はてなキーワード: イコールとは
私はアイドルが好きだ。
格好いいお兄さんたちが歌って踊ってキラキラしている。
時に面白いことを言って笑わせてくれたり、泣かせたりもする。
だが、彼らも人間なのでたまにしくじる。
私個人はそこもまた完璧ではないアイドルの一面を見れた気がして嬉しかったりする。
結局はファンの受け取り方次第だ。
CDを買い、雑誌を買い、コンサートがあれば行き、グッズも買う。
「いい歌だわー」と聴き惚れ
「このビジュ…なんてこった」とうっとりし
「これ、どうしよう」と勢いで買ったグッズに呆然とする。
彼らだって四六時中ファンのことを考えているわけではないだろう。
それでいい。
ただ、ここ最近感じるのは
心理的なプライベートゾーンまで踏み込むファンが増えたように思う。
自分の感情がイコール自分の推し(担当)もそう感じている、という事実になってしまっている。
「こんなに推し(担当)が苦しんでいるのにどうして助けてあげてくれないの?」と。
グループのメンバーだけでなく同じファンにまでそれを求めだす。
そしてそれを受け取った側ももちろん反発する。
まるで台風のようにどんどんと周りを巻き込んで大きくなっていく。
いつか温帯低気圧化してくれればいいのだが、今のところその気配はない。
名目上掲げているだけで、ただただ、この戦争を楽しんでいるのだ。
そして巻き込まれた側が疲れ果て、ひとりふたりと姿を消していく。
推し(担当)を応援したいのか、推し(担当)の収入を減らしたいのか。
思い通りにならないと思った時点で、離れる、辞めるの選択肢はあるはずだし
間違いなく、ファンは彼らを自分たちの思い通りにはできないのだから。
己が決めた引退を貫き通した。
誰が何と言おうと辞めたいとき辞めていいのだ。
「指摘」だの「疑問」だのと耳障りのいい言葉を使って
「ファンとしてこれを要求するのは当たり前のことだ」と大きな顔をする前に
あなたの推し(担当)はあなたがファンであることをどう思うのか。
彼女たちだけでなく私も一度振り返ってみなければいけない。
辛い辛いと言ってて、毎日深夜まで残業して心も体も追い込まれてるのにやめない
何年も辞めたい辞めたいと辛そうに言ってるのに辞めない
辞めなよ、心配してるよ、辞めたらこんなところに遊びに行こうよとか
こういう専門の機関に相談したら?と話したり、再就職が不安なら資格が取れるシステムがあるよとか
優しく言っても、つよめに言っても全部右から左で何も変わらない
ニートになってもいいから、生活保護でもなんでもいいから心が折れて自殺する前に仕事やめて欲しい
どうにかしたいな辞めたいな辛いなと言いながら友人は何もしていない
今は出社しないで退職できる代行サービスもあるらしいし、どうして辞めないのか
一度ドロップアウトすることを異様に恐れていて、ただハローワークに行くのも嫌みたい(退職する前にハロワで相談して見たら?と行ったら難色を示された)
自分は遠くに住んでいて、家に行ってどうこうしてやることができない
自分の生活もあるから、うつ気味の友人を四六時中支えることはきっとできない
それができないなら手出しするべきではない?でも目の前で折れそうな姿をみて何もしないでいられない
唯一繋がってるSNSの様子を見る限りいつ倒れるか分かったものではない
辛いのに辞めなかった人、辞められなかった人、どうして辞められなかったのか
二次創作小説、つまり「既存の作品のキャラや設定を借用して独自のストーリーに仕立てた小説」が著作権的にアウトかっていうと、わりと懐疑的で、実はかなりセーフだよ、権利侵害じゃないよ、という見解も出てるんだけど、あんまり知られてないっぽいので紹介しとく。
・著作権法でいうところの「二次的著作物」と、世間の考えてる「二次創作」はイコールではない。
・キャラクターや設定はアイディアであり、アイディアは著作権で保護されない。(保護されるのは「創作性のある表現」)
・漫画やイラストは元作品の「表現」を使用するので侵害と見なされうるが、小説の場合は元の作品の文章をまるまるコピペでもしなければ表現の創作性を侵害したことにはならない
(原作の決めゼリフとかばんばん使いまくるとどうなるかは不明)
素人なのでざっくり書きました。
このへん読んでね:
『「二次創作」文化を巡るアレコレ―二次創作と著作権の曖昧な関係」』
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/2441/1/0150_011_003.pdf
『ハリー・ポッターの続編小説を勝手に執筆してもいいの!?~小説の登場人物の著作権にまつわる話』
https://www.innovations-i.com/column/bon-gout2/1.html
https://business.bengo4.com/practices/553
『二次的著作物とは』
https://chosakuken-kouza.com/kihon/nijitekichosakubutu.html
https://blogos.com/article/66594/
雫石の話が「水道民営化するとこうなります!」みたいに拡散されてるけど、あれ別荘地の私営水道の話で、民営化とは全然別の話じゃん! みんな水道に本当興味ねえんだな。
那須とか伊豆とかの別荘地には私営水道が実は多い。公営水道つなげるの大変なのや。
施設の費用は普通の住民住んでるとこと同じようにかかるが、別荘地は1年の大半は人いないわけだから水道料金は基本料金しか払われん(もしくは休止手続き取られる)。公営水道にとっちゃ割に合わない。
「別荘地への公営水道敷設でもともとの住民は水道負担増」になりかねんし、「その分は税金で穴埋めをなんとか」とするとて、別荘の人は住民税払ってないから地元民が負担してる感は一緒なのだった。
旧・高根町(清里があるとこ)とか、「住民と別荘住民とで、年間の水道料金がほぼ同額になるようにした」と別荘地だけ基本料金3倍くらいにしてた(なお、訴訟起こされて負けた)。
雫石のニュースを見て、「水道法改正される前だったのになんで公営水道じゃなかったんだろう」とか考えてググったりしてけばすぐわかることだろうよ。
なんつーか、「社会問題に興味持つ」っていうのはそういうふうに自分で調べていくことであって、「日本が危ない! 検証してる暇なんてない! RT! 拡散希望!」ってやることじゃないと思うんだけど。
最初に断っておきますが、この投稿には結構な偏見が含まれてます。
上下の立場に限らず、アニメや漫画が趣味な人が身近にいる。というか、今頃の若者ならいわゆるオタク趣味を好きな人は多くいるだろう。パリピな感じのやつとかウェイとかも深夜アニメだとかみてる時代だ。そういうのを見る手段が簡単に取れたり、情報を知りやすいからだろうか。
だからこそ声はそこまで大きくしなくとも言いたいことがあるんだが、単純にオタク趣味だからってイコールでオタクでーす!ていうのやめてくれないかな!!??
いや、本人からしたら深夜アニメ見て最近流行りの漫画読んでツイッターやってるから十分オタクだと主張するのかもしれないけど!!!!!!
違えんだよ!!!!いや、ほんと!違うの!!!!あんたのそれはただ漫画とかアニメが好きなだけ!!!!!野球観戦が好きな人とかとそんな変わんねえんだよ!!!!!!!いや、野球観戦のオタクもいるだろうけどね!!!!????
何というか、オタクってもっと気持ち悪い存在じゃないのか?自分が気持ち悪いタイプのオタクだからそう思うだけなのか?
オタク気持ち悪くないよ〜むしろ夢中になれる事があるなんて素敵じゃん!みたいなフォロー入れてくるやつがいるけどよ。いや、普通に気持ち悪いでしょ???一つのことに、しかも普通の人なら気にもかけないことに執着して気持ち悪いくらいの知識量蓄えてドヤ顔で語ってくるんだよ??いや〜〜〜〜〜〜〜キモくね?
もう、いや本当に気持ち悪いじゃん?よく好意的に解釈できたね?もうその解釈出来るって相当人をポジティブに捉える事得意だよ。天才だわ
自分が上記の通り、というかこのクッッソキモいだけでなくわかりにくい文面の通りネガティブなキモオタだからこそ、そう思うだけなのか。
いやでもそれはそれとして〇〇ていう作品好きなんですよ〜て言葉に無防備に「私も好き!」て返した後のあの好きに対するギャップ。映像作品だけしか知らないタイプと作品網羅してるタイプと主要な映像作品・原作のみ知っているタイプのギャップが大き過ぎないか?
うっかり返してしまった場合相手が映像作品のみだった場合、原作にしか登場しないキャラの話とか映像作品で端折られてしまったキャラの感情の話をした途端地獄と化す会話の席。
私が何したってんだよ!!!!いや、なんというかまぁ、やっちまってはいるわな。偶然の不一致というか、そういうことではあるけども。そうだけども相手も同じオタクだから一般よりも深い話をしても大丈夫だろうという私の判断ミスを犯しているんだけどもね。
オタクって基本的に好きな作品はとりあえず映像からなら原作読んで、原作からなら映像作品があったりできたらとりあえず目を通すものではないの!!???これも偏見か!???いや、偏見なんだろうな……実際そうじゃないオタクもいるし
ただアニメとか漫画とか好きな人がオタクっていうんなら鉄オタとか歴オタとか別にアニメとか好きじゃないけど何かのオタクの人はどうなんの?
アニメが好きな人はアニメが好きなだけで別にオタクではなくない?
それなのにオタクでーす!て言ってるのちょっと理解が追いつかない。大丈夫?オタクって名乗るってこと本当に理解してる?資格制ではないし、オタクなんてカッコいいものではないし、どうこういうものでもないけど、いや、ほんと……大丈夫か?本当に大丈夫なのか?
なんていうか、オタクってどちらかというとバッドステータスじゃん。どれだけグッドステータスだって主張したところでそんなのに共感するの同族だけで、バッドステータスと判じる人は確実に一定数いるやつじゃん。
もはや呪いの装備?一度オタクになってしまったらもう根本的な部分でオタクになってしまうから抜けられない呪いでしょこんなん。
それにアタシトクベツ!!とかオレヤベーーwwwとかすんのはもう個人の自由だからいいよ。アイデンティティだよな。わかるわー。一緒一緒。自分らしさをわかりやすくゲットできるもんな
だけどもさ、その、言ってはなんだけど、そんなんで獲得する個性ってなんだよ。オタクだから獲得するものってなに?ただのラベルでは?むしろそれを取ったら何が残るの?
というか、ここまで散々吐き散らかしてわかった事が一つあるんだけど、もしかして単に私が気持ち悪い部類のオタクなだけで、最近ではそんなオタクは少なくなっているだけなのかもしれない。つまりは間違っていたのは私だったのだ。
いや、は〜〜……ツライわ
でもそれはそれとしてオタク内でのギャップと明らかにオタクでない人がオタクだというのはクソコミュ障のキモオタに甚大なコミュニケーション被害を与えるからこう、棲み分けが欲しい。
いや、こう、違うんだ……一般との会話は受け身に回ったりだとかで何とかコミュニケーションを合わせたりしているんだけど、同族だと思っていた奴が実は一般だった時に深刻なコミュニケーションエラーが発生するんだよ。
それが悪であるとは別に決めてない(悪ってものを定義できないからね
だからお前のようにそれは悪じゃなくねって言うのはお前個人の感想として別に正しいというか、お前はそう思うんだろうな、お前の中では でしかなく
法律で罰するべきじゃないって言うなら悪か悪じゃないかって話じゃなくて
動物虐待出来た方がよりよい社会・国が出来ることを訴えて認められれば法改正されて罰せられなくなる
もちろんそこには社会構成員の空気や感情で「悪」っぽいからやめようぜってところから
だって仮に法改正されて動物虐待OKでーすってなれば罰せられなくはなる
私は面接が苦手だ。志望理由とかそういうのを書くのも嫌だ。でもやっぱり面接が一番嫌だ。ほとんどトラウマと言っていいかもしれない。
忌避感は中学生の経験がおそらく原因だと思う。そのころももちろん面接が嫌だった。周囲の高校はほとんど入試に面接があったが、少し遠いところに面接の代わりに小論文を課す高校があったので、私はそこを志望した。他を受けるつもりはなかった。
ところが中学校で突然学年全体で模擬面接の時間が設けられた。私は拒否したが、先生には「将来、絶対面接の機会があるんだから」と無理矢理参加させられた。
多目的室に学年主任とか教頭が座っていて、そこに生徒が4,5人入った。みんなすらすら答えていた。私は面接を受けるつもりがなかったから当然対策も何もしておらず呆然としていた。
私に質問が来た。たしか「最近気になったニュースは?」とかだった。世間話ならなんとか頭を回転させて答えられたかもしれない。でも無理だった。何も言えなかった。教頭か誰かが「おいおい、練習してきたの?」と苦笑いで言った。するわけない。する必要がないのだから。涙が出た。模擬面接が終わって、部屋の外で大泣きした。嫌だった。面接そのものも嫌だったが、なによりも、自分で嫌なものを回避する道を発見したのに、たいしたことのない理由で直面させられたのが本当に悔しかった。
いま私は無職だ。ほぼ奇跡的に面接を乗り越え入社した会社を4ヶ月で辞めた結果の今の境遇だが、再就職ができない。
退職の理由はいろいろ面倒なので割愛するが、概ね上司から理不尽な指導を受けたからということに起因する。理不尽。本当に理不尽が無理だ。
人と人が関わる中で自分は悪くなくても飲み込んでいかなければならない不条理もたびたびあるだろう。それは百歩譲ってよしとする。だけど、どうしてそれを「社会ではそういうこともある」と許容しなければならないのだろう。その態度の問題だ。理不尽なことには怒りをもって改善の道に向かいたいのに、なぜそれを許してくれないのだろう。
それは、きっと皆が疲弊しているからだ。環境が、それを許さないからだ。怒るにはエネルギーが要る。理不尽なことがあっても「世の中そういうこともある」と流してしまったほうが明日も生きていきやすくなる。
けれどそれは、どちらかといえば病んでいる、と私は思う。そして社会には、というか私がいた職場には改善へ向かう怒りを疎む空気があった。現場が回っているのだから、なぜ新人が口を挟むのかと。だから、辞めた。
仕事をしていた頃、駅までの行き帰りで何度も泣いた。中学生の頃感じた理不尽さがまた私の前に現れていたから。
上のような怒りを知り合いに表明すると「あなたはまだ若いからそう思うんだよ」と言われる。年をとるから、あんな風になるのか。それは、イコールではないはずだ。あれはただ、心が摩耗しただけのはずだから。私はなるべく心を摩耗させたくない。理不尽さに怒るのをやめたくないし、そもそも理不尽に出会いたくない。
せめて、理不尽さを無くすことに心を砕きたくても、それすら理解を得られない。
頑なに心がすり減るのを拒んだら、きっと何年も精神科に通う羽目になるのだろう。そんな人たちが周りにたくさんいる。
病むか、病む前に心を殺すか、結局その二択しか私の前にはないのだと思う。
毎度のことだが核心をついた意見や評論が日本のメディアではなかなか出てこない。
いつもどこかポイントがずれた話で終わってしまう。また、それにきちんと声をあげれる一般人も少ないと思う。
コンサル目線で「M-1の問題点」と「とろサーモン問題」を総括してみようと思う。
まずこの二人が毎度採点コメントで脇役のはずなのに爆笑をとろうとするのがいけない。今年だけの話ではなく、以前から気になっていたことだ。
この段階で笑いをとってしまうので(結果的に)コメントの合間に漫才が入る形になり、客も視聴者も全力で笑いにいけないのだ。
採点者はあくまでも脇役なのだから客をじらして漫才で笑わせてあげるようにもっていくべき。
松本人志は「ダウンタウンなう」でもそういう傾向があり、インタビュー番組なのにゲストの話を折りまくる結果になっている。
2. トップバッターの採点
一番手の採点は一律で全員90点に統一するべき。二番手以降は一番手を基準に審査員が個々の判断で上げたり下げたりすればよい。
また最低点は80点でよいだろう。厳しい予選を勝ち抜いてきた漫才師たちなのだから変に低い点数は必要ない。
この2つの改善を導入することで、(1)一番手が不利になる状況、(2)立川談志みたいなやつが50点をつけることがある、という今までの運用で出ていた問題を改善できる。
ちなみに、上沼恵美子の採点が大勢に影響を与えていないのはすでにネットで証明されており、彼女の採点には全く問題がなかった。
この度は私の不徳の致すところで、上沼恵美子さまに失礼極まりない言動をしてしまい申し訳ございませんでした。今後は二度とこのような事がないよう深く反省しお詫び申し上げます。
謝罪は「自分がやったこと」を謝罪するのではなく、「それによって不快な思いをさせてしまったという部分」を謝罪した方がよい。
例えばあるプロジェクトを動かしているとして、(1)「自分がやったことの謝罪」はイコール「自分の非を認める」になってしまう(これはこの後裁判になることを想定すると自爆というかNGのアクション)し、(2)気分を害したという結果に誠実に謝罪した方が相手(クライアント)の怒りも収まりやすくプロジェクト全体が建設的に前に進みやすいのだ。
それに加えて、とろサーモン久保田の酒癖の悪さは有名だったそうで、今回はそんな人間のたわごととして済ませてしまった方がよかったように思える。酔いが醒めてから事の重大さに気がついた→気分を害してしまったことをお詫びしたい、という流れで処理するのが適切だったように思う。
自分がやったことをフル謝罪した場合は、ねちねち永久に攻め続けようとするやつが昨今のネット社会では後を絶たないよ。
吉本興業がさくっと謝るという方法もあったと思う。個人レベルで謝るのではなく、会社の公式コメントとして謝罪してすばやく手打ちにするのも選択肢としてあったと思うが。
ぶっちゃけ超回復理論じゃなくても実際に勉強する行動は脳みそにダメージを与えている行為なわけで、切除イコール消滅ってのとも違うとは思うんだよな。
何より、癌みたいな生きていても機能していない器官なら切る方が正しい訳だし。
物を片付けない、やるべき事を後回しにする、なんていう「問題行動」に対して「私のことをバカにしている! 私なんか、死ねばいいと思っているんだろう!」という叱り方をする人だった。
今となっては、「子供が物を片付けない=親が死ねばいいと思ってやっている」と、イコールで繋がってしまう思考は、とても危険な認知の歪みを伴っていると分かる。
だけど幼い私には、泣きながら謝って、片付けをすることしかできなかった。
遅刻することや、整理整頓ができないことなど。自分の行う些細な問題行動の全てが、母親の死と直結するように思えて、間違った行いをしてしまうことに怯えていた。
8年前。
夜泣きは、私の睡眠を奪って苦しめるためにさているのではないこと。イヤしか言わない時期や反抗期も、大切な発達の段階であることは理解できる。
それでも、一度だけ。
「そうやって私を苦しめて、私なんか死ねばいいと思っているんだろう!」
と口に出して叱りつけたことがある。
「ごめんなさい。死なないで。もう悪いことしないから、お母さん死なないで」
と泣きながら、すがりつく子どもを見ていると、子ども時代の自分が救われてくるのが分かるのだ。スゥーっと、癒されていくのを感じるのだ。
「我が子への虐待は、子ども時代の自分の救済だ」と知ってしまうと、その「甘美な誘いとの戦い」は一生続く。
子ども時代の自分を救うと、我が子が傷つく。我が子を守ると、子ども時代の自分は救われない。
いずれにしても。