はてなキーワード: フラストレーションとは
IT会社のマーケティング戦略と色々こなしてきた中で1つの法則を見つけました。
これまで出会った飯食うのが遅いやつは、
フラストレーションが溜まる一方。
逆に仕事が出来る人間は一緒に仕事をしていてすごく気持ちがいい。
そういう人間とたまに打ち合わせで飯に行くとやはり食べるのが早い。
中には飯食うのが遅いけど仕事が出来るという人もいるのだろうけど
しかし、上記は俺の主観なのであなたの異論があれば是非ともお聞かせ願いたい。
なんというか、最初見た時の印象が、俺の同類ぽいな、だった。勝手に見た目で判断してるだけなんだけど。
自分は、ゆうちゃんすげえ頭回るし、本人もそれを自覚してるな、って思ってたんだけど、同時になんかやらかしそうなやつだなーとも思っていた。
頭が回るけど、ツメが甘い故に周りに認められないタイプというか。
本人は能力が高いつもりなのに、周りはやらかしで評価するから、自己評価と他者評価がかけ離れていってしまう。それでフラストレーションが溜まっていく。
なんとなく最初見た時にそんな顔をしていたなーと。溢れ出るプライドの高さと、頼りなさ、総合すると「やらかし感」というか。
というのも、自分がまさにそういう奴で、それなりにコーディングはできるからプライド高いんだけど、そのくせに本当にツメが甘くてやらかす。そういう人間は本当にくそみそに言われる。
やる気のない人にやる気を出させるとき、精神論はひどく傲慢になることがある。
ポジティブな気持ちの押し付けは無理解を生むために、フラストレーションの原因となる。
当然クリエイティビティは下がる。
だから嫌いだった。
属人性を仕組み化でなんとかしようとしてきた。
けど、仕組み化でなんとかしようとするのは結局人を見ていないことになるのかな、って思った。
あと、そうして得たやる気って全然持たない。せいぜい3日。プロジェクトを無理して終わらせて燃え尽きる。それは決して幸せなことではない。とは思う。そんなんだから皆鬱になって手首きるんだろうって思う。
精神論が蔓延るのは即効性があるからだ。人間は、結構タフで、ムリをすればムリが通ってしまう。一時的には物凄い威力を発揮する。それが精神論だ、と僕は思う。
ただ、僕にはもう上手くやる方法が見つからない。僕の考える理想の創作環境は甘えに満ちたなんとも情けないものだったのかもしれない。人を見てなかった。苦しい、今までやってきたことは、無駄だった。
ただの愚痴
総括して言うと「会話に手を抜きすぎ」
これだけだと理解不能だと思うので少し説明する。
今から重箱の隅をつつくような事を言うが、重箱の隅も積もり積もればあふれ出すという意味で聞いてくれ。
「よく分かった理由」は「よく分かった」という言葉を引用して「その理由を教えてほしい」という意味の言葉になる。
つまり「『よく分かった』理由」と記すのが正しいのだが、
こういった言葉の遣い方は人が言ってもいない言葉を使ったとみなす決め付けの意味合いが含まれてしまい、続ければ続けるほどフラストレーションが溜まる。
単なる誤字だが、こんな事すら細かく印象を損ねる。
たった1文で2箇所もひっかかってしまっては、毎日会話してたらどうなるだろうか。
コミュニケーション上で起こる問題というのは、問題が発生したところには原因が無い。
まずは問題を蓄積しない会話を心がけるべきだと思うよ。
さらに
「時間を奪っている自覚はありませんでした」という事はわかっている。
わかっているから、指摘している。
オウム返しであやまるだけというのは「次も同じ失敗をします」と宣言しているようなもの。
この謝り方は相手をいらだたせるだけだと思うけどなー
先輩の気持ち、分からなくもない。
前職じゃバリバリやってたのに、職場が変わって仕事の進め方も変わって、自分の中でこう進めていったらもっと効率良いのにって考えはあるんだけど、業務をあんまり把握してないから自分が仕切るのも気が引けるって感じになるから、結局アウトプットはイケてなくって、自分の無能感を感じるんだよな。
しかも、自分の思うやり方を展開してたらもっと上手くいってたのにと思いつつ、実績出してない奴がやり方さえ上手く決まってたらっていう考えをするのは負け犬っぽいから、グッと我慢するフラストレーションなんかもたまっていく。
仕事って難しいなぁ。
橋下は都構想がどうの、法定協議会がどうの言ってるけど、支持率も落ちていつものケンカ殺法でなんとかしようとしているようにしか私には思えない。個人のフラストレーションで民意を問うだとかで選挙やられても仕方ない。他党が無視するのもあたりまえでしょ。その辺なんとかしてこそ政治家じゃないの。
だいたい未だに都構想が何ともわからんのも、橋下がどっかを敵にしてケンカ殺法かます以上の仕事をしないことに起因していると思うし、こんな一人相撲の相手する必要なんてない。
こんな立候補者見ても、「白票でもいいから投票行くのが大事」なんて言う人いるんだろうか。選択肢もくそもないのに。民主主義=投票でもあるまいし。
今まで成人して、色々思いながらも結局欠かさず選挙行って来たけど、今回は絶対に行かないでおこうと思う。
本好きの高じた結果、その購入物によって汚染された室内は、積読現象によって室内の壁際を、二周ほど周回したころから、家主は、危機意識をいだいた。購入欲求から出発した恒常的な床不足と家計破壊は、室内に家主の生息をゆるす状況ではなくなり、電子化は必然であった。
だからといって、本当に床が抜けてからでは、家主は、裁断機を運用し、自炊する力もなくなってしまうだろう。
電子書籍リーダーの導入は、家主は部屋とともに死にむかうのではないかという認識が、本好きからひろがった時に生まれて、電子書籍の購入が開始された。
電子化が開始されれば、すべての蔵書を均一に電子化させる、という家主の決意は、まちがいではない。
しかし、特例事項があったことが、その後の過ちをうんだ。家主が必要と認めた書籍は、部屋に蔵書できるという規定である。
条件はあった。
入手が困難な希少本と、画集のような今の形に意味がある書籍という規定である。
規定は、理想的にその理念を行使するということはないし、一般的な人びとの視点からみれば、床が、抜けていると見えないことが、この規定を拡大解釈して、運用されたのも当然である。
さらにいえば、本好きから産まれたビブリオマニアが、紙とインクのフィーリングを忘れることができるものではないからこそ、そこに、無条件に規定を無視したくなる思いがうまれた。
その欲求は、正しい。
しかし、ビブリオマニアのもっとも深い罪業は、積読の増殖が、室内環境と家計にとってもっとも危機的なものであるという認識を認知しないことにあった。
しかし、電子化は、その代償を家主みずから支払わなければならない時代であり、電子書籍時代とは、技術革新の時代でもなければ、祝福された時代でもないのである。
その認識から生まれたフラストレーションは、ますます本好きの人びと、ビブリオマニアたちに、物理本回帰の欲求に火をつけるのは、逆説的ではあるが、当然の帰結であった。
増殖した積読という本が、たえず回帰する形は、物理本でしかないという欲求は、ビブリオマニアの二重の罪業である。
しかし、床を完全に再生させるためには、千冊以上は処理しなければならないだろうし、千冊処理するあいだに、積読は、さらに増殖するだろう。
つまり家主は、すでに、蔵書全部が部屋におくことはできないと、覚悟をしなければならないのである。
これも、本好きには、容認できる認識ではないのだ。
しかし、現代は、すべての例外規定が排除されて、ビブリオマニアは、電子書籍リーダーに逼塞しなければならないのである。
『……でなければ、版元が起こした反乱も、あの時、死んでいったストアたちの霊もなぐさめられない……』
マスダは、そう思う。
お前が単に大根おろしっていう単純な物が好きなだけじゃん。。。
そりゃ、肉料理なんて焼いて食うだけ、ってレベルなら家でも出来るだろ。
でも、別に高いものじゃなくたって、例えばラーメンの豚骨スープなんてとてもじゃないけど普通の家では作れないじゃん?
「おいしいお店」という言葉を聞くと私は、「この人育ちが悪いんだな」と思うし、それが外れたこともない。
居るとしたらただただ食にこだわりがないというか区別すら出来ない人間だけでしょ。
あんたがそうなんだけど。
友達なんかが「おいしいお店を見つけたから」なんて言って一緒に食べに行った店が美味しかった試しがない。
テレビで紹介されていたとか、芸能人の行きつけだとか聞くと、そんなもんかなぁと思うけど。
もちろんおいしくないわけではないが、それより、もっとこうしたらいいのにと思うことが多い。
もちろん、プロに技能で勝っているとは言わないが、自分好みの味付けができる。
「このお肉、大根おろしかけて食べたいな」とか、フラストレーションをためないですむ。
そういう、食へのこだわりが特になかったり、家庭でちゃんとした料理を食べたことがない人だけが、
外においしいものを食べに行くようになるのだと思う。
「おいしいお店」という言葉を聞くと私は、「この人育ちが悪いんだな」と思うし、それが外れたこともない。
の二点が心に残った。風間八宏氏のサッカー解説は、常に、ああ、そういう所を見るべきなのか、なるほどという知的感動がある。
あまり、こういうことを言うのはなんだが、セルジオ越後は辛辣だが、結局どこを見ているのかよくわからない。ネガティブなことを言いまくって、弱いうちはそりゃ当たってるんだろうけど、結局何をどうしたら、良くなるのか全然わからない。
風間氏はフロンターレを率い、デポルキラー大久保に「ストーリー立てて話してくれるので大変わかりやすい」と言わしめ、キャリアハイのゴール記録へと導く。素晴らしい指導者だと思う。それは、評論家時代からそうだったように思える。
今はやべっちFCでテレ朝がすごくいいサッカーTV局になっているが、ちょうど10年前ぐらいはフジテレビだった。中田英寿がペルージャに移籍し、活躍しているその様をなんとも表現豊かに的確に、オフザボールから解説してくれたのが風間八宏氏であった。
Numberももちろんそう。最新号のスカウトの目というのも素晴らしい。どこまでもよく見ているし、俺が見た試合の中で評価した。評価される場所にいない人はもちろん入っていない。それも運だよ。みたいな事が書いてあって、軽い評論家の数字の羅列↓
http://sakabuta.jp/archives/34386778.html には、全く現されない、重みがあった。
10年前のサッカーでは、FWの決定力不足が絶望的であった。だから、批評家にも価値が(無いけど)あるように思えた。悪い状態のチームの何がどう悪いのか具体的に提示するのは、非常に簡単な事に思えた。
サッカーのようなゴールが入りにくいスポーツにおいて、決定力の無いサッカーほどフラストレーションを具現化したような状態はない。批評する人も存分に叩いておけばよかった。欧州を見よと、あれができてない。これもできていない。大体言っときゃあたりの評論家。
状況は変わり、若い才能が、世界へと飛び出して、徐々に形を作った。今や、ミランとインテルに日本人がいる状況である。この状況においても、数字の羅列で表現している人がいる。
Numberでは、今の日本の課題はDFであり、その課題は育成フェーズでの基礎がなっていない、ということになっている。いまの日本代表は細かいパスサッカーを展開し、昔のMF大国の良い所を、世界の風を吸収することでフォワーディングして、前線が強くなった。
攻撃的に日本が進化して、むしろDFが置き去りにされているというのは、面白い現象だと思う、日本は工業国家で、クリエイティブさが少ない、真面目な国民性という紋切りでは、そうは言い切れないだろう。DFが育成が遅れているのは、MF側→FWへという昔の決定力不足の記憶がそうさせていて、その創造的な発展の次はFWを抑えるDFの育成になるということを考えると面白い進化途中の日本が見えてくる。
先に進化したのはFWであり、選手である。次はDFが進化しようとしている日本のサッカー。色々よく言われる日本の画一ばった、おとなしい周りに合わせる工業国という姿はもう、論じるに足りない。
そんなのいらないでしょう。もしいたら、真っ先に退場願いたいものだ。
めんどくさいという思いを持つようになったのはいつ頃からだろうか。
明示的に「めんどくさい」とは感じなかったと思う。
自分が実行したくない行動に対して、
某かのフラストレーションを貯めることはあっただろうけれど、
それが「めんどくさい」とは感じなかったはずだ。
そもそも「めんどくさい」という言葉を知らないし、
いつからか、
そのフラストレーションは「めんどくさい」のラベルが貼られる。
また、
年を重ねた後の「めんどくさい」は
すなわち、
大人になった時の「めんどくさい」は
「めんどくさい」と言い訳して、
例えば、
「本を書きたいけれど、めんどくさいからやらないんだ。」
これは本質的には「めんどくさい」というより、
能力的に出来ないという意が濃い。
何か行動を起こさずにいる理由を、
「めんどくさい」に置き換えている人は、要注意だ。
よくよく見返すと、自身はすっからかんの脳なしで、
「めんどくさい」で気軽に言い訳している可能性がある。
そして、
すぐに「めんどくさい」という人は、
大抵脳なしだし、おおよそ脳なしのレッテルを貼られるよ。
そんなの言い訳にもならない。
ご指摘ありがとうございます。
前提の弱さ、特にそういった「サヨク」のひとがどれくらい実在するのか、という点についてはエントリーを書く段から自覚していますので、ご指摘への反論はありません。
ただ、僕の周辺にそういった人が多いと感じた事と、話の通じなさにフラストレーションを覚えた事が今回の日記を書いた動機です。「脳内」という批判は予想していました。
しかし、「どれくらい実在するのか」という疑問提起だけでなく、そんな「サヨク」の人は今はほとんどいないだろうというご意見を「左翼」的な立場の方からいただいたのは新鮮でした。今回指摘したような自己矛盾を内包する言説はやはり淘汰されて少数派になっているのでしょうか。
http://anond.hatelabo.jp/20130722230759
ホラ、君だって出来てるじゃん。
それがヘイトスピーチだよ。
気に入らない奴等を医師の診断もなく障害だと結論付けたくなってる。
しかもそこで言ってる「障害」は
労わりや斟酌の準備のためではなく、
馬鹿にしたり見下したりするためにそう言ってるよね。
気に入らない人物、団体、現象に対して、
建設的でクールな解決法模索のための思考・言動をとるのではなく
君を責めてるんでもない。
人間は動物なので、基本的な仕様はヘイトスピーチになるように出来てる。
高度な理性と自律性でのみ後天的にヘイトスピーチを離れることが出来るだけ。
離れられた人もうっかりしたり体調が悪くなったりすればすぐヘイトスピーチに戻る。
ただ君は自分のヘイトスピーチ性に自覚が無いのでそこだけは直すべき。
自分だけは綺麗とか思ってる奴は簡単に人を責めるようになるので危険人物だ。
君も俺もヘイトスピーチ。
数年ほど演劇に携わっていたが、色々な事情が重なって現在、演劇の2文字をみるのも嫌で嫌でたまらない状態になっている。
特に、金も人も時間も足りない小演劇界隈は、劇団を抜けるのにも相当覚悟がいる。
何でもそうだが、特にこういう表現系の活動は、よっぽど好きじゃなきゃ続かない。本当に。
昼もなく夜もなく、生活のすべてを芝居に捧げ、寝る間も惜しんで舞台に立つのが楽しい――そういう人間でなければ、あの界隈で活動を続けていくことは出来ない。
たとえ金がなくとも、創作さえ出来れば幸せ。そういう人でなければ向いてない。
寝不足の目をギラギラに輝かせ、狭い市民センターで稽古や、あるいはサイゼリヤで一番安いドリアをつつきながら打ち合わせをし、劇団評に花を咲かせ、チキンを1個ずつ分け合う。
そして3時過ぎに布団に入り、翌朝早くからバイトに打ち込む。夜にはまた稽古。そんな人間ばかりだった。
はっきりいって全員病気だ。
だが、本人たちにとってみればそれは、エネルギーに満ちた充実した生活なのだ。
ある日、自分の将来をふと考えた際、とてつもない虚無感に襲われた。
このまま生活していけるのか。一度考え始めると、不安はどんどん膨らんでいった。
結果、どんどんモチベーションは下がっていった。
もともと小演劇に疎かった自分は、仲間内のトークにもついていけていなかったのも辛かった。
やがてフラストレーションが積み重なっていった結果、日常で突然泣き出してしまうほどになり、結局その後、演劇活動から手を引くことにした。
これはきっと、演劇だけの話ではない。
あらゆる創作活動、表現のジャンルでも、貧乏を飲み込んで打ち込む覚悟がなければ、とてもじゃないが、続けていくことは出来ない。
ラッキーなことに、家が金持ちだったり才能があったり、そういう人はその分の補正がかかることもあるかもしれない。
もし、これから何らかの表現に携わろうと考えている人は、そこのところをよく考えてみるべきだと思う。
自分は貧乏でも続けていく覚悟はあるのか。それほどに病気であるか。
中途半端な意志と覚悟で、下手に表現へ深く足を踏み入れると、取り返しのつかない痛手を負う可能性がある。
それでも構わない、という人をあえて止めるつもりもないけど、
そこにいる関係者がどんな人たちなのか、どういう年代層の人がいて、どんな暮らしをしているのか。
話をよく聞いて、よく確認したうえで、飛び込むべきだ。
深く関わるのは、それからでも遅くはない。
表現を志す人にはまだ若い人たちが多いので、時間はたっぷりあると思うかもしれない。
自分の適性をよく考えて、限りある時を有効に使い、有意義と思えるような生活を過ごして欲しい。
予備校でいつも髪の毛を弄くって手が動かない生徒を退出させた - Togetter
で、なんか賛否両論なんですけどね。予備校にも大学にも行ってた人として思うことをつらつら書いてみようと思う。
結論から書くと、お金払って授業受けに来てる人に対し、髪の毛弄るくらいでその対価を与えないのってどうなの?っていう意見は大間違いだと思います。
お金を払って来てるの、その髪弄ってる奴だけじゃないんで。その教室内にいる生徒みんなそうですけど。
その髪の毛弄るっていう行為、隣の席の人もそうだけど、その生徒が視界に入る人間全員気になって集中できないんですよね。
ペン回し、髪の毛弄り、机とんとん妖怪、もう本当めちゃくちゃ気になる。夏とか修羅場ですよ。必死こいて汗かきながら受講しにきて、髪の毛いじってる人を視界の端に受け入れ続ける一時間半。あ、この時間は自分の過去の受講時間です。
鼻息荒いのとかはもう気を付けようがないから全然気にしないけど、上の三つって我慢しようと思えば出来るじゃないですか。
どう表現すれば分かりやすいだろう。映画館に行って、前の席の人がぺちゃくちゃ会話してるのと同じかもしれない。
その人達だってお金払って映画見に来てるんだし、映画を見る権利自体はある訳です。
でも、他にも同価格払って同じ空間に来て同じ映画を見に来てる人達いますよね。
すっごい気になりませんか?「話すくらいなら出ていけよ…」って苛立ちませんか?「集中できねえよ…」て思いませんか?「家で見ろよ…」って呆れませんか?
帰り道、その人の印象で「あー、この映画お金払ってまで見たのになあ」って後悔しませんか?
それがあるから、映画の前のマナーフィルムで「えいがーかんではおしずかに!」って注意を促すフィルムが流れるんだと思います。
喋っちゃいけないっていう厳格なルールがある訳ではなくて、そうしないと観に来ている人からのフラストレーションが爆発するからで。
貧乏ゆすりもそれに近いかもしれないですね、視界の端で何かしらの動きをされてるっていうことなので。
じゃあ予備校ではどうなのかって、そんなフィルム流す訳もなく。注意出来るのって、講師しかいないんですよね。
隣の席の人とか、後ろの席の人が「ちょっと、その髪弄るのやめてください」って注意したら、軋轢しか生まないですから。
でも講師が注意したことで、後ろの席の人は少なくとも「うわー、やっと言ってくれたよ」ってなったと思いますけどね。
件の講師の方と、受講生の方にだけ注目したら、「そんな髪弄るくらいで退室させんなよ」って思うかもしれないですが。もう少し視野を広げて、周囲の人達を自分に当てはめてみてください。
社会人の方は、取引先の人がずっと髪の毛を注視しながら髪弄ってる時に「ああ、この人って話聞いてくれてるんだなあ」って思えるんでしょうか。
http://anond.hatelabo.jp/20130619231753
モテるとかモテないとかではない。ただ無価値であり無碍に扱われることだ。
他人に価値がないのは誰だって同じだろう、ようはSEXしたいんでしょw、よく飛び交う言葉だが、まあそのとおりで、子供の頃の話だよ。
大人になればどうでもいいさ、社会的な我々は誰だって平等であり、自分の価値をアピールしなければ他人に関わることすら出来ないのだから。
強制的に半日、30~40の人詰めの箱のなかに閉じ込められて、共同生活を強いられる。社交辞令も保身も知らないために残酷で、動物のように群れを作る子供な。
居ただろ。何かにつけてキモいと言うやつ。
子供の遊びで、イジリだったのかもしれないけども。
黴菌扱い。触らないで、菌が付くからw
申し訳ない、存在して。
給食配らないで、触らないで、なんでそんな酷いことするの?
誰だってやっただろう。私だってやったと思う。清廉潔癖ないじめられっ子なんていないんだ。
確かに笑わなかった人もいたが、黴菌はクラスか学年に1人くらいなので、消毒される側から見れば誤差なのだ。
思春期。
だいたいルールがわかってくる。私のような人間は、人格の自由度が低いのだ。
気持ち悪い、存在が不快、デフォルトではそのように扱われている。
自然な成り行きとして、一等低く無碍に扱われる。
仕方ない。これはそういうことになっているのだから。別に差別でも偏見でもない。
従って私は、妖怪人間だった。
外形的な気持ち悪さから来る性的価値の低さという、社会性におけるディスアドバンテージを抱えているので、埋め合わせなければならなかった。
思春期同年代が構成する市民社会からの排斥を受けないために、彼らに要請された私を演ずる演技。
今で言うリア充、一段下げて一般的な未成年が、同年代の中で取る態度。
人並みに感情を表に出したり、遊んだり、色気づいたり、あるいは恋愛について話したり。
残念ながら、私の行うそのような態度は、思春期同年代にとって異物であり、共感の外である。
思春期とは性的な時期であり、それを通じて社会性を育む性徴期。
思春期の社会的な関わりにおいて性は重要であり、だからこそ保健体育は古くよりあり、最近では日本社会でもセクマイ概念などが教育に取り入られ始めているわけだが、しかしながら、セクハラ概念が示す事実は、自身の性的身分を超えた性的な態度は嫌がらせである。
運動会のフォークダンス、遠足の二人組、給食当番、席替え、班作り。
社会性も、性愛観念も未熟な時期に、同級生が露骨に示したその態度。
それは社会の要請であり、学童期よりも幾らか高度化した義務教育課程で学ぶ、ひとつの実習だった。
必要なのは、性的に老いること。オッサン臭いというか、ババアというか。
老人ではない。老賢とは別物だ。
完全に枯れているわけでもなく、しかし肉体は老いており、故に独特の醜さを発露する。
気持ち悪い性欲の象徴としての中年。
自らの不快さを理解しているからこそ、弁えを知り、抑制されて、節度を保った憐れな中年。
私は老いてはいなかったが、印象的に気持ち悪かった。
それに思春期らしい子供の欲求を捨てきれず、また賢さもなかったので、老人にはなれなかった。
明るく溌剌と多感な周囲について、人並みに感心はあり、またそう有りたくもあったが、表に出してはいかんのだ。
私には分相応な態度、人格が決められている。
私がどのような人間なら、理解しうる人間としてシンパシーが得られるか。
声に出す者も居たし、出さないものも居た。
やがてどうでも良くなる。
人間関係という蜘蛛の網に絡み取られて、私に向けられた他人の視線が、あるべき態度を規定する。
必要に応じて演じた態度が、人格として身についていき、成人する頃には私という人間性が確立される。
根底に身についたのは諦念であり、どうでもよさだ。
しかしながら、それでも時々思うのは、性的価値が人並みにあるものが羨ましい。
凡夫であり、賢くもない、一般的成人である私は、人生を冷徹に見つめる達観も得られなかった。
もちろんSEXに興味はあった。
だが、それより今は思うのは、子供の頃に子供らしく過ごしたかった。
思春期の頃に平均的な思春期らしく自分の日常を過ごせれば、もう少し、何か違ったかもしれない。
いや、私は平均的なのだろう。
私が送ってきた人生こそが、実にありふれた性的無価値者の日常だった。
幼児期から始まる社会での私の立ち位置が、私の内面を擦り減らし、予定された枠組みに相応しい人間性を形成したのだ。
あの頃諦念に師事しなければ、もう少し何かが違ったのかもしれない。
現実が過ぎ去り記憶になると、もっとうまく立ち回れたのにと後悔することがあるにはあるが、まあ、それよりも、私は随分頑張ったと思う。
はっきり言って、重苦しかった。
あの頃の私にはそうする他なかった。
これこそ単なる諦念なのかもしれないが、常に近くにあったが決して得られなかった同年代の日常は、私にとって眩しかったが、あれこそ他人の物であり、これが私の人生だった。
内面と演技のアンバランスの抑圧にフラストレーションを沸き起こしていた精神も、加齢によって安寧となってきた。
何かをこじらせているわけではない。
こじらせ系とは似て非なる、直道だった。