2020-02-23

[]anond:20200223192527

上月城主となっていた寺元生死之助は、陸路から進軍してきた松永軍を相手に防戦していたが、

そこに海から尼子勝久軍勢が到着したので、生死之助はさっと搦手の門を開いて迎え入れた。

生死之助は、鹿之助に対して何事か策を献じたあと、逃げ帰ったていで富田城に戻り、

松永弾正と尼子勝久とで一万余りに攻められては太刀打ちできず」と申せば、

九郎左衛門毛利を頼るしかあるまいと五千の援軍を借り受けた。

元気づいた九郎左衛門は手勢の八千人も連れて城外に陣を構え、そこに尼子勝久の軍が攻めかかった。

九郎左衛門の兵は、先鋒の鹿之助を取り囲んだが、あっというまに蹴散らされ、城門の内に退がるよりない。

城に籠もられると、さしもの鹿之助も攻めあぐねて、その日は退却となった。

翌朝、尼子勝久軍勢を率いて富田城に攻めかかり、

「悪逆無道の尼子九郎左衛門、はやく馬より下りて首を渡せい」と呼ばわると、

九郎左衛門も「小倅ごときに討たれる九郎左衛門にあらず」と前に出てきて采配を振るう

さらに鹿之助が「こののち三声と叫ばぬうちにその方の生命は寂滅する」と挑発すれば、

九郎左衛門さらに怒り「三声は愚か千声万声でも発してみせるわ、我を生け捕る者があるか」と叫んだ。

その声が終わらぬうち、傍に立っていた寺元生死之助が「汝を生け捕るものはこれにあり」と応えるや、

九郎左衛門を馬上より引きずり下ろしてあっというまに縛り上げてしまった。

鹿之助が下知をかけると、八勇士はいさんで敵陣に突進し、

その隙に生死之助は九郎左衛門を抱えて尼子勝久の陣中に転がり込む。

毛利家の河野四郎は薮中茨之助と戦って斬られ、同じく毛利家の来島太郎は荒波錨之助に首を引き抜かれた。

九郎左衛門配下赤星軍八は皐月早苗之助と、田原兵次は秋宅庵之助と戦っていたが、やがて討ち取られた。

その他の勇士たちも各々活躍し、ついに大勝利と相成ったのである

尼子勝久が城内に乗り込むと、生死之助が縛り上げた九郎左衛門を引っ立ててきた。

勝久は「いまぞ天罰の蒙る時節到来」と自らその首を打ち落とした。

兵たちは勝鬨を上げ、民百姓も多いに喜び、尼子家の再興を祝したのだった。

一方で、勝久の父・尼子義久は毛利領内に囚われていたが、

ちょうど正親町天皇即位があり、毛利元就も上洛して献納品を奉ったところ、

義輝公の母君から尼子と和睦して義久を返してやってくれ」と頼まれた。

やむなく元就は頷き、これで尼子毛利は和睦して、義久は丁重に送り返された。

義久と勝久はついに親子の再会となり、また忠臣義士らを集めて労い、

とりわけ功のあった十名、

山中鹿之助

大谷古猪之助

寺元生死之助

横道兵庫之助

早川鮎之助

皐月早苗之助

高橋渡之助

秋宅庵之助

薮中茨之助

荒波錨之助

ここに彼らは「尼子勇士」とされた。

その後、尼子家は万代に渡って栄え続け、尼子のために働いた者はみな立身出世を遂げて幸せ暮らしたのであった。

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