り自殺など、成功率の高い方法で自殺するが、女は手首切ったり薬飲んだり、成功率の低い方法で自殺する。なぜか世界共通で
中国で例外的に女性の自殺率が高いのは、中国では強力な殺鼠剤を使うかららしい