はてなキーワード: 偽善とは
元増田だけど、一応酒匂秘書艦での建造報告があることはあるんだが、余りに報告数が少なすぎて信頼度が非常に低い。
まあ仮に酒匂で建造可能だったとしても、酒匂の入手難易度考えたら結構鬼畜だわな。
他に、エビデンス皆無なので全く信用に値しないが、クロスロード繋がりでPrinz Eugenや長門でも可能という説もあり、酒匂と合わせてもし本当なら、まあいいかという話にはなるのかな。
そうは言っても、クロスロード組で最も入手しやすいのが長門であることを踏まえると、彼女らで建造可能だったとしても、依然難易度は高めという。
ここの運営って、最初は提督からチヤホヤというか、かなり好意的に見られていたし、彼らの態度もそれなりに紳士的()に見えていた。
でも結局のところ、彼らもまた凡百のネトゲ運営よろしく最初から「偽善的な未来のクソ運営」でしかなくて、現在はただのクソ運営になったわけで、
「おいデブ、お前本当は史実準拠でガチの海洋戦略シミュレーションやりたいから、企画通すためだけに萌え要素の皮を被せたんだろ、それが偶々当たったからって調子乗ってんじゃねーぞ」
という感じだわ。
てか日本のゲーム運営って、任天堂みたいな超上澄みを除いてどれもこれも似たような集金マシーンと化している現在、最近の中韓と比べたら中韓以下だと思わされる。
艦これだって、中国の戦艦少女やアズールレーンと比べてゲームとして、果たしてどこまで優れているのかどうか(やったことないからわからないけど)。
正直、24時間テレビ批判できるのって毎年ガンガン募金してるやつだけだろ
結局のところ募金しない奴が勝手に悪者扱いされた気分になるから偽善だと貶めて、自分が募金しないことを正統化してるだけ
海外を見てみろよ
イスラム国家では喜捨ってのが定着しててみんな身銭を切って直接金を寄付するのが当たり前
欧米でのチャリティーなんかも宗教的価値観や合理性が合わさって寄付額は桁違い
お前らだけだぞ
デスノート、バクマンの原作者と作画による最新作プラチナエンド1〜6巻まで読んだ。
とくに主人公ミライがずっと偽善なのか何なのか分からないことを繰り返し呟いててイラつく。
戦いに向いてないなら裏方に回って頭脳戦重視にすれば良かった。
個人的好みだけどあのスーツで戦闘している画がSF的で好きになれない。
この作品はSFじゃないのに世紀末的空気を感じてしまって作品本来の雰囲気から離れてる。
家族のためだとか愛がどうのとかどこかで見たような台詞をふわっと並べてるだけに見える。
散々聞き飽きたような陳腐な理由を並び立てられるとがっかりする。感情移入なんて出来ない。
天使のナッセもピュアという設定だけど悪いところ・欠点が見えなすぎて気持ち悪い。
他のキャラもだけど悪いところや素が見えないのでみんな作られたキャラクター感ある。
ハジメやカナデも敵キャラなのに魅力があまりなくて小物臭が強い。
咲の告白は悪い面に見えない。
悪い面を後悔してるいい子ちゃんのお人形。
死ぬほど後悔してます許して!→怒ってないよ!って道徳の教科書みたい。
キャラクターの欠点というのはそのまま魅力にもなるしフックにもなる。
プラチナエンドはそれが欠けすぎ。
多少フックのあるキャラもいるけど愛だとか綺麗すぎるものでそれを覆ってしまってやっぱり魅力に欠ける。
魂と人間味を感じない。
お綺麗で完全な球体のような印象の作品。
7巻はもう読まないかもしれない。
絵はすごく綺麗だった。
ツイッターを眺めてると、今年も24時間テレビ叩きのコメントを大量に見かけて生暖かい気持ちで見守っているところ。いやあ俺もそんな時代があった。24時間テレビは偽善だ!とか言ってね。ああ、あのころの俺は青かった。
今でも「24時間テレビは偽善か否か?」と聞かれれば「まあ偽善だろう」とは思うけど、だからといって24時間テレビをやめろとは言わないし、叩く気はない。
実際のところ、募金も目一杯集めているのも凄いし、何より「募金をしようぜ!」という空気を作り出しているのが凄い。普段、募金なんかまずやらんからね。24時間テレビを批判して潰したところで、批判してた人らは、代わりに募金をなんかやらんだろうし。当たり前だけど、俺ももちろんやらない。
24時間テレビを放送するためにカネをジャブジャブ使っていようが、それは日テレのカネであって税金でも何でもないし、ジャブジャブ使ってくれることで経済が回るんだから、それもそれでいいことはじゃないか。日テレのカネの使い道を批判したってしょうがない。どうせ他人の金なんだし、無駄遣いしようがそれが原因で傾こうが知ったこっちゃない。
物事を批判的に見るのはいいことだし、まず24時間テレビを批判的に見るのも良いことだと思うけど、そこで立ち止まらずに「悪いところもあるけど、良いところももちろんある」くらいのフェイズにはやんわり移行して欲しいと思うところ。
『二十代になると絵が上達することはなくなる、感性が衰えて良い絵が描けなくなる』という
言論をネットサーフィン中に見かけたので、今回はその言論について反論しようと思う。
結論から言うと、『二十代になると絵が上達することはなくなる、感性が衰えて良い絵が描けなくなる』は
嘘である。
漫画絵を描こうとペンを握ってから、そろそろ十年が経とうとしている。
当時十台前半だった自分は二十代も半ばに差し掛かり、自分を取り巻く環境が変化していくにつれて、
絵を描くための感性も質的な変化がみられたように思う。今回は絵を描くための感性の質的な変化について
書き記していきたいと思う。
十台の頃と比べて、二十代の自分はパッション(情熱)があらゆる分野に対して低下したように思う。
それは漫画絵を描くことに対しても例外ではなくて、漫画絵を描くことに対するパッションが十代の頃と
比べて今の自分は遥かに低下したように思う。
良いようにいうと『精神的に落ち着いた』、悪いようにいうと『情熱的ではなくなった』というべきか。
十代の頃の自分は、いつも焦燥感に駆られており、精神的に全くといっていいほど落ち着きがなかった。
その落ち着きの無さは絵にも顕著に表れていて、十代の頃の自分の絵には日常生活で感じた嫌なことや
悲しいこと、そして何より自らの感じていた焦燥感が率直に表現されている。稚拙な表現になっている箇所も
まだまだ多いが、見るものに対して何かを訴える力にあふれている絵が多い。
だから十代の自分の絵を見ると、未だに当時常日頃から感じていた感情を想起させられてしまうことも多い。
だけれど二十代の自分の絵を見ると、そういう風な負の感情をあまり想起させられることはない。
それは二十代になった自分が精神的に徐々に落ち着き始めたせいではないだろうかと思う。
自らの落ち着きが反映された結果、二十代の自分は絵に対して自らの心情ではなく、人や物がもっている「美しさ、きれいさ」を
素直に絵の中で表現するようになっていったように思う。
(十代の頃は、美しさやきれいさを絵の中で表現するだなんて偽善くさくて嫌だ!!と思っていたのはここだけの話である。
今の自分はどす黒い感情よりも美しいものに惹かれることが多いのだ)
感性の変化その2:他人と自分を比べてもあまり腹が立たないようになった
他人と自分を比べた際に生じる嫉妬という感情は、人間が生起する感情の中で最も醜い感情だといわれている。
絵描きは嫉妬の権化だといわれており、他人と自分の絵を比べることで強い嫉妬を抱かなかった経験を
つまりそれくらいに絵描きは嫉妬という感情と隣り合わせになりながらペンを握っているということなのだ。
もちろん自分も例外ではなく、自分より上手い絵を見ては嫉妬し、粗を探し、そして反骨精神で上達するというサイクルを
だけど二十代も半ばに差し掛かった今の自分の嫉妬の強さと、十代の頃の嫉妬の強さを比べてみると、
やっぱり十打の頃に感じていた嫉妬の方が幾分強いように思う。
十代の頃の方が感情的になることが多かったから、当然といえば当然か。
二十代の今は、他人と自分を比べてもさほど強い嫉妬を抱くことはなくなったのだ。
自分は自分、他人は他人と他人と自分を分けて考えられるようになってきたと思う。
それにすごい絵を描く人を見ても、自分が確立してきた絵を見返すことで平静を保つことができるようになってきた。
何より二十代の自分には、勉強して練習すれば、いくらでも自分は上手くなれるんだという確信がある。
自分より上手い絵は、魅力的な絵は、二十代の自分にとってはすっぱい葡萄ではなくなった。
目が肥えたとでも言うべきなのだろうか。
二十代の自分は、良いものと悪いものを見分けられるようになった。
自分の心を揺さぶられるようなものにしか興味がなかった十代の頃の自分は、物の良し悪しもわからず
とにかく目の前にあるものを吸収しようとしたが、今の自分は目の前の物の良い部分だけを吸収しようとしている。
その結果、目が肥えた。
目が肥えたのでよりシンプルで良い絵が描けるようになった。
まとめ:
二十代の自分は、十代の自分と比べると、情熱と嫉妬心を無くした。だけど精神的に落ち着いたおかげで
より洗練された良い絵が描けるようになってきた。
結論:
『二十代になると絵が上達することはなくなる、感性が衰えて良い絵が描けなくなる』という言論なんて嘘。
もちろん十代のような絵は描けなくなるが、二十代には二十代なりの良い絵を描くことができる。
以上。
たぶんこの話題はシャーロッツビル衝突事件以来の一連の騒動から来てるんだと思うけど
白人のトランプじゃなく我々が「オルタナ右翼とカウンター集団、どっちもどっちだ!」と言ったところで白人至上主義者から歓迎してもらえるわけなくて、口汚く罵倒されるのがオチだよ
日本のネットで一番よく見かける反朝鮮人系の人達に関して言うと、彼らは自分の気に食わない意見があるとそれを言った人を証拠もなしに朝鮮人認定始める(人が目立ってる)じゃん
朝鮮人かどうかって、批判対象か否かを決める判定なんだから一番慎重にやるべき所なのにだよ?
つまり、いつ定義が勝手に拡張されて、自分も含めて差別されるかわからないんだよ
これ反差別を唱えてる人達自身が自覚してないかもしれないけど、彼らは自らを無謬の人として、高みから差別を批判してるんじゃなくて、
両親どころか異性からも愛されず育つと、増田で朝から童貞だのジャップオスを連呼してるような偽善と差別と男叩き大好きなフェミ女が出来上がるらしいよ
だからさあ。
今現在全くいじめ被害はなくて、そこに同性カップルの子供が入ると不幸になることが予測できるとかいう話じゃないでしょ。
既に日本の国内には陰湿ないじめがあって、その理由は家庭環境だけじゃなくてさまざまな理由があるわけ。
そこで「同性カップルが子供を持ったらいじめられる」といって別扱いするのはおかしいって言ってるの。
他の増田も言ってるけど、マイノリティの子供がいじめる側になることだってよくある話だし。
ハーフや外国人が大人になって「いじめがつらかった」と言うことはあるけど、それは母子家庭とか両親がいない祖父母家庭とかでも同じように「いじめがつらかった」という人はたくさんいる。
要するに何が言いたいかというと、「同性カップルに育てられる子供は不幸になる」という意見を主張する人のほとんどは実際には子供のことなんてこれっぽっちも心配してなくて
自分の周りに同性カップルが生活して子供を育てるとか、自分の子供の同級生にそういう子供ができることを偏見で怖がってるだけだっていうこと。
大人が「なんかやだからやだ」という差別意識をさも子供のためを思って言ってるかのように偽善的に装うのがなんだかなあと思うわけ。
童貞云々はおいといて、これだよな。
強者→弱者に対する「気にすんな」って言葉はおもっきしマウント行為なのに、
強者の輪の中では「アンタはえらい」「思いやりがある」「やさしい」という評価になる。
馬鹿か。
自分らが葡萄を取り上げられたら途端にうろたえる癖に満たされてる状態で言ってくる。
みたいな態度を取れるのがまさに強者の態度だよ。
そんなもん弱者男性は求めてないのに聖人ぶりたくて自己顕示欲に利用しようとする。
偽善どころか真っ黒な悪だよ。
変な気遣いをせずに空気のようにいないものとして扱うのが最善だから。
それ以外は何の解決にもなっておらず弱者男性に剣山ぶつけるだけってことが強者は理解できない。
悩み相談というのはそれを相談という形にまとめている時点でもう答えは出てしまっているという場合が往々にしてあります。
本人の中で意識されていなかった混迷が、言語化される過程で一本芯が通ってしまい、その解法はもはや誰の目にも自明になってしまっているというケースです。
まさにそんな感じで、きっと元増田様はこのエントリを書きあげた時点で何が問題なのかは解っておられるだろうと思います。
ですから別に元増田さんにはもう何を言う必要も全くなく余計なことなのかもしれないですが、一応第三者の意見というのを書いてみようと思います。
偽善が過ぎたかもしれない、などとご本人は謙遜しておられますが、全くそのようには感じられないので安心していただいていいでしょう。
このエントリを読んだ大多数の人間が感じるのは増田さんの冷え切った気持ちだけです。
"結婚前は自分も仕事が忙しくて夫の愚痴についてあまり深くは考えていなかった"
"結婚してからやっと夫に仕事が出来ない疎いところがあるということに気付いた"
"さっさと転職すりゃいいのにしない言い訳に自分との結婚生活のことを使われたら巻き込まれるみたいで嫌だ"
"その様な夫の人間的欠陥が家庭で発揮される分にはお互いさまと我慢できる"
"夫がノイローゼになろうがなんだろうが決断するのは本人の専権事項でありあれこれと指図したくはない(恐らく失敗するであろう夫の決断に対して責任を負いたくない)"
"もはや夫を愛していないということを認めてしまうと夫の中で自分まで加害者の仲間入りになり、恨みを持たれるので勘弁願いたい"
簡便にまとめるとこのようなことが主張されているのだと読みました。
別に元増田さんの性格的欠陥をどうのこうのと言うつもりはありません、普通人の感覚でしょう。
ただ、自分が結婚というものをしてお互いを人生のパートナーとしていくという点についての思慮が浅かったという指摘は免れないでしょう、あなたはあまりにも相手の内面について興味がなさ過ぎた。
そういう訳ですから、ご面倒に思っておられるのは文章全体から重々伝わってきてまいりますが、何分思慮が浅かったとはいえあなたの旦那なわけで、
貴方にもその旦那の人生に対する道義的な責任というものはあろうと私なんかは思います。
と言っても、妻の愛でなんとか支えてやれよなんて話では一切ありません。貴女の愛が冷え切っているのは氷を見るよりも明らかです。
明らかなのですが、一度は愛を誓った相手ではないですか、ここはひとつ責任感をもって以下の二つの選択肢からどちらかを選ぶべきだと思います。
1.旦那を愛していないことを認めてきちんとその理由を告げ、相手に恨まれても加害者となっても関係を終わらせる。
2.旦那を愛していないことは認めるが、なんとか愛せそうなところを再発見して現状の問題にも出来る限り一緒になって答えを探してあげる。
どちらについても貴方にとって面倒くさすぎる、貴方の思い描いていた結婚像とはかけ離れた事柄であろうことはわかりますが、ここはひとつ面倒臭いことでもやらないとならない状況だと思いますよ。
また、どちらを選ぶにしてもその体験を通して貴方の淡泊すぎるところ、他人のことを浅く考え過ぎてしまっているところが多少なりと是正される契機になるんじゃないかなと思います。
このままグダグダと時を重ねているうちになんとなくで(例えば旦那が浮気していることが発覚したとかそういうラッキーが起こって)離婚にこぎつけたりしたら、
なんだか同じことを繰り返しそうな気もしますしね、改めて自分が結婚しようと思えた一人の異性に対してコミュニケーションというものを取ろうとしてみてはいかがでしょうか、今までサボっていた分。
なぜ、これだけの分量の文章を書いて夫の良い面がひとつも出てこないのだろう。なぜ結婚したんだろう。
徹頭徹尾、夫の無能さをあの手この手で表現しながら、無能に理解があり、心配している(が具体的に何をしているわけでもない)「私」。
偽善が過ぎたかもしれない、などという予防線まで張る周到さ。底知れない恐ろしさを感じる。
創作なら良いのだけれど。
最近、夫から会社の愚痴ばかり聞かされる。色々な話を総合すると、どうやら夫は会社で孤立しているようだ。
社長からは日常的に罵られ、仲の良い同僚もいない。最低限の伝票整理などをやり、周囲とはほとんどコミュニケーションを取らず、一日中ほぼ無言で過ごす。話を聞く限り、そんな感じらしいのだ。
夫が今の会社に勤めて、3年が経つ。それは私達が付き合い始めた期間とほぼ重なる。
思えば、夫が会社に対してポジティブな話をするのを聞いたためしがない。いつも愚痴ばかりだった。
彼はずっと、つらい状況にいたのだろうか。
結婚前、私はあまりそういうことを気に止めずにいた。会社員生活は大変だ、彼も人並みに苦労しているのだ、私がささやかな癒しになれれば。そんな風に考えていた。それに、私自身も働いているし、基本的にはそれで精一杯なところがあった。
結婚して、一緒に暮らし始めて、付き合いたてのころの浮かれた気分もだいぶ落ち着いてきた。すると、これまで受け流して来たことが、かなり深刻な問題に思えてきた。
相変わらず、夫の愚痴は止まない。話を聞くほど、状況は悪くなっているようだ。
夫の愚痴は、もはや愚痴と言うより、呪詛の様に聞こえる。社長を「キチガイ」と呼び、上司や同僚を「クソブタ」などと呼ぶ。しかも、頭の中でずっとそう呼び続けているのだろう、実に自然なのだ。聞かされるこちらは、戸惑うばかりだ。夫に感情移入して、味方になってあげたいところだが、そうはならない。私はその人達を見たこともないのだ。
社内では、全員が敵。夫の中ですでにそういう世界観が出来上がっているようだ。これはもう、末期的な状況ではなかろうか。
こんな境遇になってしまったら、普通の人は、とっくに会社を辞めると思う。
夫が特殊なのは、決して自罰的にならないことだ。悪いのはすべて「あいつら」で、自分は被害者。いつもそういうスタンスで話をする。それが本心なのか、自分を守るためのギリギリの手段なのか、彼の心の奥底まではわからない。ただ、苦しいだろうなとは思う。
私のことを考えて、離職できずにいるのだろうか。そんな風に考えたりもした。だとしたら、本当につらい。
一緒に暮らしみてわかったが、夫はあまり、仕事ができるタイプではないと思う。特に、コミュニケーションの面では、かなり弱者であるに違いない。暗いとか、人見知りが激しいとか、そういう感じはないのだが、どこか微妙にずれていて、なんとなく周りとうまく同調できない。そういう印象がある。空気を読むのはかなり苦手だろう。
夫は、言うべきことをギリギリまで黙っていたり、一方的に物事を進めてしまったりする。そういう困った面が色々とある。
夫婦間なら、お互いに許しあったり、時にはきちんと指摘し合ったりして、なんとかして行こうと思える。私にも欠点はあるし、そこはお互い様だ。
でも、会社ではそれは通用しないだろう。夫は、会社でも自分の欠点をたくさん露呈してしまっているのではないか。そして、それを他の面でカバーすることもできず、愛想やキャラで許してもらうこともなく、心を閉ざし、周りを敵とみなし、身をこわばらせながら会社にしがみついているのではないか。
残念ながら、そうなんだと思う。夫は、特に秀でた能力のある人間ではない。頭だって、あまり良くない。
心情的には、夫に味方したい。狂った会社に入ってしまった、運の悪い人。そういう風に見てあげたい。でも、それは無いだろう。
私はどうしてあげればいいのだろうか。彼に転職をすすめるべきだろうか。もう少し夫の適性に合う職種があるのではないか。
あるいは少し心身を休めてもらい、その間は私が生活を支えるべきだろうか。でも、こんな考えは、夫にとってはすべて大きなお世話かもしれない。決めるのは夫だ。会社中を敵に回しながら、それでも辞めないというなら、私は見守るしかない。心が壊れないことを祈るばかりだ。
さんざん、夫を心配する良き妻みたいなスタンスで書いてきたが、ちょっと偽善が過ぎたかもしれない。
たしかに、私は夫が心配だ。それは本心だ。でも、それと同じぐらい、私は夫に失望している。社長や同僚を口汚く罵り、鬱憤を晴らし、夜は一転して、甘えた調子で体を求めてくる。正直、まったく気分が乗らない。むしろ惨めだ。夫から、性的魅力は消え失せてしまった。できれば夫と寝床を分けたい。
まだ夫を愛してはいる。でも、この愛が消えて、失望だけが残り、やがて憎悪に変わるのが恐い。
今さら、夫が生まれ変わることはないだろう。見違えるようなハイスペになり、全てが万事解決なんて、ありえない。
夫は生まれつき、あまり社会生活に向かない人なのだ。そんな人はきっとたくさんいると思う。私だってどちらかと言えばそっち寄りの人間だ。
君の理屈をそのまま敷衍すると、フェミニズムに限らず「全ての、弱者救済の権利運動は、常に他の全ての弱者の権利運動と共闘しなければ偽善」という、とてつもなくハードルの高いことを要求していることにならないか。そもそも、「すべての人の完全平等」が実現されない限り、何らかの弱者を救えば相対的に新たな弱者が立ち現れるわけで、その全てを見越してそれと連帯せよというのは、正論の振りをした無茶振りに近い。それは結局、あらゆる権利獲得運動に対して、「君らは実は権利乞食であり偽善だ」と言い、「弱者は黙って殴られていろ」と言っているのに等しい。
そういう反省が、運動の内部から起きることには、運動の一成熟過程として意味があるだろう。だが、それが外から投げかけられる批判である場合には、残念ながらそれはあまりに理想論過ぎて現実には機能しない。