はてなキーワード: リスペクトとは
老舗が異常な数あることも有名だし
お互いリスペクトって部分もあるんだろ
というよりこれら以外の国がぜんぜんダメなんだよ
Aという人がいる。
もともとはツイッターの同人二次創作アカウントで活動していたのを商業漫画リリースと同時に公式に迷惑をかけないためにと閉鎖し、商業アカウント一本に絞った人だ。
・次第に旧同人ジャンルとは異なる、別の二次ジャンルのファンアートをアップ
・別二次ジャンルアンソロを商業編集担当に贈呈したとツイート(アンソロ参加者に事前告知無し)
・別二次ジャンルのwebオンリーを主催し、同人文化をあまり知らないフォロワーもいる中で告知
私が同人文化に触れ始めた頃に比べて、オタクという存在は社会的に認知を得て、マーケットも広がり、多くの出版社も二次創作同人を黙認する姿勢を変えてはいないように見受けられる。
公式側がアクションしない限り、Aが商業アカウントで18禁鍵無し二次創作を公開していようが、出版社名を明記した商業アカウントを問い合わせ先にしてジャンルオンリーを主催しようが、それはAの自由だ。
だから、これは私のお気持ちとして、Aの行動が危なっかしく、かつリスペクトが欠けていると思うという思考整理のためのダイアリーである。
Aの商業出版社、旧ジャンル、別二次ジャンルは全て異なる会社だ。
Aが企業の名前をアカウント情報に記載して仕事する時に、他社の権利を侵害しているととられかねない同人活動を大っぴらにするのが理解できない。
旧ジャンル公式に迷惑をかけないため同人アカウントを閉鎖して商業アカウントに絞った(本人談)のに、商業アカウントで別二次ジャンルの同人活動を新たに始めるのが理解できない。
センシティブな二次創作漫画やオンリー告知を、センシティブ設定やワンクッションなく同人文化に理解が薄い人もいるかもしれない中で投稿するのが理解できない。
Aがオリジナルキャラクターをパクられたかもと証拠の提示も無い中で自分の著作権が脅かされたとツイートしつつ、他社・他者が権利を保有するキャラクターでの二次創作を大っぴらに公開する神経が理解できない。
加えて、Aの技量が卓越したものに見えず、ストーリーも浅くて商業・二次ともに作品が魅力的ではない点が、どうしてあなたのこんな漫画告知や投稿のために、これまで長年公式から隠れてお目こぼししてもらって慎ましく作品や二次創作を楽しんでいた人達がジャンル撤退を考えるほど危機感を募らせなければならないのか、と自分に思わせてならない。
ずっと仲良く連絡を取っていた同人サークルの人がしばらくジャンルとは距離を置くと知り、メッセージを送るとぶっちゃけた気持ちを交えて話を聞かせてくれた。
その人の気持ちも、自分の気持ちも、ただの私情だ。公式側が決めたガイドラインは存在しないジャンルだから、Aの行動を外野が咎める根拠は何もない。
でも、公式からNGが出るまで好きにやっていいと行動することが、結局二次創作同人がグレーに存在する余地を奪い、自分の首を絞めることに繋がるのではないかとモヤモヤする気持ちがずっと拭えないでいる。おわり。
130点ヤッター! 点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。多分世間では娯楽映画という評価であり、事実娯楽映画なんだけど、ゲームという文脈においてガチだった(この辺後で詳細語りますわ)で130点なのでした。
見終わった瞬間、あれ、この映画って存外、なんか手堅くまとまってて100点くらいなのかな? 娯楽映画としてよくできているけれど、やっぱ弱点はあるよね、とは思ったのです。
主人公マリオの悩みみたいなものも、その克服も描かれてはいたんだけれど深い描きというよりはあっさりと乗り越えたし、アクションシーンの出来はどれも良かったんだけどアクション娯楽映画にありがちな失点として、アクションシーンの連続になりすぎて、ドキワク感が全体でのっぺりしちゃったところは実際にある。
あと、これはフォローしがたいけどエンドクレジット後のおまけカットみたいなの(2種)は蛇足感があった。
でもそうやって、脳内で「映画減点表」みたいなのを作り、同時に「映画加点表」みたいなのもあり、合計計算して出てきたスコアは100点だったんだけど、見終わった感情的満足感は130点だったんですよ。ズレが有る。
こういう映画ってたまにあって、それは自分が言語化できてない、なにかスペシャルな要素があるって証拠だと思うんですね。
じゃあその+30点どこから出てきたんだよというのが、この感想を書いた理由です。
主人公マリオはニューヨークで配管工業を営む青年。作中はっきりとは語られてないけれど、イタリア系移民で大家族で暮らしていて、年齢は20歳ちょいなのかな。新卒で入った会社を飛び出して、弟ルイージを巻き込み、いきなり配管修理事務所を起業して、全財産を叩いてCMを流したところから物語は始まる。
会社を飛び出した経緯の詳細は語られていないけれど、「何をやらせてもダメ」「できることがない」とモラハラを受けていたフシがあり、マリオは「自分は役立たずなんじゃなかろうか」「いいやそんなことはない、やればできるはずだ」の二つの気持ちの間で揺れている。
おっかなびっくりだし、確信はないし本当は自信だってないんだけど、ルイージに対してお兄ちゃんぶりたい気持ちだけはあって、まぁ虚勢を張っている。
映画になって肉付けされたこのマリオ像ってのは、結構好感度ありました。
主人公マリオのもってる「自分は役立たずなんじゃなかろうか」なんて悩み、誰にでもあるじゃないですか? はっきり言っちゃえば、具体的な問題の表出は違えども、全人類の99%が成長過程の中で経験するものでしょう。
それにたいして「やればできるはずだ」っていう根拠のない自分自身の鼓舞だって、誰でもやるでしょう。
これらは映画を含む既存のストーリーメディアでは、勇気とか挑戦とか言われるたぐいのテーマの類型です。この類型は多くの、それこそほとんどすべての物語作品で見ることができます。内面の問題や弱気を乗り越える勇気の話は、物語作品の王道ですから。
歴史上、ストーリーメディアはそれに対して勇気づけるための物語を何千何万と語ってきた。美しくまたはおぞましく、ハラハラ・ドキドキするような物語をたくさん作ってきた。「勇気を出す理由」「その褒美」について、あらゆる物語が手を変え品を変え洗練したストーリーを紡いできた。
そういう歴史あるテーマの歴代傑作の洗練に対して、この映画のエピソードづくりや演出が最高峰かというと、そんなことはない。マリオの閉塞感もその打開も、徹底的に演出されているわけではない。もちろん赤点ではないんだけど、その部分で言えば「凡庸なファミリー映画」ですらある。
たぶん「それ」が、映画としての物語性や演出を厳密に評価した評論家と一般ユーザーの間で、この映画の評価が真っ二つに別れちゃった理由だと思うのです。
あらゆる人々の実際の人生における、自信のなさ、不安感、でもそのなかで勇気を振り絞って、はたから見ればどんなにくだらなくてもその当人にとっては難題である目の前の課題に挑んで見る――そういう勇気に対して物語メディアは物語としての洗練や感動をもって応援してきたわけですが、じゃあそれで現実の人々の不安感や自己否定をちゃんと払拭できたかといえば、そうではない。物語の大好きな自分は、それでも物語のない世界は暗闇だと思うわけですけど、世のすべてが照らされて現実の問題が駆逐されるなんてことはなかったわけです。
でも、全く同じ問題に対して、ビデオゲームは別の方法論で挑んできました。
それは成功体験です。
問題点がある。失敗する。ゲームオーバーしてしまう。つらいね、くやしいね。でも何回かやってみようよ。工夫してみようよ。ほら!さっきよりいい感じ!よし!一個クリア!先に進めた!すごい!ほら、つぎの課題が来たぞ!ジャンプだ!パンチだ!やったぞ!進めたぞ!!
そういう、課題と克服、工夫や練習での突破、つまりは直接的な成功体験で、「キミはできるんだ!」と全存在で訴えかけてきてくれるわけです。ビデオゲームをする人にはあまりにも自明で、やらない人には分かりづらいかもしれませんが、任天堂のみならずすべてのビデオゲームの本質はこれで、これでしかないんです。
何か挑戦すべき課題、突破するべきステージでも強敵でも生産目標でも集めるべきコインでもなんでもいいですけど、課題があって、それは最初は難しくて無理かもしれないけれど、ゲームの世界を調査して構造を知り、工夫して、練習すれば、達成していける。
「努力すればなんとかなる」。
そのことを、人間の子守では到底無理なほどの忍耐(なんせ機械なので)で、何千回でも、何万回でも人間の子どもたち、時には大人にも付き合ってくれた。それがビデオゲームの達成した最も尊い部分だと思います。「レベルを上げる」「レベルが足りない」という今や日常会話でも違和感なく使えるこのフレーズには、「いまは無理でもいずれできる」「できるようになるはずだ」という、生きる上で本当に重要な価値観が込められていることがわかるでしょうか?
スーパーマリオの歴史ってほぼイコール、家庭用ビデオゲームの歴史です。そして、ビデオゲームの歴史は、「挑んでみなよ!なんとかなるよ!」というメッセージの歴史なのです。任天堂こそは、それを声高く叫び続けるゲームデザインをしてきた企業でもある。
前述のように、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は既存の物語メディアの、少なくとも映画の文脈で言えばそのシナリオや演出が傑作に達していないかもしれない。でも、そこにビデオゲームという別の文脈が持ち込んである。そしてそのことに制作陣は自覚的です。
つまり、彼らはわかっていて、わざとそう作ったのです。マリオと任天堂と、そしてなにより地球で生まれて40年になるビデオゲームという新顔の娯楽を本気でリスペクトして作ったのです。
マリオは作中「諦めが悪い」「しぶとい」とピーチ姫などに評されます。実際、マリオは映画終盤になっても結構ミスをする。敵の攻撃を食らってパワーアップが解除される、しかも頻繁に。
それをマリオは「スマートに物事を解決できない」という評価だと受け止めてちょっとしょぼくれたりもするのです。が、とんでもない。
それは「ミスをしてもなげださない」という意味であり、「ゲームの主人公」として、そして「マリオを操るプレイヤーとしての我々」としても、それは最上級の素質です。
そう考えてみると、この映画の白眉は序盤、キノコ王国にたどり着いたマリオがピーチ姫への同行許可を得るために、練習用コースに挑戦した部分だったと思い出されます。
マリオは何十回も何百回もミスをする。回転する棒にビビって飛び込めない。移動する床をうまくジャンプできない。ブロックを壊そうとして目測を誤って落下する。
そういった失敗は『スーパーマリオブラザーズ』をプレイしたことのある人々にとっては、あるあるだし、わかるし、お前もか……。なわけですよ。
でも同時に、それを何十回も繰り返せば、あんなに難しいと思えた難所もクリアできるようになるし、ピーチ姫が疲れて寝ちゃった夜中もずっとプレイして、ミスを繰り返して、ヒャッフゥ!と突破できるようになるのもまた、自分自身のことのように、わかるわけです。
『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』における「課題と勇気、挑戦」はそのようなものなのです。だからブルックリンにクッパが現れたって絶望したり家族が死んでスーパーパワーに覚醒したりする必要はありません。映画的な意味での過剰なドラマ表現をしなくても、マリオは「やるぞ!」とちゃんと理解できるのです。
ビデオゲームが産まれ、親しまれ、市民権を得て、もはや一般的な共通理解となった現代社会において、視聴者の理解や感覚はもうその段階まで達している。だからこそ映画もドラマの形を拡張して、巨大なリスペクトを持ってゲームの文脈を抱きかかえることができた。
映画もゲームも大好きな自分として、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』はそのような映画であると受け止めました。
+30点はあるよ、ちゃんと実在するよ! 家族が死んだり国が滅びたり医師生命を失ったりしなくても、そんな悲劇がなくても、僕たちはちゃんと「攻略してやればクリアできるんだぜ」という、穏やかに前向きな価値観をゲームから予め受け取っているんだ。そういう意味で、とても良い映画でした。
好きな小説の作者さんが
「小説が邪魔なので評価下げます」と言われるので書き下ろしはつけません」
と言ってて唖然とした(苦情入れた側に)
小説はどうでもいいならまだしも(それも原作者リスペクトなさすぎてゴミだが)
嫌ならそこだけ飛ばせばいいだけの話だろ
とはいえ筆者はコミカライズには触れてない(そもそもまだ原作を読んでる途中なので)から
ここに書き込みを供養
今いるジャンルは15年間同じコンテンツこすってる化け物みたいな二次創作サークルがうじゃうじゃおるやで
二次創作積極的に許すとずーっとこすってもらえて商業デビューしたあともリスペクトと語ってもらえる
ただ1クールだけだと無理だろな 最低2クール、できれば1年54話放映しろ話はそれからだ
作内時間も最終話の時間がとんだとこふくめて15年とかあると深みがあっていいな
ハガレンも最近ぬるぬるのソシャゲで復帰してご新規獲得してそうやしな
FSSは連載も長く作内時間も長いはずなんだが原作が最大手だからか、
ヒレガーッス
本日はアースデー、国際母なる地球デー、日本においてはよい夫婦の日、カーペンターズの日となっております。
大工の方じゃなくて海外の歌手の方ですね、その海外の歌手が日本のレコード会社と契約した日に因んでいるそうです。
いや、あんまり日本で大工のことをカーペンターと呼ぶことはないのですけれども。
とはいえいろんな呼び方がありますからね、それにこの大工って呼び方も昔の人からすればあまり良くないのかもしれません。
大工って呼んでる人並みに工作が出来るならまだしも、お願いして仕事してもらう立場なんだからっていう。
まぁ現代ではなんか諸々あって軽んじてるのか、言葉の使い方がわからんのかという人も多いのですが。
ともあれ、自分に出来ないことを出来る人、してくれる人にリスペクトは持ち続けていたいものですね。
ということで本日は【他者への思いやりよいか】でいきたいと思います。
内閣府 啓発用ポスター ほかの作品と類似で使用取りやめ | NHK
内閣府によりますと、「若年層の性暴力被害予防月間」の今月、啓発用のポスターや関連動画のイラストが、イラストレーター…さんの作品と似ているという指摘が外部から寄せられました。
これを受けて、事業を請け負った…に確認したところ制作過程で指摘された作品を参考にしておりチェックが不十分だったと報告があったということです。
このため、内閣府は、ポスターや関連動画の使用を取りやめ、すでに配布したものも可能なかぎり回収することを決めました。
内閣府は「極めて遺憾で、事業者に真摯(しんし)な対応を求めていく」とする一方、…関係者や国民に対し「ご迷惑をおかけし、おわび申し上げます」とコメントしています。
(一部引用者により省略)
これについてブックマーカー達は、絵柄が似ているだけ? 著作権侵害にならないのでは? などと批判している。
でも私は、この内閣府判断を支持する。伝えたいメッセージが本当に重要ならラクをするべきではなく、努力してオリジナリティを打ち出すべきだ。イラストに挑戦したことがない人には分からないかもしれないが、オリジナリティをゼロから作り出すのは本当に難しい。ああでもないこうでもないと、人気のないうちから長い時間をかけて磨き上げていく。凡庸さから抜け出せなかった同期たちは次々プロを諦めて一般職に落ちていく。食えてる芸術家はそんな恐怖の中を生き抜いてきたんだよ。確立した画風はイラストレーターにとって自分の一部のようなもの。それを勝手に参考にされて酷似させて奪うのは、パクリ以外の何物でもないでしょ。
あのね。
完全に逆。
思考の順番がまったく逆なのよ。
法律(ルール)の土台には、まずそれを支えるモラルがある。法律違反じゃないからといって何をしても許されるという事にはならない。自分が他人の作品を隣に置いて絵を描いてる様子を想像してほしい。そこにはどこか後ろ暗い気持ちがあるでしょう? 誰もがルール以前に暗黙のモラルに従っている。法律に訴えるのはモラルで事前にガードできなくてクレームも受け入れられずにこじれにこじれたときの最終手段なんですよ。好きにパクリ放題して裁判で負けたときだけアウトにしていたら時間とお金がいくらあっても足りない——少し考えればわかる事だよね。世の中は全か無か人間だけで回ってるわけじゃないの。
その証拠に例えばジブリの絵柄に似たマンガ・アニメ、だって存在しないでしょう。それはクリエイターと観客みんながジブリをリスペクトしているから。ジブリに直接依頼せず許可も得ずに参考だけするなんてあり得ない話。行政が制作し公共の場に置くポスターならばこそ率先して従うべきモラルがある。オリジナリティをゼロから作り上げた側・パクられた側が NO というなら NO なの。法以前の問題。
・・・地鎮祭やらない人のうち、一定の人は上棟式もやらない。現場の定期的な挨拶、差し入れもあまりしない。こっちは自分たちの住む家を建ててくれてる人にリスペクトが感じられず、もったいないではなく、信じられないというのが感想になる。それはもはやコスパ追求というかただの愚かなケチである。周りにそういう人を結構みてきたが、なぜか共通して家の外観がダサい。自分たちが住むのは家の内側なんだから、外は別に良いでしょとでも言いたげな面構えのお家からは、施主のケチなしみったれた根性が透けて見えるようで、残念な気持ちになる。
コスパ教の信者からは真っ先に削られる上棟式。けれど、せっかく頑張って注文住宅を建てるのだから、よっぽど宗教的にダメとかじゃない限り、地鎮祭はケチらずしっかりとやった方がいい。
なぜか?
注文住宅においては、家を建てるプロセス自体も商品であり、建売を購入する時には経験することのできない「ならでは」の体験を捨てることはもったいないと思うからだ。地縄が張られた自分の土地に祭壇が建てられる。祝詞の意味を解釈しながら頭を垂れ、すこし恥ずかしい思いをしながら鍬入れでエイエイと声を出す。多くの人にとっては一生に一回の経験だろう。だからこそ、これからずっと暮らす自分の建てた家の起点として、この日の思い出は心に残る。
また、起点となる地鎮祭で、関係者が一同に集う意味も大きい。ああ、これから家を建てるんだ!という気持ちは地鎮祭をしたからこそ味わえるんだと思う。
だから、今注文住宅を検討中の人には、目先の3万円を削るより、地鎮祭をやることをオススメする。やらないともったいないよ。
・・・地鎮祭やらない人のうち、一定の人は上棟式もやらない。現場の定期的な挨拶、差し入れもあまりしない。こっちは自分たちの住む家を建ててくれてる人にリスペクトが感じられず、もったいないではなく、信じられないというのが感想になる。それはもはやコスパ追求というかただの愚かなケチである。周りにそういう人を結構みてきたが、なぜか共通して家の外観がダサい。自分たちが住むのは家の内側なんだから、外は別に良いでしょとでも言いたげな面構えのお家からは、施主のケチなしみったれた根性が透けて見えるようで、残念な気持ちになる。
「◯◯氏」って敬称に「この人は賛否両論あるかもしれないし、実際よくないこともしてるけどそれで全てを否定するのはおかしい、俺はリスペクトしてるよ」みたいな意味を込めて使ってる人いるよね?あれなんなの?
でも、そういう人って大抵は「◯◯氏」をリスペクトしてるんじゃなくて、「◯◯氏をリスペクトする常識人の俺」を演じ(たつもりにな)ることで対立軸にいるっぽい人をやんごとなくディスりたい、みたいなことしてるよね?あれなんなの?
気のせいだろうか。随所にそういう人いて、なんだろう?と思っている。よくわからない一人相撲を見せられている気分になる。氏はお前の蚊みたいな承認欲求のためにあるんじゃないよ。氏の気持ちも考えろよ。