はてなキーワード: ピュアとは
言葉が足りなかったと思うので下記を補足する
https://anond.hatelabo.jp/20240204160828
真に受けて深刻な状態にある人、例えば精神科医の助けがいる人、極めて厳しい経済状況・家庭環境にある人が、死んだり・足踏み外すの見てられない
ビリー・アイリッシュ(鬱・ダウナー系アピしてたが、本当は西海岸のパリピのお嬢様)や
日本のアーティストだとCocco(重要無形文化財保持者の祖父、成城のお嬢様とまではいないがフツーにある程度お金に余裕がある親)のリスカ公開
他にも類似するアーティストの活躍時に散々言われたが、自分の影響力については考えて欲しいところ
ほんで、本当に自分が嫌いなわけじゃない、本当は経済的に精神的に頼るところがあったり、能力的にお金を稼ぐことが出来る彼・彼女らが、
あと最近巷を賑わせている脚本家の話でとんでもリプライしたのもその類の人
文業の人
はじめまして。毎週楽しみにしてました。
わったので不思議でした💦そして、えっ、
ここでふんわり終わり?と。
でも訳がわかりました。
そして、私も物書きの1人として尊厳を傷つ
↓
まぁ、どんな人も幸せになれる・幸せになって欲しいと思っているので、本当に自分が嫌いなわけでも頼るところが無いわけでなくてよかったねって思うけど、
これって増田の言うところの、『優しい人』、『心のきれいな部分を持っている人』なんですかね?
ワイくん的には、未成年なら<厨二病>、成人してるなら<極めて軽薄な人>、それ以外に思うとこ無いよ
ただ、自分が好きじゃないのに (本当に嫌いなのは、↑ 上に書いた通り自分ではなく、自分の価値を認めなかったり、傷つける世間だが)、
無理にでも自分を好きと言え!!!!!!!無理にでも自分を好きと言え!!!!!無理にでも自分を好きと言え!!!!!と言ってるわけじゃないよ
『優しい人』、『心のきれいな部分を持っている人』では、正直まったくないと思うけど、
(どちらかというとその真逆。心のきれいな部分を『子どもの心』(ピュア)と置き換えれば納得感はあるが、子ども悪意なく虫の羽とかむしりますけどね😒)
怒りや悲しみのエネルギーを創作に昇華すると結構すごいことになるよね
割とそう言うの好きで、本来のパリピに転身する前のビリー・アイリッシュも、Coccoも、Adoちゃんも(ゆうてAdoちゃんは昭和歌謡やジャズも普通に良い感じ)好きよ
まぁ別に創作に昇華しなくてもいいですけど、こういう人ら常に怒ってる(だからこそ死んでない)ので、基本的に優しくはない認識あっていいと思います
優しさとは強さ
弱いヤツはせめて他人に優しくあって欲しいけれど、自分の行動すらいつでも誰かのせいなのだから返報性は微塵も期待出来ないのが実際のところだよ
メインセッション
「東アジア反日武装戦線」とその時代を振り返り、見えてくるもの
https://www.youtube.com/live/ouGKVPIWh9s?si=1pm7-RACXU1kcPQl&t=7782
(約3600文字)
青木理氏:
中核派はまだ組織があるが、東アジア反日武装戦線はもう組織がない。
桐島聡「さん」
田原牧氏:
(「戦線」ではないが過激派の?)裁判支援をしている友人がいた。
私は急に森田童子を思い出した。
荻上チキ氏:
「ぼくたちの失敗」('76リリース、'93「高校教師」主題歌)の。
田:
もっと物議を醸しそうな曲もあったが、そういう時代を思い出した。
荻:
田:
「戦線」は新左翼とは一線を画している。全共闘の一つのエッセンス。
60年代学生運動は日本の戦争責任に触れていなかったが、70年代から問題提起が出てきて「戦線」は愚直に受け止めた。
田:
60年代半ばから80年代半ばまでの運動では人の死が珍しくなかった。
運動も竹竿→ゲバ棒→火炎瓶→爆弾となり、'71には三里塚の東峰十字路事件で警官が3人、'72には連合赤軍事件もあり、最終的には100人以上死んでいる。
荻:
田:
(男子の大学進学率 '60 13.7% → '65 20.7%。'66に18歳人口が+50万人)
田:
東大全共闘のリーダーの山本義隆氏が、闘っているに自分たちの特権性に目をつぶって正義を説くことを批判した。(「邪宗門」の)高橋和巳は「自己否定」を唱えた。
田:
60年代半ばまでは日韓基本条約('65締結)反対闘争で、革新側も「韓国に払う金があるんだったら自分たちに回せ」などと平気で言っていた。大日本帝国の責任は問われなかった。
田:
入管法の制定反対で結成された新左翼系の華僑青年闘争委員会(華青闘)が、集会で「抑圧民族である日本人は信用できない」旨の「華青闘告発」を行い、日本の新左翼党派は頭を下げた。
田:
この自己否定の流れと「戦線」自体のアナキズム的な性格が合わさって、実力行使に繋がっていった。
荻:
今振り返った時代の前半、大学自治や学費問題から階級闘争、安保闘争、反米などとリンクして新左翼が広がっていく経緯は割りと学ぶ機会もある。
青:
戦後の一時期共産党は武装闘争路線をとっていたが、1955年の「六全協」で武装闘争を放棄した。同時期にソ連でスターリン批判が起きた。
共産党指導ではだめだということで(既成左翼ではない新左翼として)「革共同」や「ブント」が設立され、これらが中核派、革マル派、赤軍派などの母体となる。
全共闘は当初セクト(党派)ではなかったが最終的に合体していく。
青:
学生たちはベトナム、日米安保、三里塚など正義感や葛藤の中で行動していたが、69年の安田講堂事件の鎮圧以降急速に沈静化「敗北」していく。
このあとよど号、大菩薩峠、連合赤軍などの事件がおき、さらに爆弾事件と先鋭化してくる。「戦線」活動もこのころ。
田:
「戦線」は71年に興亜観音・殉国七士之碑爆破、72年に総持寺納骨堂爆破など、怪我人は出ないが爆破は始めていた。
青:
「狼煙を見よ」や「腹腹時計」から読み取れる「戦線」の特徴は、現在まで続く日本帝国主義の粉砕にある。
荻:
60年代学生運動は抗議主体だったが、その後日本の加害性を発見し、植民地支配の反省中で農村コミュニティや市民と共に暮らす実践などもあったが、「戦線」のような組織は反省と攻撃を結びつけて行った(とまとめた)。
青:
「戦線」の事件を肯定はしないが、アイヌ、在日コリアン、沖縄などマイノリティに対する問題意識を持っていたというのは現代にも通ずる普遍性がある。
また、従来型の新左翼とは傾向が違い、ストイックに日々の暮らしをしながら爆弾闘争をやった。
荻:
田:
また時代の流れが、新左翼を国家権力が「暴力」で鎮圧することへの対抗として、自分たちも武装する、という意識が強かった。
昭和天皇暗殺未遂、朴正煕暗殺未遂の文世光事件、「命がけで闘った文世光への呼応としての」意識、暴力で時代を切り開く意識があったのではないか。
青:
松下竜一「狼煙を見よ」によれば、お召列車爆破未遂でしょんぼりしていたときに同世代の文世光(22歳)が事件を起こした、あんなに頑張っているのに俺たちは何をしているんだ、と、三菱重工爆破事件につながった。
お召列車爆破用の威力の高い爆弾を使ったので8人の死者を出す大被害となり、大道寺将司は痛切に反省をした。
荻:
今の若い人からすると左翼=マルクス主義だというイメージが強い。
新左翼とマルクス主義の距離、「旧左翼」とマルクス主義の距離、「戦線」の立ち位置はどうか?
田:
新左翼の各党派はマルクス主義に基づく綱領や路線がある。一方「戦線」は党派ではない。マルクスは時代的に当然読むが、全共闘の学生たちと同様に倫理感から直接行動を起こした。先鋭化する人たちのほかに、水俣や山谷に行った人、本格化する前の部落解放闘争に行った人もたくさんいる。
荻:
分かりやすいイメージだと革命を成し遂げるための手段という印象があるが
田:
「戦線」は革命ではなく落とし前。国家権力の奪取にこだわらない。政治ではない。倫理であり生き方の問題。ある意味ものすごくピュアな人たち。
(CMと前半の振り返り)
荻:
この半世紀どうか。
青:
ドイツは戦争責任によって東西に分断されたが、アジアでは朝鮮半島が南北に武断された。沖縄はまだ(アメリカの基地である)。こういった日本の加害性をピュアに突き詰めたからこそ「反日」を冠した。
荻:
青:
皮肉。かつては東アジア人民連帯の「反日」だったのが全く反転してしまった。
青:
新左翼各セクトは「戦線」に批判的だったが、鈴木邦男など右派陣営の一部が「戦線」のストイックさ、(「大地の牙」部隊のリーダー男性の)齋藤和(のどか)の服毒自殺を評価している。こういう流れが新右翼のムーブメントを生んだ。
リスナー:
田:
将来構想はなかった。個々人の落とし前。三菱重工等々の被害者にしてみれば雑談じゃないという話だが、彼らの論理は日本国家の転覆まで。
太田竜という、世界革命、世界赤軍を唱えたイデオローグ(理論的指導者)は、第三世界の革命勢力と手を結ぶ、その基盤は日本の最下層の人たちだと言っていたが、今の我々の建設的な視点とは違う位相にいた人たち。
荻:
青:
ただ、当時から90年代までの、爆弾闘争や内ゲバに先鋭化していく中では、公安警察が肥大化してきたのは時代の必然。
今後は超法規的措置で釈放された大道寺あや子や佐々木規夫などの追跡は担っていくだろうが、徐々に任務縮小か。
荻:
そして、マルクス主義はなくなっても、性教育や性的マイノリティの権利保護や選択的夫婦別姓などをすすめる「文化的共産主義」と、その抵抗としての「反共」が繰り返し保守論壇で語られている。
青:
妄想だけれども、一方で、当時千差万別の人が新左翼運動に関わった、理論家から夢想家まで。ただ結末が先鋭化した隘路、陰惨な結末になったことが「壮大な失敗」と捉えられて、日本の左派というかリベラルへの大きなダメージ、マイナス面になっていると思う。共産党や左翼へのアレルギー。ヨーロッパでは緑の党や旧共産党が政治ムーブメントを作っているのに。
荻:
「理想を掲げることは無駄なんだ」というカッコつきのリアリズムの空気のようなものは残ったかもしれない。
田:
今は、世の中自分が何しても動かないという風潮が強いが、当時の若者には自分たちが世の中の主人公なんだという意識が強かった。「戦線」がやったことはともかく、戦争責任を唱えたことが認知されてその後90年代の河野談話、村山談話につながっていると思う。
荻:
振り返るというのは何を残したのかとつなげる行為でもある。
少女漫画のアオハル、少年漫画のボーイミーツガール、女性漫画の溺愛、青年漫画のラブコメが好きで好きで自分の恋愛ができない。
壁になって見守りたいタイプなので"自己投影して現実が無理になった"ではないんだが創作の尊い恋愛が好きすぎて自分が恋愛するって思うとなんか白けてしまう。
未婚既婚問わず知り合いとかSNSとかで浮気、不倫エピソードを見聞きし過ぎて現実の恋愛に不信感があるのかもしれない。結婚生活の愚痴エピソードとかも見ると萎える。
自分が高校生くらいなら微笑ましく思えるけどもう30超えてんのよ。良い年してるしそれなりに遊んだりもしたはずなのに一周回ったのかめちゃくちゃピュアな恋愛を現実に求めてしまってて終わってる。マジでキモいと思う。
職務経歴書で誤字脱字が複数あると、お見送りの理由の1つになることもあります
「コードはスペルミスをするだけで動かない事もあるから、大切な書類で誤字脱字が多い事は大きなマイナス」とエンジニアの方がお話されておりました。
惜しいというか印象を損しているなーと思うのが、「お話されておりました。共有いたします」にすれば好印象なのにと思った。
「大事ですね!」とかで締めると、「自分たちはどうなのん?」って思われてしまう。
人事系の業種は、エンジニアに比べると遥かに属人的でフォーマットや書き方も適当なことが多く、「それをあなたが指摘しちゃう?」っていうピュアな疑問が湧くw
まあ、なんにしても教師みたいな言葉は使わないようにしようと良い学びになる。
たとえば良く知らない大学を出ている人が、有名大出身者に勉強を教えたがったら恥ずかしいでしょ。
ロードバイク毎日10km乗ってる人に、漕ぎ方教えたらアホでしょう。
コーディング1文字もやったことない人が、プログラマーにとって当たり前のことを指摘しちゃうのと同じ恥ずかしさがある。
つまり「自分ができないことを自分よりできる他人に説教するんじゃないよ」。
あなたはエンジニアと同じ仕事できるの?と聞けば100%出来ないだろうし。
職務経歴書くらいしかエンジニアを判断する材料がない、というのはなんか薄っぺらくて可哀想に思う。
書いてある中身がわからんから誤字脱字くらいしかチェックできないというのもわかるので、であればそういう姿勢で書くべきかなと。
今回は「文字のチェックなど必要な場合、依頼いただければ我々がサポートいたします!」みたいにすれば印象ガラっと変わったのにね。
人事系会社の若い人が世間を知らず天狗になってる系のツイートで2年に1回くらい炎上するけど、それと同列に見られるのは損している。
今回は同列ではないと思うけどね。書き方だけの問題。
あの鮨屋かどうこうじゃなくて、あの鮨屋案件で集まった感想の話ね。
「鮓屋をあんなに切れさせるなんて客がよっぽどの事をしたに違いない」
重ねて言うが例の寿司屋がどうとかじゃなくて。
「理由がないと人はキレない」と思うのピュア。ピュアっピュア。
【例1】
某ラーメン屋にてトッピングでお願いした玉子が見当たらなかったので「玉子入ってますか?」と聞いたら、
急に目つき変わって「うちのは下に沈んでるんですよ、探せばわかるでしょう!」とすごまれた
【例2】
小学生の時友達のお母さんがやってるお店に行こうとしたらにこにこしたおじさんが道案内をしようかと声をかけてきた。
「ありがとうございます!大丈夫です!」って断ったら謎スイッチ入って「上野は俺の庭なんだよ!!」とツバを飛ばしながら怒鳴ってきて、警官が助けてくれるまで猛り狂ってた。
【例3】
一瞬だけ付き合ってた彼氏の話。
ハチ公前での待ち合わせを提案されたから「そこは混むからビアードパパ前にしよう」と返答したんだけど。
「俺のことがそんなに恥ずかしいのか!!!」とバーサーカーモードに突入したのでその場では宥めたけど後日お別れした。
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本当に何度も言うけどあのお鮨屋さんの人が切れやすいって言ってるんじゃなくて(知らん人だし)、
「理由がないとキレない」
「キレるほどのよっぽどの事をしたに違いない」
https://anond.hatelabo.jp/20240122183330 の続き
ウイスキーの製造に使う大麦麦芽は成長を止めるためと貯蔵のために乾燥させられている。この乾燥に用いられる燃料のうち伝統的な燃料がピート(泥炭)である。このピートを燃料とするとピートの香りが麦芽に移りこの麦芽を使ったウイスキーにはピーティと言われる香味(燻製のようなスモーキーさとヨードチンキや正露丸のような薬品香)がもたらされる。その香りはピートを燃焼させたときの燻煙に含まれるフェノール化合物によるものであるが、その麦芽に含まれるフェノール化合物の割合をフェノール値と言いppmを単位として示される。このピートはスコットランドに広く存在するがアイラ島のピートには海藻由来の成分が多く含まれ特に薬品香を強くもたらすと言われる。このピートで乾燥させた大麦麦芽を使った原酒は程度の差こそあれアイラのみならず多くのスコッチウイスキーに使わている。また日本のウイスキーにも広く使われている。
ウイスキーがどれくらいピーティかは実際にはフェノール値だけでなく蒸留のどのタイミングの蒸留液をどう使うかや熟成に使う樽によっても変わるのであるが便宜的にフェノール値を用いてほぼ0の場合をノンピーテッド、それから順に(人によって違うが)10ppmぐらいまでをライトリーピーテッド、25ppmぐらいまでをミディアムピーテッド、50ppm台までをヘヴィリーピーテッド、その上をスーパーヘヴィリーピーテッドとしてウイスキーを区分することがある。ただ特にフェノール値が非常に高いような場合、例えば150ppmのウイスキーを飲んでも50ppmの3倍スモーキーだと感じるようなことは(増田の経験上は)ない(多分それを目指して作っていないと思う)。フェノール値はあくまで目安である。
ウイスキーには様々な成分が溶けているがその中には冷却すると目に見える澱や白濁の原因となるものがある。この原因となる成分を除去するためにウイスキーを冷却して濾過するのだがこの成分にウイスキーの香りや味わいの成分が含まれるとして香味が薄くなるのを避けるためにこの冷却濾過をしないウイスキーがある。このような冷却濾過しない製法もしくは冷却濾過していないウイスキーそのものをノン・チルフィルタードと言い、一般にラベルにNon-Chillfilteredと書かれている。冷却濾過は大量生産するウイスキーの味の均一化という側面があるとも言われる。
スコッチウイスキーの蒸溜所は地域別(ハイランド、スペイサイド、ローランド、キャンベルタウン、アイランズ、アイラ)に分類されることが多い。ここではスペイサイドとアイラの蒸溜所の一部を紹介する。ここに挙げた蒸溜所はすべてモルトウイスキーの蒸溜所である。
日本のウイスキーはスコッチウイスキーから大きな影響を受けている。そのため法律に基づく部分を除き日本では用語等はジャパニーズウイスキーとスコッチウイスキーで同じ意味で使っていると言えるのであらためて説明しない。日本のウイスキーについてオーセンティックバーで見ることが多い銘柄のうちいくつかを紹介する。
もともと日本のウイスキーの定義は酒税法で定められたものだけで非常に緩く輸入した原酒を日本で瓶詰めしただけのウイスキーがジャパニーズウイスキーと称されて販売されたり、酒税法上の焼酎が海外でジャパニーズウイスキーとして販売されたりしていた( https://toyokeizai.net/articles/-/216248 )。その問題への対処として業界団体である日本洋酒酒造組合が「ウイスキーにおけるジャパニーズウイスキーの表示に関する基準」でジャパニーズウイスキーを定義した( https://www.yoshu.or.jp/files/libs/550/202303291553482719.pdf )。この基準の施行前に販売していたウイスキーについては経過措置により従前の表示が認められているが2024年3月31日で経過措置の期限となるためもしかすると一波乱あるかもしれない。
その3へ続く https://anond.hatelabo.jp/20240122184434
ちょっと考えたけどいわゆる普通の出会いってのは、職場なりサークルなりの繋がりから、先にうっすらでもお相手の雰囲気がわかるのがやっぱ違うんだろうなと思った
アプリも婚活も、つまるところ「頭の上にステータスが表示されてる状態」で突然エンカウントする異世界バトル(言い過ぎか)だから
どう考えたってステータスによる偏見が入っちゃう。それに惑わされちゃうの当然じゃんっていう気持ちが強い
あと単純に次の弾がいくらでもあるから、興味が散ってその人本人に向き合いづらい
俺は正直顔も含めてスペックで人を好きになったことが少ないと思ってて、ゆっくりとでも話して気が合うのを最優先にしてたから
スペックと補充弾丸いう撹乱要素によって、自分も相手も人となりのすり合わせを乱されるのが気になってしまう
ふつうに実行してる人間からしたら、人助けというのは純粋にテクニカルな問題。「善行か否か」「善意か否か」と善悪で語ることには意味がない。
偽善だとネットで騒ぐ人、いや偽善じゃないとこうしてネットで怒る人、実際にボランティアやったことなくて半ばフィクションと捉えてるからそうやってどうでもいいお気持ち要素に関してばかり口角泡を飛ばす。
具合の悪そうな人がいた時にさっさと適切に動けるのは生きた知識・スキルを持つ人間。人柄とかお気持ちの話はどうでもいい。
ボランティアとは単純に人助け活動、行動それ自体であって、もとよりそこに「ピュアな善意による」「美しい行為」とかの修飾語はついてない