はてなキーワード: 公言とは
そう公言してる原作者もいるし、見たくないといえば鍵垢に引っ込むようになるからパッと見、目につかなくはなるんじゃない?まあ、それで活動自体もやめてしまう人たちもいるだろうけど。
V界隈追ってるなかでも最近一番もやもやしてて、SNSでも今言及が少ないし、自分の意見整理するためにもここに書く。
一言で言うと彼の転生はチート級だ。今まで色んなVがバズるのも見てきたけど、これだけは嫌だった。
彼はその「チート転生」のおかげで2日で十数万人という巨大な記録を打ち立て、ユーザーローカルだと、にじさんじの中位陣を一気に飛び越し現在19万近くの登録者で総合31位に。
彼のことは今回初めて知ったけど、Vになって話題になってからハイポ3本とも見た。ニコニコ馬鹿四天王と言われてるのも知った。昔の動画自体が面白いと言われるのも分かる。
でも、金かけて人脈作って3Dのガワまで作ったのに、ガワ以外そのまま転生は納得いかなかった。ネットワークづくりは上手いけど、タブー視される一線を超えてしまったと思えてならない。
それで今回は幾つかに分けて何故自分が馬犬の「チート転生」について納得できないか幾つかの点を書く。
V界隈で前世の功績を利用してVに入ってきたものはいる。ただ最初にいうが、どれもアバターとは名前や設定などで一定の距離を少なくとも作ってから転生している点は共通している。
A.前世が有名で比較的公然ではあるが、公言せず、本人から匂わせる発言は一切しない (例、葛葉)
B.前世が有名で本人から匂わせる発言はあり、ほぼ公然ではあるが、本人から一切公言しない、もしくは封印させている (例、田中のおっさん)
C.前世が有名で本人は公言せず一切認めていないが、ほぼ公然の状態 (例、ウェザーロイド TypeA Airi)
D.前世は有名ではなく、本人から自分が誰であるか公言しているが、アバターとは名前・設定・外見で差を付け、一定の距離を付ける (例、MonsterZ MATE)
Dはかなり特殊な例ではあるが、魂である本人が話すように、中の人=アバターな関係ではなく、あくまでノットイコールな関係としてアバターとは少し離れた関係となっている。
例えるなら武藤とムタの関係──高坂はしやんが語る、VTuber「MonsterZ MATE・コーサカ」の可能性 https://panora.tokyo/64064/
また彼ら自身は前世が特段有名と言うわけではないという点も述べるべきだろう。
これらA~Dは結果としては、演者である魂と外側であるアバターと紐づいてはいるが、ある程度離れた存在と認識されている。有名で公然としているものもあるが、本人が認めないことも受容されている大きな要因となっているだろう。浄瑠璃で言うところの人形遣いの黒子と人形という関係に近い。
対して馬犬は、今のV文化の2次創作が盛んなニコ動での前世が有名で、本人が動画で自分の事を公言し、アバターには設定や名前が一切ない、ただの美少女のアバターである。距離感は一切なく、人形劇で人形遣いが自身を人形と称して壇上に上がるようなものだ。
彼の今回このような転生をしたことについて、擁護する意見も度々見られた。そんな常識が古いのだとか、勝手にタブーにしているだけとか。この項ではそれらへの反論も含めて、話そうと思う。
どの禁忌も出来たのには何等かの理由がある、それをしたら病気になったとか、事故に見舞われたとか、それをしてしまったために災いが降りかかると思われる・思わされるから出来ることが多い。
では、自分が話しているVの禁忌を破ってしまうことの災いとは何なのか。
V界隈は普通のYouTube(以下YTと呼称)界隈より狭く、必要な機器も多いため経費もかかりやすい。現在Vで1位のキズナアイはYT全体だと21位。V2位輝夜月は168位。V3位ミライアカリは246位である。
力もあり、人脈もあり、名声もある人が馬犬のようにVなら大成できると乗り込んで来たらこの界隈に何が起こるだろうか。
それは彼のマネをして距離感がほぼないアバターのチャンネルが登録者数を一気に伸ばし、それまで地道に努力を続けていた個人勢や、にじさんじやホロライブの企業勢さえ太刀打ちできない状況が成立する事だ。
極論ではあるが、今YT界隈でトップクラスのヒカキンやはじめしゃちょーが馬犬と同じ方法で転生してきたと考えると分かりやすいだろうか。
そこで起きるのはV界隈の活性化ではなく、Vファン同士の衝突や界隈の活力の低下、今まで頑張ってきたVの引退も加速しかねないことなのだ。大変な劇薬である。
だから今まで前世が有名な人は誰もこの禁忌を破ろうとはしなかった。有名声優が魂のVもいたが、大手を振って自身の魂の名で活動しないのはそこが原因であるとみていいだろう。
だが彼は破ってしまった。恐らく数百万近くという潤沢な資金を使い、豊富な人脈を使って美しい少女のアバターを手に入れた上で初手3Dにし、大々的に自身の告知をして様々なネットニュースに載ってさらに拡散された。
ツイートを見るに、彼は興味があってVに足を踏み入れたのかもしれないが、興味を持ったことに夢中で、そこで行ってはいけないことは頭の中には無かったのだろう。「郷に入っては郷に従え」という言葉を誰かが彼に教えるべきだったろう。
世の中様々な常識・決まり事があるが、時折それを破れば面白いとか良くなると言い出す人はいる。
だが間違ってはいけないのが、それは斬新であったとしても、結果成功するとは限らないことなのだ。そしてその常識や決まり事が出来たのには何等かの理由が必ずある。これは常に頭の中に入れておかねばならない。
2の項で紹介した擁護意見には面白い動画が来れば文句がないような意見も散見された。
だが自分は面白い動画が来たとしても、それはかなり頻度が落ちるものであることが考えている。
彼はニコ動活動していた中でVになるまでの11年間に4本しか動画を出していない。最初の動画から最後に動画あげた期間と捉えても8年間で4本。2年に1本しか出していない計算になる。
そして、彼はVとして復活した後も新しく動画上げようとせず、動画は組み立てていると言っておきながら2週間以上経っているが動画の音沙汰はない。
なのに、急に他のVに凸して生放送コラボしていたりするという行動の不一致も見られる。
彼はマイペースに動画を出しているのではと思われる方もいるだろうが、そんなのんびりやりたいなら尚更「馬犬」という名を出すべきではなかっただろう。
自身がニコ動でどう扱われたのか知っているなら、地道にV活動をしていっても良かったはずだ。
登録者を増やすのならば1週間以内に動画を出すのがベストだったろうが、それをせずに視聴者を煽り、動画を出さない言い訳をしているのは、少し見苦しくないだろうか。
無論メインに別の仕事をしている可能性も大きくあるが、尚更煽りや言い訳をするべきではなかったろう。最初から時間がかかるのなら、次の動画がどれ位になるか目安を言っても良かったはずだ。
そんな言い訳をする彼は本気でVTuberをしたいのだろうか、ただ突発的に思いつきでやっているのではと疑いの気持ちの萌芽は出てしまうのは、彼が心からどんな敬意をこのV界隈に抱いているのか、それが分からないのも一因なのかもしれない。
もし本気でやらないのなら、Pとなって一歩引く道もあるのだし、今の状態のまま続けるべきではないだろう。
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以上が自分が言いたかった「納得できなかった」3つの点である。いかがだったろうか。自分は日記は書かないのだが、彼の転生には納得はほぼなかったと言えた。だから書いた。
これに納得できない人もいるだろう。でもこのまま彼の復活をただ讃えるようになるのは嫌だった。
今まで、どの箱問わず好きになったVは何人もいた、デビューも応援した。だけど、彼の転生は今までデビューしたVとは違う物があった。
彼はマロ読むのに忙しくて目を通さないだろうけど、もし目を通したなら一言だけ。
「人の家を土足で踏むようなことはするんじゃない。」
このへんにも被害者が?
https://twitter.com/frenchmaid_/status/576743114557104128
ゲーム業界で、死人が出たり毎月何人も病院送りにしてるけど、何よりも社員を大事にしてます!って公言してるCygamesの話ですか?
https://twitter.com/frenchmaid_/status/576744517077889024
社員は死ぬほど酷使されるし、業務委託は低賃金でぼろぼろになって使えなくなったら捨てていくスタンスの恐ろしい会社です……
https://twitter.com/frenchmaid_/status/571003115819765760
元気になったらまた戻ってくればいいから、休職じゃなくて一旦退職にしましょう。
と言われたから退職届書いたのに、いざ戻りたいです、となったら、
体調不良で退社した方は再発の可能性がないとはいえない為採用できません、と言われた。
本当に人を使い捨てていくんですね、最低ですCyg---s。
https://mainichi.jp/articles/20190905/k00/00m/040/210000c
茶髪に染めた奴はそのまま、ってことだよね。
それが望ましい。
でも本当にそう?
少なくとも、就職試験のときに茶髪はアウト、ってのが今の社会の基準なんじゃない?
学校は今後「就職試験のときだけは黒髪で行け」とかも指導できないわけだ。
ってことは、「茶髪(にするような心性)はアウト」ってことだよね。
そういう会社はある。そういう会社がもっと増えればいいと思う。
指導基準としては、セーフティに寄せるのは仕方ないんじゃない?
例えばだけど、
全ての人が、茶髪の若者を見かけても全然当り前で外見でどうこう言わない、評価しない、
(いやそれでも教師は指導したがるハズだ、という固定観念を持つ人もいるかもしれないが、いたとしてもそんな教師は少数だ。少数の個人的経験を一般化しないでくれ)
それで本当にみんなオッケーなんだよね。
いや、これを読んでるあなただけじゃなくて。
そこにいる上司とか、お偉いさんとかも含めて。
結局割を食うのは生徒だよ。
繰り返すけど、
最近、主にTwitterだが「界隈や人が嫌だと思ったら距離を置け」と言われがちである。まあ、それは正しい。合わないものに無理にしがみ付いて心が折れては元も子もない。
…では、例えばの話。
この場合、「距離を置くべき」ものはどれなのか、思考実験をしてみたい。
自分自身の中で「好きなジャンルA」「好きなジャンルB」と、複数の好きなジャンルがあるとする。
そしてジャンルAが好きなフォロワーCと繋がり、いいねやリプ等のやり取りもするようになる。
しかしその後、フォロワーCが「ジャンルBが苦手」であることを公言……所謂「地雷」だと判明する。
それが判明することで「これはフォロワーCの地雷だ」というフィルターがかかり、気付けば「ジャンルB=フォロワーCの地雷」だと刷り込まれ、徐々に自分自身がジャンルBに触れられなくなっていく。
ここで「フォロワーCをリムーブなりミュートなりすればいい」と思った際に沸くのが、「でもフォロワーCによるジャンルAの話は読みたい」という感情だ。ジャンルAを楽しむためのモチベーションの一つとしてフォロワーCにやるジャンルA話の存在がある場合、フォロワーCを切ることでジャンルAへの気持ちが薄れてしまうかもしれない。
勿論他人の好みと自分の好みは違う、と切り離して考えられる人もいるだろうが(むしろ本来は切り離して考えるべき点だが…)、いずれかとは距離を置かねば自らの「好き」を保てない…となった場合、この段階で距離を置くべきは果たして、
・ジャンルA
・ジャンルB
・フォロワーC
さあ、いずれだ。
…個人的見解だが、正解は「どこに重きを置くか」によってくるはずだ。
例えばフォロワーCがジャンルBに対して何故苦手意識を持っているか…に何となく同意ができるのなら離れるべきはジャンルBだし、それでと作品への気持ちを大切にするならフォロワーCだ。しかしこの場合、フォロワーCから離れたという事実を再確認してしまい、共倒れでジャンルAにまで嫌悪感を抱いてしまう危険はある。
それなら「Twitter自体」が一番いいのだろう……と結論付けようとしても、Twitterに馴染み過ぎてしまったらなかなか離れるのは難しいだろう。特に創作活動をする人だと発表の場を失ってしまう。
距離を置くにしても「自分自身に取って一番大切なものは何なのか」、そこを見極めないと距離を置いても全く意味がないと私は考える。
そこを見極められずに闇雲に距離を置くだけでは、逆に「距離を置いた」という事実が枷になって、かえって未練が膨らむだけで完全に逆効果なのだ。
今回はあくまで思考実験だが、同じ状況に陥った時、「何を捨てて何を取るのか」「距離を置くべきはどれなのか」は、その時が来た際のために考えておく必要があると思っている。
……自戒も込めて。
複数の分野で食うに困らなければ十分という新しい仕事観どちらが正しいのか彼らの議題として上がっていた。
翔平は一つの分野を極めようとはせず、複数の仕事でそこそこ稼げていければいいなと
思っている。
新しい時代の働き方とはそこそこ稼げていければいいとどっちつかずに働く人たちを
近代まではいかにお金を稼ぐか、一つのことをどれだけ頑張れるかを問われてきた。
今の時代はどれだけ互いを肯定しあえるか、そんな仲間を持てるかが幸せの軸になる。
人間付き合いが上手であればあるほど、他人を強制させて何かをやらせようと
しない。
そんなことをしても良いことがないことを彼らは知っている。
お互いに頑張らなくなる。
頑張らなくても誰も注意しないのでもっと何もしなくなる。
これが続くとどうなるか
育ってきた環境から生まれたアイデンティティがより容易に仕事の成果に反映しやすくなる。
反骨心があるやつは頑張れと言われなくても頑張る。
才能があるやつは勝手にその道を極める。
今までは反骨心があるやつでも環境に恵まれていなければ、会う人は限定され、
情報も限定され、お前には無理だと言われ続け、結局平均化した自分を認めるようになる。
運の要素が強かった。
会いたい人にはツイッターで出会える。チャンスはすぐに手に入る。
それをやるかどうかは自分の反骨心、夢を叶えるんだという熱量次第である。
そんな中で次に出てくる格差は弱音を他人にさらけ出せるかどうかであると思う。
確かにネットでなんでも情報もチャンスも手に入るようになったこの時代だが、それにはネットに実名と自身の経験と夢を嘘偽りなく
書かなければいけない。
そしてそれをみんなに公開しなければいけない。
嘘か本当かわからないやつに愛ってくれる人など誰もいない。
自分の弱いところをさらけ出すには勇気がいる。プライドを捨てる覚悟がいる。
自分が今まで恵まれない環境にいたことを話すのはとてもカッコ悪い。
叶うかどうかわからない夢を公言するのも失敗した時に恥ずかしい思いをするかもしれない。
そうやって周りから見た自分を気にしてしまう人にはツイッターのプロフィール欄にかけることは趣味しかない。
今ある格差とは自分をさらけ出して夢を語れる人人々は憧れを持ち、
周りからの目を気にしてしまう環境にいる人たちが不幸に感じる。
近代では高いプライドを持ち、いわゆる三高、外見だけ良くしている連中と付き合っていれば幸せで入られた。
その中で自分を偽ってでもそのグループにいることが優劣の決める軸だった。
そこで周りから見下されないように努力すれば給料も上がり、勝ち組への道を歩んでいけた。
しかし努力は隠してするよりもオープンにした方が得する世の中になってしまった。
プライドを下げて、俺はこんなに下の人間なんです。だからこんなに頑張ってるんですと
言わなければ、夢への近道は通れなくなった。
テラスハウスのような
才能のあるやつはそんなことを言わなくてもみんなが注目する素材を持っている。
だからみんなそんな顔に生まれたやつに憧れ、そんな悩みを持てたやつに憧れる。
プライドを下げて夢を叶えて金を稼ごうとする人を憧れてしまう。
そんな自分を受け入れてくれる仲間がいる。
自分が目標としているものを意識することで努力に向かわせるような高収入でプライドの高い人間やブランド物の服、素敵な暮らし、良い車、なの知れた会社、有名大学、ではなく、
努力を強制させない、プライドの高い人が少ない大学、貧乏な暮らしでも笑って暮らせる仲間、ダサい服を着ても何も言わない友達、努力しろと言ってこない会社に価値を感じるようになると思う。
職を失い、その噂は転職先に回る。
何もかもを失う。
しかし今はそれを受け入れてくれる人はすぐに探せる。
情報が次々と入れ替わる世の中では
さらにAV男優を夢化することで応援してくれる人は増える。その夢に共感してくれる人は人格も外見も優秀な人である確率が高い。
そのツイートを見て中国政府は終わってるなと思うんだけど、そのツイートをしてる人がデマを信じきってるのを見ると、信憑性が一気に薄まってしまった。
清水ともみ(@swim_shu)さんがツイートしました: まさにその通りだと思います。
中共主席は20年後、日本という国はないと既に公言していますし、チャイナ外務省から流出したとされる地図には2050年には日本の左半分は東海省、右は日本自治区となったものがあるようです。 https://t.co/s0pv0bWBWl
https://mobile.twitter.com/swim_shu/status/1168045862192218112
https://togetter.com/li/1225464
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=1
詳しくはこの記事を見て欲しい。
マスコミはウイグルのことを報道しない!と言うけど、報じにくくしているのは保守勢力やら有象無象の連中が絡んでいるからだ。
繰り返し言うがウイグルのことは早急に手を打たねばならない大問題だ。
自分こそが真実を知る人間だと思うのは分かるが、1度冷静になって自分が信じている物が正しい情報に基づくかをしっかり確認した方がいいだろう。
淫夢やsyamuといったガキが好きそうなコンテンツにすり寄って小銭稼ぎに勤しむ通称ホモガキの王
Vtuber嫌いを公言しながら犬山たまきや高槻りつみたいな同類の臭い豚は例外でつるむダブスタが酷い。syamuのことを心配している素振りを見せているが、過去にはsyamuのことを知的障害扱いして歌ってるんだよなぁ
なお弾き語りだけは上手い
私は赤子が嫌いだ。ぐにゃぐにゃとした見た目もさることながら、むっとする匂いや口元のだらしなさからどうしても汚物に見えてしまう。
一応最低限の社会性は持ち合わせており、一般的に赤子は「可愛く」、「愛されるべき存在」であるので、リアルでは公言していない。
また、将来的には年金や税金を払ってくれる貴重な存在なので、他人がせっせと人口を増やしてくれるのは大変ありがたい。子どもを残す意思決定をした人たちには尊敬の念すら感じている。
ただ、最近次々と友人や知人(またはその配偶者)が出産し、FacebookやInstagramに赤子の写真が溢れるようになった。
写真や動画でありながらも、赤子を見てしまうと脳が拒否反応を示しているのか全身に鳥肌が立ってしまう。私にとって赤子の写真はさながら蓮コラだ。
人が赤子の写真を挙げるたびに、そのアカウントの投稿ごと「ミュート」にしてきた。ここ最近は、知人のアカウントの半数近くが「ミュート」になっている。
かわりに猫の写真をあげているアカウントをせっせとフォローするようにした。
猫はやはりすばらしい。
山梨学院大学で異常事態…「非常勤講師切り捨て」とモラルの崩壊(田中 圭太郎)
しかし私の興味を引いたのは、山梨学院大学が教育に重きを置いて高度な研究機関となることは目指さないと公言していることに対して、田中氏が以下の批判をしている点である。
言うまでもなく、大学の両輪は「研究」と「教育」であるはずだ。しかし「研究者は今後雇用しない」と受け止められる文言が、ここには堂々と書かれているのだ。
ツイッター上でも大学教員を中心に山梨学院大に批判的な声が上がっているが、大学の両輪は「研究」と「教育」である、というのは現代において言うまでもない当然の前提なのだろうか。例えば、『経済学部タチバナキ教授が見たニッポンの大学教授と大学生』(橘木 俊詔)によると、「アメリカの大学ではトップ50までが研究中心の大学、それ以外は教育中心の大学と二分化」されているようである。教員のキャリアも、それに応じて研究中心と教育中心のそれぞれのスペシャリストとして専門分化しているようだ。
また日本においては、大学教員が研究に重きを置くと第一線での研究活動は多忙を極めるので、学生の教育がその合間になるという実態がある、と氏は指摘する。そこで日本においても米国と同じく、研究中心か教育中心かのいずれかに教員のキャリアも分岐していくだろう、と氏は予想している。
世界トップの学術業績を出している米国の大学が研究中心と教育中心に分業しており、加えて研究を重視する教員による教育が手薄になりやすいという日本の大学の問題意識を考慮すると、山梨学院大が教育中心に舵を切るという方針は、大学の存在意義を否定するものとは言い難いように思う。少なくとも「言うまでもなく、大学の両輪は「研究」と「教育」であるはずだ」の一言で終わらせるのではなく、研究中心と教育中心に分化した場合にどのような弊害が生じうるのか、そして米国ではどのような弊害が生じたか、など丁寧な議論を展開した上でこの方針を批判するべきだろう。