はてなキーワード: ごんぎつねとは
確かに情報財は競合性や排除性が低い公共財に近しい性質を持ってるが、特許法で認められる知的財産権と著作権法で認められる知的財産権は質的にかなり違う物だからいっしょくたに考えるのは危険では?
人は知識を用いて道具を作り、生活を向上させてきたことを考えれば、技術の普及が社会を発展させるのは確かだろう。しかし漫画やゲームのような著作物と呼ばれる情報は知識ではない。人は著作物を用いて生活を向上させる物を産み出すことはできるのだろうか?
ようするに「ごんぎつね」(著作物)と「物を擦り合わせると擦った部分の温度が上が」(技術)とは違う情報財だと思うんだけど元増田はどう考えてる?
じゃあごんぎつね作者新美南吉は動物保護団体からゴンとおなじように射殺されるべきだね。動物にだって善意もあるのにどうして射殺されねばならなかったんだ、狐飼いとしては絶対になっとく行かない。ってね。
かわいそうな話を全部なくしたら創作はなりたたない。
かわいそうな話だぞとおもってかわいそうな話を読みかわいそうな子は実際にいなくてよかったけどそれにしてもかわいそうだったなあという感想を抱ける人と、
アレを実地にやってみようと思って実行してしまう犯罪者の間には、
とてつもなく大きな溝があるんだ。
もちろん「みんなのちからで殺してやりたいくらいだれかが憎い」と思うことを増田その他で表現することも、規制されるべきではないけど、
あまり病的な悪意、憎しみを「自分が八つ当たりしている」と意識せずに「たまたま外からよく見えるとこに居ただれか」にぶつけるようなことはしないでほしいね。
犯罪者の言い訳を真に受けたら犯罪者にも五分の魂を認めてしまうだけだし。(盗人にも三分の理とやらは大岡裁き以来の悪癖だと個人的にはおもう)
架空の誰か(たとえばこの作者の作品中に登場するレイパー)が憎い、という議論ならともかく、作家さんは飯食ってうんこして生きている普通の人間なんだよ。
もちろん警察と話し合っていく理性も今回あったわけだろ。
性犯罪者?? しらね。たぶんメシ食ってないしうんこもしないとおもう。
津川雅彦さん
「影響はあるけど、影響を受ける奴は救いようのないバカ」
ビートたけしさん
「じゃあ、なんでお涙頂戴の良い話だらけなのに、一向に世の中は良くならねえんだよ」
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/Mukke/20140616/1402912866
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20140617112445
ルール作って遊んでるのに「自慢?」と突っ込む人がいるの面白いし、
順張りか普通自慢か知らないけどあれこれ「見た」とか言い始めてタイピング止められない人がいるの面白いしルール作った意味なくてキリがないから、
その人には本屋さんのガッラガラなキッズスペースで空いてるキッズチェアに座らせて誰もが知ってるごんぎつねとかを30分読み込ませる罰ゲームとかやらせるといいと思う。
泣いたら即開放させる温情でもかけちゃうか。
子供が、子供っぽくない感想文を書いたから揉めたんだよね?あんまよく知らんけど。
どうやら子供は、ごんぎつねが撃たれてもしょうがない、と書いたんだよね、たぶん。
・
ごんぎつねを読んで。
私は、ごんぎつねを読んで、当たり前のように持ち出された火縄銃に驚きました。
まず、私は銃というものを実際に見たことがありません。現在では、鉄砲を所持するのにはそれはそれは様々な手続きを踏まなければならないのです。まして、市街地で発砲しようものなら、例え正当な銃所持者であっても後ろに手が回ります。
ところが、兵十はどうでしょう。
話の構造を考えると、時代背景は古くても百年から二百年前だと思われます。
また、兵十は好意的に見ても裕福ではありません。
しかし、銃を所有している。
ここに、現代日本とは比べものにならない、銃所持へのハードルの低さが読み取れます。
アメリカ南部で銃の所有数が多いのは、自衛の為ですが、兵十はおそらく山での狩猟だと思われます。
さて、わずか百年か二百年前に当たり前に鉄砲の所持が出来たことに私は改めて考えさせられました。
また、ごんぎつねが撃たれたのは、自然とのなれ合いではなく、対峙を以てのみ、人類は身の置き場があるのだというメッセージに感じました。
再びさんすみませんいろいろたりなくて。
青い枠一つ目の評論って、報告とかみたいに伝えるためだけに言語化するのじゃなくって、なにか結果を示唆するものだとおもっていたので結果に方向づけるために評価を優と劣にわけて優と思わせた方向へ誘導するのが評論かなと想像してました。
軍事評論家が「これは大変危険な状態ですね」とか言う事について危険度について示唆はするけど「回避策を投ずべき」とは結果誘導していなかったらそうはいえないですよね、すいませんでした。
ということは、評論家は「あのとき言いましたでしょ」とかいう単語をはなった瞬間評論家ではなく「評価者」に転じる別物かなと理解しちゃいました。
青い枠二つ目はその「危険」といったことが「人を死傷たらしめる」を意味したものであったとき「人が傷つくのは悪いことなのか、いいことなのか」ということは哲学ではない事なのかなとおもってたのです。
人を傷つけたり、傷つかないようにしたり、人が傷つくこととかいうのは哲学ではなくて、「人と傷」ということの関係性が哲学なのかなと、人と傷についてさまざまな感覚は評論になるのかなと考えてました。
たとえばごんぎつねのエンディングがどんなものであってもそれは評論とかで、ごんと兵十が存在し関係しあうということ自体が哲学なのかなと思ったわけです。
青いの三つ目は、人が哲学をつくっても哲学は人をつくらないみたいな、人は哲学を語るけど哲学が語るのは人そのものではなくて、人の生きる環境のことかなと思ってしまったので、たとえば人は疲れたら休むところを探すとすると、休むところには人が来るといえるのかとか、休むところにきた小動物はおなじ悩みを抱えているのかとか、隠れ里の温泉に来るキツネは上司のストレスから解放されているのかとかみたいな話もあるのかなーと思っちゃったものだから。
人でなくてはとして「キツネが戦争をしてお互いに傷つきあって温泉でちょっと休息を得る」という絵があった場合は哲学成分が一切入っていない感じかなあ、入ってそうだなあと想像しちゃったものでした。
元ネタが実話という前提で思ったのは…
「ごんぎつね」なんて何十年も前から国語の教科書に掲載されてる鉄板のネタなわけで、それが今日まで引用元みたいな感想を想定した指導マニュアルが存在しなかったという方がよっぽど衝撃。あるいは「こういう感想を書く生徒は精神的に問題アリなので保護者に相談しろ」みたいなマニュアルでもあるのか。
ごんぎつねの話や、さだまさしの『償い』を聞いていて思ったのだけど、
罪を犯す→償う日々→ある時報われる日が来る
みたいに綺麗なフェーズを描ける話って創作の中だけじゃないかな。
人を殺したとか、人に大怪我を負わせたとか、そんな大層なことではなくても
日常でやむなく嘘ついたとか、友人に今度貸すよ、使わないからと言ってた参考書を持ってくるのを二度忘れたとか、
そういった身から出た錆びのような一見軽い罪が、
いつの間にか消えない傷になって心の底に溜まってることに、ベッドに就寝しようとしたその瞬間にはっとなる。
周りが自分の罪に耐えてきたことにある日突然気づかされる。
けれども、これからどうやって贖えばよいのかと考え始めた矢先に、知らず知らずのうちに自分は次の罪を重ねてる。
そうやって償罰が混在となったドロドロの物語が日常なんだろうね。
犯した罪に、清算できるものなんてないけれど、節目がどれひとつないことはもっと辛いよ。
嘘をついたことのない人なんかほとんどいないと聞くけど、
みんなはどうやってこの罪を返済してるんだろう。
1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/05/08(水) 16:11:26.76 ID:0SLw7FB7O
・やったことの報いは必ず受けるものだ
・こそこそした罪滅ぼしは身勝手で自己満足でしかない撃たれて当たり前
28:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/05/08(水) 16:18:17.53 ID:0SLw7FB7O
勇気を出して本人の前に行って栗出してればこんなことにはならなかった
面と向かうことから逃げたせい
言い分はこうらしい・・・
40:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/05/08(水) 16:20:54.77 ID:0SLw7FB7O
姪はとにかく、撃った男が可哀想だろって主張なんだと
62:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/05/08(水) 16:26:38.51 ID:0SLw7FB7O
なんつーか姪いわく男が最後まで辛いだけじゃんって言いたいらしい
おかん死んで、色々運んでたキツネを自分が殺しちゃって悲しんでで
んでどれも原因は結局このキツネの行動のやり方のせいだと
74:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/05/08(水) 16:29:59.26 ID:0SLw7FB7O
>61
あーそれ
男からしたらまた辛い思いしただけじゃんと
110:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/05/08(水) 16:37:54.81 ID:0SLw7FB7O
なんか若干姪を勝手に飛躍させられてる気がするんだが
姪はキツネをクソ呼ばわり的な真似はとくにしてないぞ
あくまで
・やったことには罰が返ってくる
・こそこそしたやり方はおかしい
196:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/05/08(水) 16:57:39.44 ID:0SLw7FB7O
もう一回ちゃん補足して書くと
・やったことの報いは必ず受けるものだ
→これは最後もだけど、おかん死んじゃってキツネが苦しむのも普段からいたずら悪さしてたからこうなった
私も走ってはあぶないとこで走ってこけて怪我したことがあった
間違ったことをしていたら痛い思いをすると知った的なことらしい
・こそこそした罪滅ぼしは身勝手で自己満足でしかない撃たれて当たり前
→男はキツネが罪滅ぼししてるなんて知らないからキツネが見えて撃っちゃっても仕方ないと思った
こんな感じ
232:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/05/08(水) 17:09:35.98 ID:0SLw7FB7O
あの・・・撃たれて当たり前ってのは復讐的な意味で殺されて当たり前って話じゃなくて
読んだ。これ親に相談しちゃう先生の気持ちわかるわー。姪ちゃんちょっと視野が狭すぎ。
ここまで言うなら仮にごんが正面切って謝ってきたら兵十は絶対にごんを許さなきゃいけなくなるじゃん。
それは可哀想だとは思わんのかな? って誰か突っ込まなかったのかよ。
姪ちゃんの主張によれば兵十がかわいそうなのは
1.ごんにいたずらされまくり、
2.ごんのいたずらで母が好物を食えず死亡、
3.好意に気づかないままごんを撃って後味悪くて鬱
の三つがあるからだが、これは2まで起こってしまった時点で、ごんが正面切って名乗り出て謝ろうとこそこそ「うなぎのつぐない」の贈り物をしようと兵十にとって「ごんを撃つ」ことは避けられない。「キツネがこそこそうろちょろしてたら猟銃で撃たれても仕方がない」ような世界観ではなおさらだ。栗をたずさえて正々堂々謝罪に出向いた時点で眉間にぶっ放され「完」である。
避けるためにはごんを許さなければならない。(動物との非言語コミュニケーションで罪の意識その他について意志疎通することの技術的困難については割愛)
だが、例え正面切って謝ってきたとしても、親の今わの際の願いを悪ふざけで台無しにした相手を許せるものだろうか?
許さなくてはならないものだろうか?
謝罪を受け入れられない、許せないならごんが自分の罪に向き合って謝罪する事自体がどうやったって自己満足に過ぎないということになり根本的に無意味だから、姪ちゃんの言うとおりに「勇気を出して本人の前に行って栗出してればこんなことにはならなかった」とは限らない。
「こんなことにはならな」いために必要なのはごんの勇気ではなくて兵十の納得(と諦め)だ。
逆にごんを撃つことで兵十は後味悪いながらも納得は得られるのではないか。確かに悪さをしたがごんには間違いなく謝罪の意志があったと知ることができたし、ごん自身に重傷を負わせ命を左右するレベルまで「報い」させたことでその謝罪意志を受け入れることが(過失した自分の後ろめたさも手伝って)可能になったのではないだろうか。
このお話は決してハッピーエンドではないかもしれないけれど元になった原稿では「ごんは嬉しそうにうなずきました」だし(wikipedia情報)、ごんも兵十も十全ではないにしろ「報われ」るオチではある。
大元になった口伝ではうなぎのいたずらの件以降権狐は二度といたずらせず姿を見せないでオシマイらしいが、それに準じてごんが正面切って謝って兵十が許して追放沙汰になったけれどとにかく命は助かりめでたしめでたし、では報われていないものがあるのではないだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
ここは増田だ。ここでならいっしょに遊べる。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を高度に形式化して使える人がいるのは、正直こわいです。