はてなキーワード: 訳語とは
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE227KZ0S2A920C2000000/
公立高校で教師をやっている。うちの学校には外国籍の生徒が多数いて、外国籍者対象の入試がある。正直、大変なことは多い。各々日本語習得のレベルも違う子たちに教える先生達の苦労は大きいし、同様の入試制度を持つどの学校の話を聞いても、カリキュラム内外の日本語指導は十分とは言えない。本当に色んな課題とか見えない問題があって、各論で話さないといけないこと多々なんだけど、面倒なのでそれはしない。
ただ、ブコメの「日本語ができないのに高校に入れる必要はない」という意見を読んで、違和感が生じた。なぜか。
一つは単純な理由で、日本人であればどんなに勉強ができなくても、あるいはしなくても高校には入れるからだ(実際外国人も定員割れてるところは入れるけど)。外国人というだけで「日本語ができるようになってから」等と言われてしまうのはおかしい。それは差別以外の何物でもない。実際に生徒を見ていても、学習意欲のない日本人生徒よりも、日本語では劣るが学習意欲の高い外国人生徒の方が、高校という場には似つかわしいと感じるときだってある。
ただ、たしかに「高校入学のための日本語学校/試験」のような制度/体制ができれば理想的だという意見には同意する。とはいえ、その実現は遠い話のことのように思える。その間にも日本語はできないけど高校で勉強したい生徒はいなくならないんだし、とりあえずは今ある学校での日本語指導体制を整えた方がいいんじゃないか、というのが一点。
もう一つは、「まずは日本語だけ勉強しといてね」というのは意外に難しいことだからだ。当然ながら、言語は内容と結びついている。マックで働くのに必要な言語と学校の学習に必要な言語は違う。学校で教科を学びながら日本語を学ばないと、いつまでたっても学習で使う日本語は覚えられない。そして一般に、学習に必要な言語の方が習得には時間がかかると言われている。「まずは日本語を」とやってたら彼らはいい大人になってしまう。
ただ、全く日本語ができない状態だと授業どころではない。そりゃそうだ。なので、現状でも入学までに日本語学校に行くのはよくあるケースだったりする。それでも、その程度の語学力では高校での学習にはやはり不十分で、そのギャップを埋めるのは「学校で」行うのが一番効率がいい。本人の努力と周りのサポートは不可欠だが。
ちなみに、こんなニュースが出てるのは文科省が高校の日本語教育に梃入れしようとしてるからだろうと推測する。この2つ目の理由のようなことはJSLカリキュラムと言われて小中では既に実践されているところもある。高校もそれに続けというノリで、何だかなあと思う節もあるが、現実的にはこの方向性で行くしかないと思っている。
あと、最後に。ブコメを見てて「入試の枠として必要なのか」「割合を上げる必要はあるのか」という意見があったが、同程度日本語ができない外国人同士でも学力は違うので、全て底辺校や特定の学校に押し付けると生徒にとっても学校にとっても不幸なことになると思う。例えば勉強のできる子は学習に必要な概念も母語でわかるので、必要なのは主に訳語になるから日本語習得も早い。そういう子はある程度学力で学校を選べる方が有意義な教育を受けられるとは思う。
今日たまたま TERF vs TRA と呼ばれる類いの騒乱を見てしまう破目になったんだが、「トランス女性は女性です」や「SexIsReal(ジェンダークリティカル)」は現実を単純化しすぎだと思う。
まず「ジェンダークリティカル」の主張がおかしいのは、彼ら/彼女らは『「性同一性」「性自認」なんてフィクションであって、人間の性別を決めるのは「生来の性別」のみだ』みたいな考え方をしているが、DSD(性分化疾患)に起因してXXYY 遺伝子などを持つパーソンの性発達が曖昧な場合、その人物が『自分自身を「男性」として捉えるか「女性」として捉えるか』についてはその人の「性同一性」「性自認」(どっちも Gender Identity の訳語)に由来せざるを得ない。そのため「ジェンダークリティカル」と言う考え方は Sex(身体の性別)の発達が一般と違っていて、かつ性別の特徴が曖昧になっている人達に対しては通用しない。
次に「トランス女性は女性です」と言う主張が単純すぎるのは、「トランス女性」と一言で言っても「一般女性にしか見えない人達」と「性別移行途中の人で男性とも女性とも扱いづらい状態の人達」を一緒くたに扱っていると言う点で、あるトランスパーソンを「女性」として扱えるか否か、と言うのはその人々の個々の状況に依存する。そのためその辺りをまるっきり無視して「トランス女性は女性です」と言い張るのは「お前現実を見てないだろ」としか言えない。
そのため俺個人としては「あるパーソンを『社会的に』女性とか男性として扱えるか否か」と言うのは医療とかすっぽんぽんになる場合を除き、ルッキズムにはなるが「女性/男性として扱うに妥当な外見・行動をしているか」と言う点にのみ集約されると思う。なのでこの手の騒乱に感情とか嫌悪剥き出しで参戦している連中と言うのは、現実と言うのは自分の想像以上にどうしようもなく多様で複雑である、と言うのを見落していると思うんだよな。
あとこの手の TERF vs TRA みたいな話をしている連中って シモ(股間)の話をしすぎ。どっち側の人間も風呂とかトイレとかで他人の股間があーだこーだと言いまくっているが、そもそもの話として他人の股間の詮索をするって言うのは、普通にセクハラだからな?そう言うのを Twitter で垂れ流すって羞恥の感情はないのかね。自分の股間は詮索されたくないが、他人の股間の詮索はして良い、と言う考え方をしているなら単なるバカでしょ。バカは休み休み言え、とは良く言うが、まぁバカだから止められないんだろうな。尤もこの手の話を Twitter で見てしまった俺も俺でバカなんだが。
気がついたことがあって、中国語ではかなり専門的なIT用語も漢字で彼ら独自の訳語を作って使っている
インストール:安装 AWS S3とかaliyun OSSのバケット:桶 とか、
方や我が国のIT用語は英語を日本語の音素で無理やり発音したもの(いわゆるカタカナ英語)を借用しているため意味不明の呪文になってしまっている。
別に用語として定着して意味が通じればそれでいいじゃないかと思うかもしれないけど、意味不明の呪文をそのまま使わないといけないから原義へアクセスすることが不可能になっている。
例えばinstall が in + stall で ITの文脈で使われる前は「家畜を囲いの中に入れたり機械を据え付けること」を指していて、それがソフトウェアの構成ファイルを決められたファイルシステムの中の決められた場所に入れてコンピューター上で使えるようにすることを意味するようになった。
インストールをインストロールと言い間違えるおっさんがネタになったりすることがこのことの弊害を端的によく表していると思う。
日本語の「自閉症(あるいは自閉)」は英語の「Autism(オーティズム)」の訳語なのですが、この二つの言葉には、かなり語感の違いがあるように感じています。Autism はギリシャ語の「自己(autós)」が語源となっており、外部の力や操作によらず、自律的、自己完結的に動く、といった意味になります。オートマ(AT)車の「オートマティック」や、自動化を意味する「オートメーション」などに含まれる「オート」も同じ語源から来ています。この「オーティズム」が日本語に翻訳された際、自己を表す「自」に加え、外部に向かって閉じた状態を表す「閉」が加わって、「自閉」という語が当てられたようです。
https://www.musashino-higashi.org/education-center/senjumessage.htm
昨日あたりからやたらとたたかれてるけど、個人的に言葉の定義を厳密にやろうとかそういう話は大好物でどんどんやってほしい
ただ哲学の人と話していて悲しくなるのは、言葉を定義し言い換えゲームをやった後でそこから特に何もないことなんだよね
お前は翻訳機かよって言いたくなる
それも他分野へのリスペクトが足りず曖昧な訳語を作って謎の枠組みを作った後、そこから連想ゲームで別解釈を初め、その曖昧さを利用して最終的によくわからない結論を導く
いやそれお前の訳語が曖昧なせいだからwwwみたいなことを思ったことは一度や二度ではない
過去の立派な哲学者がどうなのかは知らんが、哲学ってある種の思考の体系なので、普通にどの分野をやっていても哲学っぽい話は生じるし、そこであえて「哲学」をメインにいろいろやろうっていう人が最終的に何を目指しているのかわからない。分野specificでない一般的な哲学をできるほど頭のいい人は(今の科学が発展しすぎて)全体を包括するような理論を作れないことに早々に気付いて個別分野をやっていて、それに気づけない、IQも足りてなさそうな二流の人間が小難しい言葉で煙に巻きつつなんかわめいている感じがある。私見。
https://president.jp/articles/-/52798?page=2
「自殺者の97%は精神医学的診断がつく病気」→「病気の治療をすれば自殺は防げる」という論法には著しい論理の飛躍があります。相関関係を因果関係と決めつける飛躍に加え、治療が成果を出すとは限らないという現実を完全に無視した飛躍があるのです。
もしも、張医師の言葉が正しいのであれば、早期に治療につながった人の自殺は食い止められ、治療を受けていなかった人が自殺をしているはずです。ところが、自殺した人の多くは、むしろ既に精神科で治療を受けていたことがさまざまな調査で判明しています。さらには、張医師が意図的に「病気」と表現することにも問題があります。なぜならば、それらは正確には「病気」ではないからです。
精神医学は他の身体医学と決定的に異なり、生物学的指標をもとに客観的に診断する手法は存在せず(一見すると科学的、客観的に見える光トポグラフィーなどの診断補助はあるが、定義された診断名と合致できる判定をすることなど不可能)、「病気(disease)」とは異なる“disorder”という概念を持ち出して診断名をつけることになっています。disorderは「障害」と翻訳されていますが、その訳語は不適切です。本来は正常な状態から外れているくらいの意味合いであって、「症」と訳すのが適切ではないかという議論があります。
つまり、精神医学的診断は通常の「病気」の概念とは別物なのです。無論、張医師は一般的な意味であえて「病気」という分かりやすい言葉を用いた可能性はありますが、その言葉から一般の人は、脳などに異常があって病院にかかって薬などを用いて治療すべき状態を思い浮かべるでしょう。それは誤解を与える表現です
ダイソン球(ダイソンきゅう、英: Dyson sphere)とは、恒星を卵の殻のように覆ってしまう仮説上の人工構造物。恒星の発生するエネルギーすべての利用を可能とする宇宙コロニーの究極の姿と言える。名前は高度に発展した宇宙空間の文明により実現していた可能性のあるものとしてアメリカの宇宙物理学者、フリーマン・ダイソンが提唱したことに由来する。ただし、ダイソンが考案していた元のアイデアでは恒星全てを覆ってしまうものではなかった。
日本語への定訳はなく、ダイソン球の他にも「ダイソン球殻(ダイソンきゅうかく)」や「ダイソン殻(ダイソンかく)」「ダイソン環天体(ダイソンかんてんたい)」といった訳語がある。テレビドラマ『新スタートレック』では「ダイソンの天球(ダイソンのてんきゅう)」と訳された。
スキー(とスノーボード)には「回転」「大回転」「スーパー大回転」という頭の悪そうな名前の種目がある。
それぞれ「Slalom」「Giant Slalom」「Super Giant Slalom」の訳である。
しかし「スラローム」というと、普通は「蛇行」と訳されるものではないか?
ジャンプして空中でぐるぐると回転しているところを想像してしまうのだが、
実際の競技は、立てられたポールやゲートのあいだを蛇行しながら滑り降りていく競技である。
いったい誰がこんな訳にしたのか?
遡ってみると、1923年の第一回全日本スキー選手権大会では、
「スラローム」はそのまま「スラローム」と呼ばれていたらしい。
http://www.ski-japan.or.jp/3786/
第三回以降にいったん「スラローム」は姿を消すが、
1937年の第十五回大会でアルペン競技が新設されて「滑降」「回転」「複合」が行われたという。
http://www.ski-japan.or.jp/3791/
おそらくこのあたりで「スラローム」のことを「回転」と呼ぶようになったのだろう。
その当時「スラローム」という言葉がまったく使われていなかったわけではない。
当時のスキー教本などにも「スラローム」という表記で載っている。
スラロームと云ふ言葉はノルウエー語で痕跡の輪廓を描くと云ふ意味ださうである。其の廻轉の姿勢がクリスチアニアスウイングであるとかテレマークスウイングであるとか其他種々の姿勢であると云ふ事、並びに杖の使用不使用と云うふようなことには全然無關係である。
其スラロームは右、左のスヰングを自由にやりうる人のみが描きうる曲線の美しさである。スヰングとは體の振方とスキーの角付とによつて滑降中徐々に或は急激に方向を變じ或は停止する技で、外觀上の美のみでなく實用上缺く可からざる動作である。
クリスチャニア回轉又はテレマーク回轉を連續的に行って、雪の上に大きくの字を描きながら滑り降るのを、それぞれクリスチャニア・スラローム、テレマーク・スラロームと呼ぶ。“スラローム" Slalom は恐らくノールウェイ語であらう。
注目すべきは、ここで「回転(廻轉・回轉)」と訳されているのは「スウィング」や「ターン」のほうだった、という点だ。
「ターン」を「回転」と訳すのは、バレエなどでも同じであり、それほど違和感は無いだろう。
上記の文章では、はっきりと「スラローム」と「回転」は区別されており、明らかに異なる用語として広まっていたことがわかる。
それで後から「スラローム」の訳語を「回転」と決めたとは考えづらい。
単にアルペン種目を新設するにあたって「スラローム」という横文字を嫌い、
「回転を繰り返して滑り降りる競技なんだからそのまま『回転』と呼んだほうが分かりやすくね?」
それが後に「ジャイアントスラローム」が登場してやむなく「大回転」と訳すことになり、
(「回転」がターンを表すのはまだしも「大回転」はもう違う言葉だよなあ)
さらに「スーパージャイアントスラローム」が登場するに至って
もはやパチンコの売り文句みたいにせざるを得なくなったということだろう。
また「ターン」を「回転」と呼ぶことも少なくなり、
今となっては競技名としての知名度のほうが遥かに高くなったので、
まるで「スラローム」の訳語が「回転」であるかのようになってしまった、
言っても一般人にとっては冬季オリンピックくらいでしか耳にしない単語ではあるし、
https://twitter.com/TomoMachi/status/1484766107533594624
町山氏が、引っ張ってきた「男性皆殺し協会」なる謎ワードについて、整理してみる。
大本は、ヴァレリー・ソラナスが書いた"SCUM Manifesto"なる文章。SCUMはSociety for cutting up man.直訳すれば「男を切り刻む協会」だろうか。過激なフェミニストの宣言に読めるだろう。確かに、そういう意図もある。一方で、SCUMというのはクズという意味でもある。
もし男を切り刻むことを崇高な正義であると考えて真面目に主張するなら、その団体の頭文字をクズにはしないだろう。つまるところ、これは風刺であり露悪、自虐を含むブラックジョークなのだ。
ウィキペヂアでも、この宣言は、a satire or parody(風刺あるいはパロディ)とされている、と、書いてある通りである。
もちろん、風刺、ネタなら何を言っていいというものでもない。上記文章に対するツッコミなり批判なりは当然あるだろう。その上で、この文章は1967年の文章であり、現代のフェミニストが、これをそのまま信じてるかというと、そんなこともない。書かれた当時から風刺であり、現代ではなおさら真に受けるもののいない宣言文を、今、持ってきて「喧嘩をやめて」と嘆いて見せるのは、的外れもいいところだが、そこには、どういう意味があるのだろうか?
町山氏が持ってきた「方法論的女性蔑視」は、雁林氏であり、雁林氏の誹謗中傷を巡って対立していたのが、北村氏。上記文章は、この北村氏が翻訳したものである。つまり、雁林氏の主張である「方法論的女性蔑視」と、北村氏が翻訳したにすぎない「男を切り刻む」を対立させたわけだ。
言うまでも無いが、過去の文献を訳して紹介するのは、過去のことを知るために意義があることであり、「差別的な文献を訳したから差別者だ」というのは、いいかがりも甚だしい。
ちなみに北村氏は、SCUMを「男性根絶協会」と訳している。それがなぜ「男性皆殺し協会」になったかというと、以下の記事に詳しい。
https://b8270.hateblo.jp/entry/20210327
要は、北村氏の発言を切り貼りして、北村氏が、「去勢におびえる男性陣がびびるだろうね!楽しいな!」と言っていたかのように誘導しているデマ記事である。そのデマ記事が「男性皆殺し協会」という訳語を使っていたということだ。
そうしたデマ記事由来の用語を使いつつ、北村氏の名前はあげてないから関係ない、というのが、町山氏の主張だが、非常に信じづらいし、もし本気でそう思ってるなら、誤読を招く文章であり、反省すべきだ。
https://twitter.com/tamai1961/status/1485418191333457923
風刺文のタイトルを、文字通りの意味で真に受けて、かつ、訳者がそれと同じ思想だと信じ、それによって、教員として絶対に許されない差別をすると決めつけている。
1:gueuleは顔、口という意味なのに、sale gueulesというワードのうちのgueulesが醜いという意味だと勘違いしてしまう
2:差別にあたるかどうかはデンベレ本人の内心が大事であるとして引用したツイートが発言を隣で聞いていたグリーズマンのツイート
3:フランス語通訳で7ヶ国語を操るフランス人ダバディ氏に対してフランス語の解釈でレスバして無視される
4:在仏53年の言語学博士号取得者に対してフランス語の解釈でレスバしてボッコボコにされる
5:ピュータンピュータン言っていたら読み方はピュタンだと指摘を受けて、以後ひっそりとputain表記に変える
6:スラム街出身の黒人主人公の映画、現代スラム街が舞台の映画で何度も出てくるワードだからputainは日常で使われる言葉であると反論
7:執拗に辞書を引用して反論を試みるも、早稲田大学文学部大学院教授から、文脈を無視して「辞書にこういう訳語がある」と主張してくる学生みたいと呆れられる
8:内心から差別に当たらないとかどうのこうと言ってたくせに、裁判で確定しなければ差別には当たらないとか言い出す
9:フランス人の友人に確認してみれば?というツイートを全無視
10:仏仏辞書を引っ張り出してputainにtres familierな表現として感嘆の意味があると反論するも、tres familierは「よく使われる」という意味ではなく「口語的」、即ちスラングという意味であると反論される
11:見ず知らずのフランス人のTwitterにフランス語初心者を名乗って人種差別ではなかったか質問するが、自分が欲しかった答えがもらえなかったためにお礼の返信もせずに消える。お礼を言ってないことを複数人から指摘されて4日後にようやくお礼の返信をする
12:都合の良いツイートを見つけたのでひろゆきがリツイートしたら、ひろゆきの意見に否定的な人だった
13: パリ在住の元大学教授から「ひろゆきはよほどフランス語ができないか、言われ続けて麻痺してるか、ヘイトを親しみと勘違いしている。留学したての若者にありがちなその国を選んだ自分を否定したくない認知の歪みが起きてる」と言われる
14:ラテン語さん(ラテン語歴10年、英検一級、仏検一級持ち)に、なぜ差別行為があったとされる動画内の文脈を考えずにputainという単語の多義性を強調しているのかと疑問を呈される
15:11のフランス人へのtweetで男性ホテル従業員のことを「Les japonaises」と書いてしまい、動画に映っている日本人男性三人を女性と勘違いしたか、「男の日本人」と「女の日本人」をフランス語で区別することが出来ないということが露呈する
16:11で送ったお礼の文が例文の寄せ集めとしてバカにされる
17:F爺に対して無視を決め込み、YouTube liveのF爺関連コメントも一つずつ手作業で削除する
18:東大大学院哲学科博士課程の学生から、論破がかっこいいと思ってる奴いるけど、相手の議論の弱点を突いて自分の(一時的な)優位を示す「論破的思考」よりも、 互いの議論の穴を補い合うことで、新しい洞察を共に獲得できるような「対話的思考」の方が健全だし時代に適合していると言う正論を言われる
19:7/14の配信中に日本人がピュータンの使い方で議論するのはおかしいというブーメランを放つ
20:F爺に対する無視を解除し論破に向かうも、仏大統領が貧困層への親近感アピールのためにあえて汚い言葉を使った動画を切り取ったmad動画に騙され、仏大統領が大統領選挙の場面でputainを使っているというデマをツイートしてしまう
21:20の動画で自分が優勢であると考えて、それまで某ブログ主とトーンダウンして批判していたのに、F爺と個人を特定して攻撃を再開する