2010-04-25

個性の尊重の行き着く先は地獄天国

1970年代に盛んになった脱構築と言われるムーブメントは、画一的構造主義を排し、相対化という理念の元に個性の尊重をもたらした。

1990年以降に急速に発展を遂げたインターネットも、個性の居場所を与えた。

このように見ると、戦後日本戦後世界は、個性の尊重を実現してきた歴史と言うこともできる。

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個性の尊重というと、無条件に素晴らしいことであると錯覚しがちだが、負の側面もあることを忘れてはならない。

例えば、個性を尊重した社会であるためには、人々がより沢山の価値観文化を学ぶ必要が出てくる。

また、個性の尊重のために、それぞれの人間に適した環境を与える必要があって、実現の困難さに直面することにもなる。

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だが、何よりも心配すべきなのは、個性を尊重すればするほど全体の統制が困難になるということだろう。

価値観共生というと聞こえは良いが、現実的に考えれば、先に触れたような個々人が行うべき学習社会が用意すべき環境の必要性が爆発的に高まるという問題がある。

だから、いくら人々が個性を重んじる精神を持っていても、構造的に個性の衝突は避けられなくなってくることは事実なのである。

個性の衝突が発生すれば、当然のことながら全体の統制は困難となる。

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それだけではない。たとえ、個性の衝突があまり無かったとしても、それでも全体の統制が極めてとりにくくなるという点を見落としてはならない。

なぜか?それは、全体を統制しようとした時に、個性からの反発が生まれてくるからである。

というのも、個性の尊重は、相互不可侵の上に成り立つものである。なのに、全体の統制というのは、往々にして個性侵害してしまう。

だから、個性からの反発が生まれてきて、全体としての身動きが取りにくくなるのである。

しかも、個性が多様になればなるほど、「当たり前」は通用しなくなり、ちょっとした事でも反発が生じてしまう。

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言うまでもなく、全体の統制は、全ての個性または多くの個性にとって有意味であるからそうするのである。

したがって、もし全体の統制が出来なくなったら、個性の発展が停止することになる。非常に恐ろしいことだ。

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今生まれ来る子供達は、これまでの人類史にないくらい多様な個性を身につけ「させられ」ようとしている。

個性の尊重とは名ばかりで、実際には用意された多様な個性の中からどれかを選ばないと社会生活しにくいのが実態だ。

そして、選んだ個性によって行動が規定され、他の個性を攻撃したり、全体の統制に反発したりするようになる。

みんながそういうふうに個性の尊重のために攻撃・反発することで、皮肉にも、互いが互いを縛りあって個性抑制される結果になる。

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個性が尊重される社会と言えば素晴らしく聞こえるが、裏を返せば、行き着く先はそういう社会なのではないか?

  • 結局どこかでリソースの衝突が起こってうまく各自の個の大きさが調節されるのであれば わざわざ個を制限するまでもなくそのしくみにまかせてもいいんじゃない? 夏目漱石の本読んで...

    • 行くところまで行けば歯止めがかかるから心配するな、なんて無茶苦茶だ。 リソースをギリギリまで食いつぶすのは問題だし、情報技術によってリソースの物理的制約の逃げ道が作られ...

      • もし個別の調整による社会が局所最適なナッシュ均衡に陥ってしまい、結果として パレート効率的ではないというのであればそうだということを説明すべきなのでは? 個人の粒度の下限...

        • まず、個性の粒度を定義してくれ。 もし定義できたとして、集団における個性の豊かさは、粒度だけでは測れないのではないか? それから、みんなが個性を尊重する精神を持っていても...

  •  個性の尊重が過剰っていう視点は、「資産の不可侵性」という点で現在の経済にも当てはまらないかな……。  この問題意識って分かるような気がするけど、学習や環境の無限遠点的...

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