はてなキーワード: ドッジボールとは
小学生の時、サッカーやドッジボールが下手で仲間に入れてもらえなくて悔しかった。
中学生の時、わけもなく殴ってくる奴がいて悔しかった。友達がモテて、僕は何もなかったのが悔しかった。
高校生の時、成績優秀者は学校案内のパンフレットに掲載する話があったが、僕は対象だったのに掲載されず、悔しかった。
大学2年の時、部活がんばったけど結局、記録伸びなくて悔しかった。資格試験で2点足りなくて不合格になって悔しかった。
大学3年の時、彼女ができたが手も繋がず、三週間で振られてしまって悔しかった。
就職活動して、何度も通って人事にも顔を覚えられた第一志望の企業に書類選考で落とされて悔しかった。
26歳の時、街コンにいったらマルチの勧誘だったので悔しかった。
「要は君らの気にしていたことはマクガフィンに過ぎないってことだ。そこが重要だと考えるのは作り手と一部の狂信的ファンだけ。ヒッチコップの教えを忘れちゃいけない」
俺たちの会話をいつから聞いていたのだろうか。
そんな疑問を挟む余地すら与えず、その人は捲くし立てるように語りだした。
「大衆的なデートムービーや、アーティストが主演の映画とかあるが、ウットリ観ている彼女とウンザリしている彼氏という被害は後を絶たない。その状況を穏当に拒否できる言葉を彼氏は持っていないからだ。大人が良かれと思って見せた作品を、子供が黙って見るしかないのと同じ状態だね」
どうやら映画の話に絡めて何か言いたいようだが、俺たちにはピンとこなかった。
兄貴の話も分かりにくかったけど、この人の話は輪をかけて分かりにくい。
「あいつは隙あらば語りたいだけだから無視していいぞ。発作みたいなもんだ」
兄貴はこの状況に馴れているようで、喋り続けるバイト仲間に一瞥もくれない。
素っ気ないように思えるけれど、あっちはあっちでお構いなしにマシンガントークを止めない。
「ああいう純愛映画とかラブコメにありがちだが、上映中にイチャイチャするシーンはいい加減やめるべきだ。使い古されたシチュエーションだし、ちゃんと映画を観賞しろ貴様らとつくづく思う」
「さて、あいつが休憩所に来たってことは、そろそろ俺は交代で出なきゃいけないな」
なんというか会話のドッジボール、いやドッジボールとすら言えない状況だ。
それでも良好に成り立っているんだから、人と人の関係って思っていた以上に奥深い。
たぶん俺たち仲間の関係だって、同じくらい大らかなはずなんだ。
「お前らも、そろそろ出て行け。本当なら部外者は立ち入り禁止なんだからな」
兄貴は近くにあった手ボウキを持つと、それで俺たちを追い立ててくる。
「立ち去れ、早う去ね」
さっきまで繊細な話をしていたとは思えないほど、ぞんざいな態度で接してきた。
穂先のチクチク感と、こびり付いた埃が襲いかかる。
俺たちはたまらず、その場を後にした。
さて、後はドッペルをどうにか探して、こうにか仲直りするだけだ。
会ったら何を話すべきかは、まだ決めていない。
ただ、話すための心構えはできたような気がしていた。
「あ……」
なんとビデオ屋から出た途端、ドッペルと鉢合わせしてしまったんだ。
たぶんドッペルも色々と考えを巡らせて、兄貴に協力を求めにきたのだろう。
「い……」
「う……」
先にその空気に耐え切れなくなったのはドッペルのほうだった。
「え!?」
ドッペルは踵をかえすと、全速力で俺たちから離れていく。
「お、追いかけよう!」
まず脳は今回の失敗についての俺の落ち度を全力で検索する。
「何でこれやらなかったの?」「何でこれやったの?」「何でちゃんと説明できなかったの?」
脳は俺を糾弾するワードをひたすらに投げつけつつ、失敗の検索条件を広げて再検索を繰り返す。
「そういえばこの間はこんな失敗したよな」「もう信用されないな」「お前いらないんじゃないか」
最終的には「死ね」「死んじまえ」みたいなワードでループして俺がフリーズするまで攻撃が続けられる。
フリーズから再起動した後はもうダメだ、もう終わりだ…という暗い気持ちでいっぱいになって、
少なくともその日は使い物にならなくなるのだ。
そう、失敗自体に対しての改善やらリカバリー方法やらについて結局何も決められていない。
私が小学生時代を過ごした土地は、所謂ニュータウン。街がつくられる時にそのまま居着いたブルーカラーの家と、ベッドタウンとしていついたホワイトカラーの家が、住んでいる地域でわかるような土地柄だった。
とてもではないが治安がいいとは言えない街。小学生が放火をし、中学生が喫煙し、高校生がバイクで走り抜ける街だ。某児童売春斡旋組織事件発覚の発端となった小学生もうちの地元出身だった。
私の家は紛うことなきホワイトカラー一家だ。元ボンボン・サラリーマンの父と江戸っ子の母の間で、歳をとってから出来た一人娘として、それなりに大切に育てられた。世帯収入は高くも低くもなく、他に兄弟姉妹がいれば私立に行くのは許されなかっただろうレベルだ。しかし女子校に入れたいという父親たっての希望で、私の中学受験は私が園児の時に既に決められていたことだった。
そうは言っても、その受験計画は実にのんびりしたものだった。目的はあくまで「公立中学校に行かないこと」。小学校一年生から塾に行くような子もいる中で、私の中学受験は小学校四年生から始まった。それもSAPIXや日能研といった進学塾ではなく、まったりとした中堅の塾。10人に満たない同級生たちと、地元の中堅私立を目指す予定だった。
しかし、それでも学校の教員からの敵意からは逃れられなかった。
彼らは常にブルーカラーの子供たちの味方だった。ブルーカラーの子供たちはまさにギャングエイジといった風体で、私の学年は4年生になる頃にはすっかり学級崩壊に陥っていた。
そんな状況の中で、私のような「恵まれた家庭」の子供は、彼らを「根性論で更生させる」ための必要悪にするのに適していた。ホロコーストと一緒。共通の敵をつくることで、教員たちは彼らと連携をとろうとしていた。
まずは保護者会で、担任の教師が「私は中学受験と塾が嫌いです」と言い放つところからスタート。この言葉はあっという間に子供たちにも伝わった。小学生にとって、それがどんな不良小学生だったとしても、「先生の言葉は絶対」だ。「先生が悪いと言った」子は、いじめたっていいのだ。
休み時間に円周率の計算暗記表を見ていたら、担任にそれを取り上げられ、クラスメイトの前で激昂された。帰りの会で黒板の前に立たされ、「私は学校で塾の勉強をしました。本当にごめんなさい」と謝らせられた。それを皮切りに、ブルーカラーの子供たちからのいじめが始まった。
帰り道で待ち伏せされる。容姿についての罵倒や、時には両親への悪口もあった。ある時はマフラーで首を絞めあげられた。子供の力なので大事には至らなかったが、笑い声のなか、酸欠で頭がぼうっとしてきたことは覚えている。
「先生の言うことは絶対」。これは私にも有効だった。だから私は、自分は悪い小学生なのだと思い込んだ。
おうちが貧乏で、ちょっと不良みたいで、勉強は嫌いで、でも、中休みになったら一番最初に校庭に出てドッジボールを始める。そんな生徒が、「良い小学生」なのだ。クラスメイトたちが音楽室に立てこもって授業をボイコットしていた時、私は大人しく教室で待っていた。でも先生が好きなのは「仲間意識の強い」彼らなのだ。
悪い小学生なのだから、虐められて当然なのだ。そう思った私は、繰り返されるいじめを誰にも相談出来なかった。
また、これは本当は幸運と言えるのだが、殊にこの場合にのみ不運と言える、両親の誤算があった。私の成績だ。
私はどうやら「出来る子」に分類される子供だったらしい。入った中堅塾ではあっという間にトップに立ち、テストも満点以外とれなくなった。ここまで来ると両親にも欲が出てきたようで、私はバスで通える範囲に出来たS某超進学塾に通うようになった。そこでも女子ではトップの成績で、あれよあれよという間に御三家を目指すことになっていた。小学生にとっての成功体験は、その子の人格形成において重要だ。私は勉強するのが楽しかった。そもそも運動は嫌いで、中休みも図書館にいるような子供だった。かけっこしか見てくれない小学校の教員たちとは違って、塾の先生は私の「勉強の」成績を褒めてくれた。後は好循環だ。持って生まれたメンタルの弱さで、模試の前に嘔吐するようなこともあったが、私の中学受験は大方順調だった。
一方小学校生活は、ぼろぼろのメタメタだった。私の通塾先が変わったことがどこからか漏れ出て、「エリート意識を持った嫌な奴」の烙印を押された。低学年までは仲良くしていた子達も、私のことを大腸菌呼ばわりするようになった。
担任が、わかりやすく私に嫌がらせをするようになったせいだった。授業中に指されて答えても、「どうせ塾でやったんでしょうね」。覚えもないいじめ事件の首謀者にも仕立て上げられた。
だんだんと体調にも影響が出るようになっていた。学校に行く前に必ず吐いた。食道は焼けただれ、小学校5年生の冬には胃薬が手放せない体になっていた。
真面目な気質のせいで、私はそれでも学校に行くのをやめられなかった。親も流石に勘付き、担任に嘆願書を出した。しかしそれも虚しく、担任は私にその嘆願書を叩きつけ、「どうしてあたしがいじめなんて言われなきゃいけないんだよ!!」と私を怒鳴りつけた。
別の小学校に越境入学しようと思ったこともあった。別の中学受験をする同級生が、そそくさと学校を変えてしまったからだ。実際両親はその準備もしていた。しかし、自分の学校に問題があることが外部に晒されることを恐れてか、校長はそれに難色を示し、「○○ちゃんだって仲良しと離れたくないでしょ」と、結局その小学校から離れることは叶わなかった。
私の小学校時代は闇だ。小学生5年生の学芸会の劇で、悪役の親分のオーディションに受かったら、自分の母親と隣のクラスの教員が寝ていると噂されたこともある。最高学年になる頃には、私は両親と塾の教師以外の大人を信じられなくなっていた。
話は飛んで、中学受験の結果から言うと、私は第一志望には落ち、第二志望の女子校に通うことになった。そこは天国だった。私が休み時間に勉強していても、誰も怒らないし、誰も馬鹿にしなかった。正直それだけで救われたし、良き友人にも多く恵まれた。そして高校生活を経て、今私は東京大学に通っている。
もし父親に先見の明がなかったか、私が過度のストレスで受験全滅していたことを考えると、今でも寒気がする。
数年前の東大の入学式の祝辞は、ノブレス・オブリージュについての話だった。私も上野先生の意見に大方は同意する。しかし私は、もし「恵まれた人間」として支えなければいけないのが「あいつら」なのだとしたら、それは吐き気を催す話だと思う。
エリートが冷たいなんていうのは嘘だ。いや、もしかしたら真実な場合もあるかもしれない。でも、そんな言説よりずっと、「学のない連中は残酷で野卑だ」という言説が本当だと言うことを、私は知っている。
あの空間で底辺をさまよっていた自分は、のびのびと学び、正しい人との関わり方を学ぶということはできなかった
毎日消耗し続け、精神をすり減らしながら、少しずつ歪んで行った
いじめられることこそなかったが、下に見られて居場所を少しずつうばわれ続けた
そもそも、いじめられなかったのは、ただただいじめられないように必死に異常な自分を隠そうと取り繕っていたからだ。それは苦しい毎日だった
少ないが本当に信頼できる友人ができ、やっと一息つける居場所を見つけたのは高校だった。それすらも部活内のことで、教室に戻るとわたしはまた、出来るだけ馴染もうと普通のふりをしようとするだけの存在に戻った
教室に友人は1人。プライベートでは連絡も取らなければ遊びにも行かない、ただ2人組を作るとき、移動教室に行く時に必要なだけの友人だった。彼女が欠席すればたちまち1人になった。彼女のいない選択種目の体育は、輪の外で、浮かないようにするという虚しい行為に徹した。
高校の卒業を機に、人付き合いを9割たった。もう友人を作ろうとしなくてもよいのだと思うと嬉しくて、大学では友人を作る努力をやめた。はじめの方だけ数人、挨拶をする人もいたが、やがてグループというものに吸収されて、輪となったので、自分はまた外側の人間になった。1人で買い物し、1人で外食した。1人でも生きていけるぞと拳を突き上げた。過干渉な親から離れられたことも、その開放感を手伝った。勝った気でいた。苦痛でしかないと思っていた人生の抜け道を見つけたような気持ちだった。
中学生の頃、昼休みの教室で1人本を読んでいたのを教育実習生に心配された。一緒にドッジボール参加しに行こうか?と誘われた。しかし、それから5年も経ってわたしは勝った。1人でも平気だと証明した。わたしは1人が好きなのだ。
そう思いながらも、生活の張り合いのなさを日々感じた。寝るか、ネット巡回するか、飯を食うか、寝るか、それだけの休日に意味を見いだすのは難しかった。元来人間は嫌いではない。わたしはおしゃべりな人間だった。話し相手を欲していた。だが、友人を作るのはあまりに面倒臭かった。それに伴う多くの苦痛で自分が摩耗していくのは目に見えていた。少ない友人に連絡を取るのも億劫だった。張り合いはないが特に不満があるわけではない現状を変える気にもなれず、成人式にも卒業式にも出ないまま大学を後にした。
すっかり人間嫌いになった。若い女の笑い声が嫌いだ。強いストレスを感じる。ガキが走り回ってる休日の混んだ駅も嫌いだ。うるさい外国人旅行客への嫌悪が日本人にまで拡大していったと言えばいいだろうか。
就職して、また、少しだけ救われた。部署の2人の同僚と最低限の日常会話をして、上司と業務連絡だけの関係を保ち、後輩にはお互い敬語で話す。1日の会話は、挨拶と、ほんの少しの立ち入らない雑談だけだ。時々、お土産に美味しいお菓子をもらえばみんなで食べる。だが、会話はほんの少しだ。わたしは今の部署がとても心地よい。こんなものでよいのかと思った。あの、30人も40人もひしめく狭い教室で溺れるような毎日はなんだったのだろう。
思うに教室は特殊すぎる空間だ。最下層のわたしは「社会性を身につける」どころか、「人とうまくやれなかった体験」ばかりを積み上げてきてしまった。子どもの頃はあんな場所が一生涯続くのだと絶望しながら生きていた。
教室は苦しい形だ。画一化された平等な形。だが、そこで生きていない子どもだっているだろう。そこで生きていけるようになれと、突き落としてしまうのはあんまりに乱暴だと思うのだ。もっといろんな形の教室があったらよかったのにと思う。「通っている今」も幸せであれる形の教室。40人の同僚とたった1人の上司の下で仕切りもない箱の中働くなんていう架空の将来のために苦しさを我慢する場所ではなく。
ゆたぼん君には賛同はできないが、彼を一様にバッシングする人々には驚いたし反感を覚えた。
体育祭は嫌いだった。なくてもよいのにとずっと思っていた。でも、多くの大人は体育祭を無くそうと言われれば、子どもが可哀想だと反論する。教室制度を否定すれば、そこでしか得られないものがあるという。1クラス40人だからこそ、我慢強さと社会性が身につくと。より効率的な、誰も取りこぼさない我慢強さと社会性を身につける方法なんか絶対に話さない。例えば同い年しかいない空間では上下関係のうちでのコミニケーション方法は身につかないといえば、それは部活があるという。じゃあ、ホームスクリーニング児童も課外活動で我慢強さを身につけさせればいいじゃないか。と言えば、それじゃあダメだという。社会は甘くないと。
訳がわからない。わからないから自分は1人だったのだろう。どうせもう、子ども時代に戻ることなんかない。学校大好き人間の自己満足の城でいくら不登校児が苦しんで低学歴の底辺に育とうがわたしにはなんの関係もない。だからもうどうでもいいのだ。教室が好きな人間が教室を作ればいい。……こうやって、確固たる正しい教室ができたんだろうなあと思う。
そう思えば、今の学校教育にはなんの不満もないな。クーラーがつくのはずるいもの。下の世代だけ教室から逃げていいなんてあっていいことじゃない。苦しめ。
隣のクラスの子たちが授業で「1年間お疲れ様会」なるものを開いたという。
みんなでクリームたっぷりのケーキを作って、それはそれは楽しくておいしかったらしい。
隣がやったならこっちもやるよね!っていう期待がクラス中で高まっていた。
ある日、エプロンを持ってくるよう連絡があって、いよいよだとみんなソワソワしていた。
ついにケーキがきた!ってね。
期待していたスポンジもクリームもなかった。
そりゃ不満も出る。
担任は「よそはよそ、うちはうち」って言ってたけど。
さすがに差が大きくない?
リッツがまずかったわけじゃない。
ただ、ケーキがよかったなって。
今考えると、隣のクラスはドッジボール大会とか宝探し大会とか日頃からイベント豊富だった。
うちはプリント問題ばっかりで、イベントほとんどやったことないけど。
私の担任はそういう催し物が苦手だったのかもしれない。
でも今でもちょっとだけ思うよ。
どんな形であれ、ケーキがよかったなって。
ジャポニカ学習帳のcm大人になってから見ねえなと思ってたけど、ジャポニカ学習帳のcm流すような番組を私が見なくなったからだと気づいて切ない。
私はもうジャポニカ学習帳のターゲット層ではないんだ………………毎朝お母さんに起こしてもらって、眠い目こすりながら学校行って、クラスで「昨日の学校へ行こう!見た?」と雑談したり、たった10分の休み時間に校庭へ駆け出してドッジボールをして、家に帰ったらお母さんが作ったプリンを食べて、将来役に立つのかもわからない宿題をキモい虫の表紙のジャポニカ学習帳に書き写して、宿題が終わる頃には夜ご飯のいい匂いが部屋までしてくるあの頃はもう戻ってこないんだ…………