はてなキーワード: 小説家とは
まじでこれ。
小説家になりたい人は多いのだから、既存の賞に応募するだけではなく
どうやって自分の作品を目立たせて手に取ってもらえるかが一番大事だと思う。
マーケティング、広告デザイン、コピーライティングの本を読んで自分で作品の認知を上げる手段をとるべき。
映画のトレーラーのような動画を作ってYouTubeやツイッターに流したり
100日後に死ぬワニみたいに毎日少しずつ読める小説をツイートしたり
友達となにげない会話をするのではなく、
小説とは全然関係ない面白いツイートでファンを増やしたりするのも有効。
そこでセンスを見せつけたら長い小説にも興味をもってもらえるはず。
もうやってるのかもしれないけど。
某コンテンツに興味が湧いて呟いたら、その二次創作をしている女性からこっちにおいで~と、お声がかかった。
なんとなく、絵柄とストーリー的に某コンテンツは男性向けだと思っていたので、女性で二次創作してる人がいたんだ!と、まずそこが驚きで。
まあ、今は元々男性をターゲットにしたであろうコンテンツの二次創作を女性がやってるしなんなら二次創作界隈ほぼ女性しかいないっていうことは普通にあるけれども。
ただ、男性向けっていってもなんとなく女性の二次創作書きにはウケない方面ってあるじゃないですか。一部の女性エロ絵師・小説家が男性にウケのいい感じの表現方法でもって二次創作をしているのみっぽいなという。某コンテンツもその方面かとてっきり思ってたら、違うというんですよ。まあ驚きましたね。
それはいいんだけど、その二次創作界隈が意外にも女性ばかりであるという理由を、私に話しかけてきた人は、だってこのコンテンツは女の子二、三人しか出て来ないしあとはおじさんばっかりだから男性は二次創作やらないですよ、と言った。
ああ、そうなんだ。てっきり私はその二、三人でヌケる絵や漫画や文章をこしらえる男性のユートピアなのかなと思ってたんだけど、そうなんだ。イケおじ狙いの女の園……だったなんて。その発想はなかったな。
しかし、もしかするとその女性のいうところの某コンテンツの「二次創作界隈」というのはごくごく限られた範囲なのではあるまいか?という気もした。男性の二次創作事情は知らないけど、女性の二次創作だと、一つのジャンルに実は複数の「界隈」が存在するのにお互いに他の「界隈」が全く見えていない、ということがよくある。某コンテンツの二次創作界隈でも女性と男性で別々に集団になっていてお互いに相手の存在に気づいてないだけっていうことはないのかな。
以前増田で、私がBANANAFISHがハードなストーリーのアクションものだからって「もはや少女漫画ではない」って男オタから言われるのはなんかやだというようなことを書いたら、「わかるよ、自分は腐女子から『幽遊白書』を私達のものだって言われたらイラッとする。それと同じだろ?」っていうリプライがあって、かつて幽遊白書でごりごりに腐妄想をしまくってなんなら作品まで拵えた私はうぐっ!っと心の臓が潰れそうになった。そんな思い出話はともかく、あの某コンテンツですら「イケおじパラダイスだから私達の島」と平然と言われてしまうなど。私は領土侵犯のにおいを感じて気後れしちゃうので、その二次創作界隈には入らない。
webエンジニアの人気が高いのは底辺の一発逆転思想にマッチしているからではないか。
何もできない年をとったニートやフリーターが正社員として働く道はほぼない。
キャリアを積むための就職すらできないから勉強でスキルをつけたがる。
勉強だけやれば働けそうな仕事ということでプログラマー、特に自由でクリエイティブそうなwebエンジニアが持ち上がるわけだ。
しかも一発逆転思想の底辺はプログラミングを知らないから、自分にも才能があるかもしれないと思っている。
(プログラミングをできるようには誰でもなれるし、才能が無くても働ける。頑張れば。)
もちろんwebエンジニアもピンキリで、研究職を経てGoogleに行く人や大学生で成果を出してYahoo!に行く人もいる。
しかしこれから勉強する人はメガベンチャーではなくスタートアップの小さい会社に行くだろう。
それでも土木作業員を内心馬鹿にしている自意識の高い底辺にとって、
スーツすら着る必要がなくオシャレなオフィスでパソコンをいじりながら働ける環境は自尊心を守るのにちょうどいい。
たとえ給料が低くてサービス残業が多くても、意識高いクリエイターだから仕方がないと自分で納得できる。
プログラマー・エンジニアになった奴が「なり方」とか言ってるの見ると気持ち悪い
大体の人はなれない
とは言っても、小説家とか歌手とか、ああいうのよりはよっぽど目がある
知り合いに他業種から来た人はたくさんいる
音楽で食って行けずに転向した人、土方から転向した人、営業から転向した人
どれも優秀な人だった
でもその「なれた人」の影には大量の「なれなかった人」がいる
彼らについて語られることは少ない
これからなろうって人にはその壁が見えていない事が多い
一個目の壁は単純な地頭
最低限、それなりに頭がいい方じゃないと厳しい
国立大は余裕で入れる程度じゃないと厳しい
もちろん例外はある、土方から来た人は高卒だった、でもそういうのはあくまで例外
一方で有名大学を出ていたとしても向かない人も居る
プログラミングを勉強で覚えられたと言っても、実務に就けるチャンスが必要になる
この壁は正攻法がない
ここで詰む人も多い
そしてようやく手に入れた実務で成長できるかどうかという壁もある
いい会社に入れたとしても、基本誰も教えてくれない
プログラミングや基本情報みたいな知識は本に書いてるが、実務をちゃんと教えてくれる環境というのは少ない
新卒で入ったら多分教えてくれるんだけど、中途には基本無い
うまくいかないとどこかで心折れる
というか多すぎてもはや覚えない
わからないことが多すぎるのがデフォで、そこから調べたりして解決していく
常に勉強してる状態だし、自分で答えを探すため行動しなければならないが
プログラミングを覚えたとしてもそこで詰む人もいる
それらを脱して3年4年と実務経験が詰めたとして、その実務の領域が突然消えることがある
そうしたらまた覚え直し
うまくスイッチできればいいけど、できなきゃ詰む
これら全部ちゃんとこなせた上で、高い給料とホワイトな働き方、やりがいがある仕事ができるかといえばそれはまた別
ここまできてようやく「そこらのぱっとしないエンジニア」だが
ここまでこれるのが多分2割以下だ
プログラマーなりたい人は本当にこれを目指してんのか?
もちろん、自分と違う意見を持っていた、ということでそれに論駁するのは健全だと思う。しかし
「政治的発言なんかするな」って言ってる連中は、彼らが自分のための快楽製造機か何かだと思っているんだろうか
なんなら、我々を楽しませている作品は、多くの場合において、その作家が人生において得た知性や価値観を総動員し、必要な関係各所に取材し、テーマなども綿密に考慮して描かれている
よっぽどの天才でもない限り創作活動とは痛みを伴うものだ。文句を言う連中が何も考えずに消費しているかもしれないその作品は、実はとんでもない知的生産行為の元に生み出されたものだ
文句を言う連中よりも遥かに社会について勉強したことのある彼らが、社会についてなにか言ったときに「政治的発言するなんて」と失望するのは、そいつらが何も考えずに享楽的に作品を消費し続けてきたことの証左にすぎない
少女まんがって 陰キャ主人公女子がかっこいい男子に好かれる っていうのがアーキタイプじゃんか(雑)
「違国日記」読んでそれを思い出したわ。
主人公(作者(漫画家)の分身(小説家)でもあり、想定読者が自分を投影するキャラクターでもある)のダメな点
「自称する”薄情”」もイケメンに「いやあなた実は熱いキャラでしょ」と肯定される。
うわー メガネの下の素顔がカワイイの、オレは知ってるぜアピール!
少年漫画のヒーローっぽく、あるいはTVドラマの主役みたいな憧れられる対象。美人で仕事ができて稼ぎがあって楽しい友人たちがいる主人公。
けれど…陰キャブスと見なされていないだけで、20年前の少女漫画読者ターゲットにマーケティングばっちりや
最新刊ではどうなってるか知らんけど
。
森○嗣という理系小説家が日記型エッセイの中でいっていたのだが
作品の感想てのは誤字・誤植の指摘以外はほぼほぼ思ったとおりのところに玉がかえってくるようになった。
それであまり欲しくなくなったと。
読者とのキャッチボールというより、ピッチャーフライで打ち取ろうとおもってなげたらちゃんとピッチャーフライが帰ってくる、
三遊間に打たせようとおもったら三遊間にいく、というようなコントロール含めてプロの仕事をしているのだ、という印象を受けた。
自分の場合はそこまでプロではないが、たいてい最後まで飽きずに読まれただけ、文字通り本当によんでもらえただけで満足ではある。
また、それ以上の感想はやはりコントローラブルすぎて蛇足になる気配は少しある。
盛り上げたシーンで盛り上がりましたねっていう感想がくる。
ごくあたりまえの感想をいただき、好意がありがたいと思うだけなのだ。
だって監督オレ、演出オレ、音楽オレで小道具大道具オレ、背景協力オレ、レシピ指導と方言指導もオレ、の映画みたいなもんだし。
「自分はネコフェチなのでネコがいじめられているようにみえて困りました」みたいな予想外のはあまりこない(そういう目的外にまで届くほどは売れてないだけでもある)
ただ、たまに自分の守備でない一枚イラストでのいいシーン再現とか
肉声(いいセリフとして朗読されたり)とかあると、うわっそうか!すげーな!越えられた!ってなる。
たぶん描画エンジンがなく描写文エンジンしか搭載してないタイプの人間なんだろう。
で、結末が見える前から表紙描きさんを指定しておねがいして相応のお時間と謝礼をなげつけておくと
たいてい自分で作るより300倍くらいいいのがかえってきて、
そこで表紙つき、または挿絵つきの本が出せたし出店できた時点で
でもたまに絵もなにもないネット書き捨て文章にむかってすっごく把握しきった絵を投げてくれる人がいて
その人と次の本を出す。
そんな感じ。
どの職にも特有のストレスというものはあるだろうけど、小説家にもつらいものがある。
それは仲間作家の存在だ。作品と著者人格は切り離すべきだとは思いつつも、ああまでつまらない小説で人から金を取ろうとする神経を疑ってしまう。
そしてつまらない小説に面白かったですよ~とか言うのは耐えられないのだ。いやずっと耐えてはきたけど、そろそろHPがなくなりそうなのだ。
せっかくの増田だしストレートに思ってることを書いてストレスを発散しよう。
カスみたいな中身のない小説で金を稼ごうとするな!!!!!!!!!
もっと内容に技巧を凝らして価値のある本を作って読者を感動させろタコ助!!!!!!!!!!
少なくとも人の感情くらいウソをつかずに正直に書けよ!!!お前らの小説のキャラクターうそばっかなんだよ!!!!!!!!!!!
書いた。海に向かって叫んだわけではないのでまったく気分は晴れないけど、それはともかく。
無論シビアな業界であり、話の質よりもパッケージを含めたマーケティングに精を出す方が職業作家としては大事だということはわかりつつも、どうしてもそういう風に思ってしまうわけである。人柄だけ取ったときは本当にいい友達なのでなおさらつらい。
最適解は知り合いの小説はそもそも読まないようにすることだと思う。これが精神衛生上一番よさそうだ。でも向こうが読んでくれているときに申し訳ない気持ちになるし、今まで読んでいたのに急に読まなくなったら変に思われるだろう。
もしくは自分が本当に好きだと思える小説を書く人にだけ会うようにするか。いやそれは無理だ。そもそもこの年になって新しく読んで面白いと思える小説なんて百冊に一冊あるかないかだ。
中にはかなり割り切れている人もいて「読みマシタ面白かったデス」とbotのように答える作家もいる。それがいかに内容の薄い感想であったとしても、受け取る側もなんとなく察しているから特に踏み込んできたりはしない。これは大人のマナーみたいなものだろう。そもそも人に読んでもらえるだけありがたいというのは変わらないので、読んでもらった上にさらに面白いという感想まで求めようとするプロは少ない。というか少なくとも私は見たことがない。
いい年こいて知り合い以上のトモダチを作ろうとしている自分が悪いのだろうかと思うときもある。割り切った付き合い方ができる人は「知り合い」を作るのがうまくて、本音で話す相手は奥さんとか旧来の友達とか編集相手に限るんだろう。非常にオトナ的だし賢いといえる。そういう人は作家間のコミュニティもうまくいくし色々な場所に呼ばれて人脈が広がり、仕事が増えてよりマーケティングもしやすくなるのかもしれない。とするとやらないほうがアホだな。私はきっとアホなんだ。そして不器用なんだ。でもこういうことでうじうじ悩むような人間性だから作家になったんじゃないかとも思う。
一流作家の桜庭一樹さんは、新人作家に対するアドバイスとして「群れるな」と言っていた。きっと色々なニュアンスを含んだ言葉ではあるんだろうけど、この場合でも当てはまるに違いない。
いい小説はいいと思い、わるい小説はわるいと感じる。そうしてはっきりと色分けをしないことには、自分の書いたものがいいか悪いかもわからなくなってしまう。
作家にありがちだが、私は言霊の存在を信じている。言っていることはいずれ現実になってしまうという恐ろしいシステムを。
私がたとえウソでもつまらない小説を面白いと言いたくないのは、それを口にしてしまったら、いつか遠い未来で自分が不安になるとわかっているからだろう。いずれ思い返したときに、あれを面白いと口にした場面が蘇ってしまい、きっと自信が持てなくなるに違いない。価値判断とは難しいものだ。
人付き合いに辟易して会社をやめたときも同じようなことを考えていたな。正直でいなければならないというのもコミュ障の持つ欠陥のひとつだ。
結論は出ないが決めた。
少なくとも、今後新しく会う作家の小説は読まないようにしよう。
既に知り合いの作家の新刊は? どちらかというとこっちの方が問題だけど。
読む時間がないと言い訳できるほど忙しい人間じゃないことは周知の事実だ。
本当に友達だったら、あるいはこういった本心を話しても大丈夫なのかもしれない。でもやっぱりそんな域ではないのだろうな。
うーん、困ったよなぁ。
読んで正直に今回は微妙でしたって告げる方がいいのかな。少なくとも私だったら正直な感想をもらえた方がずっと嬉しいな。
そうするか?
ところでネット上のレビューを読むと、このあとがきは賛否両論のようだ。
「めちゃくちゃ面白い!」
「これだけでも一読の価値がある」
という人もあれば、はっきりと嫌悪する人もある。特にアマゾンの、
「あとがきで、女性の半生記を長々と読ませられるのはベリベリ白けてしまった。「中国の行動原理」は読みたいが、著者の行動原理は不要である。」
「著者のファミリーのヒストリーがあとがきで書かれているが、少なくともこの本のあとがきとしては不要でしょう。」
このての感想はなんつうか、物事の本質が分かってねえ貧しい輩だなと思う。
"本編は面白いけどあとがきは不要"って……。いやいや逆でしょ。
こういうあとがきを書くような(或いは書かずにいられないような)人だから、こういう面白い本編が書けるんだよ!
本は情報を吸収する道具、著者は情報を提供してくれる装置、では断じてないのだ。
真に面白い本というのは、どうしても書かずにはいられない、あるいはそのようにしか書けない、やむにやまれぬのっぴきならない著者だけの特殊な事情がある。
何かについて語るということは、それを語る自分が何者であるかを包み隠さず開陳すること同義。
その一糸まとわぬ脱ぎっぷりのよさに、余人に真似できぬ面白さが宿るのだ。
そうせずに小手先のマーケティングで書いたものなんて、いくら有益で新奇な情報を扱っていても面白さには程遠い。
これはなにも小説や脚本の話だけでなく、学者の書くものだって同じことだ。
「私的な世界と公的な世界とは、きわめて複雑なかたちで混ざりあっている」
「いっぽうには、わたし自身の歴史があり、わたしの経験からひきだされたわたしの価値観や、わたしの書いたものや、わたしの立場がある。そしていまいっぽうには、こうしたことがらを吸収する社会的な世界があり、そこでは戦争や自由や公正について人びとが議論したり決断をくだしている。私的な知識人というものが存在しないのは、あなたが言葉を書きつけ、それを公表するまさにその瞬間、あなたは公的な世界にはいりこんだことになるからだ」
「つねに個人的な曲解があり、私的な感性が存在する。そして、個人的な曲解なり感性が、いま語られつつあることや、書かれつつあることに、意味をあたえるのである」
「ジャン=ポール・サルトルやバーランド・ラッセルの書いたものを読むとき強く迫ってくるのは、その論じかたではなく、彼ら特有の個人的な声であり、その存在感であるが、これは、彼らが自分の信ずるところを臆せず語っているからである。彼らが、顔のない役人やことなかれ主義の官僚によもやまちがわれることはあるまい」
そう、だから、パンツ脱がずに小手先の情報だけで書こうとすると、必然的に無難な一般論や官僚答弁に行きつく。誰が書いても同じなんだから。
そうすると書き手の洞察は深いところまで届かず、したがって読者に感動なり知的興奮なりを与えるような面白い本にはなり得ない。
話を益尾氏の本に戻すと、
なぜ"東京対北京"に収斂できない「女性の半生記を長々と」書くのか。
本編を読んでもその意味と必要性が本当に分からない読者がいるとしたら、そいつはもう馬鹿としか言いようがない。
ちょっと熱くなってしまったが、走り書きなので言葉遣いが汚いのは許してほしい。
そもそも自分は「学者の書くあとがき」が好きなのだ。半分タレント化した人は別として。
学者の場合、小説家などの他の文筆業と違ってどうしても本編の制約が大きい。
たとえ一般向けであれ「学者の顔」で書く以上は、事実関係や客観性を重んじるのは勿論、表題に掲げたテーマに何らかの結論を出すことが求められるから。
それだけに、あとがきでは「学者の顔」に収まりきらない著者の顔がにじみでているのが、本編と相まってすごく味わい深く思えるのだ。
その意味で益尾氏のこのあとがきは、「学者のあとがき」として大変面白かった。
自分が今まで読んだ中では、安丸良夫『近代天皇像の形成』のあとがきを彷彿とさせる面白さ(この意味が知りたい人は読んでもらえれば分かる)。