はてなキーワード: 正論とは
発言ポイントという制度は、けっして生徒を救済する制度ではなく、あくまで従来の講義型授業を補強するだけのものである。なぜなら、講義型の授業というものは先生の中に正解があり、それに共鳴できる一部の生徒のみに回答権があり、その反対側にはずっと発言ができない生徒もいるということである。概して、そのような回答ができる生徒というのは、きちんと復習をしており、テストで救済される必要がない人たちだ。その点で、この制度は役立たないものである。
このようなことを書くと、「こちらには理解してもらうための準備はできている」のだからそれについてこれないなら無理だろうといった趣旨だとか、「全員を合格させるための授業ではない」や、「大学生の本分は勉強なのだから、きちんと復習するべきである」などのある意味では正論の答えが返ってくるのだろう。どうせ戯言に過ぎないのだ。
ネット上などのそれらの言説が自分を救ってくれることはないと理解され始めているからだ。
彼らの正論から紡がれる力強く美しい世界は自分を救ってくれないんだと骨身に染み始めている。
あいつらは俺たち奴隷のために本気で何かする気などなく、汚泥の飛沫届かない橋の上からもがかなきゃお前ら沈むだけだぞと正しい自分に酔ってるだけだと、そうとしか思えなくなってきている。
冷静に考えればこの落ちぶれていく日本の中で、ろくにとりえもない人間が時間をかけてズッポリと嵌ってしまったこの境遇から、今より沈まないだけで精一杯の泥沼から、より良い方向に抜け出せるわけがないのだ。
ならば橋の上を見上げて首を痛めるよりも、同じ汚泥のなかでパンを恵んでくれる人たちとともに支えあって今をできる限り充実させて生きる方がましだ。
俺は夢想する。いつかあの橋の上のやつらの顔面をひっつかんでうちのトイレに突っ込んでやりたいと。本当にこれはワクワクする想像だ。
俺みたいなやつらが吹き溜まり、その結果生まれたのがトランプではないだろうか。
早く彼のような存在が日本に生まれてくれることを望んでいる、たとえ自分がより不幸になったとしても、橋の上のやつらを苦しめられるならその方がうれしいのだ。
法律違反とかどうかわわからんけど、社内規定が守れてないとか心当たりがありすぎる。
最近、コンプライアンスだか標準化?、国際的な安全要求の高まりとかいろいろルールできすぎ。
ちょっとなんかするとすぐ文書つくれ、エビデンス残せ、承認して組織として責任持つ形にしろ、前工程の文書承認降りてから作業しろ
とかそんなのばっか。
承認する人出張いっちゃって中々承認おりないし、ぶっちゃけ日付操作してハンコ押してくださいって頼むことが多い。
工程逆転もしょっちゅう。だってあり得ないタイミングで仕様変更入るし。
知らんがな。下請法はどうなってるんだろう。こんなタイミングの仕様変更受け付けなければいいのに。
本来作るべきタイミングで文書作れてなくて、後づけて体裁整えるために文書作るとかよくあるわ。
いろいろ社内規定が守れてないことに心当たりがあるんだけど、
最近、何かにつけ、友人たちと話していても、「今の世の中はつまらない」「テレビを見てもネットを見ても音楽を聴いても、もちろん政治や経済にしても、全く何をやっても、面白い話題、面白いコンテンツが何処にもない」という話が増えた。
誰と話をしても、驚くほどそんな声ばかりが聞こえてくる。
しかしそれにしても、じゃあどうしてこんなに今の世の中は、何もかもがつまらなくなったのか、何故みんなそう思うのか、みんな一様に「つまらない、面白くない」と言うが、それは単に我々が年を食って老害化してきたせいではないのか、そもそも本当に今の世の中はつまらないものばかりなのか、じゃあ逆に昔はそこまで面白いものばかりだったのか・・・。
そんなことを考えているうちに、ふと考えついた。
何故そんなことになったのかと理由を考えてみるに、それは、
「『弱い者が強いものを、あの手この手でやり込める』という空気がすっかり廃れてしまったせいではないか」
ということに、ふと考えが至ったのだ。
「反骨精神」と言えば少し大げさかも知れない。
「口先では立派な正論を言い、権威を振りかざして弱い者に押し付けながら、裏では卑劣なことや不正、悪いことを平然と行う、そんな偉くて強い者を、弱い者が反抗してやっつけようじゃないか」
という空気や風潮が、それなりにあったような気がする。
決して昔でもそのような風潮が強かったわけではない(むしろ圧倒的少数派だったと思う)けど、いつの頃からか、それがどんどん少なくなっていった。
そして今は何処を見渡しても、
「強い者が弱い者に、権威と力を振りかざしてもっともらしい正論を上から目線で押しつける」
「強い者は正しい。偉い者は何をやってもいい。弱い者は悪い。何をやっても許してもらえない。悔しかったら強くなれ」
「強い者が弱者面をして、『弱者こそが権威を振りかざし押しつけている悪い奴らなのです!』と主張する」
「弱い者は強い者には逆らえない。弱い者は団結できない。何をやっても無駄。あきらめるしかない。という諦念ばかりをひたすら説く」
「強い者は何をやっても勝つ。弱い者は何をやっても勝てない」
という風潮ばかりが強くなっていった。
ネットもそう、テレビもそう、スポーツもそう、他のいろいろな文化もそう、そして政治や経済の世界もそうなってしまった。
「強い者が弱い者に、あの手この手でやり込められる」という光景を、フィクションの中も含めて、自分はもう何年も長いこと見ていないような気がする。
なるほど、これでは世の中が面白くなるはずもない。
投資は余剰資本によって行われるべきである。この一般論に異論を挟む余地はないように思われる。しかし持たざる個人にとってこのような正論は役に立たない。はたして、余剰資本を持たない貧乏人は投資に参加すべきではないのか?ここで、この国において貧富の差を問わず参加の権利を認められている投資活動について考えたい。教育である。
教育とは投資である。教育投資における余剰資本を考えよう。たとえば金銭的、血統的、文化的資本が考えられるだろう。実家の太さはこれらを包含する象徴的な資本の例である。持てる個人にとっては、これらを余剰資本として子の教育投資に用いることができる。これは論を待たない。では持たざる個人にとっての教育投資は不可能なのだろうか?
ここで教育投資が持つ独特の構造に注目したい。種々の投資の中で教育投資を特徴づけるものは何か?受益者と負担者が異なるという点である。しかしながら、これらが一致するような教育投資も不可能ではない、と私は信じたい。受益者たる本人が同時に負担者となる場合を考えるのだ。負担できる資本を持たない個人は如何にしてこの投資ゲームへ参加すればよいのか?残念ながら諦めることもその1つである。いわゆる「地方」においては極めて一般的な選択の一つである。
持たざる個人ー自らに教育投資を行おうとする者ーの戦略は、どこかでこの持てる者の手続きに割り込むことにある。たとえば宝くじを当てて金銭的資本を獲得することができる。たとえば独学ー負担者によらず受益者自らが負担を負う覚悟と責任をもった自己教育ーを実践することができる。たとえばはじめから優秀に生まれつくこと(これは定義により天才であるとする)ができる。どれも極めて厳しい道である。近代日本では、身分は可能性として開放されたが、階層は依然としてゆるやかに固定されているのだ。
ここで資本としての「優秀さ」を考えてみたい。優秀さは高い給料、良い職場や人間関係、豊かな教養などの形で資本へと交換することができる。通常、これらの資本は子への教育投資となる。しかし、優秀さは自分自身への教育投資の資本とすることもできるのだ。就業前の学生においては、通常の優秀さではなく、「際立った」優秀さはこのような異なる価値を持つことを主張したい。際立った優秀さは給付金やサイドビジネスと言った形で金銭的資本や時間的資本へと換金が可能である。これを元手に自己への教育投資を行うことができる。
ひとたび優秀さを手に入れることで、持てる者と同じ正のスパイラルへと入ることができる。むしろその後天的な経験は強みですらある可能性がある。しかしながらこのような、負担者と受益者が一になるような自己教育を、戦略的に発生させることは可能だろうか。どのような制度設計が、このような自己駆動的な自己教育を誘発することができるだろうか。
パチンコ屋←クズの集まり、ギャンブル中毒者が集まる場所だから潰れろ!
パチンコファン「潰れる必要ねーだろ。人の娯楽潰そうとすんなよ」
ソシャゲ←キモオタの集まり、ガチャ中毒者が集まる場所だから潰れろ
パチンコファン「ソシャゲだって娯楽だろ、俺らの娯楽にケチつけんなよ」
だが、どちらも娯楽である。
なのに、ソシャゲプレイヤーは自分を棚に上げて他人の娯楽を潰そうとする。
要は気に入らないって理由で潰そうとしてるんだね。
一般人「あいつら無駄な金使って、無駄な争いして、何が楽しいの?」
娯楽という考えであれば、どちらも同じなのにね。
金が北に流れるとか言ってるけど、ソシャゲもお隣に流れるゲームもあるのに
どっちもやってないから言うけど、どちらも娯楽で、どちらも金の流れは日本に限らず流れるし、どちらの争いも無駄。
下手をすれば、今のパチンコで金を消費する人たちよりもソシャゲの方が金を投資するユーザーがいるでしょ。
あれだこれだ、建前を言わないで「お前らが気に入らないから潰れれば良い」って言ったほうが清々しい気がするけど。
どっちも遊ばない人からすると
転職活動の合間に、何とはなしにWantedlyへ登録してみた。
プロフィールがうまくまとまらないまま、気になる会社に10社ほどラブコールを送ったけど返事が来たのは1社。
それとは別に、スカウト機能があり、そこでベンチャー企業に「ぜひ一度遊びに来てください!!」と声がかけられた。
「では遊びに行きますね!!(実際はもっと丁寧な返事)」と返し、会社の話を聞きに行くのをメインと思ってアポを取った。
当日、行ってみると、会社の話を聞くのはそっちのけで面接スタート。
志望動機を言い(本当はここで話を聞いてから考えるつもりだったのに…)、スカウトメールではセールス担当で話が来ていたので、それでやってみたいと話した。
「前職から逃げたわけか」
「俺は経営者だから何人も人を見てきたけど、お前は社会を舐めている」
非常に驚いた。腹は立ったが、キレる気はしなかった。私に興味を持ってる体で連絡をもらったのに怒涛のダメ出しの嵐で皮肉の一つも浮かばなかった。
結局、反論する気力も湧かず、「そうですね」と相槌を打ち、そのうち「お帰りください」と言われたので開始5分で早々と切り上げた。
反論するも何も、正論だったので(でも面接はそこそこ通ってる)、言われた内容自体に対しての憤りはない。今後の転職活動に活きる場面もあるだろう。
しかし、呼び出されて、道に迷いながら、看板のかかってないオフィスまでたどり着くという時間と体力の浪費をしたにも関わらずサンドバックにされたのには納得がいかない。
経営者様は低学歴で何もスキルを持っていない人間を呼び出して憂さ晴らしをするのが趣味なのだろうか。
もし自分がもう少しこの会社をきちんと調べていればこのようなことにはなっていなかったかもしれないので、その点は反省をしている。
(少し言い訳をさせてもらうと、ベンチャー企業に話を聞きに行くというのが初めてだったので、浮かれてしまっていたのだ)
面白いSNSだと思って浮かれてしまっていたことがはっきり分かった。怪しいものにはすぐ飛びつかず、気を付けて使っていこう。
…煮え切らないので、もうちょっとぐちぐち言う。
会社ビルに看板がないのを「周りと同じ普通なことをしても仕方ない」(by経営者)として敢えて付けていないそうだが、普通に困った。
けれどエレベーターにはその会社だけテプラで名前をぴらっと貼っていて、非常に貧相で面白かった。
救いがねえ。
やっぱこうブラック産業を描く以上は、その業界が纏う閉塞感のある空気をぶち壊してくれる何かが必要なんだ。
何ていうか、この世界をコントールしているのは主人公たちなんだと信じさせてくれる力が。
炎尾燃もテラさんも編集者や世間の空気には3:7ぐらいで負けてるけど、それでも3割ぐらいまでは押し込んでくれる。
それがないとやっぱキツいぜ。
いつの間にか周りの空気の側が主人公補正に対して譲歩してくれるようじゃ駄目なんだ。
俺達のルールを押し付けてくれる俺達の旗印がいないと駄目だわ。
SHIROBAKOとか今考えるとそういうキャラの集まりだったな。
大部分のキャラがエゴと正論が混ぜ合わさったものをぶつけ合いながら描かれてた。
受け身なだけじゃ駄目なんだよ。
増田のように自分を卑下し過ぎる必要は無いが、男オタク特有の過剰なネット弁慶ぶりが女性声優へのセクハラ誹謗中傷や、コミケエロ紙袋やエロゲTシャツなどの猥褻グッズ類を堂々と公衆の面前でひけらかす迷惑行動にも繋がってるので、羨むこたーない。
彼らの脳内では「常識と非常識」「多数派と少数派」が逆転してて単に自分達がネットでは多数派だと妄想してる状態だから、本質的には増田と同じように他人の目を気にする小心者である事には変わりないんだよ。
厄介男オタクのあれは「誰がなんと言おうと堂々と己をさらけ出す心意気(笑)」ではなく、ネット多数派状態に物を言わせた集団心理の暴走で大概が人間として終了して手遅れ状態。
「キモいと思われても1人でもそれを貫く信念」というカッコいいものではなく、ネットは男オタクのもので、ネットでは自分達が絶対的なマジョリティだと思い込んでるからやってるの。
たまに一般人が正論で迷惑がっても、ツイートスクショして晒して男オタク仲間同士で凸して攻撃してアカウント削除に追い込んで楽しむ陰湿極まりない集団もいるからね。(例:野獣の日で暴れた淫夢厨)
増田の気持ちはわからんでもないんだが、「あれは人としてまずいから表に出すべきでない」という感覚を完全に失ってしまったらオタクとしてはいよいよ終了なので、増田は自分の自制心を肯定しつつバランスを模索して欲しい。
主人公たちの使う武器が凶器、子供が真似すると危険だと苦情が来たのだ。
父たちはその対応におわれていた。
「『私はヴァリオリが好きです。だが、ああ、なんてことだ。登場人物たちが凶器を持っている。青少年の健全な成長を妨げる。これはよくないことだ』とのことです」
同僚のフォンさんが苦情内容の一部を読み上げる。
一見すると尤もらしいことを並べてはいるが、その実は抽象的なテーマに対して恣意的な判断を下しているに過ぎないことは見え見えだったからだ。
それでも厄介なのが、このテーマについて知らない人間からすれば“それっぽい”と思える程度のレトリックは使われていることだ。
「的確ではないが間違ってはいない」要素を抽出し、それを根拠に自分の主張と織り交ぜてロジカルに語れば、いちゃもんは“一つの立派な批判”になる。
無視したいのに無視するわけにもいかない、非常に目障りな存在となるわけだ。
「そうだな。言論そのものは自由だ。そして、その内容をオレがどう解釈するかも、な」
「して、結論は?」
「その意見は自身の好悪の問題を善悪と混同している。それを正論に摩り替えて、意見を押し付けてくるばかりの頭でっかちな輩だ」
シューゴさんの吐く毒がいつにも増して強い。
ことあるごとにこういった“ご意見”がきていたためウンザリしていたからだ。
「まあ、いつもどおり“前向きに検討”しておけばいいんじゃねえの?」
社会における“検討”というものは、得てして結論とはさして関係がないことは周知の事実だ。
シューゴさんの立場から見れば、その意見がいくら論理的に見えても、そもそもの“目的”が同意しかねるものなのだ。
その意見を「一つの批判」として了承し、真面目に取り合うこと自体が思う壺だと判断したのだろう。
そうして、今回もシューゴさんたちはスルーを決め込むつもりだった。
「それが……今回は随分と大事になりかけていて、非常に面倒な状態に。“上”の数名からも『ウゼェから何とかしろ』とお達しが」
「は~ん……」
フォンさんの濁しつつも含みのある言い方に、シューゴさんは何となく察したらしい。
この時期、裏では『ヴァリオリ』の表現を問題だと思っている人間たちが徒党を組んで、親会社に直訴していたのだ。
それに耐えかねた会社の代表は、とうとう父たちのスタジオに通達を出したのである。
「不服ではありますが、こうなるとガン無視というわけにもいきませんね……」
「そうですよ。それに一番困るのは、そんな理由で親が子供たちにアニメそのものを見せないようにすることです」
「“子供のことも考えて”か。そのセリフを言うのはいつだって一部の大人だよな」
しかし子供を盾にされると、さすがのシューゴさんもバツが悪い。
シューゴさんの両親は厳格な人物で、そのため彼は少年時代を娯楽に飢えて過ごさざるを得なかった。
その経験から、親の理想で子供が犠牲になることほど悲しいものはないと思っていたのだ。
「……ちっ、分かったよ。もめ事が起こると疲れるだけだから、とりあえず従っておくか」
シューゴさんは作り手として、多少の批判を恐れていてはモノ作りなんてできないと考えていた。
それを汲み取りたい気持ちは父やフォンさんにもあったが、上の声が大きくなったときに無視とはいかないのが企業の常だ。
大人しく従ってくれるシューゴさんにホッとしたと同時に、彼の鬱屈とした想いが手に取るように分かることもあって父は複雑な気持ちだったらしい。
「では早速対応……と行きたい所ですが、スケジュール的に数話分の大幅な修正はもう無理ですね」
「そうですね。なのでオープニングの前に、ひとまず“あのカット”を挟みましょう」
「うげえ……“アレ”かよ」