はてなキーワード: 権力とは
菅政権がオリンピック中止の決断ができないのは、契約上、日本政府に決定権がないからだ、とか、
日本から中止を言い出せば、日本政府が多額の違約金を払う必要がある、とか、
そんなこと言っている人がツイッターとかに多いですが、国家権力なめてんのか?としか言えない。
契約がどうであろうと、日本政府が中止を決定すれば、IOCはオリンピックを強行開催する実力部隊を持っていない。
そんで、国際法廷でIOCが日本を訴えて、IOCへの違約金支払い判決が下っても、日本は別にそれに従う必要はない。
2ちゃんねるの管理人だったひろゆきだって、賠償金支払っていないだろ?
支払えという判決と、実際にお金を取り立てることができるかは別問題。
じゃあ日本政府が違約金を支払わなかったら、IOCに日本政府の資産を差し押さえる権力があるんですか?
そんなものないでしょう。
人々が税金を支払うのは、税金を払わないと国家権力たる警察に逮捕されるからだよね。
国家が独占している暴力があるから、人々は税金払っているわけ。
そう、IOCは軍隊を持っていないだよ。IOCの言うことを聞かないからって、日本政府に実力で言うこと聞かせるなんてできない。
つまりケツ持ちのアメリカがOKすれば、オリンピックなんて日本政府が中止しても、なんでもないわけよ。
ろくな情報操作が出来ない民主党が与党だったらコロナのヤバさが明るみになって国民がパニックになって勝手に自粛ムードが起きてかなり抑え込めていただろうなぁ
自民党という隠蔽体質軍団だから、医療崩壊起きているのに全然言わないし、こっそり外国人をどんどん入国させていて変異株ばらまかれている状態なのにほったらかしだし、力があり過ぎる結果強引にオリンピックしそうだし
日本男児って倫理や秩序より「他罰」欲求を優先するよな。それも権限や権力を持つ者ではなく女やリベサヨやフェミといった「日本男児が舐めて見下してる小物」への他罰に
力が強くて偉そうにふるまえるとか、権力があるとか、収入が多いとか、それらを得やすいとかのことを一般的に「社会的強者」と語るから紛らわしいんだけど、それとは別の軸である好感度とか他人からの関心を得やすいとかコミュニケーションやプライベートの距離感で人の心を動かしやすい資質のことを元増田は社会的資本と言ってるみたいね。
弱者男性の話になると必ず出てくる弱者女性の方がつらいという女性が主張するのは前者の話で、男性が語る弱者男性の主眼は後者の部分。
それで後者は人間的魅力を磨いていない本人の努力不足と言われてしまうんだけど、同じ人が男性名でSNSアカウントつくったときと女性名で作ったときでは同じふるまいをしていても圧倒的に女性名の方が友達ができやすいので、そういうスタートラインの違いというのは確実にある。
よく言われる「かわいそうランキング」もそういうことね。
話し合い、というのが俺は苦手だ。
"新たな知見を得たい"という場合に行われるのは話し合いではない、教えを乞う場合だけだ。お互いに新たな知見を得られることは基本的になく、自分か相手はすでに知っていてどちらかが迎合するだけだ。
話し合いの目的というのは、つまり"相手の考えを変えてやろう"という言葉の戦争だ。この戦争の至るところは、"相手の考えが変わらなくても封殺できれば良い"である。
一度、この増田で"鶏が先か卵が先か"について論じたことがある。俺の持論は「この"卵"とは"鶏卵"の事であり、鶏が生まれなくとも鶏が産んだ卵を鶏卵と呼ぶのだから"鶏"が先だ」であり、確信を持っている。
俺の考えは今でも変わらない。にも関わらず、しかし論争には負けた。
反論を思いつかなかったのだ。どう言われどう思いつかなかったのかは覚えていない。
俺はこの"話し合い"という戦争で勝ったことがない。封殺されたことは幾度もある。
時には権力で従わされたこともあった。これは反論を思いつかずに従わされるよりずっと良い。サラリーマンが上司に従うのは当たり前だからだ。
話し合いをしても、とかく、相手の考えも自分の考えも変えられない。ただ従わされる。
だから俺は話し合いは苦手だ。できる限りしたくない。
以上2点から、自分やその属性を殊更敵視してるような人らに権力を預けたくなる気がなかなか起きない
彼らの唱える正しさも優しさも、所詮は自分がかわいいと思うものにしか適用されないからだ
まあ、上にいる政治家の人らは与党連中よりは信用できるのかもしれないけど、シンパ(あと一部の地方議員なんかも)がこれっていうのが本当にげんなりくる
https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4252977.html
「くっきりとした姿が見えているわけではないけど、おぼろげながら浮かんできたんです。『46』という数字が。シルエットが浮かんできたんです」(小泉進次郎 環境相)
23日午後、私たちの単独インタビューに応じた小泉環境大臣。「浮かんだ」という「46」とは、各国の首脳が参加した「気候変動サミット」で菅総理が示した目標です。
「我が国は2030年度において、温室効果ガスを2013年度から46%削減することを目指す」(菅首相 22日)
日本は、これまで2030年度までに「26%削減」を目標にしてきました。今回、菅総理はサミットで「46%削減」と表明、目標を大幅に引き上げました。
「現実的には、どれだけ積み上げても30%台後半が限界だった。それ以上の数字は、環境省と小泉環境相が背負っている」(経産省幹部)
「旗振り役」の小泉大臣、そのような声は意に介さないようです。
「意欲的な目標を設定したことを評価せず、一方で現実的なものを出すと『何かそれって低いね』って。『金メダル目指します』と言って、その結果、銅メダルだったとき非難しますかね」(小泉進次郎 環境相)
30%台後半が限界だっつってんのに無視して寝言言ってんじゃねえよ。何が金メダルだ。スポーツじゃねえんだよ。46%って宣言して46%行かなかったら非難されるに決まってんだろ。
「窓の外に東京の代表的と言っていいのか、高層ビルがいっぱい並んでますね。この景色が変わりますよ。見てください、空いている屋根がいっぱいありますでしょ。太陽光をできる限り置いていきたい」(小泉進次郎 環境相)
どうやって実現するつもりかと聞かれて太陽光?? ビルの上に? 物理法則を無視して置けたとしても達成できるわけねえだろ。
レジ袋有料化は迷惑ではあるがまだ国内に閉じた話だ。ひきつった笑いでギャグにすることもできた。進次郎構文だって面白いのはわかる。でもこの46%はもうシャレにもギャグにもならない。達成できないと他国が何を言ってくるかもわからん。日本国内の産業も無傷じゃ済まないだろう。30%台後半でも難しいのにそれを2〜3割ほど上回る数字を出してしまった。
そして何より太陽光だ。太陽光といえば小泉家のビジネスだ。つまり小泉進次郎は、政治家としてまともに説明責任を果たさず、自分のファミリーに露骨に利益誘導しているわけだ。ネトウヨが好む語彙で、使いたくはないんだが、これほど「売国奴」という称号が似合うやつは今まで生きてきて見たことがない。
進次郎構文でデビューしたときはただのバカだったが、レジ袋有料化で有害なバカになり、今はなんだ? 「頼むから何もしないでくれ」という言葉が他人を傷つける云々という記事がはてブに上がっていたが、じゃあこの小泉進次郎に対してどう言えばいい?
こいつを大臣に任命して好きにやらせているのは100%自民党の責任だろう。法律で決まっているとか、野党の追求がどうこうとか、そういった理由で小泉進次郎が環境大臣をやっているわけではない。自民党内でしっかり検討して任命し、その後も諌めることなく好き勝手に放言させている。その結果がこれだ。レジ袋有料化からもうすでに相当悪影響が拡大している。この先何をしでかすかわかったもんじゃない。
俺は今まで消極的に自民党を支持していた。モリカケや桜を見る会なんてどうでもいい。俺の生活には何一つ影響ないからな。道義的責任や法的責任はあるのかもしれんが、それはそれで追求したい人がやればいいことだろう。
菅首相もいまいち無能っぽいが、それでも積極的に不支持というほどではなかった。携帯料金引き下げにやけにこだわってMVNOを破壊するような言動はどうかと思うし、その他のアクションもいいかと言われれば返答に窮するが、誰かに代えたらよくなる気もしなかった。つまりは消極的支持だ。
小泉進次郎だけは別だ。こいつに権力を持たせること自体が間違いだ。次にどんな手段で国政を食い物にして、自分ちの太陽光をねじこんでくるかわかったもんじゃない。まともなプラスチックゴミの削減案すら出さずに「シルエットが浮かんだ」とか言ってめちゃくちゃするだけだ。それでも結果的に国や俺の利益になるならまだ目をつぶるが、レジ袋有料化も46%も害でしかない上に望んだ効果も得られない。
こんなのに俺の生活を振り回されるなんてやってられない。絶対に排除したい。自民党でさえなければ立民だろうが共産党だろうが、小泉進次郎を排除できるという一点においてどこが政権取ってもまだマシだ。これほどの有害物質を大臣に据えて良しとする自民党なんてまったく信用に値しない。
思い通りに育たない。こう書くと悪い意味のようだけど、文字通りに受け止めて欲しくて、親がこんな風あんな風ににと思ってても、育ててみると元々の気質が大きいんだなとすごく思う。
街中で何でちゃんとしつけしないんだ?って思うことない?実際は「走らないように」なんて単純なことを言い聞かせるだけでも大変だったりする。
でも言い聞かせることも、しつけも、いじめない子に育てよう、素直な子に育てようとすることも必要だと思うけどね。
素直ないい子については、私も似たようなこと思ってたけど、実際いい人を見て考えが変わった。
うちの会社の自分の得しか考えなくて権力を振りかざしてる社長と、そんな環境でも意地が悪くなく他人に素直に接する番頭さん、結局番頭さんは人望があって、社長と合わず辞めていったたくさんの人からも慕われてたりする。
あれは緊急事態宣言を機能させるための布石だったんだと思ってるけど...
マスコミだってアクリル板もなく、マスクもせず、みんな密集して報道するのが当たり前だった。
安倍総理の学級閉鎖策は権力乱用をいとわない首相によるひどい政策という扱いだっただろ?でも、欧米でも普通に実施してるよな。
このウィルスのやばさを理解し、外出を控えていたのは中国人との交流がある人たちだけだった。
志村さんという有名人の死はそれを自分たちの問題と認識させるものだったと思ってる。
あれを見て震え上がった同年代の高齢者はそれなりにいるんじゃないか?
まだまだ若いと思っていても、コロナにかかったら死ぬってみんな理解した。
その2週間後、緊急事態宣言が出されたとき、学級閉鎖したときのような批判が起きず、粛々と受け入れたのは志村さんの死があったからだと思う。
テレビのニュースで居酒屋に取材して、厳しい、厳しいと言わせてるけど、メディアは緊急事態宣言は厳しいと思っているのか?
まあ、日本のメディアが、権力による規制が嫌なのかもしれないが、それって国民の総意なのか?
総意といってしまうと、アレですが、6、7割ぐらいの市民は、ロックダウンしてサクッとゼロにしてくれよと、思っているんだと思うのですよ。
というか、他国より、ロックダウン中の、陽性率の低下はアホではというぐらい高いと思う。
お行儀が良いので。というか、人の目を気にして、外れたことをしないから。ヤンキーですらこの国ではひと目を気にするからね。
ロックダウンすれば、1ヶ月かからずにゼロになる能力は残っていると思うのですよ。
しかも、先進国でアホほどワクチン接種が遅れているのだから、経済的に復活できるのは最後にならざる負えないのだから、
今、1ヶ月我慢して、ゼロにした方が、経済的にも良いはずなんだよ。
自衛隊がクーデーターを起こして、1ヶ月の戒厳令をかけてくれないかな。
そう呟いたのは多分六年前だか五年前だったかと思う。その時俺達は喫茶店で、世の中の悪が何かについて話していた。
その場には男の先輩が一人と女の子の後輩が二人いて、先輩は「知ってる」とぽつり。女の子二人は「しらなーい」とぽつり。
勿論、俺と先輩はその話を掘り下げたりせずに、穏当に元の話題の路線へと戻り、「やっぱ世の中気を付けて生きなきゃだめよ」みたいなことを言っていた。女の子二人はケラケラと笑っていた。
◇
何で今更になってこんなことを思い出したかというと、当時テーブルを囲んでいた後輩の女の子が先輩と付き合って、破綻して、今朝がたtwitterで僕を含めた当時の関係者に対しての呪詛を書き連ねていたからである。
多分こういうのは、よくある話なのだろう。勿論僕はその後輩に横恋慕していて、そして二人の関係とか、あるいは時折後輩の見せる刺すような発言と態度に傷を負ったりしながら生きてきたのだけれど、そんなことは些事である。一々考えるようなことじゃない。
ともかく、今僕がこの文章を書いているのは、後輩の女の子が僕と先輩を含む当時の関係者にSNSで呪詛を連ねているところを見たからである。
その呪詛がどんなものだったかというと、彼女曰く、「悪を糾弾できない存在も悪だ」、とのことであった。
つまり、彼女はこう言っているわけである。当時、破壊的性向を持っていた先輩のことを僕を含む関係者は止めることができなかったし、そして、物事が落ち着くべき位置に落ち着いてなお、僕を含めた関係者は先輩のことを表立って糾弾したりするでもなく、あるいは罰したりするでもなく、淡々と日々を送っているのだと。つまり、先輩が悪であると同時に、先輩を裁くことなく静観していた、僕を含めた関係者もまた悪なのだと。
全く以てその通りだと思う。僕は悪の片棒を担いでいるのだ。物事を正しく裁こうとなど決してしなかったのである。
一応、僕は見知っている後輩らが先輩に対して好奇心なり何なりを持っているのを見咎めると、「先輩は悪人だから近付かない方がいいよ」と度々言及していた。(「悪」の具体的な内容についてはここでは伏せるが)
とは言え、一見インテリジェントで気が利いて、かつある分野において顕著な業績を収めた人物である先輩に対して、後輩たちは僕の忠告をあまり深刻には受け止めなかった。あまり僕の忠告は功を奏さなかった。後輩たちの中には、今でも先輩に連絡を取り続けている子もいるようである。まあ、それはそれで良いのだと思う。僕は別に彼女たちを悪し様に思っていないどころか、先輩にだって悪感情を持っていない。彼女たちはそれなりに幸せそうであるし、今でさえ僕は先輩と時々食事をしたり、ボードゲームに現を抜かしたりしている。
◇
スナッフフィルムについてご存知だろうか?
それは、快楽を目的とした殺人行為を撮影した映像作品のことを指している。特に、商業的意図を以て撮影されたものを指す。スナッフという言葉は、「ロウソクを吹き消す」という意味を持つ動詞であり、同時に「殺人」のスラングでもある。
勿論僕も現物を見たことはない。そもそも、「スナッフフィルムは単なる都市伝説で、実在しない」という論も根強い。
ただ僕は、二十年近く前にアングラサイトで「衝撃! 少女が公園で殺害される映像! 購入は以下のアドレスで!」的な宣伝がされていたのを見たことはある。そのサイトによれば、外国人の少女は公園で刺殺され内臓を引きずり出された後に、ガソリンによって燃やされるとのことであった。そういう宣伝を実際に目撃した人間からすると、スナッフフィルムは実在するという立場から主張するほかない。
(また、中東やロシアでの拷問や処刑の映像も広義のスナッフフィルムとみなすことができると思う)
スナッフフィルムにおいて撮影されるのは、主に少年少女である。
主なスナッフフィルムの内容は、少年少女に麻薬を与え、性的に高揚させた後で凌辱し、その後に殺害する、といったものであるそうだ。僕もよく知らない。正直この知識は既存の創作物から得たものなので、信憑性においては幾分問題があるかもしれない。
いずれにせよ、仮にスナッフフィルムが伝聞の通りに存在するのであれば、それはこの世の悪を煮詰めた存在であると思う。
それは、恐らくそれを求める人間が存在し、また、それを供給し得る人間が存在しているからだと思う。仮に、ある人物が何かを要求し、その対価としての金銭を十分に示せるとして、何者かがその要求された何かを提供できるとすれば、多くの場合そこには商業的取引が実現してしまう。可能な物事が、不可能であり続けることは難しいのである。マーフィーの法則を引くまでもない。
つまり、そのような商業的なやり取りは、人の意志を超えてしまうのだ。それが可能である限りで実現してしまう事柄に、人の意志は関係ない。そこにはある種のシステムが構築されてしまうのである。
そのようなシステムに根差しているのは、明らかに人間の欲望と暴力である。人間にとってのある種の欲望と暴力が可能である時、そこにはシステムが出来上がる。システムは、金銭と欲望達成を媒介に、暴力的に成立する。そして、人の意志とは関係なくそのシステムは自己増殖し、その体系をより確固たる存在へと変えていく。
「人々が欲望し、かつ金銭的対価を支払える事柄は、それが不可能でない限り実現する」これが、欲望と暴力のシステムにおける定言命法である。そこでは人の意志に関わらず淡々と物事が実現する。一度実現したシステムは、当事者の意志で止めることはできない。金銭を媒介に、システムは機能し続ける。
というわけで、世の中にはいわゆる悪が蔓延ることになるわけである。勿論、繰り返すようにスナッフフィルムの存在は都市伝説に過ぎない。「スナッフ」と銘打たれて販売された商品の多くが、作り物であるとも言われる。しかし、僕は「スナッフフィルムは都市伝説に過ぎない」という発言に対して、どうしても疑義を覚えてしまうのである。そう、人の意志とは関係なく機能するシステムが世の中には既に構築されており、そのシステムの内部においては、可能である事柄はすなわち実現するのである。そういった原則を振り返った時に、快楽としての殺人が不可能であると断じることが僕にはできなくなってしまうのだ。
まあいい。とにかく、世界においては、可能である限りで、そしてそこに人の欲望が存在し、金銭的な対価を示せる限りで、ある種の悪や暴力が必然的に実現してしまうという、悍ましいシステムができている。我々は、そのようなシステムに向き合わなければならない。そのようなシステムを糾弾し、ハックしなければならない。その在り方を上手く変更せねばならない、はずだ。
とは言えそのような決意が実現されることは稀である。何故だろう? 我々は多くの場合悪を放置し、看過するしかないのである。それが不可能であるからだろうか? 我々に内在する欲望を媒介に機能するシステムを、我々自身が変更し、打破しようとする行為は、そもそも自己矛盾的だからだろうか? よく分からない。
いずれにせよ、自身の欲望に根差したシステムに変更を加える行為は、決して簡単ではない。我々は、そのような欲望と暴力のシステムをどうしても看過せざるを得ない。
それは、スナッフフィルムに限った話ではない。ある種の極度に暴力的なコンテンツに限った話ではない。我々の身近には、その手のシステムが息づいている。我々は、日常的に、そのようなシステムに触れることになる。我々は暴力と欲望に根差したシステムに、普段から関与し、触れることになる。
例えば、不均衡なコミュニケーションもそれだ。一方の話者の力関係が他方の話者に優越しすぎたコミュニケーションは、暴力的な影絵を描く。そこには権力の不均衡が生じ、そして暴力と欲望充足を生じさせることになる。そのようなシステムが我々の日常では機能しているし、何なら我々はそのようなシステムに組み込まれている。
例えばそれは企業と個人の力関係においてそうであるし、あるいはある種の閉じたコミュニティにおいてもそうである。そのような力関係において、いわゆる弱者が欲望充足の手段とされることは珍しくない。我々の身近に、そのようなシステムは往々にして存在している。
我々はそれを看過しながらに生きている。あるいは、そのシステムを自身の一部として受け入れながらに生きている。
何故なのだろう?