はてなキーワード: アカデミズムとは
マジレスさせてもらうと、学問もしくは大学(アカデミズム)自体が政治志向を持った組織になっているんだよね。
だから、学問も社会運動も大きな違いはないのではないかと思う。
大学の原型は、中世のヨーロッパで設立された神学校がルーツとなっている。
その神学校自体は宗教改革や市民革命などで、18世紀には没落していたんだけど、フランス革命期以降に大学として生まれ変わった経緯がある。
19世紀以降の大学は、「科学」という名の新たな普遍主義の殿堂として利用されるようになったというのが真相。
そもそも神学校自体が、宗教学を社会に広めること自体が目的になっているから、それは別に正義でも何でもない。
日本で大学が設置されたのは明治時代以降だけど、日本人はそのルーツ自体を知る機会が無かったので、大学で教えていることは「普遍的な何か」だと勘違いしやすくなるのかもしれない。
フェミニズムを学問として扱っている大学も、そのフェミ思想を社会に広めるためにやっているわけだから、同じようにそれは社会正義でも普遍思想でもない。
フェミニズムが社会運動なのか学問なのかって部分で、フェミニストは随分甘えがあるように思うんだよね。
社会運動家としての一貫性を追求されると、これは学問であり個人の思想や要求ではないと逃げるし、学問としての透明性や検証の担保をもとめられると社会運動家としての被害者論に逃げ込む感じ。
おそらく今現在の多くのフェミニストは、フェミニズムがなんで学問を経由しなきゃならなかったのか、そこが本当にわかってない。
フェミニズムが、暴力の次元で既存社会と戦うと負けるからなんだよ。この場合暴力っていうのは、いわゆる肉体的だったり経済的だったり権力的だったりするようなぱっと想像できる暴力だけではなく、民主主義的な、多数決の暴力によってもフェミニズムは負けちゃうんだ。なにせ、以前の社会では「女性の権利が男性より劣るのは当たり前」だったから(女性参政権、この文脈では多数決に参加できる権利ですら日本ではまだ100年たってない)。聖書にすら男性の劣化品として描かれちゃうように、古代から封建社会経由で、女性は社会的弱者だったから「それが当たり前の社会」で多数決やっても、フェミニズムは負けるし負けてきたんだよ。
そういう状況をなんとか改善するためには、(民主主義的多数決を含めた)暴力を退ける必要性があって、そのためのテコとして、社会正義や公正を味方につけた、いわばフェミニズムの理論的背景構築が必要だった。「そのための」アカデミズムだった。だから過去、多くのフェミニズム論者たちは、必死で理論化を進めてきたんだよ。「私たちの求めているのは、ただの自分たちの私利私欲で行う権利拡張要求ではなく、社会正義の実現なのです。だから私たちの言うことを暴力で押しつぶさずに、どうか耳を傾けてください」というために、理論が必要だった。
「暴力ではない力」として、自分たちの主張の公正さや社会正義をきちんとアピールして、権利のゼロサムゲームという次元では利益相反である男性サイドにさえ「公正な社会の合理的な発展のためなら」ってことで譲歩する機運を作り出すのに、長い長い時間を掛けた。
にもかかわらず、現在Webで散見されるツイフェミのみなさんは、なんだかすごく後退しているようにみえる。お気持ちドリブンで暴力上等、殴り合いよっしゃこい、多数決で社会に圧力を掛けて、キモい連中を排除しようって、それ、暴力ですやん。「そういうレイヤーの勝ち負け」にしちゃって本当に良いんすかね? それやったらフェミ負けちゃうと思うよ? ってのが最大の疑問なんだよね。キミらその勝負の分が悪いから、100年近くかけて「お互い暴力はやめて、まずは理屈で話し合いましょうよ」ってがんばってきたんじゃねえの? っていう。
アカデミズムの使い方間違いすぎでしょ。フェミにとってアカデミズムは自分たちを律することによって相手の(既存社会の)暴力を自制してもらう装置だったのに、都合のいい棍棒として利用し始めちゃったら、相手も同じ棍棒持ち出してきて袋叩きにされるよそりゃ。
どうもツイフェミのみんなは、暴力の認識が甘い気がする。「みんなが嫌だと思ってるんだから、それを拒否するのは暴力じゃない」「多数決主義は暴力じゃない」「みんなでキモい奴らを吊るし上げるのは暴力じゃない」とか思っている節がある。もっとはっきりいうと「男性が女性に不当な要求をするのは暴力だけど、私たち女性(実は女性の中のごくごく一部なんだが)がオタクを排除しようとするのは暴力じゃない」とでもいうような。いやいやそれ暴力ですから。「多数派によって少数派の意見が封殺され、隷属的立場に置かれる」って、女性が不利益を被ってきた、悲しい歴史そのものでしょ。どうしてそこ忘れちゃうんだか。
そういうセリフを言っちゃった瞬間、フェミニズムが築き上げてきた「社会正義の実現としての男女同権」ってのは吹き飛んで、今まで色々言ってきたのはただの権力闘争でした〜☆、男性殴って女性の地位を向上させたいだけでした〜☆、になっちゃうんだよ。まあ、それが真実で正しいのかもしれんけれど、それを言っちゃったら今後暴力の応酬になるし、その応酬で勝てる目算たってるかっていえば、たってないでしょうに。
何が悪いって、一連のこういう動きは、その個別の案件で勝ったり負けたりする以上に、フェミニズムが築き上げてきた信頼を損なうって話なんだよ。たかが100年で得た権利でしかないのに、どう暴れても喪われないって慢心しすぎだと思うよ。「ああ、フェミってのはただの権力闘争で、公正さも透明性も正義もないんだな」ってなったら、過去に得た女性の権利でさえ後退する可能性はあるんだよ。せっかく積み上げてきた実績なのに、目の前の感情的発散のためになげすてるのはもったいないでしょうに。平塚らいてうが泣くわ。
認知バイアス 認知の歪み 偏見や洗脳 偽の記憶 …… そんな知識を得て、自分が「当然」だと思っていることがいかに「あやふや」な「偏見」に過ぎないのかを知るほど、人は差別と偏見から遠ざかるのだろうか?
残念ながら、人間には「完全に歪みを排除してすべての物事をフラットに見る」などということはできない。「ものを見る」というのは、世界に意味というフィルターをかける行為だからだ。ロボット技術者なら、そのことをよく知っている。カメラがとらえた映像が、道路の模様なのか飛び出した子供なのか「解釈」できなければ、自動運転車が町を走ることは不可能だ。私たちの視界は常に「歪んで」いる。大切なのは「どう歪んでいるのか」に、一つでも気づくことだ。
では、社会は?
社会全体が認知の歪みを抱えているとき、個々人がそれに気づくことは大層難しいことになる。社会がその歪みの中で人を育み、歪みで満たされ、みんながその歪みを常識として再生産しているとき、その歪みによって不利益を被る人さえ同じ認知の歪みを抱えたりするからだ。つまり「認知の歪み」を指摘する人がいない(これを差別や偏見の「内面化」という)。外部の人間なら、そういう社会の「歪み」に石を投げることができるかもしれないが、そんな社会の内部から石を投げるのは、内部にいながら別の価値をもつことができる人ということになる。
たとえばアカデミズムというのは、そういう価値の一つだ。学者という人たちは、単なる「お賢い、お勉強ができる人たち」なのではない。現在の社会とは別の「価値」をもち、内部にいても「外部」となる役割をもつ存在である。学者がしばしば「空気の読めないご意見番」として振る舞うのは、大事なことなのだ。
「王様は裸だ!」と子供が声をあげたとき、周りの大人の目には王様が裸に見えていて、だからあの童話はハッピーエンドになる。でも、もし周りの大人には「認知の歪み」のせいで「本当に服が見えていた」なら、どうだっただろう? 子供は黙殺され、あるいはぶっ飛ばされ、パレードは続き、そして王様は裸のままだったかもしれない。「社会全体の認知が歪んでいるかもしれない」というのは、このように深刻な問題を社会に引き起こす。
「みんなの目に裸が見えないなんてあるわけないじゃん」と思う人は、申し訳ないが、少しは歴史を学ぶべきだと思う。近代にだって国民が全員どうかしていたとしか思えない民主主義(のはずの)国家の事例はいくらでもあるだろう。王様のセクハラや犯罪が誰にも見えないらしい国、王様の頭にのった電話機が誰にも見えないらしい国、私たちのすぐそばにさえ、認知の歪みは現に存在している。
そもそもコミュニティもコミュニティに境界があるってのもどっちも幻想でしょ。世界には人間個人しか居なくて、それをクラスタ単位で見るってのは、認識能力に限界がある知性体のオートカテゴライズ機能ってだけだよ。その証拠にTwittterに「キモオタ死ね」って書いたらその矢はWebぱうわで拡大されて(潜在的には)自分以外の全人類(Twitter参加者だから言い過ぎか)に配達されてしまう。自分以外の全員(か、まあ、少なくとも興味ある数千人に)「「「「「「「「「「お前こそ死ねブス!」」」」」」」」」」と言い返されちゃうゾってのが話の実相だ。
結局理非をわきまえて、誤解を受けないように謙虚に発言するってのは、トーンポリシングでもアカデミズムでもヘタレでもなんでもなくて、世界に対して「わたしは暴力とは距離を起きますよ」「わたしから殴らない代わりに殴り合いには参加したくありません」っていう自己紹介なんだよね。
それをしないで暴力ウェルカムな言動してたらそりゃバトルになるわここはファイトクラブなんだから。それを自己責任って言うならまあそうだけど、仕方ないだろ。やっぱ教育は大事だっていういつものオチでしかない。
そんな風に非論理的な思考が多数派になっちゃう社会「学」なんてものは、そもそも社会構成員たる大衆の内面や、社会の動きやその未来予測においてなんら実用レベルの考察ができないってことを自己証明しちゃってるわけだから、アカデミズムの一端としてそれこそ滅ぼしても問題ないよねーでFAなんじゃたうん(c)ナムコ。
ならば社会「科学」の一分野である社会学、いやアカデミズムに頼るな
禁酒運動やヴィーガンどものようにヴァンダリズムをもって運動の立脚点にせよ
こちらも力を持って応ずるのみ
備忘録程度に
一般に、日本社会学において査読論文は重視されます。特に、若手にとって査読論文を出すことは研究業績を重ねる上で、非常に重要であると考えられています。
ただ、以下の三点が一般的な「アカデミア」のイメージとずれているため、わかりにくいところかなと思います。
日本社会学においては雑誌の格が明確に決まっておらず、これがIFやh-indexで論文の格がある程度自動的に決定される理系(+経済学)と違うところです。
たとえば、おそらく日本社会学で一番格が高い雑誌は日本社会学会が発行する『社会学評論』でしょうが、これに掲載が決まったからと言って、マーケットにおいてダントツに評価が高くなるということは無いですし、掲載率も25%程度とそこそこ高いです。
一方、関東社会学会が発行する『年報社会学論集』や関西社会学会が発行する『フォーラム現代社会学』なども掲載率は同程度ですし、評価もされると思われます。つまり査読論文の質がジャーナルの格によって決定される、という仕組みが弱いです。これは社会学の領域の多様性+手法の多様性+後述する国際意識の弱さに起因していると思われます。
また、『思想』『現代思想』といった一部商業雑誌や、『ソシオロジ』『ソシオロゴス』といった同人誌に近い形態を取る査読雑誌が、ある程度の評価を受けているという点も特殊かな。
依頼論文が査読論文より偉いというのはまず無いと思いますが、一方で依頼論文が評価されないということもないです。一般に依頼論文は査読論文と同程度の評価を受けているかと思われます。
エライ社会学者ほど査読論文を書きたがらない、というのは事実です。というのも、彼らは自分の考えたことを本にしてまとめてしまうからですね。
ではなぜ本にしてしまうのかというと、査読を受けたがらないというのも確かにあるのですが、概ね①社会学ギョーカイは一定程度の市場があり、エライ教授がまとめた(キャッチーor教科書になる)本は出版社としても出したがる傾向が依然としてある②査読プロセスが長い(半年-2年)ため、自分の考えをとっとと出せる本のほうが魅力的③先述した社会学の領域の多様性+手法の多様性により、査読による集合知が先駆的研究の場合働きにくい場合があるという点のほうが大きいかなと思います。
特に特殊なのは①ですね。この日本社会学の市場の大きさが与えたアカデミズムへの影響は、無視できないと思います。
日本社会学がどちらかというと内向きな傾向にあることは否定出来ないと思います。比較的国際化が進んでいるのは計量分析が盛んであり、アメリカ社会学と親和性が強い家族・人口・ネットワーク社会学の一部と、伝統的に留学風潮の強い学説史・理論でしょうか。とはいえ後者はいわゆる「国際化」とはずれてますが。いずれにせよこれら以外の領域では、英仏独語で論文を書くという行為はあまり一般的ではないです。
ではなぜ内向きなのかというと、前述したように社会学が比較的まだ「売れる」学問だから、というのが大きいように思います。つまり国内マーケットの中で、研究にせよ知名度にせよ院生にせよある程度獲得できてしまうという現状が、外に目を向けない元凶かなと。
もちろん社会学という学問が、もともと世界的な共有知を探求するというよりも、個別特殊的事例や、異なる側面からの理論体系を構築する研究を好む傾向があるということも大きいでしょう。
ただ、国際化されてないからと言って国際化が評価されていないかというとそういうことはなく、IFを持つ海外査読誌に論文が載ることは、希少故に非常に意義があるものとして認められています。
上記したように、社会学においては論文の格は雑誌によって決定されず、査読論文と依頼論文の区別は曖昧であり、内向き志向である。とすれば一体研究者評価はどのようになされているのでしょうか?
この問に答えるのは容易ではないですが、平均的な回答をしておきます。
まず重要なのはこれで、博論で単著が出せるか、出したあと評価されるかは、研究者個人の評価に決定的な影響を及ぼします。
一部大学院で未だに課程博士をなかなか出したがらないのは、これも影響しています。つまり単著で出せるような博論でないと、そもそも就職が覚束ないという考えなんですね。
査読論文の格が特に決まってないとはいえ、査読論文が重要な評価対象とみなされているということは、先述したとおりです。ですので、いきおい査読論文の数は、若手研究者の就職にあたって非常に重要です。いくら良い博論を単著で刊行できたとしても、査読論文がない研究者が就職することは(比較的)難しいでしょう。
ではどのくらい必要なのかということですが、だいたい就職までに3~4本(紀要除く)書いているのが一般的なようです。
なお、海外著名ジャーナルや『社会学評論』に載っていると、当然その分評価されますが、評価が格段に良くなるということは無いように思います。これが「格がない」という言葉の事実であります。
どういうことかというと、結局いくら査読論文が重要とはいえ、それ以外の仕事というのも社会学では評価の対象となります。つまりムラのネットワークの中で、いかに仕事(ブックチャプターや非常勤講師など)を貰えるかが、結果的に研究者評価において非常に重要なファクターとなるんですね。コネで採用されるというのはほぼなくなったと思いますが、未だに特定の大学の院生が比較的就職しやすいのは、あるネットワークに所属していると、比較的研究業績を増やしやすいということもあると思います。こうした状況の中で若手研究者は業績を稼ぐために媚びへつらい、顔を売り、己が付き合っていて気持ちがいい人間であることをアピールするために、愛想笑いを浮かべながら査読論文の抜き刷りを配り歩くのです。
とはいえ、これは一般的な「社会」でも一緒ですからなんとも言えないですね。とかくこの世は世知辛い…アカデミアがコミュ障の楽園だと思っていたら、実はベンチャー企業の営業と類似のスキルが必要であることを痛感するのは、博士課程進学後になってからなのです。
ちなみに一部の大学ではこうした制度を公的に備えているところもありますが、これは先述したネットワークが発達した大学への対抗実践として見ることもできるでしょう。
なお社会学ムラ内でのふるまいのコードは、一般的な民間企業とも、いわゆる「アカデミア」の無縫さとも異なる独自の体系があるのですが、それは省略