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2024-05-29

雨の日に窓を開けるなという話

 何度言っても、母が雨の日に家中の窓を開けることをやめない。

 窓から雨が入ってくる、という話ではない。——まあ、そういうこともあった。増田若い頃は、母が梅雨時期、勝手に部屋の窓を開けていて(そしていつもすぐに開けたことを忘れるのだ)、帰ると何故か部屋が水浸し、という事件が一度ならず起きた。

 それは何度も注意するうちに流石に無くなったが、それでも雨の日に「風通し」をするくせは抜けていないようだ。

 母は、湿気の多い時期に窓を開けないと部屋がカビると信じている。

 しかし逆なのである。少なくとも、我が家では。

 

気密性と湿度関係

 というのも、実家マンションからである国道16号沿いに建つ、築20年ほどの、普通郊外型のマンションだ。

 基本的に気密性の高い鉄筋コンクリートづくりのマンション場合梅雨時のように外気の湿度が高いときに「風通し」に意味はない。どころか、逆効果だ。

 この場合、閉め切っていた方が、内装建材の調湿効果木材や布地は天然の調湿効果がある)で、室内の方が湿度は下がるのだ。

 (余談だが、エアコンをつけたあとはなおさらだ。よく夏場にエアコンを消してすぐ窓を開ける人がいるが、除湿エネルギー無駄いである。)

 これは増田自身経験則でなんとなくそんな気がしていたが、家を建てたとき勉強したらやっぱりそうなのだと知った。

 

 それ以来また何度も注意しているのだが、今度は増田自身の部屋でないこともあって、何度言ってもやめてくれない。

 母が生まれ育った、古い木造平屋の昔の家屋では、そうしなければいけなかったという恐怖から逃れられないのだ。

 

マンション木造は違う。木造でも、断熱性や気密性で違う。

 日本の「家」に関する話には、こういう、対象が違えば原理も違うという話が整理できず、ごちゃ混ぜになったものが少なくない。

 例えば「気密性が低い方が湿気が籠らず良い」というようなことを言う自称専門家」がいるが、こういう人はもちろんマンション木造の違いなんて理解してないし、さら木造でも昔の家と今の家では壁の中の構造が違うから、一概に「気密性が低ければ風通しが良い」なんて言えないことも、正確に理解していない。

 

 今の家では「気流止め」という施工が壁内に施されている。(https://www.dannetsu-takumi.com/contents/column/kiryudome/

 昔の日本の家では、床下、壁内、天井に至る全体が通気口役割果たしていた。空気が壁の中を自由自在流れることで、湿気やカビを防いでいたのだ。

 しかし、それでは当然、寒い日は寒く暑い日は暑い。外気そのままの環境を家でも我慢しなければいけないことになる。まさにあばら屋だ。

 だから現代住宅では、基本的にすべての床、壁、天井に「断熱」をする。そして「断熱」をするためには、逆に「気流止め」を施して、壁内を空気が動かないようにした方が良いのだ。

 これ以上の理論的な説明はここに書くには専門的すぎることと、検索すれば専門家のページがいくつも出てくるから割愛するが、この「気流止め」を理解していないと、風通しが良くなってカビないどころか、北海道で起きた「ナミダタケ事件」のような凄惨な結果が待っている、ということだけは書いておく(検索してみよう)。

 マンション場合、壁はコンクリートの完全な一枚板なのだから、はなから通気なんかしないのは言うまでもない。

 

 このように、現代の家はより過ごしやすくするために、見た目は同じでも、昔の日本家屋とは壁の中の構造がまったく変わっているのである。当然、その根拠には(ナミダタケ事件以来)半世紀以上に渡る科学研究がある。

 「カビない家」に対して現代科学の出した答えは「気密」し「断熱」し、空気の籠るところは「換気扇で換気する」だ。

 まかり間違っても、すきま風のする粗悪な家を作ることや、無駄な「風通し」で外気からわざわざ湿気を取り入れることではない。

 

母はもう仕方ない

 母のようになるともう仕方ない。本当は老体にも悪いからやめて欲しいが、まあそれも本人の人生だろう。

 しかし、素人の母のレベル認識が止まった自称専門家いつまでも嘘をまき散らし、若い人がまだそれに騙されるという現状はいくらなんでも忍びない。

 少なくともそろそろ、無根拠な「通気」信仰はなんとかしてくれと思う。

 確かに通気は必要だ、しかし、それは「どこに空気を通すのか」をキチンと理解した上ででなければならない。

 なんとなく「通気してるから」良いなどと信じていると、ナミダタケ事件のような逆効果なことはいくらでも起こってしまうのだ。

 

 室内の温度湿度コントロールに関する科学的な研究というものは、もう半世紀も実績がある。

 というのも半世紀前、オイルショックを景気に、世界中暖房エネルギー削減の研究を始めたからだ。

 現代は、アテカンや習慣で家をつくる時代ではない。

 もう少し、科学言葉に耳を貸そうよと言いたい。

 

2024-03-14

住民反対運動で街が発展した話すき

これの逆バージョン https://anond.hatelabo.jp/20240313123638

 

池袋サンシャイン地下道

巣鴨プリズン/東京拘置所跡にサンシャイン60ビルを建てるにあたり、池袋から地下道を通す計画があったが、地元商店が「人の流れが変わって駅前が廃れる」と反対し沙汰止みになった。

一番反対したのは洋菓子店タカセ。ここは戦後に繁盛して地元の顔的な立場であった。

これに他の人は「タカセのヤツ、勝手に顔役ぶりやがって」と陰口を叩き、裏では総スカン

地下道都道反対側からだけに短縮されてそこまで利用者は歩くことになった。代わりに都バス乗り入れが行われたが利用者は伸びなかった。

しか地下道入口東急ハンズオープンすると付近カメラ量販店(後にゲーセン)、飲食ビル映画館誕生し、池袋東口東急ハンズは若年向けの飲食サービス業が立ち並ぶ大商圏となった。

 

池袋馬券売り場

90年代JRA女性ターゲットとしたCMを打つなど競馬イメージアップに努めてはいた。

だが池袋東口に場外馬券売り場を開設する計画が持ち上がるとイメージ悪化を恐れて地元商工会は大反対。JRA土地も押さえていたが出店中止に。馬券売り場の上にサロン飲食室などを設ける大規模な計画だった。

この土地を後にヤマダ電機が押さえて都市型店舗第一号としてオープン。その後に近くの三越が閉店して建物が売りに出されるとヤマダ電機が取得して現在LABIとなり、池袋家電激戦区っぷりに火を注いだ。

 

立川飛行場

米軍接収した立川飛行場は手狭のためにジェット機用に滑走路を延長する計画があった。この為に滑走路延長先の砂川町の農地家屋に収用が掛かった。

これに住民は大反対し、そこに学生運動等が乗っかり、デモ隊基地侵入などの事件が起こり大騒動になった。

憲法問題などで出てくる「砂川事件/砂川判決」というのはこの事件

この事件などがどの程度影響を与えたかは判らぬが、米軍立川飛行場の拡大を諦め、瑞穂町横田基地に集約する事を決定。立川飛行場日本返還される事になった。

箱根ヶ崎付近八高線国道16号がぐにゃっと曲がっているのは、横田基地の滑走路拡大をした為である

 

返還された立川飛行場学校研究所法務修習所、陸自基地などに転用されたが、一番広い面積を有するのは昭和記念公園で、電車で3駅分ほどもある巨大公園となった。

真ん中には広大な広場もあり、大コンサートもよく行われている。

 

なお、騒動の原因となった滑走路の残骸が未だ残っている。https://maps.app.goo.gl/ewECyedzGvD9p88t7

(よく見ると滑走路アプローチ>>>>のペイントがうっすら残る)

 

埼京線大宮交通

東海道新幹線が開通して暫くすると、騒音振動問題になり訴訟も提起されるようになった。成田新幹線ゴリ押しによる頓挫もあり、山陽新幹線以降の新幹線開通は困難が予想されるようになった。

そこで都市近郊での建設スキームを変更、新幹線に付随した在来線も同時に工事して迷惑施設というだけではなくて近隣住民利益にもなるスキームにした。

この為に赤羽大宮間では通勤新線(埼京線)、大宮北側には高架にまとわりつく、つる植物のような新交通線が出来た。

なお、東海道新幹線は通常の鉄道のように地面に砕石を敷いて線路を敷く工法なので高速運転では周囲に振動が伝わる。その後は平地でも鉄筋コンクリートの高架を走るのが一般化した。杭基礎で支持されるので振動は地下奥深くに吸収され、コンクリの高架は重いので振動自体が押さえられる。その為に公害は発生しにくくなっているが、交渉時には工法までははっきりしていなかったのでこういう形になった。

 

神楽坂

空襲失地区の戦後復興東京都などが管理して区画整理などを行ったが、計画的過ぎて無機質であるとの反対意見も多かった。

そこで都は神楽坂については住民同士の話し合いで区画整理を決める自律的方法を試す事にした。

しか優越資本や有力な地元のまとめ役が居ない地区だったので、結局は路地などが沢山残る防災的にはアウトな形で復興する事になってしまった。

その為に神楽坂は失敗のモデルケースとされていた。

しか建物の建て替えが進むと、街路側は多くが不燃建物、その路地の奥は不燃建物と古い料亭などが混在する形となって何だか防火風流の両手取りみたいな地区になって、アンテナの高い外国人などにも好かれる町並みとなっている。

 

歌舞伎町

戦後歌舞伎町は全域がゴールデン街のような闇市バラック状態であったが、再開発をする事になった。

しか高田馬場を始発駅とする西武新宿線新宿駅まで伸びる予定であり、歌舞伎町付近に仮駅を設置された。

当時の西武鉄道経営陣としてはピストル堤と言われた堤康次郎も健在であり、堤は人を騙して土地を買収したり、ピストルの名の通りに暴力による脅迫で買収したり人の土地勝手占有して後に所有権移転したりと、要するにやり手実業家の皮を被ったヤクザであった。しか権力とみっちりと癒着しているばかりかその後に代議士にもなっていた。

その為に歌舞伎町地主たちは鉄道が来るのは歓迎だが堤が来るのはたまらねぇ、として西武の買収に対抗する策を練った。

そこで街路幅はきちんと確保しながらも、その所有区分を細分化、買収しにくくした。それが功を奏して西武も含め、大資本が入り難い地域となっている。道幅を確保しながらも細分化策が功を奏したのは主導的な町会長などが存在した為による。

 

鉄道忌避説は後世の作り話が多い

ブクマページの米でそれは違うというのを幾つか。https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240313123638

 

流山

流山常磐線忌避したという話は良く効くが、多分これは違う。というのも、地理的条件があるからだ。

田端を起点にして北千住を通り、土浦に至るというのは決まっていた。で、その途中には避けねばならぬ「水」があるわけよ。霞ヶ浦牛久沼手賀沼は避けねばならない。だから柏の先のルートはこれしかない。

問題北千住から柏で、今の南回り松戸ルート八潮三郷流山の北回りルートTXコース)がある。

でも北ルートには難点があって、それは毛長川、大場川古利根川の氾濫域の土壌ぐちゃぐちゃ地帯に入ってしまう。今でも越谷レイクタウン南側田んぼのままで、ここは乱開発すると土地の保水力が無くなり八潮市街出水してしまうので開発禁止の状態になっている。武蔵野線敷く時もまず水路の開削からやって平地なのに築堤築いている。そうしないと列車振動で沈下して線路が狂ってしまう。それくらい地盤が悪い地域だ。

から日本鉄道はここを通るのは避けたかったはずで、そうすると流山に行くのは無理って事なのだ

 

鳩ケ谷

日光御成街道宿場町として栄えた名残が邪魔して鉄道忌避の街になり、ついに川口市吸収合併された、元鳩ヶ谷市とか?東北本線って計画では、王子以北は今の埼玉高速鉄道をなぞってたって言うし

これも違うと言い切れる。地形で説明するよ。

 

日本鉄道熊谷線(現高崎線)は日本で2番目の鉄道なので工事量を減らす為に「ここしか無い」という厳選されたコースを通っているのだ。工事期間がやたらと短いのも特長で、コースを厳選した結果だ。

 

海食崖

上野駅を出た京浜東北線大宮までは中距離電車じゃなくてこっちが元のルートを通る)は赤羽までずっと急な崖の下を通る。この崖だが、真っすぐなのが特長だ。こういう真っすぐな崖というのは海食崖の特長だ。海の崖だね。

地球の海面は氷河期には氷河南極に氷となって蓄積するので海面が下がる。一方、温暖な間氷期には海面は上がり、平野のずっと奥までが水没してしまう(海進)。

縄文時代などの間氷期の海進で、関東平野海の底となり遠浅の海となっていた(奥東京湾)。間氷期の気温で海進の程度は変わり、最大で高崎あたり、縄文時代では大宮までが奥東京湾だった。(そういう訳で、尾久とか東三条には貝塚がある)

海には波がある。この波は真っすぐ進んでドンと当たって止まり、ではない。斜めに陸に当たった時は、陸に当たった後にその勢いは横に流れる。波が引く時はその横向きの流れのままに引く。沿岸流が出来るのである

すると陸の出っ張っている所は削られて、やがて必ず真っすぐな海岸になるのである

まり上野赤羽の崖が真っすぐなのは海進時に波に削られたせいである。

 

波蝕台

波は崖を真っすぐに削っていくが、この時潮の干満により崖の下には平場が出来る。満ち潮では海面下に隠れているが引き潮では通れたりするアレだ。親不知子不知が引き潮の時だけ取れるというアレ。

上野赤羽では小規模な波蝕台が連続京浜東北線はこの上を通る。但し複々線化で判り難くなってはいるが。

この波蝕台跡は他の低地より少し高いか田んぼになっていないので用地買収がしやすい。更に少し高い故に大雨でも出水しにくいし、砂礫が多いので水捌けも良い。線路用地として優秀なんだな。

 

砂嘴

陸地の角があると波による沿岸流はその先に砂を置いていく(漂砂)ので、真っすぐの海岸線が延長された地形が出来る。砂嘴である北海道標津の野付半島京都天橋立が有名だ。砂嘴で延長された浜により沿岸流と漂砂の働きも延長されるから砂嘴はどんどん伸びていき海底が深くなると砂嘴の延長はとまる。

赤羽台地の角なので波蝕台に繋がる形で砂嘴が出来た。

この先で荒川を渡らねばならないので当然線路はこの砂嘴の上を走る。高さを稼ぐ為である。この砂嘴江戸時代荒川開削と田んぼ開発により削られているが、根元だけは残っている。赤羽の北で環八を跨ぐ時の橋台はこの砂嘴に乗っている。

 

荒川川口町

当時蛇行していた荒川を真っすぐ渡る為に(鉄橋の距離が短くなるから)右に曲がり、荒川を渡る。川口方には堤防曽根)があるのでそれを超えると熊谷に向けて左に曲がりながら築堤で地平に降りていく。地平に降りた所に川口町駅設置。川口宿からは離れているが駅は水平でないといけないのでここしか無い。

 

川口町から熊谷まではほぼ真っすぐ

川口町からは当初の終点熊谷、その先の高崎までは殆ど直線なのだが、所々に緩いカーブがある。このカーブの全てには必然性があり、全て工事の最小化の為のものだ。

特に芸術的とさえ見えるのは南浦和北浦和間だ。

https://maps.gsi.go.jp/#15/35.859927/139.661572/&base=std&ls=std%7Canaglyphmap_color%2C0.79&blend=0&disp=11&lcd=anaglyphmap_color&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m

南浦和までは低地にあるが、この先で大宮台地に登る。そこで沢が削った斜面に入り、他の沢の斜面側面に取りついて高さを稼いでいく。

浦和駅からはもう芸術点が高く、沢山の小さな沢がある所を、最小限のカーブでその谷頭を両側でギリギリかすめるルートを取っている。ここはダッジボーナスが沢山入る所だろう。舞踏家みたいな避け方である

 

大宮から先も小さいカーブ芸術点高いルートを通るが、中仙道に平行している。中仙道自体芸術点高いルートを通っているのでこの区間コピー忍者って感じだ。

 

このルートの良いところはもう一つあって、途中の蕨から中仙道が平行してくるので宿場町近くに駅を造れば集客と集荷が期待できる。更に当時は道が限定されているので、名のある街道に近くないと客や貨物が駅に来れないのだ。

 

当時の日本が高度な測量でルートを決められたワケ

文明開化したばかりの明治日本が、鉄道二本目でこんだけ緻密なルート選定出来たのは何故か?

お雇い外国人英国人の力だけではない。江戸時代新田開発と用水路開削をしまくっていた為なのだ

台地上に水田を作る場合もっと標高が高い場所から用水路を引いてくる必要がある。水は一度低いところに行ってしまったらもう高さが上がらないから、長距離の測量を正確にせねばならない。その技術が蓄積されていた。

 

やり方は結構単純だ。長い木箱を作り(水盛り箱という)、水を入れる。水面は必ず水平だ。両端の水面から10センチのところに糸を張ったらそれも水平だ(水糸という)。

更に両端の水面から10センチのところにライフルの照準的なものをセットする。その照準で200m先を見て、照準が合っている場所はやはり水平だ。200m先に助手が目盛りが付いた物差しを持って立つと、その地面はこっち側からセンチ下/上がっているかが判る。

これをずっと正確に繰り返す。だから両側の谷頭の直ぐ上を抜けるルートなんてお茶の子さいさいだったかもしれない。

 

という訳で、日本鉄道などが造った初期の鉄道路線は土木技術で地形無視って事を極力避けるルート選定をしているので、マクロ的にもミクロ的にも必然性の塊となっているのでありますよ。

2023-10-23

anond:20231023165118

千葉は第2湾岸反対してる馬鹿と、京葉道路穴川遺跡のせいで道路交通終わってる。

さらに言えば、国道16号バイパス、北千葉道路さえあれば、もう少しマシになるのに。

2021-04-07

30代独身童貞男性弱者強者どっちですか

最近いつもはてなで飛び交っている弱者男性という言葉

みんな自分イメージ批判したり擁護したりしている

定義曖昧すぎると散々指摘されている

じゃあいっそサンプルを作って定義に入るか聞いてみるのが早いのでないか

正確さのためには確実に存在するサンプルがいいと思う

たとえばここにいる自分とか



(以下追加)


こんなの増田じゃないと書けないや…

2021-02-23

anond:20201201184650

この増田の話、「自慢したい相手がいない」というところに集約されていて、私は地方暮らしを楽しめない人間ですという吐露東京age合理化してるだけなので皆さんもう解散するよろし。

東京圏(日常的に、山手線の駅まで概ね1時間で到達できる駅くらいの立地まで。概ね国道16号の内側)で生まれ育った人か、そうでないかで反応は大きく異なるのではないかと思う。大阪は住まったことがないのでわからないが概ね環状線内ということになるのだろうか。生まれてこの方自動車などが家にあったことがないというひとならそれがデフォルトから自動車生活の基盤に吸えるという発想自体そもそも無かろう。自動車があって当たり前というところで生まれ育った人ならばそれがデフォルトになるし、非都市部では車がないと著しく不便な生活を強いられることを知っている。以降、めんどくさいので車の不要大都市圏「東京」と一緒くたに呼ぶことにする。東京では「駅まで徒歩何分、そこから何分」の世界が非東京では「自宅から車で何分」という世界だ。別の国だ。だからこの増田東京という別の世界の別の国の別の国民の話である

人口6千人ほどの関東近辺に生まれ育った私は高円寺あたりのアパートに数年住んだがあそこは無理だった。狭い。部屋も道路土地も果ては人の心までも狭い。もっとも部屋が狭かったのは私が貧しかたかであるが。「老人と運転免許」の問題もつながるが、行きたいところに安価に短い時間で好きなときに行けるというのは極めて価値のある「自由である東京ではそれは主に公共交通でなされる。自家用車依存しているところは東京ではない。では駅からバスで十数分みたいなところはというと、そこはやはり東京都内にあっても東京ではない。ところでlibertyとfreedomの違いはあんまりないと言うが、ここで言う自由はたぶんlibertyのほうがしっくり来る自由である

東京では公共交通がないか極めて貧弱であるハイハイから二足歩行に移行してようやく人らしくなるように、徒歩と自転車のみから卒業自動車という二足歩行生活することが自立した人間の証明となる。車がないと人間ではないか自由がない。この増田は車持ってないし買うつもりもないという。人権を手に入れてないのだからそれは辛かろう。

東京最高っていう意見には郊外志向の私も賛同せざるを得ない。ADSL草分けである東京めたりっくもFTTHも、東京からだった。非東京に便利なものが来るのは常にあとだ。それがインフラともなればなおさらだ

といっても、私は根が田舎者なので土が見えない世界で暮らすのはつらい。将来的には郊外に移っていくことだろう。といっても、東京からちょっと行けば色んな所に行けると言っているように、私は「ちょっと行けば東京」という場所を選ぶだけの話だろう。電気都市ガス上下水道光ファイバーau携帯電波(ドコモ電波日本である限りどこでも入る。彼らのプライドである。)、あとTBSラジオがあればそれ以上は過剰な贅沢というものだ。5Gの電波・・・初めて聞いた頃はまた新技術かと思ったが知ってみればうわーこれ劣化PHSじゃんかと思ったから多分死にそうになる頃まではいらないだろう。この増田は人気(ひとけ)のないのがつらいという。人が作った色んなものがないのが寂しいという。私には東京は人気(ひとけ)が過剰である自然の作ったものが少ないのが寂しい。育ちによって培われた志向の違いとはこういうものである

根源的にはライナスの毛布問題である。慣れ親しんだボロ毛布、捨てられると思ってたけど実は捨てられなかったというだけの話。多くの人間はそんなもんなのだがこの増田東京にあるいろいろなものがそれであったということである

2017-11-06

相模原国道16号

さっき社用で横浜町田I.C.で降りて八王子方面へ走って気付いたこと(圏央道だと遠回り)

・16号線がインター出口から橋本五差路?までまっすぐ一本道

・車で感じる起伏がほとんどない

・左右の歩道が広くて自転車道?まである

んで何がすごいって沿道がファミレスファーストフード等チェーン系飲食店ばっかりなんだよね

和洋中ラーメンうどん蕎麦チキン回転寿司ハンバーガーお好み焼きパスタ……

全国チェーンならほとんどここに集まってるんじゃないかと思ったくらい

郊外都市主要幹線なら当たり前かもしれないけど、ここまで多いのは記憶にない

ググってみたけどあまり言及してるブログサイトがなかった

相模原ってあまり名所名物がないみたいだし(JAXAくらい?)「ヘソの無い街 相模原」なんて書かれているくらい(地元の人ごめん)

で、このファミレス群を町おこしに使えないかな?「ラーメン激戦区」なんて言葉もあるくらいだからファミレス戦国地域」とかさ

…やっぱりだめだね、通りすがり意見

2014-03-09

首都圏の主要道路の変遷メモ

明治~現代の各時代の古地図が見れるサイトを見つけて、古地図&道路フェチとしましては、むさぼるように見入ってしまいましたとさ。

■今昔マップ on the web 首都圏編

で、主要道路がこれまでどんな変遷をたどってきたのか、知ることができた内容をメモ代わりに。



【おもな放射道路編】

東海道国道1号・15号)

池上通り

中原街道

綱島街道

  • 1900ごろ時点で綱島~六角橋の区間が原型存在。現在では旧綱島街道としてほぼ残っている。
    • 綱島以北は現ルートに相当する道はなく、代わりに、矢上を経由してガス橋通りに相当する道と、高田・子母口へ通じる県道106号に相当する道に分岐していた。
  • 丸子橋~綱島間は1940ごろ開通。ちなみに東横線開通のほうが先で1930ごろ。
  • 大豆戸~菊名間の新道は1940ごろ開通。菊名~浦島丘間は1960ごろ開通。

目黒通り

駒沢通り

国道246号方面(青山通り六本木通り・大山厚木街道

世田谷通り津久井

甲州街道国道20号



【おもな環状道路編】

内堀通り

  • 1900時点から現在と同じ道が存在している。
  • ただし二重橋前地域は、1970ごろ以前の地図では道路なのか広場の一部なのかがはっきりしない。

外堀通り

  • 淡路町鎌倉橋間に道ができたのが1930ごろ。それ以外の区間はほぼ全線に渡って1900時点で市電が走る道路だった。

外苑東通り

外苑西通り

明治通り

  • 古川橋渋谷区間。1900ごろ時点でほぼ原型あり。広尾付近は1930ごろに市電開通とともに1本の道として整備。
  • 渋谷~新宿区間。1900ごろ時点では、明治神宮前代々木付近に若干道があるのみでそれ以外は道らしき原型はなし。
    • 渋谷駅付近は、1960ごろに宮下公園東側が開通するまでは山手線西側の道につながっていた。
  • 神宮前新宿区間は1940ごろまでに開通。
  • 新宿~池袋区間は、1950ごろに開通していてそれ以前は道らしきものはほとんど無し。
  • (以東は省略)

山手通り

  • 北品川~大崎区間は、1920ごろに開通。1950~1960ごろにかけて大きな道へ整備。
  • 大崎~五反田間は1900ごろにはすでにあり、大崎駅の陸橋は1920ごろに陸橋化されて、その後何度か形状改良されている。
  • 五反田~大橋間は1950ごろまでに開通。
  • 鑓ヶ崎~神泉の現「旧山手通り」区間は、1900ごろ時点で現道と若干異なっているが原型が存在し、1920ごろにほぼ現道のルートで開通している。
  • 神泉~熊野町の区間は、1940~1950にかけて、もともと道がなかったところに一気に開通。
  • 渋目陸橋・菅刈陸橋ができたのが1960ごろ。それまでは、初台方面から南下すると現「旧山手通り」にのみつながっていて、中目黒目黒方面とは直結していなかった。
  • 熊野町~仲宿区間は1960ごろに開通。

都道420号

  • 現在進行形で今も絶賛整備中のこの道路。1900ごろ時点で存在するのは下記区間。
    • 戸越~五本木(現在と多少異なり武蔵小山を経由)、下馬~三宿~大山(北沢)、中野駅付近、哲学道~大山(板橋)
    • ルート上に「大山」という地名が2箇所あるため、ここでは「大山(北沢)」「大山(板橋)」と記述する。
  • 大井町付近は、1920ごろの大井町線敷設以降に徐々に整備。仙台坂トンネル開通は1990ごろ。
  • 戸越小・戸越公園の一角は、1950ごろまでの地図は「三井邸」と記されている。この下にトンネル開通させて大井町駅方面へ直結させる計画が2010時点着工中。
  • 国道1号中原街道目黒通り間の現道が開通したのは1960ごろ。
  • 目黒通り駒沢通り(=五本木)間は現在2014年時点で新道着工中。
  • 五本木~下馬区間は2000ごろ開通。
  • 下馬~三宿区間は、1960ごろに既存道路を拡幅・延伸して整備。
  • 三宿~大山(北沢)区間は、現在420号指定されている狭隘道路は1900時点ですでに存在する。拡幅&新道の計画があり、拡幅工事は現在着工中だが新道についてはまだ未整備。
  • 大山(北沢)~笹塚区間は2010ごろ開通
  • 笹塚~中野五叉路区間は1960ごろに開通。
  • 中野五紗路~新井付近1930ごろ現道開通。
  • 新井付近~哲学道区間の開通が1960ごろ。
  • 哲学道~大山(板橋)区間は1900ごろ時点から道があり、徐々に整備されている。

環七通り

環八通り

府中街道大師道・南部沿線道路・川崎街道

尻手黒川道路

  • 1900ごろ時点で原型が存在するのは、末吉橋およびその周辺、矢上~梶ヶ谷~清水台区間、柿生黒川区間。
  • 川崎駅末吉橋区間は、何度かルート変更されたのち、1960ごろに現道完成。
  • 末吉橋~子母口区間は1940~1960ごろに現道完成。
  • 子母口~梶ヶ谷~清水台区間は1960~1970ごろに現道完成。梶ヶ谷貨物駅完成が1970ごろ。東名川崎IC完成が1970ごろ。
  • 清水台~稗原区間開通が1980ごろ。稗原~王禅寺ヨネッティ付近は、神木本町方面からの道路として1960ごろ先に開通。
  • 王禅寺~山口台区間は1980~2000にかけて開通。
  • 山口台~津久井道区間は2010開通。
  • 津久井交差点から黒川方面へ直結させる短絡ルートが2010現在事業中。
  • その他、2006に元住吉付近で東横線と立体交差を逆にする工事実施

横浜麻生道路

  • 1900ごろ時点で、多少現道と異なるが全線で道路が存在。柿生から先は鎌倉街道府中方面・八王子方面へ直結していた。
  • 1930ごろ、東神奈川六角橋間の現道完成。当時は市電が走っていた。六角橋北側の一部区間の現道完成は1960ごろ。
  • 1960ごろ、津久井道交点が現在のようなT字路に路線変更
  • 1970ごろ、新川向橋付近の現道完成。
  • 1980~2000にかけて、池辺町~市ヶ尾間の新道完成。
  • 2000ごろ、市ヶ尾~鉄町間の新道完成。

国道16号八王子街道・町田街道方面



【その他、概況】

地形・丘陵

河川

2008-08-19

http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20080812/p1

横須賀地図だけど、どう考えてもどうでもいい逗子市内の住宅地をなめるように撮影しているのに、どう考えても需要の高そうな国道16号沿いが全く撮影されていない。一体、どういう順序で撮影場所を選んでいるのだ。

どうでも良い逗子市内の住宅地の件だが。ここは披露山庭園住宅というエリア芸能人が多くすむことで有名な高級住宅地なんであって、ようするに「お前ら大好きな、有名人のご自宅ご拝見」とぐーぐる様はおっしゃっている、と。

 
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