2018-10-31

自分を疑うことの難しさ(1)

認知バイアス 認知の歪み 偏見洗脳 偽の記憶 …… そんな知識を得て、自分が「当然」だと思っていることがいかに「あやふや」な「偏見」に過ぎないのかを知るほど、人は差別偏見から遠ざかるのだろうか?

残念ながら、人間には「完全に歪みを排除してすべての物事フラットに見る」などということはできない。「ものを見る」というのは、世界意味というフィルターをかける行為からだ。ロボット技術者なら、そのことをよく知っている。カメラがとらえた映像が、道路の模様なのか飛び出した子供なのか「解釈」できなければ、自動運転車が町を走ることは不可能だ。私たちの視界は常に「歪んで」いる。大切なのは「どう歪んでいるのか」に、一つでも気づくことだ。

では、社会は?

社会全体が認知の歪みを抱えているとき、個々人がそれに気づくことは大層難しいことになる。社会がその歪みの中で人を育み、歪みで満たされ、みんながその歪みを常識として再生産しているとき、その歪みによって不利益を被る人さえ同じ認知の歪みを抱えたりするからだ。つまり認知の歪み」を指摘する人がいない(これを差別偏見の「内面化」という)。外部の人間なら、そういう社会の「歪み」に石を投げることができるかもしれないが、そんな社会の内部から石を投げるのは、内部にいながら別の価値もつことができる人ということになる。

たとえばアカデミズムというのは、そういう価値の一つだ。学者という人たちは、単なる「お賢い、お勉強ができる人たち」なのではない。現在社会とは別の「価値」をもち、内部にいても「外部」となる役割もつ存在である学者がしばしば「空気の読めないご意見番」として振る舞うのは、大事ことなのだ。

王様は裸だ!」と子供が声をあげたとき、周りの大人の目には王様が裸に見えていて、だからあの童話ハッピーエンドになる。でも、もし周りの大人には「認知の歪み」のせいで「本当に服が見えていた」なら、どうだっただろう? 子供黙殺され、あるいはぶっ飛ばされ、パレードは続き、そして王様は裸のままだったかもしれない。「社会全体の認知が歪んでいるかもしれない」というのは、このように深刻な問題社会に引き起こす。

「みんなの目に裸が見えないなんてあるわけないじゃん」と思う人は、申し訳ないが、少しは歴史を学ぶべきだと思う。近代だって国民が全員どうかしていたとしか思えない民主主義(のはずの)国家の事例はいくらでもあるだろう。王様セクハラ犯罪が誰にも見えないらしい国、王様の頭にのった電話機が誰にも見えないらしい国、私たちのすぐそばにさえ、認知の歪みは現に存在している。

では、「学者意見を容れて、私たち認知の歪みを正すべき」なのだろうか? さて、そこから問題のやっかいなところだ。

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