戸定梨香の件でホットエントリに上がっているブコメを見ると、VTuberニワカが「何でただの絵と中の人を同一視するの?」と疑問を呈し、
それに対してVTuberオタクが「VTuberのガワと中身は1対1だぞ」と突っ込む構図がよく見られる。
しかし実際の所、「VTuberの体と魂は1対1」という考え方はVTuber黎明期には必ずしも定説ではなく、「中身を入れ替え可能なタレント」としての役割をVTuberに期待している者もいた。
ガワはミッキーマウスやガチャピンのぬいぐるみのようなもので、演者はあくまでそれを動かすだけ……というイメージだ。
VTuber黎明期……まだ四天王とかいう言葉が現役だった頃……というのは、3Dモデルを用いて収録した動画コンテンツが主流だった。
台本がガッチリ組まれていて撮り直しが出来る動画であれば、声さえ似せることができれば中の人を交換可能なのでは?というのは、まあさほどおかしくない考え方である。
しかし、この「ガワ=ぬいぐるみ理論」は、VTuberの主流コンテンツが収録動画からLive2Dを用いた生配信に移るにしたがって廃れていった。
演者のアドリブで成り立っている生配信では、ぬいぐるみではなくむしろ中の人の個性こそがコンテンツのキモで、中の人などいない、が成り立たないからだ。
現状のVTuberにとってのガワはガチャピンのぬいぐるみではなく、デーモン小暮のメイクに近い、中の人と融合してコンテンツを形づくる物と言えるだろう。
小暮隆以外の人間があのメイクをしてもデーモン小暮というタレントにはならないように、
VTuberの視聴者が楽しんでいるのもガワというメイクと中の人が融合したナニカであり、ガワそのものでも中の人そのものでも無いのである。