はてなキーワード: みずほとは
みずほに決まってるんだろ。
って話にはならねえんだよなあ……結局ずっと前に発行した時に「6桁パスワードは後回しで」みたいな話になったから設定して無くて慌ててコンビニでやったわ。
コンビニでやったんだからいいじゃんで終わるなら良かったけど、実際にはその前にマイナンバーPW申請アプリと1時間格闘してんだわ。
写真がぜんぜん読み込まねえ奴な。
ほーんまクソ。
ペイペイはなんか上手くいったんだよね。
「無能が作ったアプリがゴミ。アプリのアイディアは正しいけど、下請けに端金で発注しすぎ」ってことだよ。
はーほんまつっかねえ……徹頭徹尾これだわ。
しかもどうせ元請けは結構でかい所で普通にそれなりに金取っていってんだろ?
はーほんま終わってますわな。
この社会はそこが終わってるんだよね結局。
こういう話すると「下請けになるような技術力が無いくせに起業するカスが~~~」という話にすり替えるやつがいるが、そもそもそういう時は孫請けの辺りが社内の無能を集めてゴミ業務引受チームを作るから結局カスが安い給料でやるんだよ。
そういう「安い人月の人間を生み出す仕組み」が本当に悪いってより、そこに「全ての尻拭いを責任を持って行うリーダー」がいねえわけで、居たとしても全業務の負担を背負う給料に見合ってねえ。
つまりは多重受けにおける取り分が多すぎるんだわな。
はぁ~~~~~~マジカス~~~~~休日にワンストップなんてやるんじゃなかったわ。
スッゲー嫌な気持ちになったね。
仕事中にでもコッソリやればよかった
civiliza 昨日まで1円で取引されていた1万単位発行の仮想通貨を、誰かが1万円で1単位購入すると時価総額は1億になる。翌日再び1円で取引すると時価総額は1万円になり9999万円は消失。1億にするための費用は1万円だけ
財団法人支援のため、自社株を1株1円で割り当てるイオンの会社議案では、反対票が広がり否決まで約3ポイント差に迫った。
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO61484080W2A600C2DTA000/
ましてバグでもなく悪意を持って作られているのはなんでもありえるよ。
「セキュリティホールが空いてるはずがない」とか「逆流が起きるはずがない」とか本気で思ってるなら頭悪いな。
世の中の製品にセキュリティホールなんていくらで空いてるからガンガンランサムウェアが出てるじゃん。
電気で動いてるものならバグったら凄い勢いで電気流れるのは洗濯機の感電事故とかで実例がある。
単にこの世界は皆が努力してまともになっているだけで、実際にはいくらでも危険なことが生まれうるんだよね。
そういうのに対して意識できる科学的知見とか、他人の仕事に対する敬意とか微塵もない馬鹿なんだろうね。
まあ馬鹿に何言っても無駄だから俺は「ドン引きしましたよ。このレベルのカスが21世紀にも居たんですね。小学校に給食だけ食べに行ってたの?」とだけ書き込んでもう終わりにしますけど。
はーマジで信じられね―。
https://honeshabri.hatenablog.com/entry/lazy_investor
のブコメを読んで「種銭がない」「投資に回す金がない」というコメントが気になりました。私自身は今40代で、お金がなかった20代の頃から投資をしてきました。当時からやってきてよかったと思っているので理由を2つ紹介します。
私のお金がなかったというレベルはどの程度かというと、20代の頃にフリーランスのプログラマで年間売上200万円以下というぐらいです。知り合いの家に居候しており、デートのお金がなくてキャッシングを使ったこともあります。食事は100円ローソン(当時はSHOP99)でした。
当時やっていたのは自動の貯金と、投資信託の自動積み立てです。自動の貯金は銀行がやっているサービスです。一度設定するといつでも引き出せる定期預金にいれてくれます。地味なサービスなので知られていませんがほとんどの銀行が提供しています。
私は自動の貯金に5000円、投資信託に5000円を毎月積み立てるようにしました。当時の私にとって1万円というのは大きな額でしたがたまにパチンコに行ってしまうような生活だったので、最初から自動で引き落とされていれば気になりませんでした。
これは「20万円の給料から1万円貯金しろと言われるとほとんどの人ができないが、19万円で生活しろといわれるとほとんどの人はできる」というような法則です。この金額で2年ぐらい継続しました。
2年ぐらいすると30万円ぐらい手付かずのお金があるという状態になりました。それまで収入が低いこととお金の管理ができないことから貯金は0だったのが、気がついていたら貯金できていたのです。30万円というのは当時の私にとって大金で、ちょっとした物なら買えるという嬉しさもありましたし、貯金が自分にもできたという自信もつきました。一番大きいのは貧しい生活の中で「何かあっても30万円あるしな」という気持ちの余裕ができたことです。そのお金があって初めて「ちょっと新しいことを勉強しようか」「新しいことを初めてみようか」という前向きな気持ち、自分へ投資しようという気持ちができた気がします。
次にこれが結構大事で、投資を始めて何年か後にリーマンショックがきて投資してた金額の評価額が4割減ぐらいになりました。初めての暴落の経験だったのでショックでしたが、2年程度で勝手に回復し、またプラスに転じました。この経験で、「これがいわゆる長期投資なら大丈夫」というのかと自分ごととして理解できました。その後、幸いプログラマとしてそこそこ成功した私は今は当時の数百倍以上の金額を運用するようになりましたが、この時の数十万円程度の暴落と回復を経験してなければ、資産の大半を投資に回し、日々数百万円が上下するような生活には耐えられなかったと思います。
つまりいざ種銭ができて本格的に運用を始めるとなった時に、小さい額での実体験がすごく大事になるということです。
種銭がなくても投資をして株価の上下を経験し長期であれば勝てるということを経験してほしい、そして貯金ができてない人には少しの金額でも積み立てることが生活の質の向上につながるということを強く勧めたくて書きました。
投資をしろというのは強くは言いにくいですが、投資が苦手な人でも自動の貯蓄はおすすめです。いま貯金がないという人はぜひ!
三菱UFJ:https://www.bk.mufg.jp/tameru/yen/tsumitate/btm/index.html
SMBC:https://www.smbc.co.jp/kojin/special/new-recruit/minaoshi/type-a/04/
みずほ:https://www.mizuhobank.co.jp/retail/products/deposit/teiki/t_teiki.html
ドルコスト平均法はまやかしです。リスク分散できていません。私が積立から始めたのは単に毎月それだけしか捻出できなかっただけでドルコスト平均法を意識していたわけでも推奨しているわけでもありません。長期では上がるという戦略なので普通の人は余剰金の中で買えるだけその瞬間に買うのが正解だと思ってます。
全てを現金で持っておくというのも投資の選択であると自覚しているかどうかは大事かもしれません。現金はその額が減ることはありませんが、インフレにより相対的に価値が下がることがあります。現金もまた50年後はわからないのです。うまい棒でいうなら昔10円だったのが今は12円です。これは日本円に投資してたら約2割損したようなものです。このエントリは、将来資産運用をやりたいが種銭がないので始められないと思っている人に「今始めておくのは無駄ではないし、むしろ種銭が少ないうちから初めておくメリットもある」ということが伝わればいいなと思ってます。
もうすぐ神楽坂ゆか生誕祭である。昭和のアイドルっぽさを感じさせる彼女は、もともとは「田村ゆかり」という名前でデビューしたと記憶している。
ところで、たまたま先日購入した1978年10月「ゴーサントオ」の時刻表復刻版がある。
https://jtbpublishing.co.jp/topics/CL000461好評の「時刻表復刻版」第6弾 特急時代の幕開け!「ごお・さん・とお」(1978年10月号)ダイヤ改正号 『時刻表復刻版 1978年10月号』 2022年5月23日(月)発売 | 株式会社JTBパブリッシング
https://www.amazon.co.jp/dp/4533149782/
この年は音楽番組「ザ・ベストテン」の放送開始の年でもあり、「レッツゴーヤング」「トップテン」「ヒットスタジオ」といった番組がゴールデンタイムを彩った時期でもある。キャンディーズが解散し、レコード大賞をピンクレディーが獲得し、山口百恵が活躍していた。
いま挙げたようなレジェンドともいうべき女性アイドルたちが全国ツアーを開催していたかどうかは定かではないが、もしもそんな昭和時代に我らが田村ゆかりの全国ツアーがあったなら、皆どういう感じで移動していたのだろうか…などと、時刻表を見ていてふと考えてしまったのが懐古鉄オタの性というもの。
そんなわけで「もしも昭和のトップアイドル・田村ゆかりが全国ツアーをやっていたら王国民はどうやって民族大移動したのだろうか?」というテーマこそ壮大ながら実際は老眼に抗って縮刷版の時刻表とにらめっこして連敗した駄文をそっと放流したいと思った所存。
今年もツアーはあったが、過去最大25公演を誇る2021年の*Airy-Fairy Twintail*の開催地からいくつか選んで当時の時刻表に沿った旅程を考えてみたい。
なお毎日運転ではない季節列車・臨時列車は極力排した。仕方ないね。
1
当時はソニックシティはまだなく、大宮商工会館なる施設が同じ場所にあったらしい。1979年にはサザンオールスターズが公演しているらしいので、昭和のトップアイドルもひょっとしたらステージに立っていたかもしれない。
https://www.livefans.jp/venues/1204
この頃は上野東京ラインも湘南新宿ラインも、埼京線さえも存在しなかった。国電京浜東北線の103系か東北本線・高崎線の115系で到着した大宮駅の片隅には首都圏色の川越線気動車が、反対側には東武野田線の吊り掛け駆動車が見られたはずだ。
2
北陸新幹線のないこの時代、東京から金沢に向かうメインルートは信越本線だった。
上野発916の特急「白山1号」に乗れば、長野経由でおよそ7時間後の1611には金沢駅に着き、前の年に落成したばかりの本多の森ホールにどうにか開演時刻ギリギリに間に合う計算だ。少し余裕を持ちたいなら上野819発の特急「はくたか1号」で1504金沢着。こちらは長岡経由である。
翌朝、今度は金沢から松本に向かう。筆者はAFTでは北陸新幹線に長野まで乗り、そこから特急「しなの」に乗り換えて松本に向かったが、この時代は乗り換えなしの列車がある。それが金沢949発、おそらくキハ58の、時刻表ピンクのページによれば堂々10両編成の急行列車。後ろ3両が松本行き急行「白馬」、中ほど4両は秋田止まりで前寄り5両は青森までロングランする急行「しらゆき」だ。間違わずに後寄り3両に乗れば、途中の糸魚川で青森・秋田行き「しらゆき」から切り離され、進行方向を変えて大糸線に入って1435松本着だから公演には余裕を持って臨むことができる。編成分割をする糸魚川では正午を挟んで8分停車するから、えび釜めしなど駅弁を買う余裕もあっただろう。
ただ、逆にいうとそれしか手段はない。ましてキハ58はいわゆる「直角椅子」のクロスシートでリクライニングも方向転換もできない。7時間近くも乗っていたらそれだけで相当疲れてしまう。
さらに松本公演が終わった日曜の夜。筆者はAFTのときは最終「しなの」で長野に出て一泊し、翌朝の北陸新幹線で出勤した。しかしこの時代なら松本発2056の普通列車新宿行きがある。423に新宿駅に着くから一度帰宅してシャワーを浴びて着替えて出勤する余裕は十分にある。ただしこれもまた「直角椅子」どころかおそらくセミクロスの115系だったろうから、少しでも居住性を求めたければ2359発の急行「アルプス18号」のグリーン車に乗れば良い。新宿着は500だから余裕を持って出勤できるのは言うまでもない(出勤した後のことは例によって保証できない)。
3
新幹線はすでに博多まで開通していたし、熊本空港には全日空の3発ジェット・トライスターか東亜国内航空のDC-9が就航していたが、鉄道好きとしては1645東京発1058熊本着の西鹿児島行き「はやぶさ」か、1700東京発1123熊本着の「みずほ」を推したい。食堂車で夕食・朝食の2食をいただくのんびりとした旅である。
ただ、昨今の「サンライズ」などとは違って当時の寝台特急にはシャワー室はなかった。「はやぶさ」「みずほ」には個室もなければ女性専用車もなかったから、今や全国民の1/4に迫らんとする女性王国民の遠征には不向きだったかもしれない。まして当時の長距離列車は喫煙可能が当たり前で各ボックスシートの窓際に灰皿が標準装備されていた。
しかしもう少し前の1970年頃に青春時代を過ごした我が母親によれば、当時のスキー列車はいつも満席で男女問わず通路やデッキに新聞紙を敷いて座り込んだというから、たくましい遠征女子も実は相当数いたかもしれない。
4
東北・上越どちらも新幹線はこの時代は絶賛工事中。開通は4年後の1982年だ。しかし上越線には「とき」、東北本線には「ひばり」というエル特急が毎時1本ペースで運転されていたから往路はどうにでもなる。
新潟の帰路、私は最終新幹線に飛び乗れたが、この当時なら2300新潟発の急行「佐渡8号」で506上野着か、横になりたければ2312の秋田から来る急行「天の川」で555上野着。新津まで普通列車で出ておいて040発の急行「鳥海」で642上野着でもいい。
仙台からは公演後だと2320発の急行「新星」がおすすめだ。仙台駅には早々と入線しており2130から発車前の寝台を利用できるのが嬉しい。上野到着は536だから一度帰って身支度を整える余裕もありそうだ。このほか、仙台2257→上野519の青森発常磐線経由の急行「十和田2号」や、座席車なら仙台2336→上野542の急行「いわて4号」も便利であろう。なお急行「十和田」はこのあとも4号・6号が仙台に停車するし、特急「ゆうづる」2号・4号も利用できる。
そうして考えてみると、まだまだ高速道路網が未熟だったこの頃、寝ている間に移動できる安価な手段は鉄道しかなかったのだということを改めて感じさせられる。1970年代でも長距離バスは運行されていたが、都内と新潟が高速道路でつながったのは1985年、仙台は87年。歴史でいえば線路の方がはるかに長い。
なおこの当時、上野→仙台が特急「ひばり」で4時間以上かかっていたので、羽田空港から仙台空港への航空便も全日空により1日4往復運航されていた。
5
ならばその先はどうか? 札幌公演に行くにはこの当時でも飛行機が当たり前の選択になってきていた。筆者は81年の夏に北海道の親戚を訪ねる旅に出たが、祖父母に連れられて上野駅から青函連絡船を経て親戚の住む苫小牧まで20時間ぐらいかかったように記憶している。まだ青函トンネルは開通していなかった。
それでは札幌公演に陸路・海路で挑むとすればどうなったであろうか?余裕を持って開演に間に合わせるならこのルートである。
2140上野[特急ゆうづる5号]705青森or2221上野[特急はくつる]711青森
1140函館[特急おおぞら5号釧路行き]1550札幌or1145函館[特急おおとり網走行き]1558札幌
急行自由席に乗れる周遊券を利用するなら上野1908→青森617の「八甲田」や函館1150→札幌1630の稚内行き「宗谷」も良い選択肢であろう。
やはり北海道は遠い。時間に余裕のない向きは素直に飛行機を利用すべきであろうが、千歳空港と国鉄の駅が接続されるのは2年後の1980年のこと。この時刻表の時点では札幌駅前からバスに乗るのが普通の手段であった。
6
そして福島公演はエクストリーム出勤の宝庫であった。終演後の福島駅発上野行きを見てみると、
2350 急行「あづま4号」437
043 急行「新星」536(寝台あり)
056 急行「いわて4号」542
このほかにも夏休みシーズンだけに季節列車・臨時列車も運転されていたと思われるので、かなりの席数が利用可能であったと推察される。
座席車の特急はいわゆる「直角椅子」であるが、寝台車連結の急行列車では短時間でも横になって移動できる利点がある。これは現代の夜行高速バスでも(実際に運行されてはいるが)まだまだ一般的ではない。バスは鉄道車両よりも小さくて何両も連ねて運転されるわけもないから、寝台は不可能ではなくても困難が多いのであろう。
7
国鉄監修時刻表を見る限りでは、東名阪のバスは国鉄ハイウェイバスしか掲載されていない。関西公演からの帰り道は2240大阪駅→815東京駅の「ドリーム2号」か2200京都駅→643東京駅の「ドリーム4号」しか見当たらない。
鉄道ならば京都2237の特急「出雲2号」、同015発の「出雲4号」なら700には、大阪2358の特急「瀬戸」や同005の特急「あさかぜ2号」でも730には東京駅に着けるから、エクストリーム出勤勢の強い味方になり得たと思われる。なんなら関西勢と感想を語り合いつつ酌み交わす余裕は十分にある。しかもこれらは当然寝台車であるから、予約さえ取れれば会場内外で充実至福のひと時を過ごしたのちに千鳥足でベッドに潜り込んで目覚めれば東京駅も間近に迫り、どうかすればまだ夢見心地のまま出勤せざるを得ないベストコンディションを通り越した邪悪な何かを感じずにはいられない有様である。
なぜ新幹線ではなく在来線を推すのかと問われれば、その当時の東京行き最終「ひかり116号」は新大阪2034発であるから、フェスティバルホール(当時は改築前)から終演後直ちに最寄りの四つ橋線肥後橋駅に走ったとしてもけっこうタイトな時刻設定であることが第一に挙げられる。梅田の地下に慣れない関東勢が四つ橋線西梅田を出て乗り換えに手間取ると、最終の新幹線は慈悲もなく出発してしまう…それは正直恐ろしい。
筆者は鉄道好きで鈍行やら夜行やら多少は乗ってきた経験とノスタルジーがあるので満更でもない旅行だなとほくそ笑みつつこの文章を書きつけてはいるが、冷静に考えてみれば当時は今よりずっと不便で居住環境は悪かったように思う。なりふり構わぬ男性、特に体力に自信のある若者にはなんということはない行程だったと思うが、女性にはあまり優しくない環境だったし、筆者も若い頃は大きな鞄を抱えて夜行連泊するような旅をしてきたけれど今この歳になってふたたび体験するのは懐古趣味を差し引いてもためらいが多めに残る。
とはいえ不便で時間のかかる旅を楽しみたい向きが今もなお大勢いるのは承知している。そんな黒鉄の人々に机上タイムトラベルを提供できたら幸いかなと。ただそれだけ。
本文に田村ゆかりは出てこずに時刻表を読み解くだけだったが、10月に横浜で公演があるのでよければバスや飛行機よりも鉄道を乗り継いで参加して紀行文と公演感想文を読ませてくだされば筆者はDouble Fascinationになれる。
それはともかくできる限り多くの客席を埋めて盛況の公演としたいので、関心のある方は下記から申し込みいただければ幸甚に存じます。
不正解でscore += 0; と書いているのは静的解析がelse節を省略すると指摘してくるから。
何もしていない、はそのとおり。
不等号がいい具合に化けてるのでそのままにしておく。
import java.util.*; public class Main { public static void main(String[] args) { // 入力のparse (中略:int numに問題の数、String list[i][] に問題のリストを格納している) // 採点 int point = 0; for (int i = 0; i < num; i++) { String question = list[i][0]; String answer = list[i][1]; if (question.equals(answer)) { // 完全一致 point += 2; } else { if (question.length() == answer.length()) { // 文字数は等しい(部分点の可能性がある) point += scoring(question, answer); } else { // 不正解 point += 0; } } } System.out.println(point); } // 長さが同じ文字列を採点する // 長さが違う文字列を受け渡したときは正しく動作しない private static int scoring(String question, String answer) { int length = question.length(); int score = 2; for (int i = 0; i < length; i++) { (中略:文字が違うたびにscoreを-1して、socreが0以下になったらそのままreturn) } return score; } }