はてなキーワード: 習字とは
字が綺麗なのは得だと痛感したのは社会に出てからだった。冠婚葬祭の芳名帳や祝儀袋で直筆書くことが割とある。汚いより綺麗な方が断然良い。子供の頃に習字ならっとけばよかった、と何度も思った。逆にすげえバカなのに字がものすごいキレイな人がいて、それだけで人の印象変わったわ
習字習ってたが硬筆はめちゃくちゃ汚い
綺麗に書こうという気がない
お手本が無いと読めるが上手くない字しか書けない
喋ってのコミュニケーションは好き(低いとは思わない)
と自分語りしてみた
「お前、中学受験するらしいけど、中学受験するのはこんな汚い字を書くような子供じゃないよ」って。
中学受験する程度には発達が進んでいた子供なので、言いたいこと自体はなんとなく分かっていた。
「お前の字マジで汚くて読みづらいからいつも迷惑してる。とりあえず一言文句言いたいから、お前が傷つきそうな言葉を必死に選んでとりあえずぶっ放すわ。40人のテスト答案を見るこっちの身にもなれよ。頭クソワリーガイジはまだ諦められるけど、お前みたいに考える頭持ってるやつにまでこんな他人を舐め腐ったようなことされるとこっちはマジで苛つくんだよ」ってことだろ?
分かるよ。
大変だよな。
でもこっちだってどうしたら字が綺麗に書けるのかよく分かんなかったんだ。
小学1~3年生ぐらいの期間、後に中学受験をさせるような教育熱心な両親の元で色んな方法で字を綺麗に書く練習をさせられた。
半透明の矯正器具を鉛筆の先につけ、指の握り方を何度も指導されたよ。
なんとなく形はあってるんだけど、力の入れ方がなにか違うらしい。
それを伝わるように表現してくれた教本に出会うことが出来ず、ただただ変な握りのままひたすら文字を書き写していた。
上手くなることはないと親はいつしか諦めたし、俺も「どうせ20年後にはみんなキーボードで字を打つから手書きなんて完全に消滅してるだろ?」と未来の技術発展に希望を託して全てを終わらせた。
今はもうそこそこまともな字が書けるようになっている。
ある日図書館で出会った小学生向けの教本がドンピシャにハマった。
そこに書かれていたのは習字における技術を徹底的に分解して、一つ一つの要素についてのコツだったよ。
小学1年生の頃に与えられた教科書にも同じことは書いてあったのかもね。
でも教師は「とにかくひたすら書き写しましょう」と言ってた気がする。
俺に必要なのは丁寧に一つずつの技術に向き合ってひたすら脳を経由して身につけることだったんだよ。
生まれつき運動神経が悪くてさ、身体的感覚で覚えろって言われても上手くいかないんだ。
逆上がりは卒論が上手くいかなすぎて夜道を散歩してたとき、公園で自棄糞気味にやった出来るようになったが、スキップは未だにやり方がよく分かってなくて5年に1度ぐらい人に笑われている。
最初に技術を丁寧におしえてくれる人にあっていたら俺は最初から字が綺麗にかけてたのかもなあ。
教本との相性もあるけど、『とめはねっ! 鈴里高校書道部』や『ばらかもん』で習字に対しての苦手イメージが薄れていたのも効果があったように思う。
俺にとって習字の授業は、「なんでこんなことも出来ないの!増田くん!いい加減にして!」と怒られる時間だったから。
なまじっか他の勉強はスイスイ出来るせいで、習字が出来ない理由を「やる気がない。舐めてる」で片付けられがちだったんだよな。
結局さ、字を綺麗に書くために必要なのは「どうやったらキレイに書けるか」を知ることだと思うんだよ。
体で覚えるのが得意な人は体で覚えればいいけど、頭で覚えることしか出来ないようなら頭の中にコツを入れてもらわないと始まらないんだ。
字の良し悪しなんてコツを理解しているかと、正しいイメージで練習をどれぐらいしたかだ。
間違ったフォームで素振りを繰り返したって、ボールに上手に当てることなんて出来ないよ。
感覚的にしろ理論的にしろ、正しいやり方ってのを知る機会に出会う必要がある。
それは運で決まる。
教師との相性、教本との相性、たまたま見かけた動画や本、そういった所での出会いの中で自分の持って生まれた器に会うやり方が身につけられるかだ。
字が汚い人は、「字を綺麗に書くために必要な運に恵まれなかった人」だと俺は思う。
字の上手い下手ってよりはあらゆる分野に言えるんだろうね。
コミュニケーションが下手な人も、その人にあったコミュニケーションの技術を身につける機会に恵まれなかっただけなんだろう。
わざわざ罵倒されるような程のことなのかなあ……「お前の運が悪いせいで俺たちは大迷惑だ」なんてさ。
世の中は相も変わらず狭量が過ぎるように思うねえ。
[B! 教育] ワークマン初のランドセルは税込8800円、「低価格・高機能・軽い」バランス重視の開発の裏側
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.fashionsnap.com/article/2024-03-05/workman-school-bag/
なんだかブコメが粗ぶっていたので、今まさに小学3年生の現役子育て世帯として、現代のランドセル事情(東京都下)についてまとめる。
高齢者は今時の常識へアップデートしてほしいし、これから出産・就学する親御さんたちの参考になれば幸い。
ここからの話は東京都下の公立小学校での話なので、私立や都心部のリッパな学校、地方の話はまた違うんだろうと思うけどね。
まぁ、あちこちで言及されているように、ランドセルと言えば本革の黒と赤、男子は黒で女子は赤、というのは全く持って時代遅れ。
もちろん黒・赤の保守層も一定割合いるが、もう半数前後かそれ以上がこの二色以外のパステルカラーやアースカラー、ブラウンなどカラフルなランドセルを使っているのがふつう。黒・赤でもアクセントカラーが入っていたりおしゃれ要素がある。
うちの子もなかなかに目立つ色のランドセルを自分でチョイスしたので、入学前は多少気をもんだが、無印のランドセルの話でも出ていたように、「同じ色の子」「あの子は~色のランドセル」などとそれぞれの種類や色が個性や識別のきっかけとして受け取られる時代であるらしい。目立つ色で孤立していじめられるとかそういうことは滅多に無さそう。嘘だと思うなら近所の小学生の通学風景をよく見てみるといいんじゃないかな。
それと、女子のピンク・パープル・スカイブルー、男子のモスグリーン・マリンブルーなどはそれぞれプリキュア・仮面ライダー等の影響を感じるのは別の意味で日本の子育てならでは。
そんなのこじゃれた東京の学校だから、と思うないなら、ランドセル大手のホームページを見てみるといい。
例えばシーズンになるとTV-CMもよくみかける「天使のはね」のセイバン
https://store.seiban.co.jp/shop/pages/instagram_user.aspx
それぞれ男の子・女の子の商品ラインナップを見れば真っ黒・真っ赤なモデルはかなり少数派、色以外の要素もめちゃくちゃ多様なのがなのがわかると思う。ふつうに古典的なランドセル型の製品だけでもこうで、さらに今回話題になったランリュック的なモデルを使ってる子もいる。そういう時代なんだよね。
よくあるのは「祖父母にリッパなランドセルをプレゼントしてもらう」って奴。
あれはほぼ子供のためよりも祖父母に対する家族サービス。
孫と一緒に買いに行って「これはおばあちゃんに買ってもらう」というシチュエーションを祖父母に楽しんでもらうイベントなわけ。
まぁ経済面で助かる、というのもあるが、安い製品は2万円台で買えて十分に丈夫で見た目も良いデフレ時代にそもそも高くて高級なランドセルを買う必要性って今ほとんどなくて、金銭面での理由付けは順位が低くなっている。
さらに、本革でオシャレなランドセルを背負わせたいという親の気持ちもわかるし、そこで親同士の見栄の張り合いとか、量産品をけなしたりする親もいるんだろうけど、それは完全に親のエゴで子供にはあまり関係ない。まぁ、都心の立派な学校にお受験するような世界ではなんか違うのかも知れんけど、自分的にはそういう世界はちょっと嫌だなと思う。
それから、子供をランドセル専門店に連れていくと、5歳児のセンスなので、当然派手なカスタムモデルや、くるくるの革細工で装飾されたモデルなんかに食いついたりする。そしてそれらは当然いいお値段になる。だから、実際に連れていくのは結構順番を慎重に考えた方がいい。「今日は色を選ぼう」とか「「ここでは買わないと思うけど見てみよう」などの予防線を張ってみるのもよいかもしれない。カタログも同様。本気で親の本命モデルがあるなら、偵察は親だけで行き、子には敢えていろいろ見せずにまっすぐ行った方がいいかもしれない。
あとは購入時期、一時期「ラン活」などと言われ、入学前年の夏ころには売り切れる、などと話題になっていたのは上記のような贈答用や見栄用の高級品の話。
それこそ一品物に近いような手造り製品からヨーカドーやニトリで買える大量生産の工業製品までピンからキリまで選択肢があるのが今の日本の豊かさと言えると思う。
量産品なら入学直前の3月に駆け込んでもまー多少選択肢は限られるけど買えないなんてことはない。
ランドセルで検索すると、先ほどのような大手メーカーから専業メーカー、皮工房など様々な製品が並ぶ。実際、幾つもショップを巡ったり子供を連れて行ったりしたが、本当に様々だし、質感や使いやすさなど今のランドセルはよくできている。
けどさ、使うのは小学一年生なわけ。ボッコボコにぶつけるし、床や地面に放り投げる、あまつさえランドセルを座布団替わりに使ったり、踏んづけたり、ソリ替わりにして斜面を下ったりしかねないわけ。
で、「だから、6年間使える丈夫な本革」というのは多分かなり時代遅れな発想で、そもそも今の量産品のランドセルは合皮でめっちゃ軽い。というかそれ以前にランドセルがデカい。
1. 教材が増えた
3. 学校に教材を置きっぱなしにできない(全くではないが)
4. タブレットやChromebookなどを持ち歩く
等の要素が大きい。
そして、ランドセル以外に手持ちで運ぶ習字セットや絵画セットも立派でデカい。
とにかく、今の小学生の荷物の量は自分ら親の世代から見ると異常なレベルで、自分の頃の倍ぐらいの荷物持って歩いてるんじゃないかな?
正直、親から見ると子供がかわいそうだし理不尽さを感じるレベル。ただ、この辺りは学区や校風等さまざまな要素で変わるとは思う。
そういう状況でランドセルに求められるのは「収納力」と「軽さ」なんだよね。そこで「本革は時代遅れ」という話に繋がっていくわけ。大きいほど重くなる本革は今のランドセルの要求仕様に向いていない。
もう一つ、ランドセルの使い方でポイントになるのはランドセルカバーの使われ方。
学校や自治体・学区によって変わるだろうけど、低学年はランドセルに黄色い安全カバーを付けさせられる学校が少なからずある。
そしてその延長線上で、黄色いカバーがなくなると、様々なデザインのオシャレカバーを付けるという話が出てくるんだよね。
ランドセル自体もカラフルだから、おしゃれ要素としてカバーを付けていても全然違和感が無いので、当然女子の間では「~ちゃんが~なカバー付けてる」みたいな話がでてきて、友達と仲間外れも気の毒だから親も買わされるわけ。そんなところもランドセルの多様性に繋がる。逆に、ランドセルと言うフォームファクターが決まっているからできる要素ではあるかもね。
ランドセルは本当に乱暴に使われる、乱暴に使わせないのが躾だというかもしれないが、まぁ、そういう家は頑張ってお受験してよい学校に行けばいいのではないか?
上で述べたように、今のランドセルは軽くて丈夫だしデカい。なので、6年間はまぁ使われても問題ない強度だと思うのだけど、一方で安い製品は本当にお手軽価格で買える。
なんで、そもそも6年間1つのランドセルを使い続ける、という事自体発想が古いのではないかと思うんだよね。
ここまで説明したように、皆で同じものを最後まで使う、という均一なコミュニティの時代ではなくなっているのだから、ボロボロになれば、高学年になれば新しく買い替える、ランドセルを止める、というのができる時代になっていると思う。
そもそも、小学6年生まで大きくなればほぼ中一なわけで、その背丈でランドセルもおかしくね? って子も出てくる。
ランドセル専門店のカタログを眺めていると、6年間大事に使ったランドセルを海外に寄付しようとか、リフォームして思い出のアクセサリーに、なんて話も色々載っていて、それはそれで楽しいね、とは思うけど、例えば中一になった男子がそんなこと考えると思う? たぶん、それはそれで親の楽しみなんじゃないかな、と思うんだ。
だから、これからランドセルを買わなきゃという親御さんも、そんなに気張ったり焦ったりする必要はないんじゃないかなと思う。
やりたい風にすればいい、色々なやり方がある、今の日本は多様性と選択肢があることを喜ぶべきなんじゃないかな?
ランドセルを作る側にしたって、色々なアプローチを試してみればいいと思う。売ってみて売れなければ撤退すればいいじゃない? 安いランリュックでいじめられたら買いなおせばいいじゃない? 外野がとやかく言うような話じゃないと思うよ。
字が汚いから綺麗になりたい
昔からずっと字が汚かった。
汚い部類としては小さすぎたりミミズではなくバランスがおかしいタイプ。一文字のバランスや全体としてのバランスがおかしい。
小学校の頃、名前書いてないプリントに対して、これ誰の~?字的に多分男の子だと思うけど。と先生に言われたプリントが自分のだった。
それがショックで近所の習字教室に通わせてもらい硬筆毛筆を習った。
前よりは良くなったが日本語をあまり書けなかった帰国子女の友人に段位?を抜かされたし、学校の書き初め?で学校の代表の1人になった。
高校に入ってからは男女共に多少癖があっても字が綺麗な人が多く、真面目な文を書く時はその癖も消えてきれいな字だった。そしてみんな習字も習ったことがないと。
高校の友人から私の書く字はギャル字になろうとしてなれなかった文字と評されていた。別の友人からはアルファベットは普通なのになんで日本語書くの下手くそなの?とも言われた。
大人になって字を書く機会が減ってほっとしていたが、最近友人同士での誕生日に手紙を書いたり、お土産にメッセージカードを付けるようになった。
だから最近オンラインのペン習字や近くの書道教室を探しているが、鉛筆で綺麗に書けないのにペンで綺麗にかけるようになるのか?筆から練習するのは遠回り過ぎないか?等考えてしまって結局何もできていない。
ちなみに母は一文字のバランスはぱっと見ると綺麗だけどよく見ると汚くて全体としてのバランスが悪く、父親は頭の回転に手がついていかないタイプで文字を書かせるとミミズで読めた試しがない。
https://jisin.jp/koushitsu/2261479/image/1/
https://jisin.jp/koushitsu/2261479/2/
こうして字まで公表されてるんだ。知らなかった。そうねえ。これは立派に字が下手な人、だねえ。まあ私ほどじゃないけど私の次くらいに下手だね。皇室は習字なんてさせないのかな。きっちり字を学んだ人ならこんな字にはならないね。おおかた途中で投げ出したんだろ。
一般社会人でも、世に出て多くの人が自分の字が下手、習字しとけば・・とこんなIT当たり前の時代でも思うもんです。後悔先に立たずでも、下手でも死ぬもんじゃなしと開き直る。一般人はこれで終わってもいい。あくまで一般人なら、ね。このレベルで皇室がいてもらっては意識がないといわれても仕方ない
こうして下手な字を残し、国民に泥かけて今や日本の声などまったく届かぬ海外に「逃げた」女のことなど、逃げられてしまってはどうすることもできず本人こんな字がさらされてることなど知りもせず何とも思わず夫婦ともにブクブク肥えて贅沢な家に住み、さようなら。次女も早くそうしたい、と前に倣え。
まあ、こうした構図を作ったのも佳子さんカワイイと持ち上げてきたマスゴミやら男たちやらのせいで、責任重大。女二人いて、容姿をあからさまに比較されるなど他人であっても険悪になるのに、それが身内とあれば一生涯の確執を生むことにもなる。責任とれや。
前提として、
①東京圏では出生数が多い我が自治体ではあるが、毎年10%以上出生数が下がり続けている。
③そもそも子どもの多くは保育園に行ってしまい、2歳3歳まで家庭で育てるのは少数派である。
1経営者が過剰保育に走る
体操やリトミックはもちろん、習字やフラッシュカード、果てや武術まで多彩である。
手厚い保育を担任1人にほぼ押し付けて、先生の負担はどんどん増えている模様
2延長保育の長期化
保育園に負けないように預かり時間を長くする。ただし、保育園は18時までは基本的に延長料金がかからないが、幼稚園で延長保育を18時まで使うと1日で1000円近くかかるので勝負にならない。
ただ今時お母さんの手作り弁当を毎日持ってきてと言うと、心象が悪いので仕出し弁当を選択できるようになる。
ただ冷たくて辛い仕出し弁当は子どもの受けが悪く廃棄が大量に。
残っているのは経験の浅い先生ばかりで、行事でも遅々として段取りの悪さが目立ってしまう。
行事が不評だと園長先生の機嫌が悪くなり、先生たちがこっぴどく怒られる。
経営層からは、子どもの怪我は担任が見れていないからだと責められる。
そしてどんどん辞めていく。
少ないパイを奪い合うと、どこも過剰サービスからの負担増、大量退職と悪循環が止まらない。
こうやって保育施設はどんどん淘汰されていくのだろうね
ディッターッス
本日は日本において阪神タイガース記念日、習字の日、書道の日、タイツの日、キッチンバスの日、カトリックとメキシコにおいては死者の日となっております。
字を書くってめんどくさいですよね。
文字入力は割と楽ですが、その代わり文字の書き方が下手になったりします。
そうやって字が下手になると逆に書道とかで書いてある綺麗な字が気になってきたりします。
文字の書き方が上手い人はよく「ゆっくり書きましょう」と言ってますが
確かにゆっくり書けば文字の形は上手くなぞれそうな気がします。
手書きの場合、書く数が増えるからゆっくりしてていいのかって気持ちになるから焦っちゃうんですよね。
まぁ、楽な方がいいですが、出来ることは残しといた方がいいですね。
上手いことやりましょう
落ち着きよいか!落ち着きヨシ!
一人一人が持ち寄ればM=総数。
総数のソース。
俺さ、3月生まれ。
しかも発育も弱め。
特に無理なのが「書き方」の授業だった。
今思うと握力が根本的に足りてなかった。
めっちゃ強く握ってようやく字をかけるだけの安定性を得た。
んで教師は言う。
「もっと力を抜いて」
「抜きすぎだよ」
「ふざけてるの?」
マジで辛かった。
俺は死にものぐるいで黒板を写したよ。
内容を理解してるかどうかじゃないんだ。
黒板を写してるかどうかが全て。
全ての生徒に「内容わかってますか?聞いてます?そもそも?」とやっても限界がある。
全員に「とにかく写せよ。黒板をよ」と命じるしかない。
出来ないやつは晒し上げる。
楽とかじゃないんだ。
ミミズののたくったような字を通り越していた。
そのラインを攻め続ける。
俺ですら読めない。
教師も読めない。
でも「きっとこのコなりに頑張ってる」と信じさせる。
俺が字を字として書けるスピードでは。
チョークが走る。
内容はもう耳に入らない。
教師が待つ。
俺の指はまだ動く。
そして黒板が消える。
間に合わない。
もはや字ではない。
字ではない字を書く癖だけが積み上がる。
字は駆け抜けるもの。
そこにあるのはフィーリングだけ。
理屈はもうどこにもない。
形は失われる。
俺も読めない。
誰も読めない。
でも書きはした。
誰もが諦めた。
ギリギリで読める。
そして採点を受ける。
点数は他の子と変わらない。
じゃあもうこれでいいや。
そうして誤学習は進む。
字の書き方なんて分からない。
形だけの習字の授業。
ここでちゃんと学べていれば。
でもここでも同じだ。
教師はとにかく埋めろという。
必死に埋める。
何十枚も書く。
いつか許される字が出てくる。
それで通す。
魔法のようだった。
読めるような字が書けるようになった。
驚いた。
俺の20年はなんだったんだろうと。
地獄だった。
せめて4月に生まれていれば。
字とは読むために書くものだと学べていれば。
誰も読めない字を書くことばかりを学ばなければ。
悔しいよ。
これが俺のソースだ。
N=1でしかない。
だがここには確かな重みがある。
俺のNはニュートンのNだ。
結構前の話なんだけど、
コンビニで菓子パンを買って食べたら、パンの中に習字紙みたいな紙の切れ端が入っていた。
めちゃくちゃムカついたわけではないが、ちょっとムっとしたので、その習字紙の切れ端と、簡単なメモ(「パンの中にこれが入ってました」みたいなもの)を封筒に入れて、菓子パンの製造会社宛に送りつけた。
何週間か経ったあと、その菓子パン製造会社から、封筒が届いた。詫び状と金券とかかなあ、と思いながら封筒を開くと、
「〇〇のミュージカルコンサートチケット」が2枚入っていた。手紙も何も同封されておらず、ただ、チケットのみ。
(〇〇は特定防止のためにふせたが、サンリオとかディズニーとか、そういう感じのもの)
当然「?、一体どういうこと?」と思ったが、それ以上、菓子パン製造会社に問い合わせるのも面倒臭かったので、何もしなかった。
当時、その製造会社で、上記のチケットのプレゼントキャンペーンみたいなものをやっていたようなので、自分のクレームを、そのキャンペーンの応募かなんかと勘違いしたのか、それとも勘違いしたことにしたのか。
チケットは全く関心がなかったので知人にあげた。
意味がある、ないって何か目的があった上で始めて成立する判断ですからね。何の条件も指定せずあれは有意義だ、いや無駄だなんて言った所で、それは何も言っていないのと同じ。
そりゃプロ野球選手になりたいという人がいくら習字を修めた所で限りなく無意味に近いけれど、別に全ての人がプロ野球選手を目指して生きている訳でもなくて。
上手な字を書けるようになる、という目標を設定すれば習字には意味があると言える。
そんな機能的な事を問わずとも、美しい字を追求する快楽が人生の意義の一端を担っていたら、それだけで意味があるとも言える。
知識を得たりそれを活かして何か新しい行動に反映させる事に関心がない人には、その点で言えば読書だって無意味な行い。それでも紙をめくって文字を目で追うことに快感を覚えるなら、それはそれで意味があると言える。
大小問わず人生における目的が常に共有されている訳でもなし、すぐ「それは意味がない」とか口を挟む人は自我を外に拡張しすぎではって思う。
まあ私も、他人に対してやれそれは無意味だとかジャッジするのは無意味だ、と言っているようなもんですけど。それだって本人がそれで気持ち良くなってるなら、まあ意味はあるか。
それはそれとして、偉そうにそう言われる側からしてみればウザいんで控えようかな、とか思える程度に社会性を持って頂きたい所ではある。
字の汚なさにも2種類ある気がする。
普通に悪筆ではあるけどサラサラって書いたような、まあ大人の書いた字ではあるなってレベルのと、やけに力強くてデカいマジで小学生みたいな字。
後者を書く人はヤバめ率が高いような気がする。
マジで汚い字って、線があっちこっち向いててバランスが終わってる。文章書いても横の軸がガタガタで罫線の間をジグザグに走ってる。
そして大抵妙にくっきりと書かれてるからよりバランスの悪さが強調される。
おれも相当だったけど、高校生にもなると流石にまともな字を書く子が増えて直そうと思った。
習字やってる子の字を参考に、右上がりとハネをちょっと極端なくらいに意識してみた。
よく見ればしっかり平行の線にはなってないんだけど、方向は概ね右上に向かって揃うから、縦線さえグニャグニャじゃなきゃだいぶマシに見える。
ハネも大げさなくらいにすると締まりが良い。小学生の字って、線の始めから終わりまでペン先をグイグイと押し付けたような緩急のなさがダメなんだと思う。払いを意識すれば必然的に脱力?するからサラサラっと書いたような字になる。
あとおれは小さく書いてごまかしてる。字の大きさが小さくなれば、バランスの印象も伴って絶対的に縮小されるので。たまにデカい字を書くと結構下手さが露呈する。
ちゃんと綺麗な字を書こうと思ったらもっとちゃんと意識する事が色々あるんだろうし、ちょっとでも書道とかペン字とか齧ってる人には汚ねって思われる気がする。でもこの小手先程度でもだいぶマシになったし、たまに上手いねとすら言われることもある。
まあ小学生みたいな字を書く奴はヤバいと言ったけど、別に字が汚くて困る訳でもないしな。よほどの悪筆じゃなきゃ、変にごまかしてサラッと書いた字よりも力強くくっきり書いた字の方が読みやすいかもしれんし。文字とは他人に読ませるものであり、それに気を遣う事は他人への配慮であり……みたいに社会性とこじつけるのもなんかアレだし、箸の持ち方とかで他人を値踏みするみたいで品がない。そういう間柄でもない他人に面と向かって字汚えなとかは言わんようにしとこ。