はてなキーワード: ホモフォビアとは
理解促進法の辺りから、最近またLGBTの権利を主張する流れが大きくなっている気がします。
自分はゲイですが、少なくとも自分には同性婚制度も、LGBTを守るような法律も、変な気遣いも要りません。自分が求めるのはただ一つ、「放っておいてほしい」ことだけです。
ただただ自分が見える範囲で放っておいてもらえれば、後は気持ち悪く思おうがナマモノとして掛け算の対象にしようが何でもいいんです。
ただ、普段は見えない、またはわざわざ書き込まれないような同性愛に対する偏見も、SNSでそういった議論が起こる度に嫌でも見えるようになってきてしまい、その度に悲しい気持ちになってしまうのです。
安易に虹色を掲げながら大声で政治的主張をしたり、パレードと言いながら公然猥褻レベルの露出をするのは、自分にはただただホモフォビアを増やしているようにしか見えません。本当にそっとしておいてほしいんです…
たぶんこの声もそういった人達には聞こえないのでしょうが、一人の当事者の主張としてここに書き残しました。まとまりのない文章で申し訳ないです。
ミサンドリストでホモフォビアでミソジニストで女性の権利についてネットで語りたい既婚腐女子と婚活腐女子
・・・みたいな矛盾の塊に向けた救済創作なんでメンヘラじゃない方が少ないのだけど
でも同じ指摘をしている人はネットにそれなりにいてblogまであった
自己愛性云々は飛び過ぎだが『ポルノ依存症』『自己投影のセクシャルドリーム』はみんな思うことなんだなって思った
けどまぁ可哀想な人を揶揄するのは可哀想だし訴えられたら嫌なのでリンクではなくワードだけに留めておくが
http://anond.hatelabo.jp/20210520151238
星野源とガッキーの結婚で改めて思ったけどナマモノ同人ってなんで許されてんの?
まではわかるけど
星野源とガッキーのプロポーズを想像して漫画に描いたらなんかアウトな気がするし、
さらにそこから性生活を想像してしてエロ漫画描いたら完全にアウトな気がするんだけど、
セーフって事になってるんだよね?
なんでセーフなの?めちゃくちゃな事してない?
星野源のことが好きで嫉妬に狂った綾野剛が星野源を監禁レイプ!
本人は結婚しましたけど私はこれからも妄想続けます!とかやってるわけでしょ?
もうめちゃくちゃじゃない?綾野剛が何をした。
まずナマモノについては女性向け界隈でのジャンルとしての存在感がでかすぎて
そこを批判しようとすると追い込まれる商業女性作家が大勢いるような世界なんだよね。
BLはナマモノ同人から商業デビューしてる作家ってかなりいるのよ。
デビューは違っても現在進行形でナマモノ同人やってる漫画家も大勢いるし。
呉座勇一がさえぼう氏を鍵垢で叩いてた時も争点になったが
その数の人間が見れるようにしてて「鍵があるから問題ない」とは?
という状態のナマモノBL作家(であると同時に商業作家)はかなり居るのですよ現状。
さいたまスーパーアリーナであの芸能人とこの芸能人のセックス妄想を叫んでる状態。
だからもし万が一、ナマモノ同人はやっぱりダメでしょという気運が一気に高まると
本当に商業アカウントで謝罪する作家がゴロゴロ出てくる事態になると思う。
それは避けたいという心理がまず多くの女性向けという国の住人にはある。
https://anond.hatelabo.jp/20210520174157
いわば共犯状態でダンマリを続けてるのが女性向け同人の世界だからとしか言いようがない。
ナマモノ同人の是非は突かれるとかなり痛いポイントだってわかってるから
普段表現問題に厳しい姿勢を見せてるShipper(あえてこう言う)でも
外からそういう声が上がってもナマモノBLを批判するのはホモフォビアだとか
雑な問題すり替えで仲間内で納得しあって話を終わらせてる状態。
あとはやっぱり「隠れてるからいいでしょ」の一点張りで乗り切っている。
しかし重ねて言うが数百人〜数千人、時には万単位の人間が少なくとも閲覧できる状態って
隠れてるって事になるんですかね?どうなんですか?
そもそも隠していれば問題ないというのは現実に実在人物を使っての性的妄想垂れ流しに問題がないと本気で思っているわけではなく
その建前で自分たちの心を守れるというだけなのではと思う。
しかしネットでは隠すにも限界あるし(愉快犯の晒しはどのナマモノでも横行している)
その面で隠れていればオッケーの建前が崩れつつあるから
いずれ正面から向き合わなきゃいけない女性向けジャンルの闇の部分なんだけど、
果たして自分から向き合うことを表明する勇気のある当事者のナマモノBL作家がいるかというと……
いないだろうな。
というわけで大きな区分では女性向けジャンルにいるけどナマモノはあかんでしょと思ってる人間としては
変わるとしたら外圧で変わるしかないんじゃないですかねという所感。
いい外圧待ってま〜す。
なんで百合豚が嫌いなのかも書き連ねたいわ
なお、ビアンを自称する腐女子とレイヤーとV系バンギャについては闇が深過ぎで精神的にくるのでノータッチにしておきます
▼ 腐女子(BL愛好家・性別女)イメージを悪くしている原因ランキング
第5位:SPA!とかが喜びそうな男が好き過ぎるメンヘラの存在
- 金銭的に破綻し、キャバ堕ち>風俗堕ち>パニック障害>実家へ強制送還、あるいは恋愛感情等が無い男と謎の共同生活を送る。
それでも、バンギャ、ジャニヲタ、2.5次元、ホスト狂い、出会いアプリ厨かつセフレとSEX、なによりBLはやめない。
第3位:ミサンドリストでホモフォビアでミソジニストで女性の権利についてネットで語りたい既婚腐女子と婚活腐女子の存在
- 矛盾王。いわゆるアレな人ですね。ネットで真実に目覚めちゃったりデマに躍るタイプです。自称保守だろうが自称リベラルだろうが困ったちゃん。
ただ、この世のすべての人に等しく発言権はあります。権利が守られている様子が確認できて良かったですね。
- いわく、女は弱く様々な手段で男に縋って生きるほかないとのこと。
トランスジェンダーがそれがMtFにしろFtMにしろ、肉体的性とは異なる性を選択した際、ジェンダー議論の中で定義されるステレオタイプ的な振る舞いを好む/忌避し自らの社会的性を確立しようとしたとして、それは性別二元論批判と対立するか?
例えばMtFが化粧をし、ハイヒールを履き、スカートを好み、それが社会的に女性として扱われるためだとしたら?
トランス(やX・Qジェンダー)の幼少の体験としても、男の子のおもちゃ、女の子のアニメといった言葉は見られる。社会的性の選択と社会に構築された性観念は密接で、それに則り社会的性を構築するのは当然のことでもある。しかしてそれは既存の性観念(性規範と言っても良いかもしれない)を積極的に肯定することになるのか?
そもそも、選択をする時点で社会的性差を一定以上認めているのではないか?性差がないと考えるのであれば、性規範のみを批判すれば事足りるのではないか?
自身を内的に肉体的性と異なる性を持つと思うだけでは満たされず、社会的承認を以って初めて社会的性の構築と捉えるのであれば、何らかの見本が必要であり、それがジェンダーステレオタイプであり、社会的な性差なのではないか?例えば#kutooのようなジェンダーステレオタイプの押し付けを批判する概念と折り合いをつけることはできるのか?
ステレオタイプが完全に破壊され、誰しもが自分のしたいように自由に振る舞える時、個々人の肉体的性との不和は本当に解消されるのか?誰もが社会的に認められるとして、そこに各社会的性の承認はあるのか?そもそも不和が生じるのか?
そこにあるのはMaleでもFemaleでもなくただの個人で、それ以上でもそれ以下にもならず、究極的には社会的性が失われるのではないか?これは男女共同参画に対するバックラッシュの中で論じられた「中性人間」と通じるかもしれないが、ミソジニーに基づく政治的な主張などではなく、社会的性の存在に関する純粋な疑問であると自負している。
性的嗜好とも関連する。男性という性自認(=ジェンダーアイデンティティ)の下、男性という性自認をする人を嗜好することと、オス(=セックス)がオスを嗜好することは異なることである。
性自認が男性でも肉体的にはメスで、性転換手術を受けていないかもしれないし、そのオスの性自認は女性かもしれない。これらもやはり社会的性に関わるが、社会的性無しに線引きできるのか?
ステレオタイプ的に振る舞う個人が悪なのではなくそれが肉体的性を理由に押し付けられ、個人の自己実現が抑制されることが問題と見做すとしても、ではステレオタイプから大きく逸脱する振る舞いを採る人間は承認されるのか?外見上オスに見え、性転換手術も行っていないが性自認は女性のレズビアンと主張する人物を我々はどこまで信じられるのか?
フェミニズムも一枚岩じゃない。出発は政治・社会における男女の力の不均衡であるが、その後の歴史展開の中でホモフォビアや性別二元論への考え方などにおいて分類ができる。上述した#kutooも決して全体の思想ではない。「ジェンダー」というフレーズはフェミニズムの中でも用いられる語句だが、その多義性から一部のフェミニズムと一部のジェンダー概念って場合によってはとんでもなく対立しうるのではないか?
その端的な扱いがゲイの描写だろう。ライトノヴェルでは、主要な読者層である若年男性の感情に訴えるホモフォビアがそのまま剥き出しで晒されている例が結構あるのだが、代表的な例がこれもまた人気作の「盾の勇者の成り上がり」だろう。まったく必要も必然も無い場面で男性キャラ同士をギャグとしてくっつけて、「ホモじゃねーよ!」と言わせることが笑いになると思っているしょうもない感性が見られる。それも一度だけではなく二度三度と。他人であっても、一個の人間が生きるということへの想像力が致命的に欠落しているのだ。
だから、フェミのホモソーシャルの掟と空気感にわずかでも反すると感じたら(ここはホモソーシャルらしくお気持ちで動く)全力で攻撃する。フェミ批判記事も大量に不自然になぜかある時から同一コメントにスターが集まるアレも、ホモソーシャル的連帯への攻撃と感じるからだろう。
ミソジニーがミサンドリーに、ホモフォビアがトランスジェンダーフォビアやオタクフォビアに置き換わっただけなんだよね。
もっとも、フェミは女性に限らないが、思想的には完全にホモソーシャルの特徴が合致する。
だから男性のホモソーシャルが、「女性蔑視、スケベでなければ男じゃない。ホモキモい」ってのに集約されるように
女性のフェミにより強化されたホモソーシャルは「男性蔑視、フェミでなければ女性じゃない。オタクやトランスジェンダー女性キモい」に集約されてるだけ。
学術的に小難しいことを言ってても、結局穴だらけな自分定義で、突っ込まれるとすぐにボロボロのダブスタ理論だったり、とにかく敵を見つけて攻撃しようとする理由は「ホモソーシャル」だから。
だから、女性のオタク系絵師とかは「裏切り者扱い」されるんだよね。
男性のホモソーシャルにおいて、「少女漫画を読んだり、女性の趣味と思われるピアノや料理をするやつはキモい」ってのと同じ。
「女性のくせにキモい男性の好む絵を描くとは何事か!」とキレるわけ。
フェミニズムはリベラルから発生したんだけれど、女性を抑圧しているのはまさに「ホモソーシャルの同調圧力」なんだよね。
思想における同質性をめちゃくちゃ強要してくるでしょ? 現在のリベラリズムって。
少しでも「それはどうだろう」って疑義を唱えると、すぐに劣化しただのネトウヨの染まっただの言って、会話にならない。
恐らくSNSは思想のホモソーシャル化を極めて強化する働きがあったと思う。
それはフェミには限らないんだろうけれど。
年取るにつれてBLコンプライアンスがどんどん厳しくなり「風邪ひいた受が色っぽくて抱く」「仕事中に会議室で」「温泉の露天風呂で」などの昔は読めたものがコンプライアンス違反で読めなくなってしまってきた🙅🏻♀️
BLコンプライアンス、別にいいっスけど、このひとナルトのカカシ先生とイルカ先生のカップリングやってるんだよな
カカシ先生とイルカ先生、俺の記憶だと同性愛者とは読めなかった というかまあそれだけならまだ許せるんだけど(追記:一貫性を保つならやっぱここ許しちゃダメだな!)、カカシ先生の方はどちらかというと異性愛者に見えたぞ イチャイチャタクティクスとか好んで読んでたし(まあ同性愛者でも異性愛の恋愛本くらい読むだろうけど!) アニオリでカカシ恋歌なる回があったという情報もあり、とにかく同性愛者とは看做しにくい
ええのか?勝手に定めたあんまり原作に沿ってるとは言えないセクシャリティをキャラに押し付けて二次創作するのはええのか?
俺的には風邪ひいてるときに(合意の上で)セックスするより、他人の生み出したキャラのセクシャリティを歪めて二次創作することのほうが「コンプライアンス」違反に見えるんですけど……
アレなのかな カカシ先生もイルカ先生も原作中で恋愛描写少ないし、かなり綿密な読みのもと同性愛者だったって結論を出した上でやってんのかな それならまあ文句もねえけどな……
異性愛でもそうだけど、カップリングってポリコレ的にかなり危ないと思うんだよ 明確に描かれてないセクシャリティを貼り付けちゃダメでしょ
カカシ先生に関しては異性愛者もギリセーフ(?)、イルカ先生は完全に謎 アセクシャルの可能性もある
アセクシャルキャラに恋愛させるのはアウトじゃん異性愛でも同性愛でも両性愛でも
いや、本音を言うとどうでもいいよ
でも合意とかその辺を重視するならそれよりもっと根幹の部分にも注目するべきなんじゃねえかって話だ
ホモフォビアとか言って差別主義者扱いしたら勝ったことになるって考えが気に入らん 俺は異性愛カップリングもダメさでは同じだと思うぞ
ヨガと同じく人口が多いからいろんな人がいて然るべきなんだけど
第5位:SPA!とかが喜びそうな男が好き過ぎるメンヘラの存在
第4位:BLポルノ・原作改変に感覚が麻痺していつでも垂れ流す腐女子の存在(非格闘派)
第3位:ミサンドリストでホモフォビアでミソジニストで女性の権利についてネットで語りたい既婚腐女子と婚活腐女子の存在
第2位: BLポルノ・原作改変に感覚が麻痺していつでも垂れ流し+萌えエロに積極的に食って掛かる腐女子の存在(格闘派)