はてなキーワード: 立身出世とは
よく分からんが、
なにかの現状に対してx2、x3という数字はあんまり現実的には思えないことの方が多い気がするんだけど、どうなんだろう
こういう話って、x1.1、x1.2みたいな感じで生産台数を増やすとかだったら理解できるんだけど、
自動車であれ戦闘機であれ、二倍!三倍!みたいなことを偉い人に言われると、
どこまでちゃんと考えているのか疑問というか、フレーズとしてカッコイイから言ってるだけなんちゃうか、とか思ってしまうわけで、
まあ、燃えよペンとか逆境ナインは面白いんだけど、スガが同じこと言っても響かないんだよなあ
もうちょっと国民につまらんと言われても地に足ついたことを言った方が、後々のためでもあると思うんだよね
責任だのなにかと面倒なのは凡人だろうが偉い人だろうが変わらないだろうし
ただ、スガ氏が一枚上手?で、最初から責任を負われて辞任に追い込まれるのを込みでやってるのだとしたら、
悪質ではあるけど、戦略として間違ってないとも考えることはできる
そもそも、コロナでオリンピックは1年後に延長だのを決定したのはアベ氏であって、
吐血を理由にしているけど、あんまりにも元気すぎて仮病を疑うレベルだし、
前々から官邸内でアベ氏とスガ氏の仲が嫌悪になっているというのは報じられてきたわけで、
アベ「なんかコロナとか面倒くさいことになったし、コロナとか戦争みたいな国難の対応とか難しいからやりたくないし、スガさんは立身出世で田舎から出てきて首相の椅子に座るのが人生の目標なんだろうから、椅子を譲りたいんだけど…」
スガ「自分は首相の椅子に座るのが人生の最終目標だから喜んで承諾する。歴代総理に名を残したいだけなんだよねw」
アベ「俺もパパやママに言われたように改憲した総理という名前を歴史に刻みたいだけで、ぶっちゃけると改憲の内容とかどうでもいいw」
スガ「いやー、奇遇ですなあw」
男性が常に強者で勝者であるとするならば、あの真夏なのにエアコンなんてものはなく巨大扇風機が生ぬるい風をだらだらと放出し続ける倉庫で、全員時給1000円で集められた日雇いの現場で、女性にはビールの段ボールにベルトコンベアの上で景品を貼り付ける仕事があてがわれ、男性にはびろんびろんに伸びきったまさに言い訳程度のコルセットと安全靴を装着させた上で、ビール350mlが2ダース入った段ボールを上げ下げする仕事があてがわれた思い出はどう処理すればいいんですかね(挨拶)。
むろんこの場合女性を憎む……のではなく、日雇いという弱者同士で連帯してそこでボーッと突っ立ってる監視役の倉庫社員をぶん殴る……のでもなく、倉庫社員とも連帯してサントリーを誅して社会主義革命を起こすのが唯一の正解であることは皆さん御存知の通りである。
さて、この増田では2009年に出版された澁谷知美『平成オトコ塾―悩める男子のための全6章』の内容を紹介する。澁谷は上野千鶴子ゼミの出身であるようだが、いわゆる「フェミニズム」的なテーマではなく、『日本の童貞』『立身出世と下半身』などを出版している、個人的に信用している書き手である。
目次は次の通り。
第1章 その「男の友情」は役に立つか?
第2章 「僕がキミを守る!」と思ってる?
第5章 包茎手術はすべきか否か
2009年の本で、いま論じられているテーマの大体が既に出ていることに驚くだろう。我々は弱者男性問題それ自体だけでなく、議論が12年でほとんど進んでいないこともまた嘆くべきだろう。というかこういう話になると非モテ論壇とか言って侃々諤々やってたのが昔のはてななんだよな今の新参は昔のはてなを知らないから困る。失われた10年……。
それはともかく正直、456章はそれまでの言ってきたことと関連性が薄く、また前の章ほど爆発的に面白いわけでもないので、言いたいことはわかるのだがこの本にいるか?という感じはする。なので、とりあえず3章から見ていくことにする。
3章の冒頭でいきなり研究者としての特大のお気持ちがドロップされていて面白いので少し長くなるが引用しておこう。
ヘテロ男性の非モテ現象だけを扱うというと、必ず来るのが「ヘテロ女性の非モテの方が、あまり苦しみが言語化されないだけに問題が多い。なのに、なぜあなたはヘテロ男性の非モテを扱うのか」という反応です。世の中には、Aという現象を扱う人に対して「A以外も扱え」と指摘することがエライのだ、これこそ目配りというものだ、と思う方が多数存在するみたいで、かなりの確率で前述のような発言に出会います。
が、そういう発言は魚屋に対して野菜を売れと主張するに等しい。非モテ女子の話がそんなに重要なら、重要と思う人がすればいい〔澁谷注:私もいつかはしたいと思っていますが、「非モテ女の話の方が重要だ!」って言う人はどうぞお先に。止めませんよ。〕。それに、その手の話が見当たらないということは、苦しみがそれだけ大きいことを表しているのかもしれませんが、苦しみの不在を端的に表しているだけかもしれません。有力な傍証でもないかぎり、言語化されていないということから苦しみの有無を推定することはできないという、当たり前の事実も指摘しておきます。(p.75-76)
「女性の問題を扱え」といちゃもんつけられたことが一度や二度ではないのであろうことが怨念の籠もった書きぶりからわかる。まあ、それは12年後のネットを見ていてもよくわかるところで。
男性について語れば女性の方がつらいから女性について語れと言われ、女性について語れば男性の方がつらいから男性について語れと言われる。もういい加減そういう「やってる感」を出すための100字ですら余るようないちゃもんはやめにしませんか。お前がやれ。俺もそいつもやったのだから。
澁谷は非モテを3種類に分類する。
a-1 性的存在としての異性との関係性を欲しているタイプ(セックスをしたい、「女性」の存在に癒されたい)
a-2 とにかく他者承認を欲しているタイプ(オレを認めてほしい!)
「恋愛」を押しつけてくる世間や、いま現在「恋愛」と呼ばれている行為の中身や、それを統制するルール等々に違和を感じているタイプ(p.90)
この分類に対して何か意見を言うことは誰にとっても容易であり、それは分類表の絶えざる細分化を招くだろう。むろんその行き着く先は完全に無意味な、総人口分のパターンである。だから、ここでは非モテ男性に最低でも三種類ある、という点を強調しておくことが必要だろう。
男で、かつ非モテ、という狭く見えるテーマに絞っても最低これだけのバリエーションがある。そのことを非モテ男性当人達ですら大抵わかっていない。aのタイプの非モテ男性が「今すぐ女をあてがうべき」とまでは言わなくても「女をあてがってくれると嬉しいのは確か」ぐらいに思うことは自然であるが、bのタイプの非モテ男性から見ればまったく話が合わず、「非モテの中でも過激な野蛮人」と感じられることだろう。それをきっとaは「すかした奴だ」とか「きれい事を言っている」とか感じるだろう。まして女性が受け手の場合はさらに混乱が深まるだろう(男女の非対称性については後で論じる)。
澁谷は当時の主流であった「経済的問題が解決すれば結婚は増える」「機会をつくれば結婚は増える」といった主張を論駁し、「フリーター論壇」が経済について述べたフレームワークを非モテの問題にスライドさせることを試みている。その過程で澁谷は「あてがえ論」について、2009年の時点ですでに考察している。
非モテ問題の場合、これ〔若年労働者問題におけるベーシックインカム〕を「ベーシック異性」によって解決する発想がありえます。女性をもれなく男性に分配する制度です。(p.95)
澁谷はこの論が全くの荒唐無稽でないことを、19世紀半ばの宗教的コミュニティ、オナイダコミュニティを例に挙げ示すが、結局現代においては不可能であろうと言う。
当然のことながらこれを現代日本でやることは不可能です。「分配」される側の女性の中には、どうしても相手のことが好きになれない人が出てくるでしょうし、男性とつがいになりたくない人だって居ることでしょう。そうした女性に男性との共同生活やセックスを強要するのは、現代日本の常識においては、「人権侵害」となります。
もちろん、男性にとっても全く同じことが言えます。あなた好みの女性があなたのもとに「分配」される保証はありません。〔…〕「なんであいつには美人が来て、おれのとこにはそうでないのが来るんだ!」なんていう新手の「格差問題」も生じるかもしれません。(p.97)
この「格差問題」という未来予測は面白い。「チェンジ」なんて贅沢は、限られた資源(女性)をやりくりしないといけない政府が許すはずもない。チェンジOKをうたう風俗でも2回目以降は有料だったりするのだから。
個人的にはこの例示こそ「あてがえ論」に対する何よりのカウンターであると感じる。仮に「あてがえ」とガチに主張する人がいたとして、その人に人権を説いても馬の耳に念仏だろうが、こっちの懸念は聞いてくれるような気がするのである。
澁谷は続いて、経済問題における社会保障にあたるものとして、思想的セーフティーネットの構築を提唱する。まあそれ自体は正しいと思うのだが、本田透『電波男』における主張ほど面白いものではないのでここでは省略する。『電波男』を読め。
暴力的だったり、女性にたいして思いやりがない場合をのぞき、ある男性が女性から選ばれないのは、その男性のせいではありません。女性にとっての「よき男性像」が特定の偏り――収入と学歴が一定以上あり、ある水準以上のルックスをしていて、会話が続く――を見せている限り、そこに当てはまらない人や当てはまろうとしてもできない人が出てくるのは当然のこと。それは、男性陣が特定の偏りを持った「よき女性像」を持っており、そこに当てはまらない女性(非モテ女性)が出てくるのと同じことです。(p.100)
おそらくこの記述で多少救われる人もいるに違いない。KKOは来世に期待するしかないが、それはあなたのせいではない。
ただここで考えたいのは、「暴力的だったり、女性に対して思いやりがない場合」をしれっと除外している点である。そんな男でも「女をあてがわれた」のがかつての日本社会であったことは、澁谷も指摘している。
とはいえ、ちょっと脇道にそれますと、「分配」の方法は問わずに「男性にもれなく女性がくっついた」という現象だけを切り取ってみれば、それに近いものを一九五〇~六〇年代の日本に見出すことができます。当時の男性の生涯未婚率(五〇歳時点で一度も結婚したことのない人の割合)はわずか一%台でした。九八%の男性が一度は結婚したことがある、つまり女性を「分配」されたことがあったのです。
何故これだけ広範囲の「女性の分配」が可能になったのか。「男女とも結婚して一人前」という社会規範が強かったこともありますが、なにより男女の経済格差が今以上に大きかったことが上げられます。
この時代、一部の職種を除いて、女性が一生続けられるような仕事はありませんでした。有名企業に就職できたとしても、当時は、女性にのみ適用される「三〇歳定年制度」によって追い出されてしまったのです。一方、男性には安定した仕事がありました。給料は毎年上がり、先の見通しも明るい、なんといっても高度成長の時代です。(p.97-98)
ちなみに本書では2005年の男性生涯未婚率15.4%という数字を引いているが、2020年には23.4%になっているらしい。
それに加えて、上で述べた加害性が必ずしも本人の責任ではないということも、90年代以降の精神医学や社会学が明らかにしてきたのではなかったか。
とすれば、KKOのみならず、KKKO(キモくて金が無くて加害性があるおっさん)もまた、必ずしも本人のせいとばかりはいえず、社会に包摂すべき、という話になってくるかもしれない。その際には「ラベリング」「過剰包摂」など、社会学が障害者やホームレスなどについて積み上げてきた知見を生かすことができるだろう。というか、福祉の現場の人たちはいまもKKOだけでなくKKKOも社会の内側へと復帰させるべく頑張っているのではないか。
なぜ、おっさんが問題なのだろうか。あるいはより学術的な言い方をするならば、非モテはなぜ男性の問題になるのか。本書はその問いに直接的に答えてはいないが、ヒントは与えてくれる。以下は1章のはじめの方の記述である。
皆さんは、なーんか気分が晴れない、ってことありませんか? あるいは、漠然とした不安があるとか。原因不明の体のだるさがあるとか。そういった不快な状態、つまり精神的に健康で無い状態を「ディストレス」といいます。そのディストレスが、独身男性と既婚男性とで、どちらが高いかを測った調査があります。〔…〕結果は〔…〕二八歳から七八歳まで、どの年齢層においても既婚男性のディストレスのほうが低かったのです(稲葉昭英「配偶関係と精神的健康」『日本の男性の心理学』二〇〇八)。男性にとって、そばに異性(=妻)がいる人生は、いない人の人生にくらべて、ハッピーなようです。(p.15)
澁谷はディストレスと妻帯のどちらが原因でどちらが結果かはこの調査からは分からないと述べるが、続いて妻に感情を見せることによって、夫が精神的に健康になっていくことを示す調査を引用し、「つまり女性と一緒に暮らすことがディストレスを低くすると考えるのは、間違っていないようです」と一旦の結論を置く。そして次のように続ける。
ならば、男性は女性から精神的なケアを引き出している、といえる。「女性だって同じことでは?」という反論に答えておくと、女性は独身か既婚かでディストレスに大きな差はありませんでした。〔…〕統計的な傾向でいえば、男性の精神的健康に女性の存在は欠かせないが、その逆はない、ということです。(p.16)
この下りはまったく読んだ記憶がなく、今回読み返して一番驚いた部分である。増田の実感としては「男がいないと鬱病になって死にそうな女」はよくいるが、その逆はあまりいない印象であるが、それはどうやら必ずしも正しくないようである(むろん男がいる=結婚ではないとか、ディストレスが高い=鬱病になって死ぬではないとか、そもそも元の調査やその読解がどうなのか、とかは考えなければいけないだろうがそれはそれである)。
上の論述は、女性(強者弱者フェミニスト非フェミニストを問わず)による「女に頼らずに男同士の友情で満足すればいいじゃん(私であればそれで満足するのに)」という主張が、必ずしも的を射ているとは言えない可能性を示唆している。もちろん逆もしかりで、「男性と夫婦になれば女性だって幸せになるはずだ(俺のように)」という男性の主張が間違っている可能性も同時に発生している。
ここに性にまつわる問題の隠れた難しさがある。「相手の気持ちになって考える」ことと「相手の気持ちになって考えたつもり」を区別することは、専門家であっても難しい。さらに加えて、先に述べた非モテ男性の三分類といった差異も隠れている。とにかく、話題への参入障壁が低い(男もしくは女であれば誰でも一家言持っている)わりに、トラップが多すぎるのである。これが2009年から今に至っても議論が終わらないし前に進んでもいない一因だろう。
こうした非対称性が発生する原因として澁谷は、現在の社会において女性が男性より相手の話をよく聞くように育てられており、それに対して男性は競争的に育てられていることを挙げている。その結果として男性は女性に癒やされているし、女性も女性に癒やされているのだろう。
一応言っておくとここで澁谷や増田は「男性と違って女性は人を癒やすべきだ」とか、まして「男は働いて女は家にいるべきだ」とか主張しているわけではない。ただ、そういう傾向がいまの社会にあるようだ、と言っているだけである。それを望ましいとか望ましくないとか考えるのは社会科学の領分ではない。「〈こうである〉から〈こうであるべし〉を導くことは不可能である」(ウェーバー)。
12年後のいま、澁谷の主張に触れると、多くの部分はそのまま現在に流用可能であると感じる。しかし、目配りが足りていない部分もある。おそらく澁谷は包茎手術と高須クリニックの関係よりも、男性における経済的問題について語るべきであっただろう。「女はホームレスにならなくて済むからいいよな」「いや危険だから女はホームレスになれないのだ」「それでも事実として死ぬでもホームレスになるでもない選択肢がある女は恵まれている」云々のあれである。むろんそれは今だから言えることであるのだが。
それでも増田が望んでしまうのは、そうした議論が両者ともにマジでクソだと考えるためである。ホームレスと実地で接しろとは言わないからせめて、ホームレスに女性は本当に少ないのか、少ないだとすればホームレスになるはずの女性はどこへ言っているのか、それはほんとうに「恵まれている」といえるのか、といった事実についての認識は両陣営ともに共有すべきであるし、その時点で認識に差異があるならどの点で異なるのかを明らかにすべきである。
そうした仕事を澁谷が12年前に済ませてくれていたら、と思う。思うのだが仕方ないことなので、現在を生きる我々がやるしかあるまい。というところまでは澁谷の背中に乗って増田が到達させたので、ここから先はお前の仕事だ。頑張ってください。たまに手伝いに行くかもしれない。
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(追記)
バズったので宣伝します。狐火という、この記事や通念における弱者男性というカテゴリーからはみ出す部分はありながら、それでも弱者男性であることを納得せざるを得ないリリックを10年以上紡ぎ続けているラッパーがいます。売れろ!
https://www.youtube.com/watch?v=tmJBGEFXOvU
勇気が欲しい
余裕で頭を下げられる
勇気が欲しい
勇気が欲しい
https://www.youtube.com/watch?v=MRLXZGylQRg
絶対こんなはずじゃなかった
オレこんなはずじゃなかったんだよ
https://www.youtube.com/watch?v=loWcv5VEObM
よく聞かれる
歌えないんじゃないですか?」
https://www.youtube.com/watch?v=z1J8BbnBLyQ
27才までに見ていた夢は全て叶った
男は自殺率が女より高いという話から「男はコミュ障の強がりでストレスを溜め込むからね。でもワタクシはママじゃないし男のストレスは男で解消してね♡」というクソみてえな主張が最近目立って来たので書く。
男性の自殺率が有意に高いのはコミュニケーションが下手とかそんな話ではなく(だいたい下手なんじゃなくてプロトコルが違うだけだろ)、受けているストレスの量が多い≒背負っている責任が重いせいだ。男性自殺の原因トップは経済的な困窮であり、それは友達と話をしたところでそいつが連帯保証人のサインをしてくれない限りストレッサーから逃れる術はない。
日本社会は未だにジェンダーの縛りが非常に重い。扶養控除なんて制度もそうだし、親権が母親に無条件に寄るのもそうだし、医学部の女子に対する入試差別、職場での男女雇用の不均等…あらゆる場所で昔からある「男は仕事、女は家庭」が幅を効かせている。
社会の主役は男性であり、女性は家庭や私的空間を守るためのもの、というのは建前としては消滅したが、未だにあちこちに実在している。
この点については男性も女性も概ね合意が取れると思う。男女差別が存在しないなどと思っている奴はほとんど居るまい。
さて、そうした男性特権の向こう側には特権に比例した責任が発生する。中世の貴族であれば権威を継承する者として、共産主義国ではブルジョアを打倒する模範的同志として、そして資本主義国としては経済の主体としての責務を自動的に背負う。資本主義国で生まれた男子は、程度の差こそあれ「自分が今日の糧を食いつなぐ」という理由と並行して「国家構成員の責務」として金を稼ぐことを求められる。女子は、差別によってこの社会の責任から排除されているのでこれを背負うことはない(多少解消されつつある現代的に言えば「少しは背負っている」が)。
ここで「男ってバカね、意地なんて張らずにそんなの捨てちゃえばいいのに」なんて思った人間も居るかも知れないが、国家がそのイデオロギーを維持しているのはどこかのハンコついた文書に書いてあるからではなく、常に社会の構成員の大多数がそのイデオロギーを実践しているからであり、それが維持されない、誰もが気軽に社会的責任をポイしちゃう国家はその国体が維持できない(ナウルみたいになっちゃうぞ)。気軽に捨てちゃえばいいなどと言ってのけるのは、それこそ責任を持たない者の発言である。
つまり資本主義イデオロギーからの圧があり、男子は絶えずその圧に晒されている。そしてイデオロギーそのものを否定することは不可能(本当は可能ではあるが…今の所資本主義よりうまく行ったイデオロギーがない)で、プレッシャーから逃れる術はない。立身出世しなければならない。大人になったのに親に食わせてもらうことは恥だ。子供部屋おじさん。勝ち組、負け組…そんな言葉が未だに現代に漂うのはこうした圧力が実在することの証左である。
翻って女子の方は、差別によって権限を剥奪されているので社会的な責任が薄い。出世しなくても馬鹿にされないし(させないのだから当然である)、本人が無職を望んでも多方面からごちゃごちゃ言われない(ごちゃごちゃ言われるのは逆のバリキャリとして生きるときだ)。親に扶養されてて情けないと言われることもないし子供部屋おばさんなんて言葉もない。逆に家庭に対しては男子より多くの責任を負わされ、子供の面倒(母乳信仰など最たるものだろう)や地域コミュニティの行事など多くを強制させられるのだが。
この権限と責任の差によって男子は敗北が許されず、弱音を吐くことが認められにくい。責任を果たすために特権を得たのだから負けてはならないし、負けたら資本主義イデオロギーの実践者としてはもう後がない。実際には福祉がありそこに落ち着くが、資本主義イデオロギーの強いアメリカが福祉をアカ扱いする性質があるように、福祉の世話になることはほぼイコール資本主義社会の責任から降りる事を指すので、圧を受け続けた人間ほどここで死を選んでしまう可能性がグンと上がるのは想像に難くない。こうして経済的困窮による自殺が男性に寄る。
フェミニズムの運動とはこうした性差別を排除し、社会へ進出し、女性に強制させらた役割にNoを突きつけ、男性だけが得られた特権を女性にも等しく分配させるための闘争である。
よって、男性から回収した権利には当然責任が伴う。男と同じく、資本主義の無限の競争へと身を置く責務である。社会進出とはつまりはこういうことであるし、少なくとも初期のフェミニズム、ウーマン・リブ運動においては責任ごと請け負う気で女性たちは動いていたと思われる。
少し前に「フェミニストだけど彼氏に養ってもらいたい」といった大学生の記事が出ていたが、とんでもないことである。それは「5000兆円欲しい!!」とかと同義で、お前今まで大学で何勉強しとったんや、教授もうんうん言ってる場合じゃねーぞ、と思ったものだ。
遡って表題の話をするが、こうした権限移譲によって男が抱えて離さないもの…そして背負わされているものを女も手にするということは、奪われたものを取り返す事であると同時に、一つのものを両者で分け合って背負うということでもある。つまり男性の自殺率が高いという話に対してフェミニズム的にすべき話は「こっちも働いてやるから権限をよこせ」であり「男性のことはアテクシは知りませんわよ」などという態度を取るということは、結局のところ未だに自分は社会の中央でなく、主たる責任はどこかの誰かの男性がやってくれるという態度そのものであり、フェミニズムから最も遠いあり方である。
余談であるが、自殺数の男女差でなくそもそも絶対数が他国より多く、過労死がそのまま英語になっている不名誉な現状については上記のジェンダー論ではなく労働問題のレイヤーである。ジェンダーは受ける責任というベクトルを決定付けるもので、その方向に従って加圧されるパワーは純粋な労働量に依存する。そもそも我が国の働きすぎ問題がマシになっていれば、比率はともかく絶対数として死んでいる人間の数は減っていたであろうことは自明である。個人的には、女性が男と同じく過労死するほど働くよりは、男女がそれぞれほどほどに働く未来を夢見たい。
学習指導要領が変わると学ぶ内容ややり方が変わるゆとり教育ぐらい変わる
最近では文春も週刊誌も黙って眺めているがかなり大きな変革である
今回の主題は「主体的・対話的で深い学び」。お分かりになるだろうか?
対話的というのは他の人との意見交換を経て自分の力にするということ。コミュ力
深い学び。よーわからんが、知識のネットワークかをしてエウレーカ!自分で様々なことから学びとること。
この改訂は30年前の受験戦争・学力偏重社会とは大きく離れて、
何が受けるかわからない時代。何がこの先生き残れるかわからない時代を生きていく力という点に重点を置かれている。
そんな時代に出身大学で出世が決まるなんてナンセンス。無論学閥は残っているので、学閥出身者の引き受けはありあえる。
入試も変わる。これからは共通テストの点数のみならず口頭試問やグループワークも入試に加わる。
どんどん大学の入社試験が降りてきている感じだが、そんな感じになるんだろう。
立身出世が自分の頑張りである学力だけでなく、地域の文化力、家庭の文化資本、学友の知的レベルにまで波及する恐ろしい時代なのである。
この場合に、階層の固定化というのはどう作用するのか?進学塾に行ける家庭は確かに強い。
はたまた、地域総ぐるみで教育にあたる文教都市が受験に強くなる「地域圏学力差」が生まれ、やはり東京のあたりが強くなるのか?
それはわからない。
私としては社会の人材育成の観点から行って、社会人になった人間が改めて自分の専門に近いユニバーシティやカレッジに通いやすいリカレントがしやすい社会であって、再挑戦・リベンジを後押ししてくれる社会になれば、日本社会としての強度も保たれるものと思う。以上、論考終わり。
陸上競技出身の朴訥としたほんわか営業マンが立身出世する話。それの主演を草彅剛がやっていた。
劇中で走るシーンが何度か出てくるのだが、フォームがとてもバタバタとして原作を知らない視聴者なら「ホンマに陸上競技出身の設定なん?」と疑うであろうほどひどい不安定さだった。
ジャニーズはマルチタレントとしてドラマにバラエティに演劇に音楽にと多方面で使われるけど、芸のない芸能人は見ていられず痛々しい。演技の勉強も歌の訓練もお笑いの基礎もやり過ぎないように制限でもされてるんだろうか。そんなバカな。社として専門タレントを舐めてるとも取れる采配は慎まれた方がよろしいかと。努努、心していただきたい。
削除されたamazonレビューの供養として140字制限のあるSNSで以下を画像で投稿したら、思わぬ反響とともにテキストにしてほしいとの要望も一部頂いたので、増田の使い方として正しいのかよく分からないが、とりあえず貼り付ける。
投稿した画像の文章(=amazonに投稿した内容)からタイポ1か所とamazonの規約に引っかかったのではないかと思われる1か所の2点のみ修正してある。
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本文:
まだ半分ほどしか読んでいないので追ってこのレビューは修正する必要があるが,小池百合子の虚飾を良く暴いたという絶賛レビューしかないことに違和感を感じる。この本の記述をそのまま受け取っていいものだろうか。
この本の記述が確かなら,小池百合子は芦屋とは名ばかり(とまではいかないかもしれないが)の中流より少し上の家に生まれ,周囲のお嬢様との格差や才色兼備のいとこと何かと比較されることにコンプレックスを抱え,ほら吹きで政治に散財する控えめにいってもクズな父親の趣味で1970年代のカイロに19歳の少女の身空で体一つで放り込まれたことになる。
そこから(著者によれば)アラビア語も全くできない中で,自分の外見と若さだけで周囲の駐在日本人を誑し込んで人脈を作り,カイロ大学首席卒業という大法螺ひとつで日本社会に自分を売り込み,首脳夫人の通訳,番組アシスタント,ワールドビジネスサテライトキャスター,政治家への転身を決め,閣僚,都知事まで上り詰めた。小池には何ら専門知識がなく,頼みの学歴すら嘘であるというなら,むしろ恵まれているとは言えないスタート地点から自分の強烈な上昇志向だけでここまで上り詰める才覚は凄まじすぎる。よって立つものがないから法螺で戦ったのであれば,そのクソ度胸は同じ人類とは思えない。
小沢一郎から「ゲッベルスになれる」と称賛?された小池のPR能力について著者は所詮お飾りといったような評価で冷淡だが,クールビズは実際定着したし,最近では「密」など,天然ボケ的なセンスかと思われたPRが,〇〇〇〇〇である彼女の冷静な計算に基づいていたものだったのであれば驚嘆するしかない。著者はこれをテレビ的センスと片付けるが,テレビ界で数年アシスタント,キャスターを務めただけの小池一人で電通,博報堂と肩を並べる力がある。
田島陽子などの声を取り上げて,小池は他の女性政治家と違う名誉男性であるかのような言い振りをするのもフェアではない。そういう同調圧力が女性の進出を阻む最たるものなんではないだろうか。この本では,(少なくとも自分が読み進めた半分くらいのところまでは)小池がチャンスをつかむたびに,その理由は周囲の男性を誑し込んだから,ということで片づけているし,それ本当かなーという気がしてくる。
また,震災被災者の陳情をマニキュアを塗りながら聞き,塗り終わったらから帰れ,自分はもう選挙区変えたと言い放つ場面は,その是非はともかく,事実なら小池が並みの政治家とは一線を画す存在であることを浮き彫りにする。こんなの表に出た瞬間政治生命が終了する話であって,そういった態度を政治家が本当にとれるものなんだろうか。地盤のない小池にとっては評判が命だと思うのだが。
正直,著者の描写する小池が凄すぎて,著者の描写も一面だけを捉えた虚像なのではないかという気がしてくる。こうした悪評をすべて小池が権力で抑え込んでいるというなら,小池の権力は総理大臣をはるかに超えているんではないだろうか。証言者もナミレイの朝堂院とか,小池に劣らず胡散臭かったりする点も気になる(これはそもそも小池家が胡散臭いことをやっていたことにも起因するんだろうが)。
また,もしこれが小池の実像であれば,むしろ僕は小池が凄すぎてその評価を上方向に改めなければならないし,その立身出世物語は痛快な小説を読んでいるかのよう。小池が豊洲で無駄にした120億円を使ってこれを本人主演の映画にすれば,日本映画史に残る名作になると思うので,ぜひ小池にはスクリーンで注目を浴びてもらって,政治の世界からは永遠に離れて頂きたい。
6月9日追記-----------------------------------------------------------
最後まで読了したが,途中まで読んだ違和感は強まるばかりだった。著者は小池のなすことすべてにケチをつけずにはいられないようで,例えば著者は核兵器の使用の違法性についての小池の答えを自分の意見がないと批判的に述べつつ,テロ特措法の延長を努力すると述べたことについては「国内で審議も経ていないのに防衛大臣が早々に自分の考えを明かしてしまう」などと批判する。結局自分の考えを言えばいいのか言っちゃだめなのか。当然ながら防衛大臣が核兵器の合法性について突飛な持論を展開したら大問題だし,逆に担当閣僚が法案の成立に努力することを述べるのは普通のこと。もはや小池憎けりゃ何とやらの世界。おかしいのここだけではなく,後半に入るにつれてこうした強引な記述が各所に目立つようになる。多すぎてここには書けないが,終盤は一事が万事この調子。また,丸川珠代の主張はともかく,「日本人で良かった」というキャッチコピーだけで「人種差別的」と断じてしまう著者の姿勢は客観的とは言えないだろう。
本書を書くことで著者は身の危険すら感じているようだが,小池と裏社会のつながりが明かされるわけでもなく,小池の秘書の怪しげな不動産取引を指摘するだけ(その内容は新潮が報じたものの枠をでるわけでもない)。日本のODAが入っているからエジプトは小池の言いなりのような主張もエジプト舐めすぎ。日本より多くのODAをエジプトに出してるドイツ,フランスはもっとやりたい放題なんだろうか。
こう考えていくと,著者のインタビュー相手が一様に口が重いのも,小池が理由なのかも怪しくなってくる。いずれにせよ,小池という一級の面白材料を調理するのには著者の力量が足りてないのは間違いない。
プログラミングという言葉がアフィブロガー御用達になって、SNSでプログラマーを名乗るのが憚られる感じの昨今。
プログラミングを勉強すればフリーランスで一生困らないみたいなこと書いてあるけど、そんな夢のスキルじゃないよ。
それなりにベテラン()を見てきたけど、結局はマネジメント層になれなければ会社にしがみつくことになる人が多い。
これはvueかReactか、javaかRubyかみたいな話じゃなくて、もう少し基本的な部分。
例えば大きいのはオブジェクト指向とクラス/インスタンスの概念。
他には、ガベージコレクタ、例外処理、マルチスレッド、デリゲートやラムダ式、非同期処理、バインディングとビューモデル、イテレータ、null安全。
今プログラミングを学んでる人には当たり前かもしれないけど、これらは十数年かけて徐々に当たり前になっていった。
ITバブルでブイブイ言わせていたけど、これらをうまく扱えないベテランは結構いる。
固定長メモリとポインタとmemsetで全てをまかなってきた層や、静的なモジュールで全部の画面を作ってたVB屋とか。
若いころは勉強すればいいと思うだろうが、理解はできてもそれを流暢に使いこなし適合するのは意外と難しい。
プログラムの中でその人の担当箇所だけいまいち読みにくくて、取り回しの悪いものになってしまう。いわゆるstaticおじさんというやつ。
これはベテランのイラストレータやシナリオライターが、デッサンや構成力はあっても、なんか古臭いものが出来上がってしまうのに似ている。
こうなると若いチームメイトや新しいプロジェクトからは敬遠される。
もちろん、COBOLの案件が未だにあるように、レガシー資産を利用した仕事で腕を振るえる場所は結構ある。
ただそういった環境は既存の人材・企業にがっちり掴まれてることが多く、後から見つけて入り込むのは簡単ではない。
上月城主となっていた寺元生死之助は、陸路から進軍してきた松永軍を相手に防戦していたが、
そこに海から尼子勝久の軍勢が到着したので、生死之助はさっと搦手の門を開いて迎え入れた。
生死之助は、鹿之助に対して何事か策を献じたあと、逃げ帰ったていで富田城に戻り、
「松永弾正と尼子勝久とで一万余りに攻められては太刀打ちできず」と申せば、
九郎左衛門は毛利を頼るしかあるまいと五千の援軍を借り受けた。
元気づいた九郎左衛門は手勢の八千人も連れて城外に陣を構え、そこに尼子勝久の軍が攻めかかった。
九郎左衛門の兵は、先鋒の鹿之助を取り囲んだが、あっというまに蹴散らされ、城門の内に退がるよりない。
城に籠もられると、さしもの鹿之助も攻めあぐねて、その日は退却となった。
「悪逆無道の尼子九郎左衛門、はやく馬より下りて首を渡せい」と呼ばわると、
九郎左衛門も「小倅ごときに討たれる九郎左衛門にあらず」と前に出てきて采配を振るう。
さらに鹿之助が「こののち三声と叫ばぬうちにその方の生命は寂滅する」と挑発すれば、
九郎左衛門はさらに怒り「三声は愚か千声万声でも発してみせるわ、我を生け捕る者があるか」と叫んだ。
その声が終わらぬうち、傍に立っていた寺元生死之助が「汝を生け捕るものはこれにあり」と応えるや、
九郎左衛門を馬上より引きずり下ろしてあっというまに縛り上げてしまった。
その隙に生死之助は九郎左衛門を抱えて尼子勝久の陣中に転がり込む。
毛利家の河野四郎は薮中茨之助と戦って斬られ、同じく毛利家の来島太郎は荒波錨之助に首を引き抜かれた。
九郎左衛門の配下の赤星軍八は皐月早苗之助と、田原兵次は秋宅庵之助と戦っていたが、やがて討ち取られた。
その他の勇士たちも各々活躍し、ついに大勝利と相成ったのである。
尼子勝久が城内に乗り込むと、生死之助が縛り上げた九郎左衛門を引っ立ててきた。
勝久は「いまぞ天罰の蒙る時節到来」と自らその首を打ち落とした。
兵たちは勝鬨を上げ、民百姓も多いに喜び、尼子家の再興を祝したのだった。
ちょうど正親町天皇の即位があり、毛利元就も上洛して献納品を奉ったところ、
義輝公の母君から「尼子と和睦して義久を返してやってくれ」と頼まれた。
やむなく元就は頷き、これで尼子と毛利は和睦して、義久は丁重に送り返された。
義久と勝久はついに親子の再会となり、また忠臣義士らを集めて労い、
とりわけ功のあった十名、
大谷古猪之助
寺元生死之助
横道兵庫之助
早川鮎之助
高橋渡之助
秋宅庵之助
薮中茨之助
荒波錨之助
あるとき、夫婦は山中で道に迷い、たまたま村上家の武芸指南役・井上九郎と再会した。
村上家を出奔したのち隠居していたとのことで、喜んだ森之助は、鹿之助を鍛えてもらえるよう頼みこんだ。
井上九郎のもとで五年ほど鍛えられ、鹿之助は武芸百般に通ずる立派な若武者となった。
その頃、信玄はすでにこの世を去り、武田勝頼が後を継いでいた。
馬場美濃守は己の死を覚悟し、もはや武田家の滅びは避けがたいので城を退去せよと森之助に伝えた。
まさに長篠の戦いにおいて武田が大敗を喫し、馬場美濃守が討ち死にするに至り、北条家の軍勢が諏訪ヶ原城に押し寄せた。
城にはただ更科姫と鹿之助だけが残り、母子で北条の軍勢をさんざんに打ち破ったあと、二人は落ち延びていった。
ところがその途上、更科姫と鹿之助の夢枕に、承久の乱で亡くなった中御門宗行という貴族の霊が立ち、
鹿之助は見どころがあるので、自分の子孫である中御門宗教を頼っていけば立身出世は間違いなしである、と告げた。
更科姫は、これぞ霊夢であろうと鹿之助を励まし、鹿之助は惜しみつつも母と別れてひとり京へ向かうこととなった。
東海道を進む鹿之助は、その途中の村にて、盗みをして焼き殺されるところの大谷猪之助という怪力の若者を助けた。
猪之助によると、いまは落ちぶれ、母のために盗みに手を出してしまったのものの、元は武士の息子であると言うので、
鹿之助はいずれ身を立てたのちには家臣として迎えると約して、二人は主従の契りを結んだ。
その猪之助が、鹿之助へ料理を振る舞おうと、大きな古猪と格闘してこれを退治したので、
売れて
先輩たちがまとめてヘッドハントされて、それこそマスコミにも取り上げられるような勢いで
ひとりとりのこされて、たぶんあいつは他の奴といくんだろうと全部のチームに思われて
最後の一人になってそっと消える
何社でもまわる。言われたところを回る。なんかさ、機械でぽっちがいいのかな?
どうおもう?
おれはレジの人間嫌だなって思う事も多いよ、でも人のいるレジに100円でも並んで迷惑がられるほうを選んだ
いままでセルフだったのも 100円200円高くなることも数千円高くなることもあるけど、人のいるほうにたまにはならんでみないか?
逆にちょっと前にあったけど、駅の改札、警備、大丈夫だよ、人がいることを知ってる。
この券売機の向こうにお前がいる。
我が国の総理・副総理が図らずも代表しているような「生まれと血統だけは良いバカ」は、自分が無能であることを暗に自覚していて、広く開かれた競争が始まってしまうと、自分がその地位から追い落とされることを良く分かってる。一度手放したらそれで終わりなのだ。だから今持っている権力を「何が何でも」維持し続ける必要がある。こういう人間がそのために何をするか。もうお分かりだろう。身分制度を固めるのが一番いい。絶対に自身と不可分の属性「生まれと血統」によって全てが決定されて覆せない。これなら安心だ。両親ともに高卒だけど、たまたま能力に恵まれた苦学生みたいなもんが、地方からはるばる上京してくるなんてことはあってはならない、そんなやつに生まれも育ちも申し分ない(ただ能力だけがちょっと低い)自分が追い落とされるだなんて悪夢もいいとこだ、というわけ。
世襲政治家みたいなもんが、優秀な人材の立身出世・登用を歓迎しないのはマジもマジ、大マジ。心の底からの本心だよ。身分の固定した揺らぎのない社会、ガチガチに硬直した社会が理想なんだよ。
男性にとっても、不利なのではと思う。
女の人と付き合うなら、無職だろうがフリーターだろうが一般職だろうが全然気にならない(自分が養ってあげなきゃと思うとおもう)。
でも、男の人と付き合うなら、無職とか無理だし、夢とかあって努力してるならいいけど、特にそういうのもないのに低収入だったら嫌だなー、とおもう。
なんでそんな風におもうのかなー、って考えてみたんだけど。
思うに、実は女の子には人生における選択肢が多いから、どういうステータスでも、それが、親交を深める際の入り口のところで、マイナス点になることが少ないからじゃないかな?
現代になって共働きが当たり前という感じになっているけども、私の幼いころは(田舎住まいだったからかもしれないけれど)女の子の憧れはお嫁さん!みたいな価値観ってすごく根強かったし、「女の子は勉強しなくていい」と言われて進学出来ない子もいたし、だから、そういう社会のなかでは、正社員でない女性、仕事に熱心でない女性って当然の存在、「恥ずかしくない存在」として受容されてる気がする。
一方男性といえば「仕事で立身出世せよ」みたいな価値観を押し付けられて生きてきてるわけでしょ?
たぶん、仕事ができない男性とは付き合いたくない、と思ってしまうのって、そういう社会の中の雰囲気に「うまく乗り切れなかった人」なのかなという印象が、人間的魅力のマイナス点として引きずられてしまうからだと思う。
別に仕事できなくても魅力的な人はたくさんいるって頭ではわかっていてもさ。
でも、やっぱりね、どこかおかしいとこあるんじゃないの?って思ってしまう。
でも、ちょっと話それちゃうんだけど、男性だって経済的な労働に向いてない人っていっぱいいると思うんだよね。
信じられないくらい仕事できないのに給料だけは高いおっさんとか本当にいっぱいいる。(総合職などのキャリア路線だと、露骨に仕事ができない女性はほとんどみたことないが、男はかなりいる。母数の違いもあるけど)
年功序列によって、あるいは男性が履くことのできる下駄によって、そのような生き方でも食い扶持には困らなかったのかもしれないけど、社内でも明らかに邪険にされていたりと、本人的にもつらそうだなぁと思うことはある。
でも、出世は男の本懐だと言い聞かされて生きてきたら、もうどうしようもないよね、そこから動けないよね、とも思う。
そう思えば、もし、男性にとっても主夫みたいな選択肢が、当たり前のようにあって、それを社会が当たり前のように受容していて、性差ではなくて、本質的な能力の向き不向きでどんな風に生きていくか選べたら、男性にとっても、生きやすさにつながるんじゃないかなあ?
そういう社会だったら、どんな収入の男性だってストライクゾーン入ってくるかな!って思ったのでした。
そう考えると、自分も差別的な価値観をめちゃくちゃ内在化してるんだよなぁ。でもそうでなくいられる人なんて、いないと思うの。
この話でいくと、平均以上に仕事ができる男性にとっては、やはり男尊女卑社会のほうが有利なのではないかという話になってしまうけど、社会の枠組みが変われば、そもそも彼らがそうとは意識しないで独占してる権益も、やっぱり彼らが意識しないうちに消滅してしまうから、彼らが被害を被ることもないと思う。
むしろ、社会全体の生産性があがって、その利益を彼らも享受できるって考え方もあるじゃない?
でもここでいう救われる男性は「これから生まれてくる男性」の話であり、このような社会を実現する過程では、いま生きている男性が「我慢」しなきゃならないことは明白だから、なかなか実現しないですね?
ジャンプとは関係なく、「ボーイミーツガール」という構造がもうここ30年は流行ってない。
ボーイミーツガーツってのは、なんだかんだガールを助けたらガールに惚れられる話だ。結局のところ性欲が絡んだから大部分が受け入れるのだ。
だけど、もう随分前から、ガールを助けたからってガールに惚れられる時代ではない。リアリティがない。
リアリティがないから「僕勉」みたいなギャグとしてしか、ボーイミーツガールは存在できない。
かつてならボーイミーツガーツに流れたはずの層の多くは、今は淫紋とか読んでるじゃないかとすら思う。
あとは、やっぱ「ブラクロ」とかね。暴力と立身出世も欲しいから。でもこの系列で話にヒロインを絡ませても、もう邪魔なだけだな。ヒロインじゃなくて、女サブ主人公なら居ても面白いけど。
うちの娘は801には全く染まらなかった。
うちには○○泉関だの「弟の夫」以前に書かれた本だの
濃ゆ~いコレクションがあるが
蔵書から敢えて遠ざけてた。
たとえばGWとかをみせても興味がなさそう。
(といっても妖怪や人外系、あとマフィアや893で絵が華奢なのが好きらしい
ブースも利用してゲームジャンルの推し単体本もいくらかは買ってるけど
商業本のほうがずっと多い。
男子が生まれたらもっと厳密に隠そうとおもってたけどうちは娘だったからまだ幸運。
仲間の801大好きAさんのおうちには男子が3人もうまれてしまい
新刊は電書で売ってあげることになった。
あと倉庫がわりにあずかるよって申し出て2箱あずかってる。
Aさんが発行した本ふくめて愛蔵本だそうだ。
たまにこっそり物心つくまえの息子に推しコスプレさせたとは聞いているが
小学生になるとそれも不可能だろう。ただの人間の子供だからな。
仲間の801読めるBさんも小説好きなのに
そのように売ってさしあげて大変よろこばれた。
人間の子どもをあずかるのは魔女ネタみたいで楽しいから育てればいいよ。