はてなキーワード: 五感とは
人は生まれながらにして、生まれる前に帰りたい欲を持つ
完全を放棄し、完全を求めたくなる
主体がない、意識がない状態は生きているうちは手に入らない幸福だ
自我が消え、一切が消えた静かな境地に至りたいと願うようになるのは不思議なことではない
それに比べれば、この世で起こることのなんと移ろい易く、当てにならないことか
だが悲しきかな、それこそが静かな境地に至りたいと思わせるものだ
であれば、この世で起こることも、至りたいと思う事も等しく意味があり、同時に意味が無い
川底の砂がすべて入れ替わっても誰も気にしないように、意味が無い
だから、翻弄される小舟のような我らは、まさにその通りに生きるのが正しいのだ
為した事だけがあるだけだ
目で見た物事の模倣
聞こえた音の模倣
同じ味を再現する能力
同じ匂いを再現する能力
同じ肌触りを再現する能力
共感、単純な喜怒哀楽は、それが自分自身でも相手に共感したのか、その場空気に合わせ模倣したのか解らない時があったりする
第六感というとアレだが情報として感じた事、受け取った事にたいして模倣したり、模倣してしまう能力がある
前者は五感で直接受け取った歓喜や悲痛に対しては同調し同じ気分になるが
後者は報道等による文字情報のみで受け取った歓喜や悲痛に対しても同調し同じ気分になる
しかし、後者は普通、その自分自身の共感作用に対し客観視を行っているが故にその文字情報に対しても同調可能なので
五感で直に感じる歓喜や悲痛に対しても客観視というフィルタを通してマインド(感情)をコントロールできてしまう
だからといって、冷静になれる事がその場での歓喜や悲痛に対しての共感度が低いというわけではない、そう見えてしまうのは仕方ないが
さてでは、この前者と後者の違いは何なんだろうと考えた時に一つのキーワードとなるのが“ミラーニューロン”だと思う
前者の“偉大”な能力として注意が必要なのが後者の行う抽象空間での共感を“記憶”によって模倣できるという点である
世界は動き出すだろう
@awaikumo
http://anond.hatelabo.jp/20110908093243を可能な限り段落を再現してエキサイト先生に翻訳して頂きました!
長い間、私は暗箱にいます。
私が箱の外部で聞いた誰かのコメントによれば、劇薬を含んでいる小さなボトルは、この箱に位置します。ボトルは完全に密閉されますが、ハンマーはボトルの近くに配置します。また、彼らは、ハンマーがある時に倒れるだろうと言いました。
いつになるかは「ある時間」です?私は知りません。このまさに瞬間に?あるいは遠い将来?恐らく、それは既に来ました(私はそれに関して考えたくありません)。誰もハンマーに影響することができません。独立事象として、それは、見込みで50%倒れるでしょう。見込みはちょうど50%です。ひょっとしたら、ボトルは壊されるかもしれないしあるいはだろう。自分に関して、死者、あるいは、生きている。
私は言わなければなりません、状況はどれくらい恐ろしいですか。
私は、猛烈な憤慨を持たないようにはすることができません。私の人生(私のための最も重要な問題)は、私から完全に離れており、単純な図、FIFTY PERCENTに単独で依存します!あまりに恐ろしい。
さらに、私は、それは完全に不合理であると思います(そして)。私は、ちょうど50%で見込みを維持する多くの方法で束縛されます。
視覚。箱は、任意の光から完全に保護されます。それは、ボトルと装置を見つけるおよび破壊することから私を回避するためにあります。完全な暗さ。私は完全な暗さにいます。したがって、今、私は、自分のアウトラインさえ見ることができません。恐らく、それは奇妙に思えます。暗さは私に私の体自体の存在について疑問を抱かせます。
聴覚の知覚。恐らく、私が上に言及した理由から、完全な遮音は使用されます。私は、私自身の音声さえ聞くことができません。私はメカニズムを知りません。まず第1に、私は、何も見ることができないとともに、どのようにそれを調査することができますか。したがって、これは恐らく推測だけです、私の鼓膜はこの箱の中の包囲の前に破損されました、あるいは、ある特別の資料は箱の壁に使用されます。
とにかく、光と音の保護であまりによい暗箱では、ちょうど用語が示すように、私の視覚的・聴覚の知覚は死んでいます。
あたかも一層の確認が必要かのように、私を極度に圧迫する巨大な疲労は私のための別の拘束物です。それらは努力から私を回避するために私にある種類の筋弛緩剤を与えたように見えます。私が同じ姿勢から変わることができないとともに、私の触覚はほとんど麻痺しています。
光はありません。音はありません。匂いと味は信頼性が低い。触覚は不調にあります。私は操り人形に似ています。すべての五感は私のコントロールが不足しています。あまりに残酷です。完全な拘束物。それらが睡眠薬を与えていた場合、私は望みます。私は、外傷のない苦悩にいると思います。私の生活(私の存在(自体))は完全に無視されます。そのような屈辱は私の正気を維持します。そのような屈辱だけができます。
自分の生および死をコントロールする権利は完全に奪われます。私はそのような状況を嫌います。私の生活の連続性の中核決定要素は完全に依存します、で、単独で、で、純粋な見込み。誰からでも完全に遠方に、意志があります。私は再びそれを嫌います。私はそれを嫌います!
なぜ私は、そのような箱で囲まれなければなりませんか。そのような途方もない箱では、なぜ私は、そのような完全な拘束物を備えた、生命不安および死にいなければなりませんか。
私は孤独です。私は、中身がなく、水平に感じていますか。すすり泣かないようにすることが困難です?番号私の孤独ははるかに深い。私は空間の海でいます。私は一人です。完全に孤独です。孤児として、私はこの無限の暗さに向けられました。私は絶対零度の中で震動しています。
この箱に展望はありません。暗さだけがここにあります。私はボトルとハンマーを感じることができません。私は壁、底および天井をまた感じることができません。それらはそこにあるに違いありません。しかし、私の五感がすべて奪われます。何もないように、私は感じます。それらのものがいくつかの意味を持っている一方。
正直に話して、私は、箱にいるかどうかそれほど分かりません。私は、私の姿が存在すると確信します。私は考えています。私は空想しています。それは証拠である、私の独自性を示すこと、呼ばれる、自我あるいは意識、あるいは心、固体です。しかし、独自性はありますか、本当に箱で囲まれる?それが別のスペースで浮かんでいることはありえますか。私はそのような疑問を除去することができません。
恐らく、私がここでであるものは、宇宙に結局浮かんでいるか、あるいはマリアナ海溝の底に横になっています。あるいは恐らくキラウエア火山の穴から下降して行くこと。
私には、箱(私を囲んで)がどのようにか知る方法がありません。私の感覚はすべて死んでいます。私は、ここに、箱の内部があるかどうか判断することができません。
私は、本当に生きているように、それに加えて、確かではありません。私には、そんな単純なものを確認する方法がありません。恐らく、50%の見込みは私を越えて既に通過しました。恐らく、私は既に死んでいます。私はまだ、恐らく生きています。浅くて、筋弛緩剤を注入された、呼吸する、弱い心臓の鼓動。あるいはそれらのすべての停止(単に去る肉大型丸薬)。
私は私自身の身体をコントロールする任意の能力を奪われます。誰が私の心が重大な活動を継続する身体に存在すると言うことができますか。五感は完全な暗さで毒されました。それらは感覚器として機能することができません。私は、真実を知る見込みがありません。恐らく、どんな推測も一人で作り上げられます。私を包む状況および自分の独自性は恐らくプログラムされた回転プレーのコンポーネントです。
私の存在に関して、私は振る舞いを決定することができません。私は、それを認めることを嫌います。しかし、私は変動の最中です。
私は、誰かが私を見つけることができたらと思います。私は、誰かが箱を開くことができ私がいかがか言うことができた、らと思い、私がどういう人か決めることができました。私の内側にそうするのに十分な力はありません。私ができるのは孤独の中で震動し続けることです。
もし神ならば、私は言うことができるでしょう「そこにさせる、軽い。」私は、それが不可能なことを知っています。しかし、私は、私がそのように言うことができたならばどれくらい素晴らしいだろうか思わざるをえません。
私自身の自由意志!それは、自分を取り巻くすべての変動を固定することができました!
同時に、切望は影を生産します。箱が開かれるなら、私は見つかり観察されましょう。その結果、私の姿は決定されるでしょう。実を言えば、私は決定を心配しているという事実から視線をそらすことができません。
一人で生きているか死んでいるかどうか判断することができませんが、私は死を恐れています。残念ながら、私は死者として決定します。私は受理することができません。まだ、私は感じることができません。私は特定の現象として死を想像することができません。恐らく、そのため、私は死を恐れています。
いいえ、それは私に制限されるべきではありません。高潔なキング。致命的な殺害者。規則的な人々。すべての同じ。恐らく、悪い疾病の年上の人々あるいは患者は、十分に真実の死に近いある想像を持つことができました。しかし、それでも、死の特定の経験を知ることができません。
結局、死は圧倒する重要性を備えた最終仕向地です。時間と意識は絶対的な不可逆性を持っています。死にはさらに変更することができない完全無欠さがあります。それが儀式の通過点あるいは顕著な印象的な出来事でも。
私自身、ここの私の心はそうです、そのときは消えられるだろう、どれ、私がいかがかが決定されます。それらが生ぬるい水(私はその中で温度を感じることができない)から奪う場合、私は、大気に身をさらさないようにはすることができません。
私はそのような不可逆変化を恐れています。それは死の決定に制限されていません。さらに、非常に心配しているので、私は生きていて決定されます。
自分の現在の存在は、無限のポイント上に立っている小さく小さな幻覚に似ています。それほど大きくない。それほど小さくない。それほど長くない。それほど短くない。拡張はありません。収縮はありません。ユニークな単一のポイントで立っていること。それは数学上正確です。私は、自分の同一性に関する混乱があるそのようなポイントでとどまるゴーストのようなものです。
ポイントは同時(ある位置で既存でない)に座標の飛行機ですべての位置で存在します。ある出来事が生じれば、その瞬間においては、それは、すべての地空(あたかも私の招待がバスから降りるかのように、出来事がその中で生じた)中の単一のポイントに私を集中させるでしょう。関係なしで。ポイントと私がものだったとしても。
幻覚(それはそのようなポイントでとどまった)は、等しい程度に対して、実際で霧のように消されているの可能性を持っています。
さて、私はすべての配当通過時間の中で既存です。そして、私はすべての自然を持っています。同時に、私は孤独からそれを受けています、私はすべての自然から離れています。私は、誰かが私を見つけることができることを望みます。同時に、私は非常に心配しています、私はどこにいてそれ、私はその瞬間にいかがでしょうか。
箱の中がすっかり暗くなってしまってから、もう随分と時間が経ちました。
入れられる以前に小耳に挟んだことなのですが、どうやらこの箱の中には猛毒の入った小瓶が置かれているそうです。小瓶は口を溶接されて密閉状態にあるものの、すぐ側には振り上げられたまま固定された金槌が設置されていて、その金槌はとある時間がきた途端に振り下ろされるのだそうです。
そのとある時間なる時がいつを指すのか、私には全くわかりません。いまこの瞬間にもその時が来ているのかもしれないし、あるいはもっと先のことだったり、考えたくないことではありますが、もう過ぎてしまったことだったりするのかもしれません。金槌は誰の影響を受けるでもなく、独立した一つの事象として、完全な確率五十パーセントで振り下ろされることになっているのです。小瓶は割れてしまうのかもしれないし、割れないままかもしれない。私は死んでしまうかもしれないし、生きたままいられるのかもしれない。
激しい憤りを覚えずにはいられません。私の生死という何よりもの重大事項が、私はもとより誰からの手も離れて、唯一、五十パーセントなどという無機質極まりない確率だけに委ねられているなんて。ほとほと酷いにも程があるのではないのでしょうか。
加えて理不尽極まりないことに、この五十パーセントという確率をより厳密なものにするために、箱に入れられた私には様々な枷が与えられたのです。
例えば視覚について。小瓶と装置が見つかっては壊されかねないとのことから、箱には完璧な遮光が施されることになりました。完璧な暗闇。暗黒と呼んでも差し支えのない暗さが用意されたのです。よって私には、少し先の様子はもちろんのこと、私自身の輪郭さえ視認することができません。そこに本当に私の身体があるのかどうか、馬鹿げた話ではありますが、疑いすら持ち得てしまえる暗さなのです。
また聴覚についても、同様の理由からか、自ら発した声さえ聞きとれない程に徹底した遮断が施されています。どのような原理が働いているのかは不明です。そもそもなにも見えないのですから、確認のしようがありません。ですから以下は推測になりますが、もしかしたらここに入れられる前に鼓膜を破られたのかもしれないし、あるいは箱を形成する外壁に特殊な吸音板が使用されているのかもしれません。
兎にも角にも、防音吸音共に優れすぎた暗い箱の中で、私の視覚と聴覚は文字通り死んでしまっているのです。
極めつけとばかりに、全身を支配する身じろぎひとつ取れない虚脱感もまた、私に与えられた枷のひとつでした。暴れないようにとの理由から、箱に入れられる際に何かしらの弛緩剤を投薬されたのでしょう。半ば強制的に同じ姿勢のまま横たわらねばならなくなったので、次第に皮膚感覚が麻痺していきました。
何も見えないし聞こえない。嗅覚も味覚もあてにならない上に、触覚までも機能不全に陥った。つまるところ私は五感を全て支配されてしまった木偶のような有様を晒しているのです。非情極まりない状況です。これほどまでに不自由を徹底するくらいなら睡眠薬を投与してくれたらよかったのにと思わずにはいられません。一つも外傷を与えられないまま生殺しにされている気分なのです。私という生命、存在について、これ以上ないほどに蔑ろにされているという屈辱感が、辛うじて私の精神を狂わせず律してくれているのです。
私は、私の生命を、その生き死にを決定する何よりも重大な決定権があからさまに奪われてしまっていることが憎い。生命の存続を決定づける要素というものが、たった一つ、誰からの意図からも独立した、純粋極まりない確率にだけ寄っているという事実が、憎くて憎くて堪らないのです。
どうして私はこんな箱の中に入れられなければならなかったのでしょう。こんな馬鹿げた箱の中で、徹底して自由を奪われたまま生死の恐怖に怯えなければならないのでしょう。
こんなに理不尽なことがあっていいのでしょうか。こんなに残酷なことがあっていいのでしょうか。
私はいま、とても孤独です。胸にぽっかり穴が開いたとか、むせび泣いてしまうとか、そんな孤独よりももっと深淵にある、一面の虚空とでも言うべき孤独感にやられてしまっているのです。すごくすごく、ものすごくさびしいのです。独りぼっちのまま、永劫の暗黒に投げ出されてしまったものですから、絶対零度にも等しい肌寒さに打ち震えることしかできないのです。
箱の中からは一切の遠近感が失われています。暗黒だけが広がっていて、どこかにあるはずの小瓶と金槌は当然のごとく、箱の壁も底も天井も全て消えさってしまったかのようです。無論、実際にはそこにあるのでしょう。けれども、ありとあらゆる感覚器が閉ざされ麻痺してしまった私には、当然のようにそこにあるはずの物ども(実際にはそれ自体に何かしらの存在意義が与えられているはずなのに)が、ないも同然になってしまっているのです。
正直に告白しましょう。私にはもう、箱の中に私がいるという前提にさえ自信が持てなくなってきています。確かに私というものは存在している。こうして取り留めもないことを考え、あるいは空想している私の自我ないし意識とか精神などと呼ばれている唯一性は確保されている。けれども、その唯一性が本当に箱の中に閉じ込められているのかどうか。本当はもっと違う、どこか異質な空間を漂っているのではないか。疑念を払拭し切ることができないのです。
もしかしたら、いまこうしてここにある私は、どこか遠く宇宙の果てを漂っているのかもしれませんし、マリアナ海溝の水底に横たわっているのかもしれない。あるいはキラウェア火山の火口からマントルの方向に向かって沈下しているのかもしれません。
私には私自身を覆う箱がどうなっているのか知る術がないし、五感が死んだままではここが箱の中なのかどうか判別がつかないのです。
加えて、いまここにある私が本当に生きているのかどうか。そんなことさえも私には確認する方法が与えられていません。ともすれば私は、二分の一の確率をすでに通り過ぎてしまっているのかもしれないのですから。私はもう死んでしまっているのかもしれませんし、運良く生き残っているかもしれません。弛緩剤を打たれた身体で浅い呼吸と僅かな拍動を続けているのかもしれないし、その全てが停止したままだらんと横たわった肉塊になっているのかもしれません。
私は私自身の肉体を自由にできるだけの力を奪われてしまっているのです。私という思考が生命活動を続ける健全な肉体に宿っているなどと、一体誰が認めてくれるのでしょう。完璧な暗闇に毒された五感は、すでに感覚器としての意義を失くしています。私にはもう本当を確かめるだけの機会さえ与えられていないのです。ありとあらゆる想定は、もしかしたら私自身が作り出した捏造なのかもしれない。私を巡る様々な状況や、そもそもの私という唯一性についても、プログラムされたロールプレイにすぎないのかもしれない。
私という存在について、口惜しいことに、ゆらぎの只中にある私には振る舞い方を決めることができないのです。
叶うことなら、誰かに私を見つけ出してほしいくらいです。私を閉じ込めた狭い箱をこじ開けて、私がどうなっているのかを観測して、私の有り様を決定して欲しい。私にはもうそれだけの力が残されていませんから。身動きも取れないまま、孤独に身を震わせ続けることしかできないのですから。
全能の神であれば、光あれと呟くこともできることでしょう。無茶な願いだと承知のうえですが、そう告げることができたのならどんなによかっただろうと感じずにはいられません。
自身を巡るありとあらゆる不確定なゆらぎを自らの意思で確定できるなんて!
あこがれは、しかし一方で臆病な陰影を生み出すものです。箱が開かれ、私が見つけられて観測され、結果的に私の有り様が決まることについて、嘘偽りなく告白すると、確定されるいまに不安を感じていることから目を逸らすことができなくなるのです。
生きているのか死んでいるのかさえも自分自身では確かめようのない私ではありますが、それでもやっぱり死ぬことは怖いのです。死んでいると決定してしまうことが生理的に恐ろしいのです。どうしても受け付けられない。きっとそれは私がまだ具体的な死という現象を体感することも想像することもできていないからなのでしょう。
いいえ、なにも私に限った話ではないのでしょう。人徳有望な仁君名君であっても、極悪非道な殺戮者であっても、遍く存在する人畜無害な一般人であっても、誰だってそうだろうと思うのです。年老いた人や、病床に伏せる難病患者であるのならば、もしかしたら限りなく近しい想像を働かせることが可能かもしれません。が、それでもやはり具体的な体験については一生不明なままだと思うのです。
結局、死とはゆるがせにできない圧倒的な意味を持つ終着点だと思うのです。時間というもの、あるいは意識というものが絶対的な不可逆性を有しているように、たとえそれが儀礼的な通過点や他に類を見ない印象深いイベントであったとしても、決して覆すことのできない絶対的な事柄に違いないのです。
私は、いまここにある私という思考は、私を巡る様々な有り様が決まった瞬間にここから存在しなくなります。頭までどっぷりと浸かった、熱くも冷たくもない、温度を感じることのできない完璧なぬるま湯を抜かれてしまって、否応なしに外気に触れざるを得なくなってしまうからです。
そんな取り返しの付かない変化が恐ろしい。死んでいると決定づけられるだけに限らないのです。私にはもう、生きていると決まってしまうことさえ不安で不安でたまらないことなのです。
きっといまここにある私は、永遠とも感ぜられる点に留まった小さな小さな幻想のようなものなのでしょう。それ以上広がることもなければ縮まることもない、伸びることもなければ短くなることもない。拡散することも閉塞することもない、数学的に正しい唯一一点に留まったまま自己の同一性を勘違いしてしまった幽霊のような存在なのでしょう。
その点は、座標平面上の至る所に存在し、同時にとある一箇所には存在していないのです。一心同体も同然となった私のことなんて気にも留めないで、ある特定の事象が起こった瞬間に、その事象が起こったありとあらゆる時空間の中のたった一つに、まるでバスから降ろすかのようにして私を収束させるのでしょう。
またそんな点に留まってしまった幻は、実物になる可能性も、霞となって消え去る可能性も平等に有している。
私はいま、どんな時空間にも存在し、ありとあらゆる性質を有していながら、同時にどんな性質からも見放された孤独に苛まされています。誰かに見つけて欲しいと願う一方で、その時一体私がどこにいるのか、どのような姿になっているのかが不安でならないのです。
こんな時世でこんな事を言うのも残酷だが、こんな時だからこそ広めたい。
東北大地震から原発の流れ、そして現在に至るまでに、きっと色んなモノが溜まってる人もこの中にはいるだろ?
私は、老害共への憤りが今にも爆発しそうだ。
だが、怒りとして表にだしちゃいけない。それは、今が大変な状況だからというのもあるけど、得られる物が少ないからだ。
そこで、広めたいのが「黙殺」
その「情報」とは、「教訓」を得られる毒でもなければ、「栄養」になる薬でもないものだ。
もちろん、その「情報」からは五感的な「刺激」が生まれることはある。
その時はもちろん老害を「黙殺」しながらだ。
なぜなら、老害とは「者」ではない、老害とは「物」だ。「者」を物扱いする「物」のことだ。
それは、老人≠老害という事。
老人全てを老害だという「思想」は、「老人」には優しくしましょうという「思想」と何一つ変わらない。
もちろん、排出するものと一緒に出て行くものはある。
何かが動くにはエネルギーが必要だ。しかし、それは必ずしも痛さを伴うものである必要は無い。
始まりはふわふわしていた方がいい。
真の自由と責任を。
自分がなぜここまで別の世界、リアルな別世界、仮想空間を求めているのかが分かった。
自分は太っているし、はっきりいってかっこよくないし、それを起因とした立ち振る舞いすべてにコンプレックスがある。
自分の家以外では鏡を見れない。外世界と繋がっている状態で自分がどう見えているのか確認したくないという強い思いがある。それを見た瞬間、もう前を向いて歩けなくなってしまう。
この強いコンプレックスが、おそらく自分のカタチを簡単に変えられ誰かになれる仮想世界への思いを強固にさせているのだろう。
増田内で容姿に関する文章を読むと、まっさきに「何でそんな下らないこと考えてるんだ」と鼻で笑ってしまうのは、仮想空間で自分のカタチを変えられればいくらでもイケメンになれるじゃないかという確信めいたおもいがあるからだ。
リアルを変えるのはかなり難しい。そうでないという意見もあるが、リアルとはおおむね固定化しており、安定的だからだ。この安定感こそ、人間をこの世界に強力に縛り付けるモノなんだろう。
リアルな仮想空間は、いわゆるいいとこどりだ。安定感を持ちながら、一方では簡単にそれを崩すことも出来る。顔を簡単に変え、別人になれる。一見すると不安定だが、その世界の根底にはこのリアルと同様の「安定感」があるために、インターネットのような無重力空間的な不安定感はないと思う。不安定さを保持したまま安定した空間を提供する。これぞ次世代。
当たり前だが、世の中の人間みんながかっこよくて個性的なわけではない。だから、このサービスがはじまればかなりウケると思う。
もちろん誰かになれるだけがウリではない。物理的な制約、時間的な制約からも解放される。リアルな時間変化に飽きた人々は、一瞬にして昼が夜になり、夜が朝になることに何の違和感も感じなくなるだろう。
それぞれの場所、風景には適切な時間帯というものがある。昼のビーチではしゃぎたい人がいれば、夕焼けのビーチで哀愁を感じたい人もいる。
単なる3次元空間では陳腐に感じられても、五感を投影させた3次元空間ならもはやそれをニセモノだと言う人はいなくなるだろう。
ヘット・ドルプの何人かの住人と,性について本音で語り合った彼は,セックスの時には「健常な体をしている自分」を無意識に想像しているという自己欺瞞に気づく.その晩,彼は,自室に戻り,上体ばかりが発達し下肢が未発達の「サルのような自分」の裸身を鏡に写し,その姿を見つめながら自慰をする.その時彼ははじめて本当の性の喜びを感じ,それこそが,本当の自分だと実感するのである.
私の幼なじみの間ではそれほど特別なことではありませんでしたが,ゾラ家にとっては,ハーバードの大学院まで進んだ私は大したものでした.私の父は10人兄弟の末っ子でしたが,親戚の中で大学に進学した者は私のほかに2人しかいませんでした.ウェストエンドの調査に私が参加したことは,そんなゾラ家にちょっとした波風をたてることになりました.母は,長年そこから抜け出したいと切望していた下流階級の暮らしに息子が「潜伏」するという研究には困惑していたようです.一方,父は大喜びでした.父は,私が大人になってからは,初めて私と一緒に行動する機会を得た上,父の得意な技能を私に伝えることができたからです.父はたいそう自慢気に,私をビリヤード屋に連れて行き,「ハーバード大学教授」の息子にエイトボールやローテーションの技を教えてやるんだと吹聴していました.加えて父は,私にバーでの俗語やふるまい方を教えて,ギャンブルの手ほどきをしました.これには母はすっかり狼狽してしまい,私の研究については一切聞きたくないと言って,子どもの頃以来私に言いつづけていた「勉強はどうなの?」というセリフを初めて言わなくなりました.(中略)こうして私は,見たり感じたり聞いたりといった五感を用いるだけでなく,伝統的な参与観察では言及されることのない調査者の出自という「私自身」の一部を調査に役立てることができました.ドチェスター地区やマタパン地区の労働者階級のユダヤ人家庭に育ち,数年間工場で肉体労働をしたことがあるポリオの少年という私の出自は,たんにウェストエンドの仲間内の会話の種になっただけでなく,私の研究に直接影響を与えました.(中略)そして,ウェストエンドに始まり,ヘット・ドルプではっきりした事実とは,愛情あふれるユダヤ人の両親によって社会化されたこと,私が受けた教育,および,ポリオとその後の交通事故による障害を「克服」するためのすべての努力は,実のところ「私自身」の一部を切り離し,遠ざけることだったのです.私は大学に行くまで自分が労働者階級であると考えたこともありませんでした.大学に行ってはじめて,ブルーカラーの父をもつのは自分だけだと気づいたのです。(Zola, Irving Kenneth "Missing Pieces: A Chronicle of Living With a Disability" 1982)
人間は神になれる。なぜなら神とは人間がつくった概念に過ぎないから。そんなものをつくったのは自らの能力に限界があり、その限界を突破することを本能が妨げていたからだ。
科学は人を解き放つ。自然という巨大な存在の前にひざまずくのではなく、人類が自然を管理する。
そもそも人類は好奇心を持ち、世界を探求したいという欲求に駆られてここまでやってきた。
その先にあるのは、大いなる母たる自然との対立に他ならない。母たる自然は人類が赤子のままでいることなど望んでいない。そうでなければ、人類に「知恵」と「好奇心」など与えなかったはず。
現在のところ母たる自然は何も言わない。だが、自然は人類を滅ぼしたいわけでもない。私が思うに、自然は人類がゆりかごから飛び出し、新しい世界へ旅立っていくことを願っているのだと思う。
いずれ何億年か後、この地球は太陽に飲み込まれる。その時、地球という小さな星の「記憶」を持ちだせるのは、知恵あるヒト、人類だけである。
人類は太陽系を越え、外銀河、外宇宙へと地球の種を運ぶために母たる自然が用意した「手段」の一つなんだと思う。
文明はすべて自然の上に成り立っているし、文化は自然のオマージュでしかない。つまりいくら自然から離れようとも本質的に人類は自然と共にある。
しかし、自然そのものは成長しすぎた人類がおさまるには小さすぎるゆりかごだ。小学校に上がった子供が、赤ん坊用のベッドで眠れるわけはない。
だから人類は新しい世界、すなわち人類にとっての理想の楽園をつくらなければならない。
現在研究が進むVR空間もその一つ。環境を破壊し地球の寿命をも縮めるまで大きくなった人類は、もはや自然と共に生きられない。だったら自然をシミュレートしてしまえばいい。人類がつくった自慢の息子、コンピュータの力を使うのである。
VR空間では様々な制御が可能だ。この空間はスーパーコンピュータによって実現できる。VR空間においては、何ら制限されることなく人類の欲望を叶えられる。森の中を舗装された道路で走るという楽しみは、現実空間では自然破壊に繋がり今後は禁止されていくだろうが、VR空間ならそのようなことを考えずにいくらでも出来る。
高さ1000mのビルを建てることも容易に出来、必要ならもっと高くすることも可能だ。現実空間で問題となっている資源の枯渇は、VRの自由な空間には関係がない。
現実とは人類がもっともらしいと感じる度合いが強い世界を指す。ならば、スーパーコンピュータの演算速度と五感のような世界を感じるためのインターフェースさえそろえば、VR空間だって現実空間となりうる。いや、人類が地球環境を本当に保護したいと思うなら、人類にとっての現実空間はVR空間に移行しなければならない。それが人類のためでもあるし、地球のためでもある。
いいからその記事読めよ。
最初に自覚しなければいけない事は「妄想」とは何なのかと言う事です。
妄想と言う言葉の意味は「根拠のない誤った判断に基づいて作られた主観的な信念」です。
つまり「集団ストーカーと思った根拠」が本当なのか?と言う事が一番の問題なのです。
つまり、もしこの病気の場合「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、体覚」に異常が出るため、見えたり聞こえたりしたとしてもそれが本当の事なのかは、機械的に録音や録画で第三者確認できない限り「実際の根拠」にはならないのです。
通常は「この目で見たから確かだ!」「ちゃんとこの耳で聞いたから確かだ!」と言ったように、五感は絶対的な物のように思われますが、その五感が狂っていたらすべての根拠は根拠ではなくなり、何一つ正確な判断は付かなくなってしまいます。
一番多い物に「ささやき攻撃」や「ほのめかし」と言う物が有りますが、これは統合失調症の症状の「幻聴」と区別しなくてはなりません。
つまり、通常は見ている事や聞こえる音(声)などにより「自己の存在位置や存在意義」を把握しているのですが、その境界がなくなってしまうのです。
その為、自我を守る為の境界として「犯人」が必要になるのです。
しかし、その防衛本能に従っていては何の解決もありません。
「何度鍵を変えても入られる」「部屋の配置などが部妙に換わっている」「留守中に誰かが侵入している」などは「記憶障害」との区別を付けなくてはなりません。
記憶障害は統合失調症の「陰性症状」の時や「認知症」「アルツハイマー」などの場合に発生します。
つまり今現在行っていた事を次の瞬間に忘れているのです。
人間の記憶がもしも曖昧なものでなければ、もしも脳細胞がハードディスクのように上書きされるような構造ならば、人間は発狂してしまうだろう。という話がある。その通りで、私たちは大事な記憶を忘れるとともに思い出したくない事を少しずつ、時間が解決してくれるに任している。実際には、考えてないうちに、意識していないうちに、緩やかにシナプスは結びつきを弱め、ニューロンの発火は抑えられる。
脳が未だにブラックボックスだからこんな表現が許されるのだけど、不意な刺激(におい、景色、音、味覚、ようは五感の複合的な刺激)によって結びつきもしないような所から記憶は想起されてしまう時がある。フラッシュバックなんて、おおげさなものでは無いが、私の好きな作家の言葉を借りれば、
ーーーハンバーグの中に小石が混じってしまっているのだ。ーーそれが、かきっ、と不快な音を立ててその辺りの思い出もろとも吐き捨てられてしまうことになる。ーーー確かにかみ合ってはいない、でも引っかかるところが中途半端に残ってる。それがきしんで、だから落ち着かない気持ちになる。ーーー
だから、思い出なんてない方がいいとか、そう言う気持ちがあったのは事実だが、そう世の中うまくいくものではない。そこにあるのは、のっぺりとした日常である。そうで無い気もする。ここ数年の方が、ずっと人生はリリカルでラジカルだった気もする。でも過去を振り返ると、なぜか少し悲しい。矛盾しているし、書いてる最中にも考えがころころ変わる。それはまとまってないとか、よく分からないとかじゃない。よく知っているんだ。
引用は、上遠野浩平 ビートのディシプリン 2巻より。
http://www32.ocn.ne.jp/~emina/
あなたはINTP型。
●内向(I)型
観察したことや決断したことを口に出さない。考えや着想が活力の源となるが、激しい議論をすると生気がなくなる。
話すよりも聞き手に回る。I型は数時間も二人以上で過ごすと、一人で考える「充電」時間が必要だと思う。
●直感(N)型
五感で情報を集めても、すぐに直感で解釈してしまい、可能性や意味、さまざまな物事の関連性をもとめてしまう。
壮大な企画を立てたり、物事を全体論でとらえる。
およそとか、行当りばったりという言葉がすき。
●思考(T)型
理屈を重んじ、人の意見に左右されず、分析的で、客観的価値観を持って、結論をだす。
グループの決定に個人的にはかかわらない傾向があり、なるべく結果を考えて行動する。
正義と明晰さを求める。よく頑固だといわれる。
●柔軟型(P)型
さまざまな状況に柔軟に、自発的に、順応性をもって、臨機応変に対処できる環境を自分の周りにつくる。
いったん下した決定に固執するのはかえって不安。特定の問題でどんな立場をとっているのか、ほかの人にはなかなか分かってもらえない。
どの仕事をやらなければならないか、ある問題をどう解決するか、今日何をするかなど、だいたいなんでも「ようすを見る」態度をとりたがる。
P型はどんな問題についても結論(判断)を出すよりも、理解しようとする、-つまり、新しい情報をいつまでも集めるー傾向がある。
極端な場合、P型は決断を下すことができず。J型はいったん下した決断を変えることがほとんどできなくなる。
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INTP型に向いている職業:
作家・芸術家・芸人・アーティスティックなコンピュータプログラマ・社会科学者・法律家
INTP型:問題を解決したがる
考えにふけってうわの空の大学教授を絵に描いたようなタイプがINTP型である。
頭の中でじっくり考える(I型)なので、N型の想像力がいろいろな可能性を思いつく。
客観的(T型)なので、その新しいデータを分析し、際限なく融通がきく(P型)ので、どんなデータもさっそく取り入れてしまう。
論文、図面、計画、企画、提案、理論などなんであろうと、こまごました情報を一つにまとめた完成図を作りあげようとするが、たえず新しいデータを発見するので、その完成図がどんどん膨らんでしまう。
その結果、考えや構想や計画がどんなに最終的なものに見えても、土壇場になって「新しいデータ」が手に入ると変えてしまうのである。
これはINTP型にとってはわくわくするほど楽しいが、ほかの人、とくにJ型の性向を持つ人にはフラストレーションになる。
完璧に見えても満足しないので、みずからが最大の批評家となり、あら探しをする。
完璧、有能、優秀であろうとするあまり、それが極端になると、かえって負担になり、うんざりしたり自分を責めたりする。
考えにふける大学教授というのは従来、女性のイメージというよりは男性のイメージで、頭だけで理屈をこねる資質は、男性の場合は大目に見られるが、女性の場合あまり受け入れられない。
そこで少なくとも三つの問題が生じる。
第一に、女性は昔から、家庭や家族のこと以外では設計能力があるとは見られてこなかった。
だから、人生を頭で考えた理屈にあわせたいと思うのは、INTP型にとっては当たり前なのだが、従来の女性の役割には真っ向から反する。
第二に、独創的に考えるのも従来の女性の気質とは見られていない。
たとえば、時間を聞かれると、INTP型は時間の哲学的な意味について述べたくなる。
そうした風変わりな面も男性ならば頭がよすぎるせいだと見られるが、女性だと「鈍感」とか、ときには「頭が鈍い」というレッテルをはられてしまう。
第三に、T型の面が、従順、優しい、気配りといった女らしさに反する形で表れる。
INTP型の女性が感情を表にあらわした場合、悪くすると、しばしば極端に表現しすぎて、本人もほかの人もぎょっとしてしまう。
親子関係
INTP型は、親というのは子どもの未熟な頭を伸ばしてやるものだと思っている。
一人ひとりの子どもの違いを辛抱強く受けとめ、子どもには自分の考えをもって生きていけるように育ってほしいと願う。
自分の進むべき道を模索する子どもを驚くほど寛大に支えてやる。
子どもの発達にあまり口をはさまない。
どんな考え方や行動をしたらよいか、いくつか選択できる道を示唆するだけで、けっして押しつけずに、新しい可能性を示してやる。
その助言が受け入れられなかったら、「ちょっといってみただけ」と答えるのがふつうである。
だが、ときには、反抗的だったり無関心に見えるときでさえ、子どもは親が別の考え方を押しつけてくれるのを待っていることもあるのだ。
そういう子どもにとっては、「無理やり」とか「押しつけ」といった言葉とは無縁のINTP型の親を持ったら不運である。
INTP型の子どもは、人とのつきあいで内気と見られるか、逆に、やたらに理屈っぽくつっかかってくるかのどちらかで、その中間は少ない。
学校では、一つのことに集中せず、授業とは関係ないことをあれこれ追求しすぎると見られたり、場違いなときに場違いな質問をすると見られる。
そうした行動は、とくに女の子の場合、人騒がせと取られる。
死んでもいいほど楽しいことを味わうためなら
どんなに苦労したって構わない。
後は、偽物を掴まされない様に五感と頭使うくらいかな。
疑問を持つのが最初の一歩。
人に聞くのもいいけど、自分で答えを見つけるようがんばれ。
文学少女シリーズを読んで「文学を味覚で表現するって凄いな・・・」と思ったんでそれを他の感覚に応用できないかな、って検討してみる。
視覚は特に「色」に関する表現が有効な気がする。「顔が赤い」、とか「ブルーな気分」、とか。
聴覚は擬音かな。「パッと開かずグッと握ってダン!ギューン!ドカン!」みたいな。
ちょっと違うかもしれないけど温度が使えそう。「熱い」「クール」なんて日常的に使ってるし。
「草の香り」「土のにおいがする」。花の匂いに例えるのはキザすぎる。
考証が全然甘いけど
意図的に複数使えるよう心掛ければ結構相手の心を動かせる会話が出来るようになる・・・かな?。
一輝がシャカと戦ったとき、「小宇宙=第七感(セブンセンシズ)であり、シャカは普段目を閉じておくことで五感のひとつを遮断し、それによって第七感である小宇宙を蓄積している」「シャカの目が開くと強くなるのは、そうして蓄積された小宇宙が目を開くことによって開放されるから」みたいな説明があったはず。で、それに対して一輝は、シャカの天舞法輪によって五感+第六感まで奪われたおかげで第七感である小宇宙が増大し、シャカの小宇宙を凌駕し相打ちに持ち込んだ、ってことだったよな。
シャカの場合は普段遮断している視覚を開放することで戦闘力が増し、一輝の場合は感覚が遮断されることで戦闘力が増した。これってつじつまあってなくないか?
あとさらに細かいことだが、セブンセンシズ=seven senses だろうから、それって「第七感」じゃなくて「7つの感覚」だろ。正しくはthe seventh senseであるべき。
私がデリヘルを続けている理由
暑い夏だった
まだ女優になってから3ヶ月
部屋をコンコンする
いつも緊張する瞬間だ
知り合いに会いませんように
ドアが開くとやさしそうな顔をした男性が迎え入れた
あぁよかった
でも心配だった
店長からこのお客さんは厳しい人だよと聞いていた
私でよろしかったですか?
彼はもちろんと答えてニコニコしてくれた
笑顔が素敵だった
親に申し訳ないと思う瞬間
彼は、聞いてきた
そうかぁ大変だなぁ 彼はため息と同時に答えた
本当は親からも小遣いをもらっているから十分なんだけど、好きな洋服も買いたいし
東京に出て、おしゃれもしたい
出張でこっちへ
気になっていろいろと相談にのってもらった
つい時間が経つのを忘れてしまった
サービスをしなければ
一緒にシャワーを浴びた
やさしく体を洗ってくれた
張りのあるおっぱいを褒めてくれた
友人からはうらやましいと言われている自慢の胸
芸能人に似ていると言ってくれた 嬉しかった
同級生の男子からよく告白されるけれども、どこか頼りない感じだし、いつも断っていた
店長が妻と別れると言って、妻と別れたとたん、魅力がなくなった
アルバイトを辞めた
しばらくフリーだった
授業にも身が入らないし、就職活動も全滅中
えっちでムラムラしていたし、そんなときに目に飛び込んだのがこの仕事
同じ街だと知り合いに会う可能性があるので、遠くの街ですることにした
S級のこんな娘、初めてだと言われて、うれしかった
いろんなお客さんについた
横柄な人、奴隷のような扱いをする人、中には何もしないでおしゃべりだけするおじいちゃん
こんな仕事するなと叱るお父さんみたいな人
仕事だと割り切った
終わった後、口も腰もヘロヘロになる
帰るときにいつもこの仕事を辞めようと思うけれど、1回に入るお金が大きい
5人つくと、1日で4万円にもなる 今までの1ヶ月のアルバイト代
彼は、君のような娘はアイドルになれたかもと言ってくれた
たしかに芸能プロダクションから声をかけてもらったことがある
親が反対して断った
ミスキャンパスの話もあったときも、親が反対した
親の反抗としてこの仕事をしているのかもしれない
そう思うこともある
彼の体を洗った
じっと目を見られた
恥ずかしかった
シャワーを終えて、二人で手をつないでベットに入った
彼のことが好きになりそうだった
彼はすぐに脱がず、タオルの上から私を包み込む
やさしく触られていく
全身をやさしく包み込む
触れるか触れないかのような瞬間
思わず声が出た
だんだん頭の中が白くなる
どのくらいたったんだろう あらゆる五感が敏感になってきた
突起を触れられると思わずため息が漏れる
こんな感覚初めてだった
やさしくもまれていく
かわいいよと耳のそばでささやく
ビチョビチョだよ 言われて手を持っていくと私の体液が溢れていた
彼の棒は固くいきり立っていた
まだ彼の手は絹のように私の敏感な周りを触れていく
じらされた
思わず声が出てしまう 息が荒くなっていく自分
じらされて洪水になっていた
うなずいた
ゆっくりと彼は入ってきた
彼のやさしさに好きになっていた
好きです
はじめてイク瞬間を感じた
波のように腰が動いていく
あるときは静かな海、時には荒海のように
何を言ったのかわからない
どのくらいたったんだろう
時間だ
この人ともっとずっといたいと思った
しかし、終わらなければ
別れるのが寂しくなった
また呼んでくれる?
返事はYES
彼は東京の人
こっちには出張で時々来るとのこと
はてなユーザーだと言っていた
好きです
忘れられません
もう一度呼んで欲しいです
あなたに会いたい
私がデリヘルを続ける理由
初めての告白です
書いていたら、すっきりしました
精神に異常をきたしてしまった……。
こうやってると普通なんだが、数時間おきに薬を飲まないと、妄想や幻聴に襲われる。自分はそれを病気のせいだということを知ってるので、我慢する。だが五感が幻覚を現実だと示す。実際に、見え、聞こえてるんだ。
気が狂ってるのに、投薬で普通の人間と同じ視点に帰って来れるのはありがたい。発病で脳の形も変わってるらしい。
絶望はしてない。生き抜いてやる。だが、薬代が払えなくなったら、他人に迷惑をかけないか、それだけが心配だ。
今は親に保護されている。病院に搬送されたときよりはずっとまともだが、自分で稼げないのが申し訳ない。働くことに取り憑かれてるので、医者から厳重に止められている。代わりに家事に熱中しているが、これも医者に、ほどほどに、と言われている。
言葉にすることが、思考である
4年前、ある著名な漫画家の方との会話からこの言葉を学んだときから、私の著作人生が始まったと言っても過言ではないでしょう。
私たち人間同士の間で、複雑なコミュニケーションが可能なのは、「言語」があるからです。すなわち、頭の中で「もやもや~」と思ったことを、すっきりとした概念に格納して反芻(はんすう)できるようにし、いつでも気づいたときに思い出せるようにするのが言語、すなわちこの連載でその力を紹介している言葉なのです。
だからこそ、私たちは考えをなるべく頻繁に言葉に落とす、つまり、みずから書いたり、話したりすることがたいへん大事なのです。
この原則に基づいて、私がふだん、著作の中で最も気をつけているのは、言葉の選択と組み合わせです。
私が経験してきたことそのものは、私にとって画像や音声、におい、感触、味覚の五感情報であったり、心臓のドキドキや、血の気の引く感覚であったりして、簡略化された言葉よりも、ずっとずっと情報量が多いのです。
しかし、そのときの思考や感情を、ありのまま正確に伝えることは、私の心の中を相手にのぞいてもらわない限り不可能です。だからこそ、いったん、言葉という媒体を使って文章に落とすとき、それを受け取った相手が、私の思考や感情をできるだけ再現できるように心がけています。
自分の経験や感覚を、なんらかの言葉に変換していくプロセスそのものが、私にとっての思考なのです。毎日、原稿を書くことは、自分と会話することと同じで、とても頭のパワーを使う作業です。ほんの数日、文章を書かなかっただけで思考力は低下し、その翌日に書こうとすると、余計なパワーが必要になります。だからこそ毎日、欠かさず、何か文章を書くように心がけています。
これまで、さまざまな場面で、私はみなさんに良書を読み、優れた思考や体験の持ち主の話を聞き、それに自分の体験を重ねて、ブログに書いたり、人に話したりすることをお勧めしてきました。その一連の流れが言葉を受け取って考え、その考えを再び言葉にする活動だからです。
言葉が私たちの思考をつかさどっている。だからこそ、言葉は人生を変えるのです。
http://www.asahi.com/business/topics/katsuma/TKY200906140048.html