はてなキーワード: 応用数学とは
もうかなり前です。
留学した当時は,その大学はスポーツ推薦はありませんでした。それが誇りでもあったと聞いたことがありますが,さすがにコンファレンスでいい成績が出ない。僕が帰国してからだったと記憶しますが,スポーツ推薦を始めたようです。
ただし,その大学だけじゃなく,最近バスケットボールで留学した渡邊君も言ってましたが,学期ごとに成績がある基準を下がると試合には出られなくなります。
ですから,そうなりそうな学生は,同級生の中からチューターを雇用して(もちろんお金がかかります),夕食後に図書館などで深夜まで勉強を教えてもらっていました。スポーツができるだけでは卒業はできない仕組みです。
さて,講義レベルのことですが,まず米国の入試では,共通テスト (SAT) 等以外に筆記試験がありません。
つまり日本の一般入試というシステムではなく,日本のAO(今の総合型)入試が,米国入試を真似たシステムです。
そして,共通テストの内容は,日本人の高校3年生が受ければ,多分簡単です。中学校レベルに毛が生えたくらいだと言われることもあります。これは,米国の中等教育の
しかし,SAT の成績がいいから合格するってわけでもありません。MIT も昨年度までは,入試の合否で SAT などのスコアを使っていませんでした。つまり面接や応募書類の中身で合否判定をしていたわけです。
しかしとうとう,今年からだったか MIT も共通テストのスコアを参考にすることになったようです。
秋ごろの日本の全国紙に,ハーバード大学が調査した大学卒業率の記事がありました。
米国の全国大学平均で,卒業率は50%,つまり二人に一人は退学になって卒業できないんです。これが入試に筆記試験が無いからなのかどうかは,記事には書いてありませんでしたが,さすがにハーバード大などの研究型大学の卒業率はもちろん90%を超えます。当たり前です。
さて,そういう事情ですから,例えば米国の研究型大学1年生と,東大の1年生に,東大の理科 I 類の1年生の数学の中の線形代数の試験を受けさえると,東大生が80%は合格するのに対し,米国大学の学生は20%しか合格しないかもしれません。
僕は留学先で,試しに1・2年生を対象とした複素関数の講義の一回目に(ひやかしで)座ってみました。日本の大学の数学の講義よりも丁寧で,分かりやすいです。
ところが60分の講義が終わった途端にひとりの学生が挙手をして質問しました。「先生,この時間内でしょっちゅう出てくる i って何ですか?」です。
日本の大学生なら,文系の学生でもこの発言にはびっくりしますよね。
つまり虚数単位を知らない学生が,世界大学ランキングで東大よりも上位の大学の1年生に,少なくとも一人はいたわけです。
これが,米国の高校までの教育目標と日本のそれが異なることの一例ではないでしょうか。
ところが,例えば工学部3年生以上の講義科目の内容を日米で比較してみましょう。ほぼ同じです。実際僕は,その両方を履修していますから,これは本当のことです。
僕の知人が勤めている日本の旧帝大工学部のある学科は毎年のように優秀な学生で英語で不自由しない3年生を,1年間の交換留学させていて,米国で取得した専門科目の単位を持ち帰ること(読み替えること)が可能でした。
ところが,東大よりもランキング上位の大学に留学した旧帝大学生の成績があまりにも悪いということが数年続いてしまいました。
講義内容は,3年生なら日米ではそんなに違いがありませんが,quarter 制度のあの詰め込み講義と毎週の宿題と,応用問題が出される期末試験でいい成績をおさめられないってわけです。
卒論は,オプションです。やる学生は圧倒的に少ないと感じましたが,これについては統計も何も持っていません。
僕が勤めていた大学では,工学部3年生の応用数学や力学などの一部の講義をすべて英語で実施しています。
これは,交換留学の公式のプログラムに,欧米やアジアの成績がいい3年生が半年か1年留学受け入れがあり,その学生が,日本人に提供している講義を一部だけ全部英語で実施しているものです。
僕の英語があまりにも上手だからでしょうか,日本人の学生には不評な講義でしたが,日本人の学生も80%は70点以上をとります。80点前後にピークが来ます。70点あたり
最近、我が老境において、喜びの種となりつつあるのは、ビックバンセオリーを眺めることでござる。
インテリ気取りのオタクの愚痴っぽい振る舞いが、滑稽さを誘い出し、わが老眼に微笑みをもたらす次第である。
シェルドンなる輩は、ひも理論の奥深さに耽溺し、しかもデニスキムの出現以来、中東問題解決と称して、何やら意味不明な提案を披露し、微妙に差別的な言葉も交えておる。
年を重ねても理解に苦しむ世の謎は尽きることなく、これが老いというものかと、我が老いびれた心に感じ入りたり。
さて、余は昔より数学の魅力に惹かれ続けてまいりました。
あまりにも純粋な数学よりも、応用数学の方が余には心地よいものでござる。
したがって、利潤を最大化させんが為に必要な推薦システムの機巧に興味を抱く次第でござる。
ユーザー、プロバイダー、システムの三者関係を形式化し、マルチステークホルダー問題として考察すれば、トレードオフの難しさが浮かび上がってくる。
システムの運用を最適化すればするほど、マッチングの機会均等性が損なわれるという難しい事態が生じる次第でござる。
この機会均等の欠如が引き起こす長期的な悪影響として、プロバイダーの離脱が挙げられる。
しかしながら、絶妙な場合では単価競争が巧みに行われ、我が利益も増進するであろう。
サービスの価値が低ければ低いほど、プロバイダー離脱の危機が高まる。
なぜなら、サービスそのものが他社と競争しており、「そんなに高いなら他のところへ行きます」との言葉が飛び交うのでござる。
故に、効用だけでなく、公平性も見逃すべからざる重要な要素となる次第でござる。
話は変わり、老齢においても脳の活性化を促す趣味を模索しておる次第でござる。
何よりも自分が楽しむことが第一であるが、たとえばチェスとヨガを比較し、どちらがボケを防ぐに効果的かを考察せざるを得まい。
多くのエビデンスが示す通り、運動は脳の活性化に寄与するものである。
まあ、美しいお尻を手に入れることを目指してみるのも悪くはないかもしれぬな。
文系学問は文系でもできる範囲で発達しているに過ぎないと思う。
物事には理系にしかできない論理構造というのがあって、それが必要なものについてはいまだ解明されていないと思う。
文系の論理はなんというか線条的なんだ。ああなったら、こうなるという論理。雨降って地固まるというような思考様式さえ理解できるなら片がつく。双方向的な論理もあるかもしれないが所詮は一次元のなかでのUターンに過ぎない。
俺はディ二の定理もガウス積分も「理解できない」ことで完全に理系の素養がないと悟った何者かである。
https://mathlandscape.com/dini-theorem/
たとえば上リンクのディ二の定理の説明に使ってるグラフによる関数列の定義が理解できない。
fn(x)についてfn(2/n)=1とは一体どういうことだと言うのか。
xについて解けばn=2のときx=1らしそうだがそれってどういうことなのか。つまり関数列のxを固定して数列としてみたfn(1)についてn=2のときの項は少なくとも1だということになるがそれ以外のnについても項が全く不明ではないのか?
ガウス積分も同様だ。どうしても変数変換のところで理解が追いつかない。rとθが同時に動くような状況を理解しなくてはいけない。高校の置換積分とは理解に必要な脳のスペックCPUでいうならbit数が根本的に違う。
ようするにこれらは変数の数の問題だ。文系の論理は変数でいえば一個の変化を辿っていくようなものでしかない。
しかし理系のそれは二個以上が容赦なく変化するような論理の流れを追えなければ理解が追いつかないということになる。
しかし私のような人間は一つの変数についてたどろうとするとそれ以外の変数に対する考慮がおろそかになってしまうような理解しかできないのだ。
この状況は絡まった糸で例えられるかもしれない。糸の端が外側に出ているという前提であれば、複数の糸がそのように絡まった糸玉に対してある端から辿ってその糸の別の端を探すということはできるはずだ。
理系がやばいのはこの辿るという作業を二つ以上の糸に対して同時に行えてしまうようなところにあるのだと思う。とてもじゃないがワーキングメモリーが足りねえよ。
つまり二つ以上の変数を一挙に思考の範囲内に収めてみんなまとめて辿れてしまうんだ理系ってのは。
応用数学を解いたり、初等的な計算が早かったり、フラッシュ暗算が得意だったりというところだ。なかには理系以上の計算力を持ってる人もいる。
しかし理系もみんなそれなりの計算力はあるのである。大事なのは、計算力があるなら理系であるとは限らないこと。百ます計算や公文式で得意げになってる子供に理系としての将来を期待するのは早計なのだ。
だって俺でもガウス積分を使わなければならない問題でも一定の演習を積めば答えの法則をそれとなく察してパズルのように解けるようにはなってしまうと思うから。高校数学の延長上の応用数学はみんなパズルである。ナンプレと大差ない。パズルとして解こうとする限り計算問題はみな線条的な論理理解力があれば事足りるのである。
しかし原理的な理解がなければ既存の定理を発展させることはできない。
実は文系という人間にありがちと思われるのは、正しく新しい定理を証明までできた気になって得意げになってるか、既存の定理について延々と具体的な数値を代入してみたりして納得を試みようとするが一般的にそうだと言えることについてはついに何度人に教えてもらってもいまいち理解には辿り着けないかのどっちかだろう。
前者は無知の知すら弁えてない傲慢な人間、後者は合理的な知性主義によって既存の知性となんとかすり合わせを行おうとしているがそれができない、という違いだ。
ちなみにツイッターに棲息していがちな、法律の話で独自解釈をしているのにそれに気づかない人間は前者である。
やや急進的な言い方かもしれないが、位相集合を基盤とした数論幾何をはじめとする現代数学と一部の物理以外はだから文系なのである。理論や主張を腹落ちするのに複数の糸を同時に辿れるような能力はいらない。
というかそういう人間しか研究に携わってきてないから、そこから出力される理論もその程度なのだろう。理系の頭をもってしか理解できない領域が人文社会科学にもあるならば、それについてはいまだベールに包まれたままなのかもしれない。しかしなぜか真の理系人間の誰一人として文系学問には進まないか、文系学問において理系脳をフル回転させようとしないのだと思われる。
dorawiiより
Aさんの目の前には2つの封筒X,Yがあり、X,Yのどちらかにはもう片方の2倍の金額が入っている事だけが分かっている
さて、AさんがXの封筒だけ開けたら中には1万円が入っていた
Yの中身が5000円である確率が幾らなのか設定されてないんだから
じゃあここで「5000円である確率を幾つに設定するのが適切か?」なんて考えをする事も出来るけど
こうやって現在の数学は数学的な設定が不十分の問題には「分からない」というしか無い学問になっていて
どういう設定を与えるのが適切かというのは数学以外の学問でやって下さいとなっている
設定が与えられた時に答えを導く事に全力を注ぐ事で、答えを導く方法が洗練されてきた歴史が数学にはあるから
一方で統計学や医学では上記とは違って「問題の設定をどう与えるべきか?」も学問の中に入っているし
もちろん「設定が十分な時に問題の答えはどうなるか?」も学問の中で扱っている
まぁ数学の方も応用数学の方で問題の設定をどうすべきかについても専門的な知識を持ってる人がいる
理由は以下の通りです。
ところが、数学では実験により正しさを確かめることはできません。
(応用数学では状況が異なるかもしれません。)
そういうわけで、査読通過の際は建前上は正しさが前提になっています。
(もちろん、数学論文でも出版後に論文が訂正・撤回されることは珍しくはないです。)
以上が数学と科学全般について正しさの認識が異なるということの説明です。
→論点1
「出版された」という意味においては査読は終わったと表現して問題ないと考えます。
数学論文の正しさへの疑い(それは数学的な内実を伴っているように少なくとも表面上は見える)が表明されている中で、編集委員会がそれに対する何らの注釈も論文に付け加えない形で論文を出版するというのは、通常では考えられないことです。
→論点2
上述の論点1の通りですので、本件では論文の掲載は正しさを特に担保しません。
例えば、「フェルマー予想」では慎重な査読をしたことの当然の帰結として、査読通過が直ちに論文の(十分信頼できるレベルでの)正しさを意味しました。
一般論として、査読の「慎重さ」の度合いにより、査読通過が担保する論文の「正しさ」が増減するのは当然のことです。
→論点3
「皆無」というよりはむしろ、少数ながら存在すると表現する方が正確だと考えます。
もちろんその数が今後増減することはあるでしょう。
なお、zbMATH(やMR)で論文の根幹となる部分の正しさに疑義を呈するようなレビューが掲載されるのは非常に稀です。
総論として、本件が数学界ではよくあることなどでは決してないことは間違いありません。
以下は参考です(何か誘導したい結論があるわけではありません)。
本件についてredditでもしばしば議論されています(英語)。
(本件とケプラー予想の類似を指摘しているのではありません。)
この事例では論文が査読(出版プロセスとして)されなかった(雑誌に投稿すらされなかった)にも関わらず、複数の検証チームが自然発生的に検証活動を開始して、数年の内に正しさが確認されました。
数学(というか応用数学)で学ぶべきことは論理ではなく「現象を数学的に記述する」ということだと思う。いわゆる「文系」の人は往々にして数学の「公式」などを唯一絶対の真理みたいに思ってるんだよな。でも現実はそうではない。
数学のキモは現実の現象や構造をいかに数学的に扱える形に定式化するかであって、分かってない人には単なる事実の羅列のように見える公理も実際にはどのような現象や構造を記述したいのかという気持ちがあって作られている。例えば測度論的確率論の公理は「ある物事が一定の割合で観測される」という現象を数学的に記述するために作られている。それは公理系としてはもちろん無矛盾だけど、世の中にあるランダムな現象の全てを扱えるわけではない。実際量子的な現象は測度論的確率論の枠組みには収まらないランダムネスを持っているから、量子確率論とか代数的確率論と呼ばれる別の枠組みが必要になる。