はてなキーワード: 作家とは
https://anond.hatelabo.jp/20240609075743
https://web.archive.org/web/20200107215433/http://ashihara-hina.jugem.jp/?page=1
ブログをほったらかしてる間に、可愛いモノをいろいろ頂きました。
さっき頂いたばかりの「お菓子の家」
観て楽しむモノですが、ほんのりジンジャーブレッドの香りがもれる。。
かわいくて甘くておいしいモノに囲まれてると、子供の頃「ヘンゼルとグレーテル」読みながら
どっぷり溺れた高揚感を思い出しますよ。
魔女に食われそうになってでも、お菓子の家にかぶりつきたかった。(どん欲)(飢えてたのか)
渋谷「VIRON」系列です。ココハナの担当さんが、並んで買って来てくれました!
トーストせずにそのまま食べるのが一番おいしい。モチモチふわふわほんのり甘い系。
カゴいっぱいの、デニッシュ・バゲット・マフィン・クロワッサン!
さすがに食べきれないけど、至福。
最近、ずっと使ってたボロボロのガラケーをやっと機種変しました。
まだなんとか使えるんですけどね。メッキが剥げてボロボロで見る度ヘコむ、
しかし手に馴染んでるし愛着あるしで多少後ろ髪ひかれながら買い換えてみたら、
「もうだめだな、、」って思いながら、ボロボロの携帯を眺める時間が、そこそこストレスに
なってったっぽい。
「合わない」と思いながら、好転を期待して持ち続けるのか、早めに捨てるか捨てないか、
よくそういう話になるんですよ。もちろん、携帯に限らず。もちろん、みんな意見はバラバラ。
あっさり捨てると「潔いね!クールだね!」なんて言われがちですが、、、
5S軽っ!!
1
日記---
姉が、鍋つかみとコースターと、あと、クリスマスのオーナメントを作ってくれました☆
のせてみた。
鍋つかみは、こんな風に手を入れて使います。
マジメに料理するよ!!
1
日記---
ココハナ11月号発売中です☆
新連載スタートです!
宜しくお願い致しますね~☆
告知もほったらかして旅に出ておりました。
初の顔出しです!どーーーん!
ちっさ!なにやらカッコつけて座ってる!けど脚短っ!
ちょっと他人様にお見せできない様な、ナルシスト感満載&アホ丸出しの
あー。たのしかった!
変わったフルーツいっぱい食べた。
アイス食べすぎた。
呪われすぎ。
帰国したら、嬉しいお知らせが
最近うちに来てくれるようになったアシスタントさんの、初連載決定!!
おめでとう~!
うちの仕事場では、ケーキを何等分すべきか時々議論になりますよ。
美しさを優先すべきか、欲望を優先すべきか。。
私は断然、欲望派。
1
お仕事---
「cocohana(ココハナ)」11月号・9/28sat発売より
新連載スタートです☆
その後少しお休み頂いて(っていうか、その間に描きためる。。。)、また再開予定です。
第2回目は「メロンパン」
第3回目は「サンドウィッチ」
第4回目は「3色パン」
資料だもんね~とパンいっぱい食べてたら、若干体重が増えて戻りません。
(近況)
1
お仕事---
先日、「タイピスト!」を観に行きましたよ~。
いっつも思うけど、「可愛い」と「人間くささ」はちょっと仲が悪いです。
人間はなかなか「可愛い」だけじゃ成立しないので、「可愛い」を貫けば貫くほど、
心理を含めその存在の「生々しさ」は、やっぱりどうしても遠くなる。
周りの人たちの反応が、「可愛すぎてスバラシイ!大好き!」と「可愛いだけじゃね、、?」との
真っ二つなのが、なんか面白かった。
「かっこいい」と「人間くささ」も若干仲が悪い。
こないだ届いたDVD。ライアン・ゴズリングが主演じゃないけど準主役のギャング映画です。
基本、ギャング映画は苦手なんですよ。
暴力を楽しむスタンスに迷いがあるので、「わ~~ニヒルでカッコいい!!」になかなか酔いきれないんですが。。
その点これは、「ザ・エンターテインメント」!勧善懲悪、ストレートで感傷に浸る暇がない。
「アイツとアイツが絶対裏切る!」と思ったら、裏切らない。
ドンパチやられても痛くない。
人が死んでも悲しくない。
スーツ姿のライアン・ゴズリングをひたすら堪能する映画です。(個人的に)
巷には
「すっごくカッコ良いけど愛せるわけじゃない」とか
「カッコ悪いけど憎ったらしいけどなんかもう好きなんだけど!」とか
一筋縄じゃいかない感情がわんさか溢れているので、物語の中で「素敵なシンプル」を味わうのは、
癒しだな~。
何度か言ってますけど、ライアン・ゴズリングが大好きで。
いつまでたっても日本で未公開、日本語訳のDVDも未発売の映画、
「HALF NELSON」輸入盤DVDをこないだ勢い余って買ってしまいました。
アホなので知らなかったです。。。
詳しい人に教えてもらって、なんとかPCで視聴。
こちらの映画のゴズリングは、「カッコいいとこもあるけど情けなくてダメ過ぎてでも結局憎めない」
そんな感じです。たぶん。なんで「たぶん」かっていうと。。。
私、、、英語聞き取れないんですよ、、、、。
、、、、、、、、、、、、。(買うな)
だれか、日本語訳出してください。
1
本・映画---
先週末、内部も公開されてましたね。
スピリッツ編集部のほんの遊び心から始まったお遊び企画「落書き大会」が、
いいな~楽しそうだな~私も先生方の絵を生で観てみたいな~♪なんてフワフワ思っていたら、、、
22日夜に、作家限定内覧会&追加の落書き大会が開催されました!
新人さんから超ベテランの先生方まで100人近く(?たぶん)夜のオバQビルに集結しまして、
もはや空調もきかなくなっちゃったロビーと地下廊下にひしめき合って汗をダラダラかきながら、
でも皆さんほんと子供のような笑顔でケラケラにこにこ笑いながら、思い思いの落書きに
没頭されてました。
「豪華」だとか「贅沢」だとか「えっこの壁とドア持って帰ってうちの仕事場に設置したい、、!!」
とか、もちろん色々色々色々あるんですけど、、。
スゴイ先生方と同じ空間にいさせて貰っておいて、ショボイ事言っちゃいますけど、、、
子供の頃、ノートに落書きばっかしてたのに、「仕事」になったとたん落書きしなくなっちゃったな~、
私は笑っちゃうくらい絵が下手過ぎて、こういう場でなんの役にも立たないんですけど、
単純に、この空間を体感できたことが、ものすごーく嬉しくてめちゃくちゃ楽しかった!!
やー、こんなテンション上がったの久しぶりですよ、ほんとに。
ケラケラ笑い過ぎてほっぺた痛かった。
私がデビューした頃は「ベツコミ編集部」も、この本社ビルに入っておりまして。
当時まだピチピチヨチヨチ頭ん中今よりさらにお花畑だった私は、初めてこのビルに足を踏み入れた時、、、
「わ~でっかい会社だ!!」「わ~入館証とか渡されちゃった!!」みたいな。
毎日通われてる編集さん&社員の方々とは比べ物になりませんが、それでもやっぱり
色んな思い出がありますよ。
新社屋、3年後か。長いな~。あっと言う間かな。
1
お仕事---
私も良いカメラ欲しいけど、メカ音痴なので使いこなせる気がしなくてまだ買えてない。
特等席!
あと、「ぽっぽ焼き」。黒糖の、、細長いかすていら的なモノ?ちょっと八ッ橋っぽい味がします。
なかなか巡り会えなくて困ってたら、友人の彼氏がチャリであちこちの屋台をめぐって
探して買って来てくれました。男前!!
あとは、純喫茶風な店で久々にティーフロートとか珈琲フロートとかクリームソーダとか。
こういうの、たまに食べたくなるなる。
基本、爆発系が多い(笑)
至近距離で観過ぎてるせいか、迫力あり過ぎで毎度ゲラゲラ笑ってしまう。
音楽に合わせて花火が打ちあがるんですけど、「北の国から」がサンバ調にアレンジしてあってゲラゲラ。
「さだまさしはこのアレンジを許可するの?」「いや、しそうだよね。なんとなく(てきとう)」とか
今年、久々に新調した浴衣の柄があまりにかわいいのでさらしてしまえ。
洋服でバンビはなかなか勇気がなくて背負えないですけど、浴衣でモノトーンなら
子供っぽくならないし平気で背負えてしまう。かわいい。見てるだけでニヤニヤする。
1
日記---
仕事中、カフェラテばっか飲んじゃうので、体内浄化すべくさっそくゴクゴク。。
先日頂いたばかりのタンブラーです。
ぜいたく~。ソーダ買ってこよっと。
今描いてる漫画、食べものが沢山出てくるので 作画にいつもよりずっと
下絵終わってからアシスタントさんに入って貰うと もう間に合わないので、
下絵やりながらペン入れやりながらアシスタントさんに指示出しながら
作業を続けてるわけですが。。つまり頭ん中とっ散らかってます。
休憩したら仕事しなきゃ。
1
日記---
「Piece」の100万部超えのお祝い会をして頂きましたよ~♪
昨年末に超えてたらしいんですけど、色々有難いことに祝い事が重なってバタバタしてたので、
先週ゆっくりと。
若干、血が滴ったように見えなくも?ないですが?(笑)、水飴で書いてあるそうです。
すごい!ピースダック!!
お花もいただいてしまいました。。
左のオレンジの薔薇はプリザーブドで、ついこないだまで担当してくださってた編集さんが
「芦原さんのイメージに合わせて作りました」と、プレゼントしてくださいました。
この仕事をしてると、時々ふつうじゃ考えられないような豪華なおもてなしをして頂く事があって、
楽しい事も美味しい事も大好きなので、もの凄くもの凄くものすごーく嬉しくて
私はなんて贅沢な時間を頂いてるんだろうと、毎度毎度新鮮に感動します。
なんで感動するのかっていうと、たぶん未だ慣れてないからです。
とてもフツウの庶民的な家庭で育ったので。
その場その場は100%楽しくて、でも「こんなに沢山色々して頂いても、私何も返せないんじゃ?」
っていう微かな罪悪感も、後からうっすらと。
こういう罪悪感は全く持たない方が良い気もするし、多少は持っておいた方が良い気もするし。
罪悪感の出処を掘り下げてみると、いつも必ず「自信の無さ」なんですよね。
「期待されても何も出ませんよ~」っていう、逃げの防御。
相変わらず地味目ですけど、柔らかくて楽しい物語になるといいな、と。
小麦粉大好き!
1
お仕事---
巻末に、ドラマ撮影現場にお邪魔した時の、レポート漫画も載ってますよ~。
最後までお付き合い頂いた皆様、ほんとうに有難うございました!
そして・・今月発売の「Cocohana(ココハナ)」に、すでに名前が小っちゃく載ってましたね。
「ココハナ」11月号(9月28日ごろ発売?)~新シリーズスタートです☆
まだまだ先ですが、がんばってコツコツ描いてますので、チェックしてみてくださいね!
「えっ?なんで急に集英社?小学館と喧嘩したの??」とか深読みされそうな気が
しないでもないですが。。
小学館は専属契約が存在しないので、デビューしてからずっと、実は「フリー」なのでした。
何の保障もない、毎日が綱渡り状態のこんな仕事を選んじゃって私ったら大丈夫かしら??なんて
思いながら漫画を描いてきたけれど・・気が付けば時代の方が変わってきちゃって、
今や本当に「安定」した仕事なんて思いつかないですね。
進化なのか退化なのかはよく分かんないですけど、「変わっていくこと」は、個人的に、ワクワクする。
仕事以外も色々試せたらいいな。
https://anond.hatelabo.jp/20240609075716
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ブログをほったらかしてる間に、可愛いモノをいろいろ頂きました。
さっき頂いたばかりの「お菓子の家」
観て楽しむモノですが、ほんのりジンジャーブレッドの香りがもれる。。
かわいくて甘くておいしいモノに囲まれてると、子供の頃「ヘンゼルとグレーテル」読みながら
どっぷり溺れた高揚感を思い出しますよ。
魔女に食われそうになってでも、お菓子の家にかぶりつきたかった。(どん欲)(飢えてたのか)
渋谷「VIRON」系列です。ココハナの担当さんが、並んで買って来てくれました!
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カゴいっぱいの、デニッシュ・バゲット・マフィン・クロワッサン!
さすがに食べきれないけど、至福。
最近、ずっと使ってたボロボロのガラケーをやっと機種変しました。
まだなんとか使えるんですけどね。メッキが剥げてボロボロで見る度ヘコむ、
しかし手に馴染んでるし愛着あるしで多少後ろ髪ひかれながら買い換えてみたら、
「もうだめだな、、」って思いながら、ボロボロの携帯を眺める時間が、そこそこストレスに
なってったっぽい。
「合わない」と思いながら、好転を期待して持ち続けるのか、早めに捨てるか捨てないか、
よくそういう話になるんですよ。もちろん、携帯に限らず。もちろん、みんな意見はバラバラ。
あっさり捨てると「潔いね!クールだね!」なんて言われがちですが、、、
5S軽っ!!
1
日記---
姉が、鍋つかみとコースターと、あと、クリスマスのオーナメントを作ってくれました☆
のせてみた。
鍋つかみは、こんな風に手を入れて使います。
マジメに料理するよ!!
1
日記---
ココハナ11月号発売中です☆
新連載スタートです!
宜しくお願い致しますね~☆
告知もほったらかして旅に出ておりました。
初の顔出しです!どーーーん!
ちっさ!なにやらカッコつけて座ってる!けど脚短っ!
ちょっと他人様にお見せできない様な、ナルシスト感満載&アホ丸出しの
あー。たのしかった!
変わったフルーツいっぱい食べた。
アイス食べすぎた。
呪われすぎ。
帰国したら、嬉しいお知らせが
最近うちに来てくれるようになったアシスタントさんの、初連載決定!!
おめでとう~!
うちの仕事場では、ケーキを何等分すべきか時々議論になりますよ。
美しさを優先すべきか、欲望を優先すべきか。。
私は断然、欲望派。
1
お仕事---
「cocohana(ココハナ)」11月号・9/28sat発売より
新連載スタートです☆
その後少しお休み頂いて(っていうか、その間に描きためる。。。)、また再開予定です。
第2回目は「メロンパン」
第3回目は「サンドウィッチ」
第4回目は「3色パン」
資料だもんね~とパンいっぱい食べてたら、若干体重が増えて戻りません。
(近況)
1
お仕事---
先日、「タイピスト!」を観に行きましたよ~。
いっつも思うけど、「可愛い」と「人間くささ」はちょっと仲が悪いです。
人間はなかなか「可愛い」だけじゃ成立しないので、「可愛い」を貫けば貫くほど、
心理を含めその存在の「生々しさ」は、やっぱりどうしても遠くなる。
周りの人たちの反応が、「可愛すぎてスバラシイ!大好き!」と「可愛いだけじゃね、、?」との
真っ二つなのが、なんか面白かった。
「かっこいい」と「人間くささ」も若干仲が悪い。
こないだ届いたDVD。ライアン・ゴズリングが主演じゃないけど準主役のギャング映画です。
基本、ギャング映画は苦手なんですよ。
暴力を楽しむスタンスに迷いがあるので、「わ~~ニヒルでカッコいい!!」になかなか酔いきれないんですが。。
その点これは、「ザ・エンターテインメント」!勧善懲悪、ストレートで感傷に浸る暇がない。
「アイツとアイツが絶対裏切る!」と思ったら、裏切らない。
ドンパチやられても痛くない。
人が死んでも悲しくない。
スーツ姿のライアン・ゴズリングをひたすら堪能する映画です。(個人的に)
巷には
「すっごくカッコ良いけど愛せるわけじゃない」とか
「カッコ悪いけど憎ったらしいけどなんかもう好きなんだけど!」とか
一筋縄じゃいかない感情がわんさか溢れているので、物語の中で「素敵なシンプル」を味わうのは、
癒しだな~。
何度か言ってますけど、ライアン・ゴズリングが大好きで。
いつまでたっても日本で未公開、日本語訳のDVDも未発売の映画、
「HALF NELSON」輸入盤DVDをこないだ勢い余って買ってしまいました。
アホなので知らなかったです。。。
詳しい人に教えてもらって、なんとかPCで視聴。
こちらの映画のゴズリングは、「カッコいいとこもあるけど情けなくてダメ過ぎてでも結局憎めない」
そんな感じです。たぶん。なんで「たぶん」かっていうと。。。
私、、、英語聞き取れないんですよ、、、、。
、、、、、、、、、、、、。(買うな)
だれか、日本語訳出してください。
1
本・映画---
先週末、内部も公開されてましたね。
スピリッツ編集部のほんの遊び心から始まったお遊び企画「落書き大会」が、
いいな~楽しそうだな~私も先生方の絵を生で観てみたいな~♪なんてフワフワ思っていたら、、、
22日夜に、作家限定内覧会&追加の落書き大会が開催されました!
新人さんから超ベテランの先生方まで100人近く(?たぶん)夜のオバQビルに集結しまして、
もはや空調もきかなくなっちゃったロビーと地下廊下にひしめき合って汗をダラダラかきながら、
でも皆さんほんと子供のような笑顔でケラケラにこにこ笑いながら、思い思いの落書きに
没頭されてました。
「豪華」だとか「贅沢」だとか「えっこの壁とドア持って帰ってうちの仕事場に設置したい、、!!」
とか、もちろん色々色々色々あるんですけど、、。
スゴイ先生方と同じ空間にいさせて貰っておいて、ショボイ事言っちゃいますけど、、、
子供の頃、ノートに落書きばっかしてたのに、「仕事」になったとたん落書きしなくなっちゃったな~、
私は笑っちゃうくらい絵が下手過ぎて、こういう場でなんの役にも立たないんですけど、
単純に、この空間を体感できたことが、ものすごーく嬉しくてめちゃくちゃ楽しかった!!
やー、こんなテンション上がったの久しぶりですよ、ほんとに。
ケラケラ笑い過ぎてほっぺた痛かった。
私がデビューした頃は「ベツコミ編集部」も、この本社ビルに入っておりまして。
当時まだピチピチヨチヨチ頭ん中今よりさらにお花畑だった私は、初めてこのビルに足を踏み入れた時、、、
「わ~でっかい会社だ!!」「わ~入館証とか渡されちゃった!!」みたいな。
毎日通われてる編集さん&社員の方々とは比べ物になりませんが、それでもやっぱり
色んな思い出がありますよ。
新社屋、3年後か。長いな~。あっと言う間かな。
1
お仕事---
私も良いカメラ欲しいけど、メカ音痴なので使いこなせる気がしなくてまだ買えてない。
特等席!
あと、「ぽっぽ焼き」。黒糖の、、細長いかすていら的なモノ?ちょっと八ッ橋っぽい味がします。
なかなか巡り会えなくて困ってたら、友人の彼氏がチャリであちこちの屋台をめぐって
探して買って来てくれました。男前!!
あとは、純喫茶風な店で久々にティーフロートとか珈琲フロートとかクリームソーダとか。
こういうの、たまに食べたくなるなる。
基本、爆発系が多い(笑)
至近距離で観過ぎてるせいか、迫力あり過ぎで毎度ゲラゲラ笑ってしまう。
音楽に合わせて花火が打ちあがるんですけど、「北の国から」がサンバ調にアレンジしてあってゲラゲラ。
「さだまさしはこのアレンジを許可するの?」「いや、しそうだよね。なんとなく(てきとう)」とか
今年、久々に新調した浴衣の柄があまりにかわいいのでさらしてしまえ。
洋服でバンビはなかなか勇気がなくて背負えないですけど、浴衣でモノトーンなら
子供っぽくならないし平気で背負えてしまう。かわいい。見てるだけでニヤニヤする。
1
日記---
仕事中、カフェラテばっか飲んじゃうので、体内浄化すべくさっそくゴクゴク。。
先日頂いたばかりのタンブラーです。
ぜいたく~。ソーダ買ってこよっと。
今描いてる漫画、食べものが沢山出てくるので 作画にいつもよりずっと
下絵終わってからアシスタントさんに入って貰うと もう間に合わないので、
下絵やりながらペン入れやりながらアシスタントさんに指示出しながら
作業を続けてるわけですが。。つまり頭ん中とっ散らかってます。
休憩したら仕事しなきゃ。
1
日記---
「Piece」の100万部超えのお祝い会をして頂きましたよ~♪
昨年末に超えてたらしいんですけど、色々有難いことに祝い事が重なってバタバタしてたので、
先週ゆっくりと。
若干、血が滴ったように見えなくも?ないですが?(笑)、水飴で書いてあるそうです。
すごい!ピースダック!!
お花もいただいてしまいました。。
左のオレンジの薔薇はプリザーブドで、ついこないだまで担当してくださってた編集さんが
「芦原さんのイメージに合わせて作りました」と、プレゼントしてくださいました。
この仕事をしてると、時々ふつうじゃ考えられないような豪華なおもてなしをして頂く事があって、
楽しい事も美味しい事も大好きなので、もの凄くもの凄くものすごーく嬉しくて
私はなんて贅沢な時間を頂いてるんだろうと、毎度毎度新鮮に感動します。
なんで感動するのかっていうと、たぶん未だ慣れてないからです。
とてもフツウの庶民的な家庭で育ったので。
その場その場は100%楽しくて、でも「こんなに沢山色々して頂いても、私何も返せないんじゃ?」
っていう微かな罪悪感も、後からうっすらと。
こういう罪悪感は全く持たない方が良い気もするし、多少は持っておいた方が良い気もするし。
罪悪感の出処を掘り下げてみると、いつも必ず「自信の無さ」なんですよね。
「期待されても何も出ませんよ~」っていう、逃げの防御。
相変わらず地味目ですけど、柔らかくて楽しい物語になるといいな、と。
小麦粉大好き!
1
お仕事---
巻末に、ドラマ撮影現場にお邪魔した時の、レポート漫画も載ってますよ~。
最後までお付き合い頂いた皆様、ほんとうに有難うございました!
そして・・今月発売の「Cocohana(ココハナ)」に、すでに名前が小っちゃく載ってましたね。
「ココハナ」11月号(9月28日ごろ発売?)~新シリーズスタートです☆
まだまだ先ですが、がんばってコツコツ描いてますので、チェックしてみてくださいね!
「えっ?なんで急に集英社?小学館と喧嘩したの??」とか深読みされそうな気が
しないでもないですが。。
小学館は専属契約が存在しないので、デビューしてからずっと、実は「フリー」なのでした。
何の保障もない、毎日が綱渡り状態のこんな仕事を選んじゃって私ったら大丈夫かしら??なんて
思いながら漫画を描いてきたけれど・・気が付けば時代の方が変わってきちゃって、
今や本当に「安定」した仕事なんて思いつかないですね。
進化なのか退化なのかはよく分かんないですけど、「変わっていくこと」は、個人的に、ワクワクする。
仕事以外も色々試せたらいいな。
修正について
漫画とドラマは媒体が違うので、本当はドラマ用に上手にアレンジして頂くのがベストだって事は、私も良く理解してるんですよ。
(中略)
でも、ツッコミどころの多い辻褄の合わない改変がされるくらいなら、しっかり、原作通りの物を作って欲しい。
(中略)
これは私に限らずですが…作品の根底に流れる大切なテーマを汲み取れない様な、キャラを破綻させる様な、安易な改変は、作家を傷つけます。
悪気が全くないのは分かってるけれど、結果的に大きく傷つける。
それはしっかり自覚しておいて欲しいです。
最終的に意にそぐわないモノが出来ても、多くの作家は公に文句が言えないです。
莫大な数の役者さんスタッフさん達が、労力や時間を使って関わってくださってる事を知ってるので。
その事に対しては、本当にとても感謝をしているので。
なので、闇雲に原作を変えるな!と主張しているわけではなく、よりよいドラマになるように、自分を守るために、現段階で出来るベストを尽くしているつもりです。
宜しくお願い致します。
先日の新書は、さしずめシェアハウス界の象徴天皇による人間宣言といったところなのだろう。
若い頃は、雑に生きている仲間がいた。
でも、今はいない。
絶えず人が入れ替わり流入しているなら、同年代が居てもいいはずなのに、いない。
みんな、なんだかんだ言いつつも、順当に責任を負う立場になり、部下を指導し、妻子を扶養し始めた。
結局、彼らは、雑に生きる仲間ではなく、若いから雑に生きていただけの人たちだった。
私のような、何の文才もなく、作家としての道もなく、正真正銘終始何の収入も名声もなかった有象無象ならいざ知らず、
歴史に名を遺す側であろうあなたですら、ついに音を上げてしまった。
ニートの看板にかかわらず、文章やトークショーでネットから収入を得ていることを表に出し始めた、名実ともに作家なあなたですら、音を上げてしまった。
あなたが音をあげるなら、当然、私も降参せねばならない。
私は収入もなく、親の扶養を当てにしているだけの、ワナビー引きこもりだったという現実と向き合う時がきた。
親に与えられたゲーム機の数々を吹聴して、家で遊ばないかと誘えば、それでよかった。
子どもの頃の私はさしずめ、街のゲームセンターの管理人だった。
ところが、同年代がみな順当に人生を進めると、ゲームに対する興味が失せてしまったようだ。
ゲームに対する興味の消失は、自動的に、私との縁の消失をも意味した。
だが、あなたは、とうとう、前線の後退を余儀なくされたらしい。
とうとう、私も、年貢の納め時らしい。
(前半からの続きです。)
https://anond.hatelabo.jp/20240608093126
もっとも、現代アートは手放しで褒められるものでもないでしょう。多くの批判者が火のないところに煙を立てているとは言えないと思います。作品の出来が悪いものも混じっていることは否めません。
大方の批判にもかかわらず、私は今回のトリエンナーレではそのような「的外れ」感のある作品はほとんどないか、かなり少なかったと感じています。これもキュレーションのよさでしょう。
思い返せば2020年のトリエンナーレにあった「エビにSEXをさせる方法を考える」という一連の展示はひどかった。テーマはとてもよかったのですが、日本(だったと思います)のクリエイターたちの作品はふざけているとしか言いようのないものでした。その課題は、「エコスフィア」(エビと水草の入っている閉じた水槽)の中でエビは酸素を吸って二酸化炭素を出し、水草は二酸化炭素を吸って酸素を出す。この循環のバランスはうまく保たれているが、一つ問題があって、エビは生殖をしなくなる。そこでエビに生殖をさせる方法を考える、というものでした。多くの作品はエビにセクシーな格好をさせるとか、エビの秘宝館のようなものを作るとか、そういうものだったと記憶しています。しかし、クリエイターたちはこの「エコスフィア」が地球の生態系の比喩であると気づかなかったのでしょうか? だとしたら愚かに過ぎるとしか言えません。それとも、気づいていてこのような作品を作ったのでしょうか? だとしたら二倍悪い。エビとは「私たち」に外ならないのだから、つまりクリエイターたちは女がセクシーな格好をして男を誘えばよいと言いたいのでしょうか? それはあまりにも「男尊女卑」に終始していると言わざるをえません。そこには問題意識が欠如しています。「教授の課題テーマはよかったが、学生たちのレポートがだめだったという感じだ。」私は友人とそう語りあったことを覚えています。
2020年といえば壁にブレインストーミングのように年号と出来事を書いてゆく展示もありました。そこには作家のメモも展示してあり、『荘子』の「胡蝶の夢」の故事が引用してありましたが、「與」を「興」と書き誤っていたことを覚えています。自分のことは棚に上げつつ、非本質的でささいな事をあげつらうようですが、「どうかわからないことで見栄をはらないでほしい」と思われてなりませんでした。
現代芸術の作家たちの一部が「見栄をはろう」としていることは薄々感じられます。人文学、哲学、歴史学、経済学などに議論の蓄積がありとっくに通過してきた知見について、芸術家たちが何周も遅れて的外れなことを言っている光景は、あまりみっともいいものではありません。なぜそのようなことになっているかといえば、芸術家が「作品」だけではなく、その「意味」で評価されるようになっているからでしょうか。
かつて芸術家は貴族の注文にこたえて絵を描いていたそうです。今の作家は自由に作品を作れるはずなのに、ただ社会の要請にこたえて作品を作ろうとして、中身のないステートメントを打ち出しているのは、痛々しくさえあります。
しかし、これは決して「アーティストはよけいなことを考えるな」と言いたいわけではなく、むしろその逆で「もっと学問をしてほしい」ということです。しかもそれは「芸術家」としての意識以前に、「市民」として当たり前にもつべき意識であると思うのです。芸術家は作品だけで力のある面白い作品を作って、そしてそれとは別に最低限、当たり前に市民として的外れでない発言もしてほしいのです。
トリエンナーレと同時開催の展覧会Bank ART Life7「UrbanNesting: 再び都市に棲む」に足を運ぶと、新高島駅地下1階の会場の入口には巨大な土のダンゴがありました。これはかなり面白かったのですが、説明を見ると福島の土で作ったとありました。もちろん福島の原発事故はまだ収束したと言えませんし、提示された問題は深刻です。しかし、その場では私も友人も何となく興が醒めてしまったのです。それはなぜでしょう? 何となく、「作品の面白さにテーマが負けている」と感じました。私も「キラキラ」なアートを好む一員であり、私の中で「無意味」のもつ破壊的な力に「意味」が負けてしまったのかもしれません。あるいはその逆で、テーマの重さのために、作品が軽く見えてしまったのかもしれません。いずれにしても、私は作品のよい受け手になることができませんでした。
しかし問題は受け手だけにあるのではないと思います。「作品」と「意味」のバランスは難しいことであり、作り手の側でもうまく調整しなければならないものです。先程述べた通り、今回の展覧会にはピンボケな作品が少ないと感じました。しかし、今回の出品作のうち、どれくらいが「意味」(言葉による解説)なしに「作品」だけの魅力で勝負できるものだったかは疑問も残ります。
今回の展示にあったBゼミの試みはよかった。「意味のないものを作る」とか「新しい楽器を作る」とか、芸術を意味から解き放つような試みは今でも頼もしく思われます。どうもいまのアートは、意味を付与された瞬間に弱くなってしまうような気がしています。作品と意味との関係性については、まだまだ考える余地がありそうに思います。
私の身近に YOASOBI のアニソンが好きでないという人がいます。「アニソンというのはアニメの解釈であり、アニメへの讃歌であり、しかしアニメ本編とはズレているから面白い。YOASOBI の歌はアニメのストーリーをそのまま歌っている。だから面白くない」と言うのです。何となくわかる気もします。偉そうに勝手なことを言うならば、現代芸術も世界にあるモノをそのまま出すのでなく、世界をアートの形で表現するとどうなるのか、「意味」に傾きすぎず「作品」の力で見せてほしいと思います。
しかし、芸術に「意味」をこめるなというつもりではありません。批判者の中には、芸術家は被災地を創作で消費するのではなく、実際に活動をすることで被災地に貢献すべきだというような意見を言う人があったような気がします。もちろんそのような活動はしないよりもしたほうがよいのですが、それはあくまで「市民」としてのはたらきであって、「芸術家」としてのはたらきではないでしょう。芸術家には芸術家にできることがあり、それは創作であるということを否定するつもりはありません。しかし、だからこそ「作品」と「意味」にはもっとよい関係があるのではないかと思います。その答えが何かということは、残念ながら即座に提示できないので、偉そうに勝手なことを言うだけになってしまうのですが……。
批判めいたことのついでに言えば、今回のトリエンナーレを批判する意見の中には、電気を使ったインスタレーションと環境問題を訴える作品を同じ空間に並べることの違和感を語る人がいたように記憶しています。その違和感も理解できますが、それとは別に、芸術と資本の関係という問題も感じました。入り口の協賛企業の一覧を見たとき、たいへん違和感がありました。資本主義への警鐘をならす作品(全てではないにしろ)が、大資本の資金で展示できるとは! 大企業はそのようなお金を出すほうがよいと思いますけれど、その一方で企業がそれを「みかじめ料」として批判されなくなるべきではもちろんないでしょう。作品が意味をもつときには、その作品のおかれる「場」までもが、自らの意味を暴露するようになるのかもしれない。初っ端からそんなことを考えさせられるなかなか面白い「展示」でした。
咎め立てばかりしてしまったようですが、最後によかったところをいくつか述べたいと思います。友人は、今回のキュレーターの解説文(紹介文)がよかったと言っていました。友人によると今や「この作品はこう見るべきだ、ここが素晴らしいのだと天から決めつけて、自分に酔ったような解説」を見ることも多いなかで、今回の解説文は「キュレーター自身が作品をどう見るか、真摯に考えて書かれていたので好感が持てる」というのです。また、「キュレーションにも工夫が多かったような気がする。例えば商業主義のマルボロの広告の下にインドの貧しい生活を描いた版画を配置するなど、『対比』を意識したものがいくつかあったように感じた」とも言っていました。キュレーターの仕掛けた「作品」と「意味」の関係性のバランスは果たして十分達成されたかどうか、それはよくわかりませんが、キュレーターが真剣に構成しており、私たちに問いかけるものがあったのは確かだと思います。
要するに、初めに述べた通り「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということです。言いたいことはこれに尽きます。
魅力のある作品も少なくありませんでした。友人は勅使河原蒼風のファンになり、富山妙子の画集を買いました。私は土肥美穂の buttaiが気に入りました。同時開催のBankART Life7では、みなとみらい駅の腕木信号のオブジェや、Bank ART Stationにあった送風機で立ち上がる足などの機械仕掛けの作品が好きでした。
つらつらと思いつくまま書くうちに、思いがけなく長文になってしまいました。次回のトリエンナーレにも期待しつつ、このあたりで終わりにします。
第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのときの感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています。
今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやかな感想を述べたに過ぎない」と述懐しています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。魯迅の感想が短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想をもつならば、それで満足です。
人は物事に触れて感想を持つものだと思います。SNSの批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想は自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というものも自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。
今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスがキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います。
今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成る」ものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的なもの、追憶的なもの、観念的なもの、象徴的なもの、風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特の雰囲気をもった作品集です。
これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります。
そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会は作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり、言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味もキュレーターの解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレットの文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」
しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍や文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論の余地がありえますが、言葉と芸術の距離がそう遠いものでないことは確かです。
さらにテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきます。キュレーターが中国の出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙の試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文や文字が芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。
いっぽう、日本で一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭なものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたかも展覧会から「あなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。
では、「芸術(アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から「芸術(アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいものが芸術なのか?」とか「言語表現は芸術と無関係か?」といった問題はゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。
鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります。批判もひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要な展覧会であったと言えるのでしょう。
友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術は抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品を面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉の時代なのでしょう。考えずして何が現代の芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日にちょっと芸術に触れてみよう、子どもを芸術に触れさせてみよう、デートで美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品を面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」
たしかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館の改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。
私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います。
ここで、ちょっと過去のトリエンナーレを振り返りたいと思います。
私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています。
2014年の第5回「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家や芸術家がいかに体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代や脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治」であるという意識が出てきていたためかもしれません。
2017年の第6回「島と星座とガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権のさなかにあって、政治の右傾化が懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)
2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」、映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続。
きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います。
今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術が政治的であることの何が問題なのかとか、政治が生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーターが中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。
たしかに、今回の展覧会ではヨーロッパの戦争に関連する展示や国粋主義者の移民反対デモの映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつの世界に見立てて、このような出来事が遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます。
そのデモの映像のひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別のデモが行われています。ヘイトクライムの危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。
思い返せば2014年や2017年はかなり「政治的」な展示があったと思います。しかし今回、キュレーターは日本の問題をひとつも指摘しませんでした。日本で美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれた事件もそう遠い昔のことではありません。日本は美術の表現が自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときにもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっとも自由な表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身地である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパも安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります。
しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品のなかに普遍性を見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。
ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会のなかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅が木版画という簡易で複製可能な芸術を通じて、民衆に文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争を撮影した写真が展示されていたのは、芸術と政治の問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います。
(後編へ続きます。)
https://anond.hatelabo.jp/20240608093350
https://x.com/KatzePotatoes/status/1794974710020845851
李琴峰さんから台湾の複数の女性が同じような訴訟を起こされているらしい。
https://www.plurk.com/m/p/3fth8cbxao
皆さんご存知かどうかわかりませんが、ある有名な作家が最近、数人の女性に対して訴訟を起こしました。その作家は、生物学的男性が女性であると自認している限り、女性限定のさまざまな活動に参加したり、女性のプライベートな空間に立ち入ったりする権利があるはずだと発言しました。
公人が女性の権利を侵害する人物を支持したことに対し、女性ネットユーザーは、公開されている情報に基づき、この作家が実は生物学的女性ではなくトランスジェンダー女性であることを明らかにしました。しかし、その作家は公開情報に基づいたこの論考をもって、数人の女性を刑事告訴しました。
さらに、刑事告訴が失敗した後、弁護士および同好会と共に、あるネットユーザーに対して、この公聴会が始まる直前に、民事損害賠償額が228万元(訳注: 約1100万円)に達するという告訴を提起しました。
以下、俺の考えた布陣
はてな村という蠱毒で長年生きていると、あらゆる話題がかつての話題の焼き直しに見えてくる。
[B! 差別] 【支援者募集】滝本太郎によるデマ・名誉毀損・セクハラを告発します|李琴峰
「差別主義者にセクシュアリティを暴露された!」「訴訟するのでカンパを求める!」
3年前にもあったわそれ。竹田恒泰 vs chocolat. (ショコラ) の訴訟騒動覚えてる? ブクマカ諸君よ。
chocolat. (ショコラ) 氏は、緑髪の美しい若い女性の写真をアイコンに使い、反差別活動に勤しむサヨク界隈の姫として名を馳せた有名アカウント。
「とある国から誹謗中傷がめっちゃくる」とツイートした卓球の水谷隼選手を、「外国籍の方への差別扇動だ」「メダルを剥奪されるべき」と糾弾したことでも名前が知られる。
そんな氏について、「この人の本名は「なかむらけんじ」。皆んなで拡散して差し上げましょう。」と書いたのが、竹田恒泰だ。
chocolat. (ショコラ) 氏は激怒した。「セクシュアリティ等を暴露するような行為は重大な人権侵害だ!」「SNSという言論空間の破壊行為だ!」と。2ヶ月後、資金をカンパで募り、訴訟を提起した。
(そういや暇アノン界隈の姫、少し前ネカマ暴露とかもあったね。やはりこの世界はループしている……)
さて、当時のブクマカの反応を見てみよう。
[B! 裁判] ツイッターで実名公表、提訴 作家の竹田恒泰氏に賠償請求 | 共同通信
[B! 裁判] 竹田恒泰氏を提訴しました。|チョコレートサイダー通信
「竹田は反社」「逮捕されるべき」「マスコミは縁を切れ」と、刑事での有罪を確信したブコメで埋め尽くされている。
提訴の際には、たかが1民事訴訟に過ぎないのに、共同通信や東京新聞の記事にもなった。
そして2年後、結論が出た。
竹田恒泰@takenoma
ブクマカはだんまり。訴訟を報道した東京新聞や共同通信もだんまり。これこそ人権侵害じゃないのかね? 言ったものは言いっぱなし、全く名誉が回復されていない。
私も竹田恒泰はひでぇやつだ、差別主義者だと見做しているけれども、どんな大罪人にだってあるはずのものが人権ではないだろうか。
前に有った類似案件にケリをつけてからでなければ、我々は議論を前に勧めていくことはできない。
実名暴露の大本の情報源だった菅野完氏は騒動中、「中村健治くんは頭が悪い。なかむらけんじって誰ですか?って書けば良かったのに。そうすれば俺も竹田も嘘つきになったのに」とコメントした。
その文脈で言うならば李琴峰は頭が良い。自分のセクシュアリティは非開示にすることで、滝本太郎をデマ屋扱いすることに成功している。
(※なお、トランス絡みの議論に詳しくない人は、「私は法的にも身体的にも、あらゆる意味において女性だ」と李琴峰ははっきり書いているではないか、セクシュアリティを開示しているのではと思うかも知れない。
しかし、まず「身体的」の方から言うと、「トランス女性の身体はあらゆる意味で女性」というのがアライ界隈の常識なので、何の情報も含んでいない。
「法的」の方にしても台湾と日本では性別変更の法制度が全く異なり、台湾のほうがハードルは大きく低い。よって台湾において性別変更したとして、それが日本にも法的効力を及ぼすかと言うと限定的なものとなる。よってこれも滝本の投稿を否定するものではない。)
一方、滝本太郎にしても竹田とは異なり、直接その裏付けができていないとして、李琴峰が抗議するより先に問題の投稿を削除した。ただし「本人は生得的性別を言うべき立場だ」とし謝罪はしなかった。
李琴峰氏は母国の台湾でも同様の訴訟をしばらく前に提起しているとのことで、滝本太郎は、台湾の訴訟当事者から話を聞いているが、証拠は確認していないという程度の立場なのだろう。
また、「生得的性別を言うべき立場」というのは、もちろん「トランス女性はみな過去を明らかにせよ」という意味ではない。
埋没して生きていたい当事者の生得的性別を明らかにする行為は不正義だけれども、李琴峰はトランス女性の権利拡大を求めて運動しているのであるから利益相反は明らかにせよ、というのが滝本太郎の主張である。
比較してみると3年前の訴訟とは原告被告ともに大きくレベルアップしている。やはり3年前の冤罪事件の総括抜きに、ブクマカが滝本vs李のバトルについていくことはできないであろう。
暴露のきっかけになったのは、ショコラにしても李琴峰にしても自身の炎上だ。
ショコラは、竹田の暴露当時、前述の水谷隼糾弾で炎上した直後で注目が集まっていたし、
李琴峰にしても、「(安倍は)本当に腸を断ってくれないかな」、「(忘れてしまいたい日本語は)フフッ…『美しいニッポン』… フッ…」などの過去発言が右派界隈で再炎上したことが背景にある。
後者は芥川賞の受賞会見の動画がソースなのだが、そこで喉仏らしきものがかなり目立っていたことが一部の関心を引いたのだ。
また、ショコラが竹田の訴訟に至ったのは、「竹田は差別主義者という投稿は名誉毀損か」という訴訟で、竹田が地裁敗訴したことが背景にあるだろう。司法の風はこちらにあると見做して、追撃を企てたのだ。
今回の滝本vs李にしても、「女性スペースを守る会(事務局長:滝本太郎)は差別団体という投稿は名誉毀損か」という前哨戦となる法廷バトルが繰り広げられており、地裁判決は一ヶ月後だ。(ちなみに訴訟相手は台湾人で李琴峰の大学時代の先輩)
酒が入った席じゃあるまいし、ビジネスでの席で代理人が、被代理人のことを「難しい作家」と表現するのダメダメだと思います。
本人自身がいうならまだ自虐風味の謙遜してるんだなと思えるが、本人との直接交渉をシャットアウトした座組で代理人が言っていいことじゃあない。
陰口かよ
中世以前
人間の住む世界以外に生命が生息する世界が数多く存在するという考え方(多宇宙論)は古代からあり、地動説よりも古く、世界各地の神話に共通している[要出典]。2世紀の風刺作家ルキアノスが書いた『本当の話』には、船に乗っていたルキアノスが竜巻に巻き上げられて月まで行った話が描かれている。月には人が住んでおり、太陽の住民と明けの明星の植民地化をめぐって戦争をしていたとしている。
東晋の干宝が著した『捜神記』には火星が登場し、『捜神記』の現代日本語訳では「火星人」と訳した本もあるが、原漢文の少年のセリフ「我非人也,乃熒惑星也。」を直訳すると「私は人間ではない。実は火星である」となるためいわゆる「火星人」ではなく、「火星」という惑星そのものの化身、というほうが原文に近い。
また、日本では10世紀半ばまでに成立したと考えられている『竹取物語』は主人公のかぐや姫が月の住民であるという話であり、中世アラビアの『千夜一夜物語』の「ブルキヤの冒険」も異世界譚の一種である[8]。
「セクシー田中さん」事件について、日本テレビが悪いことは大前提として、よくわからないのは、そもそもの問題である、「原作がドラマで大幅に改変された」ってそんなに苦痛なのかな?っていうこと。
昭和時代の映画も、小説や漫画の原作を「改悪」したひどい映画はたくさんあったと思うけど(三島由紀夫『金閣寺』映画化した『炎上』とか)、それで原作の評価が下がったりはしていない。今は、それらの映画は完全に忘れ去られていて、原作ファンにとっても笑い話になっている。現在でもそういうスタンスをとる作家や漫画家は普通に多くいる。
日本テレビは確かにクズオブクズなんだけど、そもそも原作を改変されてそんなに苦痛なのか、という根本の問題に今ひとつ共感できない自分がいる。
日テレの報告書でもちゃんとそう書いてあったのに、勘違いした人が多かったのが不思議。
ちなみに、小学館の報告書では、「芦原氏が聡明であり、エピソードやセリフを細部に至るまで綿密に考え抜いて構成した漫画を描き、しかも原作に大変こだわりを持っていること」を「難しい作家」と呼んだ…と頑張ってフォローしてる。フォローできてないけど。
それは今回の問題点を、ドラマ制作サイドの意図が原作者に充分伝わっていなかった、つまり「説明不足」に求めているところ。
本打ちメンバーが当該原作の設定を変えようと試みたことには、それ相応の議論と積極的な理由があった。しかしながら、本件原作者の上記返信内容をみる限り、本打ちメンバーで議論した内容・意図が十分伝わっているとは思えない状況であったことがうかがえる。
いや、そうじゃないんだよ。原作が何を大切にしているかプロデューサーや脚本家を含めた制作サイドがまったく理解していない改変を繰り返すことが原因なんだよ。だから原作者が誤っている箇所とその理由を事細かに指摘し、それを繰り返しても一向に直ならない状況に絶望し、心身を疲弊させていく羽目になったんだよ。
以下なんてまさにその無理解を露呈してるよね。
原作では朱里が短大に進学した設定があるが、本打ちでは、同設定に関して、「短大に進学するよりも専門学校に進学する方が近時の10代、20代としてはリアリティがあるのではないか」、(短大進学の原因となっている)「父親のリストラはドラマとしては重すぎるのではないか」等の議論を経て、高校受験の際に、父親が勤める会社が不景気になり、母親から「高校は公立でいいんじゃない?」と言われて本当は友達と一緒に制服がかわいい私立校に行きたかったけど、「うん、そうだね」と笑って受け入れたという設定に変更する旨のプロット案を送信した。(中略)上記プロット案に対する本件原作者の返事として、かわいい制服の私立高校に行けなくなったことなどは「心底どうでもいい」ことである、原作のジェンダー要素も逃げずに書いて欲しい、制作サイドは短大での設定を避けているのか?といった趣旨の記載がなされた文章が送信された。
日テレの報告書は、調査にあたった外部有識者(弁護士)が、本件以外取引がなく、独立性・中立性が担保されているとわざわざ冒頭に記しているが、上記を見れば外部有識者が日テレの側に立っていることは明らかだ。日テレも外部有識者もこれで騙くらかせると思ったんだろうか。舐めすぎじゃないかね。
再発防止策を本気で練るなら以下以外にありえない。
日テレ側は当初(3月9日あるいは29日打ち合わせ)で「本件原作者の意見を無視するような改変はしない、リスペクトをもって取り組むという趣旨の話をした」と日テレ報告書にあるが、それがなかったのは上記からも明らかである。
リスペクトとは何か。それは原作が、畢竟原作者がその作品で大事にしていることを同じように大事にするということであろう。
原作者は一切の改変を許さないというスタンスではなく、むしろ当初は上手く料理されることを願っていた節さえある。
芦原氏は、監修者として漫画とドラマは媒体が違うので、ドラマ用に上手にアレンジするのがベストであることは理解している。全てお任せして「ああなるほどそうくるのか!面白い!」と思える脚本が読めるなら、一番良いが、「ツッコミどころの多い辻褄の合わない改変」がされるなら、しっかり、原作通りの物を作ってほしい。脚本で 100 点を目指すのはもう無理だと思うので、演技や演出力で、なんとか80~90点に、引き上げて欲しい。ベストは無理だと判断したので、限りなく全力でベターを目指して欲しい。と一層の努力を求め、原作者として「作品の根底に流れる大切なテーマを汲み取れない様な、キャラを破綻させる様な、安易な改変」は、作家を傷つけることをしっかり自覚して欲しいと要請しつつ、役者スタッフ等多数人の労苦に感謝しており、「闇雲に原作を変えるな!と主張しているわけではなく、よりよいドラマになるように、自分を守るために、現段階でできるベストを尽くしているつもり」と結んで本件脚本家の理解を期待した。
上記は小学館側の記載だが、原作者の当初の期待とそれが失われていった様を如実に表した一文であろう。
両報告書を読んで最も強く感じたのは原作者の孤独と絶望である。原作者は小学館を間に挟んでドラマ制作サイドと戦っている感覚だったのではなかろうか。
本来なら原作者と同じスタンスで原作によりそい、ともにドラマを作り上げていく仲間であるはずの制作サイドが敵となってしまったのは、本事件における最大の不幸である。
なぜそんな不幸が生まれたのか、制作サイドが真剣に反省し再発防止策を明文化し、プロデューサーからADに至るまでそれを徹底的に学び、実行しなければこの悲劇は繰り返される。
のではあるが…
●今回のことを受けて
・これで怖がっちゃいけない。安全にドラマを作る方法なんてない。それはみんな意見が違うし考え方が違う。その中で人間の生き方みたいなものを提示していかなければいけない。意見の食い違いもケンカもいろんなことがあって、プロデューサーが代表して、こういうドラマを世に問うんだと原作者、脚本家をまとめやっていかなきゃいけない。それを怖がっていたら面白いモノが出来なくなってしまう。そういう危険は今後もはらんでいるだろうけれども、だからこそ話し合ってコミュニケーションをとってやっていくしかない。
・放送局としてはまず第一に社員を守ることが仕事。社員を守るために早く結論を出すとか、その原作に係るトラブルの際に早く赤信号みたいなものをキャッチし、社員ができるだけクリエイティブに物を作る環境を整えるのが会社の仕事。
・若手プロデューサーの起用については、(トラブルになりやすいというのは)正直言ってあるとは思うが、それを恐れていたら駄目。失敗しないと学ばないからこそ、失敗してもフォローが出来る体制を作っていく方が大事。
見どころはココだろ
社員 A は、芦原氏が自分の作品を大切にする方であり、作品の世界観を守るために細かな指示をする所謂「難しい作家」であるから、原作に忠実で原作を大事にする脚本家でないと難しいと伝えた。