はてなキーワード: デーモン小暮とは
朝目が覚めたらデーモン小暮みたいな顔になっていた
テーマの部分を改変してはだめですよ
「きのう何食べた」の賢二の仕事を美容師からケーキ屋さんに変更するのはアリでも、
その改変を加えること自体が作品と真逆のメッセージを持つからです
作者のブログによる指摘は以下です:
この作品は説教をしません。登場人物も「ハッと気が付く」ようなこともありません
登場人物の1人は弱者男性です。彼は「女性の人生はイージーモードだ」と言います
もう1人の男性はハテナーの嫌いそうなDQN系強者男性です。彼は女性を対等な人間扱いせず雑に食い散らかしています。
彼らの最初の印象は悪いです。でも、作者の目線は彼らに優しく寄り添います。
彼らの目線から見える世界が語られることでその発言にある背後の苦しみが共有されるのです。
私が他のひとを許すから 私も他のひとに許してもらえる
正しくなくても寄り添い尊重し合って生きていく
修正:きょう→きのう
また、これに関連し原作者が「心底どうでもいい」と断じた「かわいい制服の私立高校に進むことが出来なかった」という改変も、
朱理は男を財布と肩書きでしか見ていない婚活女子です。初登場時の印象は最悪です。
でも、その人となりを知るうちに読者は彼女を好きになっていきます。
彼女が生き残るためそうせざるを得なかった事情が語られるのがそのシーンです。
薄給ブラック企業に勤め、男であるが故に競走から逃げることのできない進吾と
女であるが故に大学進学が認められず、そもそも競争のスタート地点にすら立たせてもらえなかった朱理
朱理は学歴社会において不利な状況に置かれたため、婚活に活路を見出しているという子なわけです。
ここでいう弱者男性とは社会的弱者の意味です。進悟は普通の顔です。
田中さんはすっぴんが異世界おじさんでメイクをするとデーモン小暮という方です。
報告書を読むと作者も同様の不安を抱かれたようですが議論して一旦は説得したようです。
ところがメイク失敗シーンが女優さんの肌が綺麗すぎて撮れないという話になり・・・という流れですね。辛くなってきたのでもうやめます
あなたのおっしゃる通り、顔の悪い役を引き受けてくれる人はいないでしょうからしょうがないのかもしれませんね。女優さんも人気商売でしょうから
戸定梨香の件でホットエントリに上がっているブコメを見ると、VTuberニワカが「何でただの絵と中の人を同一視するの?」と疑問を呈し、
それに対してVTuberオタクが「VTuberのガワと中身は1対1だぞ」と突っ込む構図がよく見られる。
しかし実際の所、「VTuberの体と魂は1対1」という考え方はVTuber黎明期には必ずしも定説ではなく、「中身を入れ替え可能なタレント」としての役割をVTuberに期待している者もいた。
ガワはミッキーマウスやガチャピンのぬいぐるみのようなもので、演者はあくまでそれを動かすだけ……というイメージだ。
VTuber黎明期……まだ四天王とかいう言葉が現役だった頃……というのは、3Dモデルを用いて収録した動画コンテンツが主流だった。
台本がガッチリ組まれていて撮り直しが出来る動画であれば、声さえ似せることができれば中の人を交換可能なのでは?というのは、まあさほどおかしくない考え方である。
しかし、この「ガワ=ぬいぐるみ理論」は、VTuberの主流コンテンツが収録動画からLive2Dを用いた生配信に移るにしたがって廃れていった。
演者のアドリブで成り立っている生配信では、ぬいぐるみではなくむしろ中の人の個性こそがコンテンツのキモで、中の人などいない、が成り立たないからだ。
現状のVTuberにとってのガワはガチャピンのぬいぐるみではなく、デーモン小暮のメイクに近い、中の人と融合してコンテンツを形づくる物と言えるだろう。
小暮隆以外の人間があのメイクをしてもデーモン小暮というタレントにはならないように、
VTuberの視聴者が楽しんでいるのもガワというメイクと中の人が融合したナニカであり、ガワそのものでも中の人そのものでも無いのである。
https://anond.hatelabo.jp/20200517104920
昨日のANNを聞いて、まだまだ岡村さんはぎこちなく、言葉をかなり選んで喋ってる感じではあったけど、先々週のあの居たたまれなさを100としたら、先週は居たたまれなさ70、昨日は30ぐらいまで落ち着いてきたと思う。よかった。
私にとってナイナイのオールナイトは、番組開始当初から間断的に聞いてる番組で、ナインティナインにも好意を持っているしそれなりに思い入れもある(リスナーではない。思えばナイナイのオールナイトは「リスナー」という言葉の意味が他のラジオパーソナリティの言うそれとはかなり濃度が違うものではあって、それが今回の色んな悲劇・悲喜劇に繋がったという気もしないでもない)。
深夜ラジオは、深夜だし長い。子ども時代なら深夜に夜更かしして聞くもよし(録音とかはしません、面倒なので)だが、大人になって、仕事があったり家族ができたりするとリアルタイムでは聞けず自然に離れていったりする。だが私は子供じみたオバハンなので、テクノロジーの発展の恩恵を受けて、または、すごい面白いラジオがあるよという噂を聞きつけて、深夜ラジオに戻ってきている。
深夜ラジオを聞きだしたのは小学生、デーモン小暮がお気に入りだった(クラスの男の子に教えてもらった)。たけしのオールナイトもまだやってたと思うんだけど小学生女子には刺激が強すぎたのか好きではなかった。その後いったん色々忙しくなったりして深夜ラジオから離れて、戻ってきたのがナイナイのオールナイト。また一旦いろいろ忙しくなって間遠になって、次に本格復帰したのはくりぃむしちゅーのオールナイト。
ラジオの聞き始めがANNだったせいかもだが、ラジオリスナーの人たちが大好きがちなコサキンは未体験、馬鹿力は子供の頃は聞いてない(伊集院さんが朝をやり始めてから逆流して今はたまに聞いてる)。電気のANNはちょうどラジオから離れてた時期なので存在も知らず、極楽とんぼは気が付いたら終わってたから聞いてない。放送室は週末に車で出かけて帰りの深夜に、流れてきてつい聞き入っちゃう感じ。サンデーソングブックはドライブ帰りに渋滞にはまってる時間帯に合致しがち。昼間のラジオはこの数年でデビューという感じ。
くりぃむのオールナイトに気づいたのはいい大人になってからで、Podcastから見つけた。くりぃむしちゅーのオールナイトほんとゲラゲラ笑った。今でも特にゲラゲラ笑ったPodcastのデータは残している。デジタルって楽でいい。くりぃむANNのPodcastの後期、まだ全く売れてない頃の古坂大魔王(ピコ太郎)がクレイジーな結婚披露宴構想を機関銃のように喋る回がものすごい好きで、死にたくなるほど落ち込んでても聞きおわるとどうでも良くなるくらい面白かった。あとJUNKのシカマンもゲラゲラ笑った。シカマンはお題投稿がとにかく面白かった記憶がある。あとPodcast限定だが雨上がり蛍ちゃんの馬になるシリーズも好きだった、馬鹿で。
そんな感じで、熱心な「リスナー」でもないが、ラジオ配信の技術と稼ぎ方が多様化してきたことと、あと私はいつも大抵ゲラゲラ笑いたいので、この10数年は、ゆるくラジオとの付き合いを再開している。
Podcast、ラジオクラウド、radiko…配信化によって、リアタイで聞かなくても大丈夫になったのがとてもデカい。局側には恐縮ではあるが…、投稿しないしリアタイじゃなくて全然いい。夜は眠いし。主に通勤時間の電車の中とか買い物とか、あとジョギングしながらとか、ひたすら風呂掃除してる時とか。配偶者はラジオ趣味があんまりない(こだわりがない)ので、基本は一人でいる時になる。というか、深夜ラジオってそもそも「一人で聞く」ものなのかも。
そして、深夜ラジオがポリティカルに色々アレである、というのは、まぁ岡村に限らずある程度はどの番組にもあって、まさに深夜ラジオの魅力でもある。炎上したのは、多分にタイミングが悪かった(世間がコロナで暇だったとか、似非運動家に見つかったとか)面もある。一方で。私は矢部氏が卒業して以降の岡村単独のANNを、いつの間にかあんまり聞かなくなっていっていたのだが、その理由の、いつの間にか番組が醸し出すようになっていた「雰囲気」が、なかなかの強い香りになっていったから、というのも、今回の炎上騒動の理由として少なくないと思うのだ。
ラジオの聞き方は既に20年近く前から多様化してきている。チャネルが増えたから馬鹿に見つかった、というのは余り筋が良くなくて、番組が醸す「香り」がどんどん強くなり悪目立ちしてきていた、という方が近いかな、と思うのだ。深夜ラジオで芸人が喋ったことをスポーツ紙がニュースにして悪拡散、なんてのは、それこそ昔からあることで、書き起こしサイトが悪いとかtwitterで馬鹿が拡散するのが悪いとかの説も全然納得できない。この辺は深夜ラジオリスナーなら分かってもらえるのではと思うんだが、芸人たちは頻繁にスポーツ紙記者に怒ったり絡んでキャッキャしたり、「記事にするなら番組のパブリシティも入れといてよー!」という定番の落としも定着しているぐらいだ。実際岡村のANNでは以前も、フジテレビ批判がネットを騒がせた時期に「いやなら見るな」と言って炎上した過去もあるが、要するに、何らかの方法で「拡散されてしまった」ことだけが原因ではなくて、やはりあの発言の内容が一定の閾値を超えていたことが大きいと思う。馬鹿に見つかったのが悪いわけじゃない。馬鹿だって「うわっ、なにこれ、臭っせえ!」と気づくレベルだった。
岡村さんは無自覚だったんだろう。無自覚が全てにおいて免罪符になるわけでもないが、取り返しのつかない悪業でもない。
現にこの3週間の岡村さんは、「変わらなきゃ…」を寝言のように繰り返して、聞いている私をハラハラさせていた。変わらなくても良いからコントロールできるようになってほしいなぁと思っていた私にとっては、「カウンセラー」役?の矢部氏の復活(昨日のラジオで矢部氏が言うてた、もちろん冗談込みやけど)は本当にうれしいし、少なくとも岡村さん本人が変わりたいから「変わらなあかんですから」とブツブツ言っているんだろう。
「変わる」がどういうことなのかはまだこれからの話なのでどうなるかは分からない。でも「生まれ変わってポリティカルに正しい深夜ラジオを!」とかではないだろう。もしその選択を取るのならラジオから降りることを選ぶんじゃないかなと思うのだ。岡村さんにとってラジオでしゃべることは恐らく大切なことで、一方で、岡村さんに限らずいい大人が完全に変わるのは難しいだろうなとも思うし、そもそも、そんな風に人格が変わる必要もない。
岡村さんの「ああいうとこ」は出し方によっては人を傷つけるナイフになるが、同じ性質は別の方向から見たら、岡村さんの「妙にキマジメなお笑い芸人」という魅力でもある。岡村さんが色々アレな面もあることは古い視聴者としてはよーく知っている。そして岡村さんは妙にキマジメだからこそ、ハードスケジュールの中でエグザイルやスマップのダンスを完コピしたりして私をしびれさせたりもしてくれるし、「おじさんたちのアニキ」的な役割を自認してラジオでああいう酷い発信をしちゃったりもする。あの発言は妙にキマジメな芸人である岡村さんのキマジメさと妙さがもたらしたのではないか、「おじさんのアニキ」の自認が大きくなりすぎてバランスがおかしくなってたから、止まらなかったんだろうなと思っている。残念である。
この騒動の後に、4年ぶり?くらいに久しぶりに岡村のANNを聞いて、あれ?そんなんだったっけ?と驚いたのは、スポンサーだ。昔のことは覚えてないんだけど(だんだん聞かなくなってたし)、先々週の岡村・謝罪回のスポンサーが、ワンカップ大関と高須クリニックとエイブル(不動産屋)と、その他数社だった。なんていうか男性ホルモン度が高いというか…(ワンカップ大関のCMは女性がワンカップ大関を飲んでるストーリーだったけど、何ていうか。うーん)。あと昨日の放送ではスポンサー読み上げが無かったんじゃと思う。オールナイトはパーソナリティがスポンサー読み上げするのが通例だと思ってたので、まぁ番組の立て付けが「矢部復活」で変わるし色々あったんかなという気もする。ACのラジオCMがいくつか挟まってたから、色々調整が間に合ってないとかあったのかもしれない。
(追記:ブコメでid:sinamon_nekoが指摘しておられるが、矢部氏がスポンサー読みしてたらしい。ごめんね聞き落としてたわ。今日は買い出しをしながら聞いてたから気を取られてたみたい。)
まぁラジオは今とにかくお金が無くて大変だからスポンサーの顔ぶれが変わるのは世の流れだろうとも思う。ANNは今あんまり聞いてなくて、たまにオードリーと三四郎聞くぐらいなんだけど、どちらも、ワンカップと高須クリニックはスポンサーではない。何ていうか、そういうところにも「香り」が出てきてるところなのかなぁ…と思ったりもしないでもない。別に悪いというわけじゃなくて「中年専」方面に尖ってしまってたのかもなぁ…とか。
今、増田が一番楽しみにしている深夜ラジオはハライチのターンだ。
木曜夜中(増田が聞くのは金曜朝の出勤時になる)は、ANNが岡村、JUNKがおぎやはぎという、何ていうか「臭みが強い」ラインナップで普段はどちらもほとんど聞いてないんだけど、ハライチのターンは変で好き。金曜朝は、ハライチのターンの本放送をradikoのタイムフリーで聞いて、そのあと後撮りのクラウドを聞いてニコニコしながら出勤している(今はリモート中で出勤してないから掃除とかしながら聞いてる)。
少し話は変わるが、三四郎のANNもたまに聞いてどちらに対しても思うんだけど、若い世代は私のような中年とは全然違う世界を生きているなぁと思う。中間地点にいるのがオードリーと山ちゃんであの辺の世代が分水嶺になっている感じがあるお笑い芸人ラジオ業界。岡村とかおぎやは「古い世代」感を感じる。古いから悪いとは言わないが、古いなーと感じる。もっと古いはずの伊集院さんとか爆笑問題は逆に古さは感じない、喋り芸の実力の高さとか爆笑太田の思索力の面白さかなぁ…分からないけど。
で、増田が今はまってるハライチのターンのラジオクラウドの、先々週回(5/7)で、岩井が「岡村さんは寅さんだ」と言ってたのが、あーそうかもね成程、と思った。
岩井いわく、寅さんも映画で「なんでそんなこと言うの寅さん!」と毎回怒られてしゅんとして「寅さん結婚したら」とか言われてる、箇条書きにすると岡村さんは寅さんだ、と岩井が言えば、澤部が「岡村さんは国民からしたら寅さんみたいなところ(人気者)あるもんね」と返す。「みんなに叱ってもらって、しょうがないなーってなって、寅さんも毎回反省もしてる」、と岩井が説を〆る。まぁ1分も満たない程度のさらっとした言及でおしまい。
そして、そのあと10分以上は、「澤部は山田洋二映画向き」という話になる。そのくだりがすごく面白くて、ハラハラと生々しい関係性が見え隠れして、少し切なくて、そしてかわいいから、ラジオクラウドでハライチのターンを聞いてみてほしいわ。
あとブコメもたくさんついてた太田の岡村話以外には、岡村・謝罪回の次の月曜の馬鹿力で、ひたすら伊集院さんがやりづらそうだったのが個人的には印象的だった。確かに馬鹿力もかなりの「非モテ文脈における女子いじり」みたいな投稿ネタが多いしなぁーとか思うが、やりづらくて困り当惑し悩んでしまう伊集院さんは生身ですごく良かったし、同じようにがんばろうとしてる岡村の生身も、深夜ラジオでしか出会えない芸人さんたちの「生身」として愛おしいなとも思うわけです。
あと、今月末5/24日曜の深夜にシカゴマンゴが最終回やるからそれが楽しみ。アンタッチャブル、ホント面白いから、ばかみたいなんだよ、すごく良いんだ。
「『個人の選択の結果の服装』って言い方」がどう勘違いなのか、「然るべき文脈」が一体どういう文脈を指すのか、またその「然るべき文脈」において3Dと現実の洋服の違いがどう問題になってくるのか、申し訳ないけど自分にはちょっとよくわからない。
文脈について、以下の2つに分けて考えなくてはいけないと考えています。議論のレイヤーと言ってもいいです。
で、自分の基本的な主張は、前者の文脈での「人格」「魂」などの用語や概念を、安易に後者の文脈で使うべきではないということです。なぜなら、社会問題の領域で何らかの主張をする場合、ロジックに強度と普遍性が求められるからです。
二次元絵の取扱については、児童ポルノ関連など、踏んだらやばい案件がゴロゴロしています。なので、ここで勢いに任せて変な主張をするのは危険だと思います。
普遍性が求められるというのは、例えばこれから出てくるかもしれない、中の人が男の美少女Vtuberとかその逆とか、集団で運営される場合とか。例えばキズナアイのヌード写真集が企画されたらどう扱われるかとか。
そういういろんな想定に耐えうるロジックになっているかを心配しているのです。
基本的に、発端となった批判は社会問題に属するものです。批判そのものが妥当とは思いませんが、ともかくNHKのサイトに掲載された二次元絵が問題となりました。これに対する反論は、社会問題のレイヤーで行われるべきであり、また、自動的にそう扱われるはずです。
話がわかりやすくなるか微妙ですが、議論のレイヤーをもう一個増やしてみます。
三番目について、裁判所で「3Dと現実の洋服の違い」が議論の余地が無いことはわかると思います。だって絵だもん。キズナアイの服飾デザインが、現実における服装とみなされることはありません。デザイン担当者の作成した表現物として処理されるでしょう。
で、今回は二番目のレイヤーで話をしているはずなんですが、これは1番目のレイヤーと3番目のレイヤーのどちらに近いかってことです。近いというか、二番目と三番目は地続きだってことです。男女差別とかそういうたぐいの話だから、そうだよね。
で、そのレイヤーで話をするときに、無邪気にVtuber独立した人格論を展開して、第三層まで戦えますか?あのデザインはただの創作物ではなく、中の人の自己決定権によるものだと主張することに合理性や将来はあるのかってことを疑問視してるわけです。今後いろんなタイプのVtuberが出てきたときに全員をちゃんと保護できるロジックになっているか、もっとシリアスな問題が発生したときに足元を掬われるようなことにならないか。ちゃんとそういったことまで視野に入れた上で、「キズナアイには人格がある」と外部に向けて主張しているんですか、と疑問に思っているわけです。
Vtuberは一人の人格として独立していると私は見なす。中の人もいるし。
一人の独立した人格に対して、性的だから公に出てくるなとフェミニズムが主張するのはおかしい。個人の選択の結果の服装は弾圧されるべきではない。
ここで主張されていることって、極端な話、キズナアイの造形を決定するにあたって憲法21条の表現の自由ではなく、13条の自己決定権によって行われてるってことだよね。それはおそらく外部に向かって通じる理論じゃないです。いきなり話がでかくなって自分でも違和感あるけど、外部に向かって議論をするときにはそのくらい考えておいたほうがよいだろうと思ってるよ。
この部分も「法的に『キャラとして設定も尊重されてる』わけではない」ことがなぜ「『キャラとしての設定として魂があって中の人の人権が尊重される』という言い分は無理があるって結論になる」のかちょっとよくわからないです。なにが「だから」なのか。
これは書き方が悪かったな。自分でも何言ってるのかわからん。まあやっぱり文脈次第でって話。
デーモン小暮の本体はもちろん人権を保証されてるし、エンタメの文脈では設定も尊重されてペイントのまま相撲中継したりしてるけど、公的な場所、たとえば運転免許証の写真では、ペイント落とさないと通らない。文脈によって、あのペイントの顔がデーモン小暮の素顔だという設定が無効になる。
同じように、キズナアイの中の人も人権を保証されてるし、エンタメの文脈では「キズナアイというタレント」という設定も尊重されるだろうけど、社会問題を扱う文脈ではその看板をおろさざるを得ず、3Dモデルの服飾デザインは中の人の自己決定権によるものだという主張は難しいだろうって話です。