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2017-10-25

杉本博司コメントについて

杉本博司の「国威発揚発言話題になってる。

千葉雅也は皮肉と受け止めたようだし、東浩紀はわりと本気ととっていそう。私自身は前段とのつながりから、天然寄りの老人による大真面目発言だと思った。

でも正直、本気だろうが皮肉だろうが混乱させるのが目的だろうが大差ない。ただひたすらに、言及するのそこなの? というモヤモヤした気持ちになるのが気持ちわひーです。

2017-01-09

写真家には高学歴が多くなってきた。

今、写真勉強をしているが、写真家と呼ばれる人達高学歴になってきたので学がない自分にとっては非常に辛い時代になってきた。

写真家と呼ばれる職業人達が意外と高学歴が多い。ここでいう写真家とはプロカメラマンと呼ばれるような職種人達ではない。

今でこそコンセプチュアルアーティストとも芸術家とも呼べるような写真家達だ。

以前は東京写真専門学校ビジュアル系専門学校卒やどこかのカメラマンのアシから写真技術を駆使しながらも作品を完成し、コンテストに応募し

優秀の美を飾るようなことがステータスだったが、ここ最近写真作品はどれも現代アートのようにコンセプト重視となってきたため、写真技術だけ

ではなく写真言葉ステートメントポートフォリオの見せ方、プレゼンが重視になってきたように思える。

ちなみに写真家大学を、一部挙げておくと。

畠山直哉筑波

荒木経惟千葉大

岩合光昭法政大学

鬼海弘雄法政大学

杉本博司立教大学

鷹野隆大早稲田大

大山千賀子ー学習院

港 千尋ー早稲田大

赤鹿 麻耶関西大学

奥山由之ー慶応義塾

木藤公紀ー東北大学

・・

そのほかにも最近写真受賞をしている方を見るとコンセプトがしっかりしておりとても哲学的視点面白い

プレゼンスタイル高学歴だと簡単だし、コンセプト文章を作るのも簡単なのだろう。

勿論、これだけではないので東京芸大であったり、京都市芸大、その他の多摩美日大武蔵美、大芸大なども

多くいるが、それらの人は芸大できっちりと教育を受けてきた人達ばかりだ。他にも海外写真を学んできている人もいるだろう。

写真ポートフォリオレビューでもフランス人アメリカ人ポートフォリオレビュアーが増えてきており、一通りに

まずは英語が最低でもできていないと自分写真意図が通じない。自分はF欄大卒であるが故に英会話はおろか人のステートメントさえ理解できない、

書けない、プレゼンすらできる能力もない。はっきり言う「バカ」だ。

「明るい部屋」や「写真論」を読んでもプンクトゥム理解できず3行で寝てしまうという始末。

元々、コンセプト写真海外写真家が活発に制作してきたものではあるものの、写真技術センスはなんとかなるが、頭を使って文章を組み立てる

となると元々の良さがあるから努力できない。

特に最近写真家と名乗る人が少なくなってきており、写真芸術とみなし、芸術家自称する人も多いので写真家と呼ばれる人も少なくなってきたように

思えるし、InstagramSNSの発達で従来の写真表現の在り方も日々変化しつつある。それらにもうついていけない。

写真集は集めてみるものの、どの写真が良いのかわからない。自分が良いと思った写真は周囲からは「そんな写真家写真集が良いの?」

揶揄される始末。マイナーホワイトピーター・ウィトキンなどの写真には特に強く惹かれるが未だに「どこが良いの、そんな写真が。」と言われる。

マイナーホワイトが良いと言ってる時点で写真を見る目やセンスすらないのかもしれない。

逆に赤鹿さんや奥山さんの「BACON ICE CREAM」の良さが理解できないと言うと攻撃される。

今後は写真芸術勉強するなんて高学歴じゃないとだめなんだ・・今、気づいた、ああ・・どうしよう。バカなんだな・・。

2016-05-16

我々はいつまで絵に描いた餅を追い続けるのだろうか

芸術腐臭を放し始めた昨今、私は趣味世界へと時代遡行していくことにした/杉本博司

2009-03-02

ただ祈る

先日ひさびさに中学生ドラマを見た。主演の少女がとてもキュートで、存在感があった。ブラウン管に釘付けとはこういうことを言うのだろうというくらい凝視していた。しかし、ジュニアアイドルとりま絶望的な環境と同様に作り手の無能さを感じざるを得なかった。彼らはなぜかくも無能なのか。無能者達は彼女がいかなる存在なのかついてまったく無知なのだ。無能者達に共通して欠損した能力と言わざるを得ない。なぜ彼らはかくも凡庸なのか。彼らがただ凡庸なまま生きていくならまだしも、その凡庸さは、なによりも少女の足かせとなる害悪なのである。存在無知な凡庸な無能者が、嬉々として、空疎な内容を埋めるべく、存在を貶めゆく様は、悲劇を通り越し、滑稽としか言いようがない。中学生ドラマに内容などはない。あるのはフレームと、光や音、編集を含めたいくつかの操作、そして、それらが織りなす最小限の政治的空間を軽々と逸脱してゆく少女存在だけである。無能者は内容に囚われる。凡庸な内容によって非凡な存在を支配しようとする。凡庸な表情、凡庸な仕草、凡庸な台詞。これらは無能者どもが、すべての対象を等しく消費物と見なし、支配せんとする、凡庸な権力欲の所産である。非凡であるのは彼女存在、それだけである。しかし、無能者達はそれに、そしてそれが自らの能力では近づきえない存在であることに、気づく能力がまったく欠けている。なぜなのか。悲劇としか言いようがない。彼らはなぜかくも無能なのか。そしてやはり何にも増して、ジュニアアイドルの無能な作り手には絶望せざるを得ない。もうすべては手遅れなのかもしれない。かの十四歳の少女は、今年にも水着を脱がなければ、一生無能者と無能な取り巻きたちの餌食となり、消えていくのだろう。もうすべては遅すぎるのかもしれない。絶望的なのかもしれない。杉本博司写真建築シリーズにある、ある種の建築物のごとき、フレームの中に溶け消え去ることなく、存在を、あるいは亡霊のごとき存在の影を誇示しうる、かの少女が、無能者たちの、あるいは無能な取り巻きたちの、狭隘な視線の中で、腑を喰い尽くされ、残骸も残さずに、消えていくのだろうか。憂鬱だ。

 
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