はてなキーワード: 高等教育機関とは
駒場「最近、うちのおかんが得たい称号があるって言っててな、それを得るのを手伝ってあげたいんやけど、おかんがその称号の名前忘れてしもうたらしんよ」
内海「ほうほう」
駒場「ほんで色々聞いてんねんけどな、それが何か全然分からへんのよ」
内海「ほなね、俺がお前のおかんが得たい称号の名前、一緒に考えてあげるから、どんな特徴言ってたか教えてよ」
駒場「おかんが言うには、その称号は高等教育機関の中で与えられる最高のもので、アカデミアで職を得ようと思うと絶対必要らしいねんな」
駒場「俺もそう思ってんけどな、おかんが言うには、その称号を得たら必ず明るいキャリアが開けるらしいねんな」
内海「ほな博士号とちゃうか〜。博士号取った人が就職活動上手くいった話聞いたことないもんね。博士の主な進路は無職か失踪やねんから。じゃあ博士号とちゃうやん。他に何か言ってなかった?」
駒場「おかんが言うには、その称号を得るには度重なるストレスと挫折に見舞われるらしいねんな」
内海「ほな博士号やないか。幼い頃どれだけ神童と褒められた子でも、絶対博士過程で一回は挫折すんねんから。こんなん博士号で決まりやないの」
駒場「俺もそう思ってんけどな、おかんが言うには、大学の教員は別にその称号は取らんでもええって言ってるらしいねんな」
内海「ほな博士号とちゃうか〜。大学の教員は何がなんでも学生に博士号取らせようとしてくるもんね。教員が言う博士号のメリットなんて全部生存バイアスやねんから。博士号やのに博士号とちゃうやん、どういうこと?他になんか言ってなかった?」
駒場「おかんが言うには、はかせって読むかはくしって読むか分からんらしいねんな」
内海「博士号やないか。いやもう、はくしって言ってもうてるからね。こんなん博士号に決まりやないの」
駒場「俺もそう思ってんけどな、おかんが言うには、博士号ではないって言ってんねんな」
内海「ほな博士号とちゃうやないの。おかんが博士号ではないっていったら絶対違うやないか。今までの時間は何やってん。ほんまに分からへんやないか。」
ん?トーンポリシング?
ごめんね、そんなに急にギャオオンされても意味がとれないよ、落ち着いて。
元記エントリでは絡まった倫理的問題個別の命題に切り分けてどこまでが意見のすり合わせができそうなのか論じてるのに、
急にそこに自分ででっちあげた定義をねじこんで読み替えちゃったら
「あ、こいつは高等教育機関でで文章書く訓練は受けてこなかったのかな」と思っちゃうのは仕方ないよ。
お画描きばかりして青春を過ごしたかな・・ 誤解だったらごめんね。
おつむゆるふわなサブ学問の徒でも便利に振り回せるように天上のフェミ様から与えられた便利な用語の使い方も満足にわからないんだから救われないよなw
高専について知りたい人や高専に職を求める人に向けて、いわゆる高専に採用され働いてみた感想を書いた。
高専と一口に言っても色々ある。上から下まで序列ができていて学生や教員の質は雲泥の差であるらしい。上は大学編入予備校と化したお受験高専から、下はコネと気合と根性で中級技術者という名のほぼ技能工を企業に送り出す工業高校のようなものまでが同じ「高専」という言葉でひとくくりにされている。ここに書かれているのはあくまで最下層の淀んだ高専の話であるということにご留意いただきたい。
当たり前だけれど、自分が働いた職場以外のことはほとんど知らない。学会で会った知り合い、部活引率先の懇親会で交わした会話などからほかの高専のことは推察するしかない。私の見てきた世界と、学会などで出会う高専生を比較すると平均的な高専生は素直で良くできると思う。だから、私が感じてきたよりは高専全体のポテンシャルは高いはず。
高専の使命は「実践的技術者の育成」なのだそうだ。実際に私が高専で目にしたものは、平均かそれ以下の学力をもつ田舎の中学生を集めて、食っていける程度に躾と学習を施し、会社へ送り出すというものだった。また、ひとり親家庭など経済的にハンディを抱えた中学生を職業に結び付ける「社会の落穂拾い」でもあった。ここまでこの文章を読んで、あなたは「なるほど高専は社会に役立つすばらしい高等教育機関だ!」と納得したかもしれない。高専がどんな役割をもつ場所なのか、知ってほしい。
実のところ、高専教育は学力以外の「教育」が多い。博士を取って専門を極めてきた人たちにとってはカルチャーショックだろう。この「教育」に馴染める人は高専に残るし受け入れられない人は去っていく。教育のためにすることは会議だ。会議、そして会議のための会議、すべては教育的配慮というふわっとした美名のもとに決まっていく。子供だからと悪人がのさばり、善人が去っていく。
担任をすれば、すべての時間は学生に割かれる。あれもこれも、すべて担任のせいにされる。
寮や部活は前時代的な暴力が支配する世界だ。さすがにいまは身体的暴力はないが、言葉の暴力は公認され教員は暴力を擁護する側に回らなければ運営できない。高専では強くなければ生きていけない、そういう当たり前のことを見せつけられる。それが教育なのだろう。
高専の求人には博士の学位がほぼ必須だ。だから、私は高専教員が独立して研究を行うことのできる仕事なのだと思っていた。働いてみて、高専教員が研究できる仕事というのは嘘じゃないとわかった。しかし、研究に裂けるリソースは驚くほど小さいし、年齢や職位が上がれば上がるほど研究の割合小さくなることが容易に予見できるというのは辛い。
学問的な研究は否定こそされないが歓迎されないと感じる。「実践的技術者の育成」こそが主目的であり、研究はそのオマケであるべきという雰囲気を学校ぐるみで感じた。そんなもの無視している先生もいたけど。時間が限られているので仕方がないが高専での研究内容はよく言えば流行りに乗った、悪く言えば軽薄なものばかりだった、骨太なものは煙たがられる傾向にあった。日本の研究自体が即物的なものに誘導されつつあるので、もうじき高専は過剰適応として絶賛されるだろう。
上司の意向など誰にも邪魔されずに研究テーマを設定できるから、うまく研究を手伝ってくれるパートナーを見つけることができればいいかも。
ちなみに、高専の教員リストには工学博士などの学位がズラッと並んでいる。しかし実際のところ、高齢高専教員の学位は、お上の意向でしかたなく取得したハリボテみたいなものだと知ってほしい。
高専機構というお役人様の改革病に付き合わされて、高専は疲弊している。小さな予算をもらうために企画書を書き仕事を増やし、高専教員は様々な機関の下請けにされそうになっている。そしてこれからクビキリはないにせよ、退職者の不補充で地獄が始まる。
学生たちはよく言えば純粋だし、別のいいかたをすれば子供だった。子供相手には誠実さだけではダメで、チカラで黙らせるみたいなスキルが必要だ。子供が好きで思春期の悩みに向き合って人格的な成長を引き出したい人にこの仕事は理想的かもしれない。でもそれって、工学博士という条件じゃない気がする。
愛すべきテキトーおじさんたちが大好きだった。仕事でやらかした数々の失敗伝説を持つおじさんたちがいて、人生の教訓みたいなものを生で見せてくれた。
私が見てきた高専教員には三つのパターンがあった。第一に間違って高専に来ちゃったポスドクタイプで、こういう人は雰囲気ですぐわかるし数年ですぐ辞める。第二は熱血教師で、学生指導も卒研指導も大好きみたいなワーカホリックだ。そういう人は自分が忙しいだけじゃなく周囲の仕事も増やしていく困ったタイプだけれど、この層で高専の運営は回っている。第三は重鎮タイプで、誠実で穏健なおじいちゃんや、数々の失敗伝説や奇行エピソードをもつ勇者まで様々だ。あなたは、どんな教員になりたいのだろうか考えてみてはいかがだろうか。
いったい、高専教員として長くはたらき続けている人たちは、何に喜びを見出しているのだろうか、私にはわからない。だから、長く働き続ける理由を見つけられたらいいかもしれない。
「高専で研究できなければ、どこにいっても研究できない」という名言を盾に揺さぶりを掛けてくる人がいるかもしれない。それは、ブラック企業の「ここを辞めたらどこでもやっていけない」と同じ構造なので惑わされないように。高専の他に行き場がなければ高専で自らを鍛えてもいいかもしれない。ただし、転職という退路は常に意識しておいたほうが良いと思う。
実名ながらパワハラなど高専のおぞましい実情をほのめかす良質な高専退職エントリもあるのでご参考まで。人材が定着せず次々と求人が出るのはそれなるの理由があるのでしょう。
高専教員は学生からの「勉強教えて~!」の質問攻めに無い知恵を振り絞って切り返すという面白さがあったり。卒研発表会後の学生の笑顔を見れるという喜びもある。この仕事やっててよかったなって感じることもある。しかし、週末や連休になると部活引率で早朝から駆り出され、こんな人生求めてたのかと悩む。嵐の夜は宿直でビクビクしながら眠れない夜をすごすことになるし、救急車の音が聞こえると、学生が巻き込まれていなければよいのだがと心配する仕事である。
その本質は徒弟制度の職業訓練所である。卒業生のほとんどが臨床医となり、いくらかの変わり者が研究者となり、その他民間企業や行政方面に進むものはごくわずかしかいない。卒業後の進路にこれほど偏りのある学部や学科はあるだろうか。その上、彼らの存在そのものが日本の医療という非常に重要なインフラを支えるための貴重な資源であり、したがって大学の使命はおおむね優秀な医師を社会に送り出すこととなる。卒業生の8割が医療系コンサルに進む医学科があったとして、社会はその大学の存在を認めてくれるだろうか?優秀な頭脳を持っていても重大な持病を抱えていたり、虚弱であったりするものばかりの大学の存在を認めてくれるだろうか?40歳で医学部に入る再受験生だらけの大学を認めてくれるだろうか?誰も循環器科や消化器外科に進まない大学を認めてくれるだろうか?結果、大学受験は就職活動、就職試験の役割を担う必要が出てくる。つまり優秀なだけでなく、臨床医として有能であろう人間を選別するシステムが大学には必要であり、それが入試時の面接であったり各種のハードな実習や研修であったりするのだ。その結果、社会を維持するために若い男性が優遇される結果となるのは自明であるように思われる。大体、多浪や再受験生がその年齢に応じて減点されていることはすでに明らかな事実だ。国立、公立大学にあっても露骨にそうなのである。年齢差別、男女差別、疾病差別、地域差別・・・あらゆる差別がそこにはあるのだろう。
無論、日本でのペーパーテストの公平性への信頼感は貴重なものであり、それをないがしろにし揺るがした今回の事件は大きな問題である。だが純粋な公平性を保つためには前述の問題、つまり、実質的に現場を支えることのできる医師が減ることをも許容しなくてはならなくなるだろう。面接をなくせば、性別や年齢の記入欄をなくせば、公平になる。それは正しい。だがその結果、現状で年に数千人しか生まれない医師が実質的に減ってしまうことになるのだ。定員を増やせ?それもいい。それは必要なことだろう。だが無論莫大なコストがかかり、それは医療費の高騰にも繋がりうる。医師の給料を下げろ?そうすればすぐに医師は減るだろう。多くの現場を支える医師は金銭のためというよりも、技術に対する向上心や人々から向けられる尊敬の眼差しのためにその過重労働に耐えているのだ。
今までの医療界は、おそらく他のインフラ業界もそうであろうが、数多の犠牲の上に成り立ってきた。個人の健康や幸福を犠牲にしても医師として過重労働に耐えつつ名誉や金銭、達成感などを追い求める人々と、そんな医師の過程を支える家族と、健康でヘビーな労働に耐えるという能力が欠けていたため医師になれなかった人々の犠牲の上に。だが我々は進歩し、そのような個人が社会のために犠牲となる時代を脱しようとしている。少なくともそう試みようとしている。それはなんの疑いもなく素晴らしいことである。だが、そのためには手放さなければならないものも多くあるに違いない。その一つが現代日本における医療の高度さや利便性であっても、驚いてはならないのだ。
で、こういう人に、『じゃ、紹介してあげましょうか?』と言うと『俺さんの紹介だと中国人だったりします?それはちょっと…』とか言われる。
大学出てから中華圏で仕事していたので、私の知人は中国・華僑が多い。日本に戻ってからも日本でがんばる留学生や社会人が多い。そんな人たちを紹介しようとすると、冒頭のセリフを耳にするわけ。
日本に来る人は自分の母語と義務教育で受けた英語に日本語が堪能なトリリンガルが多い。一方、冒頭の彼らは6年以上勉強したはずの英語すらあやしい。
日本に来る人は語学学校1-2年間に高等教育機関(例えば院)の2年なり4年なりをバイトや商売で学費はもちろん、生活費もまかなうわけ。しかも、海外でね。バイタリティとメンタルの強さは彼らの過去が証明してくれる。
でも、冒頭のお返事なんです。
会ってみたら気が合わないとかなら、まだ分かるんです。会いもしないうちに、そー宣う。
40代ならともかく20代の人でも彼らの中の海外(特に東アジア)って30年前くらいのイメージなんじゃないかなと。だから、そこの人たちとは…みたいな?
そーゆーとこがまだ残ってるのは確かだけど、それも消えゆく光景で日本より速いスピードでどんどん変わってるんです。
とか書くとその手の人がボロックソに叩きに来るだろうなぁと思いつつ。
ぜひそういう方も最後まで読んでほしい。……多分無理だろうなぁ。
平等という考え方には大きく2種類あると思っていて、「スタートラインの平等」と「ゴールラインの平等」の二つがそれだと思う。
スタートラインの平等というのは機会均等の考え方で(どちらかというと欧米的な思想)、ゴールラインの平等というのは結果平等の考え方。
日本で「平等」というとどちらかというと後者の結果平等を指すことが多くて、そのうえで男女平等を考えるとおかしなことになる。
どういうことかというと、「女性だから」という理由で何らかのアクションをする機会すら奪うのはよくない、男性と同じようにチャンスくらいはくれ、という考え方である。
具体的な例でいえば、「女性だから」という理由で高等教育機関への入学を断られるとか、選挙権が制限されるといったようなことだ。
これはおそらくほぼすべての資本主義国家においてはクリアされている……と思われる(ちゃんと調べてないので確定的なことは言えない)
しかし、ここで日本的な「結果平等」で男女平等を考えるとおかしなことになる。
(そもそも「結果平等」がなんで日本的な平等観なのかという説明はここでは省略する)
男性と女性にはそもそもの生物学的な「性差」が存在して、それを乗り越えるのは一般的には不可能である。すごくざっくばらんに言うのであれば、男性は子を成せないし、母乳は出ない。
逆に女性は男性のような強靭な肉体は特別なトレーニングを行わない限り基本的に得られない。
さらにえぐい話をするのであれば、本能的に男性は女性の身体で興奮するようにできており、そうでないと子孫はつないでいけない。もちろん人間には「理性」というものがあるので時と場所を選ぶことができ、そして時と場所を選ぶ必要がある。他の生物を見ても、基本的に雄が雌に求愛行為をする生物が多いだろう。そういうことである。
つまり、平等という秤に乗せる二つのものがもともとそれぞれ欠けたものがあって、結果平等にしようとするとどちらかに引いてもらうしかないのだ。
例えば、男性は子を成せないし、子供を産んだ後の育児に女性は不可欠であるから、必然的に出産から育児の過程では女性の方がそちらにリソースを割くことになるだろう。
この時、「男女平等!男性も育児をしろ!」となるとどうなるかというと働く人がいなくなる。二人で子育てをしようとしたところで男から母乳が出るわけではない。
そういう意味では「男は仕事、女は家庭」というのは、なるほど、生物の仕組みに沿った考え方だと思う。
もちろん、これを基にして「だから女が仕事をするとは何事だ」という文脈にとるのは間違っている。女性だって仕事をしたって良い。そういう機会は与えられるべきだ。
そもそも、女性にも結婚をせず自分ひとりで生きて、そのために仕事をする、という選択肢は保証されるべきで、そういう意味では先ほどのフレーズは女性を縛る悪魔の言葉であるというのも理解はする。
さて、機会平等と結果平等について簡単にお話をしたが、どうも日本において各所で見られる「女性の権利」を謳う方々の意見は結果平等の方の男女平等を求めているように見える。
だがそれは無理だ。そもそも形の違うものを平等にするためには、ハンデを持っている方に合わせる必要があり、それは機会平等を奪う。
つまり、機会平等の観点からみると逆差別が発生するだけなのである。実際にそういったことが現在進行形で進められ、さぞかしそれが正しいことのように進んでいる。
しかし、ちょっと待ってほしい。それは結果としてまた別のひずみを生むだけなのである。
タイトルで私は「男女同権・男女平等は日本には無理」と述べたが、日本でもちゃんと「機会平等」という考えが浸透し、結果平等と違うんだということが分かってもらえれば可能性があるだろう。
しかしながら、声の大きい方々の多くは結果平等しか見えてない気がしてならない。もしくは機会平等と結果平等を意図的もしくは理解せずに混同している。
そういった現状で、「機会平等としての」男女平等や男女同権が実現されるのは、日本においてははるか未来になるだろう。
……それこそ、日本において「機会平等」という意味での男女平等が戦後になるまでまともに行われなかったように。
そんなことを、いろいろなニュースや、話を聞きながら思うのであった。
「危うい」というのは国家としての存続ということ。
政治とか歴史とかについてあまり理解はない方だと思うのだけど、私自身が中国に留学、就労経験があることもあり、私のfacebookには日本に帰化した中国人だったりという人もいる。
日本語が非常に堪能で名前さえ明かさなければ中国人だと分からないし、日本の高等教育機関で働いていたりする。
facebookのタイムラインを見てきて分かったのだけど、これらの人たちは日本の左翼活動家をすごく尊敬していてシェアやいいね、コメントをしていろいろ励ましているし、
基本的に日本だめだー、政治家だめだー、歴史認識だめだー、とか。
いろんな文献に基づいた客観的な分析ならまだ学びがあったりするのだろうけど、最近とくに主張が薄っぺらい上にいろんな人に絡みだして立ち悪い感じになっている。
日本批判の報道内容はシェアするくせに、自国内メディアにおける捏造報道だったりには目を背け、中国称賛ニュースを拡散したりしている。
(私は中国のニュースを読解できるくらいの中国語レベルはあるので、よく中国のニュースウォッチをしているのだけど、たまに酷い捏造記事が拡散されたりしている)
これだけ日本に対するヘイトを繰り返しているのに、日本政府から何の制裁もなく今日も頑張ってヘイトできることを保障してくれている日本政府に感謝はないのか、ということ。
もし、こういった活動を母国でやったら瞬時にスパイ容疑で逮捕されるだろうに。
最近中国でスパイ容疑で逮捕されたというニュースがあったけど、この元中国人たちによる日本での活動は目に余るというか、もうすでに日本の教育機関にまで入っていて社会的地位、影響力を持っているというのが本当に恐ろしい。
この人たちの教え子もすごくこの人たちを慕っているようだし。
私という一小市民のfacebookでもこういう現状が浮彫になるくらいだから、日本全体、日本中枢まで目を向けるともしかしてもう取り返しのつかないところまでいっているのではないかとすごく危惧してしまう。
今朝は一応、竹下国対の「遠慮」というよくわからん奴で、国会が流れてます。半日ということなので、午後は職権ででもやるつもりかな。法務は止めるべきだと思うよ。鈴木委員長の不信任動議はやっとかないと、示しがつかんよ。で、みるもんがないので、あまり盛り上がっていない加計学園の疑惑についての追及の現況について復習。ちゃんと野党は追及してるよ。報道はされてないけど。これは、昭恵夫人も、財務省も介さないで、ダイレクト安倍さんの疑惑なので、報道の萎縮もその分強いんだろうね。バカじゃないのと思うけど。お前らが萎縮してる限り、お前らのその状況は覆らんぞ。
※大手メディアは看板掛かってるから証拠がないとかけないってのはそりゃそうだけど、この件、森友の件にはそんなのいらんですよ。現在進行形で、国会で、堂々と、「資料は出さない、答弁はしない」ってぬかしてんだからそこを批判しないメディアに何の価値があるの?このなめきった態度を報道してるメディアはあるんです?
これらは、森ゆうこ、桜井充、宮崎岳志、木内孝胤議員らの質疑からまとめたものです。時系列は森議員提出の資料を参考にしてます。
http://my-dream.air-nifty.com/moriyuuko/2017/04/425-ce1b.html
H19年からH 26年11月までずっと今治、愛媛の提案は却下され続けています。その数15回。議事録を見ても、農水は獣医は充足している、文科も新設の予定はない、の一点張りですよ。H27年6月に国家戦略特区提案をして、提案者ヒアリング、関係省庁ヒアリングが行われています。その際、文科省は、「もし新しい獣医師需要があるのなら特定地域の問題ではなく、全国的見地から検討する」と答えています。そしてH27年6月末に日本再興戦略2015の改訂版が閣議決定されて、獣医師養成系大学・学部の新設を検討することにされます。
山本幸三担当大臣の前の石破茂議員だった頃は、中国四国出身の民進議員(高井たかし議員)から、四国に獣医学部ができると聞いたが、本当か、できるならぜひやってほしい、みたいな質疑(対象が加計学園一校に限ってであることはこのときは決まってないしそれが総理の”腹心の友”であることなんてしらんだろうしね。)があって、石破大臣は、「閣議で獣医に新しいニーズがあるとは言われたから、それは大事だが、医者と一緒で、獣医のライセンスを増やしても、地域の偏在、産業獣医のなり手不足は解決しないし、誰も彼も賛成するわけではないから慎重に考える」(H28年4月28日地方創生特別委員会)というように、慎重だったんです。
H28年3月24日に、提案、提案者ヒアリングの開催は半年後のH28年10月17日。京都産業大学には大槻公一教授という、鳥インフルエンザ研究の専門家がいて、鳥インフルエンザ研究センターをすでに作っています。設立を目指すのも、実験動物専門医や創薬に携わる獣医ということで、既存の獣医との差別化という意味でも、産業獣医の不足という意味でも、日本再興戦略2015の要請には合致しているといえます。この時点では、まだ「空白地域に限る」という指定もありません。京大や京都府大などと連携して、有識者会議も発足しており、近畿圏の知事からも連名で文部科学省への設置審議の要請をしています、場所も綾部市の府の機関の隣接地と決定しています。また私学のNatureのライフサイエンス論文掲載数でも1位と研究のレベルも高い。またバイオハザードレベルP3の実験室を京都市内ですでに作っている。またワーキンググループでも座長や委員からも高い評価を得ています。しかし議事録によると、こういった状況の大学が、H28年10月17日時点で、設置審にかけて欲しいといくら要望しても、農水も文科も「する必要はない」と事前協議にも応じてくれないといっています。それどころか、関係省庁ヒアリングは開催さえしていない。この議事録が公開されたのはすべて決定された後のH29年3月。
H27年6月4日に提案、翌日6月5日提案者ヒアリング、6日に関係省庁ヒアリングです。まず何だこの違い。さらに提案者ヒアリングの議事録は非公開。
翌年、京産大の提案に焦ったのか、ロビー活動を活発にしています。まず、文科省から天下っている木曽功、内閣参与ですが、加計学園理事の彼を千葉科学大学の学長に(餌ですかね)。また豊田三郎文教協会専務理事(文科省天下りの差配をしてた組織ね)をH28年5月に加計学園理事に加えています。
そして、H28年8月23日、山本有二農水大臣に、豊田三郎氏と加計学園の理事長の加計孝太郎氏が面会(あいさつだそうで)、9月6日、松野博一文科相に同じ二人が面会(これまた挨拶だそうで)、9月7日、山本幸三行革大臣に、加計孝太郎氏とその息子が特区に関する陳情(豊田三郎氏とは面識がないそうで)です。はい、このロビイングがされている段階で、京産大は、農水、文科省の幹部に5知事連盟で要請している事前協議もさせてもらってないですよ。またヒアリングもまだです。
9月?日、木曽功参与が、内閣府の特区担当の審議官を参与室に呼び出し、30分程度特区制度”一般”について説明。特区に申請している組織の幹部を兼務する内閣参与に、特区担当が説明に参上するというのはこれは利益相反事項ですよー。でも「民間でどのような役職を兼務しているかについてはまったく承知していない」そうです。あとこの人、ユネスコ関連業務の参与ですよ。例の明治の世界遺産登録で活躍した人。特区制度のご説明求められて、ほんとにユネスコ担当参与が特区説明してって言ったら、何の疑問も持たずに説明するんですねーすごいねー(棒)。はい、面談記録がないからいつ説明したかもわからないそうです。またいつものやつね。説明資料出せと森ゆうこ議員が要求しています。
10月24日、山本幸三大臣が安倍総理と面会(加計学園の話はしてないそうですが。)、
翌日10月25日に今治市が、高等教育機関の候補用地のボーリング調査の検討(31日に承認)。この時点では、公式にはなんのアクションも起こってないですよ。おかしいなーこの構図森友でも見たぞ。
11月28日、今治市が加計学園による建築確認、消防計画に関する事前協議。おかしいなーまだ何にも決まってないはずなんだがなー。
H28年10月28日-11月2日、内閣府内で11月9日の文案が定まる。この間、どのように、誰が作成したのかについて森ゆうこ議員が問い合わせると、「個別の政策の集約の経過については答弁を差し控える」(松本洋平副大臣)ということで、森ゆう子激おこ。ほんとにどこまでもなめてやがんな。公文書管理法の第4条読め、遵守しろ。
11月9日 国家戦略特区諮問会議、突如として、広域的な空白地のみに限って、という文言が登場し、事実上京産大は退場。大阪府大に獣医学部があるので。この間、誰が、いつ安倍総理に意思決定のための説明をしたのかと質問したら。「しかるべきときにしかるべき内容を」(松本副大臣)と答弁。あほか。またこの会議では八代尚宏や竹中平蔵らが委員をしているけど、まぁこの獣医の議論はすっからかん。八代尚宏は、国際医療福祉大学みたいに、特別な学校なんだとすれば、特区にできるみたいなアドバイスはしてるけどね。あえていえば。
11月18-12月17日 パブリックコメント、8割が否定的意見
12月8日、日本獣医師会が設置そのものに反対だが、するなら1校に限ってほしいという要請
12月22日、国家戦略特区としての獣医学部の設置を決定したとされる(ただし、3月までは、そのような事実はないと答弁していた)。この合意文書が本当に12月22日に決定されたというのなら、サーバー記録、ファイルプロパティを見せろと迫ると、「公文書偽造に問われるから、公務員はそんなことしないから見せる必要がない」(松本副大臣)。こいつほんまにあほか。
こんだけつらつらと書いといてあれだけど、こういうあからさまなことが、ささいなとこを除けば、合法的に行われているっていうところが、この国家戦略特区制度の恐ろしいとこだとおもうよ。マジで。国家戦略特区諮問会議は安倍総理が意思決定権者だから、最低でも形式的な責任者ですよ。加計学園が選ばれたっていうことそのものは、まぁ逆差別があったらだめだって福島のぶゆき議員が言ってたけど、そのとおりだけど、じゃあ最低限、議論の透明性は確保すべきだろうってところを徹底的に出さない、下手したら公文書偽造までやってるかもしれないっていう事態はほんとに終わってると思いますぜ。
経団連が発行する「採用選考に関する指針」では、以下のような文言がある。
http://www.keidanren.or.jp/policy/2016/081_shishin.pdf
学生が本分である学業に専念する十分な時間を確保するため、採用選考活動については、以下で示す開始時期より早期に行うことは厳に慎む。
ところが3月前の時期であっても「インターン」や「OB懇談会」なる名のもとに事実上の採用選考を実施しているのが実態である。結局早く洗脳した者勝ちなので、年末から動いているところすらある。たちが悪いのは共同研究のための訪問を装って、その実は研究にはまったく興味はなく、学生へのコンタクトが目当てであるような企業。恋愛でもこんな見え透いたアプローチは成功しませんよ。世の中には経団連会員ではない企業もあるし、指針には何の法的根拠もないので、「採用選考に関する指針」は事実上形骸化している。そんな中、真面目に指針を守っている企業は偉いのだけど、学生確保という意味では確実に出遅れている様子。完全に正直者が馬鹿をみる世界である。
そしてこの日記で問題にしたいのは企業の人事部社員や、人事部配下でリクルーターを任されている若手から中堅の社員はおそらく以下のことをまったく考えたこともないであろうということ。
専門性を追求するために大学院に進学した学生が一番力を発揮できる時期に「就職活動」に無駄に忙殺され、研究活動がまったく進まなくなる。そしてそのことに頭を悩ましている大学教員は少なくないのである。今の時期教員仲間と会話すると、この話題がため息混じりに出てくる。
就職氷河期は過ぎ去り、就職率は大幅に改善したというのに学生は企業の採用情報や学生間の情報に踊らされ、必要以上に就職活動に没頭し、長いと半年近くも研究や学業から一切手をひいてしまう。かくして本来であれば大学院在学中に成果が出たであろう研究は停滞し、結局修士課程を修了するまでに大きな成果を得ることはない。ましてや博士進学などをじっくり検討する時間的猶予すらない。せっかく時間をかけて研究のシードを育ててもこれではまったくの徒労に終わってしまう。そして学生からしてみれば大きな成果に向けて十分に時間をかけて日々積み重ね、最後までやりぬくという一連の経験を得る機会を喪失する。もう少し大きい視点で言えば国の研究開発力を測る尺度の一つである、論文数も減ってしまう。
そんな悩みを抱える大学教員に対して「OB懇談会」と称して部屋の予約や学生の確保などをお願いしてくるあどけないリクルーター達がいる。学生から貴重な研究・学業活動の時間をとりあげた上、さらに教員に採用活動の片棒をかつげというのである。お願いする方はちょっとしたお願いしているつもりだろうけど、依頼を受ける側は複数企業からお願いされるので、その対応に追われる。そして本来は研究を進めてほしい学生に向かって就職活動のために時間を割いてほしいと頭を下げるという何とも欺瞞に満ちた行動を迫られるのである。そんな昨今の採用活動事情に対して苦々しく思っている教員は少なくないことを知っておいても良いと思う。言われるがままに業務を遂行しているリクルーターではなく、裏にいる人事部に届いてほしいもの。
悪いのは一体だれか?企業の人事部だけが悪いということは決してない。根本的な問題は、企業が高等教育機関である大学に期待していないこと、そして学生も大学に期待していないことにある。結果として大学は社会の期待に応えていない。このあたりは下記の考察が良くまとまっているのだけど、一言で言えばシステムに問題がある。
http://toyokeizai.net/category/japan-university
海外の大学と日本の大学のシステムを比較すると恐ろしく事情が異なっているので、愕然としてしまう。例えば下記の書籍を参照するとそれが良くわかる。世界最高の大学教育システムを確立したアメリカで問題がないわけではないのだけど、日本の大学システムの問題は更に根深い。
アメリカの大学の裏側 「世界最高水準」は危機にあるのか? (朝日新書)
これでは技術競争で負けるのも必然。負の連鎖が断ち切れない限り、国際的に通用する充実した研究教育は成し得ないし、研究開発力や発信力に関して海外との差はますます開くばかりだろう。昨今の採用活動を見るにつけ、この負の連鎖の根深さを感じずにはいられない。
とおい未来。
全ての人類がローコストに、自らの肉体を性別や年令に関係なくデザインすることが可能となっている。
そうした技術の普及により、人類には「外見や身体的機能における平等を目指そう」という意識が芽生え始めた。
細い腕でも大きな力を出せる筋肉や、どんな肉体にも強靭に働く臓器。
白くても紫外線を通さない肌や、小さなサイズと高い思考力を両立した脳みそ。
やがて多くの国で、性別による絶対的な役割分担であった子作りすらも試験官での人工授精が主流となっていき、
「親と子」という上下関係すら忘れ、次第に多様な姿を持っていたことも忘れ、
去年死んだ美少女と同じ数の美少女が工場で生産され、施設で最低限の教育を受け、一人前の美少女として生活を始める
生まれ来る美少女たちは皆、障碍や精神疾患とは無縁で、知性が高く、人格者である。
美少女たちは働きもするが、殆どの美少女は一日の半分を無料で入学できる高等教育機関で教育を受ける。
無論教師も美少女であるが、教師志望の美少女が少なければAIが代行する。
美少女たちは服を選ぶように、髪の色や、眼の色、背丈や胸の大きさを自由に変える。
放っておけば成長や老化もするので、髪を切るように若い細胞に入れ替える。
昨日会った美少女が今日は別の美少女になって、見分けの付かないことも多いから、
美少女たちは生まれると同時に自分専用のコードを発行され、それで区別をつける。
それが生殖や社会的地位を越えた純粋な愛なのか、はるか昔の名残なのかは、未だに哲学美少女の頭を悩ませている。
そんな美少女たちは、怪我や病気になっても新たな肉体となるので、
即死してしまうような不幸な美少女をのぞけば、そういったことで死ぬことはないが、
改造を重ねた美少女たちは、パーツを取り替えるうちに「魂」とでもいうものが擦り減っていき、やがてふっとその生命の灯火を消すのである。
http://ponpo.jp/madarame/を見てあまりに腹立たしかったので増田に書かせてもらう。
どうやら彼がこのページで言いたいことは次の点に集約されると思われる。
これが大学教授などを歴任して退官した人間のいうことだと思うとめまいがする。
そもそも原子力工学というのは、明らかに国策のための学問である。サイエンスとしては原子核物理という分野が存在していることからも明らかであろう。
(たとえば新元素発見は記憶に新しい。あのように加速した原子核ビームをぶつけて反応を見ることは核力を探る上で重要であるそうだ。また原発関連のtwitterで有名になった早野氏も本業はCERNでエキゾチック原子核を作っている。これも核力を見る上で重要らしい。いずれにせよ、両者とも原子力工学とはほとんど関係ない)
したがって、
の時点で、彼はその役割を十分理解しなくてはならなかった。もちろんこれはこのような人間を採用してしまった東京大学工学系研究科の責任であるとも言えるし、あるいはまともな人材がいないことの証左なのかもしれない。
そして、一度国策の学問に携わる身になり禄を食む以上、常にあらゆる可能性を考慮し、当事者としての責任の重さを理解しなくてはならない。実際科研費のサイト(https://kaken.nii.ac.jp/d/r/80092336.ja.html)を見れば
なのだそうだ。この題目で09年からの科研費を通しておきながらバカの一つ覚えのように「菅が悪い」とは呆れて物が言えない。
その場でなぜリーダーシップが取れなかったのか。なんのための研究をしていたのか。反省すべきはその点に尽きる。
ブコメを見ると、「大学の先生ってそんなもんじゃないの」という意見も散見された。いやいやいや、待ってくれよという話である。仮にも天下の東大である。
「そんなもの」で済まされるような人材をとってしまうこと自体許されない。もし彼があくまでもこの他人事のような姿勢を貫き通すのであれば東京大学の原子力国際専攻は直ちに解散すべきである。
そもそも東京大学、旧東京帝国大学は国のリーダーを輩出するためにできた大学である。明治維新から十年も経つ前、西洋列強に比べ悲しいほどの国力しかなかった時代に、それでも高等教育機関は必要だと既存の機関をまとめて作られた。
このような責任感のかけらもない人間がいたという惨状を知ったら、明治の元勲も草葉の陰で泣いているだろう。右巻きの人ほど斑目を糾弾すべきではないか。古き好き日本の伝統はどうしたんだ。
当時、(原子力は専門ではなくとも)原発由来の放射線の影響などを見積もり、それをわかりやすく世間に伝えようとした大学教員が多かったことを思い出すと、ますます斑目氏の無能さが浮き上がる。
積極的に発言していた人としては東大の早野氏、押川氏や学習院の田崎氏など、物理畑の人が多かったように記憶している。彼らは(特に早野氏以外など)原子力はおろか放射能測定すら学生実験以来の経験であったことは想像に難くない。
それでもなお、彼らが普段から国民の血税を使って研究活動を行っているのだからという理由で、自分たちの研究時間を削って文献を読み、なるべく正しい情報を伝えることで社会に貢献しようとしたわけである。
もちろん「メルトダウンは起きない」だとか、一部失言があったことは確かであるが、それでも何もしなかった当事者の斑目氏とは雲泥の差である。今日斑目氏のウェブページを見るにいたり彼らが如何に良心的であったか、を理解した。
もちろん例えば物理畑の人は普段何の役にも立たないことをやっているのだから非常時は何かをしなくてはいけないと思っただとか、少なくとも斑目氏たちの原子力工学よりは彼らのほうが基礎学力が高いだとかの副次的な要因はあるだろうけれども、エリートたるもの、かくあるべきではないのか。
斑目氏は、今現在はさぞや気分よく毎日を過ごされていることだろう。
とりあえず菅が悪いと言っておけば、みなから同情を買うことができる。時の政権も、民主党を批判できればそれ以上のことはしたがらない。
だがそれでよいのか。彼にもし一欠片でも良心が残っているならば、現状の原子力行政をまともなものにする努力を行うべきである。メディアに出たりマンガを書いたりして菅が悪いと言っている場合ではない。
強制連行だったのかどうかという話はここでは置いておくが、強制連行だったにせよ自由意志での志願だったにせよ『無給ではなく、給料が出ていた』という事実については衆目一致するところである。
ではその給料はどの程度のものだったのか、という比較についてよく用いられるのは小学校教師か巡査の初任給である。
「なぜ公務員とばかり比較するのか不明である」と某所で書かれていた(そして実は、その『某所』がどこか忘れた)ので、その理由を書こう。
農民や自営業者の収入というのは天候や景気による変動が相当に多い上、必要経費などについて家内で処理される部分が多く、実態が把握しづらい。これは現在でも同じである。
そういう理由で、『当時の一般的な農民の収入と比較』というのは難しいのだ。出来れば、『毎月決まった給料を受け取る人』が良い。
じゃあ大卒サラリーマンで比較すればいいか、と言うとそれも違う。いやまあ、現在の経済情勢で大卒で正社員になれる人は少数で非正規雇用の方が多いだろう、という話は抜きにしてもだ。
人口の5割弱が大学に進学する現在と、人口の5%しか高等教育機関に進学していない戦前(旧制高校[現在の大学前半の2年間]、実業専門学校などを含む)では
大卒サラリーマンの価値は比較にならない。戦前の大卒というのは多くが公務員(現在の一種に相当するあたり)への就職が中心で、残りも三井・三菱などの財閥本社に勤務するような、本当のエリートだった。
3.『定額の給料で働く人』『戦前でも戦後でも、相当の人数が必要だった職』は何か?
となると、事務方ではなく現業の公務員が適当になってくる。それも、福祉国家化に伴って増えたような職ではなく、本当に近代国家ならある程度の人数を必要とするような職は何か?
となると……。結論としてはやはり、「小学校教師」もしくは「巡査」になる。何せ全国にたくさんの人数が必要なので『エリートしか採用しません』では人数不足になるから、
社会でも『平均よりは若干上かもしれないが、エリートとまでは行かない』位置づけになるという点で戦前でも戦後でもおおむね共通している。なお、戦前の日本で小学校進学率は日露戦争後の1907年には99%となっている。
(ちなみに戦前に小学校教師になる方法は制度に多少の変遷はあるが、おおむね尋常小学校→高等小学校→師範学校という進学ルートになる)
まあ、軍票で払われていて戦後紙くずになったとかそういう部分は別として、『額面を比較する上では』公務員と比較するのはある程度妥当だ。
4.実際に換算してみた
http://chigasakiws.web.fc2.com/ima-ikura.html
http://www.geocities.jp/wiz_emerald/bukka.top.htm
上記リンクの上によると、昭和6年には小学校教員の初任給が50円であったという。現在だと地方による差もあるがおおむね22万円だろうから、とりあえず昭和初期の1円=現在の5000円として換算してみると
散髪代:40銭(2000円) 週刊朝日:12銭(600円) 山手線の初乗り:5銭(250円) 地下鉄上野―浅草:10銭(500円) ハガキ:1銭5厘(75円) 新聞の定期購読一月:1円(5000円) 上野動物園:大人10銭(500円)、子供5銭(250円)
[食品]
三等米を一斗(≒15kg):45銭(2250円) 盛りそば1杯:10銭(500円) 二等酒を一升(1.8L):1円80銭(9000円) 小麦粉100匁(375g):7銭(350円) 赤味噌100匁:7銭(350円)
東京での4畳半一間+2食付きの下宿代:16円50銭(82,500円) 東京府による簡易住宅(6畳間+4.5畳間の2間)の家賃:6円~9円50銭(30,000~47,500円) 湘南の旅館宿泊料・1泊2食:5円~10円(25,000円~50,000円)
どうせこの増田にトラバしたところで、もうトラバツリーはずっと下まで続いてて目につくことはないだろうけど
早稲田と偏差値的には同レベルな某国立大でもこういうコピペ文化はあったよ。人数は早稲田よりずっと少ないから、指導教員の多さはコピペレポート自体とは関係ないんじゃないかな。
当時無駄に意識が高かった俺は「そういうのまじ高等教育機関にあるまじき行為だと思う」と鼻息あらく(若干友人に引かれながら)豪語し、引用以外はすべて自分で書いた(偉そうに言うことでもないあたりまえのことだけど)。
早稲田は母数が多いから、そういう考えを持った奴はきっと一定数いたはず。そしてそういう人こそ、研究者になっているんじゃないだろうか。
小保方さんはもう擁護のしようがないけど、関係ない早稲田卒の研究者を「あいつは早稲田卒だからどうせコピペ論文だろう」と決めつけるのは可愛そうだと思う。