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はてなキーワード: 望月新一とは

2024-02-16

anond:20240216171356

なら、望月新一ABC予想証明に対して、これは証明できてるという人と証明できてないという人もいるのはなぜ?

同じ法則を共有できてないからでしょ?

そういうのみると、法則規定する定義そもそも一意に可能だったのかって話になるでしょ?

学生公式を「誤って」適用する。間違える。

でも学生は答えと解説を見るまでは疑いなく正しく公式適用してると思っているかもしれない。

相対性理論かになってくると延々と自分流の理解から脱却できず知恵袋で恥をかいている人がいる。おそらくこれはそれほど安易に決めつけ理解したのではなくむしろ精一杯苦しんでもがいてその自分が正しいと思っている理解に至ったのかもしれない。

でもまっとうと言われる学者はそれを間違いとはっきり考えている。でもその学者理解もまた思い込みでないとどうやって証明できるんだろうか?知恵袋で恥かいてるやつも学生が苦しんだ公式ぐらいは一般に正しいとされる理解をするかもしれない。学生知恵袋の人、知恵袋の人と学者、全ては相対的だ。

そういうことを感じさせるのもまた望月新一周りの紛糾である。ある論理的情報とそれに対する理解内容との矛盾は一意的に評価可能なのかということだよ

数学定義は本当に厳密で一意なものと言えるのか気になりました

たとえばユークリッド幾何学での直線は「幅をもたず、両側に方向に無限にのびたまっすぐな線」だそうですが、これも「幅」とは?「(幅を)持つ」とは?両側とは?「方向」の定義は?「無限(限りが無く)」とは?そもそも「限り」って何?「のびる」とは?「まっすぐ」とは?「線」と結論づけるのは循環論法じゃないの?

と突っ込む人にとっては厳密ではなくなっていませんか?

ここで、これらの言葉意味は、国語辞典に載っている意味と同じものだよなどといおうものなら、それこそ数学の厳密性を否定したようなものになってしまっていると思います

たとえば「方向」を調べたら「向くこと」とでます。これを調べると「物がある方向を指す」というふうに出ます。これは循環論法に陥ってますし、「物の正面があるものに面する位置にある」という別の語釈もありますが、物とは?正面とは?面するとは?位置とは?となります。これを繰り返せば結局どこかで循環論法に行きつくでしょう。

そもそも数学の根幹部分を支える論理学重要概念である否定(そうでないこと)」にしても、厳密に定義することは可能なのかと思います

「~でない」というのは、そうであることがないということ、と言ってみたところで循環論法

そうであるのになぜ上記のような定義公理が厳密なもの認識されているかといえば、「さすがにここまで平易な単語の組み合わせで書けば、これらの単語については私が常識として理解してる意味と同じ常識を、相手も持ってるはずだから同じ理解をするよね?」みたいな態度に立っているんだと思います

結局相手も同じ常識を持っているという不確かな信念によりかかっている、甘えている点で、数学記述もまた完全に厳密で一意というわけではないのかなという気がしてくるのです。

そもそも「方向」なんていうような概念は、言語によって定義されたものを知っているというよりは、幼少期に言語習得していく過程で、それが話されるシチュエーション、つまり五感などあらゆる感覚総体とセットでそうした言葉が使われているという環境に身を置いているなかで理解しているにすぎません。理解内容が各個人で全く同じである保証はどこにもないと思います

どんなに高度な数学表現も究極的には自然言語還元されるはずで(どんな高級言語機械語に置き換えられて処理されるように)、自然言語の各単語に対する人々の理解原理的には五感に根差し感覚的なものなのだから数学記述が厳密で一意というのは、結局はほかの記述の仕方に比べた程度問題(つまりは誇張表現)なのかなと思うのです。

感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。

この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。

ちなみにたとえば「否定」というのは、根本的には、やはり言語理解が完結しているものではなく、現実の状況としての存在非存在にそれぞれ直面して、それぞれに対して「○○がある」「○○がない(なくなってる)」と言われてる場面を経験したうえで、その状況から理解した内容のさらなるアナロジーとして理解してるに過ぎないと思います(理解のあり方が、言語的ではなく、観念直観的)。

数学が他よりも他者と厳密に同一な合意が常に成り立つ、その工夫として、抽象度を高くしているのがその工夫にあたるのではないかという人がいました。↓

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14293524459

しか抽象度を高くすることは、合意内容のずれを減らすという点で「有効でもあり逆効果でもある」のではないかと思いました。つまり諸刃の剣なわけです。

有効である理由リンク先に書かれているのでそこに説明を譲るとして、逆効果であると思う私の説明を書きます

まり抽象度が高い概念は、抽象度が低い概念や直接的な事物に比べて理解が難しい傾向があるのがまずあるわけです。

また定義者の提起する定義をそれを発信される側が期待通りに理解しているか確認するのも、抽象度が高い概念ほど困難な傾向はあると思います

これ自体ある意味抽象のものなのでたとえが悪いですが、たとえば「左を向いて」という発言に対して、「左」を向く反応をすることで、この人は左について正しく理解してそうだなという確認(いや原理的には推定というべき)することができます

抽象度が高くなるほど具象と結びつけたこのような正しく理解してるかの評価確認テストをすることが難しくなるでしょう。

といってもそもそもわれわれは相手自分の言ったことを期待することと厳密に一致した内容で理解してるか確認することは原理的に不可能です。

頭をパカっと割って理解内容を覗きみるということはできないですから

対象となる言葉に関連したその人の発言や反応をみて、理解の結果としての発言や反応として、その人がある部分で正しく(定義者の期待通りに)理解してるだろうということを推定するしかありません。

しかも全体ではなく一部だけの理解が正しくても、発言や反応には異常が見られないということもあるでしょう。

反応や発言いくら調べても、概念全体を期待通りに理解してるかのテストには無限通りのパターン必要と思われ、原理不可能と思います

哲学的ゾンビにも通じそうな話ですが、日常範囲内で「理解齟齬があるような反応が返ってこないなら」そんな「理解が完全同一でないかもしれない」という可能性上の話を心配する必要はないというのはその通りでしょう。

ただ場合によってはそれが表出したように見える一例が、あれの原因がこれだとは言いませんが、望月新一がABC予想を証明したという論文での紛糾みたいなことが起こる一因にはなりえると思います

あれだけ理論として抽象的な概念を積み重ねた先には、定義者とそれ以外のその定義を見た人とでの理解のずれは、反応や発言として顕在化してくるほどになっても不思議ではありません。(定義者の解釈が正しいという優劣の問題ではなく)

特定公理範囲内において論理的矛盾のないシステム

はいますが、そもそも矛盾」とは何か?「論理」とは?「範囲」とは?とは、といくらでも曖昧でしょう。

たとえ矛盾記号論理の表現記述して定義した気になったところで、じゃあその記号定義ないし意味は?とどこまで突っ込まれても感覚に頼らない定義可能なんですかね?と思います

dorawiiより

追記

数学に限らない話じゃんっていうのはまあその通り。

でも定義について「厳密で一意」であることを(得意げに?)標榜してるのは数学(+論理学)とそれベース客観的であろうとする学問ぐらいだから別にエントリ詐欺じゃないよね?

a=b、aはbだ。「は」って何?「だ」って何?「英語的にはどっちもisという語に集約されてるけど、じゃあisってなんだよ」ってところから概念の共有をしてない前提に立った時、その概念を非感覚的で厳密に共有することは可能なのか、それが「完全に」できたと確かめるのにはどうすりゃいいって話よ。

言葉という形式が従で、それに乗るべき内容が主であることは百も承知だが、形式言い換えれば入れ

物抜きに内容を厳密に伝えられるのか、入れ物の存在無関係な、内容の厳密な伝達というテレパシーじみたものを考えることはそれこそ論理的に正しいのかという話でもある。

言語的なテレパシー論理的に矛盾してるので存在しえないのではないかとは思っている。

さら追記


イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。

イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。

先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。

語彙力ないので語弊ありそうなのは百も承知だが、哲学って考え方の基幹部分のオリジナリティーはそんな求められてないんだよ。

しろ先人から受け継いだ考え方をどう今の時代の具体的な問題適用して考察を広げるかが大事なので、ちょっと哲学かじったような素人目には過去論文の焼き増しに見えてその存在意義が理解できないような論文ごまんとあるんだよね。

哲学において焼き増しは無意味パクリじゃないのよ。

あいブコメつける人って「方向性とかみたいな意味ベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。

ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるからリアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉ベクトルから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。

2023-12-31

数学(あとせいぜい理論物理)の研究をするような人たちがほかの全学問研究従事すればいいと思いませんか?

数学は数論の本とかだと入門書でも修士レベル知識がないと読めないのがあるそうです。他の学問でこんなことはそうそうないでしょう。文系なんかは別に入門書じゃなく、専門家が同じ専門家に向けて出したガチの専門書の体で出された本だとしても、下手したら高校生でも読めると言ったら言い過ぎかもしれませんが、賢い大学生なら普通に読めるでしょう。

数学とそれ以外じゃ学問としてのレベルが違いすぎるのだと思います

まり、今現在他の学問をやってる研究者は数学をやるのは理解力が足りず無理でしょうが、逆に数学やってるような人がほかの学問をする分には、今その学問をやってるような人たちよりもまず頭がいいので、今後もその人たちに研究を続けさせた場合に得られるものよりもより多くて高度な成果が得られるのではないかと思いました。

自由主義なのでそんなことは無理ですけど、もし成果だけで考えたなら、今数学以外の研究してる人には全員学術の場からは退いてもらって、望月新一みたいな優秀な数学者のクローンを作ってその人たちにあらゆる学問研究をさせたほうがいいと思ったのですが、みなさんはどう考えますか?

2023-12-29

天才望月新一がもし数学ではなく生物の道に山中伸弥と同じ時期に進んでいたら、同じように(あるいは史実よりもっと早く)IPS細胞に関してノーベル賞を受賞する業績を出せていたと思いますか?

質問はここまでで以下余談です。

もしそういうことなのであれば、もうあらゆる知的作業要求する分野は全部彼に任せちゃえばよくね?って思います。少なくとも今後クローンを作るために死後アインシュタインみたいに脳みその切片を保存すべきだと思いました。んであらゆる学問研究を全部彼のクローンやらせる。大は小を兼ねるということで。

2023-10-05

感情論も仕方がない

人は自分論理的思考力を超えたことに対して考えて主張するには感情論になるしかないんだから

望月新一証明があってるかなんて話になると専門家のくせに感情論のぶつかり合いってなんである

最低でも第二不完全性定理証明理解できない程度なら結構無意識感情論連発してると思う。もちろんおれも。

でも意見はしたい。なので意見したらそれは非論理的にならざる得ないというだけの話だ

そもそも感情論と非論理的論を同じものにみたいに扱うのが正しいのかも自信ないしな

2023-08-29

anond:20230829194534

ふーん?一点突破でもなんでもいいけどこれ以上ないぐらい二次創作肯定派を騙される論法だと軽く物事発明した気分になったぐらいだけどなあ?俺自身は何年も知恵袋二次創作周りの口論見てきた上でのこの投稿だよ。

それなのに結局肯定派は知恵袋で見てきたようなゴネ方しかして来ないのは望月新一のIUT理論賛否両論ある如く天才のそれだからこそ反発したがるってことなのか、それとも単に何を言われてもカルトじみてて一行たりとも都合よく曲解することしかしないから周回遅れの反応になるのか…

暴行罪関連だとたとえば腕引っ張る程度なら暴行と感じるか感じないかやられた側の感覚は別れると思うけど、暴行罪はその行為同意してる限りは成立しないってんで親告罪的でもあるが、だからといって初対面相手同意してくれることを期待して腕引っ張ることをデフォでして大丈夫、あるいは自己責任として喧伝していいと思うか?

2023-08-17

論理的な正解なるものなどあるんだろうか?

学生公式を「誤って」適用する。間違える。

でも学生は答えと解説を見るまでは疑いなく正しく公式適用してると思っているかもしれない。

相対性理論かになってくると延々と自分流の理解から脱却できず知恵袋で恥をかいている人がいる。おそらくこれはそれほど安易に決めつけ理解したのではなくむしろ精一杯苦しんでもがいてその自分が正しいと思っている理解に至ったのかもしれない。

でもまっとうと言われる学者はそれを間違いとはっきり考えている。でもその学者理解もまた思い込みでないとどうやって証明できるんだろうか?知恵袋で恥かいてるやつも学生が苦しんだ公式ぐらいは一般に正しいとされる理解をするかもしれない。学生知恵袋の人、知恵袋の人と学者、全ては相対的だ。

そういうことを感じさせるのもまた望月新一周りの紛糾である。ある論理的情報とそれに対する理解内容との矛盾は一意的に評価可能なのかということだよ

2023-05-13

https://anond.hatelabo.jp/20230513182021


   最近、30歳になって、望月新一のやっているABCーconjectureを検査している教授がおりますね。ABC-conjectureは予想なので、当然、予想したことは凄い訳ですね。

    しかしこの予想というかそういうふうに定まってることからフェルマー定理証明できるし、他のエルデシュ予想とかそういうのも大量に証明できることが知られている。

   だから予想はしているけどそれの構成ができていないという段階である。 ところで、この30歳の教授の、なんだったか、何とかいう人がいて、この人は2006年のIMO幾何の超難問

  で満点取って金メダルとってますね。

   あの幾何定理は思いついた人が凄いというかね、正式構成も、ベクトルを使った構成もどっちもやたらと難しいがそれで満点を取っている。あ、ペーターショルツ教授だった、だから天才ですね

  そのショルツが。ただ幾何学の問題といっても色々あるので、やはりあの世界はキチガイだと思いますよ。自分定理発見して証明しているのだからキチガイだと思います

   定理を思いつくのが難しいし、まあ思いついても難しいと。

2023-05-08

高校参考書コンプレックス

特に物理数学、いやそ例外でもいいんだけど難関大見据えた参考書に書いてある「ひねった問題」をいまだ解けないであろう状態断捨離するのに抵抗があった。

あいうのってかりに大学レベル以上の知識問題演習を積み重ねても、それより下位の問題としてのああいった受験特有問題が自ずと解ける力が身についてるとは限らないと思うんだよね。もちろんずば抜けて応用力がある、一を聞いて十を知るタイプなら、高校参考書なんか全部捨てちゃって、常に前を見て学び続けた方が効率よく賢くなれるんだろうが。

んでそういうひねった問題を解くのに必要ものの考え方が足りてないのがネックになって、大学レベル理論理解でつっかえるというケースも多分無きにしもあらず。微積分の極意とか難問題系統に載ってるような問題を解くのに使うものの考え方が、学術書解説ではそんなの当たり前というように省かれているのだと思う。問題演習してきてる人はその経験思考エンジン、目の前の文章パズルピースとして情報を補うようにしてなんなく読みこなせるが、それを怠ってる人はつまづいてしまう。

望月新一とか言う人の証明がもし本当に正しければ彼の理論を知ってればフェルマーの最終定理は数行で証明できるそうだが、全てが全て、上位の理論理解してればそれより下位の理論を解けるというようにはできてないだろう。

でもまあ結局親から迫られて捨てちゃった…赤チャートの数Cだけ線形代数とかベクトル解析とかする前にやっといたほうがいいんだろうってこっそり残しておいたが…うーんコンプレックス

2023-03-11

anond:20230311164833

ググレば望月新一論文について人の受け売りでか合ってるとか間違ってるとか判断できない状態から脱して自分なりに読解できるようになるのですかね?

2023-03-09

anond:20230309113735

ちなみに2018年に死んだ望月誕生はいつですか?

2018年に亡くなった望月新一氏の誕生年は1955年です。

ますますどの望月なんでしょうねえ…

anond:20230309113735

おれ、chatGPT使えるようになって真っ先に望月新一ABC予想についての海外数学コミュニティでの受け止めについて聞いてみたんだけど、その時はまあまあちゃんとした内容(通り一遍ではあるが)が返ってきた。いま望月新一について尋ねてみたらこんなのが戻ってきた。

望月新一(もちづきしんいち)は、日本漫画家であり、推理小説家でもあります。彼は、特に名探偵コナン』の作者として知られています

望月新一は、1965年6月4日青森県青森市で生まれました。彼は若いから漫画小説を書くことに情熱を持っており、高校生の頃から漫画家としてのキャリアスタートさせました。

1994年に、望月新一は『名探偵コナン』を連載し始めました。この漫画は、高校生探偵江戸川コナンが、毒を飲まされて小さくなってしまった身体を利用して、事件解決するストーリーです。この作品は、世界中で大きな成功を収め、アニメ化映画化など、さまざまなメディアで展開されました。

望月新一は、漫画だけでなく、小説でも才能を発揮しています。『名探偵コナン』の小説版をはじめ、数多くの推理小説執筆しています

また、望月新一は、漫画小説以外にも、音楽にも興味を持っており、自ら作曲した楽曲使用したアニメーション作品もあります

望月新一は、日本漫画小説界に多大な影響を与えた偉大な作家の一人であり、彼の作品は今でも多くの人々に愛されています

いや数学者だろ、とツッコミを入れたら以下。もっともらしいがデタラメ多い、というか、望月拓郎とごた混ぜになっている。

望月新一あきら・もちづき)は、日本数学者であり、代数幾何学を専門としています。主に、モチヅキ理論モチヅキ加群モチヅキ因子などの研究で知られています

代数幾何学は、代数学幾何学の融合であり、代数方程式幾何学的な対象である代数多様体を研究する数学の分野です。望月新一は、代数多様体の幾何学性質研究する際に、代数手法を用いて新しい理論を発展させました。

具体的には、望月新一は、代数多様体上の「D加群」と呼ばれる特殊加群研究し、それを用いて、代数多様体の幾何学性質を解明しました。また、望月新一は、代数多様体上の「モチヅキ因子」と呼ばれるもの定義し、これを用いて、代数多様体の双有理幾何学に関する新しい理論を構築しました。

望月新一の業績は、代数幾何学の発展に大きく寄与し、現在でも代数幾何学の分野で重要研究が行われています

chatgpt、数日前の大地震守備範囲

先日トルコ大地震が起こりましたよね

はい2022年3月3日トルコ大地震が発生しました。この地震は、マグニチュードが7.4と非常に大きく、エーゲ海沿岸部首都アンカラなど広範囲被害が及んでいます。この地震により、多数の死傷者や被災者が発生しており、現在も救助・復興活動が続いています

でも望月新一名前は知らないという。

数学者望月新一がいますよね

はい望月新一(もちづきしんいち)は日本数学者であり、代数幾何学モチーフ理論などの分野で業績を残した研究者です。代表的な業績としては、ミラー対称性予想の証明に向けた研究などが挙げられます。また、一般向けの著作や講演活動積極的に行い、幅広い層からの支持を得ていました。望月新一氏は2018年急逝されました。

死んでねーよ

グーグル並みにネットからクロールして学習してるってなら望月新一ぐらい知ってそうなもんだけど。

2023-02-18

望月新一はせめてあと一つでも日本雑誌でいいか査読掲載を認めさせることができないものなのか。

掲載されたのが自分とこの雑誌だけなんじゃ到底参照先として使えないよな。論文の内容が正しいって担保が著しく足りないンダもの

まり既に証明済みのフェルマーの最終定理とかならともかく現段階でABC予想が正しいとして初めて証明される諸定理を使っての研究は今不可能なままなわけだ。学問が進まない。

望月自分達さえわかってればいいって態度なんだろうがその理解者が明らかに質的に足りなすぎてる。せめて論文が正しくて安全活用可能一般研究者が判断するにたるぐらいには理解者がいなければダメよね。つまり担保に値すると判断されるレベルの数の雑誌掲載される程度には理解者(査読に携われるレベル専門家)を得られなければダメだ。

別に御用学者みたいに大衆迎合しろって言ってるのとは全然違うことぐらいわかるよね。

それすらわからないふうに自分さえ真理に到達すればいい、最低限の人に理解させる必要などないみたいな態度とってるんじゃまさしく宗教家のそれだよ。望月論文自体宗教と言われてるのがやっぱりあながち的外れでないことになってしまう。

2023-02-17

望月新一ブログを見たがブコメ言う通りお世辞にも文章うまいとは言えないな。くどい。汚い。エレガントじゃない。

欧米大学じゃ入学してからしこたま作文能力を扱かれるそうだがあの文章力でよく単位くれたよな?ひいては今のゴタゴタにもつながってるんだと思うけど。

望月くん説明下手すぎー。せめて雑誌編集担当するレベル数学者にわからせられないようじゃ相手馬鹿なのが悪いなんて言い訳通用せんでしょ。

ガリレオ説明義務を怠ったわけじゃないからな。あれは宗教的洗脳を解くという別の意味の戦いも混じってるわけで科学的な説明ガリレオ果たしていたはずだ。むしろ宗教者側もガリレオ理論整合性理解していて、でも神を否定するわけにはいかないとむりやり否定する結論ありきで弾圧したに過ぎない。ゴネていたのは宗教者の方。しかし今回ゴネているのはどう考えても望月の方。

望月が今回の件に関しては一ミリ学問を前に進めていないのだ。だってABC予想が正しいと言う前提で証明されるもろもろの定理がいまだ活用されて新たな数学事実発見に繋がってないんだろ。だったらそれは論文を書いてないのと同じ。仕事してないのと同じだよ。

2023-02-07

anond:20230206184009

つの回答として頭に入れておく。

ただなんか語弊がいろいろあった気がするので補足する。

物議を醸した望月新一のIutの論文はそれが合ってるか間違ってるか自力であてずっぽうでなく判定するにあたり証明を追うにしても相当な前提知識を要する。あれも数論幾何なわけだ。

次元トポロジーという名称はその証明の難しさの特殊性から既存トポロジーからあえて切り分けただけで、研究既存論文理解必要知識量はトポロジー全体と差がないのではないか

多少差があったとして、数論幾何よりややはり明らかに少ないのではないか

次元トポロジー研究には類い稀ないひらめきみたいなセンスを要するだろう点で学界にインパクトを与える新たな価値ある証明を行う難しさが数論幾何匹敵するのは確かだろう。だがそうやって証明された既存論文理解するハードルは数論幾何に比べると明らかに低いのではないか

もっといえば望月論文理解するための知識を全て身につけたとしても論文証明した当時の望月知識量にはまだ足りないと思う。証明理解する以上に、証明すること自体には理解必要知識以上のバックボーン必要で、そうしたバックボーン証明に際して必要だった発想着想の必然的きっかけになったりしているはずだから

あなたもおっしゃる通り低次元トポロジーをやってるだけなら数論幾何にくらべてしまえば明らかに見劣りすると思う。以上書いたことを踏まえてあらためて数論幾何匹敵するものが他にあったら教えてほしい。

勉強するにあたって数学幾何共通する知識事項もあるが、比較的早い段階で数論幾何を志す人とは異なる知識を量として数論幾何と同じぐらい積み上げていくという数学領域理想だ。

2023-01-22

数学者無名具合に疑問

第一線の数学者は他のどの科学者よりも難しい問題を達成していると思うのだが、特に現代数学において誰でも知っているというような人が全然いない事実にひっかかるものがある。

マルクスみたいな経済学者とか、ファーブルみたいな生物学者など、他の学問には数学者よりは高度なことはしてないというのに一般の人でも知っているという人がいるのに、これはどういうことなのか。

数学者で有名といったら、せいぜいピラゴラスといったような古代人、現代数学でいえばリーマンとかラプラスとかだ。

これらの人物共通するのは小学校から大学までのカリキュラムで扱う理論公式発見者かどうかということに過ぎない。

特に古代人が考えたことは現代から見れば易しいものなので義務教育の内容に採用されやすい。だからあのへんの時代人物数学者でも知名度が高い人がいることになる。

ようするに言いたいのは数学者の有名無名はただ単に教育制度次第になっているということだ。

高度な現代数学でも岡潔望月新一と有名な人はいるじゃないかと言う人もいるかもしれないが、あれらが有名なのも、実績の価値が正しく一般の人にも伝わって認知度が高まってきたというものではない。

岡潔なら統合失調症だったなかで戦時下を生き抜いたこと、望月新一なら自分コネを使って論文掲載させたこと。

そういう生き様センセーショナルなところがもっぱら庶民の関心を呼び起こしているに過ぎないのだ。

ポアンカレみたいな「未解決問題を解いた人」というわかりやすラベリングを持った人間が有名なのも本質的には上述したのと同じところにあるのだろう。認知している人の多くが業績の概要価値だけでも正しく理解してるか疑わしい。実績の内容に関する関心ではなく、未解決問題を解いたという一点で共通認識化されているように思われる。

ちょっと単純化が過ぎるかもしれないが、数学以外の科学者土俵はもっぱら実験実証なかにあると思う。

実験により、何かをしたらこういう結果が出た、という目に見える因果関係を把握する力さえあれば誰でもその分野の大学者になれる素質はあるとさえ言える。

もちろん実際に誰もが知ってる大学者になれるかどうかはもちろん有用な結果をはじき出す実験にこぎつけられたらという話になるが、どちらにせよ彼らは比較的易しい具象の中で研究対象と戦っているということには違いない。

一方で数学ときたら現時点で新規性のある高度な数学論文をしたためるには何万ページという論文が語る知見に対する確かな理解の積み上げが無いと無理だろう。

理解する過程においても数千ページ目にあたるある論文理解できないとなったときどこに理解の欠落があるか今まで読んだ論文から探しなおさなければならないわけである

理論構造自体も目に見えるようなわかりやす因果関係から成っているのではなく、抽象的なわけだから知識の欠落がなかったとしてもその理解純粋に難しい。

しかし高度な論文作成はその先にあるのだからこの数学研究というものは果てのない作業なのである

望月もそのような作業を経てついにはIUTの創出という高みに至ったはずである

そして望月以外にも当然少なくとも月ごとには相当数、同程度の高みから発した高度な内容の論文が公開されているはずだが彼らの中から一般人にも有名という人は現れて来ない。

ようするに現代数学者天才である。あの手の分野の数学者受験勉強を全くせず東大に悠々と合格するような人間がざらであるらしい。もっと現代数学者絶対数が少ないのだから「ざら」というのは数ではなく割合問題なのであろうけど。

そんな数学よりは高度な理解力を要しない学問では誰からも知っている人が出てきているのに、現代数学ではせいぜい専門家の間で有名という程度にしかなれないというのは理不尽なことだと思う。

私にはそれほどの数学の才能はないので数学ができる人間に対して劣等感がある。

から劣等感元凶である彼らにはせめてとことん栄誉ある立場にあってほしいのだ。

彼らすら大して評価されないのでは彼らと違って能力のない私には何も救いがないではないか

あるいはこういうことなのかもしれない。既存知識理解するという力と新しい見識を発見する力というのは異なるものなのではないかと。

まり数学の功績は高度な理解力の上に成り立っているものだけども、高度な理解力をもった彼らがもし別分野を志していたとしたら果たして一般の人の記憶にも残る大学者になれていたのかどうか。

現代数学者チョムスキー生成文法もその理論を考え出した背景にある理論も含めてその気にさせれば簡単理解してしまうだろうが、かといってもし彼らがチョムスキーと同時代に生まれ言語学を志していたらチョムスキーを出し抜いてあのような文法理論創造できたのだろうか。漢字世界白川静みたいな業績を打ち立てることができただろうか。丸山真男のような戦後思想史巨人になれただろうか。

理解力は結局脳の処理能力という量的な要素に還元されるものに思われるが、理論創造というものはどのような分野にしても大胆なひらめきがものを言い、これなるもの量化などもちろんできない、一種特殊能力なのではなかろうか。

数学はむしろ知見が論理的に緻密な状態でに充実に蓄積されているのに比べ、他学問の知見は相対的には雑駁というかなんというか、とにかくそういったところから新しい理論を考え出すのには数学以上に何かアクロバティックな部分が必要にも思える。

コペルニクスだったか海上水平線帆船が見えなくなる事実から地球が丸いということを歴史最初に悟った人物らしいが、彼のような発見は彼より多くの知識を持った、つまり理解している天文学者には出来ないはずだと朝日新聞の轡田だかい論説委員の本に書いてあったと思う。

本当だろうか。現代数学者がその時代に生まれても無理だったのだろうか。でももしそういう発見という意味での知性が特殊な力なのなら、ここは素直に認めておくべきことなのかもしれない。数学者こそ昔の偉人発見した事実ベース論文をしたためることができているだけで、彼らがいなかったらならば今のような仕事はまるでおぼつかないものになっていたかもしれない。

ただしコペルニクスデカルトみたいなあの手の啓蒙思想の潮流で偉人扱いされている人がもしも今生まれたら、史実でその発見をしたときインパクトと同じぐらいのインパクトを持った発見ができるのだろうかという疑問はある。

しかしできないのだとしてもそれは役割問題なのだということになるんだろう。コペルニクスにはその特殊能力をもって彼にしかできない発見をしたのだし、現代数学者も彼らの理解力をもって高度な論文を発表している。それでよしとするべきことなのだろうか。19世紀から20世紀イギリスでは優秀な人間天文物理学に行くものだという常識・慣習があったのも引っかかる。

学者としての優秀さというのは最終的には理解力のような計り知れるものではない、ひらめく力・直感センスで決まると認識があった証左なのだろうか。

そうであるなら私についてもまだまだ人生これからで、数学以外の学問でひらめきを発揮する道はあるのかもしれない。

そうだとすれば劣等感を抱く前提条件も崩れ、数学者一般に知られていようといまいが気にする問題ではなくなってしまうはずであるけれど、ここまで掘り下げて考えてしまったので、まあそれはそれとしてこの疑問は解消されるまでことあるごとに私を悶々と悩ませるには違いない。

まあそれでも既存知識理解することにおいては絶大な才能があること、つまり学者がどんな難解な理論提唱しようがたちまち理解してしまうという意味で、あらゆる人に対してタイムラグはあるにしてもそれを無視した見かけ上はどちらの方が物事をよく理解してるかということについては遅れを取ることがないという点にはやっぱり羨やむものあるかなノー勉東大に受かる素質というのも素直に?率直に?畏敬の念に駆られてしまう。

dorawiiより

2022-12-22

望月新一のABC予想に関する話は多分に逸話的なんだよな。

まず査読に7年かかったというのが純粋に難しさゆえか、支離滅裂からかなのか分からない。支離滅裂文章意味を見出そうとすればそりゃ何年でもかかるだろう。

レビューも何人かしてるわけだけど、レビューを行った彼らも七年要したのだろうか。つまり彼らは全員査読される前から(つまり公然掲載される前から)彼の論文を知っている人達だったのだろうか。

論文完成と同時に論文を読み始めてレビューを書いたのなら分かるが、そうでないなら時間的物理的に辻褄が合わない気がする。

支離滅裂からという考えを一旦置いておくことにすれば、査読ギネス登録できるスケール時間がかかったのはその難しさとは別の学閥等の政治的外因の影響の方がよほど強い気がする。

真偽について数学なのに紛糾しているということで話題になっていたが、これもまたセンセーショナルに切り取っているだけで眉唾臭さが強い。

真偽について語るならそもそもABC予想というもの連続体仮説同様証明可能なのかから語られるべきではないのか。

そういう証明可能性をおいておくなら、とにかく彼の論文批判するならたった数十分数時間の公開討論で知れることから賛同したり目の敵にしたりするのではなく、真摯論文に向き合ってからであるべきだとは思う。

たとえばチャンドラセカールはエディントンとかいうやつに嵌められて、30分の時間を用意されブラックホール存在に関する自説を発表したのだが、そのコメントとしてエディントンはセカールの言うことは戯言だみたいに言ったわけだ。その学会に集まっていたのは当時その天文物理学で最高峰頭脳を持った重鎮たちだったが、みんな戯言だという主張の方を鵜呑みにしてセカールは笑い物にされたそうだ。

まり30分程度の説明では相当賢い人でも主張の真偽は理解できない、あるいは学者であっても権威バイアスには多分に流されるものだということだろう。

今回の例における権威とは「望月の用いた手法数学的に正しいはずがない」という常識という名の権威だと思われる。常識に流されて、あるいは単に常識に反発して学者までもがああだこうだ言ってるわけである。目の前の論文に向き合えよ。

2022-12-03

大人が書くような文章、たとえばttr値が高い文章を書いたからと言って子供である可能性が排除されるわけではないが、

少なくとも望月新一のたとえばK3曲面の論文のような文章を突きつけられたら(コピペとかじゃなくまた独自論文)子供である可能性を排除せざるを得ない。

やっぱ数学科教授レベル難解な数式を使いこなすの大人特権だろう。まあ早熟天才一般的にガキと呼ばれる年齢でもそういうことができる可能性はあるかもしれないが今目の前にいる相手にその可能性を疑うだけ杞憂というものだ。

2022-09-21

数学が嫌いになる人の主な理由は二つ。

問題が解けないか

記号が何言ってんのか分からんから

後者は業が深い。巷で話題望月新一論文も英字の左上にダブルダガー、左下に無限大の添え字がついた記号が出て来るが何を意味してるのかさっぱりさ。

記号定義にあたってみても大抵その定義にも未知の記法が出てきて延々たらい回しにされるんだよね

こんなんじゃ心折れる人が続出なわけで、もっと説明が親切ならめげずに数学者として成果を出す人も多かったかもしれないのに機会損失してるかもしれないよね。

2022-08-19

いずれ望月新一という学者やIUTという理論アインシュタインやその相対性理論よりも著名で価値あるものとされてるようになったりする可能性もある?

2022-07-20

全く文化理解できないような民族がいなくて良かった

ヘルメットを上から被れるヒジャブを着用するのはOKだけどヘルメットを被れないヒジャブNGって規定

職場にあるのを知って思ったんだけど、こういう規定を作れるのもイスラムヒジャブについて

スマホちょっと調べるだけでも大体分かるからなんだよな…

もし望月新一氏のABC予想証明を読まされるかのような極めて難しい文化を持った民族がいたとして

その人達アルバイトとして採用面接するとなって「君らの文化全く理解できないから」って理由

不採用にしたら差別扱いされる可能性がある…

かといって良く分からないままに採用してしまうと職場でいつ危険な行動をするかも分からない

そんな民族がいなくて良かった

2021-09-27

ABC予想は未だ予想のままなのか

2012年京都大学数理解析研究所教授望月新一ABC予想証明したと論文を発表し、およそ8年の査読を通して2021年3月学術誌「PRIMS」上で発表された。

2017年ごろから査読が終了しABC予想証明される!とマスコミでも度々騒がれていたが、現状はどうなっているのだろうか。

結論からいえば、今現在数学会はこれを証明として認めていない。

論点1

査読が終了したのであれば証明に間違いはないのではないか

→正確にいえば、査読は終了してはいない。

基本的には査読期間に問題点や疑問点があれば、他の数学者によってその懐疑点を提言解決や訂正を重ねていく。

実際、望月氏の論文にも指摘があった。指摘を行ったのはボン大学教授ペーター・ショルツェである。ショルツェ氏は30歳でフィールズ賞を受賞した現在数学界のトップリーダーでもある。

ショルツェ氏は2018年3月望月氏のいる京都へ訪れ直接論文についての議論を行い、その上で『Why abc is still a conjecture』という評価文を発表した。

この評価文は、一言でいえば「証明根本的な所で間違っている」である

望月氏は2018年7月にこの評価文についての反論文を出しており、この両者の主張がどちらが正しかったのか、これに関して第三者が明確な判定は行っていない。

論点2

学術誌に論文掲載されたのであれば証明問題はないのではないか

学術誌に論文掲載されること自体形式的意味合いが強く、掲載証明担保とはいえない。

さらにいえばこの学術誌『PRIMS』であるが、この発行元は京都大学数理解析研究所であり、編集長望月新一本人である

他意的なことを排除しても、この掲載が正当な評価を出来ているのかは疑問が残る。

論点3

現在評価

数学界ではこの論文は「とんでも論」として、真面目に検証している数学者は皆無である

なお前述のショルツェ氏は今年7月にzbMATHにて、さら論文について再度否定的書評を公開している。

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