はてなキーワード: 還元とは
1%還元で500ポイント以上で100ポイント単位みたいなクソカードは持たない(ファッション系に多い)
グラブルの派手なガチャ無料キャンペーンを指してユーザー還元と言う人をたまに見る気がするんだけれど、グラブルって
・ガチャで入手可能なキャラクターや石の数がメチャクチャ多いので、試行回数を多少増やしたところで手に入らないものは手に入らない (欲しいものは結局天井まで回すか、サプチケでの入手になる)
・ガチャで入手可能なリソースより、時間を費やして入手可能になるリソースのほうがウェイトが大きい
みたいな感じがしていて、要するに「そんなに美味しくないものをバラ撒いているだけ」って気がしているんだけれど、あれって「ユーザー還元」とか言えるほどありがたいものなの?
ガチャ回し癖をつけて逃げられなくしてるだけに見えるんだけれど。
新宿区で生まれ、その後は23区外に引っ越したが、ずっと東京都内から出たことはなかった。
小学校受験をし、私立の小学校を卒業し、そのまま中学受験をして、いわゆる御三家に合格し、中高一貫の女子校を卒業した。
まさかそこでここまで大きなカルチャーショックを受けるとは思っていなかった。
私は自分がいかに世間知らずだったかということを全く知らなかった。
まず、初めに、医学部生同士での「親って医者なの?」という会話に驚いた。
喉元まで出かかって飲み込んだ。
私の周りの医学部志望生は、7〜8割は親が医者であり、親が医者であるかどうかを確認する文化がなかった。また、親が医者でなかろうと、会社の社長だの外交官だのばかりなので、「あ、そうなんだ。」くらいで終わりだったのであるが、ここでは違った。
非常に面食らった。
まず今までの人生で親の所得の話になったことが一切なかったことに気がついた。
なんとなくタブーのような、下品なような、お金の話をするという文化が存在しなかったし、他人を「金持ちだから羨む」という人に初めて出会った。
そして気がついてしまった。私が今まで通ってきた道は、『子供の教育費に月7-8万の学費を払い、かつ年100万近くかかる塾に通わせることのできる所得の親を持つ人間しかいない世界』であったということに。
加えていうと中高一貫の女子校ではバイトが禁止されていた。(している人は一人もいなかった。)
私自身小4〜6まで塾に通い、高2〜浪人1年間もまるまる予備校通いをしている。
かかった学費のことを親は何も言わない。
「医学部に受かってよかった。」
それだけである。
またさらにびっくりしたのが、
どこかに遊びに行こう!となった時に
と言われたことだ。
「お金がない」という理由を遊ぶ時に持ち出すという文化に触れてこなかったように思う。
遊ぶ時にかかるお金は、その思い出に対して支払うものであり、いくらになろうと楽しければ構わないし、やりたいことをしてきたと思う。(というと高級ホテルでランチビュッフェに行きまくっていたかのような印象だがそういう意味ではない。)
遊びたい時に、「何をしたいか」ではなく「予算」が先に来る文化。
そんな文化があることも知らなかった。
というかむしろ、うちの親は常に「うちは開業医でもないし貧乏だから節約しないと」と言っていたので、私はどっちかというと貧乏なんだな。と思って生きてきていたのである。
現にユニクロ大好きだし、特売も大好きだし、ポイントカードもめちゃくちゃ持っていて端からポイントを貯めている。
田舎とはいえ、本気の田舎では多分ないのだろうが、はっきり言って今の暮らしは本当に耐えられない。
友達と遊ぶ時はテレビか雑誌で特集していた店に行き、大きくなってからは食べログの評価が高い店を探し、予備校終わりに疲れたら伊勢丹に寄って化粧品を買ったり、ルミネセールで爆買いしてみたり。
レビューがなさすぎることで、食べログで店を探すことがこんなに困難になるとは知らなかった。
地方都市なんだからデパートくらいあるでしょうというが、私は新宿伊勢丹で先行発売の化粧品を、エムアイカードのポイント10%還元を利用して購入したいのであり、そのついでにフェラガモの靴を物色したり、グッチの新作にケチつけたりしたいのである。
前にトリーバーチの靴(一番スタンダードな、黒の革靴に金のトリーバーチのロゴが大きく付いているやつ)を飲み会に履いて行ったら、「その靴イトーヨーカドーで売ってるみたいだなww」と男子に言われて本当に驚いた記憶がある。
他人の持ち物(しかも靴などという少しこだわっていそうなもの)を平然とけなす神経と、トリーバーチすら知らないということに対する、二重の驚きである。
地元でずっと一番で、県で一番の高校を出て、この医学部に入ってきていた。
小さい頃からずっと「頭いいね!」「すごいね!」と言われ続けて、ピノキオみたいに鼻が伸びて育ってきている子ばかりなのだ。
何か言えば尊敬され、常にリーダー格として君臨してきた人たちばかりなのだ。
でも私は知っている。
たかだか地方の医学部に、賢い人間なんていないのだ。本当に賢い人は、理三だの、ハーバードだの、そういうところにいるのであり、
医者になるとか、ならないとか、そんな次元のところにはいない。
私たちはちょっとだけ努力するのが上手だったか、ちょっとだけ記憶力が良かっただけなのだ。
夜になると一人暮らしの部屋で本当に世界から取り残されたような気持ちになる。
私が今まで「当たり前」だと思ってきたことは、当たり前ではなかったのだと思う。
うちの親が「危ないから、事故った時に死なないように、強度のある車を」と言ってくれたから乗っている車でも、「目立つこと」の方が悪なのだ。
「昨日、コンビニにいたね」
いちゃダメなんだろうか。どこで何してもいいでしょう。万引きしてるわけじゃないんだから。
東京は、何をしてもいい。
何をしても、誰も何も言わない。
近くに住んでいても、知り合いに会うこともない。
早く卒業したい。
早く東京に帰りたい。
生まれ育った土地が自分には一番合っているというだけなのに、田舎と東京の話に置き換えている私はきっと性格が良くないのだと思う。
だからこっそり、ここに書く。
楽しそうな人々の裏側では我慢している人々がいる。
贅、快、愉、愛、そうしたものは恵まれた人々の特権なんだろうか....
競争社会で相手を蹴落として、優位に立ち、自分の周りのコミュニティにだけ還元し、その恩恵を享受する....
競争社会で優劣をつければ、上下関係が出来、負のエネルギーは下に下に淀んで溜まっていく。
社会への憎悪を膨らませた人間がそれを爆発させた時、その責任は個人にあるのだろうか。。。異常者として、その人の生きてきた世界を僅かも想像できない恵まれた立場の人間が断罪できるものだろうか。
憎しみや復讐は何も生まない。
傷つけ合うことはやめよう。
数々の戦争を経て平和を尊ぶ社会になりつつある現代でも、やはり我々はまた資本主義という新しいベクトルで競争社会を生み出した。そこでも、勝者と敗者がどうにも存在するようだ。
足るを知ること。
少しでも多くの人が幸せにいきられること。
助け合うこと。
違いを認め合い尊重すること。
この考えは生物の本能に背くものだろうか...?? 個の追求ではなく、全体幸福を考えることは、綺麗事のようでしっくりこないのは、生物学的なシステムによるものだろうか。動物的本能の未熟さによるものだろうか。仮に人がそれを行動規範にしたとしたら、幸せを感じられるのか?競争をやめたら、人類は衰退していくのか?
人はなんのために成長したいのだろう....
食物が充分にあり、さまざまな娯楽を享受出来、住む場所があり、病気のケアも受けられる状態で、これ以上何を望むのだろう...???
優秀な人間とそうじゃない人の違いは何だろう。。。資本主義の全てを手に入れたように見えて、幸せを感じられないのは何故だろう...。幸福とは、なんだろうか。
人類は何処を目指しているのだろうか。
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先日、妻が何年振りかに会う友人たちと食事に行った際、ほどほどに値段のする食事をご馳走になってきた。(※奢った人は家庭持ちの男性1人、奢られたのは妻と友人1人)
その男性と妻たちはもともとバーの客と店員という関係で、お金を使う使われると言う関係に抵抗がなかったのだと思う。
「人に奢るのが好きだ」「そうやって交流を得るための投資みたいなもの」という理由も理解出来ているが、ただなんとな~く気持ち悪かった。妻の「奢ってもらえてラッキー」と言ったテンションだったのが余計にそう思わせた。
本来そのお金は男性の家庭に還元されるべきお金だったと思うし、いくら男性がお金持ちだろうが、自由にお金の使い道を決められる家庭のシステムだろうが、やはりそこは対等であるべきなんじゃないかと思ってしまった。男性と妻たちはすでに客と店員ではないし。
自分にとってはそのお金の出元は道端で拾ったお金と同じように見えて、汚い、じゃないが、「嬉しくないお金」に感じた。妻もお金に対して清潔感のようなものがあると思っていた分、なんか意外だった。(親しくもない人からの贈り物やお金を慈善団体に寄付するなどしてきた)
たとえその男性が自分との共通の友人でも、この感覚は変わらないと思う。
コジキや集り根性っていうと違うけど、友達感覚で他人を財布のように言った所が気になったのか?
俺は読めないけど。
還元主義的階層論は次のような仮定に基づいている。全体の性質は部分の性質に還元できる。すなわち部分と部分がいかなる関係をもつかは部分自身の性質により決定される。これに対し全体主義的階層論は、部分と部分の関係性は他に還元することができず、関係性自体を実在と看做さなければならないと考える。さて、構造主義的階層論は、構造は下位の構造に還元できないと考える点で、明らかに全体論に近い。しかし全体論が成り立つのは同一構造の内部に限られると考える。ここに全体主義的階層論と構造主義的階層論の決定的な違いが顕わになる。前者はこの世界のすべての部分-全体関係はそれ自体が一つの構造であると暗黙理に前提する。すると宇宙全体を最大の全体、最小の粒子(いまのところクォークやレプトンのようなもの)も最小の部分とする、全体-部分の構造階層系列に、この世界はすべて包摂されてしまう。素粒子から始まって原子、分子、高分子、細胞内小器官、細胞、組織、器官、個体、個体群、群衆、生態系、地球、太陽系、銀河系、宇宙と連なる壮大な形態的部分-全体系のどの一つをとってみても、部分と部分の関係性自体は、部分の性質に還元できない何らかの実在と看做される。これに対して構造主義的階層論は、全体主義的階層論あるいは還元主義的階層論によってア・プリオリに措定された、形態的部分-全体系列の連続性の仮説を放棄して、水平面には構造の相違による、垂直面には構造列の相違による不連続面を構想する。たとえば構造主義生物学は、生物を形成する空間には無生物からなる空間とは異なる生物固有の上位構造が具現していると考える。したがって単一の細胞や単一の個体が同一の構造(列)下に包摂され、この空間の内部に関する限り全体論的な部分-全体関係が成立することを擁護する。
小説家になろうで先日から投稿が開始された「懲役九千兆年ウンタラカンタラ」という作品のことを二日間、ずっと考えている。
九千件の殺人を犯したサムライが投獄され、九千兆年の刑期を勤め上げ、世に放たれるところから物語は始まるらしい。
作者は、文明が何度も滅んで……と説明しているのだけど、そういう問題なのだろうか。
正直に言えば、九千兆年のタイムスケールから見れば最長の寿命を持つ恒星だって花火よりも儚かろう。
にも拘わらず『世に放つ』。その『世』とはどこじゃいとも思う。
足場にしている惑星だって当然、開幕ヨーイドンでチリになっているよと。
でも、そんなことさえ実は些細な問題であって、最大の問題は『九千兆年という時間が果たして経過するか』ということだ。
人類が発生して、おそらく滅ぶまでの間には時間が流れ続けるだろうし、だからあまり気にする人もいないだろうけど、時間の経過は必ずしも一定ではないのだ。
九千兆年は長い。おそらく惑星が、恒星がという話ではなくて、星系がという話でもない。
宇宙は常に冷え続けており、最後には空疎な空間のみになることが予想されている。だからこそ「まどかマギカ」のキューベエは物理とは別の、感情という膨大なエネルギーをくみ出し、空間に還元することで宇宙の熱量的死を避けようと頑張っていたわけだ。
まあ、しかしそんなのは空しい話で、多少延命しようが死は必ず訪れるのである。
そうして、宇宙は膨張し尽くし、内包するエネルギーは尽き、もはやすべての物質が物質としての形態を保てなくなって漂う。原子とかそんな贅沢な話でもない。もっと微小なチリだ。それが九千兆年よりもずっと手前に起こると思われる現象だ。
最大の問題は、そうなった終焉から時間が経過するものか、ということだ。
誰もそれを観測した者はいないので、憶測だがその時点で宇宙の時間は止まってしまうことも十分に考えられる。
もちろん、新しい宇宙開闢が始まる可能性もないことはないだろう。その際、現在の宇宙は消し飛んでしまい、時間どころか無に帰すのだろう。
そうして、作者はこれらの疑問に対して、文中で納得がいくように説明をされるとのことだ。
もちろん、フィクションであるので文章力次第ではむしろ読者を深い沼の底に引き入れるきっかけになることもある。
とんでもない知識かセンス。あるいはその両方が必要な説得力を俊英は振るわれるのだろうから、こちらとしては座して待ちたいと思う。
もともと「大手の牙城を崩せるから」という理由で広告収益還元を提案する議論じゃなかったっけ。
なろうは現時点で最大手だから導入する意味がなく、企業が意味もなく収入を減らすことをやるわけがない。
アルファポリスはその最大手の牙城を崩すために実際に導入していて、でも崩せていない。
それだけだよね。
なろうは広告収入がそのまま企業の収入なんだから還元したら儲けがなくなるだろ。
アルファポリスがそれを還元できるのは出版事業がメインだから(で、読者は多くても作品が少ないからというのもある)。
同じく出版事業がメインのカクヨムは広告収入を還元するのではなく「広告なし」を売りにした(で、カドカワパワーで読者は少なくても作品は多い)。
どういうスキームで稼ごうとしてるのかは知らんが。
なんだけど、書き手に収益性があるってのが今までなかったのが疑問なのよ
エブリスタは有料販売あったけど(最近どうなってるか知らないが)
ノベルバが1PVあたり0.1円でも還元してると周知されたら、みんな金勘定はじめないかな?
それでなろうが安くとも還元考えてくれたらそれでいいし
某投稿サイトの今日(2019.02.28)付けの日間ランキングの上位5作品の過去5日分のアクセス数を見てみた
少なくても4~5万、多い日は20万以上の日もある
アドセンスでのPVあたりの収益は0.2円とかいわれているので、数千円~5万円の収益に相当する。月間ではなく日々の収益。
・コンテストが開催されてたりする
・読者が多い
と、良い事だらけなのではある
ではあるが、
→既に書籍化作品があり、ファンも多い作家が次の書籍化狙いで投稿している。複数作品同時進行もよくある。
ということを考えると、別にお金なんていらないと考えている書き手以外は別の選択肢を探し始めるのが当然だろう
数年前からいろんな投稿サイトを見ているが、書籍化、コンテスト入賞以外での金銭面にメリットのあるサイトはほとんどない
自前のアドセンスを貼れるサイトはあることにはあったが流行らなかった
今小説投稿サイトを運営しているのは、昔からあるサイトか出版社が絡んでいるところばかり
1PVあたり0.2円とはいかなくても、とりあえず分配するよーというサイトが出てきて出版社と組めば、
大手の牙城を崩せると思うのだが、裏で協定でも結んでいるのかなんなのか、一向に出てこない
WEBサイトの運営には詳しくないのでわからないが、維持費にめちゃくちゃ金がかかるんだろうか?
にしたって多くのサイトが広告料で利益を上げているはずなのだが
ちなみに、某大手サイトの累計1位はわりと最近アニメ化もされた作品に変わったのだが、総PVは公式によると
5億超
手宮線の跡地を撮影していたら、休憩中のタクシーの運転手のおじさんに声をかけられた。
どこから来たのかとか他愛もない雑談をしたあと、私が手にしていた、小樽駅で配られている市内の観光マップに、昔からある、地元の人が経営しているおすすめのお店を書き込みして教えてくれた。
それなのに小樽の洋菓子屋を標榜して北海道の特産品のようなイメージを作り出して金儲けをしている。
チーズケーキで有名な「BAKE」などを手掛ける「きのとや」も同様に、元は新潟の企業である。
あとなんか同様に小樽のメインストリートで大きなお店を開いている海鮮処、オルゴールやガラス細工のお店もほとんどが小樽の外からやってきた企業で地元ではじまったお店はもうほとんどなくなってしまっている、ということを言われたんですがこのへんは詳細忘れてしまった。
正直、そのときは「そこまで怒らなくとも…」という気もしなくはなかったんだけど、アリアナグランデやブルーノマーズの件で「文化の盗用」議論が巻き起こっているのを見た時に、あの運転手の怒りもそういうことなのかなという気がした。
実際、小樽市のメインストリートは運転手が言っていた「外部の企業」が手掛ける、派手なのぼりや看板をかかげた、真新しく小綺麗で大きな路面店と、どこにでもあるようなパワーストーン屋とかいかにも外国人観光客向けって感じの、ちゃちな和風和柄の土産物屋、ケバブ屋だのタピオカ屋だのトルネードポテト屋ばかりになっていて、もっと昔、数十年前私が幼い頃に家族旅行で訪れた小樽の、異国情緒と日本の古い家屋が入り混じった街並みではなくなっていたし。
そういう土産物屋だらけのメインストリートから外れると、荒ぶれたシャッター街ばかりで明らかに寂れていたのを見ても、それらのお店が儲かっても地元には還元されていないんだろうなという気がしたし。