はてなキーワード: 独自解釈とは
わたしが通っている高校で、「二枚舌をみつけなさい」という宿題が出ました。
新聞なんかを読んで矛盾する主張を見抜くということを想定しているようです。そこでわたしは
お店の味のチャーハンを作るコツ - Lattice in the Lettuce
http://d.hatena.ne.jp/lettuce_chan/20140608/1402221281
「お店の味のチャーハンを作るコツ」が科学的だとか言ってる奴
anond:20180614040547
上記二つのエントリについたブックマークコメントを読み込み、目を皿のようにして重複を見つけて来ました。
その結果、意外なことに二枚舌は見つけられませんでした。宿題にならないのでここに捨てておきます。
#本当は「顔真っ赤www」みたいのが欲しかったんですけどね。
id | 元ブログへのコメント | 匿名ダイアリーへのコメント |
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yukifurusawa146 | 試したくなった | 冷凍チャーハンの安心感 |
kote2kote2 | みんなチャーハン好き過ぎだろ | 知らねーよ。お前の作ったものがうまけりゃ納得するだけで、長文書かれても納得しねーの。 |
stealthinu | 最後のチャーハンの科学的説明が本番『食用油は…トリアシルグリセロールであり…固形にはならない。…ご飯の表面によく馴染む。このメカニズムによって…ご飯粒に潤滑性を与えたものがチャーハン』 | チャーハンの科学の話の反論。もうこうなると自分の化学知識ではとてもついていけんわな… |
perl-o-pal | 英語fried liceと言うのは、外人コックは良く見てるなあと思った。まあ日本人が「炒」を独自解釈してるのか//「えっマジで?ヤバい」って量の油を入れると本当に食えたもんじゃなくなる | 元ブログも増田も化学的な説明部分は仮説に過ぎないと感じているが、仮説に仮説で反論しても仕方ないんじゃ? |
evergreeen | 「なるわけがない」という態度は科学的?科学というなら実証しなければならない。テフロンのフライパンで卵とご飯だけを炒めたものと、油とご飯だけを炒めたものを比較してほしい。ちなみに旨い店はラードを使う。 | 元記事は明らかに釣り。そもそもチャーハンごとき、自分で試せることを試さずにそれっぽい説明で納得してしまうあたり、はてブは相当な理系コンプの集まりと見た。 |
shima2tiger | お菓子も自分で作るとバターと砂糖の多さにビビる。でも、そこをケチるとぼんやりした貧乏くさい味になる | チャーハンが旨けりゃ何でもいいよ(文系脳) |
c_shiika | 世の中にはチャーハンをさらに上回る油を使った(というか油で米を炊く)オシュ(プロフ)なんて料理もあってな | 「両親媒性」も「トリアシルグリセロール」も「でんぷん」も中学か高校で習う言葉 |
前回『【新共通テスト記述式】氏岡真弓氏による朝日新聞の記事を批判する』という記事で、朝日新聞編集委員 氏岡真弓氏の署名記事について批判した。
その要点は、氏岡氏の記事が、国立大学協会入試委員会の対応に関して、(意図的にせよ結果的にせよ)明らかな印象操作を行い、「新共通テストの記述式試験を大学側が採点する」という方法が極めて問題の多い案であるという事実を十分に報じないまま、この方法の採用を後押ししてしまっているという点にある。
いくつかのコメントに飛ばし記事であるとか文科省側のリークというような話が出ていたし、私自身もその可能性はあると考えている。
しかし、その一方で、私は文科省も国立大学協会も正しく状況をレクチャしたにも関わらず氏岡氏自身が(意図的か無意識かはともかく)内容や方向性の間違った記事を書いた可能性、つまり氏岡氏の持っていた見解やバイアスや資質の問題が今回のような記事を書いてしまった原因である可能性も留保している。
これらの点を詳らかにするためにも、氏岡氏は自分自身の言葉で今回の記事に関する経緯を説明してほしいと考えている。
今回私が批判したいのは、8月19日付朝日新聞4面に掲載された『<解説>大学に負担、利用未知数 新テスト記述案』という記事である。
前回の内容は記事化の経緯に関する点であり、氏岡真弓氏に非があることは明らかであると(少なくとも私には)感じられる問題だったが、今回はもう少し論争的な部分を批判したい。
はじめに結論をかけば、
氏岡真弓氏は今回の新共通テストに関する問題特に採点方法の問題を論じる/解説するにあたって、この問題に関する十分な見識を欠いているのではないかということだ。
私が特に重要視している記事の記述は次の2つの記述に集約されている。
この問題を論じるにあたって、国立大学協会入試委員会の提出した論点整理や文科省の有識者会議=高大接続システム改革会議の出した最終報告は役に立つ。
私の批判の要点は、氏岡氏はこの記述の中で、記述式問題において何を問うかという点に関する検討・理解を十分に行わないまま独自解釈を述べていないか、ということである。
特に、「文章を理解し説明する設問」と「自分の考えを書く問題」とを明確に区別した書き方をし、大学側が採点する方法を採ることにより、後者が可能になったと断定している点である。
国公立大学の二次試験の国語で問われている問題はおおむね前者にあたり、文章の記述の内容把握や根拠説明を要求するものになっている。
一方小論文試験や国公立でも非常に僅かだが一部の大学(2016年度だと例えば滋賀県立大・静岡大・首都大学東京・島根大など。ほかにもあるかもしれない。)の国語の試験には、課題文の内容理解を踏まえる形で「あなたの考えを述べよ」という「自分の考えを書く問題」が出題されている。
では、新共通テストの記述式問題で本当に後者のような問題を出すことが想定されているのだろうか。
国語については、次期学習指導要領における科目設定等を踏まえ、知識・技能に関する判定機能に加え、例えば、言語を手掛かりとしながら、与えられた情報を多角的な視点から解釈して自分の考えを形成し、目的や場面等に応じた文章を書くなど、思考力・判断力・表現力を構成する諸能力に関する判定機能を強化する。(p.54)
とあり、ここにみられる「自分の考えを形成し」という語句は一見氏岡氏の記述に合致しているように見えるかもしれない。しかし、これは、例えば選択肢を選ぶのではなく自分の言葉で説明することを指していると通常は解釈するように思う。
実際、
「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」の記述式問題については、現在、国立大学の二次試験で行われているような解答の自由度の高い記述式ではなく、設問で一定の条件を設定し、それを踏まえて結論や結論に至るプロセス等を解答させる「条件付記述式」を中心に作問を行うことにより、問うべき能力の評価と採点等テスト実施に当たっての課題の解決の両立を目指す。(p.56)
と述べられていることを見落としてはいけない。最終報告のp.75に掲載されている図も見落とすべきではない。
つまり、「解答の自由度の高い記述式」や「小論文」は、創造性・独創性・芸術性の評価も含む問題であり「個別入試になじむ」と整理されている。
仮に大学が採点することになるからといって、この整理を放り出して、「解答の自由度の高い記述式」や「小論文」を出題するとか、
「自分の考えを書く問題」を出題すると述べるのは、議論の成果である最終報告よりも明確に一歩踏み込んだ記述になっていると言わざるを得ない。
では国立大学協会の「論点整理」ではどのように記載されているだろうか。
解答文字数をふくめて出題の多様性の幅が拡大することである。また、設問の中に構造化された能力評価の観点を踏まえつつ、各大学(学部)はアドミッション・ポリシーに基づき独自の採点基準を採用することができ、各大学(学部)の主体性が発揮できる。
ここでいう「解答文字数をふくめて出題の多様性の幅が拡大する」という記述には、氏岡氏の言うような「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題づくりが可能」という趣旨を読むことはできないと私は考える。
というのも、ここでいう「出題の多様性」という文章は、前半にある次の記述を受けてのものだからだ。
全国共通試験への記述式・論述式問題の導入は、多肢選択問題では測ることのできない能力を評価するための大改革であり、適切にその能力を評価するためには相当数の問題が課されるべきである。また、評価すべき能力が個々の設問の中に構造化されるわけであり、その観点からは、短文記述式(40-50 字)設問のみでは、改革の主旨に沿った十分な評価を行うことができないと言わざるを得ない。解答文字数を含めて出題の多様性が出来るだけ拡大されることが望ましい。短文記述式のみでは早晩パターン化し入試技術化する危惧もあり、持続可能性の観点からも、同様のことがいえる。
これは、「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題」を出題するべきというよりは、文字数は40-50字の短文記述よりは長めで、個数は多めにするべきということである。個数を多めにというのは扱う内容の多様性を確保せよといっているように私には見える。50万人が共通して受験するテストの場合、題材が1つだけだとどうしても能力よりもその話題になにがしかの知見があるかどうかなどの運の要素も出てきてしまう。十分な量の問題と十分な長さの解答要求をすることでしか「適切に能力を評価」することはできないだろうと言っているように見える。ここには、「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題づくりが可能」というような観点は入っていない。氏岡氏の記述は国立大学協会の「論点整理」の文脈からもはみ出していると考える。
また高大接続システム改革会議の最終報告の参考資料2には、今回の新共通テストの問題例が掲載されている。(ただし、あくまでも何を問いたいかを例示するためで直接試験で出題できる問題として掲載しているわけではないという注釈付き。)この中の「国語」の問題では、交通事故の発生件数・負傷者数・死者数の年度変化を示すグラフを掲げ、「交通事故の死者数が他よりも早く,平成2年(1990年)以降減少傾向になっていること」の理由について考えさせている。要求しているのは、資料から読み取れる内容の記述や自分の主張を裏付けるためにはどのような資料を見ればよいかを記述させることである。これは、「自分の考えを述べる」問題ではないことは明らかである。
「出題の幅」とはどういう意味なのかはっきりしない。最初に取り上げた4面の解説記事の記述にもあるが、「自由記述」「本格的な記述」のような書きぶりにも現れているように、言葉の選び方が不用意で十分に検討したと思われない。
しかし一方で、氏岡氏の名誉のために、次のことは指摘しておくべきだろう。
読売新聞が8月20日付の記事『大学新テスト、英語「話す」で民間試験の活用案』の中で次のように記述している。
国大協は記述式の採点を、受験生の出願先の各大学が行う案を示した。(中略)国大協はテストを1月中旬に実施しても、各大学が採点すれば200字~300字程度の記述式が導入できると想定。大学による採点が難しい場合は、採点期間を国立大学前期試験直前の2月下旬まで延長する別の案も示した。
これも国大協が大学側が採点するという案を提示したという問題のある記述をしているのだが、それ以上に、国大協が「200字~300字程度の記述式が導入できると想定」などという「論点整理」には全く書かれていない話を登場させている点に注目したい。
「40-50字の短文解答式」ではまずいという議論から、いきなり「200字~300字程度の記述式」というところへ直接は結び付かない。
上の最終報告にある問題例は、40字以内と80字以上100字以内の設問である。通常、短文解答式ではないものを、という点でみれば、いきなり200字~300字となるのではなく、80字~100字程度の文字数ということを考えるのが自然ではないだろうか?
また国公立の二次試験を見ても、単独で200~300字の記述を要求する大学はむしろ珍しく、東大でさえ最大文字数の問でさえ100字~120字で述べさせる問題である。
もちろんこの「200字~300字」というのが、たとえば小問3個での合計解答文字数というなら話は違ってくる。(1個の大問全体での記述量が500~600字程度ということは珍しくない。)読売記事がそのあたりの正確さを欠く記事になっていることは批判されるべきだ。
といったことだ。
しかしどれであったとしても、氏岡氏の記事は、高大接続システム改革会議の最終報告からは乖離しているし、現状の国公立二次試験での国語の出題状況などについても十分把握しているとも言い難い。また19日時点では取材していなかったのかもしれないが、国立大学協会の「論点整理」とも乖離している。こうした点からも、署名記事を書いた氏岡氏はいったいどういう経緯と解釈でこの解説記事を書いたのか説明するべきだと私は考える。
実は、国立大学協会の論点整理の中には、次のような記述もあることを付け加えたい。
そもそも、記述式・論述式問題に評価すべき能力をいかに構造化できるかは、根源的な課題である。評価すべき能力の構造化があって初めて、各大学(学部)はアドミッション・ポリシーの中に、記述式・論述式問題を適切に位置づけることができる。しかしながら、国立大学全体にも大学入試センターにも、そのための知識やノウハウの蓄積は未だ十分ではない。平成 32 年度実施に向けて能力の構造化に向けた記述式・論述式問題設計の理論構築、体系化が喫緊の課題といえる。国大協としても、過去の各国立大学の個別試験における記述式・論述式問題に関する実績を調査・分析することなど、この課題に積極的に取り組んでいきたい。
これは、どのような形式で何を問うかということについて、決して十分な知見があるわけではないことを述べており、すなわちこ(「学力の三要素」といった抽象論ではなく)具体的な設計レベルでみれば、新共通テストにおける記述式問題の形式や内容についていまだに十分合意が取れているとは言えない現状を示している。にも関わらず、「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題づくりが可能」とか「大学が採点を担う国立大学側の独自案が具体化すれば、入試改革は実現に大きく近づく」などと断定する氏岡氏の記述に私は強い不信感を抱かずにはいられない。
先になにが危険かをまとめると、誤りの多いサイトが現状、「原価計算」のgoogle検索でトップに立ち、筆者がその誤りの多さを認識していながらなんの注意喚起もなされないという事態が起きていることである。当方は、原価管理を教育する立場の人間であり、影響の拡大を危惧して、何らかの注意喚起を早々に記載することを求めるものである。
現在、らくからちゃという人間の、『原価計算の基礎と基本について全力でまとめてみる』という以下のページが人気を集めている。
http://www.yutorism.jp/entry/costing
非常に膨大なテキストと図を駆使した「原価計算」のまとめであり、力作ではある。だが、それは下記のページ等で指摘があるように誤りが非常に多い。
http://anond.hatelabo.jp/20160517150742
その誤りの多くは会計の概念の自己勝手な解釈にある。断片的な知識はあるのだろうが、あきらかに体系的な学習の欠如が見てとれる内容で(「費用」の理解等)、これで原価管理のコンサルを名乗られると、業界全体の信頼を落としかねないレベルである。
それについても、次のページで指摘され、以下のように提言されている。
http://anond.hatelabo.jp/20160518022308
>頼むから、あの記事の冒頭に、「これは私の独自解釈です」という文言を、色つき太字拡大フォントで入れてくれ。
>それと、自信のないところは正直に書いてくれ。混乱する。
これに対し、らくからちゃなる人物は感謝の意を述べつつも、「ちょっと整理中のものを、不必要に書いちゃいましたね。」などと、言い逃れに終始している。整理が足りなかったレベルではない理解の不足であるのにも関わらず「整理中」で逃げ、自サイトにはなんの修正もしない。不誠実きわまりない。「原価管理のコンサル」と名乗った人間がこのような振る舞いを見せるのは、業界全体に泥を塗る行為だと認識している。
しかし、問題はらくからちゃなる人物だけの話ですまなくなっている。
らくからちゃ氏の記事が、はてなブックマークの上位にあがっただけでなく、現状「原価管理」のgoogle検索でトップに立っている。そのため「原価管理」の初学者がネットを使って調べようとしたとき、誤りの多いサイトに出会ってしまうことになっている。
筆者はその点についてどれだけの認識をしているのだろうか。注意喚起も行わない現状を見れば、自サイトのPV増と収益増に目がくらんでいると邪推せざるを得ない。
ただ、これは事故とも言えよう。
氏を取り巻く「互助会」の面々の、他愛のない賞賛によって引き起こされた事故。らくからちゃ氏が互助会に呼びかけたわけでもないだろうし、互助会と呼ばれる面々も自覚なく賛辞を投げているのだろう。言ってしまえば、氏もまた「自分の能力以上に視線を集めてしまった被害者」とも呼べなくもない。
(ただし、問題に気づきながら注意喚起をしない時点で、原価管理の誤った知識を流布する加害者側に回っているのだが)
以上のように、互助会なるものが力を持ちすぎてしまったため、誤解を生むサイトが有用なサイトと誤認されてしまう危険性がある。
これに対応できるのは、(1)作者が誤りの指摘を受けた場合、誠実に対応する、(2)読み手は「読んでもいないのに『素晴らしい』と書く」などの不誠実な賞賛を控える、(3)はてながなんとかする、頼むから早くなんとかしてくれ――という点が挙げられるだろう。
あー、http://www.yutorism.jp/entry/costingにツッコむかー。じゃあ、俺もやるかなあ……。
あの記事は会計に携わっている人間なら、正直、「どっからどうツッコめばいいか分からん」というヤツです。
正しい部分と明らかな間違いとが入り混じって、かなりカオス。ツッコむのがイヤすぎる。
その原因は独自解釈のせい。
おそらく体系だった会計の指導や専門書で学んでいないんだろうな。独自解釈があふれすぎている。
「まさか原価コンサルの世界ではそう言うのか? 明らかに間違ってるけど」
と不安になる。
頼むから、あの記事の冒頭に、「これは私の独自解釈です」という文言を、色つき太字拡大フォントで入れてくれ。
それと、自信のないところは正直に書いてくれ。混乱する。
さて、先駆者の指摘まとめておくと、
http://anond.hatelabo.jp/20160517150742 個別原価計算と総合原価計算についての説明
http://anond.hatelabo.jp/20160517185659 原価計算基準の認識についての疑義・費用の分類の指摘、その他
こういう点かな。
じゃあ、俺はどこを行こうかな……。
まずは「原価参入」かなあ。
あれだけ自信満々に色つきで書かれたらこっちが不安になるけど、「原価算入」だよね。
で、この間違いだけど、
「これ、よくある漢字間違いだけど、原価計算のプロとしてはやってはいけない間違いじゃないの?
いや、プロが堂々と使うのだから、もしかしてその業界で使う特殊な表現? 俺が間違ってる……?」
ってな感じで不安になる。
いやまあ、正直なところ「原価算入」を書き間違えるとかあり得ないんですけどね。プロなら。
そういうレベルの間違いがあふれている感じで、めっちゃカオス。
で、それはただの(ただのってレベルじゃねーぞ)漢字間違いだけど、
その周囲で扱っている『製造費用』と『製造原価』は独自解釈だよね。ちゃんと書こうよ。
たぶん、製造原価報告書の中の、「当期総製造費用」と「当期製品製造原価」を「製造費用」「製造原価」と読み替えて自己解釈したんだろうな。
ざっくりまとめると
といった感じでしょうか。
あああああ、これ、どこからツッコもう……。
基礎や基本を理解する段階ではどっちも「コスト」でいいですよ。
原価の厳密な定義は基本で語る話じゃない。
ましてや「費用」と「原価」は並べて説明するものではないので、彼の話は忘れた方がいい。
費用は上のように「費用/原価」と区分されるようなものではないぞ。
それを理解するために、まずは「費用」っていう概念を整理するところからスタートだ。
会計上の取引を表す「資産・負債・純資産・費用・収益」という5要素。
ごくわずかな例外を除き、会計はこの5要素ですべてを表すことができる。
たった5つの区分で全取引を表してしまうのだから会計は面白いんだが、
まあ、それはさておき、「費用」は会計の中心概念ってのは分かるよな。
つまり、イメージとしてはまず会計の上位概念として「費用」がある。
一方、原価はさまざまな場面で使われる用語であり、一義的な定義はない。
「元となる価額」という意味合いから、「売上原価」「取得原価」「製造原価」といろいろ使われる。
で、原価計算では、その原価計算という枠組みの中で「原価」について定義があるわけ。
あの図の中に入る言葉は、「当期総製造費用」「当期製品製造原価」が正しくて、
・当期総製造費用:当期において製造工程に新たに投入された費用額
という理解になる。
どうかな、これで分かったかな?
これだけ注目を集めてしまうと誤解をどんどん招いていくよ。
俺が指摘したのってほんの一部だけだけど、こういうの大量にあるよ。
たぶん、「会計コンサル」という地位を目立たせ、承認欲求を満たしたいんだろうけど、
それは読者に対する裏切りだよ。
今読み返していて、一部上場企業も担当したとかいう文言を見て、ヒッってリアルに声が出た……。
まあ、資料の一部の一部を作成するとかも、「案件を担当する」とは言えなくないだろうけど、
どこまで誇張しているのか、はっきり書いた方がいいよ。
あなたを信頼して「勉強します!」とか言ってくれている人がいっぱいいるのに、罪悪感を覚えないのかな。
PVが集まれば、それでOKって話かな。
参入→算入の件は、ごもっともです。費用/原価概念も、ちょっと整理中のものを、不必要に書いちゃいましたね。正直、ここまで拡散されるとは思ってませんでしたが、『信用してくれている人』の存在は心に留めます。
「費用/原価概念も、ちょっと整理中のものを、不必要に書いちゃいましたね。」
違うやん。
「ちょっと整理中」ってなんよ。
分かってないことはハッキリ書こうよって話してんのに、なんでまだ取り繕うの?
>それをユーザから見て命令型変数への破壊的代入ではなく参照透明な関数型インターフェースで実現するのがいわゆるモナドや(誰かの独自解釈ではない本来の)FRP。
http://elm-lang.org/examples/time
view : Model -> Html Msg view model = let angle = turns (Time.inMinutes model) handX = toString (50 + 40 * cos angle) handY = toString (50 + 40 * sin angle) in svg [ viewBox "0 0 100 100", width "300px" ] [ circle [ cx "50", cy "50", r "45", fill "#0B79CE" ] [] , line [ x1 "50", y1 "50", x2 handX, y2 handY, stroke "#023963" ] [] ]
HaskellのライブラリもElmのような言語も、サンプルもJavaScript実装も
https://en.wikipedia.org/wiki/Functional_reactive_programming#Implementations