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はてなキーワード: フラストレーションとは

2014-05-22

飯食うのが遅いやつは仕事が出来ない?求む異論

当方東京都港区在住の起業家です。

社会人になってラーメン屋バイト投資不動産の販売、

IT会社マーケティング戦略と色々こなしてきた中で1つの法則を見つけました。

 

飯を食うのが遅いやつは仕事が出来ない!

 

これまで出会った飯食うのが遅いやつは、

 

どいつもこいつも仕事が出来ないので一緒に仕事をすると

フラストレーションが溜まる一方。

逆に仕事が出来る人間は一緒に仕事をしていてすごく気持ちがいい。

そういう人間とたまに打ち合わせで飯に行くとやはり食べるのが早い。

中には飯食うのが遅いけど仕事が出来るという人もいるのだろうけど

俺の周りに限っては仕事が出来る人間はみんな飯が早い。

しかし、上記は俺の主観なのであなた異論があれば是非ともお聞かせ願いたい。

 

最後に飯食うのが遅いやつの長所をあげておこう

2014-05-19

ゆうちゃんは仕事が出来ないタイプ

なんというか、最初見た時の印象が、俺の同類ぽいな、だった。勝手に見た目で判断してるだけなんだけど。

自分は、ゆうちゃんすげえ頭回るし、本人もそれを自覚してるな、って思ってたんだけど、同時になんかやらかしそうなやつだなーとも思っていた。

頭が回るけど、ツメが甘い故に周りに認められないタイプというか。

本人は能力が高いつもりなのに、周りはやらかしで評価するから自己評価他者評価がかけ離れていってしまう。それでフラストレーションが溜まっていく。

なんとなく最初見た時にそんな顔をしていたなーと。溢れ出るプライドの高さと、頼りなさ、総合すると「やらかし感」というか。

というのも、自分がまさにそういう奴で、それなりにコーディングはできるからプライド高いんだけど、そのくせに本当にツメが甘くてやらかす。そういう人間は本当にくそみそに言われる。

2014-05-01

http://anond.hatelabo.jp/20140501160733

独立したほうが、そのへんのフラストレーションは少なくて済むかもねー。

でも、仕事マイペースで進められることと、仕事を取ってこられることは別問題なわけで。

2014-04-28

精神論とやる気

やる気のない人にやる気を出させるとき精神論はひどく傲慢になることがある。

ポジティブな気持ちの押し付け無理解を生むために、フラストレーションの原因となる。

当然クリエイティビティは下がる。

から嫌いだった。

属人性を仕組み化でなんとかしようとしてきた。

けど、仕組み化でなんとかしようとするのは結局人を見ていないことになるのかな、って思った。

あと、そうして得たやる気って全然持たない。せいぜい3日。プロジェクトを無理して終わらせて燃え尽きる。それは決して幸せなことではない。とは思う。そんなんだから皆鬱になって手首きるんだろうって思う。

精神論蔓延るのは即効性があるからだ。人間は、結構タフで、ムリをすればムリが通ってしまう。一時的には物凄い威力を発揮する。それが精神論だ、と僕は思う

ただ、僕にはもう上手くやる方法が見つからない。僕の考える理想創作環境は甘えに満ちたなんとも情けないものだったのかもしれない。人を見てなかった。苦しい、今までやってきたことは、無駄だった。

ただの愚痴

2014-04-17

http://anond.hatelabo.jp/20140417051959

総括して言うと「会話に手を抜きすぎ」

これだけだと理解不能だと思うので少し説明する。

から重箱の隅をつつくような事を言うが、重箱の隅も積もり積もればあふれ出すという意味で聞いてくれ。

「よく分かった理由」→「何がわかったのか」

「よく分かった理由」は「よく分かった」という言葉引用して「その理由を教えてほしい」という意味言葉になる。

まり「『よく分かった』理由」と記すのが正しいのだが、

レス元には「よく分かった」という言葉が無い。

まり言っても居ない言葉引用して質問している。

こういった言葉の遣い方は人が言ってもいない言葉を使ったとみなす決め付けの意味合いが含まれてしまい、続ければ続けるほどフラストレーションが溜まる。

「効きたい」→「聞きたい」

単なる誤字だが、こんな事すら細かく印象を損ねる。

たった1文で2箇所もひっかかってしまっては、毎日会話してたらどうなるだろうか。

コミュニケーション上で起こる問題というのは、問題が発生したところには原因が無い。

話の流れで問題が蓄積して、きっかけがあって決壊する。

まずは問題を蓄積しない会話を心がけるべきだと思うよ。

さら

時間を奪っている自覚はありませんでしたごめんなさい

これからはURLはいれないようにしま

時間を奪っている自覚はありませんでした」という事はわかっている。

わかっているから、指摘している。

オウム返しであやまるだけというのは「次も同じ失敗をします」と宣言しているようなもの

この謝り方は相手をいらだたせるだけだと思うけどなー

あ、自分には別にこの謝り方でいいです。他人なのでなんとも思いません。

2014-04-08

http://anond.hatelabo.jp/20140408084505

セックスセックスと書くのに一人称は僕とか、作りこみの甘さが目立つ

あといくらフラストレーション溜まってるにしても高校入学式当日に書かんでも

2014-03-15

http://anond.hatelabo.jp/20140315004105

先輩の気持ち、分からなくもない。

前職じゃバリバリやってたのに、職場が変わって仕事の進め方も変わって、自分の中でこう進めていったらもっと効率良いのにって考えはあるんだけど、業務をあんまり把握してないから自分が仕切るのも気が引けるって感じになるから、結局アウトプットはイケてなくって、自分無能感を感じるんだよな。

しかも、自分の思うやり方を展開してたらもっと上手くいってたのにと思いつつ、実績出してない奴がやり方さえ上手く決まってたらっていう考えをするのは負け犬っぽいから、グッと我慢するフラストレーションなんかもたまっていく。

仕事って難しいなぁ。

2014-03-13

大阪市長選は絶対行かない

こんな選挙行く意味ないでしょう。税金無駄使い。

しろ行かない方がいいんじゃないの。

橋下は都構想がどうの、法定協議会がどうの言ってるけど、支持率も落ちていつものケンカ殺法でなんとかしようとしているようにしか私には思えない。個人のフラストレーション民意を問うだとかで選挙やられても仕方ない。他党が無視するのもあたりまえでしょ。その辺なんとかしてこそ政治家じゃないの。

だいたい未だに都構想が何ともわからんのも、橋下がどっかを敵にしてケンカ殺法かます以上の仕事をしないことに起因していると思うし、こんな一人相撲の相手する必要なんてない。

こんな立候補者見ても、「白票でもいいから投票行くのが大事」なんて言う人いるんだろうか。選択肢くそもないのに。民主主義投票でもあるまいし。

今まで成人して、色々思いながらも結局欠かさず選挙行って来たけど、今回は絶対に行かないでおこうと思う。

私はこの選挙自体に反対です。みんなボイコットすりゃあいいんだと思う。

過去最低投票率目指してがんばれ、ばーか

2014-02-25

閃光のマスダ

 本好きの高じた結果、その購入物によって汚染された室内は、積読現象によって室内の壁際を、二周ほど周回したころから、家主は、危機意識をいだいた。購入欲求から出発した恒常的な床不足と家計破壊は、室内に家主の生息をゆるす状況ではなくなり、電子化必然であった。

 だからといって、本当に床が抜けてからでは、家主は、裁断機運用し、自炊する力もなくなってしまうだろう。

 電子書籍リーダーの導入は、家主は部屋とともに死にむかうのではないかという認識が、本好きからひろがった時に生まれて、電子書籍の購入が開始された。

 電子化が開始されれば、すべての蔵書を均一に電子化させる、という家主の決意は、まちがいではない。

 しかし、特例事項があったことが、その後の過ちをうんだ。家主が必要と認めた書籍は、部屋に蔵書できるという規定である

 条件はあった。

 入手が困難な希少本と、画集のような今の形に意味がある書籍という規定である

 規定は、理想的にその理念を行使するということはないし、一般的な人びとの視点からみれば、床が、抜けていると見えないことが、この規定拡大解釈して、運用されたのも当然である

 さらにいえば、本好きから産まれたビブリオマニアが、紙とインクのフィーリングを忘れることができるものではないからこそ、そこに、無条件に規定無視したくなる思いがうまれた。

 その欲求は、正しい。

 しかし、ビブリオマニアもっとも深い罪業は、積読の増殖が、室内環境家計にとってもっとも危機的なものであるという認識認知しないことにあった。

 しかし、電子化は、その代償を家主みずから支払わなければならない時代であり、電子書籍時代とは、技術革新時代でもなければ、祝福された時代でもないのである

 その認識から生まれたフラストレーションは、ますます本好きの人びと、ビブリオマニアたちに、物理回帰の欲求に火をつけるのは、逆説的ではあるが、当然の帰結であった。

 増殖した積読という本が、たえず回帰する形は、物理本でしかないという欲求は、ビブリオマニアの二重の罪業である

 しかし、床を完全に再生させるためには、千冊以上は処理しなければならないだろうし、千冊処理するあいだに、積読は、さらに増殖するだろう。

 つまり家主は、すでに、蔵書全部が部屋におくことはできないと、覚悟をしなければならないのである

 これも、本好きには、容認できる認識ではないのだ。

 しかし、現代は、すべての例外規定排除されて、ビブリオマニアは、電子書籍リーダーに逼塞しなければならないのである

『……でなければ、版元が起こした反乱も、あの時、死んでいったストアたちの霊もなぐさめられない……』

 マスダは、そう思う。

2014-02-18

今のこの国の右傾化(?)ってさ

嫌なものを嫌と言えないフラストレーション産物だよな

2014-02-15

http://anond.hatelabo.jp/20140215190107

「このお肉、大根おろしかけて食べたいな」とか、フラストレーションをためないですむ。

そういう、食へのこだわりが特になかったり、家庭でちゃんとした料理を食べたことがない人だけが

お前が単に大根おろしっていう単純な物が好きなだけじゃん。。。

そりゃ、肉料理なんて焼いて食うだけ、ってレベルなら家でも出来るだろ。

ソースもお前は大根醤油だけでいいんだろうから

でも、別に高いものじゃなくたって、例えばラーメン豚骨スープなんてとてもじゃないけど普通の家では作れないじゃん?

それに、普通に料理人だって外食するわけで。

「おいしいお店」という言葉を聞くと私は、「この人育ちが悪いんだな」と思うし、それが外れたこともない。

しろ、おいしいお店、って言わない人間が居るのだろうか?

居るとしたらただただ食にこだわりがないというか区別すら出来ない人間だけでしょ。

あんたがそうなんだけど。

外においしいものを食べに行くという感覚が分からない

友達なんかが「おいしいお店を見つけたから」なんて言って一緒に食べに行った店が美味しかった試しがない。

テレビで紹介されていたとか、芸能人の行きつけだとか聞くと、そんなもんかなぁと思うけど。

もちろんおいしくないわけではないが、それより、もっとこうしたらいいのにと思うことが多い。

まり自分たちで作ったほうがおいしいのだ。

もちろん、プロ技能で勝っているとは言わないが、自分好みの味付けができる。

「このお肉、大根おろしかけて食べたいな」とか、フラストレーションをためないですむ。

そういう、食へのこだわりが特になかったり、家庭でちゃんとした料理を食べたことがない人だけが

外においしいものを食べに行くようになるのだと思う。

「おいしいお店」という言葉を聞くと私は、「この人育ちが悪いんだな」と思うし、それが外れたこともない。

2014-02-02

議論系番組のつまらなさ

実際に番組で議論(というか文句の言い合い)してる人は好き放題に言えるから楽しいんだろうけど

見てる側は「いや、それは間違ってる」「そうはこうこうこうだ」と思っても言う相手がいないから楽しくないんだよね

言いたいけどいえないフラストレーションけがたまるから面白くない。参加型番組みたいなのが出来ればおもしろいかな。

2013-12-24

日本サッカー、「課題DFしかも育成」、に見る「生真面目」脱皮中の若い日本課題評論家

的確に褒め、評論する風間八宏

Number風間八宏の記事を読んだ。

戦術よりも個人に注目しろ

日本サッカー界の中で一番遅れているのはメディア

の二点が心に残った。風間八宏氏のサッカー解説は、常に、ああ、そういう所を見るべきなのか、なるほどという知的感動がある。

まり、こういうことを言うのはなんだが、セルジオ越後辛辣だが、結局どこを見ているのかよくわからない。ネガティブなことを言いまくって、弱いうちはそりゃ当たってるんだろうけど、結局何をどうしたら、良くなるのか全然からない。

風間氏はフロンターレを率い、デポルキラー大久保に「ストーリー立てて話してくれるので大変わかりやすい」と言わしめ、キャリアハイのゴール記録へと導く。素晴らしい指導者だと思う。それは、評論家時代からそうだったように思える。

今はやべっちFCテレ朝がすごくいいサッカーTV局になっているが、ちょうど10年前ぐらいはフジテレビだった。中田英寿ペルージャに移籍し、活躍しているその様をなんとも表現豊かに的確に、オフボールから解説してくれたのが風間八宏氏であった。

Number

Numberももちろんそう。最新号のスカウトの目というのも素晴らしい。どこまでもよく見ているし、俺が見た試合の中で評価した。評価される場所にいない人はもちろん入っていない。それも運だよ。みたいな事が書いてあって、軽い評論家数字の羅列↓

http://sakabuta.jp/archives/34386778.html には、全く現されない、重みがあった。

叩くことの簡単さ、褒めるセンスの貴重さ

10年前のサッカーでは、FW決定力不足絶望的であった。だから批評家にも価値が(無いけど)あるように思えた。悪い状態のチームの何がどう悪いのか具体的に提示するのは、非常に簡単な事に思えた。

サッカーのようなゴールが入りにくいスポーツおいて、決定力の無いサッカーほどフラストレーションを具現化したような状態はない。批評する人も存分に叩いておけばよかった。欧州を見よと、あれができてない。これもできていない。大体言ときゃあたりの評論家

状況は変わり、若い才能が、世界へと飛び出して、徐々に形を作った。今や、ミランインテル日本人がいる状況である。この状況においても、数字の羅列で表現している人がいる。

課題DFしかも育成、に見る「生真面目」脱皮中の若い日本

Numberでは、今の日本課題DFであり、その課題は育成フェーズでの基礎がなっていない、ということになっている。いまの日本代表は細かいパスサッカーを展開し、昔のMF大国の良い所を、世界の風を吸収することでフォワーディングして、前線が強くなった。

攻撃的に日本進化して、むしろDFが置き去りにされているというのは、面白い現象だと思う、日本工業国家で、クリエイティブさが少ない、真面目な国民性という紋切りでは、そうは言い切れないだろう。DFが育成が遅れているのは、MF側→FWへという昔の決定力不足記憶がそうさせていて、その創造的な発展の次はFWを抑えるDFの育成になるということを考えると面白い進化途中の日本が見えてくる。

その上で評論家を論じると

先に進化したのはFWであり、選手である。次はDF進化しようとしている日本サッカー。色々よく言われる日本の画一ばった、おとなしい周りに合わせる工業国という姿はもう、論じるに足りない。

最も最後方で後ろから味方に銃を打っている評論家

そんなのいらないでしょう。もしいたら、真っ先に退場願いたいものだ。

2013-12-16

叶わないということ

愛してほしいと思っていても、逆の立場になれば愛されない理由はよくわかる。

でも望まずにはいられない。

思いが叶わないというフラストレーションを処理するために、できることは2つあると思う。

殺すか死ぬかだ。

殺した場合は事件になるので、世間の知ることになるが、

死んだ場合は周囲の人間しかからないし、周囲の人間もその理由を知れない場合も多いだろう。

普通人間は、なかなか愛した人を殺そうとまで考えられるものではないので、結果、多くの人間は死んでいるのだろう。

1人殺された裏には、孤独な3万人が死んでいるとみてよい。

愛して欲しいという願望が特定の誰かに向けられているとも限らない。

ただただ愛に飢えた人間

そういった人間は本人は理由もわからず死んでいるのだ。

2013-12-05

めんどくさいと思う病の本質

めんどくさいという思いを持つようになったのはいつ頃からだろうか。


たぶん、小さなさな子供の頃は、

明示的に「めんどくさい」とは感じなかったと思う。


自分が実行したくない行動に対して、

某かのフラストレーションを貯めることはあっただろうけれど、

それが「めんどくさい」とは感じなかったはずだ。

そもそも「めんどくさい」という言葉を知らないし、

子供にはそういう概念がない。

いつからか、

そのフラストレーションは「めんどくさい」のラベルが貼られる。

また、

年を重ねた後の「めんどくさい」は

子供のころの「めんどくさい」とは異なる場合がある。

すなわち、

大人になった時の「めんどくさい」は

「やりたくない」から生まれるフラストレーションではなく、

「できない」から生まれる言い訳である事が散見しないかね。

気持ちとしてはやりたいけれど、能力的には出来ないか

「めんどくさい」と言い訳して、

自分能力不足への直面を回避している人が多いように思う。

例えば、

「本を書きたいけれど、めんどくさいからやらないんだ。」

これは本質的には「めんどくさい」というより、

能力的に出来ないという意が濃い。


何か行動を起こさずにいる理由を、

「めんどくさい」に置き換えている人は、要注意だ。

よくよく見返すと、自身はすっからかんの脳なしで、

「めんどくさい」で気軽に言い訳している可能性がある。

そして、

すぐに「めんどくさい」という人は、

大抵脳なしだし、おおよそ脳なしのレッテルを貼られるよ。

そんなの言い訳にもならない。

2013-11-15

まりいいたくはないけど

ドメスティック な フラストレーション って 相当 な もの だから な

どこに その フラストレーション が たまりこんでるか わかったもんじゃない

2013-10-27

フラストレーションを人にぶつけるより

GTA5で一般人轢き殺しプレイをする方がよっぽどスッキリする。

浜辺のリゾート地大通り水着リア充共がいっぱいいるか

適当スポーツカーパクってアクセル全開大通りを突っ走る。

人がドガガガガ!!!って血吹きながらはね飛んでいくから楽しいよ!

2013-10-04

はぁぁぁ

これで「どんなに釣り臭くてもSIネタは爆釣」ということがまた確かめられてしまったので、これから釣り師は増える一方なんだろうなあ。

ほんとクソだな。お前らそんなに釣られるくらいSIer仕事フラストレーション溜め込んでるならさっさと転職でもしろボケが。

お前らがブツクサいいながら「こんな無茶をやり遂げた俺」とかいうクソみたいな自尊心のために仕事続けてること自体が業界が腐る原因だと自覚しろカス

2013-09-02

http://anond.hatelabo.jp/20130901164108

ご指摘ありがとうございます

前提の弱さ、特にそういった「サヨク」のひとがどれくらい実在するのか、という点についてはエントリーを書く段から自覚していますので、ご指摘への反論はありません。

ただ、僕の周辺にそういった人が多いと感じた事と、話の通じなさにフラストレーションを覚えた事が今回の日記を書いた動機です。「脳内」という批判は予想していました。

しかし、「どれくらい実在するのか」という疑問提起だけでなく、そんな「サヨク」の人は今はほとんどいないだろうというご意見を「左翼」的な立場の方からいただいたのは新鮮でした。今回指摘したような自己矛盾内包する言説はやはり淘汰されて少数派になっているのでしょうか。

そうであれば、もっと両者の立場から議論を進める事が出来るかもしれませんね。

2013-07-23

ヘイトスピーチ人類の基本仕様

http://anond.hatelabo.jp/20130722230759

前頭葉ついてるのか不安になりますね。

何かの精神障害でっち上げることすらできそうです。

ホラ、君だって出来てるじゃん。

それがヘイトスピーチだよ。

気に入らない奴等を医師の診断もなく障害だと結論付けたくなってる。

しかもそこで言ってる「障害」は

労わりや斟酌の準備のためではなく、

馬鹿にしたり見下したりするためにそう言ってるよね。


気に入らない人物、団体、現象に対して、

建設的でクールな解決法模索のための思考・言動をとるのではなく

感情的フラストレーション発散のための思考をとる。

これがヘイトスピーチ根本


別に混ぜ返そうとしてこれ書いてるんじゃないからね。

君を責めてるんでもない。

人間動物なので、基本的な仕様ヘイトスピーチになるように出来てる。

高度な理性と自律性でのみ後天的ヘイトスピーチを離れることが出来るだけ。

離れられた人もうっかりしたり体調が悪くなったりすればすぐヘイトスピーチに戻る。


ただ君は自分ヘイトスピーチ性に自覚が無いのでそこだけは直すべき。

自分だけは綺麗とか思ってる奴は簡単に人を責めるようになるので危険人物だ。

君も俺もヘイトスピーチ

2013-07-14

表現者になれなかった

数年ほど演劇に携わっていたが、色々な事情が重なって現在演劇の2文字をみるのも嫌で嫌でたまらない状態になっている。

演劇ヤクザ世界だ。

特に金も人も時間も足りない小演劇界隈は、劇団を抜けるのにも相当覚悟がいる。

そこの認識が、当時の自分は甘かった。


何でもそうだが、特にこういう表現系の活動は、よっぽど好きじゃなきゃ続かない。本当に。

昼もなく夜もなく、生活のすべてを芝居に捧げ、寝る間も惜しんで舞台に立つの楽しい――そういう人間でなければ、あの界隈で活動を続けていくことは出来ない。

たとえ金がなくとも、創作さえ出来れば幸せ。そういう人でなければ向いてない。

あそこにいた人たちは皆、貧乏でも活動していく覚悟があった。

寝不足の目をギラギラに輝かせ、狭い市民センター稽古や、あるいはサイゼリヤで一番安いドリアをつつきながら打ち合わせをし、劇団評に花を咲かせ、チキンを1個ずつ分け合う。

そして3時過ぎに布団に入り、翌朝早くからバイトに打ち込む。夜にはまた稽古。そんな人間ばかりだった。

はっきりいって全員病気だ。

だが、本人たちにとってみればそれは、エネルギーに満ちた充実した生活なのだ



自分には、そんな生活が耐え難い苦痛だった。

ある日、自分の将来をふと考えた際、とてつもない虚無感に襲われた。

このまま生活していけるのか。一度考え始めると、不安はどんどん膨らんでいった。

それに、家族のことを省みてしまった。

貧乏演劇人としては一番考えてはいけないことだ。



結果、どんどんモチベーションは下がっていった。

もともと小演劇に疎かった自分は、仲間内のトークにもついていけていなかったのも辛かった。

似た視点相談できる人間が、周りにいなかったのだ。

そして、精神的にどんどん孤立していった。

やがてフラストレーションが積み重なっていった結果、日常で突然泣き出してしまうほどになり、結局その後、演劇活動から手を引くことにした。




これはきっと、演劇だけの話ではない。

あらゆる創作活動、表現ジャンルでも、貧乏を飲み込んで打ち込む覚悟がなければ、とてもじゃないが、続けていくことは出来ない。

ラッキーなことに、家が金持ちだったり才能があったり、そういう人はその分の補正がかかることもあるかもしれない。

しかし、そうではない人は果たしてどうか。


もし、これから何らかの表現に携わろうと考えている人は、そこのところをよく考えてみるべきだと思う。

自分貧乏でも続けていく覚悟はあるのか。それほどに病気であるか。

中途半端意志覚悟で、下手に表現へ深く足を踏み入れると、取り返しのつかない痛手を負う可能性がある。

それでも構わない、という人をあえて止めるつもりもないけど、

そこにいる関係者がどんな人たちなのか、どういう年代層の人がいて、どんな暮らしをしているのか。

話をよく聞いて、よく確認したうえで、飛び込むべきだ。

深く関わるのは、それからでも遅くはない。


表現を志す人にはまだ若い人たちが多いので、時間たっぷりあると思うかもしれない。

しかし、だからといって無限ではない。

自分の適性をよく考えて、限りある時を有効に使い、有意義と思えるような生活を過ごして欲しい。




まぁ、痛い目をみないと分からないっていうのも少なからずあるんだけどね。

慎重になれば、みる必要のない痛い目というのもきっとあるはずなので。

2013-07-11

予備校でいつも髪の毛を弄くって手が動かない生徒を退出させたってい

予備校でいつも髪の毛を弄くって手が動かない生徒を退出させた - Togetter

で、なんか賛否両論なんですけどね。予備校にも大学にも行ってた人として思うことをつらつら書いてみようと思う。

結論から書くと、お金払って授業受けに来てる人に対し、髪の毛弄るくらいでその対価を与えないのってどうなの?っていう意見大間違いだと思います

お金を払って来てるの、その髪弄ってる奴だけじゃないんで。その教室内にいる生徒みんなそうですけど。

その髪の毛弄るっていう行為、隣の席の人もそうだけど、その生徒が視界に入る人間全員気になって集中できないんですよね。

ペン回し、髪の毛弄り、机とんとん妖怪、もう本当めちゃくちゃ気になる。夏とか修羅場ですよ。必死こいて汗かきながら受講しにきて、髪の毛いじってる人を視界の端に受け入れ続ける一時間半。あ、この時間自分過去の受講時間です。

鼻息荒いのとかはもう気を付けようがないか全然気にしないけど、上の三つって我慢しようと思えば出来るじゃないですか。

どう表現すれば分かりやすいだろう。映画館に行って、前の席の人がぺちゃくちゃ会話してるのと同じかもしれない。

その人達だってお金払って映画見に来てるんだし、映画を見る権利自体はある訳です。

でも、他にも同価格払って同じ空間に来て同じ映画を見に来てる人達ますよね。

すっごい気になりませんか?「話すくらいなら出ていけよ…」って苛立ちませんか?「集中できねえよ…」て思いませんか?「家で見ろよ…」って呆れませんか?

帰り道、その人の印象で「あー、この映画お金払ってまで見たのになあ」って後悔しませんか?

それがあるから映画の前のマナーフィルムで「えいがーかんではおしずかに!」って注意を促すフィルムが流れるんだと思います

喋っちゃいけないっていう厳格なルールがある訳ではなくて、そうしないと観に来ている人からフラストレーションが爆発するからで。

貧乏ゆすりもそれに近いかもしれないですね、視界の端で何かしらの動きをされてるっていうことなので。

じゃあ予備校ではどうなのかって、そんなフィルム流す訳もなく。注意出来るのって、講師しかいないんですよね。

隣の席の人とか、後ろの席の人が「ちょっと、その髪弄るのやめてください」って注意したら、軋轢しか生まないですから

でも講師が注意したことで、後ろの席の人は少なくとも「うわー、やっと言ってくれたよ」ってなったと思いますけどね。

件の講師の方と、受講生の方にだけ注目したら、「そんな髪弄るくらいで退室させんなよ」って思うかもしれないですが。もう少し視野を広げて、周囲の人達自分に当てはめてみてください。

社会人の方は、取引先の人がずっと髪の毛を注視しながら髪弄ってる時に「ああ、この人って話聞いてくれてるんだなあ」って思えるんでしょうか。

私は「この野郎、そのままハゲちまえ」って思います。加えて、髪の毛引きちぎる妄想します。すみません

2013-06-20

性的価値が低いことは無碍に扱われるってことだしな

http://anond.hatelabo.jp/20130619231753

モテるとかモテないとかではない。ただ無価値であり無碍に扱われることだ。

他人に価値がないのは誰だって同じだろう、ようはSEXしたいんでしょw、よく飛び交う言葉だが、まあそのとおりで、子供の頃の話だよ。

大人になればどうでもいいさ、社会的な我々は誰だって平等であり、自分価値をアピールしなければ他人に関わることすら出来ないのだから

強制的に半日、30~40の人詰めの箱のなかに閉じ込められて、共同生活を強いられる。社交辞令も保身も知らないために残酷で、動物のように群れを作る子供な。

だってよくやっただろ。笑わなかったか

ナチュラルに、他人の一挙一動、あるいは顔とか、容姿とか。

居ただろ。何かにつけてキモいと言うやつ。

子供の遊びで、イジリだったのかもしれないけども。

黴菌扱い。触らないで、菌が付くから

二人組。席替え。○○の隣になった地雷

申し訳ない、存在して。

給食配らないで、触らないで、なんでそんな酷いことするの?

いや、単に給食当番からだよ。

だってやっただろう。私だってやったと思う。清廉潔癖ないじめられっ子なんていないんだ。

一緒になって笑わなかったか。しなかったか

確かに笑わなかった人もいたが、黴菌はクラスか学年に1人くらいなので、消毒される側から見れば誤差なのだ


思春期

だいたいルールがわかってくる。私のような人間は、人格自由度が低いのだ。

気持ち悪い、存在不快デフォルトではそのように扱われている。

まり、人として価値がない。

キモい、ようするに、性的価値が外形的に存在しない。

自然な成り行きとして、一等低く無碍に扱われる。

仕方ない。これはそういうことになっているのだから別に差別でも偏見でもない。

従って私は、妖怪人間だった。

それ故に人間になるための、社会的な演技が必要だった。

外形的な気持ち悪さから来る性的価値の低さという、社会性におけるディスアドバンテージを抱えているので、埋め合わせなければならなかった。

思春期年代が構成する市民社会からの排斥を受けないために、彼らに要請された私を演ずる演技。

社会的な演技は人格であり、人間である

今で言うリア充、一段下げて一般的な未成年が、同年代の中で取る態度。

人並みに感情を表に出したり、遊んだり、色気づいたり、あるいは恋愛について話したり。

残念ながら、私の行うそのような態度は、思春期年代にとって異物であり、共感の外である

思春期とは性的な時期であり、それを通じて社会性を育む性徴期。

思春期社会的な関わりにおいて性は重要であり、だからこそ保健体育は古くよりあり、最近では日本社会でもセクマイ概念などが教育に取り入られ始めているわけだが、しかしながら、セクハラ概念が示す事実は、自身の性的身分を超えた性的な態度は嫌がらせである

性的価値が無い者の、性的な態度は他者を不快にさせるのだ。

もちろん理解している。学童の頃から身に沁みていた。

運動会フォークダンス遠足の二人組、給食当番席替え、班作り。

社会性も、性愛観念も未熟な時期に、同級生露骨に示したその態度。

から私には、分相応であることが必要だった。

それは社会要請であり、学童期よりも幾らか高度化した義務教育課程で学ぶ、ひとつの実習だった。

必要なのは性的に老いること。オッサン臭いというか、ババアというか。

老人ではない。老賢とは別物だ。

中年である

完全に枯れているわけでもなく、しかし肉体は老いており、故に独特の醜さを発露する。

気持ち悪い性欲の象徴としての中年

自らの不快さを理解しているからこそ、弁えを知り、抑制されて、節度を保った憐れな中年

私は老いてはいなかったが、印象的に気持ち悪かった。

それに思春期らしい子供の欲求を捨てきれず、また賢さもなかったので、老人にはなれなかった。

毎日毎日見続けた同年代の一般的なその日常

明るく溌剌と多感な周囲について、人並みに感心はあり、またそう有りたくもあったが、表に出してはいかんのだ。

私には分相応な態度、人格が決められている。

私がどのような人間なら、理解しうる人間としてシンパシーが得られるか。

周囲の人間の、有形無形の態度がそれを要請してくる。

声に出す者も居たし、出さないものも居た。



やがてどうでも良くなる。

人間関係という蜘蛛の網に絡み取られて、私に向けられた他人の視線が、あるべき態度を規定する。

必要に応じて演じた態度が、人格として身についていき、成人する頃には私という人間性が確立される。

根底に身についたのは諦念であり、どうでもよさだ。

しかしながら、それでも時々思うのは、性的価値が人並みにあるものが羨ましい。

凡夫であり、賢くもない、一般的成人である私は、人生冷徹に見つめる達観も得られなかった。

もちろんSEXに興味はあった。

だが、それより今は思うのは、子供の頃に子供らしく過ごしたかった。

思春期の頃に平均的な思春期らしく自分日常を過ごせれば、もう少し、何か違ったかもしれない。

別の人間性を獲得できたかもしれない。

いや、私は平均的なのだろう。

私が送ってきた人生こそが、実にありふれた性的価値者の日常だった。

幼児から始まる社会での私の立ち位置が、私の内面を擦り減らし、予定された枠組みに相応しい人間性を形成したのだ。

あの頃諦念に師事しなければ、もう少し何かが違ったのかもしれない。

現実が過ぎ去り記憶になると、もっとうまく立ち回れたのにと後悔することがあるにはあるが、まあ、それよりも、私は随分頑張ったと思う。

はっきり言って、重苦しかった。

あの頃の私にはそうする他なかった。

これこそ単なる諦念なのかもしれないが、常に近くにあったが決して得られなかった同年代日常は、私にとって眩しかったが、あれこそ他人の物であり、これが私の人生だった。

子供の頃に演じていた中年が、まもなく自らに訪れる。

内面と演技のアンバランスの抑圧にフラストレーションを沸き起こしていた精神も、加齢によって安寧となってきた。

何かをこじらせているわけではない。

こじらせ系とは似て非なる、直道だった。

私の人生にはこれしか無かったのだ。

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