はてなキーワード: 一志とは
私には「自分らしく生きるって何だろう私って何だろう」と無限の思考の海に投げ出される言葉がある
そして、もし今私と同じ「自分らしさ」について悩んでいる人 、苦しんでいる人にヒントになるかは分からないけれど何か悩んでいることや苦しんでいることの出口に繋がると嬉しい
私を思考の海に投げ出す言葉とは「⭕⭕さんの分も頑張って生きないとね」というような類いの言葉である。(この⭕⭕に入る名前は殆どの確率で亡くなっている人の名前である)
私がこの言葉をかけられるようになったのは10年前母を亡くしてからだ
私はこの言葉をかけられると「私は母の代わりなのか?母は母なのになんで私が母を背負わないといけないのだろう」と当時も今も思ってしまう
この言葉をかけてくれる人は、落ち込んでいるであろう私を励ますために言ってくれたのかもしれない もしかしたらなんと声をかけていいかわからずに出た言葉がこの言葉でそれで言ってくれたのはかもしれない
その人を亡くして落ち込んでいる人になんと声をかけたらいいかわからない気持ちはよくわかる
しかし「母を亡くしてこれから頑張っていかないと!」と思ったことはあっだろうかとも思う ても「母の分も頑張って生きていかないといない!」と思ったことは1度もない
やっぱり私というフィルターを通して
「母」という存在を見られているようでどうも居心地が悪い
そもそも私がどこまで生きたら母の分を生きたことになるのだと思う
それと同時に私は母の分も頑張って生きないといけないほど今頑張っていないのか 私が母の分も頑張らないといけないほど母は頑張って生きていなかったのか?
私には特技という特技はない しかしたったひとつ言えることがある
それは「どんな困難に直面しても力強く生きてきた」ということである
私の今までの人生はまだ短いけれど、それなりに山あり谷ありな人生を送ってきたと思う
小学生の時には母を亡くした他にクラスの半数から苛められたこともあった
中学校では一時期 思春期故の心と身体の不安定さで学校を休みがちになった
実父には暴言・暴力を浴びせかけられ育児放棄され虐待を受けた 今も親子関係が上手くいかずにほぼ絶縁状態にある
正直 このまま死んでしまって大好きな母の所に逝きたいと思ったことは幾度となくある
しかし 私なりに頑張って周りの人に助けられながらも乗り越えてきた
苛められても小学校に行くことをやめなかった、中学校を休みがちになっても塾の勉強には一生懸命に取り組んで第一志望の高校に入学をした 父親に育児放棄されたことで自分で生計を立てるしかなく働きながら学生をしている もちろんこれからも不器用ではあるが持ち前の強さで生き抜いていくつもりだ
次に私が母の分も頑張らないといけないほど母は頑張って生きていなかったのかということだがこの答えはNoである
母は私が生まれたときから亡くなるまで私に100%の愛情を注いでくれたそして最後の最後まで病気と闘っていた そんな母の人生を頑張って生きていなかったなんて言わせない
ここまで書くとだいぶスッキリとした気がする
私は負けず嫌いで意地っ張りで頑固で不器用である 正直人付き合いが上手なタイプではない
しかしこれからもきっと今までどおり周りの人に助けられながら不器用なりに強く生きて行くと思う
最後の最後まで頑張って生き抜いた母の分は頑張る分がもう残っていないので頑張ることは出来ないが、自分自身に残された私だけが頑張ることができる残りの人生を他のひとが頑張る分がなくなるまで頑張って生き抜きたい
次に母に逢えるときには胸を張って母みたいに最後まで頑張って生き抜いたと言えるように母には天から私のことをこれからも温かく見守っていてほしい
しごとがすごくつらくて
やることなすこと裏目にでるし
何度も同じ間違いして周りの人にも迷惑かけてるし、信頼も失っているし、
自分の考えていることが全て間違っている気がするし、
コミュニケーションばかりの仕事なのに他人の気持ちを絶望的に考えられないし、
自分が何をがんがえているか自分でもよくわからなくってこんな要領得ないことしかかけないし、
毎日泣いてるし
でもここで逃げたら一生後悔しそうだし、周りにも迷惑かけているし自分が自分を相手する立場だったらうざいなーと思うだろうし
こんなことここに書いてるのも完全にかまってちゃんだし、こんな予防線書いている自分にも嫌気がさすしこれも予防線じゃん(以下無限ループ)
つらいです
第一志望の会社に入って、大企業ではないけど自分がやりたかったことびっくりするぐらい合致していて、
自分のしたいことを会社全体で目指しているのに、それと自分の今やっていることが結びつかなくて、
そもそも自分がそれをやりたいことだったのかと違うなら自分のアイデンティティを失って
でも漸く経済的な安定も手に入れたのに。
続けるのも辛いしここで辞めたらもっとつらくてつらい
先輩達をみてきて、苦労してきたんだよって話をきかされて
自分も頑張ればいつかああなれるかなって思ってそれを希望にしてきたけど
そもそも自分が頑張ることができないし、今までの人生で苦労してきたのもそれが原因だし、
結局心根が腐ってるんだよねって結論にたどりついているのだ
つらい
あーーーもーーー
とりあえず1ブクマ目はセルクマするからこれが軽くバズってホッテントリとか入ってブクマとかトラバとかくれないかなーーーーくれよーーーーーー他人の主観的な感想がききたいよーー
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(追記)
思ったより優しいコメ多くて泣きました。厳しいコメも含め、色々な考え方あるんだな、と少し楽になりました。ありがとうございます。
今出向中なのですが、先週末本社で評価面談があり偉い人に全部話したら、全部聞いてくれましたありがてえ…。上司が出向先との間に入っていただけることになりそうです。
週末東京に帰って、久々に会った同期や友人と遊んだりして、気持ちが楽になりました。
慣れない環境にずっといたことで、視野が狭くなっていたなと距離を置いて思います。
とりあえず、また落ち込まないようにしたい。
瞑想は何度やっても寝てしまうので親に勧められた気功のスワイショウやってみます。(上半身をひねってブラブラするやつ)
ありがとうございました。
かつて中央の大型私学にいて、現在は地方国立にいる大学関係者です。偏差値の議論がどこぞで上がっていますが。何処にとも書かずに心のなかにあった2つのお話を。
特に地方の大学にいると、それなりにかなり優秀な学生がいる。それこそ2つくらい上のランクを狙えるような。で、なぜ現在の大学にかよっているかを問いただしたところ、親が一人暮らしを許さなかったからという理由が多い。第一志望に落ちたからという理由はあまり聞かない。親が一人暮らしを許さないってのは、少し前までは女子学生に多かったのですが、最近は親にカネがないからか、男女問わず聞くセリフです。
偏差値はその学校に合格する最低ラインです。状況によっては偏差値以上の学生がゴロゴロいる大学も存在します、ってことは受験生らに伝えたい。
多くの予備校が公表する偏差値は、一般入試合格者数です。とくに大型私学を発端として、現在では国立を含む、多くの大学で、推薦、AOなどの複数回入試がとり行われています。
推薦、AO入学生の学力はその大学の偏差値には反映されません。結果どうなるかというと、推薦、あるいはそれに類似した名前の一般入試もどきを乱発させることで、一般入試の枠を狭くすることにより、一般入試の倍率を高めて一般入試合格者の学力を高める、ひいては偏差値を高めることができます。関西のR大学が率先して行ったこの方法は、いまや全国区になっております。
ちなみに推薦、AOで予め合格者を囲うのは、文科省の締め付けによるところも大きいです。文科省は定員より入学者が1.2倍(この数値は今後変更)を超えたら予算を減らしにかかります。なので、推薦、AOで予め入学者数を確定したいという意図が大学にもあります。
私学の場合は国公立の結果次第でかなりの数が逃げられます。そのことを考えると、一般入試合格者数はかなり年度による振れ幅が大きいので、そんな面倒なリスクを取って文科に睨まれるのはヤダという発想です。
で、ぶっちゃけ推薦、AOで入ってきた学生ってのは大学に入ってからがアレなので、内部者としてはできれば減らしたいのです。ただ上の理由があるから一筋縄ではいかない模様。
で、まぁ何を言いたいかというと、偏差値にはかなりの誤差があり、また実際の学生の幅は大学により大きく異なるということです。あまり教条的に見ないほうがよろしいかもしれません。
保活や待機児童にはそこそこ興味があり、ここ数日で来年度の保育園に入れるか否かの記事が多く、自分の事例も誰かの参考になればと思い書いてみます。
本来ならブログや細かい情報を出すと有効性が高くなると思うのですが、ブログを持って無く具体的に園の名前がバレることなどは避けた方が良いと判断し増田に書かせていただきます。
http://anond.hatelabo.jp/20160218153103
http://anond.hatelabo.jp/20160219081617
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160219/k10010415541000.html
http://otokitashun.com/blog/daily/10445/
http://www.tayutae.com/howto-enter-nursery/
結果が良かった人、悪かった人、その客観的な分析のどれを読んでも正解があるわけではないのですが、現在の保育園事情に歪みが発生していることはよく分かります。
その歪みの中でたまたま有利な方に転がった人の話です。
ダブルインカムだが、私の年収は平均より高め、妻の年収は低めで結果として普通のダブルインカムより少し低い水準。
一子目は4月生まれと言うこともあり、11ヶ月で0歳児クラスに入れました。
逆に二子は3月生まれで1歳児クラス一発勝負で結構ぴりぴりしました。
結果として二人とも自宅付近の同じ園に入ることができました。
一方で認可でも不人気園は結構入れる。というくらいの競争度がある区です。
ちょうど、一子目が生まれた直後に部屋が手狭だったので引っ越しましたが、
家賃などを見ると隣の区の方が安いのですが、保育園競争率も高く結果として今の区にしました。
一子目の時は、多分に漏れず保活をしました。いくつかの園の見学をさせてもらったり、散歩がてら様子を見たりしていました。
また、一回だけ市役所にも話を聞きにいきました。
お役所詣という記事もありましたが、そういう理由で無く単に保育園の指数の仕組みがわかりにくいので確認しに行きました。
・同点の場合どういう判断になるのか?(答えは納税額の安い順とのこと)
・両親が育児を補助できるという判断はどう行われるか?(両親は都内在住と埼玉在住だが仕事をしていたり療養中でありできない可能性は考慮されるのか否か)
などを聞きながら、書類不備にならないような方法を考えるインプットにさせてもらった。
二子目は事前に区役所から聞いていたので、書類出すだけ。(二人目の加算点もあるのでなんとかなると思っていた)
結局は家から最も近い保育園が登園が楽と言うこともありそこを第一志望として、かろうじて通園できる範囲で2-3希望まで書いて出しました。
入ってみると、得点や年収状態を鑑みると真ん中くらいでした。(シングルの方も居ましたし、専業主婦に近い自営手伝いの方も居ます)
私の例で言うと完全に立地が自分に有利に働き、保育園に入れたと言うことだと思っています。
通っている保育園の概要ですが、遠くからわざわざ通わせようとは思わないと思います。
・延長保育が短い
この記事に感化されて10年ぶりくらいに日記を書きたくなった。
産んだばかりの赤子を置いて遊びに行く事もままならないから、そんなTLが楽しいわけもないしおおよそ素性をふんわりさせることが
暗黙の了解になってる(それが心地よくもある)女オタという特性がらリアル生活や育児の愚痴も書きづらい。
久々に日記でも書こうと思ったのはそれもある。
3月生まれ、0歳クラス何それ美味しいの?といううちの子に来た1歳クラスへの通知は「保育室内定」だった。
保育室…「待機児童を解消するための緊急対策として平成21年度から区が整備している認可外の保育施設」
主に待機児童の多い1歳児・2歳児向に認可保育園とほぼ変わらない金額で入れる認可外保育園くらいの規模の施設だ。
認可保育園の1歳クラスは当然のように落ちた。むしろ保育室も落ちたと思っていた。
なんで同じ申込書に書いた保育園と保育室の合否通知を2倍の送料かけて2通に分けて寄越すのか意味がわからないが
(そのせいで最初に開けた「認可保育園落選」通知で保育室も落ちたと思いその旨家族に伝えた後に2通目の封書に
気が付いて呆気にとられたものだ)とにかく「緊急対策」には引っかかった形だ。
「フルタイムで立派に勤め続けて子供も作った、そんな自分にこの仕打ちか」とはとてもじゃないが言える立場にない。
なぜなら私は昨年の秋まで無職だった。
「妊娠を機に」以前の会社を辞めた事にしているが、正直な話上司と折り合いが悪かっただけだ。
今通っている認可外保育園には到底通えるわけもないような額面だった。
実際「育休取ったけど認可保育園が決まらず結局辞めざるを得なかった」社員もいたという話を聞く。
そりゃ、あの給料で認可外通わすなんてどだい無理な話だ。
というわけで当初は「しばらくは働く事を考えず育児だけすっか」と考えていた私だったのだが、
減っていく貯金額を見ているうちに心のバランスが崩れ、突然就活を始めた。
表面上、保育園はフルタイム労働者だけでなくパートタイマーはもちろん、就活中の人だって利用できる。
だがそれだと当然「ポイント」が足りないから入れるわけもない。
11月の申し込み時点でフルに働いている実績が無いとだめだというから。
結果としてなんとか秋の間に仕事を決めることができた。契約社員だけど。
すぐに入れる認可外保育園を見つけてきた。電車で通う距離だけど。
以前勤めていた会社の人にも「あなたは社会人に向いてない」とすら言われた。
でも生きないといけない。
結婚式で親戚に「お前が結婚できるなんて」と面と向かって言われたくらいの私が、だ。
正直自分が良い母になれる自信も無いし上記のとおり主婦適性もないから、
三十路前に結婚したけどアラフォーになるまで子作りは待ってもらった。
そして何よりも私も夫も一人っ子だ。
「もう逃げ場が無い」
子作りにあたりそう思ったのは事実だ。
夫は正規雇用でフルタイム労働者だ。しかし悲しいくらいに給料が安い。
給料が安い以外はすごく良い夫だ。よくこんないいとこなしの私と結婚したなと思う。
出会った当時は今の倍の給料があったので「給料が安いから選択肢が無かったわけでもない。
今の仕事は少なくとも当時よりはずっと楽しそうだしやりがいもあるようだ。
私は再就職にあたり夫より100万多い年収の会社を決めてきた。
これでとりあえず「若年貧困層」から「中流以上」の世帯年収にはなった。
もちろんいつ切られるか分からない身だけれど。
というかそもそも「社会人に向いてない」と言われるくらいのポンコツなので多分来年には切られると思う。
そうしたらまた就活だが、それについては自分のせいなので仕方ない。
「保活」
なぜ当たり前のサービスを当たり前に受けるだけなのに「活動」が必要なんだ。
メディアは待機児童問題に絡めて面白おかしくこの言葉を取り上げる。
しかしその内容はすっかすかだ。
見学なんて「保活」じゃなくて普通のことだ。そもそも何十か所なんて数、どう考えても現実的に通えない場所も含まれている。
そしてメディアが言えない本当の「保活」はここにきちんと書かれていた。
絶対にやりたくない。
そういうわけで私は保活を一切しなかった。
…と、ここまで書くくらいだから自覚もしてるんだけど、私は「意識の低さ」ならぴかいちだ。
少なくとも「総合職でバリバリ働き納税してきたのに保育園に入れない働くお母さん」には到底及ばない。
「こんな意識の低い母親がいるなんて」と思われるのは何より子供に申し訳ないから匿名じゃないと書けない。
そんな意識の低い私だから端から認可保育園に受かるなんて思っていなかった。
ただ「受かる思っていなかった」ことと「実際に落ちる」ことは話が別だ。
そして保育室には内定した。
【今通っている認可外保育園】
・月8万5千円△補助金3万円=月5万5千円
【内定の出た保育室】
・月5万円△補助金3万円=月2万円
なんだよかったじゃん、意識低いくせに運だけ良すぎだろ…でもいいことばかりじゃない。
まず保育室は緊急対策施設のためか延長保育が無い。18時30分完全クローズ。
定時は18時。周りに頭下げながら定時ダッシュしたとて30分で保育室まで着けるわけもない。
そして2歳が終わると同時に卒園。一定の「卒園点」(笑)がもらえるとはいえまた吐き気のする「保活」を
視野に入れなくてはならないのかと思うと缶チューハイ開けたくなる。(授乳時期は過ぎました)
今は仕事があるけど非正規だし来年には無職になるかもしれない。そうしたらまた若年貧困層に逆戻りだ。
半認可ながら保育園は決まったけど、現実問題として本当に働きながら通えるか分からない。
我が家の未来はいつまでも不透明だけど、子供ができたら後戻りはできないわけだから、
まずは明日食べるご飯代を稼がなければならない。漕ぎだした車輪を止めたら親亀も子亀も転んでしまう。
生きよう。
…ところで私が住む杉並区は、数年前「お母さん一揆」が起きた事で有名だ。
もちろんそれでもまだ全然足りていないわけだが、実は今回内定の出た保育室はこの2年の間にできた施設だ。
あの時頑張ったお母さん達のお陰で、少なくともこんな生きることだけに必死なポンコツにもギリギリ手が差し伸べられた。
どこかでお会いすることができたらその点は本当に心からお礼を言いたいし、今後私にも何かできないだろうかとは思っている。
http://anond.hatelabo.jp/20160218153103
ここまで徹底はしなかったけど、都内で娘二人を認可園に入れた。
・最初の娘は12月生まれで、0歳児保育に入れるに忍びなかったので、1歳から入れた。
・近所の園はすべて0歳児保育で定員を使い切って1歳ではもう定員オーバーと言われ、そこで対策開始。
・1歳の定員も開かないわけではない。社宅地域とかだと、転勤で時々定員が空くので、虎視眈々と狙っておく。
・私が住んでいる地域は、夫婦ともフルタイム・正社員が当たり前なので、持ち点はみなイコール、そこからいかに上積みできるかが問われる。
・待機期間が長かったり、兄弟姉妹が在園しているとポイント上積みがあったりする。
・同じ点数でも、保育の助けになる祖父母がいると不利なので、気を付ける。
・最終的にうちの場合は、近隣の区役所4つを回って、区内の保育園の空き状況と、今後の整備計画をヒアリングした。
・整備計画で大規模拡大が見込まれる保育園があったので、住所をその保育園の近くに移し、半年以上前から待機の状態にしていたら、当選。
引越しはきつかったけど、どうせ賃貸暮らしなんだから、出金は引っ越し代だけ。それで入れられたのなら安いもんです。
医学部5年です。正直、自分の分身か?と思うほど境遇が似ていて驚いた。
両親は主婦と会社員で、自分はもともと医学部には一切興味がなく、なんとなく法律とか商売に興味があったから法学部か商学部かなんかに行きたい、安定性も考えて弁護士か検事かなあ、と思っていたけれど、親から弁護士になっても仕事がない!と言われる。高1までは文理すら決めていなかったのだけれど、恐らく担任教師が医学部もいいんじゃないかとか言ったせいで乗り気になったのか、医学部を進められる。いい大学に行っても就職でき(るとは限ら)ない、医師免許さえあれば医者になれて将来安泰、などと乗せられて医学部受験、1校だけ運よくか運悪くか引っかかり入学。浪人はしたくないと言っていたので滑り止めに理工系を何校か受けていたけれど、よく考えたら私が行きたい大学学部はひとつも受けさせてもらえてないんだよな。
高校のときは何度か医学部行きたくないって大喧嘩もしたけれどその話題を出すたびに贅沢だなんだと親はキレるし丸め込まれていた。
合格したときは、そりゃまあ喜んだんだ。受験勉強きつかったし報われたとは思った。まあ志望校ではないんだけれども(願書も全部親が書いてて二次試験で初めて訪れた大学である)
しかしまあ1年のときはいいけれど学年上がるたびに退路を絶たれていくようで、どんどん人生の選択肢が狭まっていくような気がして。医者になるしかないのか、なりたくない、でもなるしかない、学費高いし今更やめて他の大学を受けることもできない、死にてえなあ、こんなことで死にたくねえなあ。そんなことばかり考えていた。嘘だ、今もめっちゃ考えている。
何がつらいって、理解者がいないんだ。同級生は何浪してでも医者になりたいやつばかり、現役で受かって医者やりたくないなんて嫌味にしか聞こえない。他学部の友人には贅沢な悩みだと言われる。もちろん家族に言えば大喧嘩。辞めてどうするんだ、こっちだって苦労して医学部にいれてやったのに、お前の将来を考えて選んだのに、贅沢だ、、医者になりたくてもなれない人は沢山いるんだ!(私が受からなければ本当に医者になりたかった奴がなれていただろうが!)
でも。案外いるんだよ、無理やり医学部入れさせられた奴。周りに合わせて医者になりたい振りをしている奴も結構いる。貴方だけじゃない。
あと、両親に文句があるわけじゃない、自分に嫌気がさすって書いていたけれど。その気持ちも本当によくわかるんだ。
あの時もっと将来を真剣に考えて両親を説得していれば、ひとりで学費を稼いででも生きていく自信があれば、絶対にこの大学に行くって強い意志があれば、親に流されずに済んだかもしれないって後悔。
でも違う。貴方は全然悪くない。自分を責める必要はない。悪いのは貴方の親です。貴方は本当に運が悪かっただけなんだ。自罰的になるな。
……って書くと、親のせいにする罪悪感に蝕まれたり、親のせいにするな甘えだゆとりめって全然知らない人が石を投げてきたりするけど敢えて断定的に書くよ。
とりあえず今の自分の不幸は全部いったん親のせいって決めよう。
というのも、恐らく高校時代に貴方がどっっっれだけ論理的に情熱的にご両親を説得したところで、やっぱり一応医学部を受けてみないか、とかなんとか言われて無理矢理受験させられていると思うからです。たぶん第一志望受かってたとしても医学部も同時に受かったらそっちに無理矢理入れさせられてるぞ。毒親に論理は通じないと覚悟を決めましょう。
毒親って書いちゃったけど気を悪くしないでほしい。他人に自分の親を毒親って言われると薄々思っててもやっぱり傷つくよな。
本当に毒親かどうか確かめたかったら『毒になる親』 http://www.amazon.co.jp/dp/4062565587 を、騙されたと思って一読してほしい。kindleでも読める。ためし読み部分だけでもぜひ。自分はこれでちょっと救われたから。
増田はいいやつだから両親を恨まないようにしようと思っているんだろうけれど、問題の本質は医学部どうこうより親との関係だと感じたよ。
そんな嫌なら中退して再受験しなよ、とか簡単に言う人もいるけれど親の協力が得られないまま、被扶養家族の立場のまま大学やめて再受験は相当きつい。
下手したら家も追い出されるのでアルバイトで生活費+予備校費を払ってアルバイトのない時間に受験勉強、はかなり無理がある(そういう凄まじい人もいるんだろうが)アルバイトで時間も体力も削られるし。
卒業してすぐ別の大学院に、も割ときついと思う。親は反対するだろうから学費生活費はやっぱり稼がなきゃいけなくなるし、初期研修しないと医師免許持っててもだめなんだよね確か。研修医やりながら全然違う学部の大学院も通う、ってしんどいと思うんだけどどうだろう(身近にいないからわからないけれど…)
余計なこと書きすぎた。今私が考える選択肢は2つ。
1.とりあえず何とか初期研修まで終わらせる。
ライフラインを握られている以上、親の意思から本当に逃げることはできない。とにかく経済的自立して家を出る、それしか自由になる方法はない。
「説得」はもう、諦めたほうがいいと私は思う。親なんだからきちんと話し合えば自分の気持ちをわかってくれるかもしれない、って期待する限り何度でも裏切られて傷つく。
ここまでされても自分を育ててくれた両親だからって、私自身もまだ諦められなかったりするので、人のこと言えないけれどな。
医師免許は就職に役立つのは間違っていないと思うから、せっかく3年がんばったんだし取っておいたほうがいいと思う。医学部に在籍してるだけで苦痛だと思うけど、ここで中退したら高卒ニート、今までの努力は水の泡ってそんなの本当に死にたくなるぜ……。3年までストレートに来れたなら適性はあると思う。真面目だから医師になりたくない奴が医師になることに後ろめたさを感じてるかもしれないけれどもっと医者やっちゃだめだろって奴結構いるし、そんなに医学興味ないけど入ってきちゃったって奴もいる。地方の医科単科大は医学ガチ勢が多いだろうけど東京だとただ成績いいだけで入っちゃうんじゃないかな。今はそういう大学だから周りとの温度差に悩むかもしれないけれど。(うちもそんな感じだ……ああ、酒でも飲みながら増田と愚痴言い合いてえ……)
でも我慢して卒業するっていうのは、正気を保っていられるレベルだったらの話だ。「ああ~つれえ~~死にてえ~~ってか大学やめて旅に出てえ~~」くらいならまだ耐えられると思う。
具体的に自殺方法を考えるレベルだったら心療内科に行こう。恐らく入院になる。さすがに子供が精神病棟に入院したらご両親も「これ、選択肢間違えたんじゃね?」って気づく…かもしれないし…。
プライド高い親だとその事を恥だと思って悲しんだり怒り出したりするかもしれないが、それはそれで親の本質を見極められるんじゃないかな。。
長くなってしまった。睡眠と食事、あと趣味とか楽しみは確保して、とにかく自罰的にならないようにしてほしい。
しんどいこと沢山あると思うけれど、生きて。
逆に言えば、お金さえ稼げるようになれば自由に生きられるんだ。大丈夫、まだ20代、いくらでもどうにでもなる。
自分も増田の記事を読んで一人じゃないんだって救われた。だから、どうしても増田に一人で苦しまなくていいんだって伝えたかった。ありがとう、一緒になんとか生き抜こうな。
嫌なことを先延ばしにしてしまう癖がひどく、治したいと思っているが治らない。
思えば昔からそうだった。夏休みの宿題はいつもギリギリ。予習復習が嫌で先延ばし、テスト前にまとめて頑張る。成績は低空飛行。早めにやって、わからないところは質問しに行こう、そういうプランは思い描くものの、結局徹夜で勉強するから質問する時間なんてない。大学受験は1年余計にかかった上に第一志望には落ちた。
危機感を覚えたのは就職活動のときだ。ESを書くのがいやで、提出日当日になって書き始める。徹夜の挙句書き上がらず、午前中に別の面接に行ってから、午後の面接の直前まで、移動の電車の中でも、ESを書いていたこともある。宿題が出せないとかそういうレベルではない。ES出せなければ人生変わるかもしれないという重要な書類をきちんと余裕をもって作成できない不甲斐なさ。
さらに問題なのは、先延ばしにしてる間、決して他のことを楽しんでいるわけではないことだ。1時間で終わる物事があるとして、さっさとやる人なら、1時間やって残りの3時間を遊べるところを、3時間嫌だなぁと思いながらぼんやりしたりごろごろした後で眠い目を擦りながら2時間かかってやっと終わらせる。さっさとやる人より苦しい時間は長いのに、評価も低い。
わかっているのになぜさっさとやるべきことを終わらせることができないのか?本気で悩んでいる。手帳に書いたり付箋に書いたりリマインダーにしたり、チャンクダウンしてTODOリストを作ったり、タイムログをつけてみたり、カフェに行ったり、図書館に行ったり、頭を使わない簡単なステップから始めようと試みてみたり、時間を決めてやったり。よくあるアドバイスはだいたい試してみたと思う。だけとうまくいかない。
いつかこの癖のせいで、人生が破綻するのではないかと思うことがある。もう心の病かなにかなんじゃないかと思う。どうしたら直せるのか、誰か教えてくれませんか。
私は現在医学部に在学中ですが、もともと希望していた進路ではありません。
小さい頃から機械やコンピューターにすごく憧れがあって、将来は技術者になりたいと強く胸に抱いていました。
そして大学受験が近づくにつれ志望校を絞りこむ際に、地方出身であったため東京に憧れがあったことや、また、技術者になることへの憧れから、都内の大学の工学系を第一志望にしました。
前もって両親や先生には通しておいた話だったので、最初は特に抵抗を受けずに自由に出来たのですが、いよいよ願書提出期限が迫ると、しきりに両親は医者や医学部への進路変更を迫るようになりました。
どうしても煩いため一度は呑む寸前まで行きましたが、やはり夢を捨てきれず、別日程で受験できる医学部へ出願する、というかたちで落ち着きました。
もともと「浪人は死罪だ!」くらいの圧力をかけられていましたが、まったく違う医者への進路変更を持ちかけられたことで少しずつ両親への信頼はこのときから薄らいでいた気がします。
第一志望の受験が終わり、フタを開けてみると不合格でした。正直まったく予想していなかった為、本当に精神が崩壊しました。しかし別日程の医学部は合格していたため、現役で医学部に行くか浪人するかの選択に迫られることになりました。
はじめ、両親は私の意思を尊重すると言ってくれたため、ギリギリまで考え抜き浪人を選びたい、そしてもう一度第一志望を目指したいと伝えました。
しかし、それを聞くやいなや両親の態度は硬化し、怒鳴る寸前のような口調で医学部を強く推してきました。
相当凹んでいたこともあり、現役で医学部に泣く泣く進学することになりました。
ですが、両親は私の意見を尊重してくれたのか、合わないと感じたら即決で辞めていいと言われ、両親に感謝したと同時に安心したのを覚えています。
一年の春が過ぎると、やはり違和感というか、異常な場違い感で心が一杯になり、6年間も在学して卒業できるか不安になってきました。
医学部は狭く特殊な社会ですし、ましてや単科大なので本当に絵に描いたような所謂「ムラ社会」です。医学部ですから当然、医学に一生を捧げる思いで入学した人たちばかりで、本来の自分の夢や存在意義が見いだせなくなってしまいました。
そのような状態なので、入学して早めの段階から、今まで何十回も頭を下げて再受験することを許してもらおうとしましたが、
「社会を何もわかっていない」だとか、
など色々説得され、一年、また一年と大学に残り続けてしまいました。
結果、もう三年目の冬となってしまい、後にも引けない状況になり全うに卒業し医師になる他、進路は絶たれてしまったように思えます。
しかし、現状、医学の勉強が進めば進むにつれ違和感は消えるどころか大きくなりますし、医師になりたくないと心の底で思ってしまう自分に嫌気が差して本当に辛いです。
別に再受験を許してもらえなかった親に文句があるわけではありません。まず進学の段階で自分の意思をはっきり通せなかった過去の自分や、ずるずると今の大学に居残ってしまった今までの自分に後悔というか、悔しいというか、兎に角自分自身が許せないのです。
高校の同級生は浪人をした者も含め大半が大学に進学しました。目をキラキラとさせながら夢を語り、大学生活を楽しんでいる彼らを見ると心が痛くなります。
私は所詮甘ちゃんです。自分を責めても何も生まれませんが、ふとした拍子に色々な感情が頭をめぐり、消えて無くなってしまいたい願望に何度も襲われます。
どうにもこうにもよくわかりません、悲しいです。
同僚の息子は、この冬、中学受験をするらしい。高校受験とは異なり、親が相当に拘束されてしまうので、彼もなかなか大変なようだ。
だが、大きな問題がまだ残っているんだ、と彼は言う。なんでも、同僚の第一志望校と奥さんの第一志望校とが異なっているとのこと。
なんで?と聞くと、奥さんの第一志望は確かにいい学校ではあるが、男子校なんだと。彼は、息子を男子校に入れるのは可哀相だから止めよう、こっちの学校は共学なうえにいい学校だよ、と奥さんを説得したものの、聞く耳を持ってもらえなかったと嘆いていた。
分かる、分かるよ、同僚。
なんで、女の人って、息子を男子校に入学させることに抵抗ないんだろうか。
中学受験ってことは、中高の6年間を女性と隔離されて過ごすわけですよ。多感な思春期の貴重な6年をまるまる。こんな生き地獄がありますか。息子さんはまだ小学生だから事の重大性を分かっていないでしょう。お母さんに「こっちの学校のほうがいいと思わない?男の子の友達もいっぱいできるよ」と言われたら、ああそうかなと思ってしまう。女子を意識し初めて、会話するのが少し恥ずかしくなってくる年齢でもあるし、男だけの学校生活っていうのも気楽でいいかな、と安易に考えてしまう。
まあでも、13、4歳になれば嫌でも性欲に目覚めてしまうわけです、男って生き物は。女の子とキスしたい、エッチしたい衝動っていうのは否応なしにやってくる。そんな性欲に衝き動かされるように、どうしたら女の子と仲良くなれるのかを悶々と思い悩むのが、中高生の男って生き物です。女の子と恥ずかしがらずに話ができた、そんな些細な出来事だけで、人生のステージを一段上がったような気分になってしまう年頃なわけです。こうした小さな体験を積み重ねて、時には酷く傷つきながら、男の子は男女間の作法や、自分の武器みたいなものを発見し、成長していくわけです。人生には、それぞれのライフステージにおいて積んでおくべき経験というものがあります。幼少期には親の愛が必要であったように、思春期には異性との交流が必要なんです。思春期に、同世代の異性と触れ合えるは学校生活しかありません。しかしながら、男子校では、異性との交流という思春期に済ませておくべき経験を積むことができません。息子さんは、いつまでも可愛い子供ではなく、これから大人への階段を昇っていきます。性欲、異性を求める心は否応なく湧いてきますし、それは決して悪いことではありません。むしろ、そこに蓋をしてしまうことが、息子さんの心身の発達、成長に暗い影を落としてしまいます。息子さんが同世代の女の子と接するのは、大学に入ってからになるでしょうか。そこで、息子さんは愕然とすることでしょう。周りの共学卒の男たちが気軽に女の子に話しかけていることに。息子さんは、まもなく成人になろうかという年齢で、ようやく、女の子と緊張せず会話するというミッションに挑むことになってしまいます。これは相当なハンディキャップです。女性であるお母さんには分かりかねるかもしれませんが、男は、じっとしているだけでは、何も始まりません。自分から、能動的に動かないと、女の子とは仲良くなれないのです。息子さんが、大学で気になる子にどうやって話しかければよいのか見当もつかず、もじもじしている間に、他の男がその子と付き合うようになっているでしょう。もし、息子さんの外見が良ければ、話しかけてくれる女の子はいるかもしれません。でも、息子さんの経験の無さに由来する自信の無さ(或は過剰なポーズ)にがっかりして女の子達は去っていくことでしょう。こうした負の経験を積み重ねて、息子さんは女の子と仲良くなることを諦めることでしょう。闇のようなものが息子さんの心と身体を覆い、息子さんは、自分の殻に閉じこもってしまうか、悪くするとネットで女性叩きに走ってしまうかもしれません。よしんば、大学を出て一流企業に就職したとしても、息子さんが抱えてしまった闇は晴れません、誰からも愛されず、愛することのない人生を送ります。
分かりましたでしょうか。人生はいい学校に入ればそれで万事良しというわけにはいきません。親に出来るのは、息子さんの人生をトータルで俯瞰し、より良い選択をすることだけです。もう一度、よく考えてください、お母さん。
進学校に通う女子高生です。数学が本当に苦手で小学校の2桁の割り算とかからつまずいてた。なんとか高校までだましだましやってきた。
高1のときに「今数学を捨てたら成績は下がるばっかりだ。あきらめずに続けるのが大事」というのを口酸っぱく言われ続けモチベーション、モチベーションと第一志望にはレベルの高い国公立大学を書かせられ、そんな中で勉強してきた。
2年の夏には第1志望は締め切り後で行けなかったけれど第2志望のオープンキャンパスまで行った。数学だってわからないなりに質問したりして、定期テストでは頑張れば80点も取れるくらいになった。個人的には赤点スレスレからは成長したなぁなんて思ってた。
高2、冬。三者面談で、サラッと
って言われた。たぶん三人の中でその言葉に引っ掛かったのは私だけだと思う。2年の初めに言われたかった。ずっとずっと数学から逃げたかった。でも今まではそれを許されなかったし、捨てない私は頑張ってるって思ってた。
国公立だって数学が2次でいらない大学はいくつかあるし、私自身、学部を確定しているわけでもなく、数学を捨てて希望の大学に行くことはいくらでもできた。
数学を捨てなかった間はもう数学以外をおろそかにしても数学を人並みにもってくるように努力してた。
でも、数学いまになって捨ててもいいって、私は、どうすればいいんだろう。
あと、一週間もなく卒論の提出期限が終わる。
単位は、一応ギリギリで申請してあり、よほど大ヘマをしない限り卒業はできる見込み。
でも急に、この四年間がなんだったのかわからなくなってしまった。
サークルはそこそこ真面目にやってそこそこの結果は出した。
授業もそこそこ真面目に出て単位は取ってきた。
暇な日はバイトを詰め込んで小銭を稼ぎ、6カ国ほど行ったし国内旅行もした。
恋人は出来なかったけどその都度好きな人とは遊んでセカンド処女も卒業した。
うん、まぁフツーーーの大学生だった。
不満はないけど、二回目の大学生やりたいかって言われたら絶対嫌だ!
JKだったときのほうが心も生き生きして、いろんなことが気になって、いろんなことに文句つける元気があった。
これが成長なのかもしれないけど、いまは何に対してもふぅん、の一言で終わる。
その一瞬一瞬を必死に生きてたことに違いはないんだけど、なんだか、よくわかんなくなった。
あと三ヶ月、何しようか?
本読みたいな。
旅行したいな。
そのためにバイトしなきゃな。
映画も観たいな。
ああ、忘れてた。
今好きな人に、ちゃんと会いたいですと伝えなきゃいけないんだった。
うーーーん、大学生終了まで、何したら良いかな。
まだブスを自覚してない小学生のころ、友達から私ちゃんってすごい美人だよね!と褒められ、ああ私って可愛いんだあ、ブスの人って可哀想(笑)とまで思っていた。
性格もブスだった。
自分は可愛いんだ!と意気揚々と意中の男子に告白するも、当然のごとく振られた。
ブスだからだ。
それでも私はまだ自分のことをブスだと思っていなかった。
ポジティブスだった。
ブスだとやっと気付いたのは中学生のころ。
ずっと逃げる方法を考えてて、ここのサイトで遠い高校に行って高校デビューしそのままリア充な生活を送っている女の人の文を見た。
これだと思った。
女の人に倣ってストレートもあてた。
それだけで幸せだった。
ほんとにかっこよくて、しかも私のことが大好きで、こんなブスを可愛いと言ってくれた。
今思うと、はたから見るとイケメンとクソブスがいちゃいちゃしているところを見るなんて、おえげろものだろうと思う。
私は当然このまま結婚するんだろうなあ♡なんて思っていた。
ブスのくせに。
まあ当然のごとく振られた。
元彼はモテモテで、もうすでに私と比べたら橋本環奈とハリセンボン春奈くらい差がある可愛い子と付き合っている。
死にたい。
ブスは誰からも愛されない。
愛されたい愛されたい愛されたい。
今(25歳)は全く見なくなってしまったが、中学生の時は寝る間も惜しんで深夜アニメを見ていた。
後にも先にも睡眠時間を削ってまで何かに没頭したのは深夜アニメと受験勉強ぐらいだ。
周りに深夜アニメを見てる奴が多くて、家も学校もアキバに近かったから土日はいつも自分家や友達の家でアニメを見たり
ゲームをしてはアキバに行ってショップ巡りをしていた。しかし、その生活も中学卒業と同時に終わった。
親の勧めで進学校に進学したからだ。中学の友達の大半は近場の公立高校に進学してのんびり過ごしているようだったが
自分は元々あまり勉強が得意ではなかったから勉強についていくのに必死でそれまで通り中学の友達とアニメを見たりショップ巡りを
している余裕がなかった。夏休みも親の田舎に帰ったり、予備校の夏期講習に出るため中学の友達と遊ぶことはかった。
いつの間にか友達から誘われることもなくなっていた。1年また1年と過ぎてあっという間に高校3年になり頭の中は受験のことでいっぱいだった。
年が明け、程なくして入試を迎えた。友達からの遊びの誘いを断り続けて勉強に専念した所為か、無事第一志望の大学に受かって受験は終わった。
受験は終わったが、友達から連絡が来ることも自分から連絡をすることもなく完全に疎遠になっていた。
大学に入ってからも勉強やサークル、バイト、恋愛で忙しかったし、大学の友達とも上手くやっていたから改めて中学の友達と遊ぶこともなかった。
そうこうしている内に4年間はあっという間に過ぎた。あんまり就活にやる気が出なかったがどうにか内定を貰えて就職した。
それから1年また1年と経過して今に至る。仕事にも慣れて余裕が出来た。先日、実家にある中学生の時に買った本とかCDを処分しようと思って整理を始めた。
本当は良くないんだけど、ただ捨てるだけじゃもったいないし、残しておいたほうがいい物もあるだろうと思って読みつつ、聴きつつ整理をしていた。
当たり前だがどれも10年以上前のものだからどれを読んでも何を聴いても懐かしい。
聴いているうちに自分が中学生の時に友達と集まってアニメを見たりゲームをしていたこと、アキバのショップ巡りをしていたことを思い出した。
別に今の今まで記憶から抜け落ちていたわけではない。でも、無我夢中で勉強した高校時代、いろいろなことに熱中した大学時代、
仕事は大変だけど楽しい部分もあって友達も彼女も居て幸せな今の自分よりも数倍、
数十倍は楽しかったであろうどうあがいてももう一生戻ることも取り戻すことも出来ない過去の自分がいることに気づきなんとも言えない寂寥感に襲われた。
今の時代第一志望に入れずイヤイヤやっててリストラされる人のほうが多いだろ
そういうのを簡単に論じるのは頭が足りてないと思うよ
乙女ゲー片手に、たまにそう言ってしまう私だけれど、実は違うのだ。
ついつい好きなのに乙女ゲームにそう言ってしまう私はきっと万一、三次元に彼氏が出来ても
周りに彼氏の悪口を吹聴する嫌な嫌な女なんだろうなあと自己嫌悪する。まあ彼氏できるビジュアルじゃねーんだけど。
私は俗に言う「変な子」だった。
赤より青が好きだった。小学校の頃、写生会のためクラスで画板を買うことになった際
赤と青の二種類が選べたのだが、私は青がいいと青を買った。
が、ほかの女子は全員赤だったため、届いた画板の色が一枚間違っていると騒ぎになった。
別に男性願望があったわけじゃない、サンリオの白い魔物シナモロールにどハマりしていて、
そのシナモロールのイメージカラーが水色だったため、赤より青がナウいと思ってただけ
そんな些細なことなんだけれど、そんなことが重なって、だんだん、だんだん周りと食い違ってきた
正直小学生の私はそこそこ可愛かったんだ 今は見る影もないけど
正直小学生の私はとっても優秀だったんだ、全校朝会で褒められるくらいには
いじめられたよね
いろんな頑張った手柄とか横取りされたよね
今では見る影もなく屑になった私が、いろんなこと理解した私が
「ああ、かわいそうだなあ昔の私」って思うくらいには、色々された。
あのころみたいに純粋じゃないから、いま「いじめられた私」は私じゃなくて
遠いどこかの可哀想なひとだと思ってしまう。思い出しても一ミリも悲しくならない。
まあこんなこと書いたけど、やっぱり「変な子」の頭角は幼稚園、いや乳幼児の頃から出てたんだ
うちのお母さん、私のこと、とっても大事にしてくれてた。今でも大好きだ。
私は幼稚園の頃、遊んでるおもちゃをそれであそびたいと言われたらすぐ譲るし取られても気にしないタイプだった。
「こんなに弱かったらこの先どうしようもないわよ。うちの子みたいに強くならなきゃ」ってイヤミを言って来た時に
「優しい子を優しいまま育てて何が悪い!」ってちょこっとキレてくれたの、本当は嬉しかった。
うちのお母さんは、私を「にこにこ、ぽやぽや、やさしい良い子」に育てた。ちょっと家ではわがままだったけど。
人と違っていいって言ってくれた、私が青い画板が欲しいと言ったら「本当にいいの?」と一度聞いただけで買ってくれた。
私も「人と違う自分」に自信をもって生きてた。
いじめられた時も、一緒に戦ってくれた。お母さんは当時ストレスで禿げた。
3、4年の担任の先生はうまく対処してくれたんだけど、5、6年の時の先生がま~いじめの対処下手で下手で
何故かHRで教壇にいじめた奴じゃなくて、私を出してどーたらこーたらしたりまあこれ以上言うと愚痴になるわ
って調子だったんだけど(当時の私はふええ><って感じでピーピーしてたけど今思うと色々酷い)
でうちのお母さんときめきメモリアルが好きだったんだけど(超唐突)
ときめきメモリアルGSっていういわゆるときメモとは逆の逆ハーしてる
主人公が女でイケメン攻略する恋愛シュミレーションゲーム、PS2で出てた
出てたの気がつかないで数年経って、古ゲーム屋でそれを発見した母、中古で買った
母、もちろんハマった
母は私にやってみ?って勧めるけどあれR12だから当時11歳だった私はできない
リメイク版がDSで出てたから、それを12歳の誕生日に買ってもらうことにした。
ごめん 恋色沙汰に一切首突っ込んだことないんだ
ときめきとか言われてもわからない 友人とそういう話したことないから
恋の話とか、マジでわからない、っていうかいろんな話友人と話しても「共感覚」できない そもそも友人が少ない
スーパーミラクルハイパースペシャルゴーイングマイウェイで生きた12年間(最後の3年くらい淘汰されてたけど)、
対人能力は5くらい(標準を100として)
葉月珪「・・綺麗だ、おまえ。・・・。・・・このまま俺と・・・。なんでも・・・。 」
葉月珪(作中の王子様キャラの男性)サイコーーーーーーーーーーーって感じに
なるよね、ならないか、少なくとも私はなった
これが恋のときめきか、これが、これがときめきかって胸に手を当て考えちゃったよね。
これが、物心ついてから初めて「周りと同じ感覚」を掴んだ瞬間だった。
今まで恋愛漫画を読んでもほ~~んよくわかんねえって思ってた、でも違うんだ
みんなこの胸がギュっってする感情を!!!あーいう漫画読んで!!感じてたんだな!!!!!!!!
わかったぞーーーーーーーーーーー!!!!!理解した!!!!!!
その日からときメモGSは私のバイブルってか世間ってこうなんだ~とか一般常識の判断基準になったし
「人と共感する為の感情の指標」はだいたいときメモGSから学んだ、自由に生きすぎてて全然足りなかったそのへん、ときメモGSで補った
ときメモGSがあったから、私はいま人の子として生活できてる。価値観的な問題で。
ついでに言うと、絵柄若干古いなって思ってたけど、あの、甘い言葉囁かれるのは、まんざらでもないというか
なんというかこう、初めて理解した「ときめき」がゲームの中の完璧超人(ハーフモデル無気力)だから
理想ガン上がり
恋愛できない
でもときめき感じたい
乙女ゲー祭りだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
でも止められないんだ、あの胸がきゅっとなる感じ、もう一回どうしても感じたい
刺激が足りなくなって ヤンデレに走る中学校2年 おまえは おまえは薬物中毒者か
そんなこんなで箱入り喪女の完成だーーーーーー!!
某国立のちょっぴり高校と違うところに進学して知り合いの男女のドロドロ見て、さらに三次元嫌悪が悪化
男女比5:1の学校に通ってるけど 彼氏できません 嫌悪とか以前に 美容に力入れなすぎてそもそもフェイスがやばい
ソシャ系の乙女ゲーに成績大打撃 そして屑になる そしてひねくれる 純粋に育った分、ものすごいひねくれが16歳で来た
びっくりどっきり屑してる 寝て起きてTwitterやってソシャゲしてまとめブログ見てるブスしてる
でも、お母さんに孫の顔見せたいんだ。ついでにお母さんにいつか超楽させたいんだ。お母さん、大好きだから。まあ、元凶でもあるけど。
化粧もするから 美容に気をつけるから あとこれからクソみたいに勉強して成績超あげるから ソシャゲ系乙女ゲーやる前より成績良くしてみせるから
部屋もきれいにするから、貯めてたレポートもすぐ出すから なんか なんでもやるから
お母さん、絶対見てないだろうけど、あの、がんばるから、応援してね。
4年生の終わりに転校してきた私に、唯一、話しかけてくれる子だった。
転校して間もない頃に一度だけ、A子ちゃんの家に遊びに行ったことがあった。
狭い団地だった。ふすまに水色の丸い紙がたくさん貼ってあった。A子ちゃんのお母さんによれば、座卓でA子ちゃんに勉強をさせて、できないとお母さんが座卓ごとA子ちゃんを蹴るのでふすまに穴があくのだという。しょっちゅう蹴るから穴だらけ、とお母さんは笑っていた。お母さんはA子ちゃんに中学受験をさせて『いい学校』に入れたいそうだ。
私は親に叱られることはあっても蹴られたことなんかなかったからかなりビビった。
5年生になるころから、靴や傘がなくなったり、体育の授業中に机に置いておいたメガネが壊されたりするようになった。
そういえば、少し高いところから飛び降りざるをえないように仕向けられて骨折したこともあったっけ。
親にも担任にもA子ちゃんが犯人だとは絶対に言えなかった。骨折も自分のドジということにしておいた。
親や担任に言ったら、A子ちゃんのお母さんにも話がいくだろう。受験の内申に響くからA子ちゃんはまた蹴られる。もっと酷い目に合わされるかもしれない。A子ちゃんの家で見た、たくさんの丸い水色の紙が頭を離れなかった。
我ながら単純でお人好しな発想だ。でも子供の考えることなんかそんなものだ。
で、中学受験は、私は第一志望の学校に合格した。A子ちゃんは、受験のギリギリまで成績が伸びず、かなり偏差値の低い学校を受けたが不合格だった。二次募集などあちこち受けたが全滅だったらしい。
中学受験が終わったあとの小学校生活はひどかった。クラスには他にも中学受験失敗した子が何人もいたから、そいつらからもいろいろされた。
勇気を振り絞って、親に「学校に行きたくない」と言ったら、何も理由を聞かずにあっさりOKされた。厳しい親だと思っていたから意外だった。親なりに何か感づいていたのかもしれない。それから卒業式まで一度も登校しなかった。