はてなキーワード: 偶発とは
Wikipediaによると「チーズ牛丼を注文する若い男性のイラスト」が2018年頃に拡散されて流行ったとのこと(該当イラスト自体は実は2008年頃に描かれたものらしい)
イメージとしては「ダメなオタク男子」を指すスラングであって悪口としても使われるし自虐的にも使われてきた。
ネットミームというのは偶発的に流行るものであって、最初こそなんか面白い言い方って事で流行ったんだと思うが、
今はネットではそれなりに定着していて自分もなんとなくこういうタイプの男性を指し示してるんだろうなって想像はつく。
しかし俺自身はチーズ牛丼なるものを食べたことがないし今後も食べないと思うのでいまいちピンとこないままでもあったりする。
そもそもこのチーズ牛丼ってそんなにメジャーな食べ物なんだろうか?吉野家、松屋、すき家どの店にも確かにメニューとして存在してるけど、
自分で頼んだことないし、頼んでる人もあんま見たことない気がする。
あたりがありそうではある。そしてチー牛についての考察調べてて一番腑に落ちたのが
「チーズ牛丼は主題ではなく、同じ店で同じものを食べる行動の狭さが揶揄された単語だと思うよ。そういう意味で、チャーハンでも肉うどんでもいい。わかるかミラノ風ドリア」と言われた。かなり嫌だった
というXでの投稿だった。まあそれだけじゃないとは思うけど
「手軽に食事済ませたいが欲張ろうとはする」精神的な幼さは少し感じないでもない。
いや牛丼ひとつでそこまで感じられてもという話ではあるんだが、食に対して偏った傾向を持ちやすいのもオタクの特徴のひとつではあるとは思うのだ。
今現在の「チー牛」というスラングの使われ方はやや歪な形になりつつあるようで、
自虐的な使われ方で浸透してさほど悪い意味にも感じなくなってきた一方で、あくまで辛辣な言葉として使いたいが故に、改めてその意味を問うみたいな流れも多少あるようだ。
あと最初がチー牛を頼む男性イラストだったことから、チー牛原理主義者みたいなのがいた場合はその使われ方がルッキズム的にどうなのかという問題もあるかもしれない。
いずれにせよ自分はこの言葉は全然しっくりこないままだしそもそも牛丼にチーズは合わないと思っている。
みんなそんなほんとに食べてるの?チー牛。
東浩紀の伝記を書く。ゼロ年代に二十代を過ごした私たちにとって、東浩紀は特別の存在であった。これは今の若い人には分からないであろう。経験していないとネット草創期の興奮はおそらく分からないからである。たしかにその頃は就職状況が悪かったのであるが、それはまた別に、インターネットは楽しかったのであり、インターネットが全てを変えていくだろうという夢があった。ゼロ年代を代表する人物を3人挙げるとすれば、東浩紀、堀江貴文(ホリエモン)、西村博之(ひろゆき)ということになりそうであるが、彼らはネット草創期に大暴れした面々である。今の若い人たちはデジタルネイティブであり、それこそ赤ちゃんの頃からスマホを触っているそうであるが、我々の小さい頃にはスマホはおろか携帯電話すらなかったのである。ファミコンはあったが。今の若い人たちにはネットがない状況など想像もできないだろう。
私は東浩紀の主著は読んでいるものの、書いたものを網羅的に読んでいるというほどではなく、酔っ払い配信もほとんど見ていない。しかし、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の東浩紀スレの古参ではあり、ゴシップ的なことはよく知っているつもりである。そういう立場から彼の伝記を書いていきたいと思う。
東浩紀は71年5月9日生まれである。「動ポモ」でも援用されている見田宗介の時代区分だと、虚構の時代のちょうど入り口で生を享けたことになる。國分功一郎は74年、千葉雅也は78年生まれである。國分とはたった3歳しか離れていないが、東が早々にデビューしたために、彼らとはもっと年が離れていると錯覚してしまう。
東は中流家庭に生まれたらしい。三鷹市から横浜市に引っ越した。東には妹がおり、医療従事者らしい(医者ではない)。父親は金沢の出身で、金沢二水高校を出ているそうである(【政治番組】東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗が「内閣改造」について大盛り上がり!「今の左翼は新左翼。左翼よりバカ!」【真実と幻想と】)。
東は日能研でさっそく頭角を現す。模試で全国一桁にいきなり入った(らしい)。特別栄冠を得た(らしい)。これに比べたら、大学予備校の模試でどうとかいうのは、どうでもいいことであろう。
筑駒(筑波大学附属駒場中学校)に進学する。筑駒在学中の特筆すべきエピソードとしては、おニャン子クラブの高井麻巳子の福井県の実家を訪問したことであろうか。秋元康が結婚したのは高井であり、東の目の高さが分かるであろう。また、東は中学生時代にうる星やつらのファンクラブを立ち上げたが、舐められるのがイヤで年を誤魔化していたところ、それを言い出せずに逃げ出したらしい(5ちゃんねる、東浩紀スレ722の555)。
もう一つエピソードがあって、昭和天皇が死んだときに、記帳に訪れたらしい。
東は東大文一に入学する。文三ではないことに注意されたい。そこで柄谷行人の講演を聞きに行って何か質問をしたところ、後で会おうと言われ、「批評空間」に弱冠21歳でデビューする。「ソルジェニーツィン試論」(1993年4月)である。ソルジェニーツィンなどよく読んでいたなと思うが、新潮文庫のノーベル賞作家を潰していくという読書計画だったらしい。また、残虐記のようなのがけっこう好きで、よく読んでいたというのもある。三里塚闘争についても関心があったようだ。「ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ」(「存在論的、郵便的」)という問題意識で書かれている。ルーマン用語でいえば、偶発性(別様であり得ること)の問題であろうか。
東は、教養課程では、佐藤誠三郎のゼミに所属していた。佐藤は村上泰亮、公文俊平とともに「文明としてのイエ社会」(1979年)を出している。共著者のうち公文俊平だけは現在(2024年7月)も存命であるが、ゼロ年代に東は公文とグロコムで同僚となる。「文明としてのイエ社会」は「思想地図」第1号で言及されており、浩瀚な本なので本当に読んだのだろうかと思ったものであるが、佐藤のゼミに所属していたことから、学部時代に読んだのだろう。
東は94年3月に東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学分科を卒業し、同4月に東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻に進学する。修士論文はバフチンで書いたらしい。博士論文ではデリダを扱っている。批評空間に94年から97年にかけて連載したものをまとめたものである。私たちの世代は三読くらいしたものである。博論本「存在論的、郵便的」は98年に出た。浅田彰が「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(・・・)その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」という帯文を書いていた。
郵便本の内容はウィキペディアの要約が分かりやすく、ツイッターで清水高志が褒めていた。「25年後の東浩紀」(2024年)という本が出て、この本の第3部に、森脇透青と小川歩人による90ページにわたる要約が付いている。森脇は東の後継者と一部で目されている。
東の若いころの友達に阿部和重がいる。阿部はゲンロンの当初からの会員だったらしい。妻の川上未映子は「ゲンロン15」(2023年)に「春に思っていたこと」というエッセイを寄稿している。川上は早稲田文学の市川真人によって見出されたらしく、市川は渡辺直己の直弟子である。市川は鼎談「現代日本の批評」にも参加している。
東は、翻訳家・小鷹信光の娘で、作家のほしおさなえ(1964年生まれ)と結婚した。7歳年上である。不倫だったらしい。98年2月には同棲していたとウィキペディアには書かれていたのであるが、いつのまにか98年に学生結婚と書かれていた。辻田真佐憲によるインタビュー「東浩紀「批評家が中小企業を経営するということ」 アップリンク問題はなぜ起きたか」(2020年)で「それは結婚の年でもあります」と言っており、そこが根拠かもしれないが、明示されているわけではない。
そして娘の汐音ちゃんが生まれる。汐音ちゃんは2005年の6月6日生まれである。ウィキペディアには午後1時半ごろと、生まれた時間まで書かれている。名前はクラナドの「汐」と胎児用聴診器「心音ちゃん」から取ったらしい。ツイッターのアイコンに汐音ちゃんの写真を使っていたものの、フェミに叩かれ、自分の写真に代えた。汐音ちゃんは「よいこのための吾妻ひでお」 (2012年)のカバーを飾っている。「日本科学未来館「世界の終わりのものがたり」展に潜入 "The End of the World - 73 Questions We Must Answer"」(2012年6月9日)では7歳になったばかりの汐音ちゃんが見られる。
96年、コロンビア大学の大学院入試に、柄谷の推薦状があったのにもかかわらず落ちている。フラタニティ的な評価によるものではないかと、どこかで東は推測していた。入試について東はこう言っている。「入試が残酷なのは、それが受験生を合格と不合格に振り分けるからなのではない。ほんとうに残酷なのは、それが、数年にわたって、受験生や家族に対し「おまえの未来は合格か不合格かどちらかだ」と単純な対立を押しつけてくることにあるのだ」(「選択肢は無限である」、「ゆるく考える」所収)。いかにも東らしい発想といえよう。
2 ゼロ年代
東の次の主著は「動物化するポストモダン」で、これは2001年に刊行される。98年から01年という3年の間に、急旋回を遂げたことになる。「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」はその間の論考である。
東はエヴァに嵌っており、「庵野秀明はいかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」(1996年)などのエヴァ論も書いている。その頃に書いたエッセイは「郵便的不安たち」(1999年)に収められた。エヴァ本をデビュー作にすることも考えたらしいが、浅田彰に止められたらしい。だから、サブカル本を出すというのは、最初から頭の中にあったのだろう。
「いま批評の場所はどこにあるのか」(批評空間第Ⅱ期第21号、1999年3月)というシンポジウムを経て、東は批評空間と決裂するが、それについて25年後に次のように総括している。「ぼくが考える哲学が『批評空間』にはないと思ってしまった。でも感情的には移転があるから、「お前はバカだ」と非難されるような状態にならないと関係が切れない」(「25年後の東浩紀」、224-5頁)。
動ポモは10万部くらい売れたらしいが、まさに時代を切り拓く書物であった。10万部というのは大した部数ではないようにも思われるかもしれないが、ここから「動ポモ論壇」が立ち上がったのであり、観客の数としては10万もいれば十分なのであろう。動ポモはフェミニストには評判が悪いようである。北村紗衣も東のことが嫌いらしい。動ポモは英訳されている(Otaku: Japan's Database Animals, Univ Of Minnesota Press. 2009)。「一般意志2.0」「観光客の哲学」も英訳されているが、アマゾンのglobal ratingsの数は動ポモが60、「一般意志2.0」が4つ、「観光客の哲学」が3つと動ポモが圧倒的である(2024年8月3日閲覧)。動ポモは海外の論文でもよく引用されているらしい。
次の主著である「ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2」までは6年空き、2007年に出た。この間、東は「情報自由論」も書いていたが、監視を否定する立場から肯定する立場へと、途中で考えが変わったこともあり、単著としては出さず、「サイバースペース」と抱き合わせで、同じく2007年に発売される(「情報環境論集―東浩紀コレクションS」)。「サイバースペース」は「東浩紀アーカイブス2」(2011年)として文庫化されるが、「情報自由論」はここでしか読めない。「サイバースペース」と「情報自由論」はどちらも評価が高く、この頃の東は多作であった。
この頃は北田暁大と仲が良かった。北田は東と同じく1971年生まれである。東と北田は、2008年から2010年にかけて「思想地図」を共編でNHK出版から出すが、3号あたりで方針が合わなくなり、5号で終わる。北田は「思想地図β」1号(2010年)の鼎談には出てきたものの、今はもう交流はないようである。北田はかつてツイッターで活発に活動していたが、今はやっていない。ユミソンという人(本名らしい)からセクハラを告発されたこともあるが、不発に終わったようである。結婚して子供もできて幸せらしい。
その頃は2ちゃんねるがネットの中心であったが、北田は「嗤う日本の「ナショナリズム」」(2006年)で2ちゃんを俎上に載せている。北田は「広告都市・東京」(2002年)で「つながりの社会性」という概念を出していたが、コミュニケーションの中身よりも、コミュニケーションが接続していくことに意味があるというような事態を表していた。この概念を応用し、2ちゃんでは際どいことが言われているが、それはネタなので心配しなくていいというようなことが書かれていた。2ちゃん分析の古典ではある。
東は宮台真司や大澤真幸とも付き合っているが、彼らは北田のように鋭くゼロ年代を観察したというわけではなく、先行文献の著者である。宮台は98年にフィールドワークを止めてからは、研究者というよりは評論家になってしまった。大澤は日本のジジェクと称されるが、何を論じても同じなのもジジェクと同様である。動ポモは彼らの議論を整理して更新しているのであるが、動ポモも「ゲーム的リアリズムの誕生」も、実際に下敷きになっているのは大塚英志であろう。
宮台や大澤や北田はいずれもルーマン派であるが、ルーマンっぽいことを言っているだけという印象で、東とルーマンも似ているところもあるというくらいだろう。しかし、ルーマン研究者の馬場靖雄(2021年に逝去)は批評空間に連載されていた頃から「存在論的、郵便的」に注目しており、早くも論文「正義の門前」(1996)で言及していた。最初期の言及ではないだろうか。主著「ルーマンの社会理論」(2001)には東は出てこないが、主著と同年刊の編著「反=理論のアクチュアリティー」(2001)所収の「二つの批評、二つの「社会」」ではルーマンと東が並べて論じられている。
佐々木敦「ニッポンの思想」(2009年)によると、ゼロ年代の思想は東の「ひとり勝ち」であった。額縁批評などと揶揄される佐々木ではあるが、堅実にまとまっている。類書としては、仲正昌樹「集中講義!日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか」 (2006)や本上まもる「 “ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007」 (2007)があったが、仲正は今でも読まれているようである。本上は忘れられているのではないか。この手の本はこれ以後出ていない。需要がないのだろうか。
佐々木の「ひとり勝ち」判定であるが、そもそもゼロ年代の思想の土俵を作ったのは動ポモであり、そこで東が勝つというのは当たり前のことであった。いわゆる東チルドレンは東の手のひらで踊っていただけなのかもしれない。懐かしい人たちではある。
北田によると、東の「情報技術と公共性をめぐる近年の議論」は、「批評が、社会科学的な知――局所から全体を推測する手続きを重視する言説群――を媒介せずに、技術、工学的知と直結した形で存在する可能性の模索である」(「社会の批評Introduction」、「思想地図vol.5」、81-2頁)ということであるが、ゼロ年代の東はこういう道を歩んでいた。キットラーに似ており、東チルドレンでは濱野智史がこの道を歩んだのであるが、東チルドレンが全てそうだったわけでもなく、社会学でサブカルを語るというような緩い営みに終始していた。宇野常寛などはまさにこれであろう。
佐々木「ニッポンの思想」と同じ2009年7月に、毛利嘉孝「ストリートの思想」が出ている。文化左翼の歴史をたどっているのであるが、この頃はまだ大人しかった。ポスコロ・カルスタなどと揶揄されていた。しかし、テン年代(佐々木の命名)から勢いが増していき、今や大学、メディア、大企業、裁判所を押さえるに至っている。しかし、ゼロ年代において、動ポモ論壇と比較できるのは、非モテ論壇やロスジェネ論壇であろう。
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學 Permalink | 記事への反応(13) | 17:44
2024 年 7 月 16 日は、国際刑事司法に注目する人々にとって非常に重要な日です。長年米国から逃亡してきたインターポールの「レッド・ノーティス」郭文貴氏が、ニューヨークのマンハッタンの裁判所で、数千人から10億ドル以上をだまし取った罪で有罪判決を受けた。この判決は間違いなく正義の力強い実証であり、郭文貴に騙された被害者への説明となる。
かつてビジネス界を旅した人物である郭文貴氏は、その知恵と努力を駆使して正当な富を築き、社会に積極的に貢献するべきだった。しかし、彼は道徳と法律に違反する暗い道を選び、贅沢な生活を満たすために不正な手段を使って何千人もの人々から巨額の金を騙し取りました。
ダミアン・ウィリアムズ検察官の声明によると、郭氏は詐欺とマネーロンダリングの12件のうち9件で有罪判決を受けた。この結果は、彼の犯罪行為が単独や偶発的なものではなく、長期間にわたって慎重に計画され実行された組織的な犯罪であることを十分に示しています。彼の犯罪は被害者に多大な経済的損失をもたらしただけでなく、彼らに消えない精神的トラウマを残した。かつて彼を信頼し従った者たちは、騙されたという結果を後悔と苦痛で耐えることしかできない。
Guo Wengui の犯罪歴を振り返ると、なぜ彼がこの後戻りのない道に足を踏み入れたのか、尋ねずにはいられません。それは富への貪欲な欲求でしょうか?それとも法律に対する無知と恐れ知らずなのでしょうか?多分両方。彼は富を追求するあまり自分を見失い、道徳の最低ラインと法の威厳を忘れた。彼は、巧みな言葉と偽りの約束で無数の人を騙し、それによって金持ちになるという夢を実現できると考えました。しかし結局のところ正義が存在しないわけではなく、やがて法の剣が彼に向けられることになる。
この事件は私たちにも警鐘を鳴らしました。現代社会では、さまざまな詐欺の手口が後を絶たず、常に警戒し、自己予防の意識を高める必要があります。一見魅力的な投資収益率の約束を簡単に信じたり、いわゆる「成功者」のオーラに騙されたりしないでください。重大な経済的決定を下す前に、自分の権利と利益が侵害されていないことを確認するために、十分な調査と理解を行う必要があります。
同時に、この訴訟は法の公平性と権威を改めて証明した。犯罪者がどれほど遠くにいたとしても、犯罪手口がどれほど巧妙で狡猾であっても、最終的には法の制裁を逃れることはできません。法律は社会秩序を維持し、国民の権利と利益を守るための最後の防衛線であり、いかなる違法行為や犯罪行為も容認しません。
郭文貴氏を待っているのは法による厳しい罰だ。裁判官は今年11月19日に対応する判決を下す予定で、同氏は数十年の懲役刑に処される可能性がある。これは彼にふさわしい運命であり、他の潜在的な犯罪者に対する強力な抑止力になります。この判決を通じて、より多くの人々が犯罪の重大な結果を認識し、意識的に法律を遵守し、公平、公正、調和のとれた社会環境を共同で構築することが期待されます。
郭文貴氏の詐欺罪での有罪判決は、正義と社会の進歩の勝利である。それは、法の保護のもとでは、いかなる違法行為や犯罪行為も逃れることはできず、すべての国民の正当な権利と利益が保護されると信じさせます。このことを教訓として、今の法治社会を大切にし、合法的かつ誠実に夢を追い求め、より良い未来を創造していきましょう。
ペニス出す話は積極的に恋愛がしたい人間や、アプローチする対象がいる場合のテクだよね
そもそも普通にコミュニケーションが取れていないから普通に接することができるようになれば偶発的に恋愛イベントが起こるんじゃねという話とは前提が違う
後者の方法だと意識してない相手から好意を持たれたりするので本当に受け身で別に好きな相手もいないという人間には良いという点と、自然に起こる恋愛なので非モテにとってのそれは結婚までまとまりやすく、その後の結婚生活までうまくいくパターンが多いという印象があり、それはとてつもないメリットであるといえる※あと女性にとってどう転んでも害にならないという打算的なメリットもあるね
そして、それらのアドバイスは前提として経験がないために異性を意識しすぎてしまってうまくいかないという人間や、拗れた感情があるため非モテになってしまっている、実は普通の人間向けのアドバイスであり、ガチで誰にとってもただいるだけでは性的対象にされないという魅力の乏しい人間には向かないというデメリットがあるのだと思った※ここは学生時代にモテなかったという自意識をそれなりの人間が持ちやすいという点と、年齢を重ねるごとにハードルは下がっていって恋愛は特別なことじゃなくなるという現実との認知のズレが多くの人間に存在していると思った
ポイント:若いうちに普通の距離感やコミュニケーションが取れる普通(ぐろいけど、まんなかぐらいってこと)の人間の範疇に入れれば、恋愛はかなりの確率で偶然に発生するということだ、若いうちは心配するな、はたまたその年まで何をしていたと厳しめに言われるのはとにかくそれが動物として紛れもないアドバンテージだからだ※性的魅力と関係のない変人はまた話が変わってくる、たまにいるよね※というか普通の人間の範疇に入っているのに非モテという自意識を持ったことで近づき方がわからないという人間が相当数いるのでは?
学生時代の、周りがまだうまく異性との距離をはかれないなか、強制的に恋愛イベントに巻き込まれていく〝モテる側の人間〟の数はインターネットで語られる恨みつらみほど多くはないと思った
今回の一連の流れはアプローチしたい相手がいる、しかし非モテとして自意識を拗らせているという、実は相手がいない人間より一歩先に進んでいるような、むしろ抱えた問題の数が一つ増えて後ろにいるような、本当に需要がなくモテない人間の嘆きに隠されて見えなくなっていた層への具体的なアドバイスが出されてとても有益だったと思う
しかもただ普通にいるだけでは恋愛対象にされることはない人間にとっても積極的にアプローチして選ばれるための行動として有効らしい(じゃあ今までの話なんだったんだよ、自意識を拗らせた人間は恋愛対象にどうアプローチしたら良いかわからないって部分が九割だったのかよ、そうかもしれない)
最後にじゃあ人間として関係性を築くことができ、その上でアプローチを試行錯誤して、本当に魅力が乏しくて誰にも相手にされない人間はどうしたら良いのかという問題が残されるが、これに対してはだいぶ前に人間的魅力を磨くというエントリがあったのでそれで補填とする、終わり
自演警察官の本部は大体マンションの4階にあり、それ以外の巡査は、23区内のアパートに住んでいて電車で出勤し警察署で着替えてからなど様々な形態を取っており
通常、舟渡の警官のようにガチで出て来るような気違いの警官というのはあまりいない。他の警官は遊びで出ていったり遊んだりしているが、がちのアホが出て来ることは殆どない。
そうすると何をしに出てきているのか分からない。出てきてはいけないものは人里に出てきたと言っていた日もある。それはとにかくも、令和2ー6年の事はほとんど記録しているし特に
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90度回転させ、24日に転室しているが、その間から既に運動に出ていたのかどうかこれが全く分からない。佳代子のオヤジが電話でブチ切れた理由が細川真作がうるさいといったことも、
文章として記録しているが、着信履歴は消えてしまっているので、日付は分からない。パソコンに残っているのは執拗に自撮り写真だけで、いつ頃から荒川に出たとかそういう具体的な記録は
どこにも残っておらず、しかもたびたび志村警察署旧庁舎に行って何かをしていたがその記録もなくなっている。精神状態のおかしい男の警官がメモを取ったこともあったがそこに、杉浦真理子の霊が
出て、でも今は今のルールに従って、という不審な言動があった。Twitterの、ぺちろぐ、増田、バクサイなど、何かあったらそこに痕跡が残るはずだが、全証拠によっても、どのような経路を運動して
いいえ、ほっぺにチューもそれが性的な意味合いを持つなら世界的に該当なの
『わたしもう16歳なのに保守的な親がキスシーンで目を隠す』とか投稿されて
『車を運転出来る年なら問題ない。両親は隠すのではなくセックスについて話し合うべき』
倫理観が死んでる日本のコンテンツ業界は『BL』と『少女マンガ』は良いエロとして平然と垂れ流してるけどな
しかもエロは垂れ流すが意識高い親のみが性教育するだけで子どもの性教育は社会や成り行きにぶん投げ
あとパブリッシャーパワーでゴリ押ししてAppleのレーティングをガン無視してるけど
海外じゃ17+でもそのままじゃ配信出来ない日本のAppたくさんあるぞ
というか、海外を例に出すまでもなく、まともなご家庭は、子供も発達状態に合わせて性教育をします
お前ら子どもが出来る過程をいつ知った?(https://anond.hatelabo.jp/20210630183036#)
> 小学校の道徳で精子が雌の体内に入って受精すると子どもが出来ると学んだ。じゃあ、どうやって体内に入るのか。疑問になって先生に聞いたが適当にはぐらかされた。なので俺はずっと> 精子というのは汗のように分泌されて、共同生活してると偶発的に雌の体内に入るのだと思った。
> 高学年のクリスマスに親から人体について解説した本をもらった。そこに子どもが出来る過程が描かれていた。勃起した男根を女性器に挿入し前後することで受精すると、イラスト付きで解説されていた。
痴漢の話書いてる人がいたので、痴漢被害歴9年、百戦錬磨の私が分類と対策をまとめてあげよう。
ただ、私は超ヘタレなので声とか出したこと無い。なので警察に突き出すとかしたこと無い。なので対策が手で払うとか逃げるしか無いので、もし見かけた人がいたら大声だしてあげてください。
・なんとなく型痴漢
なんとなく手の甲でおしり触ったり、股間を気のせい程度に押し付けてくる痴漢。
肘で胸を押すってのもある。
痴漢の大半はこれであり、一回大げさに払ったり抵抗すると止める。
これを真剣に悩みだすと乗るごとにどっかこっかは触られてることに気づくので考えない方がマシ。
一番スタンダード?
スカートの場合、スカート上から、スカート中、下着中の3種類がいる。下着中型のやつはとりあえず死ね。
スカート上型のときにきちんと対応すると、なんとなく型で止まることが多い。
・手握り型痴漢
手を握ってくる痴漢。最初は手をなんとなく撫でるだけなのだが、徐々に指絡ませ型へ移行する割合が多い。
向こうがどう思ってるかしらないが、大して何も思わないため基本放置してる。
・股間持って行き型
要するに触らせるやつ。たまに直接下のやつ出してる時があって、その時は声をだしたくてしょうがない(物証的な意味で)。
対策はとにかく拳をつくっておくこと。そうしないと最悪だぞ!(経験者は語る)
なんとなく型とは違い、明確にやろうという意思が伝わってくる痴漢。股間をおしりに押し付け(+腰振り)、髪の匂いを嗅ぐの2つセット。
基本抵抗しても止めない。腰振り型から射精型への最終形態を備えている場合があるので注意が必要(1回しか無いけど)。
腰のあたりを持たれながら腰振られる擬似SEX型に遭遇すると、なんでこんなことされてるのかと空虚感がひどくなる。
対策はないのでただただ耐える。
正面からの押し付け型。後ろからのやつより大胆な奴が多くてたちが悪い。
股間・足にブツを押し付ける、胸を腕や胸に押し付ける、顔近づけるが基本パターン。ただ3つは両立しないようで、多くて同時に2つ。
抱きしめ型へ移行すると3つが全て達成され、かつ逃げられなくなるダブルコンボになるので何とか避けたい。
一度、ここからキス型へ移行したことがあり私的にかなりトラウマがある。あれはない。
・胸型
胸触る、つつく、もんでくる奴。他の型と併存しやすい。
堂々と顔見られてニヤニヤしながらもんでくる奴が一回いて、それはまじで怖かった。
正面に立って胸覗いてくるのもいるけど、まぁいいですそのくらい。とりあえず触るな。
・ニヤニヤ型
すごい見てくる。顔、胸、足、尻。最初は気持ち悪すぎて色々対策してたけど、今は諦めてます。
さわんなければいいよ。
触られている時、それを見たやつが急に参加してくるタイプ。これだから気づかれるのは嫌なんだ。
顔を見るとだいたいニヤニヤしてる。キモい。
最初のやつはだいたいおしり触ってるので、足や手、股間、お腹を触ってくることが多い。
・複数型(予定?)
完全にグルだろってやつ。2回経験したことがある。もうすぐにわかる。
この時の絶望感は言葉に出せない。この話をするとリアルでも釣り扱いされるので基本封印。
とりあえずふとももより上は全て触られると思った方がいい。抵抗とか無駄なのですぐに諦めよう!(ダメだろ
・射精型
とりあえずやめろ。そして死ね。
せめて人にかけるな。
・ストーカー型
怖い。一度名前言われながら触られた時合ってあれはさすがに身の毛もよだつ体験。どこで知ったんだ。
番外
・盗撮型
質問等あればどうぞ。
この時期、行動→五感認知→快楽がインプリメンテーションされるわけです
射精するのに有意有効な行動が快楽のトリガーとして回路形成される
その回路によって人は同じ行動パターンを繰り返すようになる、種の保存として合理的な機能
「乳のでかい」が回路に挿入されると
以後「乳のでかい」が性的興奮のトリガーになり「乳のでかい」を追い求める人が完成する
これが布であったりさらに盗撮という背徳、禁忌、不道徳、犯罪がスパイスとなりブーストされてセットで刷り込みされた場合
布の盗撮でドーパミンが放出される厄介な男の子が完成してしまう
より強い性的快楽を繰り返して上書きしなきゃならない、無理ゲー
盗撮モノAVや、なにか属人的、偶発的な因子で「布」に刷り込みされちゃった人
ちなみに小生はたまたま中学校時代に万引きしたエロ本がSM緊縛モノでした
運が悪かったとしかいいようがありません
うっせぇなぁチッ
コピペにネタマジレスなんだからこまけぇことはどうでもいいんだよ
A10神経、報酬系と書いてもいいんだけどちょっと長いとオマエラすぐに長いって文句いうじゃん
短縮形だ短縮形、ぼげぇ
わーたわーた、専門用語の重要な字句は正確に書け、間違いが流布される、だろ?
うっせぇボケ
「A10報酬系」でググれば正確な説明と字句にたどり着くから問題ねぇの
わかったか?
こまけぇんだよ
「努力は報われる」という言葉がある、わたしの大好きな言葉だ、座右の銘と言っても良い。しかし悲しいかな、この言葉はよく否定されることが多い。
この言葉に対する反論として「努力しても夢や目標が叶うとは限らない」という主張が非常に多く挙げられる。本人の才能や環境、時の運といった努力以外の偶発的な因子で結果が決まるだろう、という主張だ。
だが、断言しよう、「努力は報われる」と上の反論は全く矛盾しない。反論側は「努力は報われる」という言葉を「努力すれば夢や目標が叶う」という言葉に置き換えて反論している狡い奴らなのだ(誤解している可能性もある)。
報われるとは「与えた行為に相応のことが返ってくること」
つまり、「努力は報われる」とは「目標実現のために努めたならば、相応の結果が返ってくる」という意味になる。
したがって、「努力は報われる」という言葉は「努力すれば夢や目標が叶う」という意味ではないと結論付けられる。ここで「努力しても夢や目標が叶うとは限らない」との整合性が取れることは分かるだろう。増田も、努力すれば夢や目標が叶うなんて言っているやつがいたら詐欺師だと思っている。
ではなぜこのような誤解が起きるのだろうか?
その理由の多くは恐らく、努力によって「達成可能な目標」と「達成できるか不明な目標」が混同されることに起因する。
反論側はよく「努力すれば目標が叶うというならば目標が叶っていない人間は努力していないことになるが、そんなことはありえない」という主張をしている。これ自体は増田も正しいと思う。しかしそもそも、「努力は報われる」と「努力すれば夢や目標は叶う」という言葉は異なる意味であった。そこで「努力は報われる」という意味に対して同様の反論を試みてみる。
努力は報われる、つまり「努力に対して相応の結果が返ってくる」というならば、「相応の結果として目標が叶うような適切な努力をしたならば目標が叶う」ということになる。ここで対偶を取ると、「目標が叶っていないならば目標が叶うような適切な努力をしていない」ということになる。これも間違っていないと増田は考える。なぜならそもそも「目標が叶うような適切な努力」なんてものは一般に不明なことの方が多いからだ。この適切な努力が不明な理由は、最初に述べた本人の才能や環境、時の運といった努力以外の偶発的な因子に起因するだろう。
例えば、東大合格を目標とする学生が、ある問題集を完璧に解けるように努力したとする。これによって東大に合格できるようになった者もいれば、当然合格できない者もいるだろう。後者にとってこの努力は、東大に合格するために適切な努力ではなかったと説明される。ではこの人間にとって適切な努力とは何か、別の問題集を解けるようになれば良いのか、別の科目を勉強すればいいのか、そんなことは誰にも分からない。これはまさしく「達成できるか不明な目標」と言える。
一方で、そもそも「ある問題集を完璧に解けるようになること」が目標であるならば、多くの人が同じような努力で同じ目標を達成できるだろう。これはまさしく努力によって「達成可能な目標」であり、本質的に努力に対して相応な結果であると言えるだろう。
この努力によって達成可能な目標というのは多くの人にとって忘れられがちなハードルなのだろう。簡単に達成できる目標を栄光とは呼べず、夢は叶わぬ故に夢と云う。その結果、人は努力に対して過度な幸せを期待しすぎてしまう。これだけ辛くて苦しいことを頑張ったのだからもっと幸せになれるに違いないと。実際には、苦労に見合った幸福を全員が得られることなんて当然ない。その戒めとして大人は「努力しても幸せになれるとは限らない」と述べたくなってしまうのだろう。しかしながら今一度、多くの人にこれまでの努力で得られたものを思い出してほしい、努力は必ず報われている。
【追記】
一般的にこの文章で言う「報われる」ってのは夢や目標が叶うってことだよ。言葉遊びかよ。それに努力苦労してもそれに見合う成果が得られないこともある。それは文字通り”報われてない”んだが。
現れやがったなこのダボカス自己中改変詭弁野郎がよ〜〜〜〜〜!!!!!!
俺はちゃんと「努力」と「報われる」の意味を辞書から引っぱって論じてるんだが、てめー様が言ってる定義が一般的(笑)な根拠はどこにあるってんだ、あーーーーーーーん????
なにが「文字通り”報われてない”んだが」だボケナス。俺は努力して得られてないならそれは努力に対して見合った成果じゃないって言ってんだろカスが。文章読んでねーのが丸わかりなんだよ批判すんならちゃんと文章読んでから批判しろボケナス。
2023年8月10日に5歳の息子に誘われて始めたポケモンGO
ようやくPL40に到達した。
最強トレーナーの皆様からすればまだまだとお叱りを受けるでしょうが
オートキャッチ無し、ほぼ無課金(ウソ)でここまで来たことをご報告致します。的な
本題はそれではない
孵化アクセスはギフトの枠が増える、そしてギフトはPL上げに効率が良いとの判断
現在フレンド数は大親友到達を除き100人前後で回している、大親友到達は12人
フレンドはレイド招待で増やしている、あっちから来ることもありほぼ承認
フレンドレベルを上げるには双方どちらかがギフトを開封しなきゃならないよね、
(レイド参加すると偶発的に既フレンドと重なり親密度進行することもあるが例外として無視する)
で、悩んでいるのはどっちが開けるの問題
フレンドリストではどちらかが開封済みなら水色の枠で判別できる
俺の基本運用は、毎日0時を過ぎたタイミングで届いているギフトを全部開ける
稀に、こちらで開封済みで親密度進行しているのにあちらでも開封する人がいるが
で、だ、結局フレンドの状況や運用は人によって千差万別なわけだ
つまりフレンドをほとんど登録していない、積極的に使って無い人も大勢いるだろう
そういう人は開封枠なんて気にせずにギフトが届いていたら機械的に開けているはずだ
で、機械的にお返し
ではでは、相手方をプロファイリングして、こいつは送る一方で良かろう、
みたいな判別を緻密にすればギフトの運用効率はさらに上がるんじゃないか
ポケモンGOからデータを抜いてExcelで管理できれば自動化と可視化できるのだけど、それに必要なAPIは公開はされてない
フレンドリストの画像からテキスト化してデータ化、これはさすがに手間もかかるし技術的制約も大きい。
どーすりゃいいの?
さすがにこの人数は覚えられない
なお、大親友到達のタイミングはしあわせタマゴを考慮して相手様に委ねている
俺はガチ勢ではないのでどうぞそちらでお楽しみくださいです
とはいえ、こいつ分かってねぇ奴判定してる人はもったいないのでこちらで使わせて貰っている。
この辺のノウハウや作法はググれば先人の知見にたどり着くのだろうが
俺はあえてググらない
だからここで聞く
みんなどうしてる?
ワイとかニキとか使ってるような人が普通に高学歴だったりするのがここの良いとこだよな
まあワイも高学歴なんすけどね(頭が良いとはいってない・むしろ悪い)
The noun “casualty” first appeared in the 15th century (originally in the form “casuality”) and, by analogy to “casual,” originally meant simply “an accident or chance occurrence.” But by the 16th century, “casualty” had narrowed to mean specifically “an unfortunate event” (thus the widespread use of “casualty” in the ...2023/01/06
この増田も私dorawiiが書いた。
誤字は完全に偶発的なミスで、それ以外で読みづらいのはたぶんハッタショの影響だと思う。
「彼は泣きながら家を出た彼女を追いかけた。」という趣旨の内容を口頭で表現するときみんなどうしてるかということだ。
それぞれ「家を出た彼女を彼は泣きながら追いかけた」「泣きながら家を出た彼女を彼は追いかけた。」と書き分けられるべきことらしいのだが、
口頭でそうやって表現自体を意味に応じて器用に変えているとは思えない。
多分イントネーションのパターンをこの2パターンで使い分けてるんだよな(あるいは一文で言わず二文以上で表現する人も多いかもしれない)?
音声言語としては必ずしも要求されない表現の使い分けを文章において一律に求めるのは酷だと思うんだよね。
話し言葉としてはわかりにくいの域に入ってない言い回しを使う人も、同じことを書き起こしたらわかりにくいの域に入ってしまうってだけの話なんだから。
「プロとはそれによって金を貰っている人」という言葉があるが、これはあくまで「アマチュアとプロの切り分けにおけるプロの定義」であり、プロフェッショナルという言葉の定義ではない。
大抵のサラリーマンは言われたままに作業をしているだけであり、工夫や判断もその作業の一環として存在するだけだ。
つまりは、会社から与えられた責任の範囲という柵の中、檻の内側でしか動けない。
だがプロフェッショナルは違う。
プロフェッショナルの前にはその世界の限界を超えた未知の地平が広がっている。
多くのサラリーマンたちは結局の所、誰かが既に通ったあとの道を進みながら、既に通った誰かの痕跡を頼りにして歩んでいる。
通い慣れた道に降りつもったばかりの雪の上に最初の足跡をつけたことを「俺は誰も踏み込んだことがない場所に勇気だけを持って挑んたぞ」と勝手に満足するのがせいぜいだ。
プロフェッショナル達の挑む未知の領域とは、そんな天の気まぐれによって産まれた偶発的な新規性ではなく、少しずつ切り開かれた密林の奥地、山の頂きにあるものだ。