はてなキーワード: 命題とは
1.数秒で思いつける安直なコメントで「はい論破」と片付けられるのが嫌だったから
2.「バリアはったから無敵な」の理不尽さが面白いと思ったから
3.文章だけ読むとたしかに「命題の否定」という意味の「反論」にはならないから(ただしこれは論理学上の正しさを悪用したズルであり、ある種の釣り)
4.男が悪役を好きなことはあるのは当然そうだけど、それは女が悪役を好きになる様態と質と量が異なるのに「好き」の一言で片付けるのはあまりにも大雑把だから(「偏愛」の語に含意した)
5.↑に上げたことを事細かに話すのが面倒くさいし、上記のことをいうような人は恐らく「オタク界隈に余り触れてきてなくて肌感を持ってない、いっちょかみのインスタントな人たち」で説得するのは無益だから
実際のところ私は「(男と比較して)」という前提をおいていました
そのため「男も女と比較して同程度にそうだ」というのは実は反論になっています
論理構造が保持するのは前提となる命題の確らしさを基にした説明力であって、説得力を増やしたり減らしたりするものではない。
例えば三段論法は(論理学的な意味で)トートロジーなので、その帰結の確らしさ、健全性(説明力)は、前提となる各命題の確らしさ、健全性をそのまま保持する。
トートロジーな推論規則に基づいて演繹した帰結は、前提となる命題の確らしさをそのまま受け継ぐ。
トートロジーな議論が確らしさを増やしたり減らしたりすることはない。前提が真なら、トートロジーな推論規則によって得られる帰結も真である。
しかし前提が真の命題からなるトートロジーな推論が、説得力をも持つかはまた別の話だ。
つまり、最も厳密な論理構造はトートロジーだが、トートロジーな議論そのものは説明力を増やさない。トートロジーな議論は前提となる命題の確らしさ、説明力を保持する。
一方、説得力は言葉遣いによって増やしたり減らしたりすることができる。
論理構造に問題がない(または、問題としないと決めた)のならば、ある議論をより良くするためには、言葉尻を修正して説得力を増やすなどの改善を考えるべきである。
逆裏対偶も大事なんだけど、傾向の話(Aな人はBしやすい、みたいな)をしてるのに例外を1個上げて全体を否定したつもりになってるアホが多すぎるのもどうにかして欲しい。
選挙期間で元首相の国会議員が演説中に銃撃によって殺されているのにテロじゃないわけないだろ…。こんなくだらない言葉遊びには付き合いたくもないんだが、某掲示板やSNSで一般ピープルが言ってるならまだしも一部ジャーナリストやインフルエンサーまで言ってる人がいる事にびっくりして増田に書くことを決めた。
明らかに犯人は安倍晋三を殺すことによって社会にメッセージを送ることを目的とした犯罪で、国内外のメディアもはっきりとテロといっており世界のどこで起きてもテロ以外何者でもないんだが。
逆に選挙期間で元首相の国会議員が演説中に銃撃によって殺されているのにテロではないとした事件があるのなら募集してますので教えてくださいねー。ま、ないだろうけど(笑)
「動機に政治的意図が窺えない」という点ではジョン・レノン殺害事件に近いと思われますが、あれを「テロ」に含めるというなら、増田の言い分にも一理あるとは思います。言い方はともかく
このコメントについては2つ間違いがあって
犯人の動機に政治的意図が窺えないとは思えない、まだ裁判も始まっていないので動機の全容は明らかではないが、犯人が犯行前に書き残した手紙には安倍晋三についてこう書かれている
苦々しくは思っていましたが、本来の敵ではない
とあるように犯人自身も安倍晋三本人が本来の敵ではない事を認めている。書かれている内容からして安倍晋三を殺害することで反統一教会のメッセージを送り、社会を変えようとしたのは明らか。政治的な動機としては十分。
まずジョンレノンは元首相の国会議員ではないし演説中に銃撃されたわけでもない、全く根本的に異なる事件で比較にならない。被害者と加害者の属性や関係性によって事件の呼ばれ方が変わるのは当然。
例えジョンレノン殺害事件がテロだと言われるにしても、安倍暗殺事件がテロかどうかには全く関係ない。
えーっと結局は僕が最初に求めた「選挙期間で元首相の国会議員が演説中に銃撃によって殺されているのにテロではないとした事件」でもないんでね…皆さん懲りずに探してきてくださいね^ ^
ブクマが少し伸びてたのでいくつかコメントにお答え致しまーす。
日本国政府は「テロ」を定義してません。おそらく今後もしないでしょう。今回の事件も公式にテロとは言ってないですよね。何故定義しないかはその方が都合がいいからです。
これはデマ、安倍政権時代に国会で政府側はテロの定義について過去に答弁してますね。
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a193125.htm
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b193125.htm
また、ここで問うてるのは一般的な意義としてのテロに当てはまるかであって法令的な意義や日本政府の認定は関係ないとは言い過ぎかもしれないですが、主題ではありません。何故なら影響力のあるメディアやジャーナリストがテロではないと言ってる事を問題視しているからです。どちらにせよ、どの政党も民主主義への挑戦と発表しているのでほぼテロと同義だと僕は考えてますが。
テロルだとしたらそれは「元議員を殺した」からじゃなくて、統一教会と社会の結びつきに意義を申し立てるという、「政治的な意味」でだな。安倍を殺したからってだけではテロではない。
今回の事件は"統一教会と社会の結びつきに意義を申し立てる"のは同意ですが、事件は相手の立場や関係性で変わってきます。
例えば家族に暴力を振るえばDVですし、上司が部下に暴力を振るえばパワハラ、政治活動中の政治家に暴力を振るえばそれはテロです。
実際に福山哲郎議員が今年の5月、政治活動中に暴行された際にも所属している立憲民主党が「暴力によって政治的表現の自由を踏みにじるあらゆる行為に対し断固抗議する」と強く非難を発表していました。この際に犯人の動機の種類は特に問題視されてませんでしたね。
https://www.fnn.jp/articles/-/355079?display=full
それを含めると安倍晋三暗殺事件は政治活動中の元総理の国家議員が政治活動中に殺されたこと、犯人が強く社会にメッセージを送るのが目的だったこと、2つの理由でテロ以外何者でもないです。
ケネディ暗殺事件はテロです。Google検索すれば幾らでも同事件をテロだとしている記事はありますし、政治活動中の大統領を殺すのはテロリズムになります。
もうだいたい論破できたかなw、テロではないって事を改革の免罪符にしたかったんだろうけど、もうこれテロ以外何者でもないだろ(笑)。
僕はそういう人達は現状日本社会がテロで変わってしまう・テロでしか変わらないのかという問題点・本当に改革しなければならない事も考えてほしいですねー。それでも反論あるならお待ちしてますー。(^^)v
最初に記事を書いて2.3日経ってるからもう伸びんだろと油断していたら少しブコメが伸びてたのでいくつか返信します。ここまで記事が長くなると読んでくれる人はいなくなし、スターもついてないあんまり支持されてないコメントに返信してもな…とも思いましたが、せっかく書いてくれたんでね。
ググったらテロって書いてるからテロって言われてもなあ。もちろん日常語のレベルでは何と言おうと別にいいんだけど、政治学的な定義の話をしたいんじゃないの?
特に政治学的な定義の話ではなく一般的な言葉の認識をしています。ケネディ暗殺事件をググれカスで処理したのはもう何度もテロの定義について話してきたのでさすがに読む方もわかるだろと省略しましたが、これは僕の怠惰でしたね。
そもそもの記事を書いた理由として一部ジャーナリストやインフルエンサーが言ってる安倍晋三暗殺事件をテロではないと言うのに違和感を感じたからです。明らかにテロであるものをテロではないと言うのは、鹿を指して馬というような、戦争ではなくて軍事作戦と言い換えるようなことと、同種の欺瞞でしかないです。
改めて書きますが、ケネディ暗殺事件政治家が政治活動中に暗殺されてますし、明らかにテロになります。
さらに犯人の動機については全容は明らかになっていませんが、少なからず残っている供述から社会から隔絶していた自らの生活の不満をケネディに暗殺する事に向けたと推察されます、これらは最近欧米でも言われている社会的に孤立し窮乏している人間によるローンウルフ型テロの典型です。
また、ケネディ暗殺事件はAssassinationと呼称され、Assassinationはテロの一文類になります。
「暗殺(あんさつ、英語: Assassination)とは、おもに政治的・思想的動機に基づき要人を非合法に殺害することであり[1]、テロリズム行為の一形態に分類される[2]」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/暗殺
明らかに安倍晋三暗殺事件はテロで、この議論の空虚さを感じてますが、この事件をテロではないとしようとし、その考えがこの社会を覆う事に危機感を抱き、草の根レベルの運動にはなるがこの記事を書きました。
どう都合がいいのでしょうか?政治家が銃で殺されてるのに、テロではないとした方が、体制側の奈良県警の責任逃れを強く感じます。
この事件をテロとすることで、統一教会に対する批判をテロの追認とおき批判を封じたいという思惑が当初ウヨ側にあったんだよね。今は誰もそんなの気にせずガンガン叩いてるから、もはやどっちでも良い。
どっちでもいいなら、何故これだけ反論が寄せらられたのでしょうか?貴方の物言いは正直、"効いてて草"としか感じないです。
論点が見えない。「政治家が演説中に殺されたら即テロと断定」との命題であれば、私の回答は偽。もし愛人との痴情のもつれで銃撃されたらテロではなかろう。山上容疑者の銃撃がテロなのか怨恨なのかはまだ不明
論点は安倍暗殺事件がテロかテロでないかです。ここまで書いてきてそこがわからない人がいる事に脱力してます…
山上徹也は安倍晋三の愛人ではありませんし、山上-安倍間には痴情のもつれはありません。
何度でも書きますが、事件は相手の立場や関係性で変わってきます。
例えば家族に暴力を振るえばDVですし、上司が部下に暴力を振るえばパワハラ、政治活動中の政治家に暴力を振るえばそれはテロです。
テロだと思いたい本当の理由は「テロの被害者が無垢」という考え方にありそうだな。たとえテロであっても自民と統一教会の結びつきは糾弾されるべき性質のもの。
テロかテロでないかのに被害者が無垢であるかそうでないかは全く関係ありません。
改革するなとは言いませんが、テロによって変わってしまう日本社会に問題意識は持ってほしい。
政治と宗教の癒着を改善する事はこの問題の表層的な事でしかなく、今語られていることは本質的な議論にはなってません。
氷河期世代等々の失職し生活が窮乏している人達への就労や学業支援の在り方やセーフティネット、孤立している人達への受け皿になるコミュニティ等々、他にも議論されるべき課題はあり、本質的な改革や整備がされないままだと、山上徹也のような頭のイカレたテロリストはこの社会に内在し続けます。
もう、反論さすがにないでしょ。記事作成から2ー3日経ってるし、ここまで長くなれば読む人はいないだろうし。ここまで書いてまだ反論あるなら私は一向に構わん!ですがね、ご意見お待ちしてますー。
たとえばこの例文ではの例文で想定してる職場への就職には例外なく修士号が要求されているのだと言っているわけだ。
あと後半への反論は「そのうえで~」以降で満たされてるね。
補足すれば「庇護は期間限定」とかなんちゃら言ってた短文トラバは明らかに元増田と対立する立場だろう。
それに反論する目的や反論する内容のトラバの存在意義としてまず考えられるのは単純に元増田を擁護することだな。
あるいはただ全体の話の流れは関係なくトップページに流れて来た「反論の余地のある内容」反論したい(当該トラバに批判範囲が完結している)というだけのタイプ、是々非々主義者の可能性もある。なにかおかしいことあるか?
ここまでいってなお「あんたの勝手な推測・解釈・思い込み」というなら、俺がしたように辞書の引用とか客観的な根拠を示して反論してほしいものだね
そもそも元増田でも短文トラバ書いた本人でもないだろうに、なんで推測だの一点張りするほど根拠も薄弱のくせにそんなムキになって日をまたいでレスバしに行ってるのが疑問なんだけどね
あと何日続ける気なんだ
僕の人生は基本的に悪夢によって規定されていると言ってもいい。そのような悪夢が初めて自分を襲ったのは四歳だか五歳だかの未就学児だった時期である。
この悪夢について僕は詳細を語るつもりはない。
それは明確に僕にとっての呪いであり、そして僕の人生を根本的に規定している夢だからである。
このような夢を安易に語ることによって、これまで僕が人生を運営していく上で必要としてきたシステム――要するに倫理――に悪影響が出ないとも限らない。僕はこの悪夢を基本的に墓場まで持っていくつもりである。もし、僕がこの悪夢を誰かに語るとすれば、それは僕が誰かに呪いを移し替えたいという、純粋な悪意によって衝き動かされる時に限られるだろう。
そのようにして、四歳だか五歳だかの時に、記憶に残る上では人生で初めての悪夢に見舞われ、僕の人生はある種決定付けられた。
悪夢とは――端的に落とし穴である。それは闇夜の落とし穴であり、夜になれば我々は必ず眠りに就かなくてはならず、つまり、闇夜の中を目印無しに歩かなくてはならなくなる。無事に夜明けまで辿り着ける場合もあれば、真っ逆さまに穴の中に転落することもある。それが我々にとっての――少なくとも僕が五歳だの六歳だった時の――悪夢だった。そのような悪夢を避けることは、基本的にはできない。偶発的に穴には落ちる。歩く限りで、そしてそこが闇夜である限りで、また、その闇夜の道に無数の穴が掘られている限りで――必ず我々は穴に落ちることになるのである。すなわち、悪夢を見ることになるのである。マーフィーの法則を持ち出すまでもなく、それが僕にとっての悪夢というものの在り方だった。
いかにしてこの悪夢を避けるべきか――という思考が芽生えたのはいつのことだったか、それは流石に未就学児の時ではなかったと思う。僕はその後も順調に、人生の岐路において悪夢に見舞われ続けた。つまり、積極的にこの悪夢を退けようとする姿勢――僕にとっての倫理的姿勢――を身に着けるのは、もう少し後のこととなる。
六歳だか七歳だかの時には、ランドセルほどのサイズの大きな蛾が、背中にしがみついた状態で、闇夜を歩く夢を見た。そして、その夢の中で僕の手には鎖と鉄球が結ばれており、それを引きずっていた。
以前その夢について増田に書いた時があったのだけれど、それは僕にとっての「カフカ的な重み」であったと増田には記させてもらった。六歳だか七歳だかにして、過負荷(当時のブコメからの引用)を背負うことは、はっきり言えばそれなりにハードなことだった。何でまた僕はこんな幼少期からこんな重みを引きずって歩かなくてはならないのだ? 僕はまともに歩くことさえ困難な状態におかれてしまっているじゃないか、と。
◇
時に美しい夢を見ることもあった。意中の女性を抱き締め、愛を語らう夢。そんな夢から覚めた直後には、朝の静かな空気の中で僕は幸せを噛み締めていた。
とは言え、そのような美しい夢に比して、同数以上の悪夢を見ることに、青年期の僕はうんざりとしていた。その殆どは、僕が所謂゛カフカ的重み”――つまりは゛過負荷”を背負っていることを突き付けようとする悪夢であった。
荷物が重すぎるのである。それを何度となく、僕は僕自身の悪夢によって示されることになった。゛お前はここから逃げられない”と。゛荷物を下ろそうとしたところで、それは無駄なのだ”と。゛お前の背負っている重みを常に直視し続けろ”と。
さて、僕はどうするべきだったのだろう。
勿論、僕のやるべきことは一つだけだった。つまり、荷物が何であるかを見定め、それをできる限りパージしていく――円満に背中から下ろしていく――ということそれだけだった。
僕は自分の重みから解放されなければならなかった。その手順を、一つ一つ確実に踏まなければならなかった。間違ったやり方をしてしまえば、その重みが加速度的に増して、自分の背中を押し潰すことは、僕にとって殆ど自明のことだった。
そう、゛間違えてはならない”のである。
正しいことをし続けなくてはいけなかったのである。何故なら、そこで間違った選択をすれば、僕は更に゛過負荷”に晒されることとなったであろうからである。
この場合の゛正しいこと”とは、繰り返すように、゛過負荷”について正しく理解し、目を逸らさず、誠実にその重みを扱っていくことである。幸か不幸か、僕は自分にとってのおぞましい重みが眼前に提示された際、その重みを瞬き一つせずに眺めてしまうという性向を持っていた。そのような性向はある意味では僕の青年期の情景に影を滲ませることになったが、同時に、その時の僕にとってこの上なく必要な事柄をもたらしたのである。
僕はそこから目を逸らしてはならなかったのだ。
僕が正しいことをしなくてはならない、そのために、全力を注がなくてはならない、そう決意したのは、悪夢の影響だった。自分にとって正しいことをし続けること、自分の素直な気持ちを大切にし、本当に大切なものだけを搔き集め、そうでないものに囚われないようにすること――かかる方法のみを以てしてしか、自分の重みを取り除くことができないことは、僕にとって明らかだったのである。シンプルに言えば、僕は正しいことをし続けなければ死んでしまっていたのである。僕自身の過負荷によって。
◇
僕自身にとっての倫理とはかかるものである。つまり、『死にたくなければ(悪夢の過負荷に押しつぶされたくなければ)、正しいことをし続けろ』というシンプルな命題。それが、僕にとっての倫理だった。
僕は、そのような倫理を個人的な格率として保持し続けた。僕が人生を生き切るためには、自分の夢を敵に回すのではなく、自分の夢に味方になってもらうことが、必要不可欠だったのである。
その後、僕は様々な人生のトラブルに見舞われることとなった。最も最近のトラブルは今年の初めくらいから生起しており、正直なところ正気を保つのに随分苦労しているのだが、しかし、ここまでやってきた努力の成果もあってか、夢だけは常に味方になってくれていた。
朝目覚め、少しだけ悲しい気分になるのだけど、でも、少なくともそれは悪夢の目覚めに比べれば、五千倍はマシなのだ。
◇
ここ100年ほどの数学のやり方だと小学校レベルの「角度が全部60度の三角形は三辺の長さも等しい」程度の命題すら
または通常より複雑な公理系を用いた上で角度等を定義しなければいけないと言うのはあんまり世間では意識されてない気がする。
いやぶっちゃけ意識する必要はない。どっかの議員に賛成する訳では決してないが
現代の数学のスタイルなんて殆どの人達にとって学ばなきゃいけない物では無いのは確かだと思う。
ただいっちょ前に数学に関しての哲学的な要素について口挟みたい奴がはてなとかにもいるけど
だったらせめてこの程度の現代数学の特徴くらいは分かっておくべきではあるとは思う。
同じ端点を持つ2つの半直線の間の角度を定義するには、現代の数学では合同変換を用いる。
片方の半直線がもう一方の半直線に移されるような合同変換を求め、その変換のパラメーターの一つを角度として採用する訳だ。
この合同変換を行列として定義した時、行列の要素に三角関数が現れる。
だから2つの半直線の間の角度やその後に2つの線分の間の角度を考えられるような状況では、三角関数は既に分かってるのが普通な物なのだ。
現代数学では三角関数を定義するかそれ以上に複雑なやり方を使わなければ、3つの頂点の角度が全て60度の三角形すら定義出来ないのである。
いわゆる貴族とかには数学のような法則性があって揺らがないもの=神聖なもの、
という価値観もあっただろうし、
ガチガチに論理的な曲ほど神聖で良いもの、という価値観もあったはず
現代の歌謡曲、ポップスの作曲はモータウンだったり、様々な音楽の影響を受けたごちゃまぜになっていて、
色々なジャンルのいいとこ取りみたいになってるけど、
今の時代だと、結果的には勝ちパターン集みたいになっちゃうよね
まあ、仕事としては売れる曲を作るのが命題だったりするので、そういう考えでも正しいわけだけど
究極に創造的なことをやるなら、既存の音楽理論を破壊して、コードとか音階みたいな概念を捨てて、
音楽だって音なんだから周波数だ、みたいに考えて、スペクトログラムに絵を描いたり、ピアノロールにドット絵描いたり、
一般人にはノイズとか雑音にしか思えないものを論理的に生成したり、