はてなキーワード: 浮動票とは
・(筆者男です)(追記しました)男だけど異常に胸がデカいキャラが苦手
ttps://anond.hatelabo.jp/20240208215941
ttps://note.com/meisounote/n/nbed9573f66a5
先日、これらの記事を発端としてインターネットでは何度目かの「女性オタク界隈特有の文化に男オタクがたまげる」イベントが開催された。
件の記事がどれだけ性格かは定かではないが、女性と思われる一部のアカウントらの反応を見る限りはそう大きく間違ってはいないように思える。
(私見を述べさせてもらうなら女性オタクにはクレーマー気質の人間が多いというよりは男性オタク界隈でもクレーマー気質の人間は発生しているが無視されるかボコボコにされるかの二つが殆どでその一方で女性オタク界隈ではそのような人物相手でもまともに取り合ってしまう人が現れてしまうため増長されやすいという構造があるのではないかと考えている。)
本題に入ろう。実はこの手のイベントが開催される度にいつもとある考えが自分の頭の中に渦巻いていた。
「自分がいた頃のアイドルマスター界隈にもこういう所があったな」と。
自分は既にアイマス界隈から距離の遠いところに来てしまって久しいため今でもアイマス界隈が当時のままなのかは判りかねるが、当時のアイマス界隈でも所謂「学級会」や「お気持ち表明」と称されるイベントは定期的に起きていた。
ちなみに内容はというと「担当アイドル※の設定が変更されてしまった」「担当アイドルのイベントでの出番が少ないような気がする」「一向に担当アイドルのCVが決定しない」「担当アイドルのSSRが後回しにされている気がする」といった主に担当アイドルの扱いの悪さに対する不満が殆どである。
※厳密には異なるのだが概ね「推し」のようなものだと思ってもらって構わない。。
そうしてこの手の話題になる度にアイドルマスター界隈(と女性オタク界隈)の性質について少しずつ考えていたが、この度ようやく考えがまとまったためここにそれを垂れ流すことにした。
といってもそこまで難しい話をするつもりはなく、言葉にすればシンプルな事である。結論を先に書かせてもらうと要するに重要なのは「その作品に対してどれだけ『真剣(マジ)』になっているオタクがいるか」という事である。「どれだけ深く入れ込んでいるか」と言い換えてもいい。
念の為に予め言っておくがこれに揶揄の意図は一切無い。しっかり線引きはしましょうという留保くらいはつけておくが元アイドルプロデューサーの自分としてはむしろコンテンツに真剣(マジ)な姿勢で挑む事には好意的ですらある。学校の文化祭だって斜に構えた態度でいるよりも真面目に取り組んだ方がなんだかんだ満足感が高い訳だし。
正直に告白すると、男性オタクよりも女性オタクの方が真剣(マジ)なオタクの割合が高そうだという偏見が自分にはある。創作経験があるオタクの多寡。ミームや定型文に頼らない感想の出力。フィクションの展開の影響を受けて実際に体調を崩す。推しと対面して泣く。ライブで気絶する。同担拒否。いずれも(男オタクにもこういう事例が無い訳ではないだろうが)女性オタクによく見られるケースという印象が強い。
アイドルマスター界隈もまた同様に真剣(マジ)なオタクの多い界隈である。(もう一度記しておくがあくまで自分が界隈にいた当時の印象と伝聞を元にした話であり今でもそのままなのかは判らない)
何故かというと、それはアイドルマスターがリアルとフィクションの境目を壊す試みにずっと大真面目に取り組んできたコンテンツであるからだ。ぶっちゃけ異常者の域に片足を突っ込んでいる。
例えばアイマスのライブには演者が自身が演じているキャラクターを舞台上で「再現」するという文化がある(もしかしたら他の二次元アイドルコンテンツにもあるかもしれないが)。あれは自分に言わせれば二次元上のキャラクターを三次元の人間の上に降ろそうとする一種の降霊の儀式だ。声優ネタがキャラクターに逆輸入されるかつての風習もその精神性の延長線上にあったものだと自分は解釈している。
それになんでも最初のアイマスであるゲームセンターのアーケード版の時点からフィクションがリアルに侵食してくるような試みは存在していたそうだ。なんと、しばらく店舗に通っていないとプロデューサー(プレイヤーの事)に見捨てられたのではないかと不安になったアイドル達が実際にEメールを送信して切実に訴えかけてくるというのだ。今やバンダイナムコの常套手段である「女の子」を見捨てられないという男の本能、その脆弱性を突いた卑劣な人質商売がこんな早くから行われていたとは、驚きの極みと言う他ない。
当時が全盛期だったニコニコ動画という動画サイトに、原作ゲームの動画を編集して制作した担当アイドルの自作MVを投稿したり、担当アイドルの二次創作小説・紙芝居(ノベマス)を投稿したりして、それで同志である視聴者とコメントで交流していていたニコマスという文化も、リアルとフィクションの境目を曖昧にし自分はこの子の担当プロデューサーであるという自覚、いや錯覚を強める事にきっと大いに貢献した事だろう。残念ながら自分は世代ではないため当時の空気感を伝聞や当時の動画を視聴する事で推し量る事しかできないが、自分にはこの時代が「プロデューサー」というロールプレイをするにあたって最も恵まれていた時代だったように思えてならない。
そしてそのリアルとフィクションの境目を壊そうとする姿勢は「シンデレラガールズ」(デレマス)にも受け継がれる(デレマスの場合は商売っ気がやや強すぎる気もするが)。
代表的なものはやはり悪名高い「総選挙」システム、そしてそれに端を発する声有り・声無しという概念だろう。初期のデレマス(当時はモバマスと呼ばれていたそうだ)はどのアイドルにもCVが付いておらず、ゲーム内のイベントであるシンデレラガールズ総選挙で上位に入賞するとそのアイドルのCDデビューが決定し、それに伴ってCVも決定するという流れがあったらしい。勿論、ここでいうCDデビューとは現実世界でそのアイドルの歌とトークが収録されたCDが売り出されるという意味であり、故にデレマスPにとって総選挙とは「実益」が絡む完全に「現実」の話となる。
そしてデレマスの総選挙における「有権者」とは、(奇妙な日本語ではあるが)プロデューサー(ユーザー)の事である。そのため同じ現実の人間である同僚プロデューサー達に対して担当アイドルのプレゼンもとい演説を行い、投票を呼び掛けるというまるで現実の選挙のような活動を行うインセンティブが発生する。その「選挙活動」に端を発する文化として、互いに手持ちの票の一部を相手の担当アイドルに投票し票交換を行うグループが現れたり広くプレゼンを募って気に入った担当アイドルに手持ちの票を分けるユーザーが現れたりなどがあるが、最も自分の印象に残っているのはやはりプロデューサー自身のインフルエンサー化であろう。それもプロデューサー活動の末に自然と自分も有名になっていたという結果論ではなく、みんなに担当アイドルの魅力を知ってもらうためにはまずは自分自身が有名になり影響力を持つ存在にならねばという戦略ありきである。自分もプロデューサーの端くれとして彼らがそうした理由は理解できるし感情についても共感はできるつもりなのだが、やはりこの現象を俯瞰で眺めた時にどこか滑稽である事は否めない。(こうした現象は現実にも存在し、例えば作品を宣伝するために自分自身が有名になる事を出版社から求められる作家アカウントなどがある。)
シンデレラガールズとは姉妹のような立ち位置にある「ミリオンライブ」(ミリマス)にもこの選挙というシステムを採用したイベントが存在する。とはいえミリマスの場合は提示された幾つかのテーマにそれぞれ登場する幾つかの役の枠を奪い合うというルールであり、フレーバーとしては選挙というよりはむしろ公開オーディションと表現した方が近い。そして当然これも現実でCDとして発売されるため、やはりミリマスP達もデレマスP達と同様に戦場に赴く事を半ば強いられている状況下にあると言っていいだろう。
そうはいってもデレマスと違って最初から全員にCVが付いているミリマスでは声有り声無しの格差が存在しないぶん比較的平和なのではないかと思う人もいるかもしれない。その見方に一理ある事は認めよう。だが、ここにもまたここだけの地獄があるのだ。
ミリマスの選挙イベント最大の特徴はゲーム内の特設ページにてそれぞれの役の得票状況がリアルタイムで確認できるという点だ。端的に言って心臓に悪い。例えば自分の担当アイドルが他のアイドルと熾烈なデッドヒートを繰り広げていたりなどしたらもう大変だ。そのうえ対抗馬が主人公で自分の担当アイドルがラスボスであるかのような風潮が界隈に浸透し、ジワジワと追い上げられ始めたりなどすればもう終わりだ。いや、終わった。
ちなみにリアルタイム故に成立するミリマス特有の戦略として、特定の時間帯に集中的に投票を呼び掛ける一斉投票という戦略がある。逆転の雰囲気を意図的に生み出す事で同陣営にはこれだけの数の味方がいるのだという安心感を与えて戦意を維持してもらい、逆に対抗馬にはプレッシャーを与えて戦意の低下を狙い、更には浮動票層の関心を惹いて余った票の使い所をアピールする事もできる、気取った表現をさせてもらえば一石三鳥の戦果を狙う事ができる戦略である。まあ、最も効果があるのは手持ちの票が潤沢な最初の一、二回程度でそれ以降は尻すぼみのように効果が小さくなっていくのだが。ただしこれはあくまで当時の話であり、メタゲームが回りきっているであろう今でもこの戦略が有効なのかは既にアイマス全体から離れて久しい自分には最早判りかねる事である。
(誤解の無いように書いておくと自分がアイマス全体から距離を置くようになったのはこのようなプロデューサー活動に嫌気が差したからではない。むしろこういった選挙系イベントはアイドルマスターというコンテンツにおける醍醐味の一つですらあると思っている。確かに当事者にとっては入れ込めば入れ込む程苦しくなっていく地獄の催しかもしれないが適切な距離さえ取れればこれほどエキサイティングなイベントもそう無い。自分がアイドルマスター界隈から離れたのはこの終わりも無ければ変化も無いサザエさんのようなコンテンツに追い続ける意味を見出せなくなったからだ。端的に言うと、ただのマンネリである。商業的には到底採算が採れない企画だろうが個人的な願望を言わせてもらえば、リアルタイムで一年の時が経つ毎に作中でも一年の時が経ち、アイドルも一つ歳を取り、そしていつか終わりを迎える。そういうアイドルマスターを今は体験したいと思っている。Vtuberではダメだ。リスナーではVtuberと一対一の関係を築く事はできず、所詮はただの one of them にしかならないからだ。だからアイドルマスターでなければダメなのだ。)
今もう無くなったがある時期までのアイドルマスター界隈の一部(?)には「『担当アイドル』と『推し』は別物だから一緒にするな」という風潮が確実に存在していた。ここまで読み続けてくれた人であればもう理解してもらえるだろうが、当時のアイドルマスター界隈において「担当する」という言葉は「推す」とは異なり相応の責任を負う覚悟があるという意味を含んだ重みのある言葉だったのだ(とはいえそれは無論ロールプレイの範疇に収まる程度のものでしかないが)。南無阿弥陀仏とさえ唱えれば誰でも担当プロデューサーを名乗ってもよいとされている時代の今時のプロデューサーからしたら到底理解できない馬鹿げた異常な感覚かもしれないが、これもアイドルマスターがかつて有していた一つの側面だったのだ。運営側の人間でもないのに架空の版権キャラクターの世間への売り出し方を真剣に悩む、そんなプロデューサーがかつてはいたのだ。そしてこんなに真剣(マジ)だからこそきっと学級会やお気持ち表明も起こりやすいのだろう。
これを読んで「アイマス怖……近寄らんとこ……」と思った方は安心してほしい。運営ももう時代にそぐわないと判断したのか今のアイマスは比較的カジュアルなスタイルになっており、そこまで気負わなくても気軽に遊べるようになっている(はずだ)。だから興味があるなら軽い気持ちで手を出してくれて構わない。あとはバンナムが二度とは戻れない深い沼の中へと勝手に引き摺り込んでくれるから。
この記事で自分が言いたかった事はひとまずこれで全部だ。ここからはほぼ余談になってしまうがせっかくだからシャニマスについても触れておこう。流石にこの時代になると他のアイマスで見られたようなプレイヤーに責任感を感じさせるような取り組みは無いのだが、リアルとフィクションの境目を壊そうとする点ではシャニマスもしっかりアイドルマスターの一員である。ただシャニマスの場合はシナリオ中の表現・描写・演出等によってアイドル達は現実に生きている人間であるとしてその日常の一コマを写真のように切り出そうとするというストロングスタイルであり、自分の語彙ではこれ以上の説明はなかなか難しい。他の取り組みとしては普段アイドル達が使用している靴箱(靴入り)の再現セットの展示、畳まれていたり畳まれていなかったりするジャージが床に置かれているレッスン室の再現セットの展示、ほとんど環境音しか収録されていない事務所内の定点カメラの映像を六時間ぶっ続けでYoutubeで配信するなどがある。どれも意図は理解できるがどこか変態の所業じみた取り組みばかりになってしまうのは少々困り所だ。
ここまできてアイドルマスター界隈でもあり女性オタク界隈でもあるSideMに触れないのも不義理な気もするが、他のアイマスと比べると中途半端にしか触れられておらず界隈の雰囲気についてもあまり詳しくないので正直語れる事があまりない。何か言える事があるとすればせいぜい「いい加減Mアニ二期を制作しろ」という事くらいだ。偉そうなタイトルにしておいて肝心な部分がこの体たらくなのは申し訳なく思っている。本当にすまない。
私はいま岡山県にある安芸高田市のYouTubeにハマっている
安芸高田市議会は、道の駅を作たが赤字だった。市は赤字を解消するため市無印良品を道の駅に誘致しようとしたが、議会は市長が気に入らないと誘致の予算を否決する。
ここから、なぜ居眠り市議も河合夫妻からお金もらった市議も議員をしているのかと疑問に思った。
投票率が低い→少ない得票数で当選する→少ない支援者の要望を聞けば良い=少ない支援者だけ便宜が図らられる=選挙に行かない多数が知らない間に不利益を被ってる。
ここで投票率が上がることを想定する。
その人の支持基盤が50人いるとすれば、その年はは何もしなくても当選する。
投票率があがり、次の選挙は当落線が100人となったら支持基盤以外にも浮動票の50人にも利益になる政策を進めていく必要がある。次の選挙でも勝つためには浮動票を集める政策を進めるしかないのである。
逆に投票率が下がると当落線が下がりどうなるかである。支持基盤である業界団体(経団連や医師会などの)の影響が強くなり彼らの要望が通りやすくなるのである。
投票率が高いと一党独裁なるのではと心配する人もいるかもしれないが、それは違うと思う。
>自民党が不祥事続きなのに長く政権担当してるのは、野党が分散してるからなんだよ
大いに異論があるね。
自民党所属の政治家の不祥事で、票が離れたとして、それは、反自民票か?
違う。選挙民は、新しい自民候補と野党候補の個人を見て投票する。希望的な表現でも浮動票。たいていは、まだ自民表だ。もともと自民の政策に賛成して票を入れていたんだから。
"不祥事にも関わらず自民党が長く政権を担当している"という認識は、確かに字面上の事実だが、現実に意味のある分析ではない。
元増田は、真面目に政治や選挙のこと考えたいなら、まずは敵の失点と自分の得点を同一視することをやめるべき。そして自得点が得られる方法を考えるべき。
注意:この予想は、あくまで2023年9月28日時点の情勢からの予想です。
#STOPインボイス の署名受け取り拒否と、自民党に署名を渡す事に成功した人が語る「自民党に署名を受け渡すことの難しさ」 - Togetter
2023年9月25日(月)の晩に首相官邸前で行われた「首相官邸前 STOP!インボイスデモ」というデモについてのまとめです。
2023年10月1日(日)から、インボイス制度という税制が導入されます。
これは、2016年11月18日(当時:与党-自民党)に国会で成立した改正消費税法によって、2023年10月1日(日)からの導入が決定された制度でした。
つまり、2023年10月1日(日)からの導入は2016年12月前には既に決定事項となっていた事でした。
そもそも、インボイス制度は何故誕生したのか?
インボイス制度の誕生のきっかけは民主党政権時代(2009年~2012年)に遡ります。
2010年6月、当時の内閣総理大臣の菅直人(かんなおと)は、社会保障の充実や雇用創出、財政再建のためには消費税を5%から8%、8%から10%と段階的に引き上げざるを得ないと判断し、消費税の増税について言及しました。
その後、2011年3月11日に起きた、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)、この震災の復興等で、2012年以降に民主党政権は予想していたよりも予算を多く支出する必要に迫られる形となり、2011年8月30日より、菅直人の後を継いで総理大臣となった野田佳彦の下、2011年12月29日に、「消費税を2014年4月に8%に、2015年1月に10%に増税する」とする民主党案(この際に、インボイス制度の導入も民主党案内で提案)を出すに至りました。
2012年12月の衆議院議員選挙で民主党が敗北し、再び自民党が政権を獲る事になったものの、民主党政権時代に消費税の増税に関する法律は成立してしまっているため、消費税の増税は避けることができなくなっていました。
2014年4月に消費税が5%から8%になった後、安倍政権下で、景気が復調してきた事等も踏まえて、8%から10%への引き上げは2014年11月(2015年10月→2017年4月に)と2016年6月(2017年4月→2019年10月に)に二度延期された後、2018年10月には予定通り2019年10月に税率を10%に引き上げるこが決定され、2019年10月に消費税は10%に引き上げられました。
\この、2019年10月の消費税率10%への引き上げの際、仕入税額のなかに標準税率10%と軽減税率8%の2種類の消費税が混在する形(複数税率制度)となり、2016年11月18日に成立した改正消費税法によって、複数税率制度に対応するために消費税を10%に引き上げた後、2023年10月1日からインボイス制度という制度が導入される事が決定しました。
言わば、インボイス制度は、「民主党(現:立憲民主党)」と「自民党」の共同作業に寄って導入が決定された制度となります。
ここまでの流れを踏まえてお聞き下さい。
・インボイス制度の導入は2016年11月時点で決定していた
・それなのに、制度が実施される直前のここ数か月になるまで、反対派はデモ等を行って来なかった
・制度が実施される1週間前になって、署名の手渡しを行おうと首相官邸前に押し掛けた
これで署名を受け取れというのが無理のある話でしょう。
そういう疑問の答えが前述のまとめには書かれていました。
インボイス制度の実施直前の「中止が絶対に無いタイミング」でデモを行う事自体が、左翼系政党(立憲民主党、日本共産党、れいわ新撰組、社会民主党)の「仕事やってます」アピールなんですね、これ。
こういうのを見ると、左翼系政党(立憲民主党、日本共産党、れいわ新撰組、社会民主党)って駄目だなと思います(個人の感想です)。
特に立憲民主党の議員、先にも言いましたがインボイス制度は、「民主党(現:立憲民主党)」と「自民党」の共同作業に寄って導入が決定された制度です。
それなのに、自民党と一緒にインボイス制度の導入までの道を作った責任を取って他の左翼系政党(日本共産党、れいわ新撰組、社会民主党)から非難される立場にならず、他の左翼系政党(日本共産党、れいわ新撰組、社会民主党)と一緒に政府・自民党を非難している立憲民主党は、特に信用に値しません。
さて、「左翼系政党(立憲民主党、日本共産党、れいわ新撰組、社会民主党)が信用ならない」という話をここまで書いてきましたが、ここからは「日本維新の会と、大阪維新の会にも信用ならない部分が有る」という話を書くことになります。
2025年に開催予定の「大阪・関西万博」の会場の準備が悲惨な事になっているそうです。
元々、「大阪・関西万博」の誘致が決定した時は「1250億円で会場は建設できる」という試算だったのが、2020年12月に「1850億円必要です」となり、ついには、2023年9月26日に「2300億円かかります」と発表されています。
これについては、色々と思う所が有るので、いずれ別に記事を書きたいと思いますが、この予算の増額に対して、大阪では大阪維新の会(と日本維新の会)に対する非難の声が徐々に増えているそうです。
かと言って、大阪市民は、自民党や立憲民主党(と日本共産党・社会民主党)等も余り好きではないという人が多い土地柄であるそうで、次の国政選挙が行われるタイミングに寄っては、右翼(自民党)と左翼(立憲民主党・日本共産党・社会民主党)と維新とで浮動票が割れて大阪は大荒れするかも知れません。
国民民主党とれいわ新撰組辺りは、それぞれの党首がうまく立ち回れば浮動票を取り込める可能性が有りそうな気がします。
当記事主は、与党系(自民党・日本維新の会・国民民主党)寄りの立場ですが、それでもこれに関しては日本維新の会を非難せざるを得ないと思っています。
しかも、余分にかかる費用の負担を国に求めている辺りに、「本当に開催するのか中止するのかを、一度立ち止まって改めて考えて欲しい」と思わざるを得ません。
大阪・関西万博の問題が話題になっている大阪で、2023年9月24日(日)に、東大阪市の市長選挙と市議会議員選挙が行われました。
前回、2019年9月29日(日)に行われた東大阪市長選挙の投票率は38.91%だったのに対し、
今回、2023年9月24日(日)に行われた東大阪市長選挙の投票率は39.86%と、上がっています。
前回・今回共に現職の野田よしかずさんが当選しています。ただ、野田さんは前回は、自民党・公明党の推薦を受けて出馬していたのが、今回は大阪維新の会に入党し、大阪維新の会の候補として出馬していました。
そして、当選してはいるものの、投票率は上がっているのに、得票数が前回よりも約8000票ほど減るという結果になっていました。
更に、東大阪市議会議員選挙では、大阪維新の会は14名の候補を立てていたのですが、3名が落選して、11名の当選という結果になっています。
僅かながら、維新離れしている傾向が見て取れます。
そして、今回の東大阪市議会議員選挙では、得票数の上位6位に、大阪維新の会の候補者達に混ざって、参政党の候補者が1名当選していることと、当選者の中では下から10番目の得票数ですが、れいわ新撰組の候補者が1名当選していることが注目点と言えると思います。
僅かに、僅かにではありますが、大阪から始まった政治団体である維新の会(大阪維新の会&日本維新の会)から、離れて行っている人がいるのではないかと考えられます。
インボイスデモと東大阪の選挙に見る、今後の政党勢力推移予想②に続きます。
アイドルマスターシンデレラガールズ総選挙 Stage for Cinderella決勝の結果が出た。
50万票近い差でイヴが1位となった。
純粋な担当・ファン票以外に、頑張っているから声をつけてあげたいという応援票、同情票や、ボイス投票のライバルを減らしたい思惑票もあっただろう。
この結果は、果たして良かったのか、悪かったのか。
まず、デレマスはアクティブがここ何年と増えていない、徐々に減っている現状がある。つまり売上の今後の大幅な拡大が見込める状況ではない。
では盤石か。SideMのソシャゲが2連続でサ終してしまったことから考えると、多少人気がある程度ではダメで
全190人、ボイスだけでも100人近くいるサービスを運営していくコストに見合った収益が無いと、サービス終了もありえるのがソシャゲの現実だと思う。
ボイスがつくと、曲でもライブでも活躍の機会が増える。それはそのアイドルの担当にとってとても喜ばしいことだし、声無しアイドルのままでは一生得られない夢だ。
但し、売上が拡大しないデレマスにおいて、声がつくというのは、曲とイベントとライブの出番を争うライバルが増加するということに直結する。
190人全員に声をつけろという主張もある。
でもお前ら、曲に出てくる20人が、下位20人の組み合わせだったら言うほどライブへ行くか?イベントプレイするか?ガチャ回すか?
担当アイドルのSSRが実装されたときに、別の推して無いアイドルのSSRを引いても、親愛度だけ上げて、MVを見たりしないアイドルが何人もいたりしないか?
俺はガチャで引いても興味ないアイドルはいるし、興味ないアイドル20人が出るライブに行くかといえばわからない。ライブには行くかもしれないがグッズは多分買わない。曲を買うかもわからない。
相対的に下位のアイドルのボイス実装が進めば、そうした人気の薄いアイドルに割くリソースはどんどん大きくなる。
そして、お前の担当しているアイドルがボイスありなら、その出番はどんどん減る。
何ヶ月も全く音沙汰なく、ライブにも登場しないアイドルが何人いるか覚えているか?
だから俺は本音で言えば、デレマスがドッカンドッカン売れてくれそうな爆発的なポテンシャルをもったアイドル以外で声がつくことを恐れている。
ついたところで、売上的に自分の担当より若干劣っているだろうアイドルにリソースが割かれて、サービスとしては売上が対して上がらないから
供給が増える希望もなく、ただ担当アイドルの出番だけが減るだろうからだ。
今回、ボイスが無いアイドルに流れ込んだ浮動票たち、その投票したPたちは、グッズを買ったり、ガチャを回したり、投票して課金するか?
どうだろう、ボイスをつけたという手柄に満足して、次のボイス候補に投票して
「俺の力でボイスがついたんだ」という成功体験だけを、また追い求めるんじゃないのか。
シンデレラガールズ総選挙では、これまでもそういう投票行動が続いてきたからだ。
Pの成功体験の単なる道具として、ボイス実装の初CDと初ライブが終わったら
つらいのは担当Pと声優だ。総選挙でどのアイドルより人気になるほどいたはずのPは、しばらく経てば周りに全く居ない。
ガチャの売上は振るわない、イベントのアクティブは増えない、ライブのグッズはさして売れない。そして出番が減って忘れられていく。
ボイスが無いことで、同じゲームのアイドルの立場ながら、イベントも曲もライブもない。その苦しさを見過ごしていいのかというと俺にはなんとも言えない。
でも、俺は、あまり興味ないアイドルの出番がどんどん増えることで、自分の担当が何年も干されるような選択肢があるなら
新しいボイス実装が、デレマス全体にまたユーザが戻ってきて、もっといろんな出番につながるようなことがあれば、それが一番理想だ。
ライトノベルの作者が文学者として語られないのが腑に落ちない。
ライトノベル滅多斬りのようなそれに特化した書籍ならともかく、国語辞典や百科事典に載ってる人が全然いないわけだ。
特化した本では語られていてそうでない本では他のジャンルと同じ割合だけでもなく全然言及されないというこの状況は世間にとってラノベの価値は井の蛙的なものであるということを物語っているのではないだろうか。
後にも述べるがいまやラノベは純文学以上に熱烈な支持者は多いように思う。
が、そもそも本に対する愛着やこだわり自体あまりなく暇だったり必要に応じて読んでいるという人が、蝸牛の争いのような両者に比して圧倒的多数だと仮定するなら、権威ある事典などにラノベではなく純文学の作者について語られていれば浮動票のようにそちらの方が優れていると考えるだろう。あるいは世間一般の人がそれがなんとなくであるにすれラノベより純文学の方が優れているという考えを持っていることの現われなのかもしれない。
このような単にラノベが純文学より劣っているという考えは何の普遍性もない(無根拠な)価値判断が来ているのだろうか。
正直私にはたとえば恋愛を扱ったものに関してラノベと純文学で読後感という点で違いを見出せなかった。
ラノベ、魅力的な都合のいい異性を描いて娯楽に供させる。
一方で純文学、シェイクスピアのハムレットなんか見てみるわけだが、異性が魅力的でないこと以外読み物としては両者ともそれぞれ違った(優劣ではなく)面白さがあるだけで差を感じられなかった。
ブリタニカ百科事典先生によると、文学は芸術の一つで、芸術には美の要素があることが要件らしい。
逆に言えばより美しく、芸術性が高い作品が文学としてより優れたものなのだということになりそうだ。
でもそれじゃあ美ってなんだよって話になる。ラノベに書かれてることは美しくなくてシェイクスピアは美しいと頭ごなしに言われてにわかに納得できるか?ラノベ好きなら教条主義的な人以外そんなことを思考停止して受け入れるのは無理な話だろう。
文学といえばよくそのメッセージ性が問題にされているとは思う。
文学作品の物語、プロット、筋というのは何か崇高なことを訴えていることが期待されるものだ。
その点ラノベにとって物語というのは登場人物すなわち読者にとっての異性をより魅力的に見せるための小道具、オタク的に言えばシチュとしての役目しか持たされていないのかもしれない。
あるいは訴えることがあるにしても評価されている純文学のそれに比べれば余りにも素朴で浅はかなものなのかもしれない。
しかしそれがなんだと言うのだろう。
そのラノベを開くとマッチ売りの少女のように脳内に魅力的な異性が立ち現れてくる、そこに価値を見出している人が確かにいるのだからそれもまた確かに「価値」じゃないか。
むしろ紙の本が売れなくなっているこのご時世には電子出版と相性がいい漫画と同じくラノベのほうがそれ以外の小説よりよく読まれているのではなかろうか。
価値に対して人間が万物の尺度であってかつ尺度の多数決によってその度合いが最終的に定まるものなら純文学よりもラノベのほうが価値が高く優れているということになりそうなものである。
またどれだけ異性を魅力的に描けているかということならまだ美という観念にも通じるものがあるように思え、その作品の美しさを論じる余地があるように思える。
他方、ガリバー旅行記は人間社会の不条理さや醜悪さをこれでもかと抉り取った大人の読み物らしい。
そういうメッセージ、風刺、アンチテーゼの質が文学作品の重要な評価軸になっているようには思う。シェイクスピアも漏れなくその点で評価されているのだろう。
こうしたメッセージ等の価値というのはそれが真理を示しているか、生きる指針として役立つか、ということ等にあるのであって、これは美しさという尺度でどうこう論じれるものではないと思う。
たとえていうなら匂いについて判読性が高いかどうか論じようとするようなものだ。嗅覚上の情報に視覚に関係する尺度をあてがってもどうにもならない。
あるいは文学には描写そのものの美しさというものも見出すことが当然できよう。
その最たるものが詩だろう。
それは単純に視覚的に美的なものを描く、あるいはレトリックの巧みさという形で体現されるはずだ。
そういう詩的要素が散文においても存在するなら、その散文すなわち小説などは美しさを帯びていることになり文学の要件を満たしうるはずだ。
しかし文学からそういった詩的な要素に対してメッセージ性というものは論理の次元にあるものなのだから、そういう詩的フリンジを取り去ってもメッセージ性は保存されるはずである。
その文学作品が何を訴えているかということがノーベル賞においてすら重要な評価軸になっているのだから、詩的フリンジの有無はその文学的価値にとってさしたる要素ではない考えられるのだ。
文学の価値は何を訴えているかにあるはずなのにそこには文学の要件たる美がないとしか思われないのだから訳が分からない。
結局辞書の言っていることを手がかりに形而上的に考えても埒が明かないのかもしれない。
とはいえ主観のおもむくままに考えてみてもおそらく月並みな見解しか沸いてこないだろう。
それを承知で述べてみるなら、まず文学作品と呼ばれるようなものは限られた人しか楽しめない。少なくとも文盲や知的障がい者には荷が重い。
だからその価値判断というのはその限られた人の価値観に偏ったものになるはずだ。
知的エリートはそうでない人に比べ収入が高い傾向にあること言うまでも無い。
ただの女たらしが「紀州のドンファン」と一目置かれた称号を得るのも然り、財力があれば世間に対する存在感ひいては発言力も増すという俗物的な構造はまだまだ根強いと思われる。そうでなくても知的エリートは社会的地位が高い傾向がある。
そういうわけで彼らの考えは権威を帯びる。
ただそれだけなら楽しめる作品が多いというだけの話なのである傾向を持った作品ばかりが知的エリートに推されるということの説明にはなっていないはずだ。
彼らはより知的でなければ読めない作品に、自分を飾る嗜みとして、価値を見出すのだ。
なのでラノベではなくてそういう作品が、そういう作品の作者のほうが優れているという考えや言論が幅を利かせることになるのではないか。
教養とか皆無でもさっくり気楽に楽しめるようなものを尊んでいるのでは格好がつかない。それでは凡百と同じなのだ。
以上をひっくるめれば、彼らは美しい作品ではなく、強靭な教養や知性という顎でもってはじめて噛むことができるスルメ的な面白さがあるかどうかで価値を判断している。
そしてそれが権威ある辞書や事典の記述を通して本に対してさほどこだわりのない圧倒的多数の一般大衆に浸透し、そうしてラノベは純文学に対して劣ったものという既成観念が形成される。
月並みなばかりでなくいかにもルサンチマンに満ちた見解になっているとは思うが、そういうことなのではないか。
似たような話でアニメはドラマや実写映画より劣ったもの扱いされているということがあるだろう。
昔の大衆の娯楽だったものは今は高尚なものとして扱われるというパターンがあるけれど映画は割りと初めのほうから芸術的に価値あるものたりうると認識されていたような印象がある。
逆にアニメはジブリが(ガンダムなんかも?)例外なだけで今日まで芸術性が認められてないゆえにどこまでも映画に劣った娯楽作としか見られていないように思う。
さらに時間が経てば歌舞伎や浮世絵のように芸術として見られるようになるとはにわかに考えにくいのだ。
実はこの文章の原稿はいっぺんに書いているのではなく日をまたいで書いてるので、その間に得た知識によっては文章に反映されていくものもある。
その一つとして先ほど偶然知ったのは、大衆文学には少年少女小説、つまりほぼラノベと同義と捉えても差し支えない概念も含まれるということだ。
ただし付け加えていうなら大衆文学には純文学に対して価値が劣ったという含意がある。となるとこれはむしろラノベは劣ったものであるとう認識が存在する傍証になってしまったようだ。
本当のところはうだうだ言う前に早い話がもっとラノベと純文学をバランスよく読めば自ずと両者の面白さ以外の違いも分かって疑問も解決に向かうかもしれない。
しかし私はラノベもそれ以外も小説というもの自体平等にあまり読んでないので、今更自ずと分かるまで両者を読みまくって分析する気までは起こらない。
好きでもないジャンルの本を読むのは受験勉強に等しく苦痛だ。私はただなぜラノベ作者が純文学作者と比べ評価されたり公の場で対等に紹介されたりしないのか知りたいだけだから、私自身が苦痛を味わうまでもなく両者を愛読していて答えを知っている人に教えてもらう方が合理的に決まっている。
知恵袋にも質問の体をしているがその実は女がしがちな「どうしていっちゃうの?」式の不満に対する詰問でしか内容の投稿が多くあるが、結局風潮への反感が、反感は反問を生むという素朴な力学が私にその理由を知りたがらせているわけだろう。当然ここにも答えを知っているものがいるならばその提示を望むものである。
また私は私でただの判官贔屓かもしれないけれども、メーンカルチャーに属するコンテンツに対する感想が溢れるなかでブログや増田に埋もれたラノベやアニメの感想記事があったら、その飾らない感性とのその一期一会に感謝し、その価値観を慈しむことでこの世間の風潮に対抗しているつもりなのだが、それをこれからも続けていくつもりだ。
dorawiiより