はてなキーワード: 「バカ」とは
こうした発言をする人は、自分が正常な「一般人」だという確信を持っていて、うたがうことがない。
個人的な怨恨はいささかもなく、そのことをぜひとも念頭においてほしいのだが、こうした発言は、残念ながら「私は無教養なバカです」と大声で叫んでいることに等しい。
なにかを知ること、ほんとうに正しいことを知って、尋常な「一般人」にもしなれるのだとしたら、それは、自分の知識が限定的であることを認めること、自分の判断がほんとうは正しくはないのではないか、とうたがいをもつことからしかはじまらないからだ。
戦時中、戦争に疑義を呈したり、思想犯として検挙された人を「非国民!」とののしった「一般人」は、自分がまっとうな「国民」であることを疑わなかっただろう。
だが、1945年8月15日になって、そのような「国民」にはなんの正当性もない、あるいはそんな「国民」はそもそも存在していなかったことを知って、ポカーンと虚脱状態になってしまった。
発作的に泣き出したり、自殺した人もいた。
当時の人々を見て、なんてバカな国民だろうと思うかもしれない。
だが、『自称「一般人」』を「非一般人」あつかいする「一般人」は、戦時中の「バカ」な「国民」と何も変わらない。
気づけば自分が信じ込まされていた社会の認識を疑う、自分のものの見方を疑うという能力をまったく欠いている点で、何も変わらないのだ。
頭がおかしい人の特徴のひとつは、自分の頭がおかしいことがわからないことだ。
統合失調症にかかっている人が「集団ストーキング」の被害を訴えているのを見ると、哀れに思う。
だが当の本人にとっては、それは普段見ている世界への疑いの末に、見出された「世界の真実」であることに変わりない。
「ネットで見た真実」を信じて、陰謀論者になってしまった人を見ると、哀れに思う。
だが当の本人にとっては、それはやはり「世界の真実」であることに変わりない。
「一般人」である自分の見ている世界が、こうした哀れな人々の世界と違うことを、論理的に説明できるだろうか。
ふとした瞬間、特定の人間の意図によって、自分が「非一般人」を憎み、攻撃するように仕向けられていたことに気づくとする。
「一般人」と「非一般人」を区別し、自分が「一般人」であることを疑わない人は、人を迫害し、殺す。
そして、自分が人を殺したことをけっして認めることがない。
差別とはその対象を構成する何らかの身体的特徴,性格,出自,思想,その他肉体/精神を問わない何らかに対しそれをあげつらうことだとする。
一方,区別はその対象は同じだが,そこに線引きをする,ということに差別との違いがある。
たとえば,遊園地におけるアトラクションの身長制限は安全上の「区別」であり,これを「差別」と捉える人はまず居ないだろう。
また,男女でトイレを分けることも,身体的特徴からくる排泄行為の違い,及び盗撮などの各種犯罪行為を抑制するための「区別」と捉えることができる。
しかし,差別と区別を分ける本質的な線引きは存在しない。なぜなら,何らかの発言や措置をどう捉えるかは個人によって大きく異なるからである。
たとえば,(文脈にも依存するが)「バカ」と言われて喜ぶ人もいれば,烈火の如く怒る人もいる。電車やバスにおいて席を譲るにしても,
「私がそんな年寄りに見えるか!」と怒る人は少なからず存在する。
では,なぜ男女でトイレを分けることが「区別」で,人種によってトイレを分けることが「差別」とおそらく一般には広く認識されているかと言えば,
それは圧倒的多くの人,つまり世間がそう考えているからに過ぎない。世間や時代が変わればその境界は大きく揺らぐだろう。
たとえば低身長でも完全に安全なアトラクションが導入されたとして,そのアトラクションに対し「120cm未満の身長のお子様はお乗りになれません」という
ルールがあれば,119cmの兄は121cmの弟を逆恨みし,これは差別だと断じるだろう。
ここで重要なのは,ある発言を「差別」と受け取るか,「区別」と受け取るかはそれを言われた本人にしか決定できない,ということにある。
つまり,「ヘイトスピーチ」が世間を構成する人の殆どが差別的だと捉えたとしても,「ヘイトスピーチを行う人は差別主義者である」という発言を
ヘイトスピーチを行う人がその発言は差別だと認識する限りにおいて,「差別は常に行うべきでない」という前提があるのであれば,
「ヘイトスピーチを行う人は差別的」だからと言ってそれを「差別」することはできなくなる.ここにパラドックスが生じる。
これらから導かれる1つの思想は,「他者に危害を加えない限りにおいて,あらゆる思想や言動は許されるべきである」という自由主義的発想である。
この思想に従えば,「他者に危害を加えない限り」ヘイトスピーチも,反ヘイトスピーチも共に許容されるべきである。
ここで,「他者に危害を加える」ということがどこまで含むかをよく考える必要がある。
仮に,「反感を覚える」ことまでも「危害を加えられた」と定義する場合,反感を覚えるかはやはり主観によるため,
原理的にあらゆる思想・言動を規制することが可能となる。従って,ノイローゼになったとか,躁鬱病になったといったような
より別の基準を設ける必要があると考えられる。ここにはまだ議論の余地がある。
そもそも,なぜ議論が必要かというと,人間の発想・思想は不完全であり真理ではない,という理由が挙げられる。
従って,あらゆる批判を相互に許し,良いところは伸ばし,悪いところは修正を図ることで真理に近づくことができる,というのが
自由主義の考え方である。しかし,自由な批判を行うためには論理的な思考能力,互いの尊重,感情的発言の極限までの抑制などが
必要となる。それらの能力はどこでどのように身に付けるべきなのか。
義務教育において教え込むことで,非常に長期的視野に経てば数世代交代する頃には「大多数」がそのような能力を身に付けることが
可能になると考えられるが,そもそも,論理的な思考能力を身に付けるべきというこの自由主義的発想そのものも常に正しいと言えるのか,
批判の対象でなければならない.そのような対象を義務教育によりある意味では洗脳のように教え込むことは,所詮は多数派による
現体制の維持に繋がる行為であり,自らその必要性を強く感じ,そのような能力を獲得することが望ましい。
しかし,その必要性を感じるには,論理的思考能力が必要である。それはどこで身に付けるのか。
最近,このようなことをずっと考えている。
2017/04/14 10:52 Typo修正.劣化版ミルというよりも完全にミルの考えそのもの。
2017/04/14 10:52 ミルは『自由論』において多数派が小数派を多数決で圧殺することを無効化するため,
立場によらず,是々非々で相互批判を可能にするために「他人に危害を加えない範囲であればどのような自由も許される」という原則を提示している。
ただし,この前提として「分別がある」ということを挙げ,子供と発展途上国はその例外だから教え込むしかないと言っており,
この前提はたしかに現実的な前提ではあるものの,私は懐疑的立場を取っている。
「分別」はどこで付くのか.たしかに小学校の頃はないとしても,大学生ならついていると言えるのか。高校生はどうか?
また,この自由主義が「多数派」にもしなったとき,教育によりその体制を維持するというのは自由主義による「圧政」ではないのか?
2017/04/15
追記した。またね
正しくは#コンビニはエロ本を売らずにおむつを売れ の長谷川君子氏(@hasagegawa2)です。
Twitterの報告の流れ
報告
↓
↓
↓
↓
※この時明確に誹謗中傷または差別していると思われる発言を選択する。
今回は過激な発言をいくつかと、反論に対し「バカ」などとリプライしているものを選んだ。
↓
あと何かあったような気がしたが忘れた。おそらく前の段階で終だったと思われる。
報告から数日が経ち、先程Twitter社から報告の最新情報が来た。
それによると「当社による調査の結果、このアカウントからご報告いただいたツイートの一部に不適切な内容が含まれ、
嫌がらせについてのTwitterルールに違反していることが判明しました」とのこと。
その後アカウントを確認したところ、凍結されていることが確認できた。
「コンビニはエロ本を売らずにおむつを売れ」という主張については様々な識者が既に論を述べているので私見を述べることは差し控えたいが、
個人的に何かを主張する際に相手を貶めるようなことをするのはあまり褒められたことではないと思う。
Twitter上でも様々な人が議論に乗っかり相手を攻撃するようなツイートを向けたりしていたが基本的に取るべき行動は黙って報告だと思う。
ちなみに私は直接的にやりとりしたことはありません。
今、写真の勉強をしているが、写真家と呼ばれる人達が高学歴になってきたので学がない自分にとっては非常に辛い時代になってきた。
写真家と呼ばれる職業の人達が意外と高学歴が多い。ここでいう写真家とはプロカメラマンと呼ばれるような職種の人達ではない。
今でこそコンセプチュアルアーティストとも芸術家とも呼べるような写真家達だ。
以前は東京写真専門学校やビジュアル系専門学校卒やどこかのカメラマンのアシから写真技術を駆使しながらも作品を完成し、コンテストに応募し
優秀の美を飾るようなことがステータスだったが、ここ最近の写真作品はどれも現代アートのようにコンセプト重視となってきたため、写真技術だけ
ではなく写真と言葉、ステートメント、ポートフォリオの見せ方、プレゼンが重視になってきたように思える。
港 千尋ー早稲田大
奥山由之ー慶応義塾
木藤公紀ー東北大学
・・
そのほかにも最近の写真受賞をしている方を見るとコンセプトがしっかりしておりとても哲学的で視点が面白い。
プレゼンスタイルも高学歴だと簡単だし、コンセプト文章を作るのも簡単なのだろう。
勿論、これだけではないので東京芸大であったり、京都市立芸大、その他の多摩美、日大、武蔵美、大芸大なども
多くいるが、それらの人は芸大できっちりと教育を受けてきた人達ばかりだ。他にも海外で写真を学んできている人もいるだろう。
写真ポートフォリオレビューでもフランス人やアメリカ人のポートフォリオレビュアーが増えてきており、一通りに
まずは英語が最低でもできていないと自分の写真の意図が通じない。自分はF欄大卒であるが故に英会話はおろか人のステートメントさえ理解できない、
書けない、プレゼンすらできる能力もない。はっきり言う「バカ」だ。
「明るい部屋」や「写真論」を読んでもプンクトゥムも理解できず3行で寝てしまうという始末。
元々、コンセプト写真は海外写真家が活発に制作してきたものではあるものの、写真の技術とセンスはなんとかなるが、頭を使って文章を組み立てる
特に最近は写真家と名乗る人が少なくなってきており、写真=芸術とみなし、芸術家と自称する人も多いので写真家と呼ばれる人も少なくなってきたように
思えるし、InstagramやSNSの発達で従来の写真表現の在り方も日々変化しつつある。それらにもうついていけない。
写真集は集めてみるものの、どの写真が良いのかわからない。自分が良いと思った写真は周囲からは「そんな写真家の写真集が良いの?」
と揶揄される始末。マイナー・ホワイトやピーター・ウィトキンなどの写真には特に強く惹かれるが未だに「どこが良いの、そんな写真が。」と言われる。
マイナー・ホワイトが良いと言ってる時点で写真を見る目やセンスすらないのかもしれない。
「正しさハラスメント」という言葉にマサカリ被害者の会もモヒカン族も盛り上がってる今日この頃いかがお過ごしでしょうか。
「マサカリを投げられると萎縮する」とか「そんな言葉を出すと指摘する側が萎縮する」とかの発言や、
文章に書かれていない相手の意図や感情を推測して藁人形をせっせと作ってる姿が見受けられ、
SA☆TSU☆BA☆TSUとした感じがインターネッツって感じがして大変よろしいかと存じます。
そもそもどちらの立場も相手の話を聞かずにワーワー喚いてるんだから、そりゃ収まるわけないでしょ。
お互いに妥協点なり落とし所を探ろうとしないんだし。
なんでそう「0か1か」みたいに極端な考え方しかできないんかね。
他人と意見を交わすのであれば、色々な前提が相手と食い違っているのを覚悟しなきゃ。
それが分からずに、あーだこーだ説明して理解されずにただ怒鳴ったり、
言葉が足りないのだと勘違いしてひたすら説明を積み重ねて余計に相手を混乱させたり。
まったくどこの幼稚園児だよ。
まずは相手の信頼を掴みなさい。
見ず知らずの赤の他人にとやかく言われたって、門前払いにされるか、体よく遇われて言葉は右から左に聞き流すだろ?
だから最初に信頼を得て、最低限の人間関係を築き、その信頼関係に乗せて言葉を届けなけりゃいけない。
お前が本当に何かを伝えたいのであればね。
そしてお互いの前提を把握しろ。
相手が「何を大事にしているのか」「何を基準に善し悪しを測っているのか」を質問を投げ掛けつつ理解しろ。
特に「相手のプライドの根幹がどこなのか」ははっきり見定めないといけない。
相手のことをちゃんと知ろうぜ。お前が本当に何かを伝えたいのであればね。
すごく子供っぽいと思うのが、ストレート過ぎる否定の言葉を投げる迂闊さだね。
「バカ」と「アホ」が関東と関西でニュアンスが逆になるように、
冗談で言ったつもりの表現が相手には屈辱的な表現に聞こえることだってあるんだよ。
ちゃんと言葉は選ぼうね。
お前が本当に何かを伝えたいのであればね。
程度問題ってね、0か1かの結論がスパッと出ないから程度問題って言うんだよ。
そういう問題の性質を無視して「これはダメだ」とか「これでいいんだ」とか言ってても無意味だ。何の役にも立たん。
むしろ相手がそういう決め付けた主張をしているときに「具体的にはどんな場面を想像していますか?」くらいの質問ができなきゃ大人じゃないよね。
単純な基準で割り切れる話じゃないんだから、色んな立場、経験、人生を持つ多くの人が意見を公開して、
お互いの意見の違いを知った方がいい世の中になるよね。
最後に「自分の理屈は完璧で、相手は論破されているが、それに気付かず無駄な反論をしてくる」と思ってる輩へ。
バカかと。アホかと。
そのお前の理屈にも意識していない前提があってそれが正しいと思い込んでるから、そんなふうに思えるんだよ。
そこんとこ、よーく内省してご覧よ。
お前が本当に何かを伝えたいのであればね。
結局、相手に自分の意見を本当の意味で伝えて、相手に受け入れられなくても一意見として受け止めてもらえなければ、周囲を変えていくことなんてできない。
お前が今色々吠えているのは、周囲に無視されたいからじゃないんだろ? 話を聞いて欲しいんだろ? 何かしら自分の望む方へ変わって欲しいんだろ?
え、そうじゃない? 単にムカ付く主張を潰したいだけ?
今の世の中って、「バカ」がものを言うことが許されないんだよな。
おれは若い頃極左思想の「バカ」だったから、上の世代や政治に詳しい人間にリアルでボロクソに論破されて「転向」したり「反省」したりして、今でもまあ「バカ」なんだろうけど少しはマシになったかなという自覚はある。
ツイッターを見てると、そんな「バカ」が大人になる切っ掛けを許して貰えない。迂闊に思想信条を述べたら住所氏名を特定されて通っている学校や勤務先までバレて人生詰む、なんてことになるという怖さを感じる。
「バカ」が「大人」になる可能性を秘めた社会。つまり「バカ」に失敗を許す社会。
「バカ」が「大人」になる可能性のない社会。つまり「バカ」は「バカ」のまま殺される社会。
どっちに住みたい?
監督、一回でいいから自分の顔にマジックで「バカ」とかいて、それを鏡で見てごらん? あと主人公もヒロインも右利きだよ? あれじゃ自分ではなくて他人に書かれた「バカ」「あほ」だよ?
他はともかくここはアニメーターが気付かなきゃいけないとこだよな…
どや顔でツッコミを入れてるからホントかよと思って、実際に試したら、映画と同じように書けたんですけど^^;
監督、一回でいいから自分の顔にマジックで「バカ」とかいて、それを鏡で見てごらん? あと主人公もヒロインも右利きだよ? あれじゃ自分ではなくて他人に書かれた「バカ」「あほ」だよ?
山に置き去りにした親父については、同感だったけどね。
とにかく絵面を優先させるためにありとあらゆる条理を無視していく。知識がある人間ほどツッコミがあたまをもたげて作品に没頭できない。
物理クラスタからニュース画面の彗星の軌道について突っ込みが入っていたが、そもそも彗星の核が分裂して破片が地球に向かっているとき、それを地球から見たらどう見えるかについて根本的に勘違いをしている。
登山をしてる人間からも、あの山道を老人を負ぶって登ることの非現実性やらに苦言がでるだろう。迎えの打ち合わせもせず、弁当だけわたしてトラックで人里はなれた山中に放り出すあの親父は主人公殺しにかかってるよね?とか、雨具持たずに山に入るなとか、雨に濡れて一晩山中で過ごして死なないのはおかしいとか。
だれでもわかるツッコミ点はこれ。
http://cinema.ne.jp/wp-content/uploads/2016/08/e40fe7b77c41e40c997c1f32246b4ab0-760x428.jpg
監督、一回でいいから自分の顔にマジックで「バカ」とかいて、それを鏡で見てごらん? あと主人公もヒロインも右利きだよ? あれじゃ自分ではなくて他人に書かれた「バカ」「あほ」だよ?
それなのに、こんな穴だらけの素人臭い脚本でも、ラストでは圧倒的な絵と音楽とモノローグで力業で泣かされる。なんか泣いた自分がバカみたいじゃないか。プライドずたずたですよ。
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「だれでもわかる」が分からないというブコメが多いですが。利き手の側の頬にガムテープでもラップでも貼って(鏡を見ても見なくてもいいので)そこにマジックで「あほ」と書いてみて下さい。はがして文字を見たときに、それが鏡文字になっていなかったとしたら、あなたは特殊な才能の持ち主です。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
そうしていけば、その発言前のところまでは戻れるだろう。いずれは。
答えはNOだ。
学ぶべき教訓は、「一度でも手放したら、それは二度と同じ価値ではなくなる」といったところだ。
ほかにも君が出産したとき、その赤子をまたお腹に戻そうとしても、理屈は同じことだな。
拡大解釈するなら含めてもいいが、まあ基本的には含めなくていいだろう。
と言っても、はてなブックマークにバカが増えたわけじゃなくて(「互助会」とかはバカだと思うけど)、インターネット全体にバカが増えたから。バカが増えると目立つバカが出てきて、その目立つバカをはてなブックマークが「バカ」と言っている割合が結構大きくなっていて、その状態(トップページのホッテントリ割合)は私にとってはあまり面白いものではなくって。ゴシップや炎上やそういうワイドショー的なものを求めている層にはそういう割合でいいんだろうけど、昔のはてなブックマークってそういう感じじゃなかったはずで、優れた記事には優れた批評が寄せられ、優れていない記事にも斬新な角度からの視点が差し込まれたり、そういう場所で、なんというか、はてなブックマークに来る意味みたいなものがあったんだけど、バカにバカと言っている割合が増えた今、はてなブックマークはもはや他のニュースサイトとかとあまり変わらないと感じていまして。バカにバカと言っているのがあってもいいんだけど、もうちょっと割合が昔に戻るといいなあ、と思っています。