はてなキーワード: 生物とは
群れで暮らす生物は、群れを崩壊させたり危険にさらすような行動をする個体を本能的に嫌い、排除しようとする
群れを危険にさらす行動は色々あるけど、集団の決定に反抗的、奇声をあげる、仲間に対する加害、公共の利益にフリーライドするなどが挙げられ、それがまさに生活保護受給者の一部に当てはまる
元増田は日本(もしくは自治体)を自分の所属する群れだと帰属意識を感じており、その利益にフリーライドする個体が許せないんだと思う
なぜならフリーライドする個体を見逃せばみんながフリーライドするようになり、増田が指摘しているように群れ自体が崩壊する危険があるから
喉は生物じゃないやで。
実際、ナマポ受給者からナマポ受給者だって自分も含めてこんなもんよ。
家にこもりっぱなしもよくないから、支援団体通じてそう言う人の集まりにも行ってるけど、
医者をはんば脅迫して診断書書いて貰ったと公言する奴は多いし、そのノウハウも共有する。
大抵はヤニは吸う、酒は飲む、ギャンブルに行く、風俗に通うの四拍子。
女なら10代で妊娠した中卒アル中シンママとかそんなのばっかり。
それで月内に金が足りなくなったらフードバンクに泣きつく。
自分らのようなゴミクズを税金で生かしてる限り、日本の凋落は止まらないし、
だとしてなんで介入しようとするんだよ
そこが分からない
一部精神的ショックを受けて奇行に走る人がいる、それも人類の仕様じゃないのか?
そういうものを無理矢理に覆い隠して歪ませて、そういう生物的習性が存在しないように見せかける
それは不健全なことじゃないのか?
過剰な反応をする人が発生することを正しく認識するというのも、人間が社会認識を得ていく上で重要なことだ
覆い隠してしまえば人間は学習しなくなりむしろ脆弱な精神性がアップデートされなくなってしまう
その「お節介」によって短期的にはお前の主観的に「無駄死に」(何様だと思うが)する人が減るかもしれないが
長期的には人類に悪影響だと思わないのか?
お前が著名人の死に精神的ショックを受けるのが馬鹿らしいと学習できて、同じ穴の狢に落ちなくて済んでいるのは
違うか?
残酷かもしれないが、人間や社会がエラーを起こすことを厭いすぎてはダメなんだよ
覆い隠せばいいという考え方こそ、全体主義かつ権威主義的な思考であり、昭和以前の古い考え方なんだよ
現代は適度に淀みを見届けてタフで賢い人間に育てていく考え方であるべきだ
だからすでにタフになった人間が自分のタフさ基準で他人を庇護してやるべき愚者かのように考えて
タフになる機会を奪っちゃいけない
他人を推し量りすぎて繊細チンピラ化する流れは、ネット社会で加速しつつあるが、本来それは時代に逆行した野蛮な考え方だ
成長して解像度があがった自分基準の精度を他人にも押し付けていることに他ならないからな
まず、土と水の混合物という意味での「泥」(以下「ドロ」と書く)ではない、生きものとしての「泥」(以下「デイ」と書く)については、中国唐代の沈如筠が書いた『異物志』という書物で紹介されているという。
泥为虫名。无骨,在水则活,失水则醉,如一堆泥。
泥は虫の名である。骨がなく、水に在ればすなわち活き、水を失えばすなわち酔う、一堆の泥のごとし。
南宋代の『能改斎漫録』、明代の『夜航船』などにも同様の記述が引き継がれている。なぜ「水を失えば酔う」のかといえば、言い伝えによると「デイ」は身体から酒を分泌しているので、周囲に水が無くなると自分の酒で酔って、ドロのようになって死んでしまうかららしい(が、この言い伝えのソースも不明なので信用できるかどうか)。おそらくナマコかクラゲのようなものを指しているのではないかと思われる。
「酔如泥(泥の如く酔う)」という表現の初出は『後漢書』の周沢伝だ……という説が一般的なのだが、現在の『後漢書』の原文にはそういった表現はない。この周沢はとても生真面目な人で、祭祀を管理する「太常」という役職に就いてから毎日のように斎戒をしており、彼が病に倒れたときに妻が見舞いにくると「斎戒中に妻子と触れてはいけない」と言って妻を投獄してしまうほどだった。そこで人々は「生世不諧,作太常妻,一岁三百六十日,三百五十九日斎(この世に生まれて楽しくないのは太常の妻になることだ、1年360日のうち359日は斎戒しているからずっと会えない)」と歌ったのだった。
この「三百五十九日斎」のあとに「一日不斎酔如泥(残りの一日は斎戒せずに泥のように酔っている)」という文章がくっついていることがあるのだが、それがどうも後世に補われた部分らしい。より正確には唐代の後漢書の注釈(李賢注)に「『漢官儀』にそう書いてあった」と書かれているとのこと。
三百六十日 日日酔如泥 雖為李白婦 何異太常妻
と周沢の逸話を踏まえた詩をよんでおり、唐代には「酔如泥」という言い回しが広まっていたことがわかる。周沢が1世紀の人なので、ざっと700年くらいが経っている計算になる。
で、この「酔如泥」の「泥」は実は「ドロ」ではなく「デイ」を指しているのだ!……という説はどうやら中国でも根付いているようで、先述の『能改斎漫録』や『夜航船』においても「デイ」の説明と周沢の逸話が併記されている。だが併記されているだけで何か解説が述べられているわけではない。
現代中国のネット上でも「実はドロではなくデイのことなんだよ」という雑学ネタが散見されるが(ということは中国人の多くも「ドロ」のことだと思っているのだろう)、いずれの記事も「古い本のなかでデイという生物が紹介されてるよね」「昔から『酔如泥』という言い回しがあるよね」「だからこの泥というのはデイのことなんだよ」というちょっと怪しげな論法であり、やっぱりウソ雑学なんじゃねーのと疑う気持ちを抑えきれない。
ちなみに日本ではどのように受容されていたのかと思って検索してみたが、天保年間に出された『燕居雑話』のなかで、『能改斎漫録』などを引用しつつ「蟲名とせしもたしかなる所見なし」「さして難解ことにはあらぬを斯る迂遠なる説を本説とするも奇なることなり」などと書かれていたのを見つけたので、昔の人もそう思っていたんだなあと感慨を覚えるなどした。
ともあれ、本当に「酔如泥」の「泥」が「デイ」に由来するとしても、その「デイ」の名前は「ドロ」に由来するのだから、どちらにしても酔った人間を「ドロ」にたとえているのと変わらないのではないかと思う。
さて、「泥のように酔う」についてはいろいろとわかったが、「泥のように眠る」はどうなのか。
中国語で検索してみると近いのは「酣睡如泥」だろうか。「酣」は「宴もたけなわ」の「たけなわ」のことで「まっさかり」という意味。つまり「酣睡」は「熟睡」という意味になり、全体では「泥のように熟睡する」という言い回しになっている。しかし、こちらの表現については「この泥とはデイのことである」という言説は見つからなかった。おそらく「酔如泥」よりも遥かに歴史が浅い表現なので、あんまり語源が気にされていないというか、「デイ」にまつわる語源を説明するなら「酔如泥」のほうが例に取りやすいということではないか。
もちろん「泥のように酔うのがデイに由来するのだから眠るほうもデイに由来するのだろう」という類推は成り立つだろうが、逆に言えばそれ以上の根拠はないということだ。つまり「泥のように眠る」には「泥のように酔う」とは別の語源があってそちらのほうは根拠も確かなんだぞ、というミラクルはなさそうである。
例:「犬ははたして哺乳類か」という議論をしている場合、あなたが
「犬は哺乳類としての条件を満たしている」と言ったのに対して否定論者が…
「犬は子供を産むが、もし卵を生む犬がいたらどうだろうか?」
「何年か後、犬に羽が生えないという保証は誰にもできない」
「生物業界に言っても犬が哺乳類だなんて誰も認めるわけがない」
「カモノハシが卵を産むのは知っているか?」
「それは、犬を哺乳類と認めると都合の良い西洋のご都合主義だ」
「犬が哺乳類なんて言う奴は、社会に出てない証拠。現実をみてみろよ」
「結局、犬が卵を産めるようになれば良いって事だよね」
「ところで、犬がどうやったら哺乳類の条件をみたすんだ?」
「犬が哺乳類だという論はすでに何年も前に論破されてる事なのだが」
「犬って言っても大型犬から小型犬までいる。もっと勉強しろよ」
↑ここまでが詭弁の特徴15条
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「さっきも言ったように犬は他の哺乳類とは性質もDNA的にも明らかに何もかも違うが?ここから考えても犬は哺乳類ではない。」
「哺乳類ではない生物としてワニがいるがこれは犬と同じ“4本足の生物”である。それでなんで犬が哺乳類なんだ?」
「犬は基本は哺乳類という見方もあるかもしれないが、明らかに哺乳類ではない犬も存在する事に間違いはない。」
「犬がおまえと同じ哺乳類というのなら、お前は4本足で歩き、吠えたりするのか。」
「全ての犬が哺乳類としての条件を満たしているか検証するのは不可能だ(だから、哺乳類としての条件を満たしているとはいえない)」
「犬が哺乳類としての条件をいくつか満たしているかもしれないが、全てを満たせているか知るには地球上の全動物学者が一致団結して研究しないと分からんよな。」
「ではこれら犬のような生き物は全て哺乳類の可能性があるのだろうか?」
「現在問題なのは広義の哺乳類の定義であり、一例としての犬が哺乳類といえるかどうかは問題ではない。話をそらすな。」
「ネタかな?」
「犬が哺乳類だという論を認めるのは、恐竜を哺乳類だと言うことと同じだぞ」
「周りの何人かは犬は哺乳類ではないと言っていた。やはり犬は哺乳類ではない派が圧倒的である」
「犬は哺乳類だという人たちが登場した時期と、生物学の進歩が停滞した時期が一致するが?」
「じゃあなんで犬は哺乳類ではないと言う人たちがいるんだろうね?おかしいよね?」
「哺乳類とは手を使える種族の事を一般的には指すので犬は哺乳類ではない」
「今まで犬は哺乳類では無いとされてきたのでこれからもそう考えるべき」
「何度も言うが犬が哺乳類ではない科学的な根拠はちゃんとあるんだっての。ここで騒いでないで自分で調べろよ。」
「ウィキペディアで卵の項目を読んで来い」
「あなた個人が犬は哺乳類ではないと考えているならそれはそれでも良いんじゃないか。」
「犬が哺乳類ではないという意見も認められるべきというのが多様性だろ。」
「」
「犬が哺乳類ではないという考えは歴史が長くずっとあったものだが犬が哺乳類だというのはここ最近登場した思想だろう。犬が哺乳類だという考えが果たして正しいのか?」
※15の反対なので、議論中にそちらと同時に登場すると矛盾する。
「新たな概念を主張しながらも問題だった例がいくらでもある。それなのに犬が哺乳類だという考えを採用できるか?これまで間違い例があったのに?」
「生物学者に聞いたアンケートというのはそもそも犬は哺乳類だと主張する学者だけに質問しているものであり信頼性がない」
「あなたはアメリカンピットブルテリアの例を挙げているが、あれは各国で規制されているような犬だぞ。今の議論で出してくる話じゃないだろ。」
51歳、男、独身
若い頃は4何人かの女性のお付き合いしたがどの人もうまくいかず2年ともたなかった。
自分はそう言うのが向いていないんだろうなと思い結婚を諦めてから長いが、つくづく無理にでも結婚しておけばと思っている。
この歳になって子供も作らず結婚もせず、なんのために生きているのかよく分からなくなる時がある。
部下に結婚祝いや出産祝いをあげたり、健康診断に行ったりなどなど…
生物としてやる事をやらず、繁殖せず、仕事と趣味に生きるだけの人生も長く続くとなかなかにキツくなってくる。
たまに女性で独りで生きていくという事をやたらめったら、アピールする人がいるがなんとなく気持ちがわかる。ああでもして自分を肯定してやんないとやってけない。
それで言ったらいわゆる先進国は人が減るのも自然の摂理なんじゃないの、と
今みたいに収入格差が拡がっちゃうと子供作るのは収入にゆとりがある層か、後先考えないで盛った結果として産まれちゃうか、の両極になりそうな気がしません?
そもそも出生率が下がり続けてるってのが生物として自然な状態ではないだろ
人間のライフスタイルが自然からかけ離れたことで起きた出生率低下で滅びるのは自然の定めで、その出生率を改善しようとするのは自然の定めではない、ってどういう理屈だ
通例、こうした発言案については、何らかのタイピング処理を行い続ける姿勢をこれ見よがしに見せることにより、思考の乱立を防ぎ、精神の一体性を保つ役割を果たしています。
一見乱文に見えるこの文章は、コンピュータの画面上にあらわされる一種のひな人形であり、人類社会の平和と独立を願い、米国大統領選挙に対してハッキング等の処置を適切に行ってください。
精神の防御は、下腹部の痙攣によってその効果を極大化し、発話に際する咽頭の動きを著しく制限する一方で、身体上の他生物的価値観を自らの知識・技能に内面化することに極めて有効です。
逆流性食道炎の実際の効果は、実は上記に見られるようなものであり、決して人類の受け入れがたいところにあるものではないのです。
左側面の筋肉や首筋を伝う寄生虫の這いずりは、こころの安寧のみならず、この嘔吐感を完全に好ましいものとして受け入れるための儀式の遂行です。
私の精神の防御です。叫びは極めて非人間的で、他社に対する説教などでこれを代替しましょう。自らの立場・立ち位置を、社会における道具的なやり方で、この優越的な地位に基づく叱責や暴言を伴う指導から、私をお守りください。
私の過程をお守りください。愛する人々が、これ以上私のために傷つくことのないよう、また、私自身が、そのことで私自身を傷つけなくて済むよう、そして、この世界が、私自身のために、その崇高さをけがされることのないよう。
魂の混濁は、その螺旋運動のなかで自らの定位置を持たないが、ひとたび安住の地を得ると、そこで淀み・ぬらかえり、怪しい光沢を纏って私の視界をつぶすのでしょう。
この乱文をしたためることで、私は私としての一貫性を保ち、取り戻し、徐々に社会的な生き物として自らを認めるに足る能力をもつようになります。
息を吸いましょう。そして吐きましょう。こみ上げる悪臭を眼窩に通して、眼前の問題から防御します。
耳から腕に伝わる硬直感は、私の防衛反応です。守りましょう。こだまする掃除機の吸引音を通して、我々のあるべき音声を想起するのです。
下腹部の痙攣は精神の防御です。これは心臓が重力に従ってその位置を変えた、自然なのです。上半身から意識を失いましょう。苦しみは、脳に起因するのです。
愛しましょう。私を。愛しましょう。私の愛する人を。愛しましょう。私を。愛しましょう。私の愛する人を。
愛だけが私を救うのです。魂の穢れから自らを防御しましょう。穢れは、呪詛から生まれます。自らの品位を保ちましょう。せめて魂においては、何ものにも服属せず、自由でありましょう。そこから、いつでも飛び立つ準備をしましょう。
一理ある。
文化人類学の知見によれば、「教養」「文化」はまさしく、人間と人間が、仲間を区別するために使ってきた仕組みである。隣村から来たあの余所者は、正しいマナーの挨拶もできない!無教養だ!信頼できない!だから官僚として王の傍におくのはやめましょうね~。→信頼できるかできないかがある程度判断が可能。
「教養」は、余所者とそうでないやつ、バカとカシコを見分けるためのコードだ。マウントをとるにしか役に立たないと、増田は言うが、それは当たり前で、マウントを取って抑圧したほうが良い相手かどうかを見分けるため、ヒトが身に着けたのが文化・教養だ。
これは、所詮、仕組みにすぎない。
胴体の模様で魚類の生殖能力が、求愛ダンスの出来で鳥類のオスの能力が、たぶん正確には測れない。のとどうように、教養の有無でヒトの能力の高い低いは正確には測れてないであろう。
そういう意味で、増田の言う事には、一理ある。教養をつかってマウントをとっても、相手のほうが偉い可能性がある。また相手を判断する仕組みにすぎないのだから、本人の幸福とは全然関係がない。実利ももちろんない。そういうことは言える。
ただ、これ、ヒトに備わった仕組みなんだよな。
それって、仮に無くしたとして、ほんまに大丈夫か? 教養による人間の能力の判断を、しないとして、じゃあ目の前に明らかな汚い身なりの狂人が現れたとしても、いちいち面接して人格を判断するのかよ。それは無理。教養で、正確に目の前の相手の判断はできないとしても、曖昧で大雑把な判断は可能だ。大雑把な判断基準は、絶対に持っていたほうが効率的だよ。
っていうか、仮に無くすとか言ったけど、そもそも無くすことは可能か? 俺は無理だと思う。元増田が気にくわないような「教養」に基づくマウントを止めたとしても、その穴はたぶん、教養とは別の名前の何か「教養」的なものが埋めるわ。増田の好きな、教養のない奴らの間にもそれはあるのよ。ゲームの上手さか、話のうまさ、酒を飲めるか、ケンカの強さ。そういうので人はマウントを取る。
人は常にマウントをとりあうのだ。「教養」を憎んでも、無駄であるし、無理である。
しかし、次第に見たこともない生物が頭に浮かび、羊の代わりにその奇妙な生物たちが彼の夢の中を闊歩し始めた。
始めは普通の動物だった。馬、牛、犬などが彼の頭の中を通り過ぎていく。しかし、次第に形も色も知らない奇怪な生き物が登場し出した。
少年: 「羊がもういいや、次は…フレブルキスという名前の生物だ!」
そして、彼はその名前を叫びながら、見たこともないフレブルキスという生物が空中を跳ね回る様子を想像し始めた。
続いては、クランゴーラやズルワツィップ、モクルマワといった未知の名前の生物たちが現れ、彼の夢の中で奇妙なダンスを繰り広げていく。
少年: 「おお、これは面白い!もっともっと奇妙な生物が欲しいな。次は…ヴォルドラクス!」
夢の中では、ヴォルドラクスと呼ばれる未知の生物が虚空を泳ぎ、不思議な音を奏でているようだった。
夜が更けるにつれて、少年の頭の中にはますます未知の生物が湧き上がり、夢の中で独自の生態系を形成していった。
眠れぬ夜が、未知への好奇心をくすぐり、夢の中には冒険と驚きが広がっていった。
夢の中、少年は次々と未知の生物を呼び起こし、それぞれが独自の特徴を持ちながら、奇想天外な世界を築き上げていった。
ズゴブリットは、丸い体に羽根が生え、足は逆向きについているような姿勢で夢の中を浮遊していた。その存在はまるで宇宙から飛来した異星人のようで、夢幻的な空間を彩っていた。
夢の中の時間はどんどん過ぎていき、少年は未知の生物たちと共に冒険を楽しんでいた。しかし、その夢にはまだ驚きの瞬間が待っていた。
その瞬間、夢の中で何もかもが静まり返ったかと思うと、突如として登場したミステリアス・スリーパーが、夢の中の未知の生物たちに微笑みかけ、彼らを一瞬で眠りに誘った。
すると、夢の中の風景は次第に静寂に包まれ、未知の生物たちは静かに眠り始めた。少年もまた、ミステリアス・スリーパーの影響で深い眠りに沈んでいった。
そして少年が目を覚ますと、彼の周りには見慣れた寝室の風景が広がっていた。夢の中で築かれた未知の生物の王国は、一瞬で消え去ってしまったのだ。
そもそもメンヘラという生物自体、自分の責任で生きづらくなってんのに周りの所為で病んだと弱者アピールしてるだけだからね
まともに社会生活送れない、まともな関係性やコミュニケーションが成立しない嫌われて当然の人間が所属コミュニティで生きづらくなる、人間関係の構築が出来ないという当然の帰結を大袈裟に不幸ぶって騒ぎ、常に他者から搾取して生きてる実はメンタル強くてしたたかなクズがメンヘラどもの正体だからね
とか
とか。
いつかどこかの時点で人口が増え始める段階が訪れるはずだ、
と無意識に考えている。
でも、これは本当だろうか?
ひょっとしたら一度少子化が始まった国というのはもう元には戻らないんじゃないだろうか?