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宝塚歌劇 雪組 トップコンビ 望海風斗・真彩希帆 退団公演 上田久美子脚本演出 fff
ポスターのコピーが「やるならやってみろ、運命よ」であり、宝塚クラスタは少し沸いた
(ちなみにまだ見てないしコロナで観劇やめたしネットの感想等もまだ見ないようにしている状態)
これ、自分もベートーヴェンの交響曲第5番の「運命はこのように戸を叩く」的な話から上田久美子氏が創作したコピーかと思っていたのだが、
青木やよひ氏の著作を読んでびっくりした。『ゲーテとベートーヴェン』p.193(平凡社新書、hontoにて電子書籍で購入)
つまりは、ハイリゲンシュタットの遺書よりも、交響曲第5番よりも後に実際にベートーヴェンが書き散らしていた言葉であった。ありがとう。よろしくお願いします。
年末に山程お笑い番組を録画して順番に見てるんだけど、コロナにノーガード過ぎて全く笑えない。
コロナが始まってから時間が経つにつれてコンビは至近距離でも大丈夫みたいな感じになってきてたのも気になってたけど、年末になってコンビも関係なし、そもそもマスクもつけず至近距離で大声で怒鳴り合うのが当たり前になってる。
口元が見えないならテロップで補えばいいじゃない。
透明のマウスマスクつけてれば大丈夫みたいな空気を醸し出すのはもうやめてほしい。
あー。今相手に飛沫がかかってる。あー。いまエアロゾル発生するような大声出してる。そんなことばかり気になってネタもトークも一切頭に入ってこない。
コロナ忘れさせてくれようとしたのかわからないけど、むしろコロナが気になって本当に全然笑えなかった。
それで同じ局のニュースで感染拡大に歯止めがかからない。政府は何やってんだみたいなの流されても、どうしろと。
今、コロナに一番の悪影響を与えてるのってテレビだと思うのだけどどうなんだろう。
彼らが当たり前にマスクを付けた姿を見せて、その上でネタやら歌やらを、ちゃんと伝えるような努力を一番にしてほしい。
芸人と歌手が入り混じってカラオケバトルみたいなのが一番めまいがした。
そんなので絶対にコロナストレス吹っ飛ばないよ。むしろ不安になるばっかり。
役割を軸にして考えたとき、(コントと比較すると)漫才ではボケとツッコミの役割がはっきり分かれるパターンが多い。
これは、コントでは最初から最後まで「自分以外の役」に入り込んで「演技」をする形態が主であるのに対して、漫才ではあくまでも「自分」が喋っている体で「会話」をする形態が主だからである。
「だったらコント漫才(M-1優勝者ではアンタッチャブルやサンドウィッチマンなどのネタがそれに該当)はどうなの?」という疑問が当然あると思うが、これも基本的にはボケ・ツッコミ共に自分自身を投影した役であることが多く、純粋なコントに比べると言動にパーソナリティが大きく反映されるという点で違いがある。
つまり、漫才には純然たる役割が決められており、M-1が2001年から開催されひとつの「競技」となっても「ボケ担当の人はひたすらボケ続けるし、ツッコミ担当の人はひたすらツッコみ続ける」という形はしばらく変わることがなかった。
漫才における役割を軸にして考えたとき、まず最初に議題に上がるのが笑い飯というコンビである。
彼らは、最初どちらかがボケてそれに対してツッコむというやり取りが終わったあと、ツッコんだ側が「俺にもやらせろ」と言って役割が変わり、それ以降はツッコむごとに役割が交互に変わっていくというスタイルを持つコンビである。
しかし、ネタ全体の構成を見るとボケ・ツッコミの役割がハッキリと別れており、それが入れ替わるというギミックがなければ比較的オーソドックスなネタであるとも言える。
このボケ・ツッコミという役割を曖昧にした上で主要大会を優勝した最初のコンビは、M-1 2005におけるブラックマヨネーズである。
基本的に吉田がボケ・小杉がツッコミの役割を持ったコンビであるが、この年に披露したネタは後半になっていくにつれて小杉が突拍子もないことを言いだし、それに対して吉田が正論でツッコむというパターンが多く見られた。
これは「平場のトーク(ラジオなど)では面白いのにネタがいまいち」というブラマヨ評に対して彼らがたどり着いた一つの回答である。
つまり、漫才だからといって必ずしも役割をハッキリ分けず、普通の会話のようにボケとツッコミがシームレスに入れ替わるパターンがあっても良い、ということが世間にも認められた瞬間であった。
そして、その漫才における役割の曖昧性が頂点に達したのはTHE MANZAI 2012である。
この中で役割がハッキリと別れたネタをする千鳥はさておき(ここもベタとは言えないスタイルを持つコンビではあるのだが…)、注目したいのはハマカーンとアルコ&ピースである。
まず、優勝したハマカーンであるが、2012年以前は浜谷がボケ、神田がツッコミという役割が比較的はっきりと別れた漫才をするコンビであった。
しかし、この前年のTHE MANZAIで(本人曰く)惨敗したあと、スタイルを大きく変える決断をし、役割も主として神田がボケ、浜谷がツッコミという形に変更した。
そして、このスタイルのネタの中で一番特徴的なのは、神田が女子目線で物事を語ったあと、浜谷が著しく感情的に怒り、それに対してさらに神田が理論的に諭すというものである。
抽象的に言い直すと、本来は単なる導入部に過ぎないネタ振りがボケとなり、それに対してボケに限りなく近いツッコミをして、それに対してさらに言い返す、というパターンを構築しているのである。
彼らもやはりブラマヨがネタの構成を変えた理由に近いものがあり、優勝後に記者が彼らに「どっちがボケ・ツッコミって書けばいいですか?」と質問したというエピソードもあるくらい彼らの役割は曖昧であったと言える。
彼らは、漫才の代表作としてラテン語風の架空の言語を駆使して(しかし、よく聞くと日本語が散りばめられており内容がわかる)しゃべくり漫才など、(自分自身を投影した役割ではないという意味で)どちらかと言うと限りなくコントに近い漫才を得意としていた。
この年に披露したネタは、酒井がよくある漫才のネタ振りを平子が真剣に受け取り芸人として苦言を呈していくというものであった。
これは、見ようによっては役割上はツッコミであるはずの酒井がボケっぽく見え、ボケであるはずの平子がツッコミっぽく見えるネタであると言える。
決勝ではハマカーンに敗れてしまったものの、このネタにより一回戦を審査員満票で笑い飯を退け、決勝に勝ち上がったということの意味はとても大きい。
このようにして、漫才における「役割」を軸にして考えると、いろんなことが見えてくる。
つまり、伝統的な漫才とされているものが、役割だけで見ると必ずしもそうとは言えない(またはその逆)ケースが出てくるのだ。
昨年M-1を圧倒的な評価で優勝したミルクボーイであるが、ちゃんとやり取りがあるという点においては比較的ベタなしゃべくり漫才と言えるが、役割を軸にするとどうだろうか。
彼らのネタはボケである駒場が、母親がなかなか思い出せない物事があると語り、それに対してツッコミである内海がヒントを元に推測する、というスタイルになっている。
ここで、内海のツッコミに注目すると「〇〇やないか!」「〇〇ちゃうやないか!」という最初のフレーズを除き、推測対象(コーンフレーク及び最中)に対してやや偏見掛かった持論を語るという形になっており、取りようによっては最初のフレーズ以外はほぼボケとみなすことも出来るだろう。
ボケである駒場も、特に突拍子もないことを言うわけでもなく、ただ淡々と対象を推測しうるヒントとなるワードを言い、それがツッコミによりボケと気付かされるというスタイルになっている。
つまり、ミルクボーイは役割こそ別れているものの、その境界線はかなり曖昧で、実はツッコミがボケをリードする形になっており、しゃべくり漫才における主従関係が逆転したスタイルをもつコンビと言える。
この、ボケと言えるかギリギリのラインを攻めるボケと、それを埋めるように著しく強いツッコミをするというスタイルをもつコンビは、過去にもくりぃむしちゅー(海砂利水魚)などがいるため、前例がないわけではないが、漫才全体の歴史で考えると十分革新的なスタイルであると言えるだろう。
一方、漫才であるかどうかということが槍玉に挙げられたM-1 2020を優勝したマヂカルラブリーであるが、役割だけを見るとかなり保守的であると言えるだろう。
彼らのネタはボケである野田がひたすらボケ続け、ツッコミである村上が外側で解説に近いツッコミをし続ける、というスタイルである。
つまり、やり取りが序盤とオチ以外存在しないという点が従来の漫才から外れているというだけで、それ以外は至極まっとうなスタイルのコント漫才である。
この「やり取りが存在しない」という漫才の最右翼としてあげられるのがナイツだが、彼らが漫才師でないという意見はほぼ皆無であろう。
したがって、ナイツを漫才師であると評価している以上、マヂカルラブリーのネタを漫才でないと評価するのは無理のある議論と言えるのではないだろうか。
何かさー、
世の中
異性愛ものの創作物を見るのが嫌いでない人の数(当人の性嗜好が異性愛者でない人を含む)>異性愛ものの創作物を見るのが嫌いな人の数(当人の性嗜好が異性愛者である人も含む)
だと思うのよ
男女間バディ作品が恋愛関係になるかどうかの数も需要の問題を無視できず、大体の人口比に比例すると思うから
「最後まで恋愛関係にならない男女コンビの話が好きだけどあまり見つからない!もっと見たいので紹介して!」
だったら全然気にならないし、寧ろ好感が持てるのになー
でもそれだったら拡散される事もなく、広がらないのか
男女は恋愛するものという決めつけで作られているとか異性愛規範を押しつけているとか、恋愛が絡まない作品は存在しないとか、そういう強い言葉を使って煽らないと広まらないものなのか
やってらんねーな
ミルクボーイが優勝だったけど個人的にはかまいたちのネタが好き
ぺこぱも決勝の決勝でもツッコまないツッコミの違うパターン見せてて面白かった
去年Twitterで最中の家系図を見たときにはなんのこっちゃと思ったけどああいうことか
2019の決勝3組はネタの傾向がめちゃめちゃわかりやすいコンビだなと思った
かまいたちは一つのさりげない話題から予想のつかないところに発展するし、ぺこぱはツッコミがオンリーワン
あと残りで好きなのはインディアンス、オズワルド、からし蓮根、ニューヨーク、すゑひろがりず
インディアンスとオズワルド、ニューヨークは今年のが好きだったからそこから好意的に見てた
からし蓮根は最後のボケがツッコミをはねるってシンプルなのが好き
見取り図は正直ピンと来ず
和牛もコンビ自体は好きだけど2019のネタは個人的にはそこまで
別のときに見たのは良かった
漫才にも種類があるけどM-1グランプリとあってもタイプが違うんだなと
二次創作なんて所詮エロいやつが強いのは分かってるんだが、暗転までしか書けない病気にかかっている。
書こうとしても手が止まる。描写が思いつかない。導入長くて、気が付いたら導入だけでこれ十分だなみたいになる。
二次創作での物語というものを知ったのが夢からだったんで、自然と小説を選んだ感じはする。幼少から小説読むのが好きだったし。
あと、自分の絵好きじゃないので、長時間向き合っていると辛すぎて拷問みたいになってくる。
いい歳して喪女だからか? とか原因をいろいろ考えたんだが、所詮エロはファンタジー。経験ではなく何をどう書けるかが問題のような気はする。エロい小説読んだ量は相当だと思うし……。
ていうか昔から仲良くしてるオタク友達が見えるところでエロの話ほとんどしない。出会ったときから全員メインジャンル違うし、顔を知ってるというので気まずいのかもしれないけれども。
だからあまりそういうのが身近にいなかったということで、余計に自分の中にレパートリーとしてないのかもしれない。
話がそれた。
推しCPのエロいのが書けなくて、いやぁ困ったなぁ。って思っていたんだが、ふっと気づいたんだよ。
ほんとにエロいやつ書きたいのか? ってさ。
いや、書きたいこともないんだけどさ。もしかしてオタクのスタンスとして違うのでは?自分はエロが目的じゃなくて、エロを通して何かを書きたいんじゃないか?ってちょっと思ったんだよね。
別にエロを目的にエロを書く人を下げたいわけじゃなくて、ただ萌えてるポイントが違う可能性を考えてみたわけ。
たしかに「推しCP」というものができたのはこれが初めてだ。他で夢経由してるところから察していただけると思うが、今まで「推し」というか、「好きな奴」しか存在しなかったわけだ。
それが、初めて「関係性」とか「二人のやり取り」に滾って、仲良しコンビどころではなく「こいつら付き合ってる」まで行きついたのだから、そういう「関係性の動き」とかを書きたいと思っている可能性はなくもない。
だってエロにそれ入れたらそれはもう「推しCPのエロいやつ」ではなく「推しCPの話(エロ付き)」だろ。たぶん。きっと。おそらく。
それから、正直拗らせてるDTみたいなところがあるから、一般小説、かは知らないけれど太宰とか芥川とかそういうレベルのエロ描写で「エロいな~!」って思ってるんだよ。
いや、彼らは別格で、直接でなくても読み手に想像させるよう文章力が神ってるからとかそういう可能性は否定しない。
それから割とシチュだけでもエロいな~!って思ってるね。「ミニスカナース」の単語だけでセルフジョイできる人間に近い。
それだけで満足しているからその先が必要ないのでは、みたいな。
まあ、いろいろ考えてみたけどさ。
佐藤と鈴木を組み合わせて、「佐鈴」だの「さとすず」だのと書いたり読んだりする。
そこに意味を持たせる界隈がある。
もちろん、攻めといったら穴に棒を入れるほうで、受けといったら穴に棒を受け入れるほう。佐藤が鈴木の穴に棒を入れるということだ。「鈴佐」だったら、攻めの鈴木と受けの佐藤で、鈴木が佐藤の穴に棒を入れることになる。
これは何にもかえがたい規則である。佐鈴の鈴木は、佐藤の穴に棒を入れてはならない。鈴佐の佐藤は、鈴木の穴に棒を入れてはならない。上の穴だろうが下の穴だろうが関係ない。例外はない。
例外はないので、佐藤も鈴木もどっちもどっちをやりたいときは、「佐鈴佐」とか「鈴佐鈴」とかって書くことになる。「リバ」というやつだ。佐藤も鈴木も下の穴でもいいし、佐鈴の佐藤が鈴木の上の穴に棒を入れてもいい。そういうときは、「佐鈴佐」とか「鈴佐鈴」とかって書かなきゃいけない。
何の話だっけ。佐鈴を佐鈴と書かなきゃいけない界隈の話。
書かなきゃいけないんだよ。佐鈴も鈴佐も佐藤と鈴木だけど、佐鈴は鈴佐じゃなくて、鈴佐も佐鈴じゃなくて、佐鈴も鈴佐も佐藤と鈴木では駄目なのだ。
でも駄目。
検索避けのためである。この界隈では、佐藤と鈴木の恋模様を特殊性癖に分類しているのだ。人を選ぶと言い換えてもいい。佐藤と鈴木の恋模様は、到底、一般人の目に入っていい内容ではない。
つまり、純粋に「佐藤」と「鈴木」を求める人のための検索避けである。ここで「佐藤」「鈴木」のタグを並べては、彼らの検索を妨害しかねない。佐藤と鈴木の恋模様は特殊性癖なのだ。こちらも特別なタグを使うべきだ。
ということで、一般人の検索を妨害しない、検索避けのための特別なタグがこちら。「佐鈴」「鈴佐」。ぜひ、佐藤と鈴木と穴と棒の関係に従って、適切に選んでほしい。
それでは。この日記は、あなたのすばらしい特殊性癖ライフを願う佐鈴の提供でお送りしました。
佐藤と鈴木の穴と棒に相談してください。彼らの将来を想像するのも悪くないと思います。
「佐鈴」も「鈴佐」も使わなければいいと思います。だからといって「佐藤」「鈴木」のタグを使うことはしないでくださいね。純粋な気持ちで「佐藤」と「鈴木」を検索する一般人の目を汚すことになるので。
って感じ。
いわゆる二次創作の、いわゆるBLの、いわゆるCPの、っていう界隈の話なんですけど。よそのことは知りません。
穴も棒もわからない佐藤と鈴木の恋模様には、どんなタグを付ければいいんだよ。いや知ってるよ。原作の題名にしれっと「腐」の字を混ぜた特別なタグがあるもんな。一般人とのすみわけのために、原作の題名やら略称やらは使わないで、この特別なすみわけ題名タグを使わなきゃいけないんだもんな。でも佐藤と鈴木がいることをどうやって伝えろっていうんだよ。
あっ、すみわけ題名タグを使ったときは例外ですか。そうですか。これですみわけができたから、佐藤と鈴木をそのままタグにしても問題ないってか。
じゃあ「佐鈴」「鈴佐」は? あっ、すみわけ題名タグがなくても、特殊性癖を意味するタグですか。あっそう。そうだよね。インフルエンサーが2人を組み合わせて「佐鈴」とか「鈴佐」とかって呼んでたらびっくりしちゃうよね。わかるわかる。
嘘。大嘘。わかりません。わからん。わかんね。こんなありふれた呼称が何だって?
コンビタグとかグループタグとかっていうものがあるんですけど、これは佐藤と鈴木の恋模様ではない関係を描いたことを表すタグで、たとえば佐藤と鈴木が2人でたばこ休憩するからって「たばこ休憩組」って呼ばれたりするんですけど。ですけど。
なんで特殊性癖じゃない関係のほうが、こんな特殊っぽいタグを使うんですか。なんで、あんなにありふれた「佐鈴」が使えないんですか。意味わかんねー。せいぜい、すみわけ系題名タグと「佐鈴」を併用したときにだけ特殊性癖を表すことにしろ。そうでもないときにちょっとインフルエンサーが「佐鈴」を呼んだくらいで発狂するな。
そもそも二次創作BLは特殊性癖か? 男と男の恋模様がそんなに特殊か? 特殊って言えるの? 今? 現代? 令和ですけど!? いやべつに特殊だろう普通だろうと、インフルエンサーがBL前提で「佐鈴」を呼んでもよくない!?
あっ違う? そういう差別的な意味ではない? 今だからこそデリケートな話題だからこその配慮ってやつ? そこまで配慮したいならタグじゃなくて、おまえの二次創作を読む人間が必ず通るところで説明しろ。文章で説明しろ。
「BLです。男と男の同性愛描写がございます。現在、同性愛を含めて、ジェンダーはデリケートな問題を孕んでいます。こちらの二次創作は、そうした問題について無神経な書き方をしているかもしれません。ご注意ください」
みたいな?
それともこっちか?
「原作で同性愛者と言及のない男性を同性愛者として描写しております。捏造です」
「原作で異性愛者と明確に言及されている男性を同性愛者に変更しました。捏造です」
まー二次創作なんか全部だいたい捏造ですけど。つーか、ジェンダーについて言及のない登場人物を異性愛者前提で扱うのもどうかと思うけど。もう原作にない恋愛(性愛)関係のすべてを警告しろ。
「この二次創作は、原作で言及のない恋愛(性愛)描写を含みます」
一部の方々のアレであることはわかっているんですけど、私みたいに嫌な思いをする人間もいるので、もうなんか「すみわけ」の気配を察知するだけで涙が止まらなくなり、日常生活に支障をきたし、今も泣きながら、このどうしようもない思いを吐き出したらすっきりするのかなとか考えながら、これは好みの話ですが、鈴木が受けに回った瞬間どうしようもなくメスになる現象が苦手です。
50代男性。好きな番組はゴッドタン、お笑い向上委員会、有田ジェネレーションっていう程度にはお笑い好き。
金属バット/好き。トップバッターに一番ふさわしくない。別れてくれない理由が生命保険かけてるからっていうオチはも少しなんとかならないか
タイムキーパー/若くて親しみのあるコンビがアンパンマンの歌をいじったりしたら、そりゃあ普通の漫才になっちゃうよね
からし蓮根/好き。面白かった。小さい方がワーキャー言われてんだろなと思った
ランジャタイ/両方ともに衣装のセンスが良い。一番絵になるコンビ。ネタは難しい
滝音/ハンプティダンプティもバンプオブチキンもそんなに知らない…すんません
学天即/トータルで面白い。もっと面白いことやりそうな雰囲気が欲しい
ダイタク/言うな言い過ぎ
ロングコートダディ/ただただ凄い
ニッポンの社長/神
ニューヨーク/大好きなネタだったんだけど、以前は嶋佐がホントにやってそうな顔してたのにそれが薄れていた
見取り図/凄すぎた
アキナ/大阪でワーキャー言われてる印象だったけど、その通りだった
マヂカルラブリー/めちゃくちゃ笑えた。ありがとうございます
全体を通して、準々決勝敗退のももの◯◯顔のネタが一番好きだった。漫才ってまだまだいろんな可能性が残ってるんだなあと感心した。
先に書いておきますが、私個人の考えとしては、M-1決勝に上がった方々は皆さん「漫才」をしていたと思っているし、どのネタもとても面白かったと感じています。
このエントリーは、マヂカルラブリーやおいでやすこがを「漫才ではない」と断定し、「ちゃんとした漫才をした見取り図が優勝すべきだった」とする意見への違和感をきっかけとして書いたものです。
2020年のM-1終了後、Twitterトレンドに「見取り図」が上がりました。その中で多く散見されたのが、「見取り図が一番面白かった、優勝してほしかった」というもの。
その気持ちはとてもよくわかりました。笑いの感性は人それぞれ。自分のツボにハマった人が最も面白いし、勝って欲しいと思うのも当然です。
ただ、その中で気になる意見がありました。「最終決戦に上がった3組の中で、『ちゃんとした、正統派の漫才』をしていたのは見取り図だけだったから、M-1と冠するなら見取り図を勝たせるべきだった」というものです。決して少なくない方々がそのように呟き、トレンドを盛り上がらせる一端を担っていました。
ですが、その感想は的を射ていないと思うのです。
なぜなら、その方達が言うように「漫才」の定義にこだわるべきなら、見取り図はそもそも最終決戦に上がれなかったことになるからです。
寄席演芸の一種。2人で一組になり,滑稽な話題を掛合で聞かせるもの。
https://kotobank.jp/word/漫才-137921 より
漫才(まんざい)は、2人ないしそれ以上の複数人による寄席演芸の一種目。通常、コンビを組んだ2人によるこっけいな掛合いで客を笑わすものを言う。
(中略)
漫才は基本的に、演者が「演者自身」として発話し、その会話の流れによって観客の笑いを呼び起こそうとする演芸であり、その点で、何らかの役柄や舞台設定を、扮装や簡単なセットによって提示するコントとは異なる。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/漫才 より
複数の人間が、演者自身として滑稽な掛け合いをすることが漫才なのです。会話の掛け合いでなくてはならないとは書いていません。
マヂカルラブリーは野田さん自身としての動きと村上さん自身としてのツッコミ。おいでやすこがは、こがさん自身としての歌と小田さん自身としてのツッコミで、しっかり掛け合いをしていました。
対して見取り図は、最終決戦では盛山さんとしてのツッコミとリリーさんとしてのボケで掛け合いをしていましたが、1回戦では挨拶もそこそこにマネージャーと大御所としての設定に入り、締めまでキャラクターを演じ続けていました。「ちゃんとした漫才」という定義にこだわってしまえば、1回戦のネタは正統派とはいえず、決勝の決勝には上がれなかったことになります。
ただ、上記のようなスタイルの、いわゆるコント漫才というものは、サンドウィッチマンやパンクブーブーなど、過去の王者達も採用しており、漫才の1つのスタイルとして確立されています。ほとんどの人が、漫才であるということに異論はないでしょう。私ももちろんありません。
私が言いたいのは、漫才に正統派なんてないんじゃないか、ということです。
コント漫才が、本来の漫才の定義とズレながらもスタイルの一つとして定着していったように、これからも多くのスタイルが生まれ定着していくことでしょう。
サンドウィッチマンの伊達さんの言葉を借りれば、「センターマイクに向かって舞台袖から出てきて『どうも』と始まれば、それは漫才」なのです。
演芸としての枠が大きいからこそ、時代ごとの芸人さん達が新しい発明をしていき、内容を進化させ、思いもよらなかった角度で私たちを笑わせてくれるのだと思います。
改めて書きますが、2020年のM-1では、マヂカルラブリーもおいでやすこがも、見取り図も、もちろんその他のメンバーも、内容やスタイルが違っただけで、皆間違いなく素晴らしい漫才をしていました。
見た目は旨そうなベーコンエッグ、材料は旨そうなベーコンエッグ、作ってる時は旨そうなベーコンエッグ
だが、いざ完成したベーコンエッグを食べてみるとそこまで旨くない
ベーコンと卵だから不味くはないけど、ベーコンエッグである必然性が感じられない
Vtuberに興味を持っていても登録するのはわずかな推しだけ、といった状況だった。
しかし思い切ってにじさんじのライバーを全員フォローしてみたところ、
意外にしっくりきたのでその知見を共有したい。
全員登録すると何が嬉しいのか?
それは「YouTubeの感覚がテレビ的になる」ということだ。
テレビのチャンネルを切り替えるようにライバーの配信をザッピングしていく。
「観たい配信があるからYouTubeを開く」から「YouTubeを開いて観たい配信を探す」への転換。
すなわち「帰宅したらとりあえずテレビを付ける」のと似た受動的な視聴環境が出来上がるのである。
ちなみに同時間帯に配信しているのはせいぜい10人くらいなので多すぎて把握しきれないというほどでもない。
そうして眺めているうちに何となくライバーの個性が分かるようになってくる。
リコメンドでも切り抜き動画(=配信の見どころを抜き出した短い動画)が増える。
これまで興味がなかったライバーの意外な面白い企画に出会うこともある。
「少数の推しを深く追いかける」のではなく「全員を広く浅く把握していく」環境が整う。
にじさんじには「特に仲の良いコンビ」だとか「一緒にデビューした同期」などの緩やかな繋がりがある。
何十人も参加する大型コラボ企画だってしばしば開催されている。
にじさんじという「箱」をより楽しめるようになっているだろう。
真っ先にコロナ慣れしてる姿を垂れ流しているテレビがそれをいうかね。
マスクどうした
とくにひどいのは、同一グループ、たとえばお笑いの相方同士だったらそういうの全く無視で座らせる番組が多すぎること。
コンビ同士だからって寝食ともにしてるわけじゃないんだからそれはあかんでしょ。
あんなのみてたら若い人に限らずそこまでは大丈夫なんだなって勘違いして当然。
自分たちの影響力知らないわけないですよね?その上で世間だけ切り離してコロナ慣れを批判的に報道するのはああそうですか以外に感想でなくないですか。
職場近くがよく撮影に使われるのだけど、道路両脇に窓を締め切ったロケバスを山程並べて、そこからぞろぞろ人間が出てくるところを見てると本当に頭のおかしい業界だと思うよ。