はてなキーワード: メソッドとは
霊感なんだけど、チヤホヤ系女性エンジニアを見かけると例の寿司屋と同じメソッドを感じてしまうんだよね。
「性別は関係ない」と口頭では主張しながら、じゃあ性別無関係なエンジニアリングだけで勝負しているかというとそうでなく、女性であることをウリにしている、みたいな・・・。まあ使える武器は何でも使う、全部使うというのは戦術としてわかるけど、言行については不一致だよね。
言行不一致という非をどこまで追求するか。という問題もあるが。
真に「性別関係ない」を体現する場合、性別を明かさず活動するだろう。それがガチ勢。
または匿名掲示板でオンナと割れるとナメられるんで男口調でコミュニケーションする、みたいな。
例:エンジニア、ガテン系、ゲーセンのビデオゲームコーナー、etc...
なぜなのか。
職場の人たちのプログラミングの方法というか、書き方というか、意識というか、それが私と違っていてちょっとツライ。
public class X0001 { public static final String CONST_STRING_VALUE_ONE = "1"; public static final String CONST_STRING_VALUE_TWO = "2"; public static final String CONST_STRING_VALUE_THREE = "2"; ... public static final String CONST_STRING_VALUE_ELEVEN = "11";
「XXコードは2文字で入力して下さい」とかそういうメッセージを表示する時の2の部分に、使ってるんだけど、
ソースコードにマジックナンバーを書くの禁止っていうルールに反しないようにするためのfinal String.
code123 というStringな変数の中身が、X1234.RET_CODE_NG と等しいか調べるのに、
if (X1234.RET_CODE_NG.equals(code123)) { ...
って書くのも気持ち悪い。code123がnullだった時の対策としてのひっくり返し記述なんだろうけどさ。
if ( code123 != null && code123.equals( X1234.RET_CODE_NG )) { ...
複雑な計算をする処理があるクラスで、メソッドもフィールドも全部staticで書いてる人とか、
それマルチスレッドで動いたら計算内容がぶっ壊れる可能性ありませんか、ということで、
非staticで書き直してたけど、なぜそれがダメなのかわかってない風だった.
自社でWebサービスをやってる社員数50名くらいの会社なんですが、今年入社したSIerから転職してきた人がプログラミングしなさすぎ・できなさすぎてもう辞めたい。
サーバーサイドをRuby on Railsで開発しているのだけれど、Rubyのメソッドを使えば3,4行で書ける所をその人は10行ぐらいで書いてくる(見づらい上にしかもバグがある)
うちの開発者、5人しかいないのでコードレビュー全員やるようにしているのだけどその人は自発的にしようとしない。
口頭でお願いしたら、2日間かけた結果「動いたので良さそうです」みたいなコメントつけてきた。コード読んでないでしょ。
採用時点でRuby未経験とは知っていたけど、Javaやってたと言ってたので大丈夫だろうなと思ってたけど大丈夫じゃなかった。
「土日とかに勉強すれば?」と言ったんですが、「やっても頭に入らなかった」とのこと。
元増田だけど、鬼滅における善逸の描写の変化は「ポリコレに応じて進歩した」のではないと思うよ。
漫画ってメディア(特に少年漫画)は、短時間でキャラを立てる必要がある(と考えられている)ので、キャラクターの登場時の言動はエキセントリックなものになりがちなんだと思う。短期間でキャラを立てるためのメソッドとして「非常識なことを言わせる」というのがあるんでしょうね。
最近の鬼滅(および善逸の言動)がポリコレ的に落ち着いたように見えるのは、単に「キャラクター紹介の段階が終わった」だけ。たぶん。
なおジャンプにおける「登場時のキャラ立て」については、呪術廻戦とチェンソーマンが、立て続けに鮮やかなものを見せているので、何らかの新しいノウハウが溜まっているものと見られます。未来は明るいのではないでしょうか。
推測だけど。
約1000というのは、ギリギリ2000に達していないだけで、1800とか1900とかそういうオーダーなんだと思う。
自分が官僚だとして、嘘でないと強弁出来て、数を少なく見せたいと考えたら、そういう報告をすると思う。
直近にも総理の答弁で、大多数がニューオータニに泊まった、と言って後で突っ込まれた件があったが、あれも「大多数」とか言っている時点で怪しいと思っていた。
2015年に「(そういう)憲法学者がたくさん居る」、と言って結局2-3人しか上げられなかったことがあったが、そういう基本的な語に対する共通認識を誤魔化すメソッドが蔓延するようになってしまった。
過ちては改むるに憚ること勿れ。私もそういう人間になりたい。
元AV女優の松本亜璃沙氏と、その元夫、AV男優のピエール剣氏を中心に開催された、山中湖での1泊2日キャンプでその事件は起きた。
参加者のAV男優2人が、ピエール剣氏の彼女をレイプしたというのだ。
11月16日(土)?17日(日)に山中湖にてキャンプを実施。17日(日)早朝において、ピエール剣の彼女と認識せずにキッチンで猥褻行為。
その後、浴室にてトニー大木の指示により手足の自由を奪い口を塞ぎ、2人で強制性交に及んだ。(後述するYouTubeの説明より)
20日の夜に、ピエール剣氏と松本亜璃沙氏、加害者であるAV男優2人で話し合いの場が持たれた。
https://www.youtube.com/watch?v=dmTe190qcQY
(1時間以上「お説教タイム」が続くだけの内容であり、音質も悪い。イヤホンで聴きたくなるところだが、被害者の名前を隠すためのピー音が大きすぎてビクッとなるので注意。説明に書かれた、「被害者から加害者の想い」は必読)
大好きで大切な友人の裏切り | 平成最後の小悪魔❤ロリ熟女のパイオニアが贈る愛する彼の一番になる禁断のメソッド
証拠隠滅はしたくないので消しませんよ。
別に不利も何も協力はしますし、犯罪は犯罪…
続きは質問箱へ #Peing #質問箱 https://t.co/IdWFKI7J7y— 松本亜璃沙【キレイ・デ・ラボ公認アンバサダー】 (@arisaotome) 2019年11月24日
老化っていうのはいわゆるできてたことができなくなるってことなんだけど、できなくなることを認めなかったり同じやり方に固執して結果だけが悪化していくくらいなら、その時その時で最大限できることを見つけて取り組むほうがよい。
ときにはこだわりとかのレベルから覆すことも必要だけど、こだわりが強ければ強いほど自らの生きる世界を狭めてるかもって考えるとどちらがいいのかなって思う。
ただ、上手くできることと楽しいことは別で、そのやり方自体が楽しい、それでいて別に人に迷惑をかけないと言うなら悪くなる結果を受け入れつつ楽しむことを優先することは大事。
そこはなんのためにそれをするかで異なってくる部分。
例えばカラオケで高音がでなくなってきたとする。
でも世の中には色々な高音の出し方が研究されていて、その辺を取り組んでみた結果、今まで地声で無理にひねり出していた高音よりミックスボイスできれいな高音を出せるようになって結果よかったみたいな感じ。
それに世の中の技術は常に新しいものが開発されていて古いままだともったいないよねっていうのも大きい。そのために頭はいつも柔らかくしてなきゃいけないけど。
この数日間に渡り、乳幼児スナイパーのプロでなおかつ大人で常在戦場な俺の闘いの記録を記してきたが、とりあえず本稿にてて一区切りとさせて頂く。読んでくれてありがとう。またいつか何事も無かったかのように始めるかもしれないがそのときもよろしく。
この業界、標的への攻撃に関するさまざまなノウハウを持っている同業者は多いが、標的を確保拘束する際のノウハウを持たない者も多くいる。もちろん自身に子供がいる、近親者に子供がいる場合はこの限りではないが、そのいずれにも該当しない独り者の同業者はいざその事態に直面したときにたじろいでしまうことが多いと聞く。
なので常在戦場の大人のスナイパーとして、そんな同業者たちに対して標的の確保拘束に関する技術を記しておくので、その事態に備えていただきたい。なお俺もそんな事態に直面したことはないのだが。
まず左腕。ここは肘打ちの形に曲げる。ブロック塀くらいなら粉砕できる必殺のエルボーだ。肩の高さで構えてゆっくりと降ろして脇をしめる。瞬間的な破壊力は勿論だが長時間に渡る荷重、負荷に耐えうる筋力を身に付けておくことが望ましい。日頃から瓦割りなどで鍛錬を積んでおいて欲しい。
次に右腕。これは手のひらを上にして空手の貫手を作る。ベニヤ板くらいなら貫ける必殺の貫手だ。実戦の貫手と違う所は親指を曲げずにまっすぐにする所である。日頃から指立て伏せやボルダリングなどで鍛錬を積んでおいて欲しい。
型についてだが、まず左腕をエルボーの体勢にしてゆっくりと脇をしめたら、右腕の貫手をそっとその下にしのばせる。イメージとしては敵と対峙したさい、肘打ちでフェイントをかけ、肘の下にしのばせた必殺の貫手で仕留めるつもりで構える。この場合、左腕だけで拘束することはお勧めできない。不測の事態で腕をすり抜けて標的が落ち、そこをジャッカルされてしまう可能性があるからだ。必ず右の貫手をエルボーの下にしのばせること。
そうして標的の赤ん坊の後頭部をまず左のエルボーの内側に乗せる。正確には首が座ってない場合が多いので、首と後頭部の間だ。そして右の貫手の上に標的のお尻を乗せる。このとき指は添える程度にしておく必要がある。標的が拘束中にぐずり始めたら、日頃から指立てで鍛え上げた四本の指で標的の背中をポンポンとリズミカルに刺激することで「お前は逃げられないのだ」と静かに威嚇することができる。日頃から指の鍛錬を要するのはこれが理由である。
以上のプロセスと心構えでもって標的の捕獲拘束に成功したあかつきには、至近距離での視線、あるいはこの世の最期のような表情でもって、哀れな標的を心ゆくまで恐怖のどん底に突き落とすことが可能となるだろう。
またこのメソッドだが、基礎的な鍛錬はともかく実際に負荷をかけるより実戦的なトレーニングの場が少ない。そんな場合はスーパーの米売り場がお勧めである。「さてこの米の産地はどこかな?ほう新潟県魚沼産だと?しかも無洗米か」という顔をしながら5キロ程度の米袋を今言った型で持つことで、周囲の目を欺きながら実戦的なトレーニングが可能である。ただしポンポンまではしない方が良い。
それは多分に日本での近代演劇がヨーロッパの演劇理論をほとんど鵜呑みにしてきたからだろうね
印欧語族と日本語では当然に言語表現のコードが全く異なるのに、上辺のやりかただけ形だけ真似るから「芝居がかってる」と悪評される
これに反旗を翻して日本独自の現代演劇理論を提唱したのがかの平田オリザなわけだけど、なかなか彼の演劇理論が映画界に逆輸入されてる気配はないようだ
これは私見だが、日本の映画界隈は学術方面に疎いというのが根本的な原因なのではないかと思う
ヨーロッパでは(アメリカもだけど)大学に演劇研究を扱う学科があるのは普通だし、演劇理論が映画界にも影響を及ぼしてる(メソッド演技法の賛否両論など記憶に新しいね)
かたや日本の映画界隈はどうだ?金儲けに走って演技理論の学位も持ってない半ばアイドル上りの俳優たちが事務所のゴリ押しで役者のポジションを得ている
全く堕落はなはだしいよ、連中は日本国内で甘い汁を吸うことしか考えてない。こんなんだから韓国にポップス音楽でも映画でも世界展開戦略で後塵を拝するんだよ
私はあなたに滅茶苦茶にされたい。
私の心に一生消えない爪痕を残してほしいし、あなたの作品に触れる度に情緒を乱されたい。
▽
“こんな風にキャラクターを作るといい”
“最低でもこういう風に作品を作れ”
“キャラの口調はこういう風に設定するといい”
近頃一時創作における「創作論」を目にすることが多くなった。“小説家になろう”みたいなサイトで一般の人でもうまくいけば出版してもらえることが増えたからだと思う。得れる作品を作ってワンチャン。wannabe。俗にいうワナビが増えたんだろう。
前述のアドバイスは“売れるため”にこうしたらいい、というアドバイスであるらしい。売れたいけど売れていない作家向けの善意のアドバイスなんだと思う。
こんな風に作ったら皆に読んでもらえるよ、皆に愛される作品になるよ。売れるよ。
本当にそうだったら素晴らしい。
私自身、作品を作っているから「読んでもらいたい」という気持ちはわかる。作者としてはいろんな人に自分の作品に触れてほしいし、愛されたい。作品を愛してほしい。「この話いいよね、刺さるよ」って言われたい。そういうものを作りたい。誰かの心に一生消えない爪痕を残したい。
だから、“作者としての私”は、“作家としての私”はそのアドバイスを積極的に否定しようとは思わない。
おそらく、作品を作る人なら誰だって「自分の作品に触れてもらいたい」からだ。
その一方で読者としての私は「他人の創作論にすがるくらいなら筆を折ってしまえよ」と思う。
本当にそうなるか(売れるか、愛されるか)どうかわからない誰かのメソッドで安易に自分のスタンスがぶれるなら、筆を折ってしまえよと思う。
私は作家が好きだ。
作品を作る人が好きだ。
自分の内側にある世界を、自分の外側に作り上げる人達が好きだ。
だからこそ余計に筆を折ってほしい。
自分ではない第三者の、“当たるかどうかわからない”メソッドでスタンスがぶれて唯一無二のあなたの世界が歪むくらいなら。だったら今すぐ筆を折って、そのままのあなたで私の永遠になってほしい。あなたの世界を他の誰かのあやふやなメソッドで薄めて欲しくない。
これは持論だけれど、作品とは作家のもつ狂気が実体を得たものではないかと私は考えている。
絵画などの実際に形をなした作品でも、音楽や文章などの実際には形のないものでもそうだと思っている。
作家の持つ人生観、倫理観、何かに対する考察や愛、執着、すべてが入り交じって生み出されたもの。それが狂気であり、作品だと思っている。
自分の内側にある世界を自分の外側に生み出す行為。それに狂気がないなどとは思えない。
作品を作ることは自分と世界とを繋げる行為であって、いわば“呼吸”であって、第三者の目に触れることで作家は作家としての自己を得ていく。作家として生きられる。
作品とは作家そのものの“概念”だと思う。作家が今まで経験してきたものを概念レベルにまで落としこんで表現したのが作品だと思う。だから、同じ作家の作品には同じ匂いを感じる。共通する世界観がある。作家を感じられる。
その“作品”を、美しい狂気を、麗しく鋭く研がれた爪を、誰かのメソッドで一般化されたくはない。私はそう思ってしまう。
作家の持つ“感性”という雑じり気のない狂気に私は触れたいし、“作品”という爪でズタズタにされたいから。
まだ出会えていない作家の、まだ見ぬ推し作家の、本気の“狂気”を理論で塗りつぶされたくない。
作品から垣間見える人間性、人生観、作品へのスタンス。そういうものを鋭く尖らせた“表現”という爪を丸く整えてほしくないのだ。
作品として成立させるためにある程度の“理論”は必要だと思う。読みやすい日本語、情景をより伝えやすくするためのレトリック。そういう意味での“理論”を伝えるというなら私は大賛成だ。より多くの作家の“狂気”をより効率的に摂取できるから。作家の構築した世界をより分かりやすく感じられるようになるから。
でも、作品の本質にまで“理論”を出すのはやめてくれと思う。思ってしまった。キャラクターの“キャラ”の口調はこうした方がいい、こういう性格の方が取っつきやすい、世界観を作り上げるなら最低でもこれとこれとこれが必要だ──。
全部しゃらくせえ。好きなように書いてくれ。好きなように書いて好きなように狂え。あなたの狂気で私を満たしてくれ。あなたが考えた世界で私を狂わせてくれ。
分かりやすいキャラクター、分かりやすい話運び、そういうのは読みやすくて分かりやすくなるかもしれないが、結局“一般化”だ。誰が見ても何となくわかって、誰が触れてもまあ大丈夫なもの。量産品。いつものやつ。
でもそこに作家の持つ“色”はあるんだろうか。そこに作家個人の“感性”はあるんだろうか。
“売れるように”量産されて一般化された作品に何を感じればいい?
“どこかで見た”何かは誰かの心に爪痕を残せるか?刺せるか?
前提として“売りたくて作る”作家と“作りたくて作る”作家がいることははっきり認識している。私は後者だ。作りたいから作る。
でも前述のアドバイスを自分に取り入れるのは前者だろう。売れる方法があるなら試さない道理はない。売りたいんだもの。だからそれを積極的に否定しようとは思わない。合理的だから。目的に対する手段が一致しているから。
でもそれ、“作家”なのかなあ。
そんなことをずっと考えている。
https://note.mu/iryo/n/nb8b7217879e3
https://note.mu/iryo/n/n7567a9e071a7
東京でITやってたけど、介護で田舎に戻ってきてそれからずっと田舎で似たようなことしてるけど、この人圧倒的にやり方が悪い
都会に住んでいたから田舎民の圧倒的なITリテラシの低さと、「iPadのOSの更新も、音量調整ですら、地方企業にとっては”難しい”」なんて実情も、なんで今時FAXなの?!っていう葛藤も
不満もぜーんぶわかる。わかるんだが。
筆者は田舎に住んでいて、都会に出てしまった時点で、頭が都会人になっちゃってるんだよ
田舎もんは確かに知識がない。そして知識がない自分をよくわかってて、恥ずかしいとも内心思ってる
そこに都会でばりばりやってました! って人がサポートして、リモートでよくやってるじゃん、とかこのくらい簡単ですよ! なんていったことが自分に出来なかった場合、彼らのプライドは傷つく
おまえがバカなだけだろ! と怒るのは分かる。だがちょっと待って欲しい。
そういう田舎者を「かわいい奴め」と思えないと、田舎者はすぐに見抜く。
「なんか都会から来たえらそうな若造が俺たちのいままでやってきたことをぼろぼろにしていく、俺たち頑張ってきたのにダメ出しする」となってしまう
そういう自分たちの気持ちが会社の効率化よりも上回るし大事なので、筆者は文句言われるのだ。
再度言うけど、田舎者は、自分たちのITリテラシの低さは自覚している。
ちょっと恥ずかしいとも思ってる。
そこに「こういうのくらい簡単だから使えますよね」と都会感覚で乗り込めば、使えない自分が嫌になり、「なんでこんなものもってきたんだよ!」と逆ギレする
面倒だよね、うん。面倒なんだよ。
でもそれって逆に義理人情が上回る世界でもあるので、信用さえ掴んでしまえば、なんでもほいほいと言うことを聞いてくれるようになる
リモートで対応されるのって、義理人情の世界では軽く見られてるように思われる。コストとかの理由から分かるけど田舎メソッドでは「どれだけ自分たちに親身になってくれるか=信頼」なので、顔も出してくれない奴は信用されない
コストとか、効率化とかはそれらの「義理人情」より下なのである。
田舎はよくdisられるが、俺は田舎の義理人情の世界は嫌いじゃない
クズも多いが、そんなの都会でもいるし。
アホが多いんだよ。よく地方のじじばばが鑑定団に出て、借金の形にとか安い壺買わされてるじゃん。買うなよ、って思うけどそれが田舎なんだよ。
都会の場合は「こういうことすれば人件費も減り効率化されますよ!」を最優先にだして営業すればいいけど、田舎の場合
「いやー忙しくて残業続きですか、わっかるわー、ちょっと僕とお話しさせてくださいよ、おお、お孫さんが今五つですか、かわいいですねえ。でもこのままのやりかただとお遊戯会も出られないじゃないですか、早く帰れるようにしましょうよ」
話してるだけでいい。なんもしなくていい。顔だけ出して帰るのを1年くらいやってると、「いつも来て貰って悪いからねえ」というノリになってくる。
ただ一旦そういうSaaSを導入し始めると、ウォーター!とばかりにがらっと考えが変わって効率化が徹底されたりするようになるので、面白くもある
レベル50くらいの奴を60にするのが都会なら、レベル1を50にしなきゃいかんのが田舎だ。
がんばれ
最近言う人が少なくなってきたよな
とりあえずヒロインがブスだったら成立しないメソッドを振り回してオタクの反応を楽しむ人達
アニメに関わらずヒロインがブスだと成り立たないことを暴き出すことに意味はあると思うんだよな俺は
ぶっちゃけ俺はけいおん!が大好きなんだけど唯ちゃんがブスだったら成り立たないよね
だからけいおん!は唯がブスだと成り立たない!って言われたら腹立つけどその通りなんだよね
だから何って話なんだけど、ヒロインがブスだと物語が成り立たないっていう事実に物語の消費者は自覚的であった方が良いような気はするんだよな
そもそも原作の要素を一部でも改変したらそれは二次創作なので原作が成立しなくなるのは自明なんだけど、このifブス論はそういう屁理屈的な理屈を超越して創作物に表れた見も蓋もない人類の本音を皮肉ったものだと思うんだよね
ルッキズムとか言われてるあれね
キリトくんだってイケメンだから許されてるわけだし夜神月だってイケメンじゃなかったら早々に詰んでたわけだからヒーローにもダークヒーローにもifブス論は当てはまる
でもどっちかっていうと男の場合は※イケメンの方が適してるかな
そういうのにもっと自覚的だったら俺は中学生の時に一方通行の真似してブラックの缶コーヒー爆買いしたりⅩⅢ機関の真似をして黒フード着込んで黄昏時に裏山で黄昏たりした黒歴史を残さずにすんだと思うんだよなぁ