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はてなキーワード: プレバトとは

2024-10-22

もし俺がプレバトに出ることがあったら

ちょっとかましたくて自由律俳句を持っていくけど普通に滑って終わるんだろうな

2024-09-07

anond:20240906134849

プレバト夏井先生的に言えば、星は夜にしか光らないんだから「夜空の」は不要

字数制限があるのなら「小さな」という情報を入れるべき

2024-05-13

anond:20240512143340

俳句優等生的になったのは高浜虚子のせいだね

正岡子規お稽古世界になってた俳諧自由個人文芸にしようとしたんだが、虚子がまたお稽古世界に戻しちゃった

その方が宗匠として稼げるからビジネスとしての俳句だね

プレバトも同じで、結局俳句ビジネスしようと思うとお稽古俳句なっちゃうんだよね

まあその辺は短歌でも川柳でも同じだけど

2024-05-12

詩とか俳句短歌について思うことメモ

もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事書類ばかりとなった昨今。

でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。

書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。

まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。

頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初感想だった。普通に文章だったからだ。

調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで

「韻」という言葉もその時初めて知った。

井上靖詩集を手に取ったのは、国語教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。

というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初詩集だった。

小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。

季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなもの短歌俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。

特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉ニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。


井上靖の詩のなかに

幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。

自分世界表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。

例えば、雪という詩がある。


 ―― 雪が降って来た。

 ―― 鉛筆の字が濃くなった。

 こういう二行の少年の詩を読んだことがある。

 十何年も昔のこと、『キリン』という童詩雑誌

 みつけた詩だ。雪が降って来ると、

 私はいつもこの詩のことを思い出す。

 ああ、いま、小学校教室という教室で、

 子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。

 この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。

 勤勉、真摯調和

 そんなものともどこかで関係を持っている。

井上靖詩集運河」より

中学生の私は、なるほどと思った。

詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉なかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。

鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。

井上靖の次に手に取った詩集もよく覚えている。

武者小路実篤だった。やぱり散文詩だった。

当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。

いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。


ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。

山頭火面白い普通俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。

定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌エントリーポイントとなって、

新聞の俳壇や短歌欄に時々目をやるようになった。

いわばお勝手からこっそり入門したような形だ。

しか俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。

いつしか手にしていたのは、興津要解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。

剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。

エロい川柳結構好きだった。今でいうサブカルチャーだ。

その後は巴毎晩組み敷かれ

木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代川柳妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい

一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。

俵万智サラダ記念日ベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。

例えば、こんな一首。

わが胸にリンチに死にし友らいて雪折れの枝叫び居るなり

あさま山荘事件を起こした連合赤軍幹部坂口弘収監中の東京拘置所から毎週のように短歌朝日歌壇投稿していた頃だ。

朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。

そして渡辺松男太田美和が常連投稿者として名を連ねていた。

風花って知っています

さよならも言わず別れた陸橋の上

渡辺松男太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇リアルにみていた人にしかからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱発酵すると詠んだりする太田美和。

生活で恋をしていた私は太田美和の言葉自分を重ね合わせた。


でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。

大学卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。

生活が一変した。

書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。

購読紙も朝日新聞から日経新聞に代わり、東洋経済となった。

世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。

山頭火武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接資格だ!という日々。

就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。

たまに思い出しては、現代短歌最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。

若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。


それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。

そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。

思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。

中年になっていいかげん自分限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。

ふと思い出すのが、最初に買った井上靖詩集

 ―― 雪が降って来た。

 ―― 鉛筆の字が濃くなった。

この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖感覚がとてもよくわかるようになった。


これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。

詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。

どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。

鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯子供の姿を思い浮かべる、という

文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワイン食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。

ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種ビンテージ気候土壌などさまざまな情報がある。

しかワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのとき話題、体調などに大きく左右される。

だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。

マリアージュという言葉があるように、ワイン一種調味料として機能するため、食べ合わせ重要だ。

またワインプロファイル情報あるかないかも味を左右する。

ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見ワインしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。

逆に偽の情報表現かに補完してしまえば、コンビニ販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。

ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的規律として表現することはできない。

詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。

井上靖が「小学校教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。

その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。

どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときメンタル、いわば偶然の力だと思う。

渡辺松男太田美和が並んで歌壇掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。

失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会

先ほど、卒業してから詩どころではなくなったと書いた。

そのとき自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。


ところで、先日、Yahoo芸能ニュースをみていたら、TBSプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人俳句先生から5点と酷評されたと報じていた。

お題は「文房具」で彼女が読んだのは

消しゴムが 白き水面に ボウフラを

というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。

ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人俳句酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組演出脚本としてはそれがオチなのだろう。

演出もさることながら、これは、他の出演者俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。

迎え梅雨 紙端に滲む 友の文字

虹の下 クレヨンの箱 踊り出す

天王山 黒ずむ袖に 薄暑光

薫風や 隣の君と 教科書

こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。

バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージ作品クオリティが補完されてしまうのだ。

しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。

消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月番組文房具からまだ気持ちフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。

ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。

それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。

いかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。

一方で白い水面(ノート隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。

ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。

と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ

ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。

また、どんくさいもの弱者がボウフラというノート上のより小さい存在視線フォーカスする、という手法小林一茶方法とも通じるところがある。

番組の評者は、この芸人俳句酷評したうえ、次のような添削をしたという。

しかすはボウフラみたい夏休み

夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。

しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組からね。

ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界一種ルッキズムだ。夏休みかいって勝手おめかしさせようとするんじゃねーよ。

そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつ動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語川柳で身につけたものだろうからゆりやん一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。

300円でおいしく飲めるワインもあれば、駄作でも楽しめる作品もある。そういうことだと思う。

2024-05-09

anond:20240508133151

なかなかプレバトでは見ないタイプエモい俳句だと思うけど、短歌の人的にはどうなんだろう

2024-05-07

現代俳句面白い

夏井先生>>>>プレバトに出てる芸能人>>>(越えられない壁)>>>芭蕉とか一茶とか柿食ってる奴←コイツらマジスキル低い

俳句進歩しているから後発の方が有利と思うかもしれないが、クラシックは今でも聴いてすごいと感じるし、ルネサンス画家だって才能を感じる

国内でも和歌は今読んでもすごいと思う

貴族文化からというわけでもなく、庶民文化である浮世絵も独特な世界観を作り出しているし古典落語面白い

マジで俳人だけ過去の奴らのスキルが低い

それが俳句のいけないところだと思う

芭蕉や一茶の俳句ブラインドテストしたら評価クソになりそう

プレバトに出ている芸能人の方が名前を隠して俳句バトルしてるから俳句能力高いと思う

anond:20240506061423

ゼミでやらされながら短歌俳句自分にゃ無理だな!!!となった者だけれど,大事なことは古今和歌集仮名序が既に全部言ってるんだなあ……と思う今日この頃

やまとうた(漢詩ではない、和歌)は人の心を種として,万のことのは(葉)とぞなれりける。

(やまと歌は、人の心の動きを元にして、様々な言葉になったものである

世の中にある人事業しげき(繁き・繁樹)ものなれば,心におもふ事を,見るもの聞くものにつけてい言ひだせるなり。

(世のなかにある人は、事象が沢山あるので、心に思うことを、見るもの・聞こえるものに託して言葉に表しているのだ)

ざっくりと言えば,少なくとも心情を情景に託すことが出来ていないか,それが(なるべく初見で)読者に伝わらない句は駄目っぽい。

この基準プレバト見ると才能アリ・ナシが予測できたりしてちょっと面白いおっちゃんは後者が苦手。

関係ないけど古今和歌集仮名序の種→葉→樹の仕掛けが歌論なはずなのに、ちゃんと"やまとうた"でとても好き

2024-05-06

anond:20240506092819

「戦って勝つために生まれた」なんて俳句に入れたらプレバト夏井先生は「ただの文章で詩じゃない!」ってぶち切れてるよな

短歌をやっている者だけど俳句って難易度ヤバすぎるだろ

どうも、趣味短歌をやっている兄ちゃんです

たまに俳句を作っては思う

俳句って難しすぎない?ってね

まずそもそも17音は短すぎる

これを入れたいな、例えば美味しかったを入れようとする。おいしかったは6音

17マイナス6音残りは11音、足りない

11音じゃすっごく足りないのだ

例えば私が好きなな短歌

野ざらしで吹きっさらしの肺である戦って勝つために生まれた」

これだって吹きっさらしで7音

戦って勝つために生まれたにしては14音である

後半の14音だけでもう俳句ほとんどの音数を

使ってしまっている、だから短歌は長い

俳句は短すぎる

それに季語が枷になるのもある

季語は5音、7音、それ以上いずれにしてもそこで

まず音数を消費する。

装備枠が決まっているのに、必ずこれは装備しなければいけない状態なわけで

そりゃ無季語俳句もあるにはあるけど、初心者がそんなことやったらただの川柳になるのは目に見えてる

から季語をどうかして入れてみるけど、入れたところで俳句にならない!ってのがよくある

から俳句は難しすぎるのだ

プレバトの才能ナシの俳句、例えば

満月に 煎餅重ねて 一対七』

こんな感じのだってまるでバカみたいだなと思うけれどこのめちゃムズの俳句と戦ってくれてると

考えるとそれだけですごいなぁと思うわけで

ていうかプレバトで才能ナシの奴は短歌をやれ

って奴がたまにいる。ムズムズする

短歌だったらもっとこの人うまいこと表現出来たんだろなぁって

から俳句をやっている、さらプロの方は

みんなすごい、あんたらはすごいよ

ここで昼餉真赤な夏の花佇つゆゑ

ちなみにこれが最近見た中で俳句ってすげー!!

となった一句です

2024-04-24

同居してるおっさんプレバト俳句ガチギレしてたw

席替えは窓側蜜柑お裾分け」

っていう子役の子が読んだ俳句があるんだけど

同居してるおっさん

俳句素人のガキがこんな俳句作れるわけない」

ヤラセだ!TBSのお得意の!」

「私だったらもっといい俳句作れる」って

ガチギレしてて、笑い堪えるの大変だった

いわゆる、才能ナシの弱者ってのは

こうやって、嫉妬するしか出来ないんだよなw

2024-02-25

才能をもてはやす風潮にゲロを吐く

プレバトという番組がある、芸能人のさまざまな才能を比較し、格付けする番組

私の知人はその番組お気に入りで、俳句特に好きだそうで、彼は俳句先生の元で学び、俳句を発表したりしている

私はこの番組が本当に嫌いなのだ

アートというものは、相対主義本質であり、つまり絶対的審美眼というもの存在しない

その作品を「良い」とする観点に立つことができれば、すべての作品を「良い」と言える観点存在することがわかる

バンクシーがいい例だ、多くの人はバンクシー作品が粗末で雑なものだと知っている

バンクシーが高く評価されるのは、マーケティングが上手いからだ

まり作品の質は相対主義によって決定されるし、番組作成者はそんなことは知っているだろう

「格付け」を行うというのは、アートには絶対的観点存在するという傲慢さを開陳しているに等しい

社会構築主義者たちが「社会専門家が高評価すれば、それが良さなのだ」と言っているように見える

アート相対主義であれば、格付けはアートの逆をいく行為だと気がつかなければならない

多くの人が「上手い!」と言えばそれが高価値意味するのか

かに、そのアートを作るために要される技術力というもの比較可能場合がある

しかしそれはアートの「格」ではない、あくまで「観点である

そして番組は「こんなに上手いものを作れるなんて、彼らはとても才能がありますね」と言いたげのようだ

あるいは逆に「こいつはこんなに陳腐作品を作って、恥ずかしいですね」とも

こういう競争の態度を私は「軍拡競争」と呼ぶ

時間と金をかければかけるほど競争上のトップに君臨できる方式のことだ

有吉の「フォーナイト」の番組を見たが、この番組も優劣の勝負のためにゲームプレイ時間を自慢していた、馬鹿げている

話は外れるが、この番組視聴者プレイヤーに「底辺Youtuber」という人が参加して、底辺というものを嫌うような言い方を芸人がしていたが、そういう態度も大嫌いだ

Youtube軍拡競争であり、時間と金をたくさんかけた人々が「自分には才能がある」と言いふらすために努力していないフリをする

極め付けは銀行CMだ:「卒業したらやりたいことがあります。挑戦したいの。夢見た場所に立ってみたいの」

ふざけるなよ?お前の夢の軍拡競争のために親が命をどれだけ削ればいいんだ

高卒で十分だろボケナスが、大卒肩書がないと社会でやっていけないと思っているクズどもは、結局物事を「ハック」するだけの知恵がないんだよ

そう、本当に賢い人は軍拡競争ではなく「ハッカー」の精神を持っている

軍拡競争バカは、自分努力否定したくないという理由で、「才能のない奴はダメだ」とか見下したことを言って圧力をかける

こいつらがどれだけ金と時間を費やしてその地位を手に入れたかと思うと、「才能」なんて言葉はむしろ似合わないだろう

ハッカーとはどんな人間

ハッカーとは、コンピュータ犯罪者のことではない、それはクラッカーという

ハッカーとは、物事を楽しんで習熟する人々のことだ、ITには限定されない

そしてハッカーはくだらないルールには縛られない

卒業したらやりたいことがあります」といって金の力に頼るような奴は、ハッカーではなく、自称インテリである

自称インテリは、自分知識の正しい使い道をしらず、ひたすら時間をかけて暗記型知識を獲得し、その後学歴を得ることで自己満足に浸っているゴミのことである

こいつらはハッカーの逆方向にいるので、軍拡競争に苦しみを感じないマゾヒストである

そう、つまりハッカーとは、軍拡競争に苦しみを持つ一般庶民ことなのだ

この点を理解すると、いかに「才能」を無視して生きるかが、精神時間・金を浪費しないために重要であるかがわかる

子供教育投資して、将来軍拡競争成功者になりました!と発狂する人間が増えるほど、社会は窮屈になる

こいつらは努力サンクコストを捨てるつもりがないので、感謝もせず、傲慢に「私は才能があります」と言いふらす

 

悪いことはいわない

ハッカーになれ、それが楽に生きる方法

2023-06-29

anond:20230629081948

「心洗われ」なんて陳腐なことを言わずに情景を描写することで心が洗われたことを表現しないといけないんだよな

俺はプレバト見てるから詳しいんだ

2022-11-04

anond:20221104212933

ちょい過去のことを言ってる

その言われた番組はしらん

風通しっていうか妙に型にハマってて遊びがないなと感じる

ケンミンショーとかDXとかプレバト

2022-06-02

たまたまテレビつけたらプレバトやってた。

フルポン村上俳句夕立や 楽譜カンマ 書き入れる」、すごくストンときて、好きだと思った。

雨の日、カフェで雨の音、聞きながら本を読むのが好きだけど、俳句をみて、雨の音が聞こえてきた。

なぜだろう、ドビュッシーを想起した。

2022-05-01

更年期のしわわ反省会

更年期のしわわ」一瞬で猛攻撃にあって消えたね。

それが更年期のひとに、「更年期」ってことだけで猛反発くらったので

更年期女性が中心であろう反月曜日のたわわの怒りを買ったけど、

更年期のしわわの最大の反省点は「更年期のしわわ」がおもしろくないことは明白だ。

月曜日のたわわ

更年期のしわわ

わわ

リズムが似ている以外の共通点がない。

ダジャレとしてのレベルが低い。

ひいてはユーモアがない。これが致命的。

「人を傷つけるのにユーモア必要か?」

という疑問には「必要」と答える。

なぜかというと人を傷つける言葉不快な人よりそれを面白いと思う人が多い分にはそちらのほうが勝つからだ。

誰かがどれだけ傷ついたとしても関係はない。みんな他人の痛みより自分面白いことのほうが大事から

多数決論理。これが民主主義

これはとくに思想信念関係がないところが平等であり残酷なところだ。

たとえばネトフェミブサヨネトウヨ、ここいらはすべて自称してきたわけでも明確な命名者がいるわけでもない。

自然発生ユーモアがあるから浸透した。

最近でいうとチー牛。これは命名者がいるし、あまつさえも明確なモデルもいるがもう誰も覚えてはいないし定着している。

チー牛も反対者はいたし残酷だと声はあがった。実際命名者はけっこう痛い目に遭っている記憶がある。でも、結果、そこそこの定着をみせてはいる。

なぜならチー牛という言葉が多くの人に腑に落ちてなおかつユーモアがあるからだ。もちろんおもしろおもしろくないの個人差はあるが、多数の意思としてチー牛はおもしろくて使いでがいい言葉として現在でも使われている。

翻って「更年期のしわわ」はどうか。

40代以降の女性が「月曜日のたわわ」の広告不快を示しているという記事から、「更年期」への連想。そしてたわわの反対として造語であるしわわ。どちらも共通キーワード老い単刀直入にいうと芸がない。プレバト俳句添削的にいうなら同じ意味の重複でありみるべきものがなさすぎる。

いいたいことや方向は正しい。だけど完成度が低いとただ不快だし反論をくらうと一気に沈んでしまうという悪例として胸に刻んでおきたい。

そう考えるとネトフェミ以降、ああい集団を呼ぶいい言葉がないままだし、ネトフェミ個人的には的確ではあるがおもしろさがない。

次は天才が現れるか奇跡が起こるのを待ちたいところだ。

2021-04-09

納得イカないこと

中小企業環境活動とかで無駄な紙印刷減らそうみたいなことやってる一方で、

プレバトっつーTV番組でどでかい紙をシュレッダーにかけてゴミにするのを毎週放送してること

考えた俳句却下されるだけでも気分悪いのに、それを大量の紙クズにするっていうパフォーマンスのためだけにそんなことやってる

ほんとゴミ

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