はてなキーワード: 永眠とは
父親は居ない。
小学生のときぐらいに母と父が喧嘩し時には殴り合い、その後離婚した。
1部屋は母親の一人部屋
1部屋は子供部屋(兄2、私)兼父親の寝室(のちに別居して居なくなったが)
離婚後は母親に兄妹3人連れられ市営住宅に引っ越した。中2ぐらいだった気がする。3DKの家。市営住宅なので家賃はとても安い。
1部屋は兄妹3人の部屋。(団地間6畳)
1部屋は空き部屋。
母は生活保護は負けだといい毎日朝から晩まで仕事していた。貧しいくらしは嫌でしょ。と、そして、たまに同僚や友人と飲みどっか行っていた。晩御飯は叔母ちゃんが持ってきてくれていたが、母親とエンカウントすると大変面倒くさいことが起きる爆弾付きだった。
1番上の兄が家を出ていったのは専門学校を1.2年留年した後ぐらいだったと思う。まぁ正しくは母親に追い出されたのだが。その後は、叔母ちゃんの家で暮らしている。その時、真ん中の兄は大学2年だった。私は専門学校1年。
私が21で出ていくまで、私たち兄妹は6畳の部屋以外は与えられなかった。着替えも寝室もこの6畳のみ。仕切りなどは何一つない。
引越しする時は自分の荷物を全て自分の家に持っていけ。ここには何一つ置いていくなと言われた。
母はとても嬉しそうだった。その後は知り合いの男をよく家に招いていた。その人とは私も小学生の時からの知り合いである。
私の初一人暮らしは大家、住人、仲介業者の全てを大失敗した。ほっっんとに完璧に素晴らしいほどに失敗した。仕事に追われ、疲れて家に帰れば毎晩大家にインタホーンを押されとりあえずクレームを言わる、下の階からドンチャン騒ぎにテレビの音が聞こえるが男性が住むでいるので老人クソババア大家は注意せず、仲介業者に説明してもクソババアの味方で役に立たなかった。コロナで給料は減り。耳鳴り、寝不足、金不足に悩まされ。母に相談するも解決することもなかった。その後は体調とメンタルが消えてなくなっり、永眠には失敗した。
ちなみに初一人暮らしだから内覧も一緒に見てもらっていた母親言った一言
「あそこは外観とかも微妙だったし、ヤバいだろうなと思ってた。」
空き部屋だった部屋の襖をとりリビングダイニングにしたらしい。
1部屋は母親の部屋。
1部屋は真ん中の兄の部屋。
収納のはソファベッドの下にある引き出し2つ、テレビスタンドの引き出し3つ、リビングにある引き出し1つそこに、衣服、化粧品、アクセサリー全て入れた。入らないのは全て売り捨てた。唯一、大切にしていた本棚だけは実家に置いてもらう事ができた。
服を置いとくことも、飲み物を出しておくことも、勤務用のバックを床に置くことも禁止。必要最低限。
ある日、掃除機を掛けながら
ふと、兄の部屋を見るとペットボトルが散乱してた。自分のPC、自分のクローゼット、母が最近買った入口の目隠し用の暖簾。押し入れには服と空箱たち。
洗濯物を洗いながら
ふと、母親の部屋見ると服が床に置きっぱだった。バックも置いてある。そして、アパレルショップの袋が1つ。母親の押し入れを開ければ沢山の服、沢山の靴。部屋に置いてあるタンスを開ければ夏服。ドレッサーには化粧品。
そして、今日も母は言う。
少しは片付けろと。汚い。収納を上手く使え。
家事を手伝え。普通に綺麗にしろ。足りない、全部やれ。私は全てやってる。金も家事も。
毎日掃除できないのなら、求める基準まで出来ないのならお前は出て行け。一人暮らしでもしろ。お前は母を思いやらない。他の家族をみてみろ。
そして、母は仕事が終わりしだい知り合いの男に会いに行くのだ。もちろん、私たちにいつも通り晩御飯はない。
兄は相変わらず、部屋からは出てこない。寝ているかPCゲームをしているのだろ。
嵐が過ぎされば何もない顔で出てくるのだ。
実家とは何なんだろうか。
ふと、「自分家」と言ったことが無いことに気づいたのはいつ頃だっただろうか。
今ではクソババア大家が居る地獄の家と実家どっちがマシなのかよくわからない。
実家とはなんなんだろうか。
あーーー、なる。
・同じような家庭、階層出身の女の子と学生時代に付き合って結婚
・人生で金銭的に一度も不自由することなく、やりがいのある仕事をして充実した毎日
・自然妊娠で生まれた子供たちは健康で明るく優秀で自分と同じかそれ以上に充実した人生を送り、可愛い孫たちを見せてくれる
来世の人生を想像してたらもう現世生きられなくなっちゃった。1番辛いのはこんな人生を送ってる奴が都内や高級住宅街にはマジで相当数いることなんだよな。〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇みんな怒る?
・父親は身長は175以上、母親は165以上 ・両親ともに国立or早慶or医学部 ・中学受験することは息をするくらい当然の地域で育つ ・幼児教室でスポーツ、ピアノ教室でピアノ、塾で中学受験 ・学校、幼児教室、ピアノ教室、塾でできる友達全てが上流階級 ・私立中高一貫校から東京大学か国立医学部に進学 ・同じような家庭、階層出身の女の子と学生時代に付き合って結婚 ・人生で金銭的に一度も不自由することなく、やりがいのある仕事をして充実した毎日 ・自然妊娠で生まれた子供たちは健康で明るく優秀で自分と同じかそれ以上に充実した人生を送り、可愛い孫たちを見せてくれる ・老衰で眠るように永眠 来世の人生を想像してたらもう現世生きられなくなっちゃった。1番辛いのはこんな人生を送ってる奴が都内や高級住宅街にはマジで相当数いることなんだよな。〇〇エクスプレス止めたらみんな怒る?
先日なんとなくSNSを眺めていたら、友人の投稿が目に留まった。
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「身内です。このアカウントの持ち主は A月B日に永眠いたしました。生前のご厚誼に感謝申し上げます。」
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彼女との出会いは、200X年だった。趣味関係で彼女のブログを見つけた俺は、彼女のブログにコメントをした。その後コメントを返してもらったり、mixiのアカウントを教えてもらったりして、コミュニケーションの頻度が上がっていった。連絡先を交換して電話もした。「おはよう」から「おやすみ」まで、ガラケーで連絡を取り合う感じになった。
お互いの写真も交換して、会ったこともなかったのに電話で告白をして付き合うようになった。お互い大学生で、相手は首都圏在住、俺は地方在住だった。遠距離のもどかしさがあったけど、俺は大学卒業後就職して首都圏に引っ越すつもりだった。
俺は大学4年になると、就活とか何かしらのタイミングで夜行バスや新幹線で首都圏へ行き、彼女に会った。最初会う時は、本当に不安でいっぱいだった。思ってた感じと違うと言われたらどうしようと。彼女は、俺のスーツにメガネの容姿を褒めた。それまで容姿を褒められた経験のなかった俺は、褒められたことを単純に受け入れる事ができず、嬉しさよりも恥ずかしさの方が優った。
彼女は、派手な感じのない小綺麗な人だった。背が俺より高くて175cmくらいあった。コンプレックスを感じる必要は全くないのに、「高いヒールを履きたいけど、自分の背が高いのが嫌なんだ」と言った。ネイルをしたり、コスプレをしたり、カメラマンの人に容姿を撮ってもらうことが好きみたいだった。
あまり俺の意見や話に対して自分の考えを述べたりせず、基本的に良く相槌を打ち、よく笑う人だった。いわゆる聞き上手な人のように見えた。家庭問題と学校問題等によって鬱病なんだと聞かされた時は、人に攻撃されないようにとか、嫌われないようにするための処世術?として聞き上手なのかもしれないと思った。
鬱病が本当に辛そうだった。体調のいい時に始めたバイトも、体調が悪くなると寝込んで欠勤が続き、辞めることになった。「パン屋のバイトに受かった、楽しみだ」と言っていたが、最終的にそれも辞めることになった。大学も然り、留年中退となった。「どうして、自分はこんなに他の人ができることができないのか」と悔しがった。
俺は大学4年生の夏頃までに就職の内定をもらった。でも、周りの友達はほとんど大学院に進学予定で、自分の就職選択が正しいのかどうかよくわからなくなっていた。そして、大学院に進学すると遠距離恋愛をさらに2年続けることになる。彼女に電話で悩みを打ち明けると「試験、頑張りなよ!」と応援してくれた。後2年待ってくれそうな気がした。大学の夏休みを院試の勉強に充てて、試験に合格をした俺は、彼女に結果を伝えた。喜んでくれた。内定していた会社には、内定辞退の謝罪をしに行った。
その年の暮れ、俺は年末年始を首都圏の親戚の家で過ごさせてもらえることになり、どこかに遊びに行こうと彼女を誘った。俺はインドア派でどこかに行きたいとかはなかったから、行きたいところはないかと彼女に聞いた。彼女は「109の正月セールに行きたい」と言った。初めて入った109は想像していたより狭かった上、外は大行列で中は大戦争だった。朝からセールにいき、昼に食事をしながら「正月セール、やべーw」と2人で笑い合った。
いつの頃からか、「(俺が学部を卒業して就職したら)もうすぐ頻繁に会えるようになるね」という話題もなくなり、二人の会話がトーンダウンし始めて、とうとう「別れよう」と言われた。院進学の判断をしたのは俺だったし、彼女は明確な意思を持って何かを話す時、結構頑なな人だったから、あまりとりつく島がなかった。そして別れることになった。
それからも俺は彼女と連絡をとった。2年間の博士前期課程を修了後、就職で首都圏へ引っ越した時も、一緒にどこかに遊びに行った帰りに「もう一度付き合わないか?」と聞いた。でも、断られた。それから、お互いに新しいパートナーができたりして、少し疎遠になった。ご飯を食べに行こうと何度か誘ったこともあったけど「行きたいんだけど、体調が悪くて」と断られた。「流石に空気読めよ」って話だったのかもしれないし、本当に体調が悪かったのかもしれない。今から思えば体調は悪化していたのかもしれない。でも、もうわからない。
彼女は、口数が多い方ではなかった。でも、話せば沢山考えていることがわかった。人を蔑んだりすることなく、性格は優しかった。笑顔は素朴で屈託がなかった。俺は彼女の書く文章も好きだった。memorizeとかを昔やっていて、ブログとかでは読みやすくて書き慣れた感じの文章を書いた。何よりこんな俺の稚拙な増田とは比較にならないくらい筆に勢いがあった。
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闘病生活お疲れ様。あの頃、俺は君に夢中だったし、手を繋いでデートできるのが本当に幸せだったよ。優しい笑顔と文章をありがとう。
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合掌
ずっと忘れていた。
いや、脳の奥に生乾きのかさぶたのようなものがじっとりとこびりついて、ふとした時に思い出したりはしていた。
なぜだか、それが昨日になって出てきた
百子はJava言語の技術者だった。いや、技術者か分からないがJavaを学ぶ25歳の若い女性だった。
当時Java言語はJ2EEの登場により大きな注目を集めており、エンタープライズ用途で稼働していた業務系アプリケーションをWEBベースのJavaアプリケーションへのリプレースする事が大きな需要を生んでおり、VBやDelphi又はバックエンドとしてのCOBOL等で活躍していたエンジニアは技術転換を求められていた
現在も大して変わらんないかもしれないが、業務系エンジニアにコンピューターサイエンスを学んだ者は少なかった。
文系出身で(数学としての)関数や代数もちゃんと理解しているのか怪しいような者も数多く居り、当然ながらオブジェクト指向言語に戸惑う者も多かった。自分がそうだった。
当時の技術コミュニティはいくつかはあったが、古くからあったがどれも敷居が高かった。
fj.comp.lang.* (ネットニュース:現在と意味が異なる)は正当な技術者も多かったが初心者が書き込める雰囲気が無かったり過疎っていた。ニフティーサーブやPC-VAN等のパソコン通信(当時既にサービス名が変わっていたかもしれないがみんな昔の名前で読んでいた)をベースにしたものは歴史があったが、老害が偉そうにしているフォーラムも多く、やがて廃れていった。
そうした中で初心者も熟練者も和気あいあいと活発な議論が行われていたのが、JavaHouseというメーリングリストのコミュニティだった。
主催者は現在インターネットセキュリティの大物左翼として時折世間をビビらせまくっている、ひろみちゅ先生こと高木浩光氏。当時既に産総研の研究者になっていたとはいえ、あくまで個人が手弁当で運用していた。無料で誰でも自由に入退会ができるコミュニティであり、他に行き場のなさを感じた初心者のJavaエンジニアたちにとって大きな心の拠り所となった。
でも百子が注目された事があったのだ。
当時は適切な印刷用の整形ソリューションが無く比較的頻繁に挙がっていた話題で、
百子も同様に苦しんでいた
するような方法が、現時点ではり一ゾナブル
かとも思います。
ドラえもんのようなひらがなとカタカナを組み合わせたチャーミングな文体でその焦りを徹底的かつ高度に表現していた。
しかしこの議論中に問題が起こる。JavaHouseに障害が発生しメールが配信されない事象が発生したのだ。
NFSで他のサーバーにマウントしていたが不要と思われたNFSサーバーのデータを一部で参照していたため処理が行えなかった、応急的に対応したが根本対応を後日行うと管理者の高木浩光は告げた。
しかし、議論が途切れた事を不安に思った百子は高木浩光に直接確認を行った。返事は帰ってこなかった。
> This Message was undeliverable due to the following reason:
> The user(s) account is temporarily over quota.
というエラーで戻ってきました。
いろいろとご心配のようでしたので(その内容については書きませんが)、迅
速にお返事を差し上げる必要を感じておりますが、上記の通りでは、連絡の取
り様がありませんので、やむを得ず、お返事を差し上げた事実をここで示させ
ていただきます。
まるで百子に非があるかのように。
恥ずかしさと悔しさで真っ赤となった泣き顔の百子を想像することは難しくない。
次はインスタンス生成時のコストに関する伝統的な議論であったが、
その流れで議論とは関係が無かったが百子はやりとりのマナーについて言及した。
議論をしていた者たちは本質的では無い指摘に形式的な謝罪をしたが、
高木浩光だ
そんな慣習はありませんよ。
きっと百子は憤然たる思いを抱えたに違いなかった
最後に決定的な事が起こる
先日の障害の復旧のためメンテナンスのためサービスを停止すると高木浩光が予告した。
百子はさんざん煮え湯を飲まされてきた高木に対して
以下ちゃちゃです。
全サービスが利用不可というのは、大変なことでしょうに。
以上、ちゃちゃでした。
挙げ句Javaコミュニティを自分で立ち上げてみてはどうかと言う者まで現れた。
か弱く繊細で思いやりのある儚き百子が、このような嘲りに耐えるのは致命的な苦痛だったに違いない。
百子は精一杯の力でJava界の将来についてその想いを書き綴った
私が恐れているのは、恐怖の日が襲い、対応の行動が遅すぎる前に
協議を行って欲しい、ということです。
別れは突然訪れた
「百子の夫です」
技術コミュニティに相応しない短い件名の投稿は衝撃的なものであった
私の妻百子は11日に進行性癌に伴う急性心不全で永眠いたしました
25才でした
医師の診断をもらったとき私たちに残された時間は1ヶ月というものでした
毎日が恐怖でした。、
なんという事だ!こんな悲劇があってよかろうはずがない!
しかもあのプりントアウトの話をしていたときには余命を悟っていたのか。
自分は打ちのめされた
そしてさらに衝撃的な事が続く
百子は先週からふさぎがちになっていました
聞くとブー様とうまくいっていないのではないかということでした
百子はずいぶん前からたびたび高木という男の名を出してひとりでジャバなる
パソコンを動かし一人で全部やってのけているのだと絶賛しておりました
おのれ高木さんめ!いや、ぶー様め!
百子の心に闇で満たしたという事か。
悔しくてウイスキーをストレートで何倍も痛飲し、この辛い出来事を忘れるように努めた。
自分はアプリケーションのプログラミングをする事もすっかりなくなっていた。
数年に1度くらいフッと湧き上がってくる事があったが、すぐに忘れようとした。
しかし、昨日はなぜ、菊池百子を思い出したのかずっと考えていた。
ずっと、ずっと
愛していたんだと思う、百子を。
直接会ったことはないし、見たこともない、投稿の文面の文字でしか見ていない、直接のメッセージのやりとりもしていない、だけど確かに自分は百子を愛していた。
雅人よりもずっと。
ぶー様よりもきっと。
Rest in peace, I love you.
https://web.archive.org/web/20091027013532/http://java-house.jp/ml/archive/j-h-b/052276.html#body
転職して一年ちょい過ぎたが年収マジに1.5倍の生活こんなんなんな
まあ一回くらいは都内マンション暮らししてみてー!で、立地とか設備とか間取りは最高なのにどうして近隣に煙草クソ野郎がいるのか…そして機密性いいんじゃなかったの?な隙間からたばこ臭
どうしてクソ野郎の吐いた煙か副流煙か知らんが吸わねばならんのだ
吸気のパーツ、入居した時はまっちろだったのに真っ黄色になっとるが???拭いても落ちんが???
クソが!!って波があってもう引っ越す!!いやだ!!!次は禁煙マンションだ!!!
タバコ吸う八つ橋ね!ってヘイト吐いてたクソ野郎を思い出すのでそこまで言いたくないんだけどやっぱこの世から消えてどうぞ
安らかに永眠してくんねえかな…近隣のタバコ臭さえなくなったらあとは呑むよ、よええ床に古い素材と前住民の傷跡なんて些事
つかなんでよその部屋にタバコ臭が流れるんだよクソ物件建ててんじゃねーよ
こうやって2度と使わねえ企業とかサービサーを知る機会ってあんまり引っ越ししないと知らなくない?
ググるとアホみたいに近隣タバコ臭で困ってる人、釣り袋とか死ぬほどいるんだけどそこは団結しないんだ…?
禁煙マンションで電子タバコばれる?系のサジェストに闇しか感じねー
タバコもっと高くなるか健康リスクで早くアレしてほしい、強い祈りでどうにもならんが思い出した時に呪ってる お前は他人にめたくそ恨まれてるんだぞ
朝3時頃に「血圧が下がり始めました」という連絡をもらって約3時間半、6時半頃に父、永眠。
毎年欠かさず箱根駅伝を見て、中央大学を応援していた人だから、今年の箱根は見逃したくなかったのかな。
総合2位、すごかったね。
ちょうど半日、余韻に浸りましたみたいなタイミングでの血圧低下の連絡でちょっと笑っちゃったよ。
数日は安定してたから61歳の誕生日をお祝いできるかなと思ったけど、少し難しかったね。でも、12/23に容態が急変してからよく頑張ったよ。
天気もよく、富士山もきれいに見えた。昼間はポカポカしていて遠出日和だったね。
今までありがとう。少し頼りないところもあったけど、素敵なパパでした。
他のみんなはもう少しこっちでゆっくりしてからいくから、ちょっと待っててね。
ずっと愛してるよ。