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はてなキーワード: 陸路とは

2024-04-02

anond:20240402210808

からさぁ

JR統合させればいいでしょ

政府がやれって言ったら西日本とか北海道というくくりがなくなるし

そうすればいいだけの話

そんで金がいっぱいになったJR

リニア北海道から沖縄まで繋げればいい

札幌函館青森盛岡仙台福島宇都宮大宮東京横浜甲府飯田名古屋奈良大阪神戸岡山広島下関福岡長崎熊本鹿児島種子島屋久島中之島諏訪之瀬島悪石島小宝島宝島上ノ根島横当島奄美市徳之島沖永良部島与論町名護沖縄

こうやって陸路で行ければみんな嬉しい

2024-03-11

ユニコーンオーバーロード

ユニットクラスの種類が多すぎて有利不利が覚えきれない。

さらFEスパロボ的なマス目移動の1手ずつ進めるSRPGではなく、

伝説のオウガバトルや半熟ヒーローのようなRTSで両者が複数の手を同時にリアルタイムに進めるタイプなので

こいつはこの属性からこのチームをあてて、みたいなことが思いの外上手くいかない。

結局、ゴリ押しのパワーゲームになりがち。

 

多くのシミュレーションゲーの宿命でもあるんだけど低機動ユニット人権がない。

今作だと騎馬ユニットがそうじゃないユニットと移動速度が倍くらい違うので、

よっぽど特別役割があるチーム以外はほぼすべてのチームがリーダーは騎馬ユニットになる。

クリアランク判定(若干入手できる資材が変わる)にクリア時間があるので、

鈍足歩行ユニットに歩幅を合わせてじっくり攻略する必然性が低い。

飛行ユニットFEスパロボと違い鈍足ユニット扱いなので、

飛行ユニットじゃないといけない場所があるマップ以外では

結局、騎馬リーダーでさっさと陸路を行った方が早いことが多い。

アイテム効果時間内は移動速度2倍とかもあるけど、騎馬ユニットに使えば4倍速いしなぁ。

 

最初SRPGRTS戦闘中に消費アイテム使うって感覚がなかったので無意識で縛って遊んでたけど、

使うようになってからは「あ、これアイテム使う前提のバランスなんやな」ってなった。

ノーマルだとちゃんアイテム効果をうまく使えばわりとストレスなく遊べる。

 

ユニークキャラ以外でも汎用ユニットを雇えるシステムがあるが、ユニークキャラがクッソ多いので

ユニークキャラすら部隊入りできねーよ!という状態なので汎用ユニットの入る隙がない。

 

総合的には普通におもろいけどこれが9000円なのはけっこう吹っ掛けてんなって感じはする。

正直、セールで5000円くらいの時に買いたかった。

10点中7点くらい。

シミュレーションゲーム好きにはオススメできるが、フルプライスで買え!は言うかけっこう悩む。

2024-02-08

海外旅行って楽しいよね

海外旅行がチラホラ話題になってるから書く

親には国公立大の学費を払ってもらい、月数万円の仕送りを貰っていたが別に太い実家ではない(と思っている)

就活氷河期リーマンショックの間の世代大学を出て就職普通にできたから運は良かった方だ

学生の頃にバイト代を貯めて韓国タイに行き、日本と違う空気文化やメシに触れるのが楽しかった

地方の安月給の会社就職してから通勤途中でよく読んでたのは海外旅行web記事で、それによく出てきたのが会社辞めて世界一周してる人たちのブログとかだった

何となくバックパッカーに憧れはあった

なんだかんだ5年で会社辞めることになって、退職届出した時に貯金が250万ほどできており、ふと世界一周できるな?したろ!

ということで春秋航空上海行き片道チケットを取った

もう10年くらい前のことである

行きたい所は3つだけ決めていたが、ルートは未定で、基本的に現地で次の目的地への交通手段を手配する感じだ

最初目的地はネパールで、上海から昆明まで40時間超の長距離列車で移動し、そこから飛行機カトマンズに入る

漫画版神々の山嶺を読んでエベレストを見たかったので、ベースキャンプへのトレッキングをした

4500mを超えたあたりからクソしんどかったが生のヒマラヤは鮮烈だった

そっからインドに行き、一ヶ月ほど時々腹を壊しながらカレーを食べつつインド人に騙されたり頻繁にボラれたりし、スリランカからシンガポールへ飛び、シンガポールから第二の目的タイバンコク陸路で移動する

大学の時に知り合ったタイ留学生を訪ねて酒を飲んだ

その後ビザ必要ミャンマー以外のインドシナ半島各国を麺や焼き飯を食いながら一周し、次は西へ行きたいと氷入りのビールを飲みながら思っていたところ、マレーシア航空ドバイ行き格安チケットを見つけたので予約し、ドバイではオイルマネーの力に驚嘆し、世界一高いビルのブルジュハリファは入場料が高かったので外から見た

飛行機紅海対岸の禁酒国家イランへ、イラン旅人には親切にしろと刷り込まれているムスリムの国なのでいい所だが、テヘランバスで男にケツを撫でられる

後で知ったがゲイがバレると当地では死刑になるので外人ターゲットにするそうだ

イランは当時も経済制裁の影響でatmでのキャッシングが使えず、米ドルを街中で両替するのが面倒なことと、酒が無いので1週間くらいで出国することにし、バスを乗り継ぎアルメニアに抜けて飲んだワインはクソうまかった

あと名物ザリガニチョウザメ結構いけた

当時まだグルジアだったジョージアワインうまい料理がとてもうまい、元栃ノ心さんがワインの輸入するそうでがんばってほしい

シュクメルリ話題になったがヒンカリハチャプリ、ほか名前わからん料理などどれもうまかった

黒海沿いに移動して、パンがクソうまいトルコカッパドキアイスタンブールを回り、ボスポラス海峡を渡ってようやくヨーロッパへ入り、ブルガリアヨーグルトを食べて元琴欧州鳴戸親方生地ヴェリコタルノボを歩いた

ヨーロッパはさすがに文明的で、旅するのに快適であまり苦労した覚えがない

バルカン半島経由で北上し、ポーランドから船でスウェーデン渡りノルウェーサーモンを食うため北極圏の町トロムソに行き、魚屋で買ったサーモンオスロで買っておいたスシライスカリフォルニア米)を炊いて寿司を作って、ホステルで一緒になったドイツ人カップルに振る舞いながら500mlで1本700円くらいするシロクマのラベルの缶ビールを飲んでいたところ、オーロラが出たので見られたのは幸運だった

ノルウェー物価が高すぎたためオスロ空港出国前に2晩ほどベンチで寝てたら警備員に注意される

インドで知り合ったスコットランド人学生を訪ねてライアンエアーオスロからエジンバラへ、夜ギグに行こうと言われて半地下のクラブへ連れて行かれる

さっきまで壇上でサックスを吹いてたシュッとした青年普通にアンフェタミンを勧めてきてびびったが、すでにエールで酔っ払っていたので楽しかった事しか覚えていない

そこからメシと酒がクソうまいバルセロナへ飛び、夜な夜なバルセルベーサを飲み、昼はパエリアを食ったりおやつバレンシアオレンジをかじり、マドリードの安宿の屋上テラスの藤の椅子に座ってチーズハモンで赤ワインをやりながらどこに行くか迷っていたところ、サウジアラビア経由エチオピア行きのチケットがあったのでアフリカに入り、大地溝帯に沿って南下し、ケープタウンまで陸路で移動することにした

アフリカはどこの国も同じで当然黒人ばっかりでメシがまずく、衛生状態治安も悪く交通機関もクソだが、ヤリまくって産みまくって死にまくるという原始の人間生活を見られたほか、やたらと多い子供は汚いがかわいかった

あとサバンナは最高にきれいで、朝焼けの露に濡れた草原が輝く景色は忘れがたく、ライオンキリンやゾウは動物園で見るのと全く違う美しさだった

ナミビアボツワナ南アフリカサブサハラの中でも経済が強いのでそれなりに文明的な旅ができたが、ナミビアの乗合バンエンストしょっちゅうで、止まったバン乗客みんなで押しがけした

乗客同士で一体感が生まれ面白い体験だったが、ライオンのいるサバンナで夜中2時に止まった時はヒヤヒヤした

ケープタウンで久しぶりにうまいワインを飲みながら南米行きのチケットを探して、カタール経由ブエノスアイレス行きを見つけ、カタール航空の機内食ハーゲンダッツが久しぶりのまともなアイスクリームだったので感動して3個も食べた

アルゼンチンは肉とワインがメチャ旨く安いので、毎日ワインを1本ずつ開けた

チリワインも当然うまく、フロンテラというのが安くてお気に入りだった

このワイン日本でも飲めるが、やはり現地と味が違うような気がする

アルゼンチンチリバス網が発達していて、車内は三列シートが基本でゆったりでき、パーサーがいて食事ワインサービスもあり快適だったが、普通に丸2日バス移動とかがあり広すぎである

南部パタゴニアの名峰フィッツロイチリパイネでトレッキングをして、道中一緒になった日本人女性に恋をするが思いは伝えられずそのまま別れた

この人とは帰国後たまに会ってメシを食う仲だが、一度冗談ぽく結婚しないかと言ったら、お前のような貧乏人とは結婚する訳ないと言われた

その後金持ちの男と結婚したらしく、幸いなことである

チリ北上してアタカマ砂漠の星空を見て、それから三番目の目的ウユニ塩湖へ向かう

ポカリスエットCMビートたけしが立ってた鏡張りの景色で有名な所で、ちょうど日本大学春休みシーズンだったため、ウユニの街は日本学生だらけでちょっと辟易したが、さすがに見渡す限り鏡張りの光景や遠近感の無くなるほど遠くまで広がる塩の平原はめちゃくちゃにきれいだった

そのあとペルーへ移動しマチュピチュに行ったが、すでに遺跡を腐るほど見ていたのでやや感動が薄かった

ペルーあたりからラムが安いので、全世界同じ安心安全コカコーラを買って毎晩ラムコークを飲んでいた

バスを乗り継ぎエクアドルグアヤキルに行き、ガラパゴス行きの飛行機を待つ

グアヤキルで数日滞在した安宿から15分くらい歩くと、カラフルな家がびっしり建つ丘があったので、ぶらぶらしていたらおばちゃんに呼び止められる

スペイン語はほぼわからないが、この先に行くと死ぬ的な事を言っているようで、あとで調べたらその先には有名なスラムがあった

別に一人で帰れるがおばちゃんの息子らしき人にホテルまで送ってもらう

グアヤキル新婚旅行で訪れた日本夫婦強盗に遭い、旦那さんが殺された事件があった所である

ただしガラパゴス諸島は観光地のため、先進国並みに治安は良く、物価も同じくらい高い

アシカやウミイグアナがうじゃうじゃおり、進化論で有名な鳥のフィンチも数種類見てリクガメ写真に撮れたのでとても満足した

南米本土に戻って北上を続け、コロンビアボゴタオーパーツ黄金ジェットを見たが絶対あれは魚だと思う

このあたりで日本を出て1年少々経過しており、だんだん旅に飽きて働きたくなってきたので日本へ帰るチケットを探しはじめ、フロリダを経由してニューヨークから日本へ帰還した

成田の「おかえりなさい」のサインを見て泣きそうになり、缶コーヒーコンビニざるそばがうますぎて泣いた

使った金は約200万円、1年1ヶ月の旅だった

仕事休みなので昼から酒を飲みながら長々書いてしまった

今はちゃん再就職していい年になってしまい、結婚して子供ができたりして、出張以外でなかなか海外に行くことはないが、たまにあの頃は楽しかったなあと思い出す

円安でなかなか厳しいが、体力と10万か15万の金があれば近場なら十分行けるので、ぜひ現地のメシや酒を味わって欲しい

2024-01-27

能登地震自衛隊もっと大量にヘリを使えば良かったって人がいるが

素人目に見ても

・大量にヘリを集める労力

・その大量のヘリを管制する為の労力

パイロット土地勘が無い事によるリスク

・大量のヘリが着発着する場所の確保

補給整備の問題

そもそもヘリの積載量

とか考えたら、ヘリの大量運用って問題点が多すぎると思うんよ。

大規模なヘリボーン作戦みたいにある程度の損耗を覚悟して物資運ぶなんて、災害支援では色んな意味であり得ないし。

もちろんヘリドローン運用にしても、もっと効果的な使い方はあったかもしれないよ?

今回の地震で得られた教訓を次の地震への備えに活かす事は大事だと思うし、事前計画の不備に対する批判はあって然るべきだとも思う。

でも素人の頭で考えてもヘリを1機飛ばせるルートが確保できてたからって、そこに10機突っ込んでも大丈夫って訳じゃない事くらい分かるじゃん。

特に山間部を通っていくならヘリでも飛行可能ルートは限られる訳だし。

海沿いの地域なら港が使えればそのまま港から物資重機を陸揚げしてただろうし、それができなかったかLCACを使ったりして陸揚げした訳でしょ。

同じ労力を投入するならヘリに注力するよりも、海路陸路人員物資を投入できる状況を回復させる方が優先度が高いってのは素人でも分かる。

流れてくる情報を見る限り今回の地震への自衛隊対応は迅速だったし、その運用も状況に応じて柔軟に対応できている様に見える。

反省点はあるだろうしそれに対する批判もあるべきとは思うけど、それは次の地震への事前計画改善する為であるべきだと思う。

2024-01-10

anond:20240108211659

現場もみてない与野党6党で「現場視察やめようね」とか間抜けな申し合わせしておいて、結局山本太郎に「現場みろよ」と説教されて岸田が現場見に行くことになったけどな。

陸路が云々とか総理ならヘリで飛べるだろって話もド正論

2024-01-09

熊本地震でのオスプレイ

2016年熊本地震では本震の起きた4月16日の2日後には米軍オスプレイが南阿蘇物資を運んだ。既に陸路で入れる場所だったのでこれが真に必要だったかは疑問ではあるが、少なくとも政府が迅速に米国連携して被災地物資を運んだという実績は残せた。今回の能登半島地震ではオスプレイは昨年の墜落事故のため飛行停止になり米軍のみならず陸上自衛隊オスプレイも使えない。

2024-01-08

anond:20240108222008

きれいな車道歩道も地割れと隆起と沈降で一発でぐしゃぐしゃになる

トンネルが崩れ、橋が落ち、道路が陥没して雪まで降り積もる

ある港は隆起して水がなくなり、ある港は津波で土砂まみれ

片手で数えられるほどしかない外界と繋がる陸路は寸断され、海路は船が接岸できないほど港が荒れていて、空路で降り立てるほどの平地もない

能登人口十数万人の過疎地でよかったよ

100万人単位の人が住んでたら数百人レベル餓死者がでたかもしれん

anond:20240108222810

なんでこんなショボい対応になったのか

道路電気が寸断されて被災地入りしたり、被災地から情報発信することができなかったから。

被災地物資運ぼうにも陸路海路空路も死んでるから運べない。

輪島珠洲市街地改善してきてるけど、山の中だと道路さらに寸断されて車が入れず救援が遅れてる。

2024-01-05

発災直後に現地に入りたがる政治家と目立ちたがり屋は自重してくれ

ほんと頼む

その点だけでも現政権評価している(他の部分で評価できない部分はいっぱいあるが)。

ボランティア個人ジャーナリストについても自重しろ

東日本大震災のように広域で被災していて、被災地までたどり着くことができて、自己完結(食料・水・燃料・宿泊など)できる場合であれば役に立つケースがあるのは否定しない。

ただ今回の場合そもそも陸路が寸断されてて被災地までたどり着けないんだ。

1台の車両が向かうことで渋滞の列が1台伸びる。その分警察消防自衛隊その他公共・緊急車両の到着が遅れるのを理解してくれ。

実例

https://twitter.com/koike_akira/status/1742445721759162803

日本共産党井上哲士参議院議員藤野保史衆議院議員が、金沢から時間以上かけて輪島市入り。井上氏から第一報。

坂口茂市長にもお会いして事情を聞くと、「1万人の避難者に対して、食料が2000食分しか届いていない」と。給水車も来ていないと。発災から3日目にして深刻な事態です。

直ちに相談して、穀田恵二国会対策委員長自民党浜田靖一国会対策委員長に連絡。緊急対応を求めました。浜田氏もすぐに動いていただいています

通信手段が途絶しているわけでもなし、何が足りないとかそんな情報はそんなの分かってるだろ。

国会議員が来るとなると迎える側は相応の職階にある人を出す必要があり、その接遇のためには多くの裏方スタッフを使ってるんだよ。現場をより疲弊させてどうすんだ。

https://twitter.com/tsuda/status/1742414508482818522

七尾市中心部に来ました(まだ七尾までしか来られていないとも言う)。片側規制渋滞がすごく進まない……。

https://twitter.com/tsuda/status/1742817798802624838

こういうのに返信する時間あんまりないんですが、昨日巻き込まれガソリン渋滞というのは、通れる道が限られており、他の車が給油のために渋滞していたものです。ガソリン携行缶を持ってくるのを諦めたのを悔やんでいたのは、復路の心配や、他の支援車両に分けてあげられることを鑑みての発言です。

いやだから陸路寸断されてんだろ。

こういった車が増えるごとに渋滞は伸びるし緊急車両の到着は遅れるんだよ。

2024-01-03

anond:20240103224120

転勤が伴ったり子供もいたりすると引っ越し大変だし、時間もないし、陸路のんびりなんて言ってらんねえよ。

陸路海路で運んだところで完全に守り切れる保証はないし、

そうやってずっと後知恵で人の判断ミスだって言ってればいいわ。

anond:20240103223347

国内なら陸路船舶で一緒に行く選択肢もあるよ

こちらは時間費用はかかるけど、陸路なら予約した専用の車に一緒に乗って運んでもらえたり、船舶なら貨物扱いではなくペット同伴が認められてて一緒に泊まりながら乗れる便がある

そこの費用時間ケチるほど余裕無い人はそもそもペット飼っちゃいけないと思うけど、そんなんだから安易飛行機に連れてきて荷物として預ける事に何も思わなかったんだろうねとしか

陸路が死んでるのに海路海保破壊されて大ピンチ

弱者男性けが使えるチンチンヘリコプター被災者を助けにいこう

2023-11-30

なぜ「回転焼き」は別称がとても多いのだろう

たい焼き」は「さかな焼き」「ぶり焼き」「まぐろ焼き」みたいに各地で別の名前で呼ばれることはない

ほぼ「たい焼き」で名称固定されている

饅頭」とか「どら焼き」とか「煎餅」とか……

もちろんこれらにも別称はあるけれど「回転焼き」ほど多くの別名を持たない

何故「回転焼き」だけあんなにもいろんな名前で呼ばれたのだろう

不思議

「何故別称が多いのか?」という疑問はわかる

地域に広まる際に、売り出す側が違う名前をつけたか

そりゃそうだ、なんだよな

じゃあ「何故他のお菓子別称が多くないのか?」という話になる

いろいろぐぐってみたが、納得するためには日本焼き菓子歴史を紐解かないといけない雰囲気が出てきた

今時点の自分の中のこうなんじゃないかな~という仮説をメモしておこう

回転焼き」は他の和菓子と比べて作るのが簡単

真似して売りやすいということ

なのでそれぞれが好き勝手名前で売った……

他の和菓子はある程度技術設備必要なので真似されなかった、なので別名は増えない

……いや、違う気がするなこれ

大外れではないが芯を食っていない気がする

もっと別の観点がいるな

とりあえず「たい焼き」の別名が少ない理由はわかる

比較的新しいお菓子から

饅頭」の別名が少ないのは逆にとても古いお菓子からだろうな

古くから同じ名前が知られていたのだろう

回転焼き」は最初今川焼き」というローカル地名がついた名前だったのが大きいのではないか

それぞれの地方が「は?今川って何?」と思ったから、それぞれ別の名前が付けられた

ということは例えば関西で「回転焼き」と呼ばれたなら、それ以西は「回転焼き」の名前で広まっているのでは?

と思ったが確かに関西九州では「回転焼き」だが、「太鼓饅頭」とか「二重焼き」とも呼ばれているのか……

いや、でもこの説はもうちょっと考えたい

当時は陸路海路のどちらが情報伝達が速いんだ?

もし海路の方が速いのであれば違う名称飛び地が出来ていても不思議じゃない

先行研究があるはず、本を探して読もう

日記

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何故他のお菓子名称地域差が少ないのに、「回転焼き」だけあんなにもいろんな名前で呼ばれたのか

これに納得するためには回転焼きの歴史だけでなく、他のお菓子歴史までひも解く必要がある

菓子文化誌』

史料でみる 和菓子とくらし』

『図説 和菓子歴史

ここらへんの本か……?

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「元々は他のお菓子名前地域差が大きかったが、一部の呼び名を残して淘汰された」説もありえる

その場合は何故回転焼系列呼び名は淘汰されず群雄割拠が維持されているのかに答える必要がある

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これってお菓子限定した話じゃないかもしれないな

絆創膏だって地域呼び名が異なる

まあこれはそれぞれの地域で主に流通している商品名の違いだろうけれど

しかし読む本が変わってくるかもしれない

しれないが……検索するとっかかりが無いな、しばらくこの疑問は寝かすか

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検索キーワードを思いついた

商標普通名称化」

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回転焼きの特殊性を忘れない為に明記してメモしておこう

回転焼系列のあの丸い焼き菓子は、見た目も味もほぼ同一のものが各地域呼び名が違う点が特殊

実際たい焼きの亜種はそこそこある

例えば福岡にはムツゴロウを模したたい焼きの亜種を出す店がある

しかしそれはたい焼きの亜種ではあるが、タイではなくムツゴロウの見た目をしていて……

たい焼き亜種で例えばまぐろ焼きがあったとしても、それはタイの見た目をしておらずマグロを模したものになるだろう

結局それらは「たい焼きの亜種だよね」という認識になる

回転焼系列はそうではなく「これは要は今川焼きだよね」「いや、回転焼きだよ」と意見統一されない

なんかここの考えがまとまっていないな 要再検討

そうか、今川焼って亜種がないのか?

というか亜種が生まれたい焼きなどになった

なんか焼き菓子がどのように発展したか系統樹を見ると何かヒントが得られるかも

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「連載 たい焼き誕生史一覧」を読むと、明治30年代に、様々な形の焼き菓子ブームが起きたとある

ここらへんを調べると何かありそうだ

それぞれの名称元祖を辿っていけば何かわかるかも

あと焼く金型とか焼き機の流通の流れがわかれば……これは滅茶苦茶調べる難易度高そう

地道な作業になるな……

しかしこの連載を書いた近代食文化研究会という方は凄いな

自分が気になっているような事を地道な調査で調べ上げている

この方の本どれか読んでみるか

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今川焼き」「大判焼き」「御座候」の起源はある程度はっきりしているのに、「回転焼き」の呼び名起源だけどうもはっきりしない

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回転焼系列のあの丸いお菓子がどのように広まったかが詳しく書かれているサイトをやっと見つけた

場所によるものの呼び方の違い、日本列島あちこち、方言アレコレ|第1回|「今川焼き」の呼び方、その違いを探る!|岸江信介 | 未草

これこれ、こういう先行研究を知りたかったんだよ

愛媛県松山市にある菓子製造する機械メーカー松山丸三という会社昭和30年初めにこの菓子製造する(焼く)器具販売した[4]。昭和31年-33年に大ヒットした獅子文六連載小説大番」(週刊『朝日』に連載、1957年映画化、のち1962年テレビドラマ化)にちなみ、この機械製造した菓子を「大判焼き」(当初は「大番焼き」で売り出そうとしたが、「大判」に変えたとのこと)と名付けた。この機器だけではなく、小麦粉や餡などの原料の「大判焼の素」も一緒にして売り出したところ、大ヒットした。松山丸三のホームページ説明(注2参照)によると「大判焼の素をあわせたセットは、素人でもすぐ店が開けるということからみるみる間に、四国中国地方から全国へと広がった」とある祭り盆踊り縁日などに全国各地で販売されたのであろう。同ホームページには当時の器具写真掲載されているが、この器具の上や下に「大判焼」と書かれた暖簾がかけられ、器具とともにこの暖簾もセットだったことがわかる。そして露天での販売は、いつもこの暖簾が掲げられていたに違いない。あとで述べる他の呼び方についても一般的に言えることだが、この菓子販売しているところではほぼ例外がないくらい、この名称暖簾のぼりなどに記し、掲示している。各地で呼び名が異なるため、「回転焼き」であったり「おやき」であったり「あじまん」であったり「七なな越こし焼き」といった名称を店のそばを通る通行人の目のつきやすいところに掲げるのである。実はこの暖簾のぼり記載された名称が、各地でこの呼び名が定着する大きな要因の一つとなっている。例えば「回転焼き」と呼ばれてきた地域に「御座候」の暖簾を掲げた店が新しく現れると、客だけではなく地元の人々からも次第に「御座候」と呼ばれるようになるのである。「大判焼き」の呼び方が全国に広がった理由はここにある[5]。

[5] たこ焼きやお好み焼きという名称が広がったのも、「大判焼き」と同様に露天商暖簾のぼりを掲げて全国各地の盆踊り祭り縁日の折に売ったことが大きいと思われる。

 この菓子呼び方が各地で定着した背景には、新しく店を出した時に新たな呼び名をつけたケースがあるほか、客が店の屋号呼び名として採用したケースがあるなど、さまざまである。例えば、「たこ焼き」「お好み焼き」「鯛焼き」には方言が少ないのに対し、この菓子にはこれまでみたように多くの呼び名があるのも興味深い。

 「大判焼き」を例にみたように、暖簾のぼりなどに書かれた商品名インパクトは大きい。この菓子を焼いてもらうのを待っている時間、どうしてもこの暖簾のぼりに目がいく。そして、この結果、新しい呼び方が定着するという現象が各地で起きてきたのだろう。一時代前までは「御座候」は姫路およびその周辺の呼び方だったが、現在大阪をはじめ、各地のデパ地下進出し、「御座候」の文字を目にすることが増えたため、大阪若者呼び方として定着するようになっている。

この記事の内容を読むことでとりあえず納得し満足した

なぜ「たこ焼き」「お好み焼き」「鯛焼き」には方言が少ないのか?という点は追加で調査必要ではある

お好み焼き」は名前から姿形をイメージできないから、方言がぼこぼこ生まれてもおかしくない気がするんだが……

いや、自分が知らなかっただけでお好み焼きバリアント結構いろいろあるのか、じゃあ納得だわ 

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自分用まとめ

・もともと全国各地に丸い焼き饅頭は広まっておりそれぞれのローカルネームで呼ばれていた

戦後プロパンガスが普及し始めて、屋台調理器具プロパンガス使用するものが開発され販売された

・あの丸い焼き饅頭の焼き機も開発され、その際に「大判焼き」の名称販売された焼き機が一番普及した

しかし元々各地に広まっていたせいでローカルネームが根強く名称統一されなかった プラス 焼き機が普及したので各地域でいろんな屋号商品名が生まれそちらも定着した

・何故もともと全国各地に丸い焼き饅頭は広まっていたか?おそらく作るのが簡単から 材料小麦粉餡子からどこでも仕入れやすく形もシンプル円盤

・何故大判焼き以前にもローカルネームがたくさんあったのか?ここは不明 作るのが簡単から同時多発的に生まれた?発祥今川焼きという名前直感的ではなかった?これの傍証は呼ばれ始めた時期が不明のある程度製法由来の名前直感的な回転焼きという名称がそこそこメジャーであること

確認のためには各地のローカルネーム大判焼き以前か大判焼き以後か調べる必要がある 大判焼き以降に生まれた店の屋号商品名がその地域メジャーという可能性は普通にある 分類が必要

少なくとも御座候蜂楽饅頭大判焼きと同時期(おそらく以後か)、回転焼きと太鼓饅頭大判焼き以前

年表作るか…… いや、先行研究サイトにある程度記述があるか 全て網羅不可能だ 単に「まんじゅう」と呼ぶ人もいるらしいのに

例えばたこ焼きは誕生してからしばらくの間、主に関西のみで広まっていたようだ

それはおそらく、生鮮食品流通が容易にならないとタコ簡単に入手できないか他所地域だと作れなかったのかも(未調査

たこ焼きはその実物とともに名前が全国に広まったので方言が生まれ余地が少なかったのだろう

たい焼き明治頃に東京ローカルお菓子として生まれたようだ

それが戦後に各地域に焼き機と共に広まったのだろう

wikipediaによると東京暮らした文筆家がしばしば作中にたい焼きを登場させていたようだ 名称固定に一役買ったかもしれない

江戸明治大正昭和前半くらいまでに全国レベルで普及していたのに各地でローカルネームで呼ばれていたお菓子……ってのがかなりレア

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メモ

レファレンス協同データベース|今川焼はいつどこで誰が考案したか知りたい。

レファレンス協同データベース|関西では今川焼のことを「御座候」と呼ぶと聞いたがなぜか。また、他にどのような呼び名があるのかも知りたい。

連載 たい焼き誕生史一覧 | Rettyグルメニュース

マイ大阪ガス|関西のギモン、調べます!炎の探偵社|御座候?大判焼?地域で違う「回転焼」の呼び名のナゾ

ニチレイフーズ|今川焼(回転焼・大判焼)って?

1位大判焼き、2位今川焼き、3位回転焼き :: 同志社女子大学

【目で見る方言】「大判焼き」名称問題を深掘り レアな呼び名や派生品も:中日新聞Web

場所によるものの呼び方の違い、日本列島あちこち、方言アレコレ|第1回|「今川焼き」の呼び方、その違いを探る!|岸江信介 | 未草

2023-09-16

空挺部隊ってのがわからん

から近づけるなら空爆したほうがよくね?

歩兵陸路の方が安全だし効率的と思うんだが

まあ軍人って低学歴の集まりだろうから仕方ないか

2023-08-17

anond:20230817133537

陸路で北進しても中露への道はガラ空きだと思うんですが

anond:20230817132955

それはそうだけど、結局のところレジスタンスが中露に逃げ込むことになるので、地道に陸路からやりたい。

2023-07-04

ゼレンスキーのツークツワンク(勝手な自滅)ウクライナ電撃戦(=

さて、愚かな嘘つき小泉悠や朝日新聞駒木みたいなコピペしかできないジャーナリストはどうごまかすのか。

簡単に言えば、こいつらクソ虫どもは全員大嘘をぶっこいている。

ウクライナはぼろ負け。

なお、以下の訳文で伏字になっているのは実際のRT記事でも伏字

ゼレンスキーのツークツワンク:ウクライナの「電撃戦戦略は失敗したので、それは大いに宣伝された反撃をどこに残しますか?

過去6か月間、キエフアゾフ海への突破口を準備してきましたが、ロシアロールオーバー計画していませんでした

ウクライナ軍(AFU)の反撃は、今年の初めからウクライナ西側当局者によって広く宣伝されており、ほぼ一ヶ月間続いています4月<>日以来、キエフ軍隊ザポリージャ地域最前線南部ドネツク人民共和国(DPR)の西部前進しようとしています

予想された「電撃戦戦略成功せず、ウクライナ攻撃は陣地戦争で立ち往生し、西側から提供された多くの軍事装備を失いました。6月末までに、キエフわずか8つの村を占領することができましたがロシアの主要な要塞に到達することができませんでした。

キエフとその西側パートナーは、反撃の戦略目標が失敗し、クリミアへの陸路ロシア支配下にあるため、アゾフ海への計画された突破口について特に懸念しています。では、なぜウクライナの大々的に宣伝された作戦は失敗したのでしょうか。

現在最前線はどのように形成されたのですか?

ザポリージャ地域DPR西部最前線は、2022年の春に形成されました。当時、ロシア軍は、トクマクとポロギの都市占領したクリミア部隊ドンバス部隊統合して「マリウポリ大釜」を形成することができました。

一方、ロシア軍がザポリージャに近づき、ザポリージャ地域圏のAFUの主要な拠点であるグリャイポールとオレホフの都市占領しようとする試みは成功しませんでした。

東のヴレミエフスキー突出部の地域では、2022年の夏まで活発な戦いが続きました。14月<>日、DPR領土防衛本部は、前線のこのセクションでDPR民兵によって解放された最後入植地である、ヴレミエフカの南にあるネスチヌイ村の占領確認しました。

フロントのこのセクションの戦略重要

ロシア軍はザポリージャに到達せず、ドンバスでのAFUの陣地に隣接しませんでしたが、昨年の春と夏の軍事的成果はロシアにとって非常に重要でした。

まず、モスクワは、クリミアへの自動車橋があるクリミア-メリトポリ-ベルディアスク-マリウポリ-ロストフスカヤ高速道路支配しました。これらの努力の結果として、半島ロシア本土とのつながりを深めました。

第二に、これらの領土支配クリミア半島の周りに緩衝地帯を作り、ウクライナ人を完全にロシア領土となったアゾフ海から撤退させることを余儀なくされました。また、モスクワドニエプル川の河口からロシア国境までの単一戦線を構築することができました(昨年の夏のように)。

しかし、このポジショニングには、ロシア軍にとって特定脆弱性も伴いました。ウクライナ攻撃成功し、AFUがアゾフ海突入した場合ロシア戦線は2つの部分に分かれていたでしょう。AFUはロシア軍のドンバス部隊を封鎖し、黒海艦隊の主要な軍事基地であるクリミアセヴァストポリに深刻な脅威をもたらす可能性があるため、この試みはウクライナにとって価値がありました。

攻撃から防御へ

この地域戦略重要性を理解して、ロシアはそこに部隊を移し始め、それは時々正面の他のセクションで損失をもたらしました。たとえば、第35諸兵科連合軍はイジウムから撤退し、2022年<>月のハリコフ地域からロシア撤退に貢献しました。

そこからロシア連邦の軍隊は、民間労働者を巻き込んだ任務である深い防衛線を構築しました。メリトポリの近くで、それは前庭と2つのセキュリティゾーンを備えた2つの階層防衛線を構築しました。トクマクとオシェレバトエの村はポイントディフェンスの準備ができていました。

この分野におけるロシア防衛措置評価すると、AFUがこの防衛線を破ることができたとしても、彼らはまだ多くの困難に直面するだろうと言うことができます。訓練を受けたロシアの予備軍は反撃を展開し、ヘルソン地域DPRからAFUの側面を攻撃したでしょう。地形はロシア軍に有利に働き、とりわけ、軍隊はカミシュザリャとロゾフカの近くのザポリージャ地域の最高点に依存するでしょう。

最後に、最高の要塞があっても、やる気と訓練を受けた兵士砲兵諜報機関、航空と並んで作業しなければ、効果的な防衛線は不可能です。したがって、第58軍の第42モータライフル師団エリート部隊は、戦略的に重要なメリトポリ方向のロシア防衛最前線に置かれました。

一般市民メディアの期待

西側マスコミは、ザポリージャ地域でのAFUの見通しに非常に興奮していました。例えば、米軍"専門家"ジョン・デニは、ウクライナは、反撃でロシア簡単に打ち負かすために、欧米軍事装備を利用するだろうと述べた。

予想される戦いは、戦争の決定的なポイントとしてメディアによって提示されました。このメディア立場ウクライナ指導部を不安定にし、作戦の開始の遅れを正当化し、問題について沈黙要求することを彼らに強いた。しかし、この状況はウクライナ当局者を不安にさせるだけで、西側軍事援助と政治家の多数の約束に触発されたウクライナ社会差し迫った成功を楽しみにしていました。

しかし、ロシアでは、反対の状況が発生していました。ロシア社会は、ハリコフ地域での逆転とヘルソンから撤退からまだ完全に回復しておらず、これらの出来事軍事作戦が当初の目標に反している兆候と見なしていました。これらの意見は、ロシア軍事指導部を批判するように政治的動機付けられた特定の人々によって推進されました。アルチェモフスク(ウクライナではバクム-トとして知られている)での勝利でさえ、国民士気を完全には高めませんでした-多くの人々は、この成功は、ウクライナの反撃を阻止する責任がある通常のロシア軍ではなく、ワーグナー民間軍事会社の努力にのみ帰した。その結果、ロシア社会は、成功した場合ロシア人の無関心を高め、さらなる士気喪失寄与するAFUの次のストライキ攻撃)を懸念していました。

ウクライナは新しい旅団配備しま

AFUは、主に西側武器武装し、西側インストラクターによって訓練された、新しく形成された部隊を反撃に関与させることが期待されていました。これらの旅団は長い間後方に保たれていました。一部の部隊(夏に結成された第46旅団や第77旅団など)のみがアルチェモフスクに送られ、そこで非常に効果的な結果を示しました。

他の旅団は、「古い」部隊の血によって買われた時間を利用して、訓練を進めました。たとえば、第79旅団は、ドネツク郊外マリインカのために、交代することなく<>年半戦った。それらを置き換えるために新しいユニットを送る代わりに、ウクライナ指導部は今日まで戦闘機を利用し続けています

これはすべて、新鮮なユニットを強力に保ち、ロシアに対する反撃の準備をするために行われました。ウクライナは、新しい旅団アゾフ海への勝利の行進を確実にすることを望みました、そしてこれはモスクワに対するキエフ勝利だけでなく、西洋武器軍事訓練の勝利意味するでしょう。しかし、これらの希望は実現しませんでした。

ヴレミエフスキーの突出部–防衛の最も脆弱なセクション

4月<>日、ウクライナはヴレミエフスキー突出部への気を散らす(後にメインとなる)ストライキで反撃を開始しました。どうやら、これはロシア軍の予備軍を引き出し、この地域での戦闘に引き込むことを目的としていたようです。これらの攻撃は数日間続いたが、失敗した。

10月13日の26回目の攻撃では、ウクライナ軍はより効果的に行動し、<>月<>日までに、ロシアはノボダロフカ、ネスチノエ、ストロジェヴォエ、ブラゴダトノエ、マカロフカの村から撤退しました。<>月<>日、ウクライナ人はロブノポリとノボドネツキーとプリユトノエに向かう途中の畑のいくつかの位置支配しました。

3週間の戦闘過程で、AFUは6つの村を占領し、それらはすべて事前に避難しました。ヴリミエフスキーの突出部は当初、ロシア防衛に非常に不便でした–側面からウクライナ軍に囲まれロシアの陣地の中心を流れるクリエリー川もありました。その結果、モスクワ軍隊は側面のいくつかの高さにしか頼ることができませんでした。

しかし、地形が有利に作用したとしても、AFUはあまり成功しませんでした。取るに足らない前進は大きな代償を伴いました–西側の装備は破壊され、間接的なデータは敵が重大な死傷者を出したことを示しています。それにもかかわらず、キエフ画期的な試みは続いています現在、AFUはスタロマヨルスキーとウロザイノエのロシア防衛に反対しており、彼らを凌駕することを望んでいますが、それは彼らをより要塞化された位置に近づけるだけです。

ヨーロッパの国は、世論調査で急増していた野党禁止しました。なぜあなたはそれについてもっと聞いていないのですか?

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オレホフ近くの「サファリ」とウクライナメディア敗北

7月128日、AFUはメリトポリの方向に動き始めました。当初、これは以前に多くの死傷者を出した部隊である第<>山岳突撃旅団任務でした。ヴァシレフカの方向に向かって、旅団はロブコヴォの村を占領しようとしました。

翌日、AFUはおそらく第47機械旅団が率い、新しいドイツのヒョウ戦車武装した攻撃を開始しました。この攻撃ウクライナ人にとってひどく終わった - 作戦は失敗し、西側機器破壊され、ロシアオンラインバイラルになった有害ビデオ映像を公開した。

戦争ライブマップを表示するウクライナオンラインリソースDeepStateは、コメントセクションを一時的に閉じ、後にイベントの「不快分析」を発表し、彼らの軍隊がまだ反撃を開始していないと主張したウクライナ当局者や政治家非難した。ウクライナ政治オブザーバーによると、当局者の行動は国の兵士生活を切り下げました。

10月<>日、高まる圧力により、ウクライナウラジミール・ゼレンスキー大統領は、国民に示す報道価値のある成功を収めるずっと前に、反撃の開始と損失を確認することを余儀なくされました。ウクライナ戦略は通常、国民マスコミウクライナ勝利の魅力的な証拠提示されるまで、その行動を秘密にしておくことでした。しかし今回は、焦げたヒョウの映像により、ウクライナ規則を破ることを余儀なくされました。

オレホフの南で進行中の戦い

その後、ウクライナはこの方向で一定成功を収めることができました。正面への圧力の高まりにより、ロシア軍は他の2つの村、ロブコヴォエとピャチハトカから撤退することを余儀なくされました。現在ロシア軍はジェレビャンカ村の近くで防御陣地を保持しています

東では、AFUはオレホフからトクマクへの道にあるラボティーノの村の方向に畑を進むことができました。双方は損失を被りましたが、反撃のペースが遅くなるにつれて、ウクライナ重要資産である時間を失っています

さらに、ロシア空軍はUFUの倉庫ステージングエリアを絶えず攻撃しています。これらすべてが反撃のコストを増加させ、ウクライナ軍の最終的な成功可能性をさらに低くします。

ペースの速い戦争に対するウクライナの壊れた希望

一連の敗北は、ペースの速い作戦前線での突破口を期待していたウクライナ社会失望させました。15週間ごとに、ウクライナジャーナリストローマン・シュライクは、戦争推定期間についてテレグラムの加入者に世論調査を行っています。50月<>日、戦争を「もう<>年以上」継続するという選択肢は、初めて<>%以上の票を獲得しました。

宣伝家のアレクセイアレスビッチは、ハリコフ地域でのウクライナ成功規則例外であり、何度も繰り返すことはできないと述べた。彼はザポリージャ地域での戦闘を「双方の損失を伴う血なまぐさい戦い」と表現した。ウクライナの次の攻撃がより成功するためには、アレスビッチは国が西側飛行機必要としていると言います

一方、一般ウクライナ人は、難民になることを余儀なくされ、他の人々は職を失ったり、強制的徴兵されたりしましたが、国が日ごとに貧しくなり、人々が毎日危険を冒している現在の状況は、さらに何年も続く可能性があると考えています

これらすべてが社会に大きな負担をかけており、社会は迅速な勝利を見ていません。同時に、キエフの大部分を含むいくつかの都市は、地域評議会に代わって一般的な動員を発表しました。ウクライナでの一般動員は24年2022月<>日からすでに実施されていますが、これらの新しい声明は新たな絶望を示しています特に懸念されるのは、個人的召喚状を受け取ったかどうかに関係なく、兵役責任を負うすべての人が軍の入隊事務所に来るようにという命令です。

西側圧力は、ゼレンスキーが彼の手が弱いことを完全に知って、行動を起こすことを余儀なくされたことを意味しました。したがって、彼はツークツワンクに直面したチェスプレーヤーのようでした。

ウラジスラフ・ウゴルニー、ドネツクまれロシアジャーナリスト

2023-06-29

[] Victoria3 ベルギーで初回プレイした感想

version 1.3.3 DLC, MOD 等なし

チュートリアル

チュートリアルをやりながら放っていたら国庫満タンになり、「金が消滅するぞ!」みたいなメッセージが出た。これを見て、建設しないと金消滅する? そして建設力を上げないと金が使えないから、まずは建設局の強化に全力か? と気付く。

植民地政策

建設を進めながら建物情報を眺めていると、第二次産業っぽい建物は上限がないが、一方で資源が取れる建物は上限があることに気付く。そのため、建設による成長は限界資源に左右されると気付き、資源を増やす手段を探す。それで見つけたのは植民地作成で、なんとか植民地搾取法律を制定して植民地作成に乗り出す。手に入ったのがコンゴ近辺でなんか史実っぼいのは偶然かな…

多文化主義の制定

植民地を増やしながら建設していたが、人手がだんだん足らなくなっていく。移民流入を促進すればいいらしいとのことで多文化主義法律制定を目指し、議題に上がった時に制定。さらに後に国家無神論法律も制定、流入を目指す。その結果、首都フランドル、そして後に併合する植民地ニジェール・デルタは、今後常に労働力(と失業者)が溢れるようになる。

資源不足

技術を進めていくと燃油を使って省力化する製法有効になるのだが、燃油はアフリカの一部とオセアニア鯨油を少しだけしか抑えられず、貿易で集めても不足してしまった。仕方がないので燃油を使うのは鉱業系の施設と他一部の自動車生産(燃油を食うし、需要も限られたので本当に一部だけ)などに最後まで限定した。

資源の数を見て、一番儲けを維持しつつ増やせそうな建設物が芸術局だったので、芸術局を増やし続ける。

節操関税同盟拡張

資源不足だが戦争は面倒かつ戦力不足組閣の都合で職業軍人法律を制定出来なくなってしまった。そのせいで常備軍の上限が兵舎の数 5*20=100 しかなくなった。他国は多いと数百ある。)となってしまった。行政力を行政増設で確保して無節操貿易ルートを組んで資源を輸入するが、輸送船が足らなくなってしまった。

仕方ないので儲からない貿易ルートを切ったり、陸路貿易に切り替えたりしている最中関税同盟を組んだ先の国の隣とは陸路貿易出来ることに気付く。そこで、関税同盟を組みまくって輸送船負荷を減らせないかと画策。融資を始めて恩義を得たり、こちから恩義を出したり、借金肩代わり画面を監視して金を積んで買収して恩義を得たりして関税同盟に組み込んでいく。

ルクセンブルクを皮切りに、アフリカインドネシア小国ハワイ、最終盤ではメキシコアメリカの片方・カナダブラジルオスマン帝国日本まで含めた巨大市場を作れた。一方で輸送船不足は収まらず、80%位に留まってしまった。この理由は、関税同盟交易網の維持自体に各国のインフラ値に比例した輸送船が必要だったから。他国輸送船を持ち数の半分しか提供してくれず、港を増やす気もなさそうなので増やせない。自国の港は土地を増やしてないので増やせない。そんなわけでアメリカ大陸を組み込んだあたりで輸送船不足になってしまったのだが、まあそれでも他国に取られるよりは…と拡張を続けたのだった。

最初保護貿易採用して資源を守っていたが、巨大市場になってから自由貿易貿易強度ボーナスをあてにしていた。資源をかき集めつつ工業製品他国に売りつけ、また市場価格差を換金する裁定取引にも手を出す。終盤は貿易ルートを300以上、終了時は400弱抱えていた。(そのせいかゲームが重くて仕方なかった。)

他国社会不安常態化

終盤は結構いつも戦争が起きていたのだが、ほとんどは社会不安による内戦だった。試しに他国を見てみると、定期的に内戦している国はどこも中程度の社会不安蔓延していた。今回のプレイでは列強だったイギリスフランスプロイセンも一度は内戦を起こしており、その間にランキングが下がっていた。最終盤まで国家ランキングで抜けなかったのはオーストリアだったが、そこも最後の数年で内戦状態になり、ちょうど終了年にも内戦中で、今回のベルギーでのプレイ列強1位で終わった。

この原因を考えてみたが、他国社会不安の要因が生活の困窮によるものだったところを見ると、資源産業自国のみで抱えて他国に売りつける構造を作った結果、他国職場を(資源産出以外)奪ってしまったのが原因なのだろうか。そんな一方で他国生活水準の要求技術時代の進捗により上がっていくので、社会不安を起こして停滞が常態化してしまうのだろう。

あと、終盤に他国をいくつか覗いてみたら結構割合社会主義的な法律を制定していた。それによる福祉負担社会主義的法律請願関係あったのかな? 自国では最後まで大統領制を維持し、労働者保護系の法律もあまり通さず、福祉Lv1で押し通した。

2023-03-12

関西出身ワイちゃんが気づいたこと。

東京にいると軽井沢東北に移動するのが安くなるポイント制度がある。北海道沖縄飛行機で安く行けるが。陸路を行く大阪神戸は高いっていうか、東京大阪間みたいな超メジャー路線割引などないため。通常価格で高く感じる。

そんで出身でもなければ関西に何があるかわからない上に、単にリラックスしたいだけの人なら割高の地域旅行する気は起きないと。

 

東京から大阪神戸京都に行くのは、沖縄北海道とかのどこよりも心理的ハードルが高い。草はえる。

反面大阪には国際線のある空港が二つある上に周辺圏に歴史的遺産が多い。

ので、大阪神戸京都国際線からやってきた外国人観光客で山盛りになっているのだな。国内旅行者は少ないのだなと思いました。

 

じゃあ関西の人どこに遊びに行くんですか?ってことなんだけど。大阪在住なら京都神戸は日帰り可能なので泊まらないしな…。強いていうなら兵庫オーベルジュハッスルするとか。和歌山の美しい海を見に行くとかかな?

 

この話は逆も然りで大阪から軽井沢金沢新潟に行くのは心理的障壁が高い。

2023-01-25

anond:20230125024514

うそう、陸路輸送とかできないし、放射性物質ベッタリの廃棄とかどうしろとってなるわな

2022-09-25

マンデ族はマンデ語を話す民族である

マンデ族は、特に西アフリカ西側に多く存在する。マンデ族は主に東マンデと西マンデの2つのグループに分けられる。

西マンデ族の一派であるマンディンカ族マリンケ族、バンバラ族、ディウラ族)は古代西アフリカ最大の帝国建国したと言われている。マンデ族には、ソニンケ族、スス族、リグビ族、ヴァイ族、ビッサ族などの小集団がある。

マンデ族は、沿岸熱帯雨林からサヘル地帯まで、さまざまな環境に住んでいる。料理文化信仰も多様で、主に言語グループによって組織されている。現在、彼らはイスラム教徒が多く、カースト制度に従っている。

サヘル地域に住むマンデ族、マンディンカとソニンケは、個々の部族所属を超越していると言われている。マンデ族の影響は、歴史的にすぐ近くの地域はるかに超えて、サヘルとサバンナに住む他の近隣イスラム西アフリカグループへと広がっていった。マンデ族はニジェール川を下るか、または陸路貿易を行い、ガーナ帝国マリ帝国、カアブ、ワスールーの拡大とともに軍事的征服を達成した。

マンデ語を話さないフラ人、ソンガイ人、ウォロフ人、ハウサ人、ヴォルタ人は、程度の差こそあれ、マンデ族の世界観衣服、その他の文化財(共通文字建築料理社会規範)と密接に連携している。

2022-09-22

飛行機チケット買えないなら

陸路ウクライナに逃げれば良いんじゃないの?

2022-08-21

もしも昭和アイドル田村ゆかり全国ツアーがあったら(という鉄

プロローグ

もうすぐ神楽坂ゆか生誕祭である昭和アイドルっぽさを感じさせる彼女は、もともとは「田村ゆかり」という名前デビューしたと記憶している。

ところで、たまたま先日購入した1978年10月「ゴーサントオ」の時刻表復刻版がある。

https://jtbpublishing.co.jp/topics/CL000461好評の「時刻表復刻版」第6弾 特急時代の幕開け!「ごお・さん・とお」(1978年10月号)ダイヤ改正号 『時刻表復刻版 1978年10月号』 2022年5月23日(月)発売 | 株式会社JTBパブリッシング

https://www.amazon.co.jp/dp/4533149782/

この年は音楽番組ザ・ベストテン」の放送開始の年でもあり、「レッツゴーヤング」「トップテン」「ヒットスジオ」といった番組ゴールデンタイムを彩った時期でもある。キャンディーズ解散し、レコード大賞ピンクレディーが獲得し、山口百恵活躍していた。

いま挙げたようなレジェンドともいうべき女性アイドルたちが全国ツアーを開催していたかどうかは定かではないが、もしもそんな昭和時代に我らが田村ゆかり全国ツアーがあったなら、皆どういう感じで移動していたのだろうか…などと、時刻表を見ていてふと考えてしまったのが懐古鉄オタの性というもの

そんなわけで「もしも昭和トップアイドル田村ゆかり全国ツアーをやっていたら王国民はどうやって民族大移動したのだろうか?」というテーマこそ壮大ながら実際は老眼に抗って縮刷版の時刻表にらめっこして連敗した駄文をそっと放流したいと思った所存。

今年もツアーはあったが、過去最大25公演を誇る2021年の*Airy-Fairy Twintail*の開催地からいくつか選んで当時の時刻表に沿った旅程を考えてみたい。

なお毎日運転ではない季節列車臨時列車は極力排した。仕方ないね

1

初日大宮公演だった。

当時はソニックシティはまだなく、大宮商工会館なる施設が同じ場所にあったらしい。1979年にはサザンオールスターズが公演しているらしいので、昭和トップアイドルもひょっとしたらステージに立っていたかもしれない。

https://www.livefans.jp/venues/1204

この頃は上野東京ライン湘南新宿ラインも、埼京線さえも存在しなかった。国電京浜東北線103系東北本線高崎線115系で到着した大宮駅の片隅には首都圏色の川越線気動車が、反対側には東武野田線の吊り掛け駆動車が見られたはずだ。

2

鉄道旅行的に見せ場になるのが金沢松本公演。

北陸新幹線のないこの時代東京から金沢に向かうメインルート信越本線だった。

上野発916の特急白山1号」に乗れば、長野経由でおよそ7時間後の1611には金沢駅に着き、前の年に落成したばかりの本多の森ホールにどうにか開演時刻ギリギリに間に合う計算だ。少し余裕を持ちたいなら上野819発の特急はくたか1号」で1504金沢着。こちらは長岡経由である

翌朝、今度は金沢から松本に向かう。筆者はAFTでは北陸新幹線長野まで乗り、そこから特急「しなの」に乗り換えて松本に向かったが、この時代は乗り換えなしの列車がある。それが金沢949発、おそらくキハ58の、時刻表ピンクのページによれば堂々10両編成の急行列車。後ろ3両が松本行き急行白馬」、中ほど4両は秋田まりで前寄り5両は青森までロングランする急行しらゆき」だ。間違わずに後寄り3両に乗れば、途中の糸魚川青森秋田行き「しらゆきから切り離され、進行方向を変えて大糸線に入って1435松本着だから公演には余裕を持って臨むことができる。編成分割をする糸魚川では正午を挟んで8分停車するからえびめしなど駅弁を買う余裕もあっただろう。

ただ、逆にいうとそれしか手段はない。ましてキハ58はいわゆる「直角椅子」のクロスシートでリクライニングも方向転換もできない。7時間近くも乗っていたらそれだけで相当疲れてしまう。

さら松本公演が終わった日曜の夜。筆者はAFTのときは最終「しなの」で長野に出て一泊し、翌朝の北陸新幹線で出勤した。しかしこの時代なら松本2056の普通列車新宿行きがある。423に新宿駅に着くから一度帰宅してシャワーを浴びて着替えて出勤する余裕は十分にある。ただしこれもまた「直角椅子」どころかおそらくセミクロス115系だったろうから、少しでも居住性を求めたければ2359発の急行アルプス18号」のグリーン車に乗れば良い。新宿着は500だから余裕を持って出勤できるのは言うまでもない(出勤した後のことは例によって保証できない)。

3

新幹線はすでに博多まで開通していたし、熊本空港には全日空の3発ジェットトライスター東亜国内航空DC-9が就航していたが、鉄道好きとしては1645東京1058熊本着の西鹿児島行き「はやぶさ」か、1700東京発1123熊本着の「みずほ」を推したい。食堂車で夕食・朝食の2食をいただくのんびりとした旅である

ただ、昨今の「サンライズ」などとは違って当時の寝台特急にはシャワー室はなかった。「はやぶさ」「みずほ」には個室もなければ女性専用車もなかったから、今や全国民の1/4に迫らんとする女性王国民の遠征には不向きだったかもしれない。まして当時の長距離列車喫煙可能が当たり前で各ボックスシートの窓際に灰皿が標準装備されていた。

しかしもう少し前の1970年頃に青春時代を過ごした我が母親によれば、当時のスキー列車はいつも満席で男女問わず通路デッキ新聞紙を敷いて座り込んだというから、たくましい遠征女子も実は相当数いたかもしれない。

4

新潟仙台は帰り道がポイントになる。

東北上越どちらも新幹線はこの時代は絶賛工事中。開通は4年後の1982年だ。しか上越線には「とき」東北本線には「ひばり」というエル特急が毎時1本ペースで運転されていたから往路はどうにでもなる。

新潟の帰路、私は最終新幹線に飛び乗れたが、この当時なら2300新潟発の急行佐渡8号」で506上野着か、横になりたければ2312の秋田から来る急行天の川」で555上野着。新津まで普通列車で出ておいて040発の急行鳥海」で642上野着でもいい。

仙台からは公演後だと2320発の急行「新星」がおすすめだ。仙台駅には早々と入線しており2130から発車前の寝台を利用できるのが嬉しい。上野到着は536だから一度帰って身支度を整える余裕もありそうだ。このほか、仙台2257→上野519の青森常磐線経由の急行十和田2号」や、座席車なら仙台2336→上野542の急行「いわて4号」も便利であろう。なお急行十和田」はこのあとも4号・6号が仙台に停車するし、特急ゆうづる」2号・4号も利用できる。

そうして考えてみると、まだまだ高速道路網が未熟だったこの頃、寝ている間に移動できる安価手段鉄道しかなかったのだということを改めて感じさせられる。1970年代でも長距離バス運行されていたが、都内新潟高速道路でつながったのは1985年仙台は87年。歴史でいえば線路の方がはるかに長い。

なおこの当時、上野仙台特急ひばり」で4時間以上かかっていたので、羽田空港から仙台空港への航空便全日空により1日4往復運航されていた。

5

ならばその先はどうか? 札幌公演に行くにはこの当時でも飛行機が当たり前の選択になってきていた。筆者は81年の夏に北海道の親戚を訪ねる旅に出たが、祖父母に連れられて上野から青函連絡船を経て親戚の住む苫小牧まで20時間ぐらいかかったように記憶している。まだ青函トンネルは開通していなかった。

それでは札幌公演に陸路海路で挑むとすればどうなったであろうか?余裕を持って開演に間に合わせるならこのルートである

2140上野特急ゆうづる5号]705青森or2221上野特急はくつる]711青森

青函連絡船5便 730青森→1120函館

1140函館特急おおぞら5号釧路行き]1550札幌or1145函館特急おおとり網走行き]1558札幌

急行自由席に乗れる周遊券を利用するなら上野1908→青森617の「八甲田」や函館1150→札幌1630の稚内行き「宗谷」も良い選択肢であろう。

やはり北海道は遠い。時間に余裕のない向きは素直に飛行機を利用すべきであろうが、千歳空港国鉄の駅が接続されるのは2年後の1980年のこと。この時刻表の時点では札幌駅前からバスに乗るのが普通手段であった。

6

そして福島公演はエクストリーム出勤の宝庫であった。終演後の福島駅発上野行きを見てみると、

2350 急行「あづま4号」437

025 急行出羽」502

043 急行「新星」536(寝台あり)

056 急行「いわて4号」542

155 急行津軽2号」605着(寝台あり)

このほかに夏休みシーズンだけに季節列車臨時列車運転されていたと思われるので、かなりの席数が利用可能であったと推察される。

座席車特急はいわゆる「直角椅子であるが、寝台車連結の急行列車では短時間でも横になって移動できる利点がある。これは現代夜行高速バスでも(実際に運行されてはいるが)まだまだ一般的ではない。バス鉄道車両よりも小さくて何両も連ねて運転されるわけもないから、寝台は不可能ではなくても困難が多いのであろう。

7

国鉄監修時刻表を見る限りでは、東名阪バス国鉄ハイウェイバスしか掲載されていない。関西公演からの帰り道は2240大阪駅→815東京駅の「ドリーム2号」か2200京都駅→643東京駅の「ドリーム4号」しか見当たらない。

鉄道ならば京都2237の特急出雲2号」、同015発の「出雲4号」なら700には、大阪2358の特急瀬戸」や同005の特急あさかぜ2号」でも730には東京駅に着けるからエクストリーム出勤勢の強い味方になり得たと思われる。なんなら関西勢と感想を語り合いつつ酌み交わす余裕は十分にある。しかもこれらは当然寝台車であるから、予約さえ取れれば会場内外で充実至福のひと時を過ごしたのちに千鳥足でベッドに潜り込んで目覚めれば東京駅も間近に迫り、どうかすればまだ夢見心地のまま出勤せざるを得ないベストコンディションを通り越した邪悪な何かを感じずにはいられない有様である

なぜ新幹線ではなく在来線を推すのかと問われれば、その当時の東京行き最終「ひかり116号」は新大阪2034発であるからフェスティバルホール(当時は改築前)から終演後直ちに最寄りの四つ橋線肥後橋駅に走ったとしてもけっこうタイトな時刻設定であることが第一に挙げられる。梅田の地下に慣れない関東勢四つ橋線西梅田を出て乗り換えに手間取ると、最終の新幹線は慈悲もなく出発してしまう…それは正直恐ろしい。

エピローグ

筆者は鉄道好きで鈍行やら夜行やら多少は乗ってきた経験ノスタルジーがあるので満更でもない旅行だなとほくそ笑みつつこ文章を書きつけてはいるが、冷静に考えてみれば当時は今よりずっと不便で居住環境は悪かったように思う。なりふり構わぬ男性特に体力に自信のある若者にはなんということはない行程だったと思うが、女性にはあまり優しくない環境だったし、筆者も若い頃は大きな鞄を抱えて夜行連泊するような旅をしてきたけれど今この歳になってふたたび体験するのは懐古趣味差し引いてもためらいが多めに残る。

とはいえ不便で時間のかかる旅を楽しみたい向きが今もなお大勢いるのは承知している。そんな黒鉄の人々に机上タイムトラベル提供できたら幸いかなと。ただそれだけ。

本文に田村ゆかりは出てこずに時刻表を読み解くだけだったが、10月横浜で公演があるのでよければバス飛行機よりも鉄道を乗り継いで参加して紀行文と公演感想文を読ませてくだされば筆者はDouble Fascinationになれる。

それはともかくできる限り多くの客席を埋めて盛況の公演としたいので、関心のある方は下記から申し込みいただければ幸甚に存じます

https://l-tike.com/concert/mevent/?mid=282963

2022-06-29

改憲のポインツ 緊急事態とは?(3分で読めます) anond:20220628171805

1.例えば朝鮮戦争が再発し、韓国日本人8000人を避難させようとしても

現行憲法では民間しか領空に飛ばせません。

しかも「危険性がある場合を除く」です。

2.平時米軍の食料・弾丸等を国内輸送できます。(横須賀港~舞鶴陸路等)戦時中は出来ません。

3。負傷失血してる米兵公海にいても、日本の船は助けられません。

集団的自衛権の外だからです。(戦争に加担する行為

4.あとはお前ら頼んだ

2022-06-26

世界の終りにおいて、世界を救った男テミストクレス(2)

anond:20220626003343


 十年の時が経った。

 満を持したペルシア軍の大遠征が始まる。十年前のマラトンの戦いの規模を遥かに上回る戦力(十五万人程度と言われている)を前に、ギリシア世界は当然のごとくパニックに陥った。

 しかし、ギリシア軍は自国陸軍主体を成す重装歩兵に絶大な信頼を置いており、特にギリシア連合軍の雄たる都市国家スパルタは、強大な軍事力を背景にペルシア軍に対する陸上決戦を提案し、その決戦をスパルタ自身に主導させようと画策する。しかし、テミストクレスがそこで動いた。

 テミストクレス海上決戦以外に活路が無いことを、十年前から看破し、その準備を着々と進めていた。そのため、軍事力を背景に陸上決戦を主張するスパルタ陣営を確実に抑え込む必要があった。また、スパルタの主張する決戦案は、バルカン半島南方コリントス地峡において、複数都市国家犠牲にすることによって最終的な決戦に持ち込む、一種焦土作戦の体を成しており、当然ながらテミストクレスはそのようなスパルタ立案を容れることができなかった。そのため彼は当時ギリシア市民に信頼されていたデルフォイ神託を利用することに決める。

 ギリシア諸侯要請に対してデルフォイから下った神託は以下のようなものであった。『陸上決戦を避け、木の砦を頼れ』。

 テミストクレスは、この『木の砦』こそが、アテナイが着々と準備を進めていた軍艦なのだと主張し、海軍によってペルシア軍を打倒する海上決戦案にギリシア諸侯意識誘導することに成功する。また、自軍立案妨害され立腹するスパルタに対しては、海上決戦の際の軍事的イニシアチブを譲ると確約することによって、何とか説き伏せることにも成功した。

(なお、艦船保有数の関係アテナイ海上決戦においてスパルタに対して大きな影響力を持っていたため、スパルタあくま形式的海上決戦の総司令官に任命されたに過ぎなかった)

 また、このデルフォイ神託は、恐らく事前にテミストクレス賄賂を贈ることによって歪曲された結果であると、後世の歴史家たちによって推測されている。


 以下は歴史の辿った事実の列挙であるギリシア連合軍は、陸路においてスパルタ陸軍、また海路においてアテナイ海軍が主力をなす軍隊を、それぞれ沿岸の主要な陸路海路に布陣させ、海峡と山際の隘路という大軍の利を発揮させにくい地形を戦場に選ぶことで、ペルシアの侵攻を食い止める作戦に出た。

 しかし、要衝であるテルモピュレーにてスパルタ軍は味方の裏切りに遭い、精強を誇ったスパルタ陸軍は時のスパルタであるレオニダ一世の指揮の下で壮絶に奮戦したものの、全滅を遂げる。その情報を聞きつけたギリシア海軍は、実質的指揮官であるテミストクレスの指示の元、南下、後退し、最終的にはアテナイに程近いサラミス海峡へと撤退することによって、当初の予定通り最終的な海上決戦にてペルシア海軍撃滅することを画策していた。

 しかし、ここでテミストクレスの元に悪いニュースが届く。

 テルモピュレーを突破したペルシア陸軍が急速に南下を続け、アテナイへと到達し、故郷が陥落したというニュースであった。

 ギリシア諸侯において絶大な信頼を誇っていたアテナイの陥落に、周囲からテミストクレスに対して注がれる視線は冷ややかであった。しかし、テミストクレスは冷静であった。事前に彼はアテナイ市民サラミス島やその他の土地疎開させていたため、人的な被害殆ど出なかったことが幸いした。テミストクレス諸侯に対して、アテナイ保有するギリシア海軍の半数以上に及ぶ軍船存在を主張し、未だアテナイはその国土を失っていないと説得すると、依然軍議における主導権を確保したままに、海軍を南下させ続けた。やがて、テミストクレス率いるギリシア海軍は、サラミス海峡の隘路に布陣し、静かにペルシア海軍の来襲を待った。


 ペルシア海軍の来襲と共に、膠着状態スタートする。

 この際、テミストクレスペルシャの首脳陣と使者を交わすことで内通していた。ギリシャ陣営の内部情報ペルシャへと流し続けていたのである

 テミストクレスは誰も信用していなかった。敵に対しても、味方に対しても、一切の信用を持たなかった。この内通が、ペルシア侵攻の初期の段階から行われていたという説さえ存在している。

 テミストクレスは膠着状態が続く中で、ギリシャ陣営内において撤退論、転進論が巻き起こっていることをペルシャであるクセルクセスへと伝えると、さらサラミス海峡の出口を塞ぐことができれば、艦隊撤退不可能となり、必ずやギリシア海軍撃滅され、ペルシア軍は勝利栄光に浴することができるだろう、とクセルクセスを焚き付けていた。また、テミストクレスクセルクセスに対して、海上決戦の際にはアテナイギリシア陣営裏切りペルシア勝利に手を貸すことを約束していた。テミストクレスの思惑通り、クセルクセスサラミス海峡へと向かわせていた七百隻の主力艦隊を二つに分けると、二百隻に海峡の出口を包囲させ、また残りの五百隻を以てサラミス海峡に立て籠るギリシア海軍撃滅しようとした。テミストクレスは謀略によって、まんまと敵艦隊を二つに分断したのである

 敵艦隊が二手に別れたことを知ったテミストクレスは、ギリシア諸将に対して海峡が包囲されていると伝えると、撤退や転進は不可能であり決戦のみが活路であると諸将を誘導した。そのようにして諸将の士気を奮起させたテミストクレスは、海峡へと侵入してくる五百のペルシア艦船を静かに待ち受けた。


 当初、ペルシア海軍海峡の奥深くで待ち受けるギリシア海軍発見した際に、攻撃を急がず機を見計らっていた。内通者であるテミストクレス情報通り、アテナイが離反しギリシア海軍が劣勢に立たされるのを待ったのである

 しかし、ペルシア軍の目に映ったのは異様な光景であった。ギリシア陣営の旗の上に、戦意鼓舞するための戦場ラッパの音色が鳴り響き、そしてギリシア艦船が淀みなく戦陣を整え始めたのである

 それでもペルシア軍は攻撃を保留し続けた。ペルシア軍は最後までテミストクレス情報に踊らされ続けた。


     ◇


 テミストクレスの号令一下、突撃を開始したギリシア艦隊の前に、ペルシア軍には動揺が走った。テミストクレスが離反するという事前の情報との乖離も影響した。密集体形で海峡の奥深くへと侵入していたペルシア艦隊は、有効な機動を取ることができず見る見る間に壊走を始める。更には、後方から押し寄せたペルシア艦隊の援軍までもが、ペルシア前衛艦隊撤退を妨げることとなった。

 ペルシア海軍は大混乱へと陥り、急速に戦闘能力を喪っていった。ギリシア海軍勝利が決定づけられたのである


     ◇


 主力艦隊の大部分を喪失したペルシア軍は、このサラミス海峡の戦いの敗戦を重く受け止め、海上部隊の撤退決断する。テミストクレスが当初画策していた、海上兵站を寸断する計略は成功し、ペロポネソス半島への侵略を行っていたペルシア陸軍も急速にその影響力を喪っていった。最終的に、ギリシア連合軍の反撃によってペルシア陸軍ギリシア世界から追い出され、十年を費やしたペルシア帝国の大遠征は失敗に終わり、ギリシア世界の完全勝利となったのである


 当然、この勝利立役者となったのは英雄テミストクレスであった。テミストクレスはまさしく英雄であり、一度は終わってしまった世界、喪われた故郷を彼は取り戻した。ペルシア戦争の勝利はひとえに彼の超人的な洞察力、長期的な戦略立案能力、謀略や陰謀を駆使し敵と味方をコントロールする政治力、それらの能力によって成し遂げられた勝利であった。

 とは言え、テミストクレスはあまりにも優秀すぎ、また、あまりにも自分能力を過信し過ぎていた。

 最終的に、テミストクレスギリシア世界にとっての危険人物である判断され、政治的指導者地位から失脚させられ、かつての仇敵であるペルシアへと亡命している(相変わらずペルシアと内通を行っていた)。その後、ペルシア軍によってギリシア攻撃責任者へと任命されるのだが、母国に弓引くことをよしとせず、毒を呷って自決したと言われている。

 テミストクレスは間違いなく英雄であり、凡庸人間とは違う視野を持って生きた人物であった。とは言え、狡兎死して走狗烹らるという言葉の例に漏れず、自国から危険視された英雄最期は、あまりにも物悲しい。

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