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はてなキーワード: 正親町天皇とは

2023-07-22

正親町天皇←これ

(戦国時代安土桃山時代で主に織田信長らと関わるそうだけど)何した人か分からんしまず何て読むのか分からん

おおぎまち?まさちかまちって読んでたわw

難解過ぎんでしょ!

2023-02-13

anond:20230213094709

正親町天皇 「とっとと譲位して上皇になって院政したいんゴ。でも譲位儀式するお金がないんゴ」

織田信長 「それなら、儀式をするお金を融通するよ。」

正親町天皇 「マジか。長年の宿願だった譲位ができるぞ。ヤッター!」

織田信長明智光秀に殺されたので話はナシね。」

正親町天皇明智光秀許すまじ。」

現代の俺ら 「信長天皇位を簒奪しようとした極悪人!」

織田信長なんでやねん。」

2021-07-11

日本天皇100~

101.称光天皇(1414~1428))

 在位中は後小松天皇院政を行った。病弱で子はなかった。

102.後花園天皇(1428~1464)

 譲位後に発生した応仁の乱を嘆いて出家政務放棄した足利義政を戒めたこともある。

103.後土御門天皇(1464~1500)

 大嘗会を催したが、直後に応仁の乱が発生したため、中世最後の大嘗会となった。

104.後柏原天皇(1500~26)

 即位時、朝廷財政は困窮しており、父であった先帝の葬儀も40日後、即位式も即位後21年という有様であった。

105.後奈良天皇(1526~1557)

 飢饉と疫病に苦しむ民を救うため、諸国一宮に直筆の般若心経奉納した。

106.正親町天皇(1557~1586)

 毛利元就の献上金で即位織田信長豊臣秀吉の援助で皇居の修復、伊勢神宮の造営などを実現した。

107.後陽成天皇(1586~1611)

 秀吉の援助で朝廷権威回復に努めた。聚楽第行幸を行った。学問を好み、日本書紀などの慶長勅版を刊行した。

108.後水尾天皇(1611~1629)

 紫衣事件により幕府対立し、譲位

109.明正天皇(1629~1643)

 女帝

110.後光明天皇(1643~1654)

 応仁の乱以降途絶えた伊勢例幣使を再開した。

111.後西天皇(1655~1663)

 明暦の大火、御所炎上など災害が重なったため譲位

112.霊元天皇(1663~1687)

 学問に優れ、6000を超える和歌を詠んだ

113.東山天皇(1687~1709)

 久しく耐えた立太子礼と大嘗祭復興させた。

114.中御門天皇(1709~1735)

 先帝の代に復興した大嘗祭が再び途絶えた。公事部類を残した。笛が巧く、狐ですら聞き入ったとされる。

115.桜町天皇(1735~1747)

 大嘗祭新嘗祭復興させた。

116.桃園天皇(1747~1762)

 竹内式部から垂加神道の進講を受け、宝暦事件が起きた。

117.後桜町天皇(1762~1771)

 日本最後女帝和歌を好み千数百首を詠んだ。 

118.後桃園天皇(1771~1779)

 在位中に安永御所騒動が起き、朝廷への監視が強化された。

119.光格天皇(1780~1817)

 父典仁親王に尊号を与えようとするも松平定信に阻まれる尊号事件があった。

120.仁孝天皇(1817~1846)

 学習所(後の学習院)の建設を命じた。

121.孝明天皇(1846~1867)

 安政5ヶ国条約に反対し、攘夷を主張した。反面、和宮の降嫁に賛成し、公武合体推し進めた。

122.明治天皇(1867~1912)

 大政奉還がなされ、明治政府誕生。在位中は大日本帝国憲法発布、廃藩置県国会創設など近代化が進められた。日清日露戦争勝利韓国併合により日本列強の仲間入りは果たした。

123.大正天皇(1912~1926)

 生まれつき病弱であったため、皇太子裕仁摂政に任じられた。在位中に第一次世界大戦が勃発。皇室として初めて一夫一妻を確立

124.昭和天皇(1926~1989)

 在位中に第二次世界大戦が勃発。日本の敗北を受け入れ、日本国憲法が制定された。

125.上皇(1989~2019)

 世界各国を訪問して皇室外交による親善に努めた。東日本大震災の際には自ら被災地訪問した。

126.今上天皇(2019~) NEW!!

2020-02-23

[]anond:20200223192527

上月城主となっていた寺元生死之助は、陸路から進軍してきた松永軍を相手に防戦していたが、

そこに海から尼子勝久軍勢が到着したので、生死之助はさっと搦手の門を開いて迎え入れた。

生死之助は、鹿之助に対して何事か策を献じたあと、逃げ帰ったていで富田城に戻り、

松永弾正と尼子勝久とで一万余りに攻められては太刀打ちできず」と申せば、

九郎左衛門毛利を頼るしかあるまいと五千の援軍を借り受けた。

元気づいた九郎左衛門は手勢の八千人も連れて城外に陣を構え、そこに尼子勝久の軍が攻めかかった。

九郎左衛門の兵は、先鋒の鹿之助を取り囲んだが、あっというまに蹴散らされ、城門の内に退がるよりない。

城に籠もられると、さしもの鹿之助も攻めあぐねて、その日は退却となった。

翌朝、尼子勝久軍勢を率いて富田城に攻めかかり、

「悪逆無道の尼子九郎左衛門、はやく馬より下りて首を渡せい」と呼ばわると、

九郎左衛門も「小倅ごときに討たれる九郎左衛門にあらず」と前に出てきて采配を振るう

さらに鹿之助が「こののち三声と叫ばぬうちにその方の生命は寂滅する」と挑発すれば、

九郎左衛門さらに怒り「三声は愚か千声万声でも発してみせるわ、我を生け捕る者があるか」と叫んだ。

その声が終わらぬうち、傍に立っていた寺元生死之助が「汝を生け捕るものはこれにあり」と応えるや、

九郎左衛門を馬上より引きずり下ろしてあっというまに縛り上げてしまった。

鹿之助が下知をかけると、八勇士はいさんで敵陣に突進し、

その隙に生死之助は九郎左衛門を抱えて尼子勝久の陣中に転がり込む。

毛利家の河野四郎は薮中茨之助と戦って斬られ、同じく毛利家の来島太郎は荒波錨之助に首を引き抜かれた。

九郎左衛門配下赤星軍八は皐月早苗之助と、田原兵次は秋宅庵之助と戦っていたが、やがて討ち取られた。

その他の勇士たちも各々活躍し、ついに大勝利と相成ったのである

尼子勝久が城内に乗り込むと、生死之助が縛り上げた九郎左衛門を引っ立ててきた。

勝久は「いまぞ天罰の蒙る時節到来」と自らその首を打ち落とした。

兵たちは勝鬨を上げ、民百姓も多いに喜び、尼子家の再興を祝したのだった。

一方で、勝久の父・尼子義久は毛利領内に囚われていたが、

ちょうど正親町天皇即位があり、毛利元就も上洛して献納品を奉ったところ、

義輝公の母君から尼子と和睦して義久を返してやってくれ」と頼まれた。

やむなく元就は頷き、これで尼子毛利は和睦して、義久は丁重に送り返された。

義久と勝久はついに親子の再会となり、また忠臣義士らを集めて労い、

とりわけ功のあった十名、

山中鹿之助

大谷古猪之助

寺元生死之助

横道兵庫之助

早川鮎之助

皐月早苗之助

高橋渡之助

秋宅庵之助

薮中茨之助

荒波錨之助

ここに彼らは「尼子勇士」とされた。

その後、尼子家は万代に渡って栄え続け、尼子のために働いた者はみな立身出世を遂げて幸せ暮らしたのであった。

 
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