はてなキーワード: 外国人とは
トイレめっちゃ行列なのに平気で並べるところ(最寄り駅ですませてくりゃいいのにライブハウスのトイレに並んだりする)
口論するといつも負けて何も言えなくなって惨めに泣いてるのに挑発にすぐ乗るところ
悪魔みたいなときも多いけど宝物みたいなキラキラの心を持ってて、機嫌がいいときは明るくてかわいくて、周りを和ませてくれるところ
「えらい便利な乗り物ひろめはりましたなあ」京都のLUUP分布図にこれから起こり得る状況に憂う京都人の言葉が漏れる
https://togetter.com/li/2429019
京都市民ではない人たちが「京都人なら底意地悪いからこういう嫌味を言いそう」と意地の悪いことを書いている。
先日フワちゃんがやす子さんにやった「やす子のアンチならこういうことを書きそう」と間違って書き込んだというポストと何が違うのか。
普段は「差別良くない」なんて言ってる人たちも、「フワちゃんはいけないことをやった」と批判した人たちも、京都はじめ地域差別なら嬉々として書き込むし、笑うし、「だって本当のことじゃないか、嗤って何が悪い」と正義の顔をする。「ただのジョークじゃないか、カリカリするなよ、空気読め」と差別の正当化をしてくる。
もし外国人が「日本人は性格が悪い」と揶揄するネタを書き込んで大笑いしていて、抗議したら「事実だし面白ネタだから怒る方がおかしい」と言ってきたら?差別だとは思わないか?
でもこれが京都や地域の話になると「面白ネタじゃないか、怒るほうがおかしい」と思ってしまう人が多い。
そして、自分が差別しているとは思いたくないから目を背け、差別行為を続行する。
そこでやめてしまったら差別していたと認めることになるからだ。
こうして地域差別は続く。
少し前までは、リベラルに寄せつつも、少し極端な言い方に変えなければ男性を怒らせることが難しかった。
最近はリベラルのメッセージを集めてきて、そのまま再利用、再発信するだけで女性に対する男性の憎悪を呼び起こし、
より男女の分断を深めることができるので、本当に助かっている。
黙って男女間の憎悪の連鎖を見届けたり、連鎖に加担するしかできない。
男女だけでなく、世代、民族、性自認、子持ち子無しなど、ありとあらゆる分野でリベラル発言の再利用で憎悪と分断を呼び起こせるので、
カオスを楽しみたい立場からすると、天国みたいな状況が生まれている。
右翼や民族主義者の攻撃的な発言は社会的に規制されるようになってきたが、リベラル発言として女性を持ち上げ徹底的に男性を攻撃したり、
攻撃された側には憎悪の心が植え付けられるが、リベラル理論ではただのマジョリティの逆上として片付けられる。
知り合いが行政のコロナ支援金の窓口業務の委託作業をしたと言っていたがこの話に似てたな。
ここは微妙なところ。
特定のお客さんのニーズにこたえつつそうでないお客さんも利用してはいいという体裁で、そうでないお客さんが使いたくならないような値段で出すという排除の仕方があってね…。
もちろん、建前では排除してないんだけど、本音は排除したいので、わざと高めな値段で出すとか外国人相手の不動産もよくやるんよ。
気づけば10年ぐらい前に完結していたのだが、途中で作者がサンデーで少年漫画始めたり初のBL漫画に挑戦したりで中断があって心が離れていた
中国の古代の書物に日本人学者が魅了されて憑かれたように和訳したところ、和訳本自体が呪力を持ち、物語を完成させるために若い娘を本の世界に吸い込むようになった
物語中には朱雀・白虎・青龍・玄武の四神をそれぞれを信仰する大国が4つ登場し、それぞれの国に危機が訪れた際に神を召喚する異世界の巫女を必要とする
無印の『ふしぎ遊戯』は朱雀の巫女と青龍の巫女になってしまった現在日本人の話で、今でいう異世界なろう小説のようなノリ
無印では、「大正時代にも一人の少女が本に吸い込まれて「玄武の巫女」になり国を救ったが、巫女とは生贄であり、玄武に心身を捧げる儀式を経て死んだ」と語られている
玄武編主人公である多喜子は最初から死ぬことが運命づけられており、どうなるんだろうと気になりながら読んだ
神獣召喚には巫女だけではなく七星士と呼ばれる、体に星の名が一文字刻まれ生まれてきた戦士をそろえることも必要
無印に登場する「朱雀七戦士」は全員若いイケメンで、当時は女児も大人の女性もハマり、「bisyounen」という語が英語圏にもアニメをきっかけに広まったという
少年向け作品のイケメンにおこぼれで萌えるのではなく、女性向け作品でイケメンカタログをやって萌えさせてくれる作品は斬新だったのだろう
主人公はイケメン戦士の一人と恋に落ちるが、他のキャラも人気があり、全員を攻略できる乙女ゲーも発売された
一方で、イケメンにちやほやされる、可愛いけどおバカで、うっかりミスによってイケメンたちを死に追いやる主人公・美朱(みあか)は憎まれた
ネット黎明期、海外掲示板で大規模なアニメキャラ人気投票が行われた際、嫌いなキャラランキングでは1位がエヴァのシンジ、2位は美朱だった
美朱は国内ではまだ可愛げが評価されていたが、海外での不人気っぷりは凄まじく、アンチの凶暴性もあって昔は美朱アンチの外国人ネタがよく語られた
美朱はおバカだが、多喜子は一応落ち着きがあって真面目なキャラだった(ただ作者の限界があるのでたまに頭悪そうなムーブもする)
そして玄武七星士は朱雀七星士と違ってイケメンカタログではなく、太った真ん丸な男児や、40代ぐらいの中年女性、石人と称される人外などがいる
真ん丸男児は「アクセルワールド」の主人公みたいな風貌で、石人はもののけ姫のコダマみたいで、どちらも可愛いマスコット枠
主人公パーティにあのような容姿の中年女性がいるのはかなり珍しいだろう
現実世界と本の世界は時間の流れが違い、現実世界は玄武→朱雀まで70年程度だが、本の世界では200年経っている
イケメン二人は戦いの中で死亡し、霊となった後も多喜子の残したアイテムを外敵から守るため200年現世に留まり、美朱とも会っている
戦いの中で若くして死ぬことが既に決定しているキャラとして玄武編でイケメン二人を見る
「神獣召喚して平和になった後は落ち着いた生活ができるだろうから、地元に戻って妹の面倒見てあげなきゃな~」みたいな発言が出るたびに、戻れずにお前死ぬんだよな~と
どうも作者の渡瀬悠宇は「イケメンカタログで売れた」「いかにも少女漫画的な恋愛脳展開で売れた」という評価に不服であったらしい
戦士のイケメンカタログは避けているし、無印で登場人物が恋愛脳なのは編集部指示によるところが大きいとフリースペースで釈明
「恋愛展開よりもバトルを書いている方が楽しい、私ってつくづく女脳じゃないなあ」とも発言
戦士に多様性があるのは良かったとは思うが、正直なところバトルは少女漫画としては描けてる方ではあるが特に面白い戦いではない
リリカル恋物語こそが上手く描ける人で、玄武編でも「あの戦闘熱かった」と印象に残る人はあまりおらず、「あの恋愛エモかった」という人の方が多いと思う
和月信宏はるろうに剣心京都編のイケメンカタログが評価されたことに反感を持ち、人誅編では非イケメンばかり出していたが(そしてキャラ人気はなかった)、渡瀬も同じ心境だったのか
「軽薄なイケメンカタログや恋愛中心じゃなくても硬派路線で人気出せるんだよ!」という読者への逆張り
渡瀬は玄武編の途中でサンデーで少年漫画を連載開始し、週刊連載と同時進行なので玄武編の休載が多くなった
玄武編も読んでみると、初期は丁寧だったが後半は絵の書き込みが減り、展開も詰め込みハイペースだと感じられた
「夢の週刊少年漫画」を優先して、「少女漫画」への優先度が下がり、玄武編を早く終わらせて少年漫画に集中したかったのかな
面白く読めはしたが、玄武編だけに専念してこちらを丁寧に描いてほしかった
得意なこととやりたいことが違う、そういう人っているよな
契約が適当な習慣を続けてたためにトラブって原作者自殺させたテレビ局とか。
加担者してる人たちにも責任がある、って言い出したら何もできなくなっちゃう。
常にビクビクしながらネットを注視してないと、気楽に生きることができない世の中ですよ。
そんなんヤ。
日本国憲法第22条第1項
マジレスすると憲法22条1項で「営業の自由」で、店舗には商品やサービスを提供する顧客を選ぶ自由があるし、値段も好きに決められる。相席居酒屋が合法なのと同じ//誹謗にならない範囲でそれに文句言う自由もある
公共の福祉とは、他の権利と衝突した場合は裁判で決める、という規定だったと思う。
女性だけ半額は憲法14条1項「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と衝突する。
だから、営業の自由により女性半額が許されるかは、裁判しなければ分からない、が答えではないかな。
ドイツ州議会選挙で極右政党、ドイツのための選択肢(AfD)が初の第1党となった。
以下引用だが末恐ろしい。
https://www.jiji.com/sp/article?k=2024082400307&g=int
“AfDを巡っては、党首側近が今年1月、右翼活動家と移民の大量追放計画を謀議したと報じられた。ナチスのユダヤ人迫害を想起させる内容に社会は震撼した。
ドレスデンから南西約20キロのピルナでは7月、小学校の児童らがナチスを象徴するかぎ十字を作ったり、右翼の間で流行している「外国人は出ていけ」という替え歌を歌ったりしたことが明るみに出た。「昔はあり得なかった。今は右翼の憎悪表現が当たり前になっている」。同じ学校に子どもが通っているという自営業の男性は嘆いた。
ピルナでは2月、ドイツで初めてAfDが擁立した市長が就任した。市庁舎では例年、LGBTなど性的少数者のパレードの時期に合わせて多様性を表す虹の旗が掲揚されてきたが、今年は新市長が取りやめた。”
まさか、あのドイツでこのようなことが起きるとは、信じられない。今までありえなかった。
移民の問題はもちろん、ウクライナ・ロシア戦争の影響も大きいだろう。平和な時代だからできた弱者の保護が、情勢が緊迫してくるとできなくなってしまう。
日本でも、自衛隊が軍備増強しつつあり、リベラル・左派は勢いや大義名分を失いつつある。
九州の男性に対する差別の話を聞いて思ったことをちょっと書く。
コメント何かを見てると日本人同士でさえそういった不毛な話し合いになるのだから差別は難しい。
・在日韓国人の中で悪事を働いているのは一部なのだから、それをもって全体が悪だと考えるのは差別である。
これは間違い。それは差別だよと教えることはできても、差別をやめろとか差別されたから殴り返すというのは間違い。
差別はなにもないところから生まれないし、人間もすべての差別に自覚ができているわけではない。
だから差別をする側の人間には、それが差別だと教えることができても、差別をした事自体を責めるのは間違ってる。
大体の人はここを勘違いしている。
差別は良くないけど、差別をした人間だけを責め続けても差別は解決しない。
責めるべき相手を間違えている。
・わたしが悪事を働いていないとしても、同じ在日韓国人なのだから悪事を働いている人間に働きかけるべきだ。
これも間違い。わたしはわたしで、悪事を働く在日韓国人とは関わりのない他人。他の在日韓国人の悪事の責任を他の在日韓国人が背負う必要は一切ない。
例えば日本人が日本人の犯罪に責任を感じてるところなんてほとんど見たことない。国内でもそうだし国外でもそう。
オリンピックで金メダルを取ると同じ日本人として誇らしいというのに、犯罪者を見て恥ずかしいと思ったとしても責任を感じてどうにかしなきゃいけないという話になっているのはほとんど聞いたことがない。
それくらいおかしいことを言っている。
・ではどうするべきか。
責めるべきは在日韓国人全体でもなく、差別した側の人間でもなく、悪事を働いた在日韓国人を放置している他の在日韓国人でもない。
では誰か。
それを在日韓国人という属性のせいにせず、とにかくその個人に責任を問うべきであり、その個人が自らの行動を省みるしかない。
それをもって、だからベトナム人を入れるべきではなかったというのは、わかっての通り完全な差別である。
すべてのベトナム人が犯罪を犯すわけではないし、かといって犯罪を犯したことがないベトナム人が、日本人に差別をしないでくれと言っても仕方がない。
国籍によって倫理観の違いはあれど、そんなものは日本人同士にだっていくらでも違いがある。
そうなれば、犯罪を犯したベトナム人を粛々と裁いて日本での犯罪の重さを自覚させていくことしか効果は期待できない。
その犯罪に対する刑が軽いなら、外国人関係なく世の中の流れに合わせて重くしていけばよいことだ。
日本人だけ軽いままで外国人だけ重くするなんてことはただの差別でしかない。
九州の話に戻って言えば、そういった男尊女卑の文化があった事自体が事実として、それをもって全体に言及すれば明らかに差別である。
かといって差別した側を責めたところで、現状は変わっていかない。
そうなれば、現行で男尊女卑の文化のまま生きている人間たちが、気づいて、変わっていくことが最も効果が高い。
くわえて、差別された側の人間だって、それが差別だと証明するような生活を送ることもできる。
言葉で反論するのではなく、行動で示して差別する人間達に対して知らんぷりをしていれば良い。
自分がしたことはまさにそれで、日本で生きることとは何かということだけを考えて、正しく生きてきた。
差別されたことを理由に一度でも自らの悪事を肯定してしまえば、それはもう差別ではなく事実になってしまうからだ。
こういう考えの人が一人でも増えれば差別のもととなる批判の原因がなくなり、やがて中身のない思い込みだけで差別をする人間だけが残る。
差別となる原因すらないのに差別を続けていれば、それはもう差別を越えてデマや虚偽の拡散という悪意でしかない。
そうなれば、それは罪となり、差別される側の人間が行動を起こすまでもなく社会によって正されることになる。
伝わるだろうか。
https://web.archive.org/web/20240901055940/https://anond.hatelabo.jp/20240831230120
https://anond.hatelabo.jp/20240831230120
探す機能で場所を検索してみると、本日訪れた大型スーパーの周辺にあるらしい。
恐らくセルフレジでポイントを登録したときに操作したまま置き忘れたようだ。
私「すいません、店内でスマートフォンを忘れてしまったのですが。今日の12時から13時です」
男「あ、13時。はい。少々お待ちください。」
その後5分ぐらいでスマートフォンは戻ってきた。ロックを解除して私の所有物だと証明する。お礼をいう。ここまでは良かった。むしろ私のスマートフォンを拾ってくれた店員には感謝しかない。
男「それではちょっと書いてもらいたい書類があるのですが。日本語は書けますか?」
私「はっ?」
それまでのスマホが無事に見つかったときの安堵感。ちゃんと拾ってくれて店内のバックヤードなりで預かってくれたスーパーの店員に対する感謝の気持ち。
それらの安らかなプラスな感情が全てひっくり返って、一瞬でズブ黒い負の感情に差し替わった。
男の店員から差し出されたのはボールペンと何かの受取証みたいなもの。
多分、遺失物として警察に届けていたからその手続きの関係で書くのだろう。
私の過失でわざわざ警察にまで何か連絡させてしまったのは痛み入るが、とにかく、そこにあったのは、私の名前と住所と電話番号だけを書くだけの1枚のペラペラの書類。
もちろん他にも色々と書いてあったとは思うが、とにかくこの時点で脳溢血するほど憤死しそうな感じで怒りの感情で支配されていたので、書類の中身は知らない。
男「あ、そうでしたか」
私「・・・拾ってくれた手前感謝はしてるけど、すごく気分が悪いですね」
男「すいません」
私「なんでそんなことを?」
男「外国の方かと思ったので」
私の外見から言うと髪の色は黒。肌の色は黄色で少し焼けてる。背丈も低い方。メガネはかけておらずマスク着用。
くたびれた中年の日本人にしか見えないと思う。韓国人みたいなサラサラの髪型やメイク、中国人みたいなツヤツヤの肌やメガネはしていない。
少なくとも容姿からは外国人を想起させる要素はどこにもないし、スマホだって別に外国人のものと感じさせるようなアクセサリーなどは一切ないはず。
なぜ、この男は私を外国人と決めつけた。別に外国人が多い地域ではないし、外国人が多く利用するスーパーでもないだろう。
たとえば預かってもらったスマホに外国語のメッセージが表示されていたとかなら分かるが、そんなのは普段からOSレベルでもう100%純粋の日本語一択だ。英語すら怪しいから。
しかもだ。
店員から提示された書類は、名前と住所と電話番号を書くだけのもの。
たとえ外国人であっても日本に来て半年から1年ぐらいあればすぐに書けるレベルのものではないか。
逆に言うと、そのレベルの識字能力もない外国人の人間だと決めつけられた。
自分の 名 前 と 住 所 を 日 本 語 で 書 け な い レ ベ ル の外国人と決めつけられた。
自分の 名 前 と 住 所 を 日 本 語 で 書 け な い レ ベ ル の外国人と決めつけられた。
自分の 名 前 と 住 所 を 日 本 語 で 書 け な い レ ベ ル の外国人と決めつけられた。
心の底から、腸の底から煮えくり返るような憤怒。もう頭に血が登ってカンカンと何か煮え滾るほどの沸騰が今起きている。
それと同時に感じているのは、これを侮辱と感じるのは私だけなんだろうかという冷静な気持ちもある。
川口のクルド人も話題だが、日本は日本人だけの国ではなくなってきており、差別的な言動を行う人はネトウヨなどの扱いを受けつつある。
だからこそ「お前は外国人ですか?」と尋ねられただけで憤怒する人は、影では外国人のことを下に見ているというそしりは免れないだろう。
むしろ多民族国家の国であればルーツについて語るのは挨拶程度なのではないだろうか。
しかし、ともあれ私の心は荒波のように揺れており、もう腸が煮えくり返っている。怒髪天だ。
私は決してネトウヨではない。なのに外国人扱いをされたことを最大級の侮辱だと感じて、この店員ひいてはこの会社の上司に鬼電して罵声を浴びせないととても心が収まらないほどの屈辱を受けて大きく心が傷ついている。
これは恐らく数年いや10年は引っ張るだろう。もっとか。それぐらいの心がえぐられた。
置き忘れたスマホを拾ってくれた手前、そう大っぴらに怒ることもできない。
しかし怒りのあまり、その場にあった段ボールを蹴っ飛ばすぐらいのことをして退店した。
それだけでは収まらない。
帰宅した直後にそのスーパーの会社のサイトを開き、問い合わせフォームにスマホを拾ってくれたことの感謝と軽い顛末を書いた上で、どうして憤怒しているかについて述べて、責任者と直接電話で話したいから至急連絡をくれと書いて送信した。
そのときにまだ憤怒していればの話だが、恐らくこの怒りは寝たら倍増して明日にはもうとんでもないレベルに達すると思う。
しかし、こんなに怒るのは私だけなんだろうか、という疑問も依然としてあるのだ。
日本在住ン十年、先祖代々からの日本人が「自分の名前と住所を書けないレベルの外国人」に間違えられることは、果たして侮辱なのだろうか。