はてなキーワード: 事象とは
エッグ矢沢氏のnoteの内容に疑問があるとか、ツッコミ所があるとか、そういう話では一切無いのでそういうのを期待してこれを開いたなら閉じてくれ。
俺が疑問に思うのはブコメによくある「こんな酷いことをした藤井健太郎は断罪されるべき、関わった番組は放送されないべき」みたいな論調に対してだ。
俺としてはそれマジで言ってんの?って感じ。
エッグ矢沢氏に起こった事は間違いなく酷いことだし、藤井健太郎氏との間で何かしらの折り合いは付けた方が今後の人生としても良いだろうと思う。
noteに関してもよくもまあ過去の辛い出来事をここまで文章として起こしてくれたな…と尊敬の念を抱く。
これは大前提な。
その一方で思うのが、何か事を成す過程で人がぶっ壊れる事自体はあり触れてると言うこと。
それこそお前らの大好きなシステム開発の失敗プロジェクト(今だとホットなのはグリコの件)なんかでも確実に何人かぶっ壊れてるだろ。
じゃあそれに対して「グリコ許せん!デロイトの関わる商品は買わないしグリコの商品も買わない!」なんて奴見たこと無いぞ。
道路をみれば車はアホほど走ってて、毎日交通事故で人は死ぬ。じゃあ皆で車を使うのをやめるか?それは無理だろう。
スイッチを入れれば電気が点く。でも電機業界なんて人の怪我や死は日常的だよね。でも電気を使うのを止めることは出来ないよね。
結局はわかりやすく可視化された事象に刹那的な感傷を覚えて義憤に狩られてコメントで藤井健太郎氏を叩いてるだけだ。
そんな連中に藤井健太郎氏がボコボコにされて彼のプロデュースする面白い番組を観ることが出来なくなるなら、マジで最悪だからそうはならないで欲しい。
関わる人達にあと少しでも状況を改善する意志があればこうはならなかっただろう。
ただ、それと同じくらいに悲劇的な出来事はあり触れていて、この件で喧喧囂囂に藤井健太郎氏やテレビやらなんやらを叩いてる人らは普段そういう現実とどう折り合いを付けて生きているのか、疑問に思う。
見て見ぬふりをしているのか?
はてなブックマークの新着エントリにおいて、一見マスコミのニュースサイトへの直リンクに見えるが、実際には「search.app」という謎のドメインを経由するURLが多数表示される事象が発生している。
search.app[B!]新着記事・評価 - はてなブックマーク
https://b.hatena.ne.jp/site/search.app/
サイトのアイコンや記事のサムネイルは元サイトのものが使われているので、ユーザーはsearch.appにブクマをつけていることが気づきにくい。特にスマホアプリだとURL確認もしにくいので何の疑問もなくブクマをつけてしまいそう。
以下の記事は、元記事ではなく、search.appへのリンクに多数ブクマがついている。
「ICCの裁判官は屈しない」ICCの赤根智子所長がロシアからの指名手配をうけ…圧力に負けず裁判を進めることの重要性を訴え|FNNプライムオンライン
https://www.fnn.jp/articles/-/714253
[B! 裁判] 「ICCの裁判官は屈しない」ICCの赤根智子所長がロシアからの指名手配をうけ…圧力に負けず裁判を進めることの重要性を訴え|FNNプライムオンライン
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.fnn.jp/articles/-/714253
↑
ブクマ数4
[B! ロシア] 「ICCの裁判官は屈しない」ICCの赤根智子所長がロシアからの指名手配をうけ…圧力に負けず裁判を進めることの重要性を訴え|FNNプライムオンライン
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/search.app/LBbCawnGzF4cEtA98
↑
ブクマ数39
害がないにしても気持ち悪い。
暇空は石丸が「暫時」という日本人は使わない中国語のような言葉を使ったことなどから石丸を中国のスパイだと思って警戒しており、都知事選では石丸に絶対入れるな百合子に入れろと呼びかけている
「金で選挙を有利にさせるのはチートだ」という石丸の発言について暇空が追求
石丸は都知事選出馬表明前から都知事選をにおわせる有料広告動画を出していた
お前だって金使ってるし、におわせ動画は公職選挙法にふれるだろと暇空は批判
暇空は対談前に石丸の弱み探しをアニマルズ(暇アノンの中でも特に寵愛を受けている精鋭部隊)に頼んでいたが、チート部分の短い動画を見ただけで前後の流れを知らなかった
暇空「汚い金だったらだめできれいな金だったら使っていんですか?」
石丸「公職選挙法にふれるかは待機してもらってる弁護士呼んで聞いてみますね」
暇空「あーいいです」
石丸「暇空さんは論理的な思考ではなく独立した事象をつなげて考えてしまっている」
弁護士も裏に控えてしまっているし、今まで暇空がやってきた「石丸は中国のスパイ疑惑」などもやるのが苦しく、都知事選についての話題はやめて漫画クイズへ
暇空「成人式で鬼滅の刃を引用してましたよね。上弦の鬼の名前を全て答えてください」
石丸「猗窩座と、えーと」
暇空「へぇーアヒャアアアア(奇声)」
石丸「」
暇空「すみません、癖で」
暇空が様々なセリフを読み上げてどんな場面で誰が言ったか答えさせる
攻殻機動隊のアニメを大体見ているというのでシリーズのどれを見たか暇空が聞き、暇空は言えないと見ていたようだがそこはタイトルがすらすら出てくる
らんまは子供の頃から繰り返し読んだので詳しいとのことで暇空不満そう
暇空「白鳥」
暇空「ああそうだったガチョウ」
暇空「…」
石丸はのだめカンタービレが好きだが暇空は好きな感じではないので読んでおらずクイズできず
暇空「読んでない」
暇空「読んでない」
暇空「読んでない」
石丸「暇空さん2万冊読んでるっていっても文化系とかスポーツ系とかないんだね」
司会の人「たまにはこういう時間もいいですね。石丸さんも暇空さんの人柄がよくわかったでしょう」
それぞれに「うちの推しが勝った、向こうの負け」と主張
暇空は「暇空の勝ち」と主張する者たちを大量リツイート
ぼかし
タブロイド思考(タブロイドしこう)とは、複雑なものごとを皮相的に単純化・類型化して把握する思考パターンである。 周辺ルート思考とも呼ばれる。 何が原因であるのかについて、深く考え分析すると単純に断言することができず、判断が難しいような事象をステレオタイプな枠で捉える思考である。
で悩み中。
先週末ぐらいにシェーバーが突然ウンともスンとも言わなくなった。充電器(全自動洗浄機)にさしても充電ランプが付かないので、充電池の寿命と判断して尼で充電池を注文。
2年程前、購入から3年目ぐらいの年にも同じことがあって充電池を自分で交換して復活させたのでまた同じ症状だと思ったのだ。
充電池が届いて交換し動作することを確認して解決と思いきや、充電器にさしても充電がされない。それどころか充電ランプが点滅するという事象が出て、ぐぐったらどうやら充電異常であるらしい。充電池に残っていた電気で動作はするので完全な故障では無さそうだが、肝心の充電ができないので充電回路が故障したのだろう。なお古い充電池に戻しても同様。ACアダプタを繋げて直接駆動できるはずなのにそれでも動作しないので電源回路周りが都合よく壊れたらしい。
パナのサイトを見ると電源系故障の修理は目安で1万程度取られるっぽい。
とはい5年使ったのだから買い替えても良い気もするので後継機を探してみたが今は6枚刃なんて出てるのな。
今使ってるのは5枚刃なので3枚刃は無し、すると同じ5枚刃か上の6枚刃。そしてパナは刃数のシリーズ毎に上・中・下というラインナップがある。
シェーバーとしての性能差は各シリーズ内には無く、ACアダプタを直接繋げる交流式対応か、充電表示の豪華さ、全自動洗浄機・ハードケースが付くか、というセンスのない分け方。ちなみに全自動洗浄機が付かない機種は全自動洗浄機との接続端子が無いので全自動洗浄機の使い回しは不可。
というパナのシェーバーの前提知識があっても現行機種は無駄に多くてどれがどう違って何がいいのか全くわからん。
シェーバー比較表 https://panasonic.jp/shaver/comparison.html?comp=lamdashpro6 なるページがあるが、結局一番下の詳細比較のところを見るしか無い。
が、この比較表もクソというか肝心の機能差分が比較項目から漏れているので結局各ページを見て絞り込んでいくしかなかった。
自分的には全自動洗浄機が必須という条件しか無いので最終的には6枚刃からES-LS9Q、5枚刃からはES-LV7WとES-LV7J、の計3つ。なお比較表の絞り込みで全自動洗浄機だけにチェックを入れてもES-LV7Jは何故か出てこない。クソですね。
5枚刃のES-LV7WとES-LV7Jの違いは交流式対応か否かだけで、市場価格もほぼ同程度。6枚刃については全自動洗浄機付属が最上位のES-LS9CXか次点のES-LS9Qしかないので実質選択肢がない。
5枚刃のES-LV7WとES-LV7Jは26k~30k程度で、まあこんなもんだろうな価格。今使ってるやつも22kで買ったので色々値上がりした状況を加味すればこんなものだろう。
対して6枚刃のES-LS9Qは43k~50k、シェーバーに出す金額としてはなかなか良いお値段だと思う。
毎日使うものに対しては金を掛けた方がQOLが上がるということを経験的に知っているが、6枚刃にすることによるメリットがいまいち想像できないのが問題だ。
理論的には、手早く剃れる可能性が上がる→時間が掛からない→剃る時間が減るので肌を傷めにくくなる、というのはわかるのだが体感的なものとそれに対するコストが適切かを評価するかは難しい。
自分の髭は濃い方では無い、しかし肌は弱い方なのか顎の上あたりにできものができたりしたりするので使える気は使いたい。
レビューっぽいのや感想を調べてみても、髭が超濃い人なら6枚刃いっとけ、それ以外は5枚刃と大して変わらんとか気持ち良くなったかもみたいなのが多いように思える。
やっっっぱ5枚刃のままでいいかなーーーーでもやっっぱ買い替えるなら6枚刃も気になるよなーーーーーーー
実際使ってみるのが一番良いんだろうが、当たり前だが他人が使ったかもしれないシェーバーなんて使いたくないしそもそも家電屋に通常並べてるのはモックなので剃れる訳が無い。
だからこそ「なんとなく高性能っぽい」アピールをしまくったサイトを作るのだろうなというのは理解するが、もうちょっと選びやすい指針を示して欲しいものだ。
単純に見積もれば
・お店に行く(1時間)
・帰る(1時間)
みたいになるかもしれないが
実際はその外部状況に強く依存する
そもそも何故ソファーを買うのか、買うのは確定なのか、ソファーじゃないものを買う可能性は?他のものを同時に購入する可能性は?
誰が行くのか、誰と行くのか、決定者は何人居るのか
そういう変わるかもしれないリスクがあるのは誰もが薄々気づいているのに
PMが実行者や、実行者に類する人に、「お店に行ってソファーを買って帰るには何時間かかるか?」と質問するからだ
その条件において、答えは4時間だし、どうこねくり回しても6時間だろう
しかし、外部状況により条件が変わったら簡単に丸一日になったり、1週間になったりするのは想像できるだろう
そこで再見積もりすればいいのだが、色んな理由で「4時間」が独り歩きする
例えば
・4時間後に別の予定が入っている
などがあると、4時間は条件の変更を受け付けず、4時間のままになる
全員の利害が一致していればいいが、例えば条件を変える人と、4時間じゃなくなると困る人が別だった場合
不都合は考慮されずに条件が変わり、実際のコストと見積もりが合わなくなるという事象が発生する
そうして発生した不足の爆弾で割りを食うのはまた誰になるかわからない
不都合が生じた人かもしれないし、その人が責任を押し付けたひとかもしれない
この流れで誰が悪いのかと言えば、やっぱりPMだよね
それをそのままの形で己の作品として発表すれば悪評を得るだろう。
ではここでその諸問題、「なぜ文章のパクリは忌避」されるのか。
それについて考察しようと思う。
そこで私がその作品から、富士山に対する描写をそのまま引用すればパクリとされる。
それはその「文章」を無断で引用したことを咎められるのであって、「富士山」そのものを流用したこと事態に問題は生じない。
すなわち「富士山」との表象を描写すること自体には、「パクリ」とする概念が存在していないのである。
ここで述べたいことを平易に、そして換言すればこういうことである。
なぜ文学作品の文章を光景として捉え、その文章を描写することは禁止されるのか?
ということである。
詭弁的に述べれば、こういうことだ。
「私はその文章をパクったのではない、私はその文章を光景として読み取り、私が感じたままにその文章を描写しただけである」
その理由こそが、この諸問題としての根源的なものであり、すなわち「パクリ」という行為は、文章を盗む行為ではない。
それは、作者の感性、思考を盗むことに他ならず、端的にも形而上学的に述べれば、それは作者の「魂」を盗むことである。
つまり、富士山としての描写自体に「パクリ」としての表象が生じないのは、富士山としてその表象を捕らえた際、そこには個々人において異なる情動、思考、感性が働くことに由来する。
自分が認識した事象を正確無比に相手に伝えるのは不可能である。
なぜなら知覚した事象を言語化する際に、ノイズが生じることは不可欠だからである。
仮にこうしたコード化によってもノイズが発生しないのであれば、それは他者と自己を境界線が存在しないことに成り、それは他者の存在を消失させてしまうことにつながる。
よって、他者としての存在とその存在性の認識こそが自己認識における伝達として生ずるノイズとしての証明であり、故に完璧な意思疎通は不可能である。
実際に自分が認識したものを完全に換言するのもまた不可能である。
ここで本題に戻ろう。
彼らは実際、事象に対する見事な描写に評価を与えるのではなく、
仮に富士山としての事象、光景が、文字として表せるコードとして定義化されたとしよう。
すると橙色をR132・G90・B18として示せるように、富士山も同様に共同認識のコードにより共通の形で表記することができるだろう。
その際において、富士山を示すコードを流用しようと、橙色の場合と同様、そのコードを”パクリだ!”と批判されることはないだろう。
文章の引用、パクリとされる行為は文章を盗むのではなく、作者としての”ノイズ”を盗むのであり、人は意思の疎通として害となる、その”ノイズ”に価値を置いている。
人間は巧みに描写された事象を求めて作品としての文章を読むのではない。
それは正確さに欠ける、個々人として個人的な感性と称される”ノイズ”を読む行為に他ならないのだ。
つまり、人はノイズを読み得ようとすると同時に、その”ノイズ”の出処を正確に知ろうと欲するためである。
それはすなわち、”ノイズ”の正体が判明しておらず、その”ノイズ”としての概念自体をアニミズム的にも崇高する謂れを持ち得ているからである。
これこそ換言すれば、
「逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ…」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/bambi_yoshikawa/n/n7035883b5e2e
これを読んで「身に覚えのない男性への呪詛」と理解するのはどういう解釈なの。「日本の労働環境は最悪だ」は「日本人への呪詛」になるんだろうか。人権意識向上の必要性を感じるのが普通では
それとも事務職?
「ナニ」と比べて最悪なの?
「ドコ」」と比べて最悪なの?
それは「ニホン」が最悪なの?
言葉にしなよ
それを「日本の労働環境は最悪だ」と書いたら、それは日本≒構成する日本人への呪詛でしょ
逆に聞くけど
それ以外にどんな意図があるの?
それと引き換えニホンはダメ、他人の財産を勝手に壊さないなんてクソ、みたいな
ほぼほぼ単一民族で構成されてる日本での出来事だけど、日本人に向けてない日本に向けてるんだ、とか
馬鹿じゃないのかな
心優しい人が人権意識向上の必要性を感じたらブラック企業がなくなるのか?
心優しい人が人権意識向上の必要性を感じたら痴漢が減るのかよ?
その人はもともと心優しいのに?
全く関係ない普通に働く人が心を痛めたら劣悪派遣の労働条件は改善されるのか?
全く関係ない普通に過ごす人が心を痛めたらナンパがなくなるのか?
その人はもともと普通に過ごしてるのに?
違うだろ
個別具体的な話であるべきで「さいあくだー、にほんはーさいあくー」とかいう話じゃないだろ?
そこに関心がある人に向けて全力で呪詛を投げるんだよ
多分、痴漢するやつも、接待に「使う」やつも、性的暴行を誘導したやつも、これを読まないんだよ
ちなみに元記事だけど
「性的視線にさらされる」みたいな誰もが一定の自覚がある事象を頭において
よくある誘導だよ
これで、ウンウン頷く人は詐欺に気をつけたほうが良いよ
半裸の男が表紙になる必要はドコにあるの?
性的特徴の違いによって表出のされ方が違うだけだ
必要としてる人や作者自身の願望や信念に応じたり基づいたりしてそういう物語や描き方もちろんあっていいけどあんなに素敵だと思っていたドラマ大豆田とわ子を久しぶりに見たときのあれ……って感情に近い増田だ
とわ子や夫たちの造形とか性格や容姿、関係性とか社会的立場とか諸々
社会不適合的な親友(違国日記の姪や他登場人物との関係性に近しい)の存在と関係も
音楽は今でも最高と思うけど
今見ると主人公たちを追い詰める側が大分舞台装置というか、主人公たち以外には誰も人生や人格がないようにわざと扱いたいのかなという醜い描き方というか……
結局まるごと共感できる、自分は屈託なくこっち側なんだと素直に感じられて、自分はもしかして醜いがために舞台に登場させられない側の人間かも、もしくは舞台装置のごとく描かれる側のように自分も誰かを傷つけているかも…とは間違っても思わずに受け止められる人のための物語なんだと思えば気が楽かもよ
次作?で警察ミステリもののときに生きづらさの中心地にいるが同時に他者を傷つけてもいる人物を書いててそれはよかったけど、結局美しい世界や事情の上での話だなとは思ったの増田読んで思い出した
昨日最終話だったクドカンの季節のない街で描かれてる世界の方が優しいと思うし自分の認められないきれいでないものを排除したい感覚やそうするとき同時に巻き込んでスポイルしているだろう人やものがあることすでにそれをしてることに自覚的でないといけないと思った
クドカンはそういうものを描いたんだと思ったけど本当に全話見てその感想?みたいなやつもいっぱい見たわ
排除されるべきと思われているものを愛して抱えているがかつ一方では街で他者に排除を実行する自身も十分に異物(自身の挫折経験からしまさんにとって立ち退きは排除というより心底自立の促しなのかもしれない)でありながら社会的に成功しているしまさんの存在がその二分された価値観の対立というか、現在のポリコレとそうでないとされるものの間での人間の揺れ動きを表現しているようでよかった
最後にワイフに助け出されるのも
リリコ最高だった
全話も最終話も見事だったな
全話を通じて、特にがんもどき後編の勝手にハモんないでよから明確にオカベが一番嫌いな人物になったのでかっちゃんそんなただ「かわいそうな女の子に恋して助けてる自分のこと」が大好きなだけの男でええんか?と思っていたから最終話本当にあれでよかったと思った
よくも悪くも自身が選んだことでない状況や環境に人は左右されるもので、かっちゃんの場合は本当はあったけどないように扱われていたし自分でも諦めていた意思や才(あの美しいハモり!)があの街から去ることで表に出てきたのだからよかったし、オカベが跡地でしょんぼりしているのもむべなるかなという感じ
それ以前にも叔母がかつこに言ってもしょうがないか……って言うとこも好き
この子は暗愚だから…という考えがあったのだとしても、起こってしまったこと、しかも箕打が起こしたことでそちらを守らず被害を受けた側を悪く思ったり責めることを飲み込む描写、すごいと思う
街の女同士の連帯も不器用に描かれており、起こった事象の表面のえぐみや醜さだけ見てあの編集者がはっきと言ったように
「こんな人たちいるわけないしw」と捨て去ることは、その内側にいる本当は連帯すべき弱い人に起こったことや事情や感情や生命すら無感情に、あるいは憎みながら捨て去ることなのだとあのラストではっきり思わされた
こういう描き方もあるんだよね
この辺を見たはずなのに「クドカンはポリコレを憎んでいる」って結論になってた人、口当たりのよい気持ちのいいドラマに感化されるあまり対立構造に巻き込まれすぎていると思ったな
そんなこと増田みて考えた