大分話がでつくしてきたようなんですが、ここ4、5年日本の現代思想やコンテンポラリー・アートの業界にうとかったので、色々、わからないこと疑問になっていることでてきました。
無尽蔵に、彼ら的な言葉でいえば機械的に、作品(前芸術てきなものも含めた)が創造されていくネットをアートにすると。「ネット」と「アート」の分断を克服すると。
ただネットというのは結局現象ですよね。ファイン・アートの意味的に作品にはならない。
ある意味でその非・固定、永久に、automaticallyにつくりつづけられるシステムとしてのネット、を、どうしてピンで昆虫採集みたいに物理的に止めてしまうのか?そうしたらもうそれは『ネット→現象』でなくて『アート→作品(芸術としての)』への変換にすぎないんじゃないの?
いちばんよくわからないのが、東氏がいうところの、いわば郵便的可能性をネットがもっていると、そういうところを、まあアートでやると。
で、その郵便的な話をちゃんと喋れる東氏が理論的に助けててどうしてこんな単純なことに気付けなかったのか?????
素朴に疑問。
前段の疑問を百歩ゆずったとして、そもそもネットとアートを分断を克服するって?分断していたの?
このへんがよくわからない。
ふたばとかPixivが、機構としてコミュニケーションの速度と多様性を支援しているのはわかるんだけど、それってカフェや飲みや、パーティーなんかで芸術家が出会ってベラベラしゃべったり酔っぱらったり、その場でなんかやってみたりしてたのと、構造的に同じではないの?そーいう場にたまたまいた人が一緒にもりあがって、なんかになっていく感じも同じだし。創作の過程という意味では全然分断していない。
彼らは発表の機会が云々とかいっているのだろうけど、そういうカフェや飲みやで話したりドンチャンしたことが作品?Pixivではポートフォリオとして使っている人もいるけど、ポートフォリオは静的で、彼らいっているところの機械的につくりつづけられるネットの有り様ではない。
加えてもしここでいうところのアートを近代的な(ファイン・アートの伝統の延長線上にある)アートではなく、語源としてのアート、技術や創造そのものとしたら、ギャラリーとネットにある作品をわけることは始めからありえないんじゃないの????
これはどうしたいんだ??
■アーキテクチャ?
カオスラウンジ宣言に出てくるアーキテクチャという概念を東氏は引っ張っているようだけど、これってなに?
システムと力の話?ということはマルクスの疎外とフーコーの力と、構造主義・ポスト構造主義における社会への眼差しがやってきたことをまぜて焼き直しただけ?
浅田彰が「そんなことはもうやってきた」ってのはそのとおりじゃないの?
なにがしたいの?
最初はお祭り騒ぎなのかーっと自分も参加して面白かったけど、なんだか疑問ばかりになってきた…。
誰か説明してほしい…。モヤモヤ。