はてなキーワード: 構造主義とは
文芸系(多くがラノベ)の専門学校の体験入学やオープンキャンパスに行ってきた。「専門学校 ラノベ」でググると上位に表示されるような有名な学校に3つほど。
噂には聞いていたけど、酷い。正視に耐えない。
体験入学に申し込むと、頼んでもいないのに大量のパンフが送られてくる。
そのパンフに載っている在校生の作文が酷い。あと、HPに載っているのも同様に酷い。
文法がおかしい。文章の巧拙以前に、日本語がおかしい。外国人留学生の方がよっぽどまともな文章書く。
「プロ講師がキミを指導する!」なんて宣伝してるけど、ほとんどが無名作家。
そういう自称プロ作家と話したのだけど、あの人たちまるで教養がない。
あまりにもモノを知らないから、「ラノベの角川一強は半端ないですよね」とレベル低めに話題ふると、「え!? 角川ってそんな凄いんですか?」
もう、帰っていいですか?
カリキュラムも酷い。
2年間で文章の読み書きを習う。ガチで寺子屋レベルの低級な文章作法を学ぶ。
卒業する時に長編小説を1つ書き上げるのが目標で、在学中はほとんど小説なんて書かないし、添削もされない。
というか書けない。
どの専門学校のパンフにも判で押したように“ノーパソを開いてWordで小説を書いている学生"の写真が載っている。
小説執筆経験のない人間が入学してくることがよく分かる。物書きはプレーンテキスト形式で、テキストエディタ使って書くよ。
中島らもが生前「コピーライターの養成所は筋者が経営する芸能事務所並みに胡散臭い」って言ってたけど、ラノベの専門学校にも同じことが言える。
「最低賃金制度がなくなればいいのにと思っている法人がいるなんて考えるのは陰謀論」だというブコメがあってかなり驚いた(支持はされていないけれども)。内田樹はレヴィナス哲学の権威であり、フランス現代思想、特に構造主義に精通している知的エスタブリッシュメントであることを知らずに「根拠無く対象を誹謗するために詭弁を繰り出す人」というレッテル貼りに情熱を傾ける知的劣等感の権化のような人がはてな村に多いのは残念だ。
内田老師は構造主義的知見から本質直感した事象の構造を「わかりやすい届く言葉でつたえる」ことを使命だと自覚している哲学者である。原語で読んでも難解の極地であるレヴィナスやラカンの思想を「街場」に流布するために努力している人である。
内田樹の揚げ足をとることに情熱を傾けているのが池田信夫というアジテーターである。論理的整合性と数学的裏付けだけで「諸事全般の正しさ」がわかるという妄想に取り憑かれた、知の本質が判っていない底の浅い権威主義者である。彼のロジックに好意を示す橋下徹市長が(今天下に恥をさらしているように)知的に極めて浅薄であることは現在進行形で証明されている。このことに異論がある人はいないと思う。
「ネガティブなことは言ってはいけないのか」論争に終止符を打ちたい
http://anond.hatelabo.jp/20110813021554を書いたものです。
たくさんのコメント、ブックマークありがとうございます。
もうちょっと書きたいことがあるので書きます。
ぼくらはけっこう慎重なもんで、
「○○についてどう思う?」という問いかけを目にすると
という考え方に持っていこうとする。
じっさいそれは素晴らしいことだとおもう。
なにか大きな疑問があって、それに対して必ず正解があると考えることのほうが危険なのかもしれない。
もっと優しく、賢く、謙虚になろうと思ったら、自分勝手に結論をゴリ押ししないで
あまねく人と可能な限りとことん話し合うほうがいいのかもしれない。
そういうのをなんて言う?構造主義的?
現在属している共同体の文化や価値観に従って決定することを避けられないから、
ぼくたちはとんでもない誤りを犯している可能性が常にある。
慎重に慎重を重ねても、結論を出すのに「慎重になりすぎる」ということはないのかもしれない。
しかし、ぼくはもう待てない。
というコメントを頂いた。
ぼくは長期的な幸せを望む。
間違った部分とは何か、という疑問についてはもっと考える余地があるかもしれないが、
ぼくたちはおそらくみんながみんな、
なるべく誤魔化しや、
その場しのぎでない、
恒久的、
永続的な幸せを望んでいると思う。
もしかしたら、前回の増田で例に挙げた、世界の多様性を示す例(ニューギニアやアフリカの話)は
「間違った部分」なのかもしれない。根絶すべき人間の悪性なのかもしれない。
よく考えてみてほしい。
ナチスのユダヤ人大量虐殺は「世界の多様性」と言ってしまっていいのだろうか?
9.11の同時多発テロは他人が介入すべきでない文化なのだろうか?
こういう例は枚挙にいとまがない。
うーん。そういうことにYESと言える人はあまりいないような気がする。
基本的人権というシールが、いつからか(先進国の人が考える)全ての人にへばりつくようになった。
このシールを大事にする人は、生きていい人と死んでいい人という区別があるのは認められないと言って、
慎重に慎重を重ねてものを言うなら、
「人を殺してはいけない」という価値観ですら狭い考え方でしかないかもしれないし、
「人を殺してもいいじゃん」という価値観が(先進国で)普通になっていたかもしれない。
そうじゃなくなったのは、人間の理性が悪を打ち破ったからではなくて、たまたまだという気がする。
ぼくは戦争のことなんてなにも知らないけど(体験してないのに知っていると言ってしまうのはウソである気がしてる)
「戦争はいけない」という価値観を受容して(強制されて)生きている。
そんなぼくが「戦争してもいい」という価値観を持つ人のことを理解できるわけがない。
戦争のことを知らないぼくが、戦争はいいとか悪いとか言っても説得力がないが、
少なくともぼくらは、大量虐殺はいけないと言ってもいい。テロはいけないと言ってもいい。
そう考えることしかできないと思う。
さて、間違った部分とはなにか?
ネガティブな発言を減らしていくということは、
間違った部分を正していく行為なのかもしれない。
それが長期的な幸せを作っていくのかもしれない。
ぼくが言いたいのは、
「ネガティブな発言をしてはいけない」という社会的合意が先鋭化されて、
「ネガティブな発言をやめられない人は生きていてはいけない」という主張に変わり、
実際に人が死んでいるかもしれないということだ。
もう一度言うが、ぼくは長期的な幸せを望む。
ネガティブな発言をみんながやめられるということが
少なくともぼくらの共同体では正しいことならば、そうする方が望ましい。
しかし、短期的にはその考え方のせいで人が死んでいるかもしれないということならば
話は別だ。
ぼくらは結局わかりにくいやり方で人を殺しているとおもう。
いちばん救われるべきだった弱いあの人を、ぼくらみんなが団結して殺した。
死因は自殺で、直接手を下したのはその人自身だったとしてもだ。
それはちょっと考え方が突飛すぎるだろうか?
考え過ぎだろうか?自意識過剰だろうか?
そうであるならばそれが一番いい。
ぼくひとりが間違っているのなら、それでいい。
がんばらなければいけない社会、
他人を傷つけるくらいなら自分を責める人がいて
自分が傷つくくらいなら他人を責める人もいる。
かなりの人が閉塞感を覚えているのだけど、その社会を選んだ(選ばされた)のはぼくらである。
民主主義によって、多数決でこの社会が選ばれた。少数派を殺そうという選択だ。
最近はもう少数派と呼べるほど無視できる数ではなくなっている。
弱い人が、
虐げられた人が、
ネガティブな発言をやめられない人がどんどんどんどん増えている。
その問題を優しくて、賢くて、謙虚な人たちがどうすればいいかとうんうん考え込んでいる。
「はてな民」たちはそういう人たちだと思っている。ありがたい。
しかし、あーでもないこーでもないと選択を先延ばしにしている間にも
世界は止まることがない。
つねに何かが選択されて、何かが切り捨てられていく。
切り捨てられていく中に弱い人達が含まれている。
もう待てない。
ぼくは、こんなふうに話し合っていくことが、
いつか世の中全体を変えるだろうと思っていた。
弱者を救済するための装置として、ベーシック・インカムに期待していた。
もう待てない。
長期的な幸せもいいが、まずは人を殺さないでほしい。
がんばって死ぬくらいなら、がんばらないで生きてほしい。
地面をはいつくばって生きるしかない人にとどめを刺さないでほしい。
ぼくらは死ぬために生まれたとでもいうのか?
蛇足かもしれないけど、
資本主義社会というのは、言ってみれば個人の自由を最大限尊重する社会だ。(その代わり平等ではない)
なにしろ死体になってしまうと、自分ではなにもできなくなるからね。
まあ、だから個人の自由を認める気があるなら、
資本主義を持続させようとするなら、一番避けるべきは誰かを殺すことじゃないかと思う。
それで、ぼくは「ネガティブな発言をやめろ」という言い方は誰かを殺すかもしれないと思うし、
解決するためには慎重に考えて、こうやって話し合っていくことが長期的な幸せにつながるのかもしれないけど、
考えれば考えるほどその間に人が死んでいってるかもしれないと思っているのだ。
まず「殺さない」ということだけでも、先になんとか決定できないだろうか。
ネガティブ発言を許せない誰かが狂ってでも、殺すことはやめようと言っているのだから。
その人はもしかしたら有能で、社会をより良くしてくれる救世主かもしれないが、
それでも誰かが死ぬことよりはマシだと思っているのだ。
理由は単純で、ネガティブ発言を許せない人よりも、
ネガティブ発言をやめられない人のほうがすぐ死んでしまいそうな「気がする」からだ
(どちらの側であっても心に余裕がないのかもしれないけど)。
ぼくは常に一番「死」に近そうな人の味方でありたい。
強い人は強い人で楽しんでくれたらいい。
ていうか、ぼくが殺されたくないからこんなこと書くんやけどね。
クズ人間であっても、最低限生きていることくらいは許してほしい。
すいません。言い方を変えます。
ぼくを殺さないでください。
上から目線で「あーしろこーしろ」と言いたくない。
ほんとは殺さないことが人のあるべき姿かどうかなんて、ぼくにもよくわからない。
このままのペースで世界の人が増え続ければ、間違いなくエネルギーや食糧が枯渇するから、
あんまり人は増えないほうがいいという説を読んだことがある。
死んでいく人が増えることはいいことなのかもしれない?
でもぼくは死にたくない。これ以上誰かが死ぬのも見たくない。
「ネガティブ発言」に込められているかもしれないと思ったのだ。それを奪わないでほしい。
もっと前向きな解決法があったらいいなーと思うけど、
「こんなふうにしてみようよ☆(ゝω・)v」
と言われて、
ぼくに必要なのは、一緒に泣いてくれる誰かだ。
後ろ向きなままでは前向きな方法は毒にさえなる。
まずは、死にそうな人を心穏やかにすることが先じゃないのかな。それも死ぬ前に。
これはちょっとさすがに自分でも意味がわからない。書けば書くほど冗長なだけになる。
大分話がでつくしてきたようなんですが、ここ4、5年日本の現代思想やコンテンポラリー・アートの業界にうとかったので、色々、わからないこと疑問になっていることでてきました。
無尽蔵に、彼ら的な言葉でいえば機械的に、作品(前芸術てきなものも含めた)が創造されていくネットをアートにすると。「ネット」と「アート」の分断を克服すると。
ただネットというのは結局現象ですよね。ファイン・アートの意味的に作品にはならない。
ある意味でその非・固定、永久に、automaticallyにつくりつづけられるシステムとしてのネット、を、どうしてピンで昆虫採集みたいに物理的に止めてしまうのか?そうしたらもうそれは『ネット→現象』でなくて『アート→作品(芸術としての)』への変換にすぎないんじゃないの?
いちばんよくわからないのが、東氏がいうところの、いわば郵便的可能性をネットがもっていると、そういうところを、まあアートでやると。
で、その郵便的な話をちゃんと喋れる東氏が理論的に助けててどうしてこんな単純なことに気付けなかったのか?????
素朴に疑問。
前段の疑問を百歩ゆずったとして、そもそもネットとアートを分断を克服するって?分断していたの?
このへんがよくわからない。
ふたばとかPixivが、機構としてコミュニケーションの速度と多様性を支援しているのはわかるんだけど、それってカフェや飲みや、パーティーなんかで芸術家が出会ってベラベラしゃべったり酔っぱらったり、その場でなんかやってみたりしてたのと、構造的に同じではないの?そーいう場にたまたまいた人が一緒にもりあがって、なんかになっていく感じも同じだし。創作の過程という意味では全然分断していない。
彼らは発表の機会が云々とかいっているのだろうけど、そういうカフェや飲みやで話したりドンチャンしたことが作品?Pixivではポートフォリオとして使っている人もいるけど、ポートフォリオは静的で、彼らいっているところの機械的につくりつづけられるネットの有り様ではない。
加えてもしここでいうところのアートを近代的な(ファイン・アートの伝統の延長線上にある)アートではなく、語源としてのアート、技術や創造そのものとしたら、ギャラリーとネットにある作品をわけることは始めからありえないんじゃないの????
これはどうしたいんだ??
■アーキテクチャ?
カオスラウンジ宣言に出てくるアーキテクチャという概念を東氏は引っ張っているようだけど、これってなに?
システムと力の話?ということはマルクスの疎外とフーコーの力と、構造主義・ポスト構造主義における社会への眼差しがやってきたことをまぜて焼き直しただけ?
浅田彰が「そんなことはもうやってきた」ってのはそのとおりじゃないの?
なにがしたいの?
最初はお祭り騒ぎなのかーっと自分も参加して面白かったけど、なんだか疑問ばかりになってきた…。
誰か説明してほしい…。モヤモヤ。
現在の日本の高齢者というのは、「金の卵」世代といって日本が好景気で(慢性的な人材不足で仕事も有り余っていました)何の苦労もせずに就職できた世代なんです。団塊世代という名称の方々が若者だった時代、こう呼ばれていました。
■金の卵世代: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%81%AE%E5%8D%B5
周知の通り、彼らは今では考えられないくらいのボーナスを、退職金を、年金を享受しているのです。それはもう、現在の若者達には味わえないんですよね。もちろん価値観も時代も違うでしょうから一概には言えませんが、それでも事実上、世代間の貧富差は顕著に表れているのです。
金玉世代を支えるために若者が毎年嵩む負担を課せられている現状を直視してみていただきたい。街の空き地を、自然を、外で遊ぶ場所を取り上げて、幼少期から塾に通わせ、マニュアル通りに生きて人間的な何の楽しみも味わえず恐慌に放り込まれ、自殺してゆく若者達。我々は見ていられないのです、あまりにも可愛そうだと思うのです。
自分の事しか関心が無かった金玉世代に子どものことをとやかく言える資格などないと、我々はそう思っています。テレビを受動的に40年も見て育てば、あのような親になるのもしょうがないのでしょう。思い出して下さい。「戦前」世代が何と言っていたか。戦前世代「センゴ(金玉世代)はいまに報いを受けますよ」。
戦前世代の予言通りの状態になりました。突然死、怪死、孤独死、早死、この傾向が金玉世代に現れています。良いじゃないですか、それを反面教師にして若者は育てば良いのです。嘆いていてもストレスで寿命を縮めるだけですよ。お年を召された方は特に。金玉世代はそろそろ墓石を新調し仏塔にでも参られるのがよろしいかと思います。
ご存じでしょうね、1960年代の若者に起こった全世界的な現象を。「ヒッピー」です。
■ヒッピー: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC
我々は現在の若者を「第二次ヒッピー」と推定しています。世界的な現象なんですよ、日本もそうです。1960年代の若者(現在の大人)と違って現在の若者は大麻もやらなければタバコも吸わなくなっていますよ。彼らが車に乗らず化石燃料の消費量を落としてくれている現実を一度だって鑑みたことがありますか。
これらは彼らが旧世代より聡明になりつつある証拠だと思っています。大量消費社会に翻弄され洗脳された大人を見て、社会システムに危機感を持ち、能動的就職ストライキを起こしている若者をなぜ励まさないのですか?哲学者のフリードマンやフーコーが心配していた問題を、彼らなりに解決しようとしている状況にまだ気づきませんか。
旧世代が自覚せず自己本位に生きてきた結果が今、社会に露呈しているのです。東京電力、九州電力はその良くも悪い見本でしょうね。旧世代を責める気はありません、長くはない寿命ですから大切にしていただきたい。ただ、若者自身の人生を賭けた社会運動を口だけで批難している小狡い嫌がらせは止めていただきたい。1960年代のヒッピー現象がフランスで「構造主義」を生んだことは勿論ご存じでしょうね。若者文化を語るのなら我々と同程度は学んでいるはずです。ヒッピー無くして今日の国際社会は存在し得なかったということです。国際社会の未来を切り開く第二次ヒッピーの評価について今一度再考願いたいと思います。芽を潰すのではなく、まずは、彼らの可能性と未来について、もちろん責任もあるでしょう、相互理解が大事ですよ。話はそれからです。
応援されたら頑張ってみようかと思うのが人間でしょう。
今のように「お前らなんて駄目な奴だ」なんて言われてたら、何も意欲なんか起きないでしょう。
現在の日本の高齢者というのは、「金の卵」世代といって日本が好景気で(慢性的な人材不足で仕事も有り余っていました)何の苦労もせずに就職できた世代なんです。団塊世代という名称の方々が若者だった時代、こう呼ばれていました。
■金の卵世代: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%81%AE%E5%8D%B5
周知の通り、彼らは今では考えられないくらいのボーナスを、退職金を、年金を享受しているのです。それはもう、現在の若者達には味わえないんですよね。もちろん価値観も時代も違うでしょうから一概には言えませんが、それでも事実上、世代間の貧富差は顕著に表れているのです。
金玉世代を支えるために若者が毎年嵩む負担を課せられている現状を直視してみていただきたい。街の空き地を、自然を、外で遊ぶ場所を取り上げて、幼少期から塾に通わせ、マニュアル通りに生きて人間的な何の楽しみも味わえず恐慌に放り込まれ、自殺してゆく若者達。我々は見ていられないのです、あまりにも可愛そうだと思うのです。
自分の事しか関心が無かった金玉世代に子どものことをとやかく言える資格などないと、我々はそう思っています。テレビを受動的に40年も見て育てば、あのような親になるのもしょうがないのでしょう。思い出して下さい。「戦前」世代が何と言っていたか。戦前世代「センゴ(金玉世代)はいまに報いを受けますよ」。
戦前世代の予言通りの状態になりました。突然死、怪死、孤独死、早死、この傾向が金玉世代に現れています。良いじゃないですか、それを反面教師にして若者は育てば良いのです。嘆いていてもストレスで寿命を縮めるだけですよ。お年を召された方は特に。金玉世代はそろそろ墓石を新調し仏塔にでも参られるのがよろしいかと思います。
ご存じでしょうね、1960年代の若者に起こった全世界的な現象を。「ヒッピー」です。
■ヒッピー: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC
我々は現在の若者を「第二次ヒッピー」と推定しています。世界的な現象なんですよ、日本もそうです。1960年代の若者(現在の大人)と違って現在の若者は大麻もやらなければタバコも吸わなくなっていますよ。彼らが車に乗らず化石燃料の消費量を落としてくれている現実を一度だって鑑みたことがありますか。
これらは彼らが旧世代より聡明になりつつある証拠だと思っています。大量消費社会に翻弄され洗脳された大人を見て、社会システムに危機感を持ち、能動的就職ストライキを起こしている若者をなぜ励まさないのですか?哲学者のフリードマンやフーコーが心配していた問題を、彼らなりに解決しようとしている状況にまだ気づきませんか。
旧世代が自覚せず自己本位に生きてきた結果が今、社会に露呈しているのです。東京電力、九州電力はその良くも悪い見本でしょうね。旧世代を責める気はありません、長くはない寿命ですから大切にしていただきたい。ただ、若者自身の人生を賭けた社会運動を口だけで批難している小狡い嫌がらせは止めていただきたい。1960年代のヒッピー現象がフランスで「構造主義」を生んだことは勿論ご存じでしょうね。若者文化を語るのなら我々と同程度は学んでいるはずです。ヒッピー無くして今日の国際社会は存在し得なかったということです。国際社会の未来を切り開く第二次ヒッピーの評価について今一度再考願いたいと思います。芽を潰すのではなく、まずは、彼らの可能性と未来について、もちろん責任もあるでしょう、相互理解が大事ですよ。話はそれからです。
応援されたら頑張ってみようかと思うのが人間でしょう。
今のように「お前らなんて駄目な奴だ」なんて言われてたら、何も意欲なんか起きないでしょう。
現在の日本の高齢者というのは、「金の卵」世代といって日本が好景気で(慢性的な人材不足で仕事も有り余っていました)何の苦労もせずに就職できた世代なんです。団塊世代という名称の方々が若者だった時代、こう呼ばれていました。
■金の卵世代: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%81%AE%E5%8D%B5
周知の通り、彼らは今では考えられないくらいのボーナスを、退職金を、年金を享受しているのです。それはもう、現在の若者達には味わえないんですよね。もちろん価値観も時代も違うでしょうから一概には言えませんが、それでも事実上、世代間の貧富差は顕著に表れているのです。
金玉世代を支えるために若者が毎年嵩む負担を課せられている現状を直視してみていただきたい。街の空き地を、自然を、外で遊ぶ場所を取り上げて、幼少期から塾に通わせ、マニュアル通りに生きて人間的な何の楽しみも味わえず恐慌に放り込まれ、自殺してゆく若者達。我々は見ていられないのです、あまりにも可愛そうだと思うのです。
自分の事しか関心が無かった金玉世代に子どものことをとやかく言える資格などないと、我々はそう思っています。テレビを受動的に40年も見て育てば、あのような親になるのもしょうがないのでしょう。思い出して下さい。「戦前」世代が何と言っていたか。戦前世代「センゴ(金玉世代)はいまに報いを受けますよ」。
戦前世代の予言通りの状態になりました。突然死、怪死、孤独死、早死、この傾向が金玉世代に現れています。良いじゃないですか、それを反面教師にして若者は育てば良いのです。嘆いていてもストレスで寿命を縮めるだけですよ。お年を召された方は特に。金玉世代はそろそろ墓石を新調し仏塔にでも参られるのがよろしいかと思います。
ご存じでしょうね、1960年代の若者に起こった全世界的な現象を。「ヒッピー」です。
■ヒッピー: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC
我々は現在の若者を「第二次ヒッピー」と推定しています。世界的な現象なんですよ、日本もそうです。1960年代の若者(現在の大人)と違って現在の若者は大麻もやらなければタバコも吸わなくなっていますよ。彼らが車に乗らず化石燃料の消費量を落としてくれている現実を一度だって鑑みたことがありますか。
これらは彼らが旧世代より聡明になりつつある証拠だと思っています。大量消費社会に翻弄され洗脳された大人を見て、社会システムに危機感を持ち、能動的就職ストライキを起こしている若者をなぜ励まさないのですか?哲学者のフリードマンやフーコーが心配していた問題を、彼らなりに解決しようとしている状況にまだ気づきませんか。
旧世代が自覚せず自己本位に生きてきた結果が今、社会に露呈しているのです。東京電力、九州電力はその良くも悪い見本でしょうね。旧世代を責める気はありません、長くはない寿命ですから大切にしていただきたい。ただ、若者自身の人生を賭けた社会運動を口だけで批難している小狡い嫌がらせは止めていただきたい。1960年代のヒッピー現象がフランスで「構造主義」を生んだことは勿論ご存じでしょうね。若者文化を語るのなら我々と同程度は学んでいるはずです。ヒッピー無くして今日の国際社会は存在し得なかったということです。国際社会の未来を切り開く第二次ヒッピーの評価について今一度再考願いたいと思います。芽を潰すのではなく、まずは、彼らの可能性と未来について、もちろん責任もあるでしょう、相互理解が大事ですよ。話はそれからです。
応援されたら頑張ってみようかと思うのが人間でしょう。
今のように「お前らなんて駄目な奴だ」なんて言われてたら、何も意欲なんか起きないでしょう。
現在の日本の高齢者というのは、「金の卵」世代といって日本が好景気で(慢性的な人材不足で仕事も有り余っていました)何の苦労もせずに就職できた世代なんです。団塊世代という名称の方々が若者だった時代、こう呼ばれていました。
■金の卵世代: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%81%AE%E5%8D%B5
周知の通り、彼らは今では考えられないくらいのボーナスを、退職金を、年金を享受しているのです。それはもう、現在の若者達には味わえないんですよね。もちろん価値観も時代も違うでしょうから一概には言えませんが、それでも事実上、世代間の貧富差は顕著に表れているのです。
金玉世代を支えるために若者が毎年嵩む負担を課せられている現状を直視してみていただきたい。街の空き地を、自然を、外で遊ぶ場所を取り上げて、幼少期から塾に通わせ、マニュアル通りに生きて人間的な何の楽しみも味わえず恐慌に放り込まれ、自殺してゆく若者達。我々は見ていられないのです、あまりにも可愛そうだと思うのです。
自分の事しか関心が無かった金玉世代に子どものことをとやかく言える資格などないと、我々はそう思っています。テレビを受動的に40年も見て育てば、あのような親になるのもしょうがないのでしょう。思い出して下さい。「戦前」世代が何と言っていたか。戦前世代「センゴ(金玉世代)はいまに報いを受けますよ」。
戦前世代の予言通りの状態になりました。突然死、怪死、孤独死、早死、この傾向が金玉世代に現れています。良いじゃないですか、それを反面教師にして若者は育てば良いのです。嘆いていてもストレスで寿命を縮めるだけですよ。お年を召された方は特に。金玉世代はそろそろ墓石を新調し仏塔にでも参られるのがよろしいかと思います。
ご存じでしょうね、1960年代の若者に起こった全世界的な現象を。「ヒッピー」です。
■ヒッピー: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC
我々は現在の若者を「第二次ヒッピー」と推定しています。世界的な現象なんですよ、日本もそうです。1960年代の若者(現在の大人)と違って現在の若者は大麻もやらなければタバコも吸わなくなっていますよ。彼らが車に乗らず化石燃料の消費量を落としてくれている現実を一度だって鑑みたことがありますか。
これらは彼らが旧世代より聡明になりつつある証拠だと思っています。大量消費社会に翻弄され洗脳された大人を見て、社会システムに危機感を持ち、能動的就職ストライキを起こしている若者をなぜ励まさないのですか?哲学者のフリードマンやフーコーが心配していた問題を、彼らなりに解決しようとしている状況にまだ気づきませんか。
旧世代が自覚せず自己本位に生きてきた結果が今、社会に露呈しているのです。東京電力、九州電力はその良くも悪い見本でしょうね。旧世代を責める気はありません、長くはない寿命ですから大切にしていただきたい。ただ、若者自身の人生を賭けた社会運動を口だけで批難している小狡い嫌がらせは止めていただきたい。1960年代のヒッピー現象がフランスで「構造主義」を生んだことは勿論ご存じでしょうね。若者文化を語るのなら我々と同程度は学んでいるはずです。ヒッピー無くして今日の国際社会は存在し得なかったということです。国際社会の未来を切り開く第二次ヒッピーの評価について今一度再考願いたいと思います。芽を潰すのではなく、まずは、彼らの可能性と未来について、もちろん責任もあるでしょう、相互理解が大事ですよ。話はそれからです。
応援されたら頑張ってみようかと思うのが人間でしょう。
今のように「お前らなんて駄目な奴だ」なんて言われてたら、何も意欲なんか起きないでしょう。
現在の日本の高齢者というのは、「金の卵」世代といって日本が好景気で(慢性的な人材不足で仕事も有り余っていました)何の苦労もせずに就職できた世代なんです。団塊世代という名称の方々が若者だった時代、こう呼ばれていました。
■金の卵世代: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%81%AE%E5%8D%B5
周知の通り、彼らは今では考えられないくらいのボーナスを、退職金を、年金を享受しているのです。それはもう、現在の若者達には味わえないんですよね。もちろん価値観も時代も違うでしょうから一概には言えませんが、それでも事実上、世代間の貧富差は顕著に表れているのです。
金玉世代を支えるために若者が毎年嵩む負担を課せられている現状を直視してみていただきたい。街の空き地を、自然を、外で遊ぶ場所を取り上げて、幼少期から塾に通わせ、マニュアル通りに生きて人間的な何の楽しみも味わえず恐慌に放り込まれ、自殺してゆく若者達。我々は見ていられないのです、あまりにも可愛そうだと思うのです。
自分の事しか関心が無かった金玉世代に子どものことをとやかく言える資格などないと、我々はそう思っています。テレビを受動的に40年も見て育てば、あのような親になるのもしょうがないのでしょう。思い出して下さい。「戦前」世代が何と言っていたか。戦前世代「センゴ(金玉世代)はいまに報いを受けますよ」。
戦前世代の予言通りの状態になりました。突然死、怪死、孤独死、早死、この傾向が金玉世代に現れています。良いじゃないですか、それを反面教師にして若者は育てば良いのです。嘆いていてもストレスで寿命を縮めるだけですよ。お年を召された方は特に。金玉世代はそろそろ墓石を新調し仏塔にでも参られるのがよろしいかと思います。
ご存じでしょうね、1960年代の若者に起こった全世界的な現象を。「ヒッピー」です。
■ヒッピー: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC
我々は現在の若者を「第二次ヒッピー」と推定しています。世界的な現象なんですよ、日本もそうです。1960年代の若者(現在の大人)と違って現在の若者は大麻もやらなければタバコも吸わなくなっていますよ。彼らが車に乗らず化石燃料の消費量を落としてくれている現実を一度だって鑑みたことがありますか。
これらは彼らが旧世代より聡明になりつつある証拠だと思っています。大量消費社会に翻弄され洗脳された大人を見て、社会システムに危機感を持ち、能動的就職ストライキを起こしている若者をなぜ励まさないのですか?哲学者のフリードマンやフーコーが心配していた問題を、彼らなりに解決しようとしている状況にまだ気づきませんか。
旧世代が自覚せず自己本位に生きてきた結果が今、社会に露呈しているのです。東京電力、九州電力はその良くも悪い見本でしょうね。旧世代を責める気はありません、長くはない寿命ですから大切にしていただきたい。ただ、若者自身の人生を賭けた社会運動を口だけで批難している小狡い嫌がらせは止めていただきたい。1960年代のヒッピー現象がフランスで「構造主義」を生んだことは勿論ご存じでしょうね。若者文化を語るのなら我々と同程度は学んでいるはずです。ヒッピー無くして今日の国際社会は存在し得なかったということです。国際社会の未来を切り開く第二次ヒッピーの評価について今一度再考願いたいと思います。芽を潰すのではなく、まずは、彼らの可能性と未来について、もちろん責任もあるでしょう、相互理解が大事ですよ。話はそれからです。
応援されたら頑張ってみようかと思うのが人間でしょう。
今のように「お前らなんて駄目な奴だ」なんて言われてたら、何も意欲なんか起きないでしょう。
現在の日本の高齢者というのは、「金の卵」世代といって日本が好景気で(慢性的な人材不足で仕事も有り余っていました)何の苦労もせずに就職できた世代なんです。団塊世代という名称の方々が若者だった時代、こう呼ばれていました。
■金の卵世代: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%81%AE%E5%8D%B5
周知の通り、彼らは今では考えられないくらいのボーナスを、退職金を、年金を享受しているのです。それはもう、現在の若者達には味わえないんですよね。もちろん価値観も時代も違うでしょうから一概には言えませんが、それでも事実上、世代間の貧富差は顕著に表れているのです。
金玉世代を支えるために若者が毎年嵩む負担を課せられている現状を直視してみていただきたい。街の空き地を、自然を、外で遊ぶ場所を取り上げて、幼少期から塾に通わせ、マニュアル通りに生きて人間的な何の楽しみも味わえず恐慌に放り込まれ、自殺してゆく若者達。我々は見ていられないのです、あまりにも可愛そうだと思うのです。
自分の事しか関心が無かった金玉世代に子どものことをとやかく言える資格などないと、我々はそう思っています。テレビを受動的に40年も見て育てば、あのような親になるのもしょうがないのでしょう。思い出して下さい。「戦前」世代が何と言っていたか。戦前世代「センゴ(金玉世代)はいまに報いを受けますよ」。
戦前世代の予言通りの状態になりました。突然死、怪死、孤独死、早死、この傾向が金玉世代に現れています。良いじゃないですか、それを反面教師にして若者は育てば良いのです。嘆いていてもストレスで寿命を縮めるだけですよ。お年を召された方は特に。金玉世代はそろそろ墓石を新調し仏塔にでも参られるのがよろしいかと思います。
ご存じでしょうね、1960年代の若者に起こった全世界的な現象を。「ヒッピー」です。
■ヒッピー: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC
我々は現在の若者を「第二次ヒッピー」と推定しています。世界的な現象なんですよ、日本もそうです。1960年代の若者(現在の大人)と違って現在の若者は大麻もやらなければタバコも吸わなくなっていますよ。彼らが車に乗らず化石燃料の消費量を落としてくれている現実を一度だって鑑みたことがありますか。
これらは彼らが旧世代より聡明になりつつある証拠だと思っています。大量消費社会に翻弄され洗脳された大人を見て、社会システムに危機感を持ち、能動的就職ストライキを起こしている若者をなぜ励まさないのですか?哲学者のフリードマンやフーコーが心配していた問題を、彼らなりに解決しようとしている状況にまだ気づきませんか。
旧世代が自覚せず自己本位に生きてきた結果が今、社会に露呈しているのです。東京電力、九州電力はその良くも悪い見本でしょうね。旧世代を責める気はありません、長くはない寿命ですから大切にしていただきたい。ただ、若者自身の人生を賭けた社会運動を口だけで批難している小狡い嫌がらせは止めていただきたい。1960年代のヒッピー現象がフランスで「構造主義」を生んだことは勿論ご存じでしょうね。若者文化を語るのなら我々と同程度は学んでいるはずです。ヒッピー無くして今日の国際社会は存在し得なかったということです。国際社会の未来を切り開く第二次ヒッピーの評価について今一度再考願いたいと思います。芽を潰すのではなく、まずは、彼らの可能性と未来について、もちろん責任もあるでしょう、相互理解が大事ですよ。話はそれからです。
応援されたら頑張ってみようかと思うのが人間でしょう。
今のように「お前らなんて駄目な奴だ」なんて言われてたら、何も意欲なんか起きないでしょう。
元ネタ:モテる女子力を磨くための4つの心得 http://youpouch.com/2011/04/26/162331/
こんにちは、現代思想系文芸批評を専攻しているエス嬢です。私は形式論理も自然科学も分かりませんし知の欺瞞ですが、現代思想に関してはファッショナブル。今回は、モテる現代思想系女子力を磨くための4つの心得を皆さんにお教えしたいと思います。
あえて2~3世代前の人間観を持つようにしましょう。そして飲み会の場で好みの男がいたら話しかけ、わざとらしく主体を過剰に根拠化してみましょう。そして「あ~ん!この主体本当にマジでチョームカつくんですけどぉぉお~!」と言って、男に「どうしたの?」と言わせましょう。言わせたらもう大成功。「主体性とか詳しくなくてぇ~! ずっとコギト信じてるんですけどぉ~! 自律してるんですぅ~! ぷんぷくり~ん(怒)」と言いましょう。だいたいの男は生=政治を批判したがる習性があるので、古かったとしても構造主義的な人間観を持っているはずです。
そこで男が「近代的人間主義の客体化しないの?」と言ってくるはず(言ってこない実直な実証研究系の男はその時点でガン無視OK)。そう言われたらあなたは「なんかなんかぁ~! 最近アガンベンが人気なんでしょー!? あれってどうなんですかぁ? 本質としての主体欲しいんですけどわかんなぁぁああい!! 私かわいそーなモダニスト★」と返します。すると男は「潜在性としての実存でしょ? 例外状態に集約されない共同体はまだ到来してないよ。本当に良くわからないみたいだね。どんな<主体>幻想が欲しいの?」という話になって、次の休みの日にふたりでデカルト以降的人間観の脱構築に行けるというわけです。あなたの女子力が高ければ、男が文学における作者の死も宣言してくれるかも!?
「人間理性の限界」とか「理系コンプレックス」などを表現する「不完全性定理」をテクスト批評に入れると、男性ポストモダニストは「なんかこの子アカデミズムに回収されないなぁ」や「対象aかも」と思ってくれます。現代思想上では数学基礎論のイメージだけが都合よく曲解されて相手に伝わるので 「不完全性定理」 を多用することによって、男性はあなたをポストモダニストらしいと勘違いしてくれるのです。そういうキャラクターにするとほぼ絶対に自然科学者・数学者・論理学者・分析系哲学者に嫌われますが気にしないようにしましょう。
3. とりあえず男には「えー! なにそれ!? 知りたい知りたーい♪」と言っておく
飲み会などで男が女性に話すことといえばポストコロニアリズムやフェミニズムの話ばかり。よって、女性にとってどうでもいい話ばかりです。でもそこで適当に「へぇーそうなんですかぁ~?」とか「よくわかんないですけどすごいんですねぇ」と返してしまうと、さすがの男も「この女伝統的な古典文学研究志向だな」と気がついてしまいます。学究の徒だとバレたら終わりです。そこは無意味にテンションをあげて、「えー! なにそれ!? 知りたい知りたーい♪」と言っておくのが正解。たとえ興味がない話題でも、テンションと積極性でその場を乗り切りましょう。積極的に話を聞いてくれる女性に男は弱いのです。
いろいろと話を聞いたあと、「脱構築は正義で、テクストの外には何も無いんですね! 覚えたぞぉ! エクリチュールでメモメモ!」とコメントすれば常にあらかじめ差延が発生。続けて頭に指をさしてくるくる回しつつ「デコンデコンデコン! デコンデコンデコン!」と言って、「どうしたの?」と男に言わせるのもアリ。そこで「私のロゴス中心主義をデコンストリュクシオンしているのでありますっ☆」と言えば女子力アップ! そこでまた男は「この子脱構築そのものをも脱構築し続ける運動を動的に受容してるのかも!?」と思ってくれます。私は形式論理も自然科学も分かりませんし知の欺瞞ですが、こういうテクニックを使えば知識を持たない私のようなバカ女のほうがモテたりするのです。男は優越感に浸りたいですからね。
4. レストランではレディースセットを食べられない娘をアピールせよ
男とレストランに入ったら、真っ先にレディースセットなどの女性限定のメニューを探して「あーん! 私これ食べられないんですよねぇ~(悲)」と言いましょう。するとほぼ100パーセント「どうして? 嫌いなの?」と聞かれるので、「嫌いじゃないし食べたいけど食べられないんですっ><」と返答しましょう。ここでまた100パーセント「嫌いじゃないのにどうして食べられないの?」と聞かれるので、うつむいて3~5秒ほど間をおいてからボソッとこう言います。「……だって、……だって、セクシャルマイノリティを排除するマッチョの論理じゃないですかぁっ! LGBTかわいそうですぅ! ジェンダーは社会的に構成されるのにぃぃ~(悲)。わたし実は男の娘なんですよ……」と身を震わせて言うのです。
その瞬間、あなたの女子力がアップします。きっと男は「なんて優しい天使のようなコなんだろう! 絶対にゲットしてやるぞ! コイツは俺の男の娘だ!」と心のなかで誓い、あなたに惚れ込むはずです。意中の男と付き合うことになったら、そんなことは忘れて好きなだけレディースセットを食べて大丈夫です。「食べられないんじゃなかったっけ?」と言われたら「大丈夫になった」とか「差別の暴露がむしろ差別を固定化/再生産する」、「男の娘はネット上では既に市民権を得た」と言っておけばOKです。
関係各分野の皆さんごめんなさい
「例外状態を実現する共同体はまだ到来してないよ」はおかしいのでは、という指摘がtwitterでありました。
そこで取り扱う「文法的な正しさ」というのは、矛盾なく日本語を構築できる体系を目指そうというものであって、「正しい文法と間違った文法」を振り分けるものではないでしょ?
いや、だとしたらそれは構造―構築主義者たちの学問で、「国語学」ではなく構造主義以降の範疇に入りますよ。
それは普通に「言語学」にも通じる、ネオ~系の学問。まぁ、その考え方は構造主義以後にプラグマティズム的な発想をした
研究者達のものでしょう。エスペラント語と発想は同じ。ごく普通の言語研究でしょ。
でも、「国語学」と敢えて名乗るならそれは当然そういうものではなく。
敢えて、『正しい国語』を追い求める学派なんですよ。だから、国語学(≠日本語学)で扱う文法には「正誤」がある。
あれは自国言語におけるキャノンを問題にする学問だから。何度も言うけど、神学なんですよ一種の。
これは文学研究にも言えて、「国文学研究」って言うのは未だに「作品に込められた意味」を探る意味論的批評をやるんですよ。
もちろん、彼ら自身もそれが時代遅れの学問であることはわかっている。しかし、「国家」というイデオロギーが有効に機能している
以上、それは必要とされている。だから存在するジャンルが、国語学であり国文学研究なんですよ。
「文学研究」や「言語学研究」と名乗れば済むところをさらに細分化しているのはそういう理由からです。
別に、研究者自身の思想が「保守」であるとは限りませんが、存在は完璧に「保守」ですよ。
いや、教育と分離した「国語学」なんて存在し得ないんですって。
例えば「文法」ってのも国語学では扱うけれど、言語学において「文法的に間違ってる」って言葉はありえないんですよ。
ところが、国語学っていうのは「文法的な正しさ」、文学・文法・言語における「聖典」を構築する学派なんですよ。
いわゆる、モダンからポストモダンの移行期に「文学」と言われるジャンルが分派して
保守層が国語学へ移行していった。国語学には教育分野からの要請が強くあるからね。正しい日本語がなければ日本語教育は出来ない。
だから、国文学っていうのは教育・アカデミズムなしでは存在し得ないジャンルだし、保守こそが存在意義。
それなしで存在している国文学があったら、それは「国文学」ではないです。単なる文学研究です。
そういう学問だから「国文学」とジャンル分けされてるわけで。増田さんのおっしゃるとおりであれば、ジャンルわけいらないでしょ?
国語学・国文学と言語学・文学の関係は、神学と宗教学、考古学と文化人類学のそれなんですよ。
ほんと、いい加減なこと言うなぁ・・・。
ちなみに、「日本語学」は「言語学として日本語に特化した領域を取り扱う」という意味を指す場合もあります。
「国語学」は国の言葉を正しく構築する(ポストモダンの現代では「理解する」といった語彙は使われません)学問です。
昔、ソシュール辺りの構造主義ショックがあったころ学者さんたちが散々大喧嘩して決めた住み分けですよ。
イデオロギーであることを自覚しながら必要に迫られて存在するのが国語学。イデオロギーから抜け出すことを志向したのが言語学。
これ重要。
んっとねー、俺の考えていたのは、「わいせつであれば表現の自由は規制されてよい、なぜならわいせつとはこれこれこういうもので表現の自由より保障されるべきだ」という論を立てられないか、ということだった。
俺の見た論はことごとく「なぜならわいせつとはこれこれこういうもので表現の自由より保障されるべきだ」を説明しなかった。「そんなの当たり前じゃん」で済ませてきた。そのたびに俺は「それじゃ馬鹿じゃん」と思ってきた。
フィーリングとしてはそういいたくなる気持ちは(言語化できないレベルで)分からなくはないが、理論化できないと、立法のレベルではともかく、法学と司法のレベルでは駄目だろう、と。
セクシュアリティを思想・良心の自由にしていいのか迷うが、たとえ他者に働きかける類の能力であっても、それが外面化しない限り、やはり思想・良心の自由の発展系と言うべきか。ならそれでいいです。
プライバシーはねー、構造主義の立場からは「そんな私秘的領域なんてものは実存主義臭すぎる」と言えるのかも知れないけど、やっぱ今も古典的/積極的プライバシー論とか、まだ考えるに値すると思うのよね。
名誉毀損がプライバシーかというと、他人からの評判という概念も入ってくるから違うけど、そっちでも当たってみるか。
ありがとうね。少し頭の方向性が定まった。
つまり、「ヤベェ性癖持った奴も、コッソリその性癖を持ち続ける自由がある」みたいな意味?
誰かに自分の性癖がバレたとしても、「あいつはアナルオナニーするぞー」と触れ回られない自由ってことか。
えーと、それって結局普通の法の範疇じゃないか?「内心の自由」だと思うわ。
その領域に辛うじて近い思想家といえば、ジュディス・バトラーかなぁと思うけど。
あれは「世界の色んなセクシャリティのみんな!自分で「変態」(クィア)という称号を名乗ることで
「変態」(クィア)の意味を無効化しちゃおうぜ!みんなクィアなのさ!」
って理論だし、そもそも性癖のようなものが内心の範疇っていうのは現代法ではむしろ常識の範囲だろうし。
その部分を今更理論付けてる思想家って、ちょっといないと思うなぁ。
そもそも、「プライバシー」って感覚が構造主義以降の思想とはあんまり馴染まないし。
むしろ、「内容が事実であっても名誉毀損が成立する」っていう辺りの普通の判例引っ張った方がいい気がする。
柳美里の判例は、「セクシャリティ」が表現の自由を打ち破ったわけじゃないしね。それはあんまり関係ない。
他人の話をそれが誰か特定できる形で出版して訴えられたら、そりゃ負けるよ。しっかし、柳美里はキチガイ過ぎてどうしようもない。
本は月10冊くらい読む。(もちろん漫画は含まない。好きな作家は、ありがちだけど村上春樹)
残念ながら東大行くような天才ではないが、まあバカではないと自分では思っている。
しかし、ちょっと興味ある分野のコミュニティを覗いてみると、みんなものすごいペースで難解な本を読んでいる。
インターネットで公開された「読んだ本リスト」を見ると、「カントの純粋理性のなんちゃら」「ポスト構造主義のなんちゃら」って本が、2、3日に1冊の勢いで追加されていく。
ツイッターでは、「今日はヘーゲルを読んだけど、この概念って誰の何に似てるよね」といった呟きや議論が毎日のように投稿されている。
自分も興味持って、哲学の本を買ってはみたものの、1カ月かけてやっと「なんとなーく」分かった程度だった。
原著の翻訳なんて、最初の1文からしてもう意味が分からないこともある。
「みんな最低限このくらい読んでるべきだよね?」的な名著が少なく見積もっても100冊はあるみたいだが、1カ月に1冊ペースで読んでも8年かかる。きっと8年の間には、また読むべき本が増えているだろうから、一生追いつかないのが目に見えている。
実は俺はものすごいバカだったんじゃないか、と不安だ。
あんな難しい本を2、3日で読めてしまうのが普通なのか?
それとも、ざっと見てなんとなく全体が分かって、興味ある章を拾い読みする程度だったりするのか? それなら俺も頑張れば3日で出来るかもしれないが、そんな適当な読み方で、身のある知識になるとは思えない。
実際みんな、どの程度理解しているんだろう?
やっぱり俺がバカなだけなのかな?
論理学にはあまり詳しくないのでなんなのですが、以下のあたりをどうぞ。
->ある事実が真理であることはそのシステム内部では証明できない
ある意味究極の定理です。厳密に証明されていますので数学として「定理」と呼ばれます。まずは「ゲーデルの不完全性定理」で調べて頂ければ資料は大量に出てきます。数学すら穴があることを証明してしまった恐ろしい定理です。
->記号論からイデオロギーが固定された意味を持たない無意味なものと論証
まずは「(ポスト)構造主義」「ソシュール」なんかを調べてから「バルト」を引いてください。「正義」の体系とも言えるイデオロギーが記号論的には無意味な戯言と等価になってしまいました。
「ファイヤーベント」の方法論虚無主義
->合理主義と非合理主義に差異はない、など「何でもあり」を唱えています。証明とは言えませんが、現代思想がどんなものか知るにはいいでしょう。科学の方法論すら恣意性の塊で何ら特権的な方法ではないことになってしまいました。
1970年代に盛んになった脱構築と言われるムーブメントは、画一的構造主義を排し、相対化という理念の元に個性の尊重をもたらした。
1990年以降に急速に発展を遂げたインターネットも、個性の居場所を与えた。
このように見ると、戦後の日本、戦後の世界は、個性の尊重を実現してきた歴史と言うこともできる。
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個性の尊重というと、無条件に素晴らしいことであると錯覚しがちだが、負の側面もあることを忘れてはならない。
例えば、個性を尊重した社会であるためには、人々がより沢山の価値観や文化を学ぶ必要が出てくる。
また、個性の尊重のために、それぞれの人間に適した環境を与える必要があって、実現の困難さに直面することにもなる。
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だが、何よりも心配すべきなのは、個性を尊重すればするほど全体の統制が困難になるということだろう。
価値観の共生というと聞こえは良いが、現実的に考えれば、先に触れたような個々人が行うべき学習や社会が用意すべき環境の必要性が爆発的に高まるという問題がある。
だから、いくら人々が個性を重んじる精神を持っていても、構造的に個性の衝突は避けられなくなってくることは事実なのである。
個性の衝突が発生すれば、当然のことながら全体の統制は困難となる。
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それだけではない。たとえ、個性の衝突があまり無かったとしても、それでも全体の統制が極めてとりにくくなるという点を見落としてはならない。
なぜか?それは、全体を統制しようとした時に、個性からの反発が生まれてくるからである。
というのも、個性の尊重は、相互不可侵の上に成り立つものである。なのに、全体の統制というのは、往々にして個性を侵害してしまう。
だから、個性からの反発が生まれてきて、全体としての身動きが取りにくくなるのである。
しかも、個性が多様になればなるほど、「当たり前」は通用しなくなり、ちょっとした事でも反発が生じてしまう。
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言うまでもなく、全体の統制は、全ての個性または多くの個性にとって有意味であるからそうするのである。
したがって、もし全体の統制が出来なくなったら、個性の発展が停止することになる。非常に恐ろしいことだ。
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今生まれ来る子供達は、これまでの人類史にないくらい多様な個性を身につけ「させられ」ようとしている。
個性の尊重とは名ばかりで、実際には用意された多様な個性の中からどれかを選ばないと社会生活しにくいのが実態だ。
そして、選んだ個性によって行動が規定され、他の個性を攻撃したり、全体の統制に反発したりするようになる。
みんながそういうふうに個性の尊重のために攻撃・反発することで、皮肉にも、互いが互いを縛りあって個性が抑制される結果になる。
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まーそーです。でも我々の場合、民主主義っつっても立憲民主主義なので、憲法の部分でなんか粘らないと、本当にダメな民主主義になってしまいます。
構造主義は内田樹の解説本くらいしか知らないんですよね。構造と(差異で一個一個区別される)要素は一体で切り離せないということと、「作者がどう思ってるかではなく、どう読者に読まれるかが重要だ」という理解しか持ってないのです。
私が読んだことのある哲学者といったらベンサムとミル(功利主義系)とカントとヘーゲル(ドイツ観念論系)とフッサールとハイデガーとレヴィナス(現象学系)で、構造主義とはつながってないんですね。済みません。(そういやこの前大学の頃の『全体性と無限』のメモ書きをはてなダイアリーに要約しました。大変でした)
構造主義に批判されている実存主義もよく分からない世界です。(wikipediaにはハイデガーには実存主義に大きな影響を与えたと書いてあるが、現存在のくだりだろうか)
僕は法の人ではなく、テクスト論の人でこの分野に関しては専門じゃないから
すごーくいい加減な理解でなんか書かせてもらいます、ごめんなさい。
ただ、戦略としては「ブン殴られる」とか「殺される」とか「奪われる」のような
「客観的危害」(だれがどー見ても危害加えてますよね?)というようなものに「危害」を留めず
「主観的危害」(見てるだけで不快だ、チンコ出すんじゃねえ!)に拡張する論調がメインじゃなかろーか。
これが行き過ぎた例が楳図かずお自宅騒動で、「不快原理」なんて言葉が使われたりもする。
「わいせつ」を規制する論理基盤はこの辺りだったおぼろげな記憶。
そして、「麻薬」だけれども。
ミルの流れを真っ直ぐに受け継いでいる一派、要するにリバタリアンと呼ばれる人々は
個人の使用に限って(麻薬の使用が「個人の使用」という限定された根拠で語れるか否かは別の論点)
麻薬を解禁すべき、という主張をしている。また同様に「売春」なんかもそうだよね。
この論点は「麻薬は社会にとって色々マズイ」とか「売春自由化するとエイズがマジヤベー」とか
その辺をぶっ飛ばしてはいるけれど、自由主義者の根底としては「麻薬はアリ」のはず。
ただし、社会の上で公共の福祉にどこをどーやっても引っかかってくるからやっぱり規制はしゃーねえか、
みたいなのが「自由主義者と麻薬」の間の関係で、麻薬に関しては例えば「アヘン戦争」を見てもわかるとおり
「公共の福祉」が規制の論理基盤に成り得ているんじゃないかと思う。
むしろ、この議論の場合中心的なイシューは「自殺」になるんじゃないかな。
すげえ自信ないんで誰かクリティックしてくれ。
そして、「他者の介在しない個人や、他者を越えた社会や集団・組織を対象にする倫理や法」
というものは、僕の知る限りカントが最後だった気がする。現在は構造主義以後の世界なので、
この手の「根本原理」とか「正義規則」みたいなものについては、「無い」と答えるのがわりと普通。
実在論としての法とか実存的法理論、みたいなものを研究してる人が全くいないわけじゃないと思うけれど。
とりあえず、現在の研究者は「人権」っつーものを横目にチロチロ見ながら、「文化は相対的ですよ、善悪なんかないですよ、ぼくにゃーなーんにもわかりゃしねーんですよ」とビール飲みながら学生に愚痴るのがデフォかなーと。
http://anond.hatelabo.jp/20100127001517
さらにヴァージョンアップさせるとこうなる。
この時期になると大学生向けに読むべき100冊みたいなリストが出回る。
あんなリストを真に受ける人も少ないだろうが……はっきり言って悲しくなるくらいお粗末だ。
ずらっと並べられた古典名著。あまりに埃の被ったラインナップにがっかりする。
こういった学問には「原書病」とでも言うべき、くだらない風習が根強く残っている。
原典や本文を極度に重視するのは不健全だ。それ自体は面白いとしても、その後発展と整理を経て洗練されている。
歴史的興味以外であえて出発点に戻る価値はすごく小さい。そんなところに本当の「教養」は存在しない。
難解で時代遅れな文章と格闘したって、趣味以上のものにはならないし、考える力は湧いてこない。絶対誤読するし。
そこで本当に頭を強くしたい人が読むべき書籍リストというものを作った。
これは単なる学問という空気に浸ってみたい人が読むものじゃなくて、日常に根ざした本物の力を分けてくれるものだ。
この100冊さえ読めば考える素材に困らないだけでなく、コミュニケーションの強者にもなれる。
飲み会で古臭い古典の話をしたって煙たがれるだけだが、この100冊をネタにすればそんなことにはならないし、
黙考はずいぶんと深くなるし、ブログのネタに応用すれば必ず一目置かれる。
選んだのは現代的で網羅的、そして極めて平易なもの。どの分野にも精通できるように色んなジャンルのものを配置した。
この100冊を大学生活のうちに読み切れば、必ずや一生の財産になるだろう。
ここに挙げられた本が、現代最新型にアップデートされた真の「教養」だ!
『逃走論』 浅田彰
『アメリカン・コミックス大全』 小野耕世
『よいこの君主論』 架神恭介
『おまえが若者を語るな!』 後藤和智
『シミュレーショニズム』 椹木野衣
『箆棒な人々』 竹熊健太郎
『新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書』 西寺郷太
『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』 ばるぼら
まだ、資本主義と共産主義が対立概念としてあった頃、構造主義っていうのは相当愉快な発明だったんだろうな。
アタマの宜しい人々が、その新発明を使って「あんなことも考えられる、こんなことも考える材料になる!」
とかやってたんだろうと推察され、樹様と同じく、うらやましいと感じる。
別に共産主義的なるものが良いとか悪いとか、資本主義は悪魔だ、とか、そういうことではなく、
私達は今「お金」にまつわる世界の動き方(≒資本主義)に対して、
持ち重りのするような、面白そうな対立軸を立てることが出来ていないのかなと。
別に、対立させなくても良いといえばいいんだけど、資本主義の方も、一人ぼっちじゃ詰まらないだろうし。
エコとかとか言っても、”対立”している風はあんまり無さそうだ。
”資本主義的なるもの”が高度に発達して、というかその本領を発揮して、
『全てが経済価値に換算できる』=すなわち、全ての事象は資本主義(市場原理主義というか)の名の下に抽象化される。
ということは、お金以外の抽象物を発明しなくちゃいけないってことかしら。
神様とかは出来れば勘弁してもらいたいところだしなぁ。
久しぶりにちょっと考えたら、もともと足りない脳みそが追いつかないのでそろそろ止めるけど。
なんとなく、経済価値に換算すると納得できてしまう、ということが多すぎるので、ちょっと不満なのだ。
だれか、面白いこと発明してくれないかな。