はてなキーワード: 不謹慎とは
趣味でイラストを描くので、毎年同じ趣味の友人達と自作の年賀状を送りあっている。
ほとんどの年賀状は干支をモチーフにした可愛らしいデザインのものだったり、ほのぼのしたお正月の風景を描いたものだったり、和服を着た笑顔のイラストだったりと爽やかな内容のものが多いのだけれども、「あけましておめでとう」と言いつつ全くおめでたくないデザインのものが届くことがあってげんなりしている。
ダークな作風が得意なのはいいことだと思うし好きなだけ暗い絵を描いてくれればいいのだけれども、年賀状はイラストプレゼント企画でも動物をお題に絵を描きましょう!でもなく「新しい年が良いものになる事を祈って今年も一年よろしくお願いしますの挨拶をするため」のものだということだけは忘れないでくれ……と思う
そういう類ならまだ許容範囲内として、
干支の動物って縁起物だから、干支の動物の死体とか骨とか、干支の動物を殺す絵とか、正月に郵送で送ってくるのはもはや呪いの文書に近いと思うし、もしかして嫌がらせのつもりか?と思うし縁を切られても仕方ないレベルでは……
「自分は他の人とは違って独特の世界観を持ってる」みたいにドヤ顔しないでほしい。
コンビニの入口で売ってる年賀状送られた方が100000000000倍マシ。
いい大人に「これが私の作品の世界観だから!」と言われてその手の暗い絵を送り付けられてしまうと、この人マナーもへったくれもないなとげんなりする。
最低限のTPOすら守れずにこれがアートだから!と胸を張るのはさすがにお里が知れる。きつい。
この手の絵を描くのはメンタルが弱い絵描きさんが多いので、下手に指摘すると「私の描くものに価値がないって言うの!?ひどい!!私の描くものはどうせゴミなんだ!!」みたいにメンヘラモードに入ってしまうので疲れる……お正月から……
とてもいい子だし一緒に住み始めてしばらく経つが大いに順調。
ただどうしてもモヤモヤしてしょうがないのが、自分はこれで男として去勢されるんだという感覚。
新しい仕事を始めたり、新しい飲み屋に行ってみたり、新しいコミュニティへ顔を出してみたり、そんなときは少なからず異性との新しい出会いにワクワクしていた。
交際時でもそういうワクワクは不謹慎ながらあって、実際に男女の仲になるとかそういうレベルのことは実際ないし具体性を持って考えもしないんだけれど、恋愛対象として見ている異性でなくてもなんとなく良く思われたい・見られたいというのは大体の男に共通すると思うんだよね。実際にセックスしたい・交際したいとかそういうレベルじゃなく。
ひたすらに自分が綺麗になりたいというモチベーションで化粧やオシャレをする女性と違って、男が男でいることのモチベーションは異性からの評価にあったんだと思う。
結婚するとそういう意識を持つことは許されないわけで、セックスするしないとかそういうレベルじゃなく、女性と女性として捉えること(あるいは女性からの目を気にする男の自分)自体に罪悪感を覚えるようになった。
服は人前で恥ずかしくない程度にある程度垢ぬけた格好ができてればいいと思うようになったし(幸いに見た目の成熟もあって安い着こなしになることはなくなった)、美容院や頭髪のセットのモチベーションもかなり下がった。
もしかしたら根本的に自分は精子脳(死語)だったのかも知れないなあ。でも大なり小なり男はみんな精子脳だと思うから、この感覚は自分だけじゃないと信じたい。
この感覚が行くとこまで行くと、不倫に狂っちゃったり、熟年で「本当の恋愛に目覚める」みたいなことになってしまうんだろうなと最近変に納得してしまった。
タイトルそのままの意味です。自分を基準に生きる方法が今とても知りたい。
私は今仕事をしておらず、心療内科に通いカウンセリングを受けながら無職状態で生きてる人間です。
新卒で就職した会社をすぐ辞めて、そのまま上手くいかずにこの状態になって1年弱。正社員として働いていた期間は1ヶ月にも満たないです。
最初、デザイン関係の職場に就職したのですが、人手不足と残業過多で生活が回らなくなって起き上がれなくなって辞めました。
そのあと少しの空白期間を経て、別の会社にデザイナーとしてアルバイトを始めるものの、2ヶ月強でまた起き上がれなくなって辞めて、実家に引っ込んで今に至ります。
二ヶ所めの会社に行けなくなった理由は正直自分でもわかりません。適応障害という病名がついたものの、わからないことが多いです。
実家に引っ込んでからもバイトに応募を何度かしたのですが、面接までは大丈夫なのに、いざ勤務初日となると行けなくなりそのままドロップアウトということばかりでした。
心療内科の先生やカウンセラーの先生にたくさんアドバイスをもらいましたが、「働いていない自分を認められていないのでは」「きちんと休めていないのではないか」という言葉をいただき、1ヶ月はなにも考えないように、と自分の中で期間を定めて休みを取るということを実行している最中です。本当はずっと休んでいたつもりだったのですが。
だけど、それでも「休みが明けたらどうしたらいいのか」「休みが明けたらちゃんと道を開くことができるのか」と考えてばかりです。
本末転倒なのはわかっていますが、考えないようにしようとしても上手くいきません。
たぶん、先生が仰った「働いていない自分を認められていないのでは」ということなんだと思います。いやでも、働いていない自分を認めることなんてできるわけがないのでは、と私は思っています。それを認めてしまったら、その先働かなくなってしまうのではないかと。
私は、他人に認めてもらうことをして初めて自分で認めるようになるんだと最近考えるようになりました。なんでもかんでも他人が基準なのです。今、仕事もせず恋人もいなくて家にいることが、世間に、親戚に、友達に、どう思われているのか不安で不安で仕方がないです。
二ヶ所めのアルバイトしていた会社を辞める前、しんどかった私は何度も「許して欲しい」と思いました。思って、一人で口に出して、日記に書いていました。何を許してほしいのか、今でも厳密にはよくわかりませんが、当時ずっと大怪我をしないかな、大病を患って入院したいな、と不謹慎ですが思っていました。世間的に何もしていないことを許して欲しかったのでしょうか。しかも、私はイラストを描くのが趣味だったので、ワガママにも「腕と手だけは無事に動く状態で」と。
許してもらえるなら、余命が3年でも構わないと思っていました。余命3年になって、世間に許してもらって、海の見える綺麗なところで絵を描いてその3年を自由に過ごしたいと思っていました。
この「許して欲しい」は明らかに自分じゃなくて他人に向けた言葉です。でも、そんな他人基準の生き方ではこの先生きていけないし、まず目の前の壁を乗り越えることすらできません、それは理解しました。だけど、他人基準ではなく自分基準に生きていく、考える方法がわかりません。
匿名ですし、今の自分を落ち着けることをメインにしてこの日記を書いているので文章も支離滅裂ですが、もし、何か良い方法をご存知の方がいらっしゃれば、コメントなどでご教授いただけると嬉しいです。
よくある話だ。
数々の希望の話を見ながら、ぼくは輝かしいと思うと同時に、いつも少しだけ、
ほんの少しだけ恐怖していた。
ぼくは希望が持てない
優しい父と母に守られ、愛されてきた。
幼少期は少しいじめられたりもしたものの、人との関わり方を覚え、そのいじめっ子とも仲良くなれたほどだった。
というのも、ぼくがいじめられたと思っていたことも、その子に言わせてみればじゃれ合いの範疇だったことがのちにわかったからだ。
そんな幸せな世界にいながら、ぼくはどうしてもフィクションの世界の彼らのように、希望を持って生きることができなかった。
そんな時、いつもぼくの心に表れるのは
羨望の念だった。
きっと延命治療なんてしない。
できるだけ少ない苦痛の中で、放置していたゲームをやり切り、行きたい観光スポットに赴き、美味しいご飯を食べて、半年後に満足して死ぬ。
皆が家族の元で最期のときを過ごそうとして、人がいなくなった渋谷のスクランブル交差点に、堂々と大量のチョークを携えて立ち、地球最後の落書きをしよう。
描き終わったら、地面に描いたでっかい落書きの中央に寝転んで、そこから落ちてくる隕石を眺めながら昼寝でもしよう。
きっと最高に楽しい眠りにつけるだろう。
「終わり」について考えたときのぼくの中にあるのはいつだって喜びだ。
きっとなんの脈絡もなく交通事故で死んだところで、明日の部屋の掃除をしなくても良くなることを喜ぶ自分がいるのだ。
明日が来ないこと、それこそが僕の救いだ。
だらだらと毎日が続いてしまったら、きっと放置していたゲームをやり切ることなく、行きたい観光スポットにも一生行かず、独り暮らしの節約だけを考えた特に美味しくもないご飯を食べる生活が続く。
人の迷惑を一番に考え、スクランブル交差点で地面に落書きなんて絶対にできない。
「終わり」を考えると恐ろしいと、友人は言った。
隕石で、地震で、地球温暖化で、何かしらの大きな力で、無慈悲に人の今までの営みが消されていくのが恐ろしいと。
話を聞きながら、そうだねと相槌を打ちながら、人の営みが消されることに恐怖を覚えると言うことを、どうしても理解できずにいた。
人間は高度な文明を持ちすぎたせいで、自分が地球上に生まれた動物のひとつだということを忘れがちである。
「動物」と「人」を分け、動物を無意識に見下し下等生物だと思っている節がある。しかし、人間はただの動物に過ぎないと、神《ここでは生物が支配できない天候、運命等を言う》になることはできないのだと、ぼくは常々思う。
むしろ動物を超えてしまった何かになっていたのだとしたら、ぼくは僕の心臓が動いていることすら恐ろしく感じる。
たくさんの動物がこれまで絶滅してきた。隕石で、地震で、地球温暖化で。
人間がそれらの神の力によって死に絶えることが出来るなら、ぼくは人間が地上に存在して良い生き物であったと、やっと安心することができるだろう。
ぼくはきっと、希望の戦士から見たら倒すべき思想を持っている人間だろう。
きっと倒されて光の力に圧倒され、希望を持てるようにされるのだろう。
でも僕は、希望を持つことが何よりも恐ろしいのだ。
希望を持った人が、その希望が続くと信じて、その希望が失われた時、その先にあるのは深い悲しみと絶望だろう。
でも、希望に触れた人が、いずれこの希望は消えると思っていたら、いざ本当に消えてしまったとき、たしかに悲しいけれど、心の準備ができていた分苦しまずに済む。
後ろ向きなことを言っていることは百も承知だ。
でも、これはぼくなりの心の防衛術なのだ。期待せず、希望を持たず、諦める。
もちろん100%後ろ向きな訳ではないが、心のどこかで諦観を持っておく。
希望を持つということは体が浮いてしまうような漠然とした恐ろしさを感じる。
諦観を持っておくことで心に重石ができて、地に足を付けることができる。
「死」は、「終わり」は、僕にとってはエンドではなくフィニッシュだ。
終わりではなく完成なのだ。
どうせならヨボヨボの状態でなく、現在の最高点でフィニッシュさせてしまいたい。
忘れじの 行く末までは 難ければ
今日を限りの 命ともがな
(「忘れない」と言ったあなたの言葉が最後まで変わらないのは難しいだろうから、私はその言葉を聞けた今日死んでしまいたい)
この和歌を歌ったのは儀同三司母という人であり、この歌は恋のうたであるが、ぼくはこの人の気持ちがよくわかる。
きっとこの人も、この幸福な状態のまま自分の人生を完成させてしまいたいと思ったのだろう。
希望を持つことは素晴らしい。それは同感だ。
ぼくも希望に憧れるし希望に向かって進む姿はかっこいいと思う。
しかし、ぼくがそれをやれと言われたら、きっと迷子の子どものように前に進むことができず立ち尽くしてしまうに違いない。
フィクションの世界の悪役のように、人々を絶望に染めてやろうとは思わない。
でも、ぼくにとってぼくのネガティブ思考は、長年連れ添った相棒であり、ぼくの心を守ってくれた騎士でもある。
ぼくはきっと一生こいつを手放すことができない。
この日曜日に夜中の3時頃に実家(私は東京都内、実家は大阪)で一人暮らしをしている高齢の母親が倒れました。その顛末を書いておくので、同じような状況の方々の参考になればと思います。
なお私は過去に4回うんこを漏らした増田です。2年ぶり5回目の登場にしてシリアスです。
http://anond.hatelabo.jp/20111212011721
http://anond.hatelabo.jp/20111227010115
http://anond.hatelabo.jp/20140309231305
https://anond.hatelabo.jp/20160825223839
タイトルにうんこ漏らしを入れたのは、みんな大好きうんこの話題なら読んでくれるかと思いまして。
ここ2年間は漏糞増田からは漏れていました。申し訳ございません。
そんな状況で増田というのも不謹慎という声があるかもしれませんがひとり実家にいるだけでは不安もあり、今私自身が置かれている状況の整理と、今後のことについて皆様からのアドバイスも頂きたく、昨日の今日のことですが増田に書かせていただきます。
まず、前提状況からお話しますと母は膠原病(こうげんびょう)を3年ほど前から患っており、日頃からプレドニン(ステロイド系抗炎症薬)を服用しています。それの副作用で血管がもろくなると言われているのでそれも一因かもしれません。リウマチを患っている方は注意したほうがいいかもしれません。
ステロイド 大動脈解離 や血管系で検索するといくつか事例が出てきます。
普段大阪の気の強いおばちゃんを地で行く母は、膠原病を患っているためこちらとしても不安なので体力のあるうちに、当方での同居や付近の引っ越しなどを提案していたのですが、流石に後期高齢者に近い身としては
「そんなとこ行っても知り合いもおらんしあんたも毎日来てくれるわけちゃうねんからええわ!」と、環境を変えるのもストレスになるのでと、拒み続けていました。
第一声がかすれた声で
普段とは異なる様子。死にそうだけではこちらもわからないので意識があるうちに状況を確認する。
私「どないしたんや?どこが痛いんや!?」
ピーンと来たのはヒートショック。この土日は急に冷え込んだことと血圧が普段から高い母はそのくせ46度設定の熱めの湯に浸かることを好んでいた。
このまま意識を失われては困る!
私「ええか!頑張って玄関のドアの鍵をあけにいき!そこで倒れてもいいからとにかく玄関の鍵をあけえ!」
救急は施錠されている場合は他の手段で入ってくるが、実家は分譲マンション。鍵を持っている人間も周囲にいない環境で、この状態でのタイムロスがあると命に関わると判断。
とにかく玄関の鍵を開けさせつつ、呼びかけながら妻の携帯を拝借し119番。
119につながったものの、東京からかけると都内の消防につながるため、母の状況を的確に伝える。
この的確というのはシンプルに
・実家は○○のため、そこの救急につないでほしいもしくは至急番号を確認してほしい。
・実家で一人暮らしをしている母がおそらくヒートショックで倒れた。
・背中がいたいと言っているので血管もしくは心臓に何らか急変が起きたと考えられる。
そうして実家の所在地の救急の電話番号を伺い、そちらに電話。その間に母のうめき声とともにおそらく嘔吐したような声とともにケータイが床に落ちるようなガコッっという音が。
なんとか携帯を拾ったらしいが声にならないよう。
頼む、持ってくれ!
救急につながった際には上記の情報と母の住所と名前と年齢と電話番号、かかりつけの総合病院名、こちらの名前、こちらの電話番号を伝え、玄関の鍵もおそらく開いていることを伝える。その電話の間(おそらく1分たっていない)にすでに救急車は出発したとのこと。速い。
しかしながらもう一方の電話の母からは声が聞こえなくなってきた。これはまずい。呼びかけても反応しない。
ここで、私は申し訳ないと思ったが寝ている息子5歳を叩き起こして、「おばあちゃんがんばれ!ってとにかく言え!」と言わせる。
寝ぼけていやいやながらも息子は「おばあちゃん、がんばえぇ~」と電話に向かって話すと電話の先からはよそいきのときの高い声で「ありがとぉ・・おばあちゃんがんばるでぇ・・・」と反応が。さすが孫のパワー!愛こそ力。力こそ愛。力こそパワー。
しかしながら数回お呼びかけたところで電話が切れてしまう。なぜかはわからないがおそらく母が間違えて切ったか電波が切れてしまったのかもしれない。かけ直しても今度は出ない。
不安が駆け巡るが仕方ない。その時点で電話がかかってきてから5分程度。
とにかく救急車が来ることを祈りつつ、こちらも実家に行く準備を至急行う。気が動転していたのか、車で行こうと準備をし、出発してガソリンを入れに行こうとしたところで、
「いやまてよ、もう3時回ってるし始発の新幹線で行くほうが早くつくぞ」といったん冷静さを取り戻す。
しかしながらバイタルが低く、意識がほぼないとのこと。あかんやつやん!
ただ、状況を聞いてもこちらもどうしようもない。ただただ不安が広がるが、ここで焦っても何もできないのでとにかく病院に搬送され何らかの処置が行われることを祈るのみ。
始発の時間で大阪に向かおうというところで今度は病院から電話が。CTを撮ったところ大動脈解離との判断。このままでは朝までもたないので緊急手術が必要だが親族の確認をこの電話としてよいか。
もちろん大承諾。
そして搬送されたかかりつけの総合病院にむかう。4時間半ほどで到着。手術は人工血管への置き換えで予定では6時間ほどとのことなのでまだまだかかる。
日曜日なので病院はもちろん閉院しているからか静かな状況でICUの前でまんじりともせず待つ。
手術が終わり対面。医師からはシャワーのホースより大動脈の一部を見せられ、剥離した箇所を示される。想像より太い。勝手に長いボールペンくらいの血管を置き換えるもんだと思っていたが、示されたそれは塩ビパイプをつなぐジョイントのような短く太い管だった。そしてうちがが非常になめらかになっているのが印象的。
剥がれた部分と言われる箇所は見ても剥がれてるかどうかもわからないサイズだがひとまず対応はした。麻酔が覚めるまではまだ状況は油断できない。また脳にも影響がある可能性がある。とのこと。
ICUには長い時間はいられないので、いったんはその場を離れ実家にもどったものの、夜にまた医師から電話があり、別の場所からも出血をしているというので再度の緊急手術が必要とのこと。ううむ、きつい。膠原病で弱っているからだが耐えられるのだろうか。と。
なんかあればまた電話します。無事に進めば連絡はしません、といわれたのだが、そういうのホントやめてほしい。とりあえず連絡くれよ、と。
手術自体は成功したが今度は全身に痙攣が起きた。落ち着いたが脳にダメージがあるかもしれないので再度CTを明日以降の何処かで撮って検査するとのこと。
そして今に至ります。CTの結果は医師が面会に伺った際に他の手術で不在だったためまだ聞けていない。
明日行くときに確認できるだろうけれど、脳に障害が起きていたらどうしようか。膠原病持ちとして、今後母を一人暮らしさせておけないとするとどうするか。などかなり考えることがあり、事例を探しながらも相談する相手もいないためこの増田に記しました。
また状況に進展があればまとめを記したいと思いますが、今回わかったことは以下。
・119に電話をしても近郊の消防につながるため、最初に遠地の対応である旨を伝える
・ヒートショック怖い
・ステロイド系の薬の副作用はいろいろあるが、動脈硬化などもるので要注意
母が良くなりますように。
努力したくないなんにもしたくない
親に高いお金払ってもらって塾だって行ってるのに隠れてサボって嘘ついて
大学受験しなきゃいけないのにどうしても行きたくない(めんどくさいから)し、生きてても楽しいことより辛いことのが圧倒的に多い
あと何十年も耐えられない
将来のことを考えなくちゃいけないのに自分の未来は真っ暗で考えるのが怖い
死にたいしか考えられないし常に自死の方法や前準備のことを考えてる。
一丁前に「周りに迷惑かけたくない」とか言って自殺しないクズ。早く死ななきゃいけないのに。
親に「死にたい」と言っても甘えだ逃げだちゃんと現実を見ろと言われる。まあそりゃそうだわな
でも死にたい気持ちは本物だしこの気持ちのまま生きるのは正味キツイ
無責任で不謹慎なことを言うようだが、今すぐ死ねますよどうですかと声をかけられたら喜んでついていきたいと思うしいっそのこと通り魔に一発で仕留められたいとも思う
無気力症候群というものに大いに当てはまる。きっとそんなのは思い込みで甘え怠けなんだろうが
寝たらまた明日が始まる
自分は最低だ
早く死にたいな
もっと楽しいことに時間使えばいいのにとも思うけど、それはその人の自由なのでまあ自由にやってもらえばいい。
問題は、ちょっと失敗したり不謹慎だったりするだけの特定個人に対し、正義を盾にTwitterやはてブで責め立てたり個人情報を暴こうとしたり職場や学校に電話をしようとしたりする連中だ。
彼らは、自分の行いがコンビニでミスをした外国人店員を怒鳴りつける老人と同じだということに気づいているだろうか。
別に、彼らが100%間違ってるというつもりはない。大抵の場合、そのとき責め立てられる個人には非がある。軽犯罪を犯していたり、ポリコレに抵触していたり、あるいはそれらの直前だったりする。
ただし、このとき考えないといけないのは「ミスをしたコンビニの外国人店員や炎上した彼や彼女のしたことはどの程度の悪なのか」「それに対し、与えられるべき罰や責めの重さはどの程度なのか」「自分は彼らを責めるべきなのか」だ。
また、様々な宗教や文学や偉人の教えを引くまでもなく、一切の悪や失敗を行わずに生きている人間はいないし、その罪には軽重がある。それは、今正義の側に立っている人々だって、私だって同じだ。
正義は世の中を良くする行いであり、同時に娯楽だ。正義を主張することは気持ちいいものなのだ。我々は、正義を娯楽として使っていないか、自分自身に対して批判的であるべきではないだろうか。
全ての悪や失敗が許されない世界、品行方正な人間しかいない世界はディストピアでしかない。私には正義の肥大化、悪の許容度の低下が進んでいるように見える。そして、それが恐ろしい。
何が言いたいかというと、もう少しやんちゃや迷惑やルール違反に寛容になろうよ、あるいは適度なところでやめようよ、って話です。